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院生たちのレジスタンス 第8話 名前には理由がある―倫理審査、ようやく下りる―


    倫理審査の結果待ち

    学会の翌日、院生室には、まだ昨日の疲れが残っていた。
    小島は椅子に沈み込んだまま、ポスターケースを足元に立てかけている。
    リンはノートパソコンを開き、昨日の配信ログを整理している。
    チェンは、なぜか学会で余った名札ケースを大きさ順に並べていた。
    相沢は、自分の席で倫理審査の申請画面を開いたまま、何もせずに固まっていた。

    五回目だった。

    修士論文調査の倫理審査。
    一度目は、説明文書が不十分だと言われた。
    二度目は、同意取得の方法を直された。
    三度目は、調査協力者への負担が見えにくいと言われた。
    四度目は、自由記述欄の扱いと個人情報の管理、得たデータの保存方法について、さらに細かく修正が入った。

    佐伯先生にも見ていただいた。

    何度も相談した。

    それでも戻ってきた。

    審査委員会というものは、こちらの事情を知らない。
    こちらがどれだけ悩んだかも知らない。
    どれだけ指導教員と相談したかも知らない。
    ただ、書かれた文書だけを見る。
    それが、怖かった。

    「相沢さん」

    小島の声で、相沢は顔を上げた。
    「はい」
    「なんか、画面見たまま止まってるけど、どったの?」
    「ああ……倫理審査の結果待ちで」

    「まだ?」
    「まだです」

     相沢は小さく息を吐いた。
    「五回目なんですけどね」

    「五回目」

    チェンが名札ケースを置いた。
    「大丈夫です。五度目の正直です」
    「普通は三度目じゃないですか」
     
    小島が言うと、リンが淡々と返した。
    「研究倫理では追加修正が発生します」
    「冷静に刺しますね」

    その時、院生室の扉が開いた。
    「おはようございやす」
     クラりんが入ってきた。

    その後ろに、パク・ソヨンが続く。
    「おはようございます」

    相沢が言うと、ソヨンは軽く手を上げた。
    「相沢さん、まだ魂戻ってへん顔してるな」
    「昨日の学会で疲れまして」
    「学会だけやったら、そこまで疲れへんやろ」

    相沢は答えなかった。

    昨日、ソヨンとクラりんは、午後のセッション前に一度消えた。
    アマンダと藤原慎太郎も消えた。

    その後、ニュースでは「関西弁の女性」と「任侠映画のような日本語を話す女性」が市民を助けたという証言が流れていた。

    考えないようにしていた。

    考えると、研究科の日常が崩れる気がした。

    小島が、ふと思い出したように言った。
    「そういえば、クラりんちゃんの“クラ”って、どこから来てるの?」
    院生室の空気が、少しだけ変わった。

    相沢は小島を見た。
    そこから行くのか、と思った。

    クラりんの由来


    クラりんは、なぜか背筋を伸ばした。
    「姐さんより賜った名でござんす」
    「賜った?」

    相沢が聞き返すと、ソヨンが嫌そうな顔をした。
    「そんな大層な話ちゃう」
    「いえ、私にとっては、日本での名でござんす」
    「重いねん」

    ソヨンは椅子に座り、腕を組んだ。
    「この子、チェンマイにおった頃は、サクラって呼ばれててん」
    「サクラ?」

     小島が首をかしげる。
     
    クラりんはうなずいた。
    「じつは、私は雲南がルーツで、中国名が鄭鳳桜でございやす。桜の字から、サクラと呼ばれておりやした」

    「普通にきれいな名前ですね」

    相沢が言うと、ソヨンが指を立てた。
    「せやけど、日本に来てから問題が発生してん」
    「問題?」
    「うちが釜山の咲良やのに、サクラがもう一人おったらややこしいやろ」

    全員が一瞬止まった。
    「そこですか」

    相沢が言う。
    「そこや」
     ソヨンは真顔だった。
    「アイデンティティの問題や」

    リンが顔を上げた。
    「自己命名と既存呼称の衝突ですね」
    「急に分析すな」

    チェンがうなずく。
    「大丈夫です。咲良は一人です」
    「チェンくん、分かっとるやん」

    「分かっていいんですか」
     小島が小さく言った。

    相沢は、少しだけ笑った。
    「そもそも、ソヨンさんの“釜山の咲良”って何なんですか」
    「そこ掘る?」
    「気にはなります」

    ソヨンは少し考え、観念したように息を吐いた。
    「釜山におった頃、日韓アイドル文化に詳しすぎて、友達に“咲良ポジションやん”って言われてん。前に話したこともあるけど、福岡までオーディションを受けに行ったこともあったんやで。」

    小島は思い出したかのように
    「あー、パロスペシャルを審査員にかけて落選した奴ね」

    ソヨンは肩をすくめて
    「それ言わんといてや」

    相沢は、続けた。
    「それを自分で採用したんですか」
    「他人の評価を待ってたら、キャラは取られるやろ」
    「強いですね」

     その時、廊下から低い声がした。
    「最終的には、サンドバッグを壊したのが決め手だったな」
     全員が振り向く。
     入口に、藤原慎太郎が立っていた。
     工学部ロボティクス工学科准教授。
     昨日、ニュースでは「普通の男性」と証言されていた男である。
    「藤原先生」
     相沢が言うと、慎太郎は軽く会釈した。

