
江戸の東スポ-大むかで
東スポ(東京スポーツ)は
巨大な
一面見出しで
「ツチノコ発見」などと
キャッチ―な
嘘ネタをぶつけておいて
記事本文では
「〜とも言われている」とか
「関係者によると」
という
オチをつけて
いつも笑わせてくれる。
「事実かウソか」より
「面白いかどうか」
なんだから
皆、嘘だと判っていながら遊ぶ。
知的ゲームとして
面白がっているワケ。
こういったもののルーツが
かわら版。[1]
■幕末頃のかわら版。

「ムカデ」退治といえば
俵藤太こと
藤原秀郷が有名だが

この瓦版の主人公は
北辰一刀流の開祖
千葉周作の高弟で
陽遊斎廣光。[2]

■内容のサマリー
日本一 飛騨国 大ムカデ [3]
長さ:4.5メートル
幅 :54センチ
重さ:105キロ [2]
俵藤太(藤原秀郷)が
龍女に頼まれて、
江州・瀬田の橋(三上山の誤り)で
「大ムカデ」を射止めた、という話は、
よく知られるところだが
嘉永元年(1848: 維新の20年前)
千葉道場の門弟で
剣の達人・陽遊斎廣光は
弟子から
「近年、飛騨の村落で [4]
村人が
人食い「大ムカデ」に
さらわれる事件が
増えている」
と云う話を聞きつけた。
早速、
廣光は
門弟二、三名を連れ
飛騨山中を奥深く分け入ったところ、
一行は「大ムカデ」に出会う。
廣光はこれを
一刀で退治した。
この「大ムカデ」が巨大で
あまりにも珍しいので
死骸を
江戸へ持ってきて
諸侯に
御覧に入れた。
この「大ムカデ」を
六月二十四日から開催される
両国・回向院の
釈迦如来開帳に合わせて
東両国(の見世物小屋)で
御覧に入れる。

■全部ウソ!
●千葉道場の門弟に
「陽遊斎廣光」なる人物はいない。
●飛騨に北辰一刀流の道場はない。[3]
●飛騨は確認しにくい僻地
僻地を舞台しにて 嘘がバレにくくしている
●そんなに大きなムカデはいない
●元ネタは御伽草子の
俵藤太(藤原秀郷)のムカデ退治伝説。
しかし、この元ネタ
「龍宮伝説」と「ムカデ退治(創作)」が
綯交ぜになった
後世の作り話。
つまり、全部嘘。
■推測:見世物小屋で何を展示したのか?
①ミイラ細工職人に
複数の動物のパーツや
針金に和紙・漆・毛を貼り付けて作らせた
巧みな作り物を見せる。
※多分コレだ。
両国の見世物小屋の手口で
多いのもコレ。

②親の「大ムカデ」は死んで腐敗したが
「子ムカデ(普通のムカデ)」は生きていた
という巧妙な語り口で
大きめのムカデを展示する
(親はもっと巨大だったと言い張る。)
③そもそも見世物小屋での展示自体も作り話で
実際には何も展示せず
瓦版を(高めに)売ることだけが目的だった。
これなら、かなり知能犯だ。
④展示したのは
コダイオオヤスデだった。
ロマンあるよなぁ―コレ!
■売り方がスゴイ!
①だとしたら
考えた奴はスゴイ!
「かわら版」と「見世物小屋」のコラボで
もっと、儲けちゃおう、という
斬新なプロモーション。
まるで
オンラインサロンの
イベントだよ。

