
忌桜ーいみざくらー
石出幽の救われない話をしよう。
笈摺幽の報われない話をしよう。
怪異に好かれ、呪術に敷かれた、たった一人の少女の話をしよう。
覚えていられない過去と禍根。到底言い表す事など出来ない気持ちを握り、私は朝に起こされる。
頭と体を鈍くするのは重すぎる思い出があるからだろうか。あぁ、久しい感覚。懐かしい。しかし私は知っている。
――この懐かしさすら、やがて忘れてしまう事を。
忘れてはいけない私が石出と名乗る前の私の話。当時か弱い少女でしか無かった私が出会った初めての怪異と呪術。そして二人の婆様の話。
小説家としての性も背中を押し、思い出すたび、思い出している間に自身の生い立ちを書き留めようと筆を走らせ本とした。
何度も。
何回も。
何冊も。
けれど頭が記憶を忘却すると同時に書いたその自伝も何処かへ消えてしまう。今回もきっと。
執筆を区切りまで進めた前夜。力尽きて突っ伏した状態で眠っていた私の額は赤い。硬い机は執筆を支えてくれるけれど、温もりを与えてくれる訳では決して無い。この甘くお腹に溜まる様な桜の匂いに起こされる目覚めには覚えがある。懐かしさの原因がこれである事も私は知っている。甘い匂いが呼び覚ます記憶は同じ様に甘い訳では無い。脳裏を過るのは家族の話。私以外、全員消えてしまった。居なくなってしまった鬼の……物語。
奇。
「必ず連れて行くわ。」
それが私と家族が聞いた祖母からの最後の言葉だった。最悪の言葉だった。再会の言葉とも知らずに。
当時の私にはその言葉を理解する事が出来なかった。
理解が出来ない、咀嚼が出来ない。
それは言葉の意味を、発言の意図を……と言う事ではない。単純に、唯単純に幼すぎた私はその言葉自体を知らなかった。不甲斐なかったと後悔の念を口にする事すらも酷だと思ってしまうほどに私は幼かった。
白い病室で白すぎる病床に下半身を沈め座った姿勢は正しく綺麗で、幼い私からみてもその佇まいは病人のそれでは無かったが、今思えば随分と気を張っていたのだろうと思う。何処まで気張ろうとも死の間際だ。体に変調を来たしている状態が通常とも言えるだろうし、苦痛と苦悩の渦中に居るはずだ。悶え苦しみ嘆くのが普通であるはずの状態が多くを占める死を眼前に置かれた人間の在り方としては異様だった。そんな祖母の態度と姿勢が幼い私には途轍も無く怖かったのだ。
恐怖というのは見ている風景や感じている雰囲気を嫌に誇張させ、誤解・邪推を招くもので、今でこそ思い出すたびに振り返って見るたびに心配させまいと窶れた心身に鞭を打ち毅然とした態度を向けていた祖母の心遣いと気遣いは理解できるが、その時の私はそれを恨みに身を落とした化け物のように捉えてしまっていた。見開く双眸に光は無く、恨みを含んだ亀裂のような皺の翳。震える体は死後硬直の死体を思わせる様で私は怖かった。きっと祖母は私達家族を恨んでいるんだろう。此処まで弱りきって尚支えきれない両親と私を。
怯えて父の後ろに隠れた私に対して、苦しさに一人で耐えている只中に愛おしいと思っていた孫の、拒否拒絶の行動と捉えて失望していたのかも知れない。そう、思ってしまった。
父の背中から覗く母の顔は無表情だった。それは諦めからなのか、逃れられない義母の死に対しての寂しさを出さない様に耐えた結果からなのかはわからない。けれど、最後に貰った言葉がこれだ。憐憫の情すらも湧いてこなかったのか、あった情が完全に消えてしまったからなのかは知り得ない。静寂が包む病室。外は宵の口。窓が取り込む光は少なく薄暗い。廊下の灯が差し込むだけ。何故だろう、しがみついた父の背中は嫌な感覚があった。肩は下がり項垂れている様に感じるが、体は少し震えていた。小刻みに揺れていると言ったほうがいいか。どちらにせよ幼少の私にはそれも含めて全部、全員理解が出来なかった。あれほど優しい祖母が、あれほど暖かい家庭がなぜこうなってしまったのかも含めて……。
薄暗い病室での一件から数日が経った。あの言葉の真意を両親は未だ解明出来ず、今も咀嚼出来ずにいた。理解に苦しんでいる中、祖母はあれ以降声を上げる力も無く、魂がまるで地に吸い取られて行くかの様に体が寝具に不自然なほど沈み込んで亡くなった。地中のナニカに引き摺られて逝ったかのように。
葬儀を終えて四十九日。人が訪れ、話をしてはさっていくあの忙しない期間において喪主を務めた父は、空っぽの笑顔を貼り付け対応する事に必死な様だった。線香を上げに来る祖母の友人や世話を焼いてくれた親戚達を含む、人の出入りが今となっては多少、忘却の性質を持った事が救いだったのだろう。
四十九日の不吉な語呂の合わせとして、始終苦しむなんて考えからくる三月掛けの思想を耳にする事も最近は少くないけれど、残された人間。此処で言えば両親、特に父に関しては四十九日後のほうが、救いのない程苦しい心持ちだったのだろうと今は思う。忙しさが産み与える忘却は、静けさが戻ってきたと同時に襲ってくる喪失感に拍車をかける。人の訪れがピタリと止んだ次の日から父の様子は、父の心は、可怪しくなった。
私を寝かしつけ、母と一緒に眠りへ落ちた後。夜な夜な寝室の戸を引くズルズルと言う音が鳴った。夢現の意識の中、遠くから聞こえてくるその音を最初は夢だと思っていた。それまでは気づかなかった。その音が現実からちゃんと意識に入り込んで来ていた事、そして。父が部屋を出ていく音だったのだと。部屋を包む黒の中、霞む目を擦り見た視線の先に映る薄らと動く人影を見た時、お化けだと思った。項垂れて力無く、重心が安定しない体を左右に揺らしながら歩き、戸の前に行く黒い影というのは私の体を固めて、勘違いさせるには充分だった。
鬼巻く丑三つの……刻だった。
戸を引き開け、敷居と襖が擦れる音を聞いて幼いながら思う。
これだと……この音だったのだと。
寝ている時に薄らと聴こえていた音の正体を。影が出ていき、開けられたままの戸から私は音を立てずに後を追った。当時を振り返って、いいや思い出して見ている今だからこそというべきなのだろうけれど正気か?幼い私は。大人になり色々と想像や妄想をするようになって見る過去の場面、此処で言うところの所謂明晰夢は嫌な恐怖を先に助長させる。けれど、何処まで行っても過去は過去でありそこには”先”がある。ましてや当事者は自分自身だ。当時の心境も当然わかっている。怖くはなかった。恐らくだけれど理由は今も変わらない。異形と見間違えたのは父であり、異常が起こっている場所は生まれ育った家だった事に尽きるだろう。
寝室から覗く。一層暗い廊下の先、月明かり差し込むあの場所が居間だ。父は吸い込まれるようにして入っていった。いいや、手繰り寄せられる様に。異様に暗い、まるで別世界の隧道のような廊下をひたりと歩き抜ける。夜中に一人で何をするんだろうという好奇心と、もしこのままお母さんと、私を置いて何処かに行ってしまったらどうしようと言う心配、いいや不安だろうか。そんな感情が渦巻く中、廊下から顔だけを覗かせ黙って様子を窺い見ていた。奥にある押入れの一画を使い作られた祖母の仏壇の前に正座をして只々祖母の遺影を見上げていた。正確には何処を見ていたのかまではわからない。斜め後ろから見る限りにおいて首と顎を上げているように見えたからそう判断しただけの話だ。
動かない。ずっと動かずじっとしている。独り言でも呟いていれば、思う所もあるんだろうなと至らぬ齢と足らぬ頭で出来うる限りの理解こそ出来たのだろうが、動かず喋らず固まった父を眼の前に私は急に恐ろしく感じて、気づかれないように布団まで戻りその夜を超えた。勿論、眠れるはずは無かった。
それからあの襖を引き開ける音を聞くたびに、邪推は強くなる。祖母の最後の言葉も相まって父は呪われたんだとの思いが強くなっていった。勘ぐった先の勘違い。
母はいつも通りニコニコしていて気づいては居ない様子だった。そして何より昼の父は真艫だった。いいや、深夜の父を狂気とするなら真昼の父は正気だった。正気だったからこそ、真っ当だったからこそ深夜のあの時間とあの父が私は恐ろしくなっていった。
そんな夜よりも暗い祖母の呪いに端を発した、父の奇行は一週間程続いた。これからもずっと続くかも知れないと、この木の擦れる音が私の気を触れさせるまで続くのかと思うと不安が募っていく日々。今日も寝室で身構える。
あの父とあの音に。
けれど今日の異音は違った。また別の時刻に別の音が鳴った。襖が擦れる音の後、廊下を抜けて鈍い金属音の鳴った……気がした。居間より更に奥。玄関の扉の音だという事はすぐに分かった。いつもより眠りが浅い時に聞こえた私を呼ぶ金属音、壁掛け時計に目をやると23時を過ぎようかとする時間帯。丑三つ時とまではいかないが小さい子供が居る家庭にしては充分に遅い時間帯にだろう。すぐに襖を開けて玄関へ向かう。事なんて出来なかった。そこまでの勇気は当時の私には無かった。無くて正解だろう、その時の私はしっかり幼児を全うしていたと思う。それもそうだろう、怖いものは怖い。いくら父であろうと、実家であろうと。もし、玄関が開いていて……ノブを掴んだ父が此方を見ていたらどうしよう。祖母のように見開いたあの不気味な双眸を廊下に投げて見張っていたらどうしよう。そんな嫌な想像が働いてしまったからだ。
その日から耳が捉えるのは擦れる木の音だけじゃ無くなった。玄関を開ける鈍い金属音が廊下を走って襖を貫き寝室にまで聞こえてきた。何故母は気が付かないのだろう、何故ぐっすり眠っていられるのだろう。疑問とともに幼いながら助けを求め母の顔を見る。瞼を縫われているかのようにビタリとその目は閉じている。金属音は時折息を殺して咽び泣く女性の様な不気味で奇怪な音を出す。最初は恐ろしかったし当然身震いもした。けれどやはり私もその時からしっかり人間で、数日経てば恐怖心は好奇心に取って代わり気になってくるものだ。玄関が閉まる音を聞いて、それを合図とばかりに黒い廊下、もとい暗い隧道をくぐり抜ける。先にあるのはドアノブと豪奢な鉄の扉だ。今となっては只の玄関扉ではあるんだろうが幼なかった事に加えて夜の補正も充分すぎるほど効いている。背には大闇、蔓延る獣に蠢く蟲の跋扈する異界が広がっているのだろうと思わせる程、厳重な扉に見えた。
意を決して、覚悟を固めて扉を開き外を見る。まず目に入って来たのは家の前に敷かれた道路だった。少しズレた先にある街灯が光を当てて薄暗い灰色の帯が伸びているようだった。勿論人なんて居ない。歩いているわけもない。人以外の人外及び怪異の時間である。幼子一人すぐに取って食われてしまうだろう。全開にした扉が閉まらないかだけを気にして少しずつ門扉に近づき灰色の帯の先に目を向ける。そこには街灯を通り過ぎようとする父の後ろ姿があった。おおよそ人の歩き方ではない。