    「佐伯先生に書類を届けに来たついでに寄った」

    「サンドバッグって何ですか」
     小島が聞いた。
     
    クラりんは少しうつむいた。
    「若気の至りでござんした」

    「普通に一発で破った」
     慎太郎が言う。
    「普通は破らないんですか」
    「破らない」
     即答だった。
     ソヨンは得意げに言った。
    「それでクラッシャー。略してクラ。でも、元々サクラでもあるから」
    「サクラのクラ、クラッシャーのクラ」

     相沢が言った。

     クラりんが深くうなずく。
    「さようでござんす」

    リンが静かにメモを取った。
    「二重語源ですね」

    チェンも続ける。
    「大丈夫です。意味が強いです」
    「由来の半分が美しくて、半分が物理か・・・」
     
    小島が言うと、クラりんは胸に手を当てた。
    「姐さんより賜った名、ありがたく頂戴いたしやす」
    「だから重いねん」
     ソヨンが笑った。

    相沢は、そのやり取りを聞きながら、ふと思った。

    名前は、単なるラベルではない。
    誰が、どこで、どう呼んだか。
    その呼び名を、本人がどう受け取ったか。

    過去の名前と、新しい関係の中で生まれた名前が、どう重なったか。
    サクラのクラ。
    クラッシャーのクラ。
    クラりん。

    音は同じでも、そこに乗っている経験が違う。
    「相沢さんにも、昔のあだ名とかあるんですか」
     ソヨンが不意に聞いた。
    「僕ですか」
    「ありますやろ。年季入ってそうやし」
    「年季って」

    相沢は少し迷ってから言った。
    「学生時代は、相さんって呼ばれてました」
    「相さん」

    小島が繰り返す。
    「名字の短縮形ですね」

    リンが言う。
    「大丈夫です。親しみがあります」
    チェンが言う。

    クラりんは真剣な顔でうなずいた。
    「では、相の旦那」
    「それは違います」
     相沢は即座に否定した。

    院生室に笑いが起きた。

    ついに・・・


    その時だった。
    相沢のパソコンが、短く通知音を鳴らした。
    画面右上に、メールの件名が表示される。

    修士論文研究倫理審査結果について
    笑いが止まった。

    相沢は、画面を見たまま動けなかった。
    「相沢さん」
    小島が小さく言う。

    「来ました」

    相沢の声は、自分でも驚くほど乾いていた。
    「倫理審査の結果です」

    ソヨンが椅子から身を乗り出す。
    「開け」
    「いや、今ですか」
    「今開けへんでいつ開けるん」

    慎太郎も静かに言った。
    「開けた方がいい」

    相沢は、マウスを握った。
    指先が少し冷たい。

    五回目。
    また戻されたら。
    また修正だったら。
    調査が始められなかったら。
    いや、それよりも。

    自分は本当に、人に聞いていいのだろうか。

    ベトナム人学習者の経験を、自分の修士論文のデータとして扱っていいのだろうか。

    相沢は息を吸い、メールを開いた。
    本文の上から三行目に、その言葉はあった。

    審査結果:承認

    相沢は、しばらく意味を理解できなかった。
    承認。

    もう一度読む。
    修正済み研究計画書、調査説明文書、同意取得手順に基づき、調査実施を承認します。

    「……下りました」

    声が震えた。
    「倫理審査、下りました」

    小島が目を丸くした。
    「よかったじゃん」

    チェンが両手を軽く合わせる。
    「大丈夫でした。五度目の正直です」
    「だから普通は三度目だよ」

    小島が言うと、リンがまた淡々と返した。
    「しかし今回は五度目です」
    「そこ強調しなくていいです」

    ソヨンは笑わなかった。
    ただ、少しだけ表情を緩めた。

    「相沢さん、お疲れさま」

    その一言で、相沢はようやく肩の力が抜けた。
    嬉しかった。

    だが、同時に怖かった。
    承認されたということは、始めていいということだ。
    つまり、もう「準備中です」とは言えない。

    これから本当に、人に聞く。
    人の言葉を借りる。
    人の経験を、研究の中に置く。
    「佐伯先生に、報告してきます」

    相沢はそう言って、立ち上がった。

    佐伯先生への報告


    佐伯先生の研究室は、いつものように静かだった。
    本棚には、言語教育、質的研究、調査法、ナラティブに関する本が並んでいる。
    窓際には小さな鉢植えがあり、午後の光が薄く差していた。
    「失礼します」
    「どうぞ」

    佐伯先生は、机の上の書類から顔を上げた。
    「相沢さん」
    「先生、倫理審査が承認されました」
    そう言って、相沢は頭を下げた。

    佐伯先生は一瞬だけ目を細め、それから静かに言った。
    「よかったですね」
    「はい」
     相沢は椅子に座った。
    「何度も見ていただいたのに、なかなか通らなくて、すみませんでした」
     佐伯先生は首を横に振った。
    「謝ることではありません」
    「でも、先生に見ていただいたのに、戻されて……正直、少し怖くなりました」
    「それでいいと思います」

