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なぜ家康は岡厎を離れたのか浜束城ぞ本拠を移した理由

    䞉河䞀向䞀揆を