けれど、唯一の救いとでも言うのか靴は履いていた。勿論寝間着のままだけれど。違和感は充分すぎるほど仕事をしている。見境がなくなる程正気を失っている訳では無いらしい。違和感が出ている時点で正気も、狂気もあったものでは無いと今となっては思うけれど。
そう思って居たのも束の間、父は街灯を過ぎて闇夜に消えていった。追いたかった、けれど追えなかった。暗闇が包む世界の中、離れた父を追いかけ着いていく勇気がその時の私には無かった。
好奇心は私を殺さなかった。
午後、小学校から帰ってきた私は心に決めていた。日がな一日ずっと考えていた、読書の時以外。
勉強なんて勿論していない、父の事で頭がいっぱい、いっぱいだったからだ。……読書の時以外。
今日は何が何でも父の跡をついて行こうと。学校が終わって鞄を揺らして全速力で家路を駆け抜け門扉を裂いて玄関扉を開け放って数秒後。ただいまと大きく吠えた、殆ど怒号だったと母に叱られたが怒りの矛先はすぐに鞄に向いた。中を開けると天変地異でも起こったのではないかと驚愕する程の荒れ具合だった。母は横転、娘は転倒。天変地異を引き起こした当の本人すらこの有様だ。互いに何がどうしてこうなったかなんて把握している理由もはずも無い。余計な注釈とわかっていながらも挟むなら、道徳も、常識も当然ない。この母にしてこの娘だ。いいや、違う気が今でもする。
夕食後、早々に寝室へ出向く。
「あら、幽嬢。偉く早いご就寝だね。おネムって程今日は頑張った様子も無かったとこの母は予想するが。まさか、まさかのまさかだが、全速力でのご帰宅と大声量の帰宅合図に加えてあの小箱小世界の崩壊のみで疲れ果てたってんじゃないよね。」
「疲れているって言うならお父さんと同じだよ。だぜ。という事で私は眠りに就寝します。すぜ。くれぐれも、お邪魔邪魔してくれないきようお願いするの。のぜ!」
憑かれている。きっと、祖母に。確証に足る証拠なんて無いけれど確固たる予感があった。直感と言うべき世間で言う第六感それが大いに働いた。父はテレビを見ていた。奇しくも心霊番組であり、内容はトップ5のランキング。内容は勿論呪術だった。
寝室の扉を閉めてただ一人。幼いながら頭を必死に回転させて深夜に出る準備を整えた。靴下を履き懐中電灯をポケットに忍ばせて電気は消さずに眠らないよう目を瞑る。瞼を突き抜け赤い光が目の前を覆う。チカチカと動き回る黄色い斑点は歪な星だ。決して綺麗では無いけれど。そんな汚い星が漂う赤黒い世界の中で想像する。只管に想像する。辿るべき道程と進むべき動線を。引く襖、黒い隧道、開ける扉に闇続く道。そして父の後ろ姿。どれ程心中演習を繰り返していただろう。頑なに保っていた意識が虚ろ虚ろとし初めた頃、耳が新しい音を捉える。両親が入ってきた。襖が閉まり、電気が消える。暗転した瞼の下では赤が消えて残光が闇と混ざって朱殷を作る。眠りについて暗闇での数時間耐久が始まった。いよいよ眠りそうだ。時間にして数刻。私は見事に眠りに落ちた。
ズズ……ズズズ。
眠り姫をこいていた少女を夢現から字の通り夢から現へと引き摺り起こしたのは、波打つ寝具と奇怪な敷居の音だった。静まり返って音が響く。襖が滑る。廊下が軋む。扉が唸る。虫の知らせが如くなる音は全て父が出ていった合図に相違ない。後を追って外に出る。家の扉は開けたままだ、すぐに戻ってこられるように。思えば、夜。
怪異的にも人の世的にも無神経であり無防備であり不用心も良いところだけれど、そんな事頭の片隅にすらも当時の幽お嬢ちゃんは無かったのである。
進む。暗い暗い夜の道を。
拒む。陰る陰る黒の道を。
街灯が当たらない暗い道を懐中電灯も照らさず入り進む。先に父の背中が映る。覚束ない足取りで右、左、左、右。網目に広がる薄暮町の道を数度曲がった後開けた場所に出た。月明かりを遮るものは無い。若干の勾配になっている丘の先に続く一本道を歩く歩く歩く。躊躇もなく。返って私は躊躇した。その丘は大人は愚か子供ですら遊びに行かない坂を父は登っていた。誤解なきよう言っておくけれど、白鼬伝承を持つ竹馬ヶ丘や雨障の曰くを持つ水天呪い藪のような心霊スポットや霊域のような丘では決して無い。何もない、何の変哲も、変容も無い丘。最上には遊具も無ければ景色が特段良いわけでもない只の丘があるだけだ。大人が見たいと思えるだけの夜景も無いし、子供が行きたいと思える遊び場もない見捨てられた、見限られた土地。人気が無い落ち着いた場所ではあったはずなのに、静かな場所を好む祖母ですらあの丘には行かなかった。
後を追いかけて坂を登る。いつぶりだろう、この上に登るのは。遮るものが何もないこの場所に吹く風は強い。肌寒さを感じ身震いをしながら視線を父の歩く先に投げた。風の寒さから起こった身震いは意味を変える。質が変わる。
私は確かに見た。丘の上、一本の大きく綺麗な黒い桜が咲き誇っている歪なその景色を。その時薫る。嫌に鼻を突く花の甘い匂いが。
黒い桜と表現したのはきっと、夜だったからというたった1つの時間的影響のみを汲んで当時の私の感性が導き出した言葉のあやだったのだろう。弱い月明かりを全面に受けて咲き誇るその大きい桜の色は幹から始まり花弁の1つ1つに至るまで全部黒く見えた。漆黒ではない、ちゃんと薄暗く反射していたけれど元の色が確かに黒く感じたのだ。勘違いだと思う反面きっとあれは黒色の桜なんだと確信めいた予感があった。
桜の根本に立って、見上げる父の姿はどこか寂しさが混ざってはいたけれど、真夜中の見慣れぬ桜と普通ではない男が織りなす景色というのはいくら身内だったとしても、親だったとしても充分に恐ろしい絵面になっている。私はちゃんと怖くなっていた。恐怖で体はしっかり固まっちゃってはいたけれど、足りぬ頭はちゃっかり働いているようですぐに思い至った。辿り着いていた。手繰り寄せた答えがあった。父は夜な夜な徘徊したのちこの桜の元へと通っていたのだと幼い幽嬢は理解した。それと同時にまた別の疑問が浮かんできた。
一体この桜は誰が植えたのだろう。何時から在るんだろう。なんで父がこの場所とこの桜が咲いている事を知っているんだろう。スッと恐怖が疑問に置き換わって無くなっていく。深呼吸が自然と出来た。悪寒を与えてきた風が今となっては心地が良い。これも勘違いなのかも知れないが冷静になったつもりで、冴えたつもりになって私は安直で今思えば偏見にまみれた見解を導き出してしまう。これはきっと、祖母の呪いなのだと。振り返ってみても普段を見ていても、確かに父は日が増す毎に痩せていた。痩せ続けていた。元気こそあったけれど。食欲こそ落ちては居なかったけれど確実に痩せていたし着実に体からは生きる力と生きたいという意思が漏れ出ていた。違和感の原因がわかったからこそ疑心はいよいよ形を持ちはじめる。祖母が言ったあの一言。
「必ず連れて行くわ」
あの言葉が父への呪いなのだとその時の私・笈摺幽はわかってしまった。わかった“つもり”になってしまった。
症。
あの一件以降、”未だに”というべきなのだろうけれど父の桜への夜通いは続いていた。勿論、この私笈摺鎹の娘、笈摺幽も背を追ってついていく日々だ。適応力といえば良いのか無謀無策といえば良いのか将又只の慣れだったのかも知れないがもう怖さは皆無と言ってよかった。けれど、闇を歩くたび端の黒の中で何かがひっきりなしに動いている、いいや蠢いている気がした。
まるで深い海の底から手招きをされているような……。
まるで後ろから両腕で熱いならぬ冷たい包容をされているような……。
そんな感覚が街灯の届かない暗く黒い道に入ると襲ってきた。これも祖母の呪いなんだろうか。父について行きあの黒い桜を目にしてしまった私も巻き込まれて対象になってしまったのではなかろうか。丑の刻参りみたく。
慣れもするなら、飽きもする。
更に日が経ち、夜な夜な徘徊する父の後追いもやめた。私の性質が飽き性なのも多分にあるのだろうけれど、夜中に出て真夜中に帰って来るというあの生活を続けるには気力も、体力も純粋に足りなかった。何処まで行っても当時の私は幼く可愛い女の子だ。父は衰弱の一途だったけれどそれにしたって重篤なものでは無い。父の異常が通常と認知し始めた頃、今度は家の中に変化が起こる。丘にあった黒い桜の香りが家の中に居てもするようになった。最初は私だけなのかも知れないと思いもしたが匂いは母も感じているようで匂いに対して言及する事もあった。
「最近嫌に花の匂いがするなぁ、幽嬢。学び舎で花でも扱ってんのかい?こりゃ桜だ。桜の咲いた酒にも合わない避けるべき甘い匂いだ。死体でも隠しているんじゃ無いだろうね。鎹の旦那の体も気になる所だ、不調の人間ってのは駄目になる匂いってのもあるんだよ。まるで悪阻みたいにね。」
一言で言えば男勝りとも言えるし、勝ち気だとも言える。けれど世間は母のこの性格を随分と誤解しているようで、ママ友なんてグループにはまず呼ばれない。
あんな俗物が集まって噂話や井戸端会議に精を出すあの不毛とも呼べるお時間とお人間様達に混ざるなんざこっちから願い下げだね。と手ではらっていた程だ。母らしいといえば母らしいが、いやはやどうしてあの父がこの母を妻としたのかは未だに謎だ。祖母も充分に強い人だったけれど母は母で別種の強さを持つ人間だ。此処まで来ると父はよほど尻に敷かれたい人間ならぬ変人だとも言える。決して変態では無いけれど。
「いいや、全く持って花なんて育ててはいないよ。いぜ。生憎私は花自体が凄ーく苦手なんだって所はお母さんと同じだ。まんまお母さん譲りだし、そこに関してはお父さん要素は皆無だ。付け入る隙すらも無いほどにね。にーぜ!」
「そうかい。そうじゃないかと思ってはいたんだ。似てほしくは無かったね全く。こんな女の餓鬼であればそうなって然るべきだと腹を括って、腹を裂いて生んでみたけれど少しの希望すらもご希望どおりとは行かないみたいだ。」
帝王切開ならではのブラックジョークではある。そして、気づいた事があった。母もこの甘く嫌な桜の匂いは感じているらしいという事だ。
そんな母子の可愛らしい会話を父は光のない目と朽ち続けている体をソファーに沈めて聞いているようでもあり聞いていないようでもあるといった煮えきらない反応で窺っていた。啖呵を切っていた母もそうだけれど、この桜の匂いの話をするたびに両親の表情は暗くなる。険しくなる。あの丘に咲く、咲き誇る黒い桜の匂いが家の中で存在感を増し初めたそのときから、父の体調も拍車をかけて悪くなっていた。祖母とは違う窶れ方。けれど、確かに生気と正気を失い続けている事は明白だった。なんとか仕事をしているだけといった風な有様だ。朝は気だるそうに起き、朝食も取らずに弁当を拾って家を出る。それに関しては大体の社会人たる現在までの大人達の朝となんら変わりは無いけれど、帰宅後ご飯を食べて寝具に潜る。水分を取る事が少なくなった事に加えてお風呂も入らなくなった。髪はドライシャンプーで済ませて水場を避けて布団に潜る。
水が……嫌いなようだった。
