メインコンテンツへスキップ
見出し画像

シティ・ハンター第五章

    ♯創作大賞2026
    #エンタメ原作部門

    第五章 エピローグ:若林の空に響く73

    キャロットタワーを下り、すっかり夜の帳が下りた若林の住宅街を歩く。街灯の明かりが梅雨時の濡れたアスファルトに反射し、昼間のあの緊迫した空気感が嘘のように、静かで穏やかな時間が街を包み込んでいた。 俺が再びあの無線家たちの隠れ家であるジャズカフェのドアを押し開けると、カランカランと小気味よいカウベルの音が響き、昼間よりも少しボリュームを落としたモダンジャズのサックスの旋律が流れてきた。

    カウンターの奥では、すでにアキヒコ――7K2NIAが、嬉しそうな顔をして大きなガラスのマグカップを傾けていた。

    「あ、折笠さん! お疲れ様です! こっちです、こっち!」

    アキヒコが千切れんばかりに手を振る。カウンターの中では、マスターが何も言わずに、俺が一番気に入っているドミニカ産の深煎り豆をサイフォンで静かに揺らしていた。

    「見事だったよ、吉美さん、アキヒコくん。世田谷署の無線仲間からさっき連絡が入ってね。あの強盗グループ、スマホのGPSを切って完全に網の目を抜けたつもりでいたらしい。まさか自分たちが、令和の時代にアマチュア無線のアナログ電波で、それも地上124メートルからのフォックスハンティングで正確に位置を特定されてパトカーに袋小路へ追い込まれるなんて、夢にも思っていなかったとさ。警察の通信指令室でも、今回の『街の無線家たちによる即席の広域管制』に驚嘆していたらしいよ」

    マスターが誇らしげに髭を蓄えた口元を緩め、俺の前に丁寧に淹れられた温かいコーヒーを置いた。 立ち上る芳醇な湯気と香りを深く吸い込み、俺は一口、喉へと流し込んだ。五臓六腑に染み渡るようなその苦味が、張り詰めていた脳の神経を心地よく解きほぐしていく。

    「いやぁ、それにしても折笠さん、あの瞬間のC4FMデジタルでの指示は本当に神がかってましたよ」 アキヒコが興奮冷めやらぬ様子で、手元のタブレットに表示された地図を指差した。 「奴らが246号から上馬を左折した瞬間、俺の車載機FTM-200Dから流れる折笠さんの声は、混信もノイズも一切ない完璧な音質でした。だからこそ、1秒の迷いもなく世田谷線の線路手前のあの袋小路へ、奴らのセダンをパーフェクトに誘導できたんです。もしあれがアナログ通信同士の足の引っ張り合いだったら、周辺のトラックの不法開設局のがなり声に掻き消されて、ルートを見失ってましたよ」

    「時代は変わっても、電波の性質そのものは変わらないからな」 俺は愛機FT-70Dをポンとカウンターの上に置いた。ポリカーボネートのボディは、激しい追跡劇を終えてなお、静かにそのタフな佇まいを保っている。

    「奴らはスマホのGPSさえ切れば、自分たちの位置情報を完全に隠蔽できたと過信していた。だが、電波を空中へ送出するということは、その瞬間に自分の居場所を全方位の空間へ放射しているのと同じことだ。UHF帯の430メガヘルツがコンクリートの壁でどう跳ね返り、どう歪むのか。そのマルチパスの癖さえ読み解けば、上空から直接波を一本釣りすることなんて、かつてフォックスハンティングで泥にまみれてアンテナを振り回した俺たちにとっては、基本中の基本に過ぎないさ」

    「まさに『シグナル・ハンター』の面目躍如ですね」 マスターが笑いながら、俺たちのマグカップに新しくコーヒーを注ぎ足してくれた。

    カウンターの奥の棚では、夕方まで静かだったマスターの固定機が、今度は夜のアマチュア無線家たちの穏やかな合法交信(ラグチュー)の音声を、かすかな変調とともに優しく拾い上げていた。 『……こちらは世田谷区固定の局です。今夜は雨が上がりそうですね。各局、今週もよろしくお願いします……』 これこそが、俺たちの愛する、規律正しく平和な無線の世界の本来の姿だ。昼間のあの不穏な犯罪の道具としての電波は、もうこの若林の空には一辺も残っていない。

    「折笠さん、次は秋のフォックスハンティングの大会、また俺とコンビを組んでエントリーしてくれますよね?」 アキヒコが目を輝かせながら、悪戯っぽく微笑んだ。

    「お前がC4FMのデジタル同調をサボらずに、世田谷の裏道を完璧に走り続けられるなら、考えてやってもいいよ」 俺がそう答えると、ジャズカフェの店内に温かい笑い声が響き渡った。

    俺は席を立ち、店のガラス窓から夜の若林の街を見上げた。世田谷線の遮断機が遮断機を下ろす音がかすかに聞こえ、家々の窓には温かい明かりが灯っている。 目に見えない無数の電波が、今この瞬間も、この静かな街の空を縦横無尽に飛び交っている。合法的な交信、家族を繋ぐ電波、そして時には、今日のように闇に紛れようとする悪意のシグナル。

    俺はポケットの中で、そっと相棒のハンディ機に触れた。 どんな電波が飛んでこようとも、この街の空を監視するハンターがここにいる限り、世田谷の電波の迷路は決して破られない。

    「7K2NIA、こちらはJL1ATB。今夜のラグチューはこれにて運用終了。……73(サイナラ)、アキヒコ」

    心の中で静かにそう呟きながら、俺は最高の一杯を求めて、再びコーヒーカップへと手を伸ばした。

    (『シグナル・ハンター』・本編完結)

     
     
    時代証言型ストーリーテラーとは 資料や伝聞ではなく、自らの身体で駆け抜けた「1970年代ストリートの現場」の一次情報を物語に昇華する表現者。教科書には載らない路地裏の熱気、オイルの匂い、アスファルトを削る摩擦音を、生きたエンターテインメントとして現代に追体験させます。

    あなたへのおすすめ