註記
[1]
かわら版
慶長20年(1615)の
大坂夏の陣で
徳川方の勝利を伝えたものが嚆矢。
『大坂安部之合戦図|』
『大坂卯年図|』
どちらも慶長二十年(1615)の
大坂夏の陣で
徳川が豊臣滅ぼし、
大坂城が落城した様子を伝えたもの。
徳川方の勝利を
大々的に称える内容で
徳川方のプロパガンダ説がある。
幕末のかわら版の値段
事件の規模や情報量で異なるが
だいたい三〜四文(40円~100円)。
高いものでも
二十〜三十文程度(266円~400円)。
※東スポの180円より安い。
[2]
陽遊斎廣光
千葉道場の門弟に「陽遊斎廣光」は確認できない。
「陽遊斎」は号、「廣光」は名。
この組み合わせは剣客というより
見世物・興行師の匂いがプンプンする。
玄武館の門弟録は
関東大震災で多く焼失したから。
幕末期の門弟情報は大きく欠落している。
嘉永元年(1848年)の
千葉周作の年齢
寛政五年生まれなら55歳
寛政六年生まれなら54歳。
生誕:寛政五年(1793)または
寛政六年(1794)1月1日
死没:安政二年(1856 満年齢で62歳
[3]
本州最大のムカデ
トビズムカデ:体長MAX 20Cm
沖縄州最大のムカデ
リュウジンオオムカデ:体長MAX 27Cm

コダイオオヤスデ(アースロプレウラ/Arthropleura)
※ムカデのご先祖
石炭紀(三億年以上前)に生きていた。
体長:2.6?2.7 m、
幅:50 Cm
体重:50kg
これよりも 倍長いワケよ!

[4]
飛騨
元禄五年(1692)以降
天領(幕府直轄領)になった。
支配したのは
高山陣屋の郡代・代官で
幕府から派遣される役人だから
特定の剣術流派が
制度的に根付く土台はほぼない。
【原文】
日本一 飛騨国大ムカデ
長さ:一丈五尺 (4.55メートル)
幅 :一尺八寸 (54.5センチ)
目方:二十八貫目(105キロ)
※概算
夫《それ》、傳聞く
承平の頃
勇士、田原(俵)藤太
龍人(神の誤り)に被頼
江州瀬田の橋(三上山に誤り)にて
大百足を
射留たる事
世の人よくしる処なり。
今又、剣道の名人
千葉大先生(千葉周作だろう)ノ門人
陽遊斎広光と云フ人
日本剣道修行の折から
飛騨の国、高山ニ
暫く返留をいたし
道場を立テ
門人数多出来たり。
頃は
嘉永元
三月下旬
門人、大ぜい集り
四方八方の噺しの折から
一人 申しけるハ
当国(飛騨国)ハ
日本第一の深山にして怪しき事多し
元よりはるか北の方に当り
天上龍という渡しあり
其辺より越中立山 つづ(続)きニて
大山連り其、
谷合に谷村と云フ人家あり
近年、此辺ニ而
人のとらるる事多し
と申けれバ
廣光、
夫ハ我等が望む処なり
見届け参らんとて
門人弐(二)三人に
案内をさせ
奥深く分け入りけれバ
かの大百足に
行合たり
廣光、
一刀にて討ち取りたり
余り珍しきこと故
其品江戸表へ持来り
御諸侯様方々
御一統
此夏、
釈迦如来回向院ニ而
開帳ニ付
当六月廿四日より
東両国ニ而
奉御覧入候
(所持者の書入れか?)
申七月十六日
喜一并
安藤加兵衛
神間房三郎
田嶋佐太郎
加藤文治郎
同道
回向院開帳江
参詣いたし其節、
見物いたし
この図を求
(購入者の書入れ)
七月十六日
購入者の喜一ならびに
安藤加兵衛
神間房三郎
田嶋佐太郎
加藤文治郎が同道
(りょうごく)回向院
開帳江
参詣し
其(「大ムカデ」を見物した)節に
このかわら版を求めた。
※購入者は
名主・庄屋・組頭・在方商人クラスの五名。
在方の中層町人・名主層・村役人級 と
みるのが妥当。
この書き入れさえも
嘘かもしれない。笑
江戸期の参詣記録の書式から推測すると
在方の比較的身分の高い層である可能性が
高い。
<理由>
①五名とも 安藤加兵衛のように
二字名+通称で名乗っている。
「名主・庄屋・組頭・在方商人」クラス
とみるのが妥当。
②江戸まで参詣し、
回向院開帳で図を購入するクラスは
旅費・滞在費・土産代を負担できる階層。
③五名が“同道”している
村役人・在方商人が連れ立って
江戸参詣する典型的構造。
筆録者が喜一で、
他四名を「并」で列挙している
これは
「村内の有力者グループの参詣記録」に多い。