母も、私もいらぬ気力を使わせてはいけないと声をかけたりお願い事をしたりなどは避けていた。見守る事しか出来なかった。とうとう父が仕事を休むようになる。家に籠もりがちになった父の変わりに母は仕事に出た。なんの仕事をしてくるのかと聞いたさい、母は厭らしい顔を私に向けて言葉を放った。
「しがない占い師の真似事さ。」
と、それ以上の事は教えてはくれなかった。それ以降私も聞く事はしなかった。母が家を空ける日が増えるにつれて私も当然一人で過ごす時間が多くなる。そしてやるとも。苦手というよりもはや手に覚えがない家事と炊事に挑みこそすれど上手くいく筈もなく、散らかし放題てんてこ舞いを数度繰り返し四苦八苦しながら悪戦苦闘の日々で時間の流れの早さを知った。学校では一度たりとも経験できない忙しなさに身を置くと、これを毎日こなしているあの母は化物ではないか、取り敢えず人ではないなと路線の違う尊敬が頭を過ぎる。桜の匂いは家の主導権を手放したくないようでご飯時やお菓子を食べていても花独特の甘い匂いは家全体に強く漂い鼻を突く。嫌にお腹に溜まる。
いつも通り、午後。夕刻前に学校から帰って鍵がかかっていない扉を開ける。母が仕事をする事になって、此方。私も鍵っ子なる子供になるはずだと思っていたのだけれど、母は言った。
「安心しなよ、幽嬢。鍵なんてかけなくたってこの家に忍び込む阿呆なんて居やしないさ。もし無謀者がいたとして、入った所で盗った物ごと潰れっちまうだろうね。」
と、意味深な発言。いいや忌み深な発言をして笑っていた。無策者は一体全体どちらなのだろうと思う。どんな時代でも、どんな場所でも盗人なんて例外なく愚か者だ。愚か者は欲で何処にでも入り込むのではないか、御器噛みたいに。
勿論両親の姿は見えない。
居間に行き、机に鞄をおろして身解きをしていた時、私の背中は謂れのない違和感を捉えて勢いよく振り返る。いいや、違う。確かに私は聴いていた。廊下を踏む足音を確かに聴いていた。だから振り返った。居間と廊下の境に父は立っていた。痩けた頬に細い体。元々筋肉質ではなかったし仕事で立場が上がってからというもの動く機会も減っていたから細身が更に細くなり骸骨のような服に着られた人間がそこには居た。
「おかえり、幽。驚かせてしまったねごめんよ。」
久しぶりに聴いた父の声音と音色は見た目通りに弱々しかったが、その中には今まで通りの今まで以上の暖かい優しさが含まれていた。
「うん、ただいま父さん。出てきて大丈夫なのです?すか?」
頷き、父は告げる。
「少し家を空けるから、お留守番をしていておくれ。今日はまだ行けていないから。」
”行けていないから”。
父は確かにそう言った。そして、出て行った。行ってしまった。あの桜の下へ。覚束ない足取りで外に出て扉を閉めたと同時、あの忌々しい程存在感を放っていた桜の匂いが、いいや桜の臭いが……消えた。具合の悪さと纏わりついていた薄気味悪さ、それが助長させた居心地の悪さも一緒に消えたようだった。父が居なくなって一安心。っといえば随分冷たい置き言葉にはなってしまうけれど心が安堵したのは事実だ。椅子に座り背を曲げる。足はギリギリつかない。今の私の浮ついた、いいや地に足ついていない浮き草のような心と頭を冷たく表現しているかのようにプラリプラリと無意識に足が揺れる。そう感じたのは心の制御が出来ない当時の私への邪推だろうか。いつの間にか冷や汗も乾いていた。机の中心に置かれた急須へと手を伸ばす。手を付ける。まだ暖かい。蓋を開けると茶葉がいい匂いを放つ。お茶を注いで口にした。
懐かしい味と思い出が蘇る。振り返る。祖母が育てていた茶葉の風味と癖のある味。
あんな荒っぽく我が強い母親とて夫を思ってなのか、将又祖母に感化されたのかはわかりかねるが祖母の趣味であった製茶を引き継ぎ、庭の茶葉を育てて淹れている。最近は外に出る事が多くなり淹れる時間も無いはずだけれど何故だろう、不思議だ。それに加えて熱もある。まるでついさっき淹れたように。味に関しては当然万人受けはしない、寧ろ人を随分と選ぶ癖のある味をしているが慣れている今では祖母を感じる事が出来る唯一の繋がりだ。祖母が存命だった頃、良く自室に勝手に上がり込んでは横入りし、美味しくもないお茶を啜っていた身だ。風味からして祖母が一番好きだった組み合わせだろう。
橙蜂香薄荷と神目箒。
笈摺鎹の実母。そして笈摺家の中心軸であった祖母は穏やかで静かな強さを持つ人だった、体調を崩す前までは。おっとりとした表情を常に浮かべて一見すると優しさの塊、仏の字を当ててまだ足りぬ程の聖人だった。……いいや、今のは言い過ぎだ。完全に言い過ぎ。どんなに良い例えを当てるとしてもキリストぐらいだろう。人間以内で収めなければ。仏はもう神そのものだ。人間が神と同等を語って許される道理はこの世界には無い。けれど、神にすらも終わりを見せて黒へ沈める人間を私は一人だけ知っている。人の間に棲み憑く者と書いて語るべき人間を。
脱線した話を戻そう。そんな静寂というには寂しすぎず、静謐と言うには謐らか過ぎない独特な雰囲気を持つ祖母には2つの趣味があった。製茶と読書。言葉にすると尚更閑雅な響きだ。
”数種出来る組み合わせの中で蜂蜜と薄荷の風味が特に好きなのよ。そして作った茶葉で淹れた紅茶を共としてする読書。ねぇ幽、そんな微かな一時を祖母は大事にしたいのですよ”。
そう語ってくれた存命だった頃の祖母の顔は優しい微笑みが皺を作っていた。檸檬を軸としてさっぱりした風味と少し舌に乗る花蜜の甘さが好きだった祖母は、複数の花を自室の裏に広がる庭道の端に花壇を作って植えていた。種類は4つ。数にしてみれば決して多くは無かったけれど、そのどれもが随分と好きだったようで良く水を上げたり草を抜いたりの手入れ時以外でも花壇を眺めて花とともに陽を浴びていた。定番の加密爾列に始まり茉莉花、矢車薄荷の種の中でも珍しい橙蜂香薄荷に加えて神目箒の四種類。前者の2つは育てやすく有名だけれど、後者の2つは聞き馴染みもなく、取り扱いも少ない花だ。祖母は特に後者の2つの組み合わせをよく好み淹れる事が多かった。少し前までは定番の2つと橙蜂香薄荷のみを育て、3種類を同時に煎じて飲んでいたけれど、ある日を境に神目箒を植え始めた。新しいその花は他の三種とは違い匂いが強く、その香りは鼻を抜けて脳を冷やす程だ。ハーブティーなんて種類の製茶も勿論あるけれどにしたってこれでは他の三種の風味を殺してしまわないだろうかと幼いながら思ったのは懐かしい記憶だ。
強いハーブの匂い。確かに橙蜂香薄荷とて薄荷種ではあるけれどどちらかと言うと蜂蜜のような甘みも持ち合わせているから、スパイス感の強い甘さと極端な清涼感を持つ神目箒を敢えて選んだ祖母の価値観と感性は未だにわからない。
「最近嫌に甘い香りが鼻を突く事が多くなりました。お腹に溜まるような、鼻に詰まる様な嫌な甘さが。この花には助けられているのですよ、あの風味はお湯に溶けて、口へ運ぶと良く通る。」
嫌な甘さ。それが今家を支配しているあの黒い桜の匂いを言っているのか、否かはわからない。もしかしたら不調の延長、それか前兆だったのかも知れない。”不調の人間ってのは駄目になる匂いってのもあるんだよ”。母が言っていたあの言葉。それをずべての人間に当てはめて語るわけでは決して無いけれど、祖母ももしかして体調を崩す前兆として嗅覚の変化を感じ、自分なりに直そうとしてあんな強い癖を持つ神目箒を植え始めたのだろうとも考えられる。偏見を増して語るなら時期も丁度だ。穿ちすぎかも知れないけれど。
橙蜂香薄荷と神目箒。今ではこの2つしか育てておらず、いいや残っておらずこの組み合わせのお茶しか作っていない。祖母が亡くなり花壇を触る人間が居なくなってからというもの衰退の一途を辿るしか無かった花たちの中で定番の2つが先に枯れてしまった。……死んでしまった。そこで残ったこの2つを母はせめてもと手をかけ育てている。祖母との対話、繋がりを感じられる唯一の手段として……。最初は苦手だったこの風味も飲んでいくたびに慣れて今では祖母の”透き通る甘さ”という言葉の真意が少しわかる。人は何でも慣れるものだ。
そんな思い出に浸っていたからだろうか、一息ついてなんとなしに廊下を見ると祖母が……、写った……気がした。恐怖なんて感じなかった。お守りを握るようにまるで願掛けのように残っていたお茶を飲み干し椅子から降りる。向かう先は廊下だ。確かに祖母は玄関の方へ消えていった。当然と言えば当然だけれど玄関に祖母はいなかった。少し開いている扉は恐らく父が閉め忘れたものだろうけれど祖母が外に出たようにも感じる。外に出て門扉を見ても、勿論祖母は居ない。居るわけは無いんだけれど鼻を抜けるさっぱりとしたいい匂いが漂っていた。桜の甘さとは違う茶葉の匂い。家に戻ろうと踵を返すと匂いが途切れた。元の場所に戻ると匂いが残っている。先の道路に出て右を向くと花の匂い。左を向けば消える。
”ついていらっしゃい幽”。そう言われた気がした。
まだ帰っていない母がするだろう心配と、戻っていない父との留守の約束は気にかかったけれど、懐かしい祖母の匂いに足は自然と進むべき道を辿る。時刻は日の暮れ、宵の口。陽は今日の仕事を終えようと光を閉ざし初め、町に黒の帳が降りる。
気になんてしなかった。
不安なんて無かった。
祖母の匂いが安心をくれた。
はずだった……。
進む先はあの桜の丘とは別の方向だった。数分歩けば住宅街を抜け、寂れ今は殆どゴーストタウン化している市場に入る。昔はそれなりに賑わっていたのだろう事が容易に想像できる細長いアーケード商店街は今や昼時ですら立ち入る事を躊躇するシャッター街となっている。アーチ状の入口から、出口が見えない程度には長い道を躊躇無く進む幼女という構図は中々に違和感を産み、さながら百鬼夜行を率いる見た目だけがか弱い鬼の頭領のようだと今では思う。加えて周囲は殆ど日暮れ、宵の始まりだ。その日の太陽が死にゆく時の中にいればその風貌は尚更だろう。
進む。
歩む。
立ち止まる。
匂いが途切れたからだ。首を振って先を確認した。右のシャッターとシャッターの間に伸びる路地は周囲よりいっそう暗く不気味だった。だがそこを見て私は確信する。絶対だ、絶対あの暗がりに茶葉の匂いは続いている。根拠は無い、理由もない。けれど確信めいた予感があった。入った瞬間気温が一気に下がったような……、気がした。いいや、これは気の間違いじゃなく実際に現実に気温が下がっているのだろうとわかった。わかってしまった。その中には気狂いじみた無謀な行動を取った私の心とは裏腹に恐怖に従順な私の体はしっかりと悪寒を感じ震えていた。烏の鳴き声、鼠の走り、蟲の這いずり。左右から狭窄するように押し出てくる闇は汎ゆる不快・不可解・不確かな音を私に聴かせ、心を黒に引き摺り染めんとばかりに降ろしてくる。
染めろ染まれよ人の子よ。滑る夜闇は心地が良いぞ。
