
運だけで10年働いたおじさん、ついに野に放たれる。
現在の職場を退職することとなった。
不安はある。こんなおじさんが野に放たれるのだ。地域の不審者情報を告げる防災メールは鳴り止まないだろう。野生のおじさんにエサを与えないように気をつけてほしい。すぐ懐く。触らぬおじさんに祟りなし、である。
この職場に入ってから10年が経った。感慨深いものである。春の風が目に染みる。
ベンチャーらしく、有能な社長と生命力溢れる若手たち、支えてくれる人生経験豊富なパートさんたち。そして、濁った目をしたおじさん(僕)。うん、素晴らしい構成だ。なぜ雇った。
思えば面接の際に松下幸之助ぶった社長が『運は良い方ですか?』と聞いたのが間違いだ。そんなの「はい!」と答えるに決まっている。僕を誰だと思っている。運だけで生きてきた男だぞ。その質問にだけは自信を持てるんだ。松下幸之助ぶらずに他の質問を重ねていれば化けの皮をすぐに剥がせたのに。いや、思い返せば化けれてもなく無能そのまんまだったはず。
『この会社でやりたいことは?』には「えーっと、あの、た、楽しいこと、したいです」って鼻水垂れ流した小僧でも言わないこと答えたはずた。
『尊敬する人物は?』なんて高校入試みたいな質問には「あ、はい、ジャイアント馬場さんですかね……僕も生涯現役でいたいなぁ、なんて。試合自体は拝見したことないんですが……ハハ」ってもう敬語も答え方も内容も全てダメな回答をしていたはずた。
なぜ見抜けない?もしかしたら、この社長は有能ではないかもしれない。生命力の溢れた向上心の塊のような素晴らしい若手がいるのに、向上心のカケラもない干からびたおじさん(僕)を責任ある立場に引き上げるし。社長はもしかして無能か?同類か? ならば感傷に浸ってセンチメンタルにならずに泥舟から逃げ出せたことを喜ばねば。
辞める理由は様々ある。誰も悪くないし、リスペクトはある。掛け値なしに素晴らしい会社だ。ただ、僕が駄目な方に転がりそうだった。無能なだけでなく、人としてかなり残念な仕上がりになりそうだった。これより残念になると“ざんねんな生き物展”の展示物としてサンシャイン水族館に展示されることになってしまう。そして、「おじさんは残念過ぎるし、かわいくないよね」と小学生たちにため息をつかれる未来が見える。サンシャイン水族館に鳴り響く不審者情報、たまのエサで懐くおじさん、混迷を極める展開。やはり、触らぬおじさんに祟りなし、である。
そんな未来を見て、決断をした。仕事を辞めて、“こうなりたい!”は、ない。
そもそも、運だけが良く、流されながら生きてきた。明確な“なりたい自分”を描いたことがない。
尾崎豊に憧れても、バイクは盗まなかった。
ブルーハーツに憧れても、バンダナは巻かなかった。僕が巻くとただのオタクになるから。
伊坂幸太郎が好きでも、陽気なギャングにはなってないし、
ドラゴンボールが好きでも、ムキムキではない。
シカマルは好きでも、将棋は全然分からないし、
チャドに憧れても、霊圧消えたこともない。
星野源をすごいと思っても、ガッキーより妻の方が好きだし、
でも、RADWIMPSに憧れても、前前前世からは妻を探してはない。
モーガンフリーマンに憧れても、渋みはないし、
ブルースウィリスが好きだったから、髪の毛はなくなってきた。
一つだけ、不本意ながら近づいてしまったものもあるけど、“なりたい自分”は、ずっとぼんやりしていた。好きなものはたくさんあったが、流されて、運よくここまで来てしまった。
でも今回、ひとつだけ思った。せめて“あの頃は良かった”と嘆く自分にはなりたくないな、と。だから決断をした。
もうすぐおじさんが野に放たれる。
これを見た採用担当者よ、僕なんかどうだろう?雇ってはくれないか? メリットはすぐ懐くこと、のみ。
早く次を決めないと、妻が“あの頃は良かった”と言い出してしまうかもしれない。
ただ、採用担当者に忠告だ。僕を雇えば、必ずあなたは言うだろう。
“あの頃は良かった”