    相沢は顔を上げた。
    「え?」
    「人に話を聞く研究は、怖くていいんです。怖さがまったくない方が、私は心配です」

    佐伯先生の声は、いつも通り穏やかだった。
    だが、その言葉は静かに重かった。
    「倫理審査は、研究者を止めるためだけのものではありません。調査協力者を守るためのものです。そして、研究者自身を守るためのものでもあります」

    「研究者自身を、ですか」

    「はい。相手の経験を聞くということは、相手の時間を少し預かることでもあります。その時に、何を聞くのか、どこまで聞くのか、どう保存するのか、どう書くのか。それを曖昧にしたまま始めると、相手も、あなたも傷つくことがあります」

    相沢は黙って聞いていた。
    佐伯先生は続けた。

    「私が見たから通る、というものではありません。審査委員は、あなたのことを知りません。あなたの熱意も、悩みも、現場経験も知りません」

    「はい」

    「だから、文書に書く必要があります。あなたが何をしたいのか。相手に何を求めるのか。相手が断れるのか。答えたくない質問に答えなくてよいのか。データをどう扱うのか」

    相沢は、自分が何度も修正した説明文書を思い出した。

    初めは、面倒だと思った。
    なぜここまで細かく書かなければならないのかと思った。

    だが、今は少し違っていた。

    それは、研究を進めるための書類ではなく、相手に向けた約束だったのかもしれない。

    「相沢さん」

    「はい」

    「あなたが聞きたいことと、相手が話してもよいことは、同じではありません」

    相沢は息を止めた。

    「だから、聞く前に準備が必要です。聞いた後にも、責任が残ります」
    「はい」
    「でも、承認されたということは、始めてよいということです。怖さを持ったまま、丁寧に始めてください」

    相沢は、深く頭を下げた。
    「ありがとうございます」

    研究室を出ると、廊下の空気が少し冷たく感じた。
     相沢はスマホを取り出し、承認通知の画面をもう一度見た。
    審査結果:承認
    それは、ゴールではなかった。
    ようやく、誰かの言葉を聞きに行くための入口だった。

    ”サクラ”議論

     院生室に戻ると、ソヨンたちはまだ呼び名の話を続けていた。
    「だからな、サクラのままやとややこしいやん」
    「ややこしいのはソヨンさんの自己認識では」

     小島が言う。

    「小島さん、急に強くなったな」
    「昨日、ポスター発表を乗り越えたので」
    「成長の方向それでええんか」
     クラりんは満足そうにうなずいていた。
    「サクラのクラ、クラッシャーのクラ。二つの義を背負う名でござんす」
    「重い」
    ソヨンが言う。

    リンはノートに何かを書いていた。
    「リンさん、それ何ですか」
    相沢が聞くと、リンは画面をこちらに向けた。
    「呼称と関係性のメモです」
    「完全に研究になってる」
    「同人にも使えます」
     リンが静かに言った。リンは同人作家としても活躍しているそうだ。
    小島が言う。
    「呼称は、人物像と関係性を調整するらしい。創作では重要と・・・知らんけど」
    「創作では」
     相沢がつぶやく。

    リンは、淡々と続けた。
    「“サクラ”は美しい名前です。ただ、ソヨンさんの自己命名と衝突します。“クラッシャー”は破壊力が前景化します。“クラりん”になると、親しみが付与されます」
    「やっぱり分析してるやん」
     ソヨンが突っ込んだ。

     相沢は、少し笑った。
     名前には理由がある。
     サクラ。
     クラッシャー。
     クラりん。
     釜山の咲良。
     相さん。
     相沢先生。

     呼び名は、ただの音ではない。
     そこには、その人が誰かにどう見られ、どう受け取られ、どう関係を結んできたかが残っている。

    ならば、調査で聞く言葉も同じだ。
     漢越語を使う。
     使わない。
     便利だと思う。
     難しいと思う。
     似ていると思う。
     混乱すると思う。
     
    その一つ一つは、単なる回答ではない。
    誰かの学習経験の一部だ。

    相沢は、自分のノートを開いた。
    そして、ゆっくり書いた。

    名前には理由がある。
    言葉には経験がある。
    人に聞くなら、手続きがいる。
    入口で寝ない。
    入口で土足にならない。

    ソヨンが横からのぞき込んだ。
    「相沢さん、それええやん」
    「そうですか」
    「うん。ようやく調査に行けるな」
     相沢は、承認通知の画面を閉じた。
    「はい」
     怖さは消えていなかった。
    けれど、その怖さを持ったまま始めることが、たぶん必要なのだと思った。
    院生室の窓の外では、夕方の光が少しずつ傾いていた。

    広尾亭の暖簾が恋しくなる時間だった。
    相沢は、調査協力依頼文のファイルを開いた。
    ようやく、聞きに行ける。
    それは、研究が始まる音だった。

     
     
    元社会人大学院生、現在は日本語学校勤務

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