闇から耳を擽り、手と心を惹こうとする声の聞こえた気がした。心地が良いぞ……それが本当なのかはわかりかねるけれど、確かなのは今この暗がりに満ちた路地でただの一人。救いの手も無く歩く私の気持ちに恐怖の二文字はまるで無い。未だ先は黒く、出口など端から無いぞと言わんばかりに続く細道。松尾芭蕉とて此処を書こうとも、進もうとも思わないだろう。そんな僅かな月明かりも拒否する路地の中に1つの行燈が放つ光を私の目は捉える。足が遅くなる。当然だろう。この闇夜に安心を見つけていた女児は闇よりあの行燈の光、いいやあの光の後ろにあるモノのほうが怖かったからだ。けれどその光以外目印というのか、指標といういうものが無い事もまた事実であるし、加えて茶葉の匂いはあそこに続いてる気もしていた。路地に入ってからだろうか茶葉の匂いは少し甘くなった。恐らく神目箒の風味が掻き消えたのだろう事はすぐに分かった。残る甘さとてどこか違う種類の甘さに置き換わっている気さえする。あの桜とは違った、腹に溜まる。いいや、命に纏わる甘い匂い。
行燈に迫る。光が大きくなり、周囲が見えた。人一人入るだけで場所が埋まりそうなまるで棺を想像させる細長い四角の小屋が連なる中で、その行燈を吊るしてた家屋だけは硝子戸が出張り少しましな様相を呈していた。と言っても、小綺麗な古民家程度の家であくまで周囲と比べてまだ立派な、ちゃんとした家の形をかろうじて成していると言った風な建物だ。硝子戸の奥は尚更暗い。深海に続いているのかと思う程その黒は蠢き重い質感を持つ黒だった。そう、これが後に数度行き着き、呑まれる事となる纏屋書店との一発目の邂逅であった。
纏屋書店。
怪異の起源を辿り、怪異に終わりの導きを。一言で言えばこれになるのだろうけれどこれは所詮私の捉え方だ、確信はない。それに終わりが集まる黒闢にて何が行われているのか何が目的なのかを私は未だに知らない。字と諱も不干渉にして不明瞭な子達だ。それ故に小柄なあの体と見えない心が怖い。
話を戻そう。
時代を戻ろう。
この硝子戸を引けば向こうの闇が溢れて、溺れる未知に対しての覚悟も幼いながらしっかり持っていたけれどその反面、歩いてきたこの路地端の”異物達にすら好かれたのだから”、”恐怖を感じなかったのだから”とこの硝子戸の先の闇も怖くはないという確証のない自信があった。けれどどれ程だろう、自分自身の感覚としてはそんなに長い時間佇んでいたつもりも無かったが、しかし体感と現実の時間はやはり違う。実際には硝子戸を開ける事に躊躇し結構な時間立ち往生していたのかも知れない。硝子の嵌め込みが粗雑なのだろうか、カタカタと小刻みに震えて音がなる。
開けろ、開けろと急かすように。
おいで、おいでと手招くように。
取手に指をかけて引き開ける。顕になった闇はやはり深海のように畝り流水文様が浮かび上がる。文様は常に蠢きその形を変える。硝子戸を開けた後からは早かった。臆する事、怯える事を前に立つ少女・笈摺幽は一切せずに、一息に飛び込んだ。
「いらっしゃい。これはまた澄んだ匂いを纏った可愛らしいお客さんが来たものだ。」
薄暗い部屋の奥。左右の本棚を真ん中から割って伸びる廊下の先に広がる畳座、所謂帳場の中奥に片膝を曲げて腰を据えている人物が居た。帳台に一つ、帳場の四ツ端に灯る蝋燭の火はどれも風無い部屋の中で不自然に揺れていた。銀狼を思わせるかきあげたウルフの髪は艶を孕んだ黒だ。項辺りから鎖骨にかけてを覆い隠す襟足は白い。オーバーな白のワイシャツを着崩した先に蓄えた皺の隙間から覗く胸板と体の線は細い。顔は美形な男の人にも美人な女の人にも見える中性的な顔立ちをしているが、どっちにしたって妖艶な雰囲気と蠱惑的な低い女性っぽいの声と話し方も相まって人の目を惹くには苦労しないだろう魅力的な美貌であった。
ただの1つを覗いては……。
トロンとした質感の白いワイシャツの上から羽織っていた黒鳳蝶のレースカーディガン。あれだけは違う。人を寄せ付けない、いいや人が寄り付かない違和感というより危機感がある。周囲の黒を、数多くある怨恨や呪怨、怨嗟に怨念を含む悪意を編み込んで作った様な不気味で歪な雰囲気が漏れ出ているあのカーディガンだけは駄目だ。憑いている曰くも、障りも並ではないだろう事は未熟な当時の私でもきちんとわかった。わからせられたと言ったほうが近しいか。
「ゆっくり見ていくと良い。悪さなどしないだろう、君程好かれる人の子も少ないからね。袖を引かれる事も背を撫でられる事もあるだろうが相手にしなくても構わない。君は君自信を呼んだ物語に目を配り、心を砕けばいずれ正しい終わりに立ち会えるだろうさ。」
どうぞお好きに。そう告げられたと同時、本棚に詰められていた数多ある巻物が一斉に動いたような気がした。脈打つモノ、痙攣するモノ、聞こえぬ奇声を放つモノ。戸を開いた時の恐怖はもう何処かへ行ってしまい恐ろしいとは感じなかったけれど、どれも心が動く程気になると言ったものは無かった。蠢き犇めき合う巻物達はどれも古びて色も、特徴も無い。いいや、よく見ていると色は付いているけれどどれも上から黒色をかけられたように、濁色ばかりだ。
そんな中、1つだけ視野の右上で光る物が見えて視線を送る。そこには、薄い桜色の光を放つ巻物が見えた。覆う黒を弾き飛ばし光を放っているように見える。近づき私はぎょっとした。光っていたのは巻物自体ではなかった。光る人の骨ばった手が巻物を掴んでいた。まるで引っ張り出そうとしているように。確かに少し驚きこそしたけれど腰を抜かす程では無い。……慣れていたから。
手に取ってみると、その薄い桜の色をした手は私の手に馴染むようにスッと消えてしまった。軽い。薄い鉄板を上に乗せているかのような金属独特な突き抜ける冷たさとその中に混ざる巻物らしく柔らかい布のような質感。不思議な感覚だった。恐らくこのお店は古書店か絵巻を売る店なのだろう事は容易に想像が出来たけれど、当時の私にはこれを買える勇気も、お金も持ち合わせては居ない。かといって遠慮という概念もついでに無いので開けたくなって縛り紐を解こうとしてもこれが中々解けない。悪戦苦闘・四苦八苦している幼子の姿というのはどうにも面白可笑しく見えたようで、目線を感じて店主らしき美人を見ると、愛おしいとでも言いたげな薄い微笑みを浮かべていた。今となって見ればあれは恐らく嘲笑の類だろう。そして口を開く。
「その子は君に看取って貰いたいらしい。その色はね桜鼠と言う。普段よく目にする桜色が持つ意味と性質は知っているかな?優しさや愛情、色褪る事のない温度なんて言葉を持つ。相対する様に鼠、所謂濁色が持つ意味合いは過去や欠損、淡薄などの意味を持つが故に数ある和色多彩の中でも陰りが混ざる。覆いかぶさると言えば良いのかな。表現の方としてはどちらにせよ大差も、相違もあまり無い。それを充分理解したうえでその子は桜鼠の色を混ぜて手に塗り君と繋がったのだろう。桜鼠という色が結びつきたがる感情というのはどれもやはり薄くてね。静かな離別や終わる先への擦れ違いなど色にしては随分とくすんだ情を心に孕ませる。そして、この色にしてこの怪異といえば良いのかな。縁とはよく出来ているものだと感心するよ。呪術と言っても良い君が行きあったそれはね、忌桜という寒村の大地主が世話をしていた怪異の伝承でね。甘い匂いと鬼を呼ぶ事で知られてる。この日の本に数ある霊山の中でも特に暗く異質な山が君の町の周囲にあるだろう。」
知っている。真宵山。真宵にして迷い、光を頑として入れない真黒の山。湿土を駆け巡るのは獣より化物や神のほうが多いと聞く。八足八角の鹿や猿に取り憑かれた騰り人、村を呪った崩れ神が奥地から降りてくるなんて言い伝えも聞いた事がある。
「御名答。」
と店主が告げる。何も言っていない私の頭の中を一重の双眸に嵌められた月長石のような瞳はいとも簡単に見透かし、答えを返した。
「真宵山の中には村が数カ所あったようでね。今でこそ殆どは廃村だが残存している所も一部ある。棲み吐いているソレは人なのか、モノなのかまではわかりかねるけれどね。そして、その桜は本来、今は無きその村と一緒に終わりを迎える筈だった。効力の程はお嬢ちゃんのほうがよく知っているだろうさ。」
頷く私を見る目は優しい……と思う。まだ。
「”鬼呼ぶ村ただ打ち震えるまで、良かれと戸を開け死地を見る。悪鬼と呪いに手を出し咲かすは桜の木の元、扉となりて”。その村特有の遊び歌だよ。その村はね、大地主を介して忌桜と一緒に生きてきた。そうせざる追えなかったとも言える。あの山の中において、神も、仏も獣と同義だ。そんな怪共が跳梁跋扈している場所に人が身を寄せ村を作り生活の場としていたのか不思議なものだけれど、あの山の中にあっても忌桜に近づく変わり者などいない。そうなれば自ずと力ではどうしようもない人の子達は桜の下に集まり生活しだすは自明の理。ただの人間に見えるはずもない。桜は根本から鬼を呼び、周囲に放ち飼っていた。飼っていたといえば聞こえは良いが、そんなに一方的な関係性では勿論無くてね。覗ける人間が一人、鬼を見た。そこから村は覗けると言う男に桜の管理を任せた。遅かれ早かれ起こる事だった。桜は呼ぶ鬼を選ばない。呼ばれた鬼はこの世の汎ゆるを獄に引き摺る。地を割り出てきて居たのは餓鬼ばかりだったのさ、それまでは。いくら餓鬼と言えど鬼だ。喰う事こそ本懐である彼らに近寄ろうとする怪異がいるはずはない。ただ、最後。地を裂き見えたのは牛鬼の足。ただの足一本の出現のより男が収めていた地主家を初め、村は滅びて桜は切られて燃やされた。忌桜伝承は無事此処で終わりを迎えた筈だった。けれど、不思議も不思議。今この書肆にあの桜の放つ甘い匂いが体に染み付いたお嬢ちゃんが立っている。何故だろうね。もう薄々気がついているはずだ。忌桜を呪術として呼び出した誰かが居る。」
煙管を燻らせ店主が硝子戸の方に視線を投げて、くすりと笑う。妖艶と言っても良い程綺麗で不気味な薄い笑顔を浮かべて言う。
”けれど、その呪いの死も近い”。
その言葉の意味と真意が私にはわからないけれど、気がつけば祖母の匂いも完全に消えていて、急に恐怖が襲ってくる。まるで後生大事に持っていたお守りでも無くしたかのような不安と喪失感が心を掴んで小刻みに揺らす。足元から嫌な感覚が這い上がってくる。百足の固く鋭い無数の脚が足並みを敢えて崩して上がってくるこの感覚に幼い私はもう耐えられそうになかった。巻物を置いた瞬間、全身を這う蟲の脚が全身を締め上げるように強くなった……気がして冷や汗が垂れる。
聞くぞ……、聴くぞ……幼子よ。一度手に取り何故また落とす……。身勝手甚だしいとは思もわぬのかのぉ……。
耳元でそう言われた気がした。発言として聞いたわけではないけれど、靄のかかる音を聞いた。踵を返して硝子戸に向かう。小屋のようなこの古本屋は中も見た目通り狭いにも関わらず、続く廊下に終わりが無いように感じて焦る。眼の前にある硝子戸までが偉く遠く感じた。視界は明瞭すぎるほど見えているし、感覚は鋭敏と言っても差し支えない程冴えている。鼻は言わずもがな、けれど聴覚だけはまるで笊耳に置き換わったかの如く元を判然とさせない。周囲から口惜しいのぉ、口惜しいと喚く声だけをただ拾う。
磨られた硝子戸の扉をひこうと手をかけた時、硝子戸は写す闇の先に薄い光を浮かべる。その瞬間、背後で口惜しいと宣っていた声達がピタリと止んだ。纏わりつく恐怖も蟲の脚も消え去った。振り返ると周囲にあった巻物が悉く霧散して無くなっていた。その異変も帳台の店主は気づいていた様で、私に告げる。
「そのまま帰って終いなさい。後に変わり子が戸を引く筈だから。ではね。」
疑問はあったけれど、質問は尽きなかったけれど、それにしたって時間も時間だ。宵の口が終わり本当の宵が始まりかけていた。一層濃さが増す黒。帰り道は勿論わからないが、進むほうが此処よりマシだと言う事は充分過ぎる程理解していた。どちらが人の世から離れているのかも。近づいてくる先の薄い光に私は今より安心を感じたけれど、その感覚的安心が、必ずしも安全に行き着くわけでは決して無い事もまた揺るぎない現実ではある。世の中はそこまで考えなしの迷い者に都合の良い優しさを提示してくれる程甘くは無い……。
帰って寝具に入るまで、やはり疑問と疑念は尽きなかった。”誰かが呪いをかけた”とあの古本屋・纏屋書店の店主は言った。であるならやはり、祖母は父を連れて行くつもりなのだ。そうでなければ、あの言葉の意味がわからない。繋がるべき道の筋が通らない。しかし、もし違うのなら、私達家族に呪いをかけたのは一体誰なのだろう……。
淀。
一夜を超えたぐらいで浮かんだ疑問が全て消えてしまう程、幼少の私は諦めの良い、潔い子供では無かったようだ。
気になる。
気にする。
気にかかる。
そんな好奇心がまだまだ年端もいかない幼子である笈摺家の一人娘、幽ちゃんの活発行動の原動力になっていた。起きた時、世界はまたまた夕暮れだった。鐘つき時計が鐘を鳴らす。午後六時を告げる六回の鐘が居間の方から聞こえてくる。低く響き渡る音は濁っている。一日丸々眠りこけていた事は明白だった。眠りすぎだと責めたててくるのは何も鐘の音だけでは無い。頭を揺らす頭痛も手伝って寝具から起き上がるのに苦労した。寝室を出る足取りも当然覚束ない。まだ電気も付いていない廊下に出ると、寝室と居間の間にあった祖母の自室から一筋の夕日が漏れている。何故開いているのだろう、鍵が。亡くなって以来その扉は開く機会を完全に失っていたはずだ。母が開けたと考えるにしては理由がわからない。けれど父が開けたとするのは無理がある。そんな不可解な現実に、こんな不可能な現状に恐怖も勿論あったけれどやはり気になった。湧き上がった恐怖心は元よりあった好奇心に飲み込まれ大人しくされた。猫をも殺すと言われているあの最も恐れ知らずで恐れるべき心の欲に。それからの行動は早かった。母はいつも通り仕事に行き、あれから父も姿を消した。”あれから”と言っても昨日の話ではあるけれど。誰も居ない薄暗い一軒家に可愛らしい少女一人というのも随分と不用心な話だが、今の御時世鍵っ子なんて家族体制も珍しくない。
◯
口を開けて橙色の細い舌を出している蛇の口へ好奇心に駆られた一人の少女が呑まれて行った。扉は閉まり、少女の背中でガチャリと鍵をかけた。
●
私の家系、笈摺桂月――いや、華翳齋桂月の話をしよう。他者を利用し、他人を愚弄し、奸智を持って世を渡るあの忌々しい家系……華翳齋家の話をしよう。俗な言い方をするなら呪術を扱う家系だった。当然と言えば当然であるとも言えるし、お似合いの性格、似つかわしい性質と言われれば否定のしようが無い事この上無いが認めてやろう。性格も悪ければ使い方も存分に悪い、あくどい家系の人間達だった。そんな血筋に生まれたって事実を認めてやりたくは無いけれどね。
だから私は抜けたのさ。
だから私は切ったのさ。
救って貰ったと言ってもいいね。
掬って貰ったとも言えるんだね。
そんな機会をくれた夫・鎹には日々感謝を。
話を戻そう。これまでを正そう。
家系も家系だけれど、故郷も故郷だ。というよりもあの故郷の中にあってこの家系ありと言った方が言いえて妙だと表するべきだろうね。多くを語る必要も、辿る意味も無い。暗い過去には蓋をしておく事が、目を瞑っておけるなら瞑っておく事こそがこの渡世で上手く生き、余生を楽しめる唯一利口な立ち回りなのだと考え至り、編み出した私なりの処世術さね。是迄だってそうしてきた。血筋特有の”見方”は変えられなかったが……。今は懐かしささえ感じる真宵山には数多くの伝承や呪い歌、怪異や亡魂がのさばっていると言われているし、それに関しては短いながら近くでそれを感じてきた身だ。今でこそ離れてぬくぬくとこの薄暮町で暮らしては居るが、あの山中にあって私の村の噂はとびきり異彩を放っていたなと降った今でも思うのさ。今だからこそと言うべきだろうが尚更思う。
”鬼呼ぶ村ただ打ち震えるまで、良かれと戸を開け死地を見る。穢れと呪いに手を出し咲かすは桜の木の元、扉となりて”。
故郷・桜木村(桜鬼村)に伝わる遊び歌だ。昔も昔、確かに私の村には因習があった。私も口伝でしか聞いた事は無いけれど。まぁ広がらなくてもいい歴史ではある。廃村後、いつぞやの馬の骨が書き残していた筆録が何処かへ漏れ出てしまったとの声も聞いた。大馬鹿な野郎が起こすお馬鹿騒動も大概にしてほしい。聞いた限り忌桜伝承の一遍のみらしいが、安心なんて出来るはずも無かったよ。かえって想像の余地が生まれて独り歩きしたのち別の怪異に生まれ変わる可能性も確かにあるんだからね。しかしそこまで私の知った事じゃない。余所でやれ、余所で。
遊び歌にしたってセンスが無いね。村の奥地には黒い桜が咲いている。桜は地獄から鬼が這い出る扉となっている。といった内容だ。遊び歌を作るにあたって是程適さない内容も無いだろうにね。けれど人間ってのはそれすらも上手く使う生き物でね。高等と言えば良いのか、下劣と言えば良いのか知らないけれど、当時の村民はそれを逆手に取って”聞き分けの悪い子はあの桜の下に捨ててしまうよ”。”鬼が手を引いて連れて行かれるよ”なんてガキを脅していたらしい。良い子にしてりゃ大丈夫さと躾の1つとして使っていたって話だ。見事に効果は覿面したから一概に悪いって訳でもなかったようだが。
と、色々振り返って見たけれどね。此処までの伝承は所謂表向きって奴だ。それっぽく聞かせる為に見繕っただけのお話さ。先にも書いた因習を上手く隠す為の。
子捨て桜。
語ってしまえば他の地域でやっていた事とそんなに大層な違いはないさ。日本の至るところで聞く姥捨山の対と言ってしまっても良い文化がこの桜木村にはあった。近しいもので言えば嬰児殺しに似ているな。祖先崇拝が行き過ぎて、信仰が歪んじまっていたのさ。”子があるのは昔から生きている老人・先人が居たからである”って考えの元、大事にされたのは故意にされたのは知恵や知識を深く持っている老人老婆達だったって訳だ。こんな村だ。知識と危機感は必須だ。村の存続を鑑みて見てみれば、無茶をして真宵山へ走り怪異に殺されるならまだ目を瞑るにしても、村まで逃げてきて怪異まで引っ張ってこられちゃたまったものではないからね。
そこでだ。悪い大人は考えた。嫌な大人は考え付いた。聞き分けの悪いガキや出来の悪い足引き小僧は間引いて捨てちまえば残るは良い子、ご都合良い子のみになる。血も、村も良い方向に向かうだろうとの考えに帰結した。こんな辺鄙で厳つい土地で生き抜く為だと正義をかざせど、残る悪意に嫌気がさす。間引きするなら一層一息に殺してやりゃ見る地獄にも多少の慈悲もあったんだろうがね。裏手に続く奥地で咲いている桜の木の下に1人縛って立ち去った。全く無慈悲無情の成せる業だ。只の裏山なら一人で帰ってくる事も可能だろうが、裏手に広がる奥地といえばこの場合。真宵山の深林だ。別名・迷い山。大人とて戻れる保証も、確証も無い不気味な霊山にあって、子一人帰って来られるはずも無い。神に喰われるか鬼に攫われるかだ。
確かに連れていかれたガキはどれも糞を塗ったくって尚鼻につく子供ばかりではあったけれど、一人として。只の一人として奥地から戻ってくる事など無かった。大人達からしてみれば、実の所裏山にあるそれが本当に忌桜なのかなんてどうでも良かったのさ。それに当時生きてちゃんと大人をやっていた連中ですら遊び歌で聞く桜を実際に見た事がある奴はいない。無理もない、けれど伝承にして幻象だったとてそれすらも気にしていない輩が多かったのさ。都合よく使える物語があればよかったんだよ。管理しやすい、聞き分けの良い子供だけを生かし育て大人とする。一輪花を育てるために徒花を詰むように……。その言葉を知った時、私は花が心底嫌いになったね。
その奥地に咲くと言われていた忌桜を管理していたのが初代となり地主を請け負った”覗ける男”の血筋であり、私の家系・華翳齋の一家だった。本家であり更に当代であった父に連れられ、初めて桜を見た時、本当にあるんだと、思ったと同時。桜の花弁が黒く染まっている事に不快を孕んだ違和感と奇怪が混ざった恐怖感、双方同時に心に湧き上がってきたあの感覚を私は未だに忘れていない。黙って見上げる事しか出来なかった私に父はこう言った。
「子供の血を吸い桜の桃色は朱殷と混ざりくすんで黒くなる。此方に向けるは憎しみか、染み出す思いは恨みか。」
横で浮かべる父の嘲笑は何処か溜飲が下がった様な蔑みを孕んでいるような気が私はした。
続いて父は私に教えてくれた。
私は父の話を聞いてやった。
この桜はかつての先代が呪いを呪いに変えて呼び植えた忌桜と呼ばれる冥界との扉だと。”この桜は鬼を通すのではないぞ、鬼を呼ぶ。訪れる鬼は選べぬがな”。
――選べぬ鬼の質。
それを言った時の父の表情は険しく、顔には冷や汗が水滴を作っていた。
「餓鬼ならまだ良し、土蜘蛛の足は恐れよ。酒呑が血(地)を揺らす時、卑しい桜を斬り殺せ。出られぬモノなら可愛いが、出してはならぬモノなら壊してしまえ。それが忌桜を扱う華翳齋の掟だ。守れなくば朽ちるのは私たちだ」
呪いは得てして扱う者のほうに高い代償がつく。だがなぜ皆使うと思うかと聞かれた事があった。知らない私に父は言った。
「それに勝るほどつのった他者への恨みだ。呪いなど使う人間も、使われる人間も例外なく愚人だ。呪いは人に恩恵を与えるが転じた呪いは両者を等しく獄に送る。人を呪わば穴二つ。継がれ広まったこの言葉の真意を知らぬ者は呪いを使うべきでは無いんだよ。呪いなど使おうと思えば誰でも使えるが、呪いの背中に乗っている怪異を扱える人間は少ない。足を引かれて共倒れ、その覚悟も無く対象にあてた人間のみに都合よく刃を向ける呪術や怪異などありはしない。忌桜が呼ぶ鬼はどんな鬼とて、この世の汎ゆるを獄に引き摺る。分家の愚か者たちは毒に侵されあらぬ方へ法を使った。いずれは華翳齋も終わりを告げられるだろう。忌桜は私の代で切り倒し、一族共々鬼と逝く。」
その言葉は、まるで。私に向けてと言うより自分に言い聞かせているように私には見えた。そこには強い後悔と硬い決意が多分に混ざっている。さっきまで厳つい表情で桜を睨んでいた父の顔が、私に向き直ったと同時に情けなく泣き出しそうな男の顔に変わる。
「我が子、唯一の娘を贔屓を持って見る訳では決して無いが、無情で愛しさを殺しきれなかった私の情がいずれ罪禍となってお前を蝕むだろう。許せよ桂月。」
その言葉と共に、私は父の涙を受け取った。このいけ好かない家系の中に唯一見出していた良心を子が見捨て山を降りねばならない決断を父はその時私に迫った。見捨てられる覚悟と見殺す決断。現在を生きる我が子、救ってくれた夫・鎹との間に出来た宝物であり授かり者である幽と同じ幼少の時期に私は、黒く深い救済を受け取らざるを得なかった……。
黒い桜。桜の幹に黒百合が夥しい程咲いていたあの桜を装った埒外な怪異・忌桜の下で父が私に告げた真実と終焉から数日後。恐らく父の式神であろう木の根で編まれた筋骨隆々な人間もどき達に麻布を被せられ、背負われこの真宵山を降りた。
理解はしていた。
誤解は無かった。
瓦解の元から私は去った。
麻布に全身を包められ、息苦しい中にあって尚私は息を殺して泣いていた。逃がしてもらったと言えば随分と幸福な子供だと捉える事も出来るのだろうが、生き残れる事に関しての安堵・安心からくる涙では無い。終わりが確定している華翳齋の血に関して心残りなどまるで無いどころかざまぁみやがれとさえ思っていた。しかし父は別だ。唯一の拠り所であり安全基地であった父の消失。それが心底わかっていながら無力にこの異界を去る事しか出来ない自分の情けなさに嘆き涙を流していた。喉に詰まる痰の味は嫌に酸味が強く、鼻を塞ぐ粘った液は気道をも塞いで殺しに来る。これも呪いだと決めつけてかかるのは穿ちすぎか……。
華翳齋桂月――中学を見ぬまだ九つの……頃だった。
●
笈摺桂月は夢を見た。華翳齋との終わりを良しとせず去ったにも関わらず、悪鬼から逃れたかつての少女は悪霊罪禍の夢を見る。悪魔的な悪夢を。
俯瞰的に、さも鳥瞰図の様に空から見下ろした薄暮の町は全体何処を見ても人の姿はまるで無い。町の一画、人を拒み人が避ける丘の広がる区画の前に塞ぐように建てられた一軒家の玄関は開いている。ブロックで出来た門扉の前に立つ数人の人影が今この町に立つ人間の全てだ。どれだけ探しても、いくら目を配ってみてもその一家以外、外に出ている人間などいない。時は夕刻・宵の口。沈む太陽と対象的に世界を包もうとしているのは夜闇。太陽の残光を背に受け、その一家の目が写すのは正面から飲み込まんと迫る黒だった。一家が見る先に、天から見下ろす桂月も視線を投げる。一瞥しただけでわかった。わかりたくもなかったが、わかりきってしまった。把握ができた。その迫る黒は、這い寄る闇は、単純ないつも来る夜の性質から生まれた黒ではない事を。――別のなにか。
妖異を含んでいる訳でもない。
亡魂の畝りもない。
怪異伝承独特の囀りも無い。
ただの黒。
黒い靄が、鋭い爪を持った四ツ指の手の形をとってその一家に迫っていた。
忌々しい亡手。
禍々しい鬼手。
恐ろしい瘴手。
遠くから見つめる桂月の目は焦点を結ばない。
関節の節々を鳴らす様なギチリギチリと緩急酷い不気味な痙攣を起こしながらゆっくりと、だが確実にその一家に迫ってくる。速い訳では決して無いが止まる事も無ければ退く事もしない。空気が歪む。泥を嚥下した時のような生臭さが漂ってくる。
迫る。
迫る。
迫る。
その一家四人は逃げる事もせず。というより敢えて動かないといった様子で迫る黒い手と鋭い爪の先を見ていた。
――ビタリ。黒い手が止まる。
わかっていたのか……。止まるとわかっていてその場に立ち尽くしていたのか。
わからない。桂月の思考は止まる事など無いが、同時に解答と救う方法も見つけられずにいた。今出来る事といえば空から見るぐらいだ。助けたい、どうしよう。焦りが増すたび動揺は大きくなる。動ける訳も無いが飛び降りて、駆け寄って、手繰り寄せて、共に逃げる。今なら間に合う。その情しか桂月には無かった。それもそうだろう。
その四人の人間は。
逃げ遅れた他人ではない。
桂月自身を含む、笈摺家の四人だったからだ。
救いたくても救えない。どうする事も出来ない無力な自分と眼の前で黒に呑まれようとしている家族の状況を前に、血走った視界は段々とぼやけて見えなくなる。感じるのは光だけ。
「落ちろ。落ちろ!落ちろ!!地に落ち砕けて醜い肉塊になるのみだとしても、実際死ぬわけでもあるまいに。せめて近くで黒に溺れてやる覚悟は出来てるんだ。空から叩き落とされる程度構うものかよ。」
満身創痍とした意識の中、絶望と憤怒が混ざる激情を叫ぶ女の意識は霞む。次の瞬間、視界が暗転を見た後、切り替わる。それは近い将来の禍か。あるいは望まぬ未来の礎か。
義母・遍の病死。
夫・鎹の変死。
娘・幽の誘拐。
次々に見せられていく家族の不穏な”終わり方”。3人の体には黒い指一本が首にかかっていた。
桂月は理解した。あの黒い手だ。あの黒い指だ。一人一本命を突き刺し持って行く。感覚的にすぐに分かった……忌桜とは違うまた別の怪異だと。見た限りにおいて、桂月が知る限り真宵山に潜む怪異とは全く異なった雰囲気と匂いを持っていた。
桂月は確信した。嫁いだこの家系・笈摺家も別の怪異に魅入られていると。
呪術から逃れて、山を降れど嫁いだ先には怪異事。熟自分の運命を呪った。何の因果か、どんな因縁か。幽が生まれて数年後、定期的に見るこの純黒迫る夕刻の夢に魘され絶望を抱いて朝起きる。心配などさせられない。させたくない。怪異を扱った者と怪異に魅入られた者とでは性質がまるで違う。怪異を扱い死んだとて自業自得であり自縄自縛だ。そこにあるのは自責であるべきだ。だが、怪異に魅入られ死んだとすれば、多少の他責も許されるだろう。ましてや送った大本がわからぬあの黒い厄災であるなら尚更自己を責める理由がない。あって言い理由が無い。
桂月は笑った。強くあろうと不敵に笑った。無敵の笑顔のその裏に、必死で隠した家族の終わりがあった。何時来るかもわからない、家族の確定した死を悟られまいと強き母は笑顔に頼った。
――その時から桂月の嘘が……始まった。
日々過ごしていく中で、一番苦労をしたのは義母の遍だった。遍は後天的なパラノイア持ちだという事はご家庭に上がり込むにあたって、溶け込むにあたって伝えられていた。しかし、妄想症なんていう厨二病の上位と言われても否定しづらいこの偏見まみれの精神的病に関して、まともな中学二年生経験を全く持ってしていない桂月にとって、想像する事も。それこそ妄想で補い理解を示す事が出来なくてもそれは、決して叱責するには値しないだろう。
――パラノイア(偏執病、妄想症)。
他者が自分に危害や敵意、悪意を持って加害をしてくるのではないかと酷い妄想や現象を起こす精神的不安心象の一端だ。けれど、遍に関しては一般のパラノイアとは一線画していた。一風違っていたといったほうがいい。それは、その向けられた根拠無き悪意が殆ど当たっている。只の妄想では無く完全な敵意に対しての絶対的な自己防衛本能として機能していたという点だ。そう、感じた敵意悪意害意に叛意全て、その人間が相手に持つ真意だと殆ど直感的にわかってしまう。そしてどれも当たってた。もう、殆ど超能力と言って良い程の精度と断じた所で否定など出来ようはずもない。人を陥れようと画策の歴史を作り積み上げのし上がってきた華翳齋家にとってこれほどの天敵もいないだろうと思わせられる人間であった。
桂月がそんな遍の異常値に達したパラノイアの発現を、昔で言うところの鋭い勘、いいや鋭すぎる勘というのを目撃した出来事があった。保険の営業を名乗る男が来た時だ。口も上手ければ笑顔も自然、人の話も良く聞く人あたりの良い人間だった。上っ面だと思ってはいたけれど、それが分かった上で尚その人誑しの性質に、桂月を含めた三人はものの見事に魅了されていた。幽も懐き、鎹とは同僚のように話す。桂月本人も疑ってはいたもののその男との会話に楽しさを感じていた事は確かだった。けれど、遍だけは違った。最初からその男に向けたのは拒否拒絶の態度だった。夫もとい息子である鎹からの静止や大人気無いからと小言を漏らされた事もあったが、遍は頑なに男を認めようとはせず、芯を食ったあの言葉使いと殆ど理攻めのような形で隙を全く見せず、その数週間続いた営業交流に終止符を打った。見事と言わざるを得ない程に遍は何か心に引っ掛かる、あの悪意は自分たちの有利な保険を勧めるといった可愛い利己では決してないと信じて疑わずその心に従うまま、男の事を調べるようにと鎹と桂月にお願いをした。そしてたどり着く。あの男が務める保険会社はもとよりなく、結果詐欺師だった事を。心底恐ろしいと感じてしまった。悪意からでは無いものの、桂月の計画も見抜かれるのでは無いかと。
しかし、その警戒や懸念を抱く傍ら僅かに期待もしていた。一層気がついてくれたらと。救って貰おうと思ってしまった……この孤独な戦いの日々から。もし察してくれたのなら素直に話そうと思っていた……たった一人で行おうとしているこの嘘で隠した死の手向けを。
●
笈摺桂月は立ち返る。いいや、一人でするんだ。独りになるまで。ご都合展開を求めるな、情けない。人を陥れる為に嘯き騙す華翳齋の血が聞いて呆れる。考えろ、遍婆に嘘が見抜かれたとして、その嘘を邪推し疑念を感じ、不審を持った上で黙っている保証が何処にある。日々の嘘と笑顔の裏で、笈摺桂月……はもう一度。華翳齋の血に溺れて決断しよう。決行しよう。忌桜にて鬼を呼ぼう。呪術のやり方はわかっている。誰よりも上手くやってやろうじゃないか、逃げはしたが、逃げただけでは当主を担った父の才を含んだこの血は薄まらない。覚悟は決まった。かつて蓋をし、見ないと決めた華翳齋の忌べき桜の枝を、家族の胸に突き立てる覚悟が今決まった。
どう足掻こうが、あの黒い手はやってくるだろう。夢は今も見続けている。愛しい家族、受け入れてくれた夫、理解をくれた義母。迫る黒く惨たらしい死は恐らく確定だろう。であるならせめて、その無惨な死の前に華翳齋の桜の下に。夢で何度も見ているがあの黒い指が与える死の後、何処に逝くかなどわからない。それも含めて黒く染まり”見えない”んだ。けれど、忌桜が呼ぶ鬼の連れて行く場所は等しく獄だ。此岸にて過ごせる時間は充分とは言えないけれど辿り着く場所は全員彼岸ではある。一応……そのはずだ。細かい事など気にしてなんになる。同じ所に堕ちる事が出来れば大金星だ。最低限にはなるけれど、死後に引き剥がされる事は無いはずだ。
