
暗闇に火を翳せ
人類に『本能』と呼べるものはあるのだろうか、ということを時々考える。
あるんだろうな。人類学や生物学をちゃんとやった人に尋ねれば、おそらく答えは得られるだろう。だが、僕が言いたいのはそういうことではなくて、それよりももっと軽い、思考遊びのようなものだ。
人類に『本能』と呼べるものはあるのか。あるとしたら、それはどのようなものだろうか。『本能』というからには、人類が今日に至るまでの足跡の根底にあるもの——歴史の転換点において人類はなぜそうしたのか、という問いの答えのひとつになるようなものなんだろうな。では、どのようなものであれば人類の本能足り得るのか、と。そういう思考を誰に聞かせるでもなく、ひとり脳内で垂れ流すのが好きなのだ。
この地味な活動の末、僕は人類の本能について、ひとつの説を持つにいたった。
すなわち、人類の本能とは『知的好奇心』である、と。
学生時代に受けた講義のひとつに「『知ること』とは何か」というテーマを扱ったものがあった。
曰く、知ることとは認識することである。知ることとは知られることである。そして、知ることとは支配することである。
なるほど、これは真理だ。五感で世界を認識し他者を知り知られ、そしてより深く理解することで、自然や他者を己のコントロール下に置こうと努める。人類が行ってきたそれらの活動はすべて『知ること』の一部なのだ。
知らないことは恐ろしい。と、僕は思う。
底の見えない海、雑木林の奥、月のない夜。その暗さにぞっとするのは、暗闇の向こうに何がいるのか知らないからだ。知らない以上、そこには何であっても存在し得る。船を握りつぶせるほどの大ダコも、地の底へと落ちる大穴も、高みから僕らを見下ろす神の目も。決して「無い」とは言い切れない。
かつてアフリカの大地に暮らしていた頃、人類は被食者だった。爪も牙も持たず樹上に隠れ住む弱者は、夜を恐れた。暗闇は敵の姿を隠してしまうから。
だからこそ、僕らの祖先は野火を手に取ったのだろう。暗闇に向けて火をかざし照らすことで、その中に潜む危険——肉食獣だの危険な地形だの——を認識できるようになった。
敵の姿を知ったなら、次はその武器を知り、数を知り、何を好み何を恐れるのかを知る。そうして敵をすっかり知り尽くして仕舞えば、相手はもはや怪物ではなく既知の生き物に成り下がる。こうして人類は原初の恐怖を克服して来たのだ(※)。
『知ること』に取り憑かれた人類は、群れを分け海を渡り、世界を知る旅に明け暮れた。そして現代に至っては、星を飛び出し宇宙までをも知ろうとしている。
きっとこれから先も、人類はとまらない。まだまだもっと、永遠に知ろうとし続けるのだろう。何せ、恐怖の大元締め——『死』の謎はいまだ解き明かされていないのだから。人類を知り、命を知り、冒涜的とも言える旅を続けていくに違いない。
さあ、暗闇に火をかざせ。願わくば、その火が人類最期のときまで絶えざることを。
※)とはいえ、知ることですべての怪物を駆逐できるわけではない。知ることがむしろ怪物の存在を補強することもある。なんたって太古の海にはメガロドンがいたし、現代でもクラーケンならぬダイオウイカはいるんだもの。