だから私は人が避けるあの丘に死を植えた。甘く残酷な優しい毒を引き連れ獄へ導く鬼に頼る為。忌とされる桜を植えたのだ。
桜が黒い百合を咲かす時期……やはりと言うべきか、遍に知られてしまった。一番警戒をしていた義母の網にかかってしまった。桜の独特な重い甘さを避けるように部屋から出なくなり、守護や浄化の言葉を身に宿す花を花壇に植えて茶を入れた。
神目箒。
薄荷種の中にあって尚異臭と異色を放つツンとした匂いを好んで製茶とする人間が常人の中にどれほどいるのか知れない癖のある花を植え始めた。神の目の名をつけられた花の弁は、悪鬼を取り込み紫に染まる。天竺発祥の伝統医学上では不老不死の霊薬との貳名を与えられ、ヒンドゥーの偉大なる弐神。那羅延天と吉祥天の前への献上を許されたのみならず、加護と守護を振りまくとされるあの妖麗花を側に置き、煮出した湯を飲み鬼から見事に距離を取った。呼んだ餓鬼は匂いを嫌う。矢車薄荷の澄んだ匂いを。近づくに近づけず手を拱いている間にも迫る黒い手。私にはもう現実の中にすら危機が、危険が及んでいる事がわかっていた。見たくなくても見えていた。見たいなどとは決して思わなかったけれど。この目は昔からそうだ。呪術に慣れると呪術が見えて、異界に慣れると怪異に魅入られる。自身が呼んだ鬼と共に、義母の首にかかる一本の鋭い鉤爪も見えていた。
そして、異変はわかりやすい形で襲ってきた。体調が悪くなり死の間際。病室で私に告げたあの恨み言……。濁った声で笈摺遍は私に言った。
「必ず連れて行くわ。」
その言葉を残して、魂の終わりを迎えて白い病床に沈んで逝った。夢の結末と一寸違わぬ壮絶なる死であった。それと同時、夫の足にしがみついていた複数の餓鬼の姿が霧散した。どういう法を使ったのかまではわかりかねるが、そこで私は確信する。あの言葉の意図を確定させる。
笈摺家の核であり、柱であった義母。笈摺遍は忌桜で呼んだ鬼をものの見事に連れて行って見せたのだ……。
傑。
誤算だった。
誤認だった。
誤解だった。
愛した家族だったからこそ選んだ私の選択は、後手に回り続けた結果。当然の様に全てが裏目に出た。恨みから使ったのではなかったのに……。後悔先に立たずなんて言葉があるけれど、私にあてがうのなら"後悔の先で絶てず"と言った方が近しい。
”怪異を扱い切れる人間は少ない”。
華翳齋の最後の当主であった父が言ったあの言葉に漏れる事無く私も扱い切れなかった。帰結としては至極当然であると言い捨てられたとて否定は出来ない。向き合い管理する事もせず、扱う努力と受け入れる技量も無く逃げる事に関してすらも、逃してもらったとしか言えない自力で呪術と向き合う事をしてこなかった人間に、血の恩恵をもってしても埋められぬ力というものがあると知った。知るには遅すぎた。未熟も未熟、熟嫌になる。
血を継いだだけの才のない、か弱い少女が生き急いだツケと付け上がった負債が義母の死を確定させたのだ。身勝手甚だしいな全く。義母を更に苦しめ、悩ませ、怪異と呪いの2つを背負わせ殺してしまった。そして、拾ってくれた夫・鎹はあの最後の言葉を聞いてひどく誤解をしただろうさね。無理もない。
「必ず連れて行くわ。」
誤解と呪いは伝播する。伝染する。伝わり染めて黒を生む。ただでさえ不穏を帯びた言葉である事は明白だ。日々の衰弱がそれに拍車をかけ続けている。まるで倍々ゲームだ。膨れ上がった不安は土台を崩して地に落とす。書いて字の如く崩落しか先には無い。そして一番の誤算は鬼が消えた……。鎹から。それがどう言う意味を持っているのか、どんな意図を示しているのかはこんな愚か者でもすぐにわかった。一緒には生き抜けない。一緒の場所には逝き着けない。桜の鬼が居ない今、鎹の命と死後には黒い指と鋭い爪が掛けられている。
焦る、迫る、逃げないと、早く早く早く。
わかっているけれど、どうにもならない無力感を抱きながら仕事に行く。幸福で不幸を買う人間の相手だ。あれ程忌み嫌っていた井戸端会議と何が違うのかね全く。貞子もびっくりだよ本当に。落ちるなら井戸じゃなくて地獄なんだろうけれどな。遍婆が鬼を引き連れ濁った死を演出し、沼に沈んだあの日から鎹の体調不良の質が変わった。質は……拍車がかかったように悪くなった。黒々とした暗い手。焦燥も、虚脱も酷い。私とて、逃げこそしたけれど呪法を手中に置いた一族の血を引いている。呪いを買う者当たる者の見方は多少心得がある。あの窶れ方は人が掛けた呪いではない。意味も意図も意思も無い純粋な邪悪に憑かれた疲れだ。穢れと言っても良い。
他者を巻き込み、抱え込んで贄として此方が救われるならいくらでも利用しよう。かつての華翳齋の人間がしてきたように。決してあの老獪奸智な人間達の仲間入りをする気も無いし、あの利己他者利用の思想を良しとは思わないが黒い邪悪の意識を笈摺家から外させられる可能性が大いにあるなら私は喜んで他者を殺そう。扱いやすい人間を上げるなら、酒癖の悪さを人前で指摘された事に関して快感を覚え指摘した女性を強姦したあの愚人辺りなら都合が良いだろうか。突如消えたとて、あの愚行を行った救いのない男を気に留める人間も居ないだろう。不審に思う人間も少ない。それで鎹に歩く道が出来るなら修羅に身を染めた私の色が尚更黒ずんだ所で安いものだ。朱殷を吹き出し笑って死ぬさ。
けれど忌桜には、そんな生贄などと此方のご都合だけが良い、自分達が得しかしない法の使い道は無い。それ以前に鬼はもう剥がされてしまっている。
”都合よく刃を向ける呪術と怪異などありはしない”あの言葉が刺さる。
呪いに救いなど求めるな、怪異に赦しなど求めるな。悩みに悩み、考えに耽っていた数日後に。憔悴しきった鎹は家から姿を消した。私はすぐに分かった。あの黒い指に引っかかり、暗い手に握られ、呑まれて逝ってしまったのだと。残りは私と幽だけ、冷や汗が止まらなかった夕刻。
夏とは到底思えない程、周囲は冷たかった……。
悪い事は重なる。
咲いた忌桜の暴走、呼んだ鬼の横暴。
桜が呼んだ鬼は、扉を開けた鬼はどれも只の餓鬼だった。
私の体にも張り付いていた鬼も。
鎹の足にしがみついていた鬼も。
遍婆の背に吊り下がっていた鬼も。
そして、幽に寄り添う鬼も。
全部が全部、餓鬼だった。牛鬼に鬼熊、酒吞や茨城、そして吸血鬼。鬼の名を冠する怪異は大体、怪喰いの特性を持つ者が多いと聞く。それは餓鬼とて同じ事。だから私は忌桜を使って鬼を呼んだ。足蹴にされる事の多い餓鬼ではあるけれど、性質だけを見れば怪異にとって、充分天敵となりうる。純黒の邪悪――迫るあの黒い手すら飲み込み獄に引き摺るだろうと見込んで放ったのだ。思惑通り、餓鬼の一部は黒い手を呑みこんだ……までは良かった。
しかしそれは、完全に獄へと引き摺り切れなかった様で、忌桜の下で忌桜ごと黒々と染まり混ざり合って、いいや……もはや取り込んで丘を包んだ。見境がなくなり、この町、薄暮町に生きる全ての命を吸わんと餓鬼の形をとった黒い靄を夥しい数解き放った。私にはどうする事も出来なかった。
あの鬼を模した重々しい黒が最初に呑み込もうと定めた命は極めて彼岸に近い人間達。
仕事の最中。
出先の買い物。
遍婆の墓参りに鎹探し。
街中こんな有様だ。年甲斐もなく、と言うより当事者であり加害者とも言える立場で言えぬ我儘を口にするなら、極力家から出たくなんて無かったが生活していく上で最低限の外出のたびに、黒い餓鬼は老人を初め、病人に窶れた人間を選り好みしピタリとくっついていた。真っ黒な体から唯一浮かぶギョロリとした大きな黄色い双眸はいつ死ぬか、今か今かと品定めでもするかのように見上げて憑いていた。
幾度となく、何度も何回も何遍も触れ、触れられをしてきた余計な注釈という事を十二分にわかった上で言い捨てるが。吐き捨てるが、忌桜の特性上、呼ぶ鬼は選べないが呼ばれた鬼はこの世の汎ゆるを獄に”引き摺る”。だがその鬼たちは死に近しい人間たちを”見る事”しか出来ずにいた。
――死ねば引き込める、だが殺せぬ。あぁ……口惜しい――と言わんばかりの目をして。
私とて同じ事。何も出来ない。あの忌桜は、いいやあの忌桜だったものは私の手にはもう負えなかった。負える範疇をとうに超えていた。夕刻、仕事から帰って扉を開ける。毎回開ける前に頭をかすめるいらぬ想像も私の心を着実に削っていく。……もし、廊下に黒い鬼が立っていたのなら。亡魂や怪異は呼ばれなければ、許可がなければ生者の生活圏内に入る事などまずありえない。忌桜の鬼達は、私が笈摺家への鍵をまわした。……殺してもらう為に。けれど、あれだけの混じりモノ。もう、別の妖異に成ってしまった、成り果ててしまったあの黒に笈摺家を含めた生者の領域に足を踏み入れるなど出来る道理は当然無い。絶対的な秩序。確定された不可侵領域。生と死の間を明確に分けるこの概念を破れる理由など何処にも無い。
と、わかっていたが、やはり怖かった。情けない。かつての華翳齋から逃げた幼くか弱い女児はきちんと殺した――つもりでいたのにさ。謂れのない不安が扉の前に立つたび、襲ってくる。小さな不安の波も私を徐々に削る遠因になっていた。扉を開ける。顔を上げる。写った廊下は朱殷に染まる。
そこに鬼は居なかった。そこに黒は居なかった。だけれど、1つ変わっていた。時は黄昏、家の作りからして夕日が廊下を照らす事などまず無いが、続く暗い廊下の先。義母の部屋の扉が少し相手そこから赤い光の意図が床を直線に焼いていた。
義母が亡くなった後、一度も開く事の無かった扉が今この暗がりに光の亀裂をいれている。鬼か、いいや違う。家の雰囲気自体は変わっていない。大丈夫、なはずだ。でなければ困る。佇み視線を下に落とす。小さい靴。幽は外には出ていない。
「帰ったよ、幽嬢。ご帰宅済みなのは、お隠れになったってわかってんのさ。ご飯にしよう、出てきてその愛らしいと噂されるご尊顔を出しやがるんだ。」
平然を装うが、恐怖で固まった喉を無理くり動かし放った声は上擦り裏返る。まぁ、バレちゃいないだろう。愛しいあの餓鬼には。その時、睨んだ赤い線が一瞬途切れた。あぁ、誰か居るんだあの部屋に。恐らく人影、生きている。幽しかいないはずだが違う気もする。けれど、他に誰があの部屋に入るんだ?”入れたのか”?まさかね。さっきからオーバーヒート目前、温暖化並に熱い空気と頭を使って考え抜いても生きている知人の中にあそこの、遍婆の部屋扉。所謂開かずの扉を開けて入る変わり者は居ない。意を決して忍び足で近づく。
ゆっくりと……ゆっくりと。
軋む廊下では無いけれど、急げばけたたましい声を叫び散らかす様な気がして気が気じゃない。近づく赤い舌。扉の眼の前に来た時、深呼吸をして一息に扉を開け放った。
そこには、床に座り1つの巻物を広げ眺める幽の姿があった。安堵と共に取り戻した冷静さを持って、巻物を見るとそこには異様な絵が描き連なっていた。私はその絵を――嫌になる程見覚えがあった。
「あら、お母さん。この絵本、怖いよ。」
そんな言葉を私に向けてくる一人娘の浮かべる笑顔が今の私にとっては最も恐ろしいと感じる対象だった。
見た絵本には、その絵巻には、私が見てきた夢の内容と、その続き……言えば事の顛末、言の葉紡ぐ語りの結末が描かれていた。身を寄せ怯える女性と少女。恐らく私と幽なのだろう。横に目をそわせると巻き布が徐々に灰色に侵食されていく。薄暗い背景の中、描かれた丘とその上に黒々と咲く忌桜の根幹を片手に握る大きな黒い手が見えた。私達に迫って来たあの黒々とした、忌々しい腕が。腕の先に目を向けると其処には酒呑童子を思わせる歪な姿をした大鬼が描かれていた。
目はくり抜かれた様に無く、目の上の眉は前に突き出し、ツノは片方折れてもう片方は巻いて頬を突き破っている。完全顕現前である事は確かだ。それが唯一の救い……にはならない事も私は知っている。決して認めたくは無いけれど。隆起しているらしい上半身の筋肉は脈打つ様に蠢いて見えるから不思議だ。隣の幽には見せられ無いと思い咄嗟に目を隠して巻物を巻き取る。これ以上見るのは怖かった。それとやはりこれ異常に魅入られるのも恐かった。その巻物は人も妖気も怪異も寄せ付けない唯ならぬ雰囲気がある。なぜ幽が読めるのか、開けられたのかも私にはわからなかった。
「母さん、見えないよ。よよ?眠るのね?めずらめずらだ。ご飯もまだであるし、けれどもさ、このお伽話怖いよね。」
あぁ、この子だけは。この子だけは。
巻き取る寸前、私はこの絵に私達以外の……女性を見た。時代錯誤も甚だしい和装を纏った女だった。
●
「この方角ね。」
その言葉と共に迷う事なく進む1人の女性がいた。照らす茜が陰に吸われて朱殷に染まった今の薄暮町は到底外を出歩ける状態では無い。そして鬼を始めとして魑魅の類が跳梁跋扈している街を出歩く人間は何も考えぬ破落戸か何も感じぬ空者ぐらいである。
その女性はどちらでもなかった。
女性は知っていた。
女性は見えていた。
女性は感じていた。
至る所に徘徊する黒い鬼が居なくなる道とその方角を。
女性が進む先にある道は運がいい事に、運が良すぎる程に、もはや良すぎて不気味に感じる程に鬼が居ない。
鬼の消失。なんてご都合展開などありはしない。やはり不思議も不思議、そして不気味も不気味。
和装の女性が通るであろう道の先。
真っ直ぐで平坦な道であろうが、十字や丁字が連なり湾曲しか無い道であろうが触れんとする足を邪魔するものは何も無い。石ころも樹木も車も人も。そう、鬼ですらも…。
歩く和装美人が曲がる前に、その道から鬼が去る。まるで鬼が意識的に、否、無意識の内に避ける様に通り過ぎて居なくなる。順調な事だ。いいや順調に進む方向と方角を彼女は知っていた。それを辿っているに過ぎないといった風な足の進め方と絶対的な自身が背筋に表れている。凛とした顔つきはいかにも強い女性といった風だが、顔には皺が入り始めている。だがそれも踏まえて尚、美しい綺麗な女性だった。
周りの歪を気にする事も、恐れる事も無く歩く足取りはゆっくりだ。
「時刻は酉、明けの七つに暮れの六つの交じり時。終える時間としては上々ね。けれど……置かれた座が頗る悪い。青龍の寅に呼ぶべき桜が玄武の丑に生えれば呼ぶ鬼がズレるのは当然でしょう。鬼門の名すらも知らぬと見える。」
呟く声は鋭く細い。進める足にいまだ迷いは見えない。本来和装には全く持って似合わない黒いなめし革のブーツが’けらん、けらん”とアスファルトを叩き響かせる快音はこの町を跋扈している鬼や魑魅に見つかっても気になどしないという意思が多分に混ざっていた。何度か曲がった道の周囲は住宅街。そう、この鬼の元凶にして、現状を作り出した笈摺の住処が混ざる区画に入っていた。彼女は捉える、彼女の目は捉えた。笈摺家とその裏手にある丘へ続く小道を。その小道から出てきたのだろう黒い鬼の背がゆらりゆらりと朱殷の町の中に溶け込んで消えていく。もう太陽は死んでいる。異常に赤いたった1つの常夜灯が照らした部屋のように、不気味な朱殷が薄暮の町を覆っていた。笈摺家を無視し、小道に入って、丘を登る。空の領地が広がった中で彼女は一本の黒い桜と相対す。
根本には状況がよくわかっていないらしい表情を浮かべた笈摺の娘が巻物を一つ抱えて突っ立っていた。風が巻き起こり、靡かれ乱れたその髪も少女を不気味に演出している。ただの娘を。そう、その娘の名が笈摺幽である事を彼女は知っていた。幽の腰元に両腕が巻き付いている。うつ伏せで、抱きながら項垂れてるその女性に生気は無い。恐らく母親であろう。
「積を全うできず獄へ逝きましたか。先堕ち待つ義母に叱られてしまいなさい。"遅くなりました"と謝辞を先に伝える事を忘れてはなりませんよ。時刻は大事だ。」
少女に近づく足音の主は何も死神だけではない。その和装の女性。和服の才女。和衣の麗人、石出紬はその死して尚しがみつき子を守らんとする歪な愛の受け渡ししか知らずに逝った愚かしい母親の頭を撫でる。母親は体から力が抜けてその場に倒れる。
――ズチャリ。
歪んでいたにしろ、真っ当では無かったにせよ出来うる限り愛を持って呪いを使った、いいや呪いというにはあまりに綺麗な呪術を使った……もはやこの語りすらも”終わり”としては無粋か。しかし言わせてほしい。語らせてほしい。呪いとして家族を守ろうとした一人の強い母親の終わりとしてはあまりにも救いの無い音だった。紬には見えていた。母親の心臓を鷲掴みにして地中へ引き摺り込む大きく黒い鬼の手が。残された少女が大事に抱えている巻物。石出の姓を持つ彼女もまたその巻物と元の主を知っていた。風変わりで忌み心な書店。纏屋書店にあった巻物と同じものだと言う事を。我が家の祖先にして呪縛の始まり――石出吉深帯刀の大火。
紬の眼の前に立っている少女は虚ろな光の消えた目で紬を真っ直ぐ見て巻物を差し出してきた。そして紬に告げる。見知らぬ和装美人へ臆する事無く告げる。まるでこの場所でこの時間帯にこの人間に対して告げる事を命じられた様に。
「……お婆ちゃんがね。纏屋さんからって。」
確かにそう告げたのだ。纏屋書店の店主から変わり子と呼ばれ敬遠されてきたというのにこれを私に持たせるのかと、まるで一杯喰わされたと言わんばかりに深い溜息をつく。呆れと言ってもいい。紬は一瞬浮かべた硬い表情を崩して優しく返す。しかし返す言葉はいまだ硬いままだ。
「あぁ、棄児よ。こちらはちゃんと受け取りましょう。そして貴女も引き受けましょう。不幸児の”方位”から抜け出す事は出来ませんが、今よりマシでしょう。石出の姓をその身に。」
それを聞いた少女はコクリと頷いてこそいたが、実のところわかっているのかわかっていないのか意識と思考は定まらない。
「では、後ろへ。」
紬の言葉に促されるまま少女は後ろに回る。振り返り棄児と呼んだ少女・笈摺幽の視界を塞ぐ。少し目を閉じていなさい、貴女の目には酷でしょうから。と持っていたその巻物を徐に開き、幽の頭から顔を覆うように流し落とした。張り付いたそれは、幽の視界を断ち切ったと同時、顔全てを覆い隠してしまった。
――命を覆う。性質としては仮面のそれに近い。
丘の上を盤面に置き、場に立ち向き合うのは大きな忌桜と石出紬を置いて他には居ない。まともな人間は。いつの間にか距離は離れたが、紬を囲む黒い鬼影は増えてきてる。今か今かと襲う機会を窺っている鬼の表情こそ黒に染まって見えないが伝わってくる。
……殺してやろう。……堕としてやろう。……獄へ。
「綺麗に終わらせるのは難しいですね。少し乱暴をしましょう。」
放たれた暴言と共に、石出紬は一冊の古びた本を懐から取り出した。黄ばみ、柔く、薄い紙の束。所々染みや蟲喰いが目立つそれは紬の手の上で勝手に捲れる。
はらりと捲れる。
ひらりと捲れる。
さらりと捲れる。
一陣の風すらも吹かぬ時が止まったかと錯覚する程の静寂の中、その乱れ紙は一項の場面で止まり顔を広げた。そこには十二支刻と四神獣。風水陣を模した方位図が示されていた。古びたその図を紬は細い指先で撫でる。箇所は東南、巽の方位。女性は落ち着いた声で囁く。
……静かに。
「艮呼ぶ鬼、喰い下げるは辰巳の門。青龍と朱雀を麒麟が認めし時方により桜の水抜き地で殺せ。」
その時、宵の口も終わろうとしていた朱殷の闇空が瞬時に逆行し明るくなっていく。沈んだ日は生気と正気を取り戻し、明るくなる空に漂う巻雲は逆巻き荒ぶる風に混ざって解散を見る。町は半日前に天を登った朝日の2度目の姿を拝む。時刻にして九時。十二支刻の表す所で辰の刻と巳の刻が切り替わる方角を示す時間だ。
時の逆行、神の逆鱗、紬の再臨。
黒い鬼は陽に焼かれ、時に削られ、塵散りになり霧散し消えた。忌桜からも黒い百合がぼとりぼとりと、一つ、また一つと落ちては腐り溶け、落ちては腐り溶けを繰り返し枝裸となった枯木も鬼と同等、朝日に焼かれて灰となった。
「この石出紬を眼前において、相対し喰おうなどと愚かしい事この上ない。とは思いませんか、破落戸。」
今はもう跡形もない、ただの丘に一人の女性と形見すらも無い本当の……孤独・孤立の中にあって、それでも尚地に足、いいや獄の上に足裏をつけ立つ少女の二人がいるのみである。紬は振り返り巻物を巻き縛る。幽は正気を取り戻したと同時、起こった事を理解したのだろう。涙を浮かべて泣く。場も憚らずに泣く。無理もない。母に祖母を呪い殺され、父は狂気に呑まれて行方知らず。最後の母の姿に愛を見てその愛が眼の前で命と一緒に消失したのだ。幼女に耐えられるはずもない。泣き崩れこそすれど、精神崩壊を起こしていないだけこの子は随分と強い子だ。
”ヒック、ヒック。コヒュ……コヒュ……”
しかし、限度は来る。いいやもう遠の昔に限界は来ていたのだろう。徐々に息も吸えなくなり喘鳴に嗚咽が混ざる。見ていた紬が手を幽の額にかざす。そして小声で囁きかけた。何を言われたのか幽にわかるはずもない。けれど、幽は眠りにつく。呪術と怪異、双方に。親愛と狂愛、両方に、手を引かれ3人の家族を失った悲劇舞台の生き残りはようやく安らかな一時の眠りについた。ただの丘にて石出紬は眠り倒れた少女を抱えて、丘を降る。誰も居なくなった笈摺家の母屋には年が過ぎるたびに念が溜まるだろう事は明白であった。しかし紬は何もしなかった。この女もまた取る行動に意味深な、深刻な理由しか持たせぬ。けれど、それの多くを語る人間でも無い。全く……難儀な女である。
「怪異に好かれ、呪法を引き摺り歩いた子。これで運命が、因縁が終わるはずもない。であるなら石出の姓を与えて私の孫としましょう。さて、纏屋に売ってしまいましょうこんな物語。時が来るまで忘れてしまいなさい。笈摺幽……いいえ、石出幽。愛しく若い我が孫よ。」
――●。
また、長く眠っていたようだ。起き上がり頭を掻き毟る爪の先が偉く黒い。執筆のインクが染み込んだのだろうか。嫌な夢であり、忘れてはいけない私の話。
けれど、また私は今までと同じ様に……きっと。
――忘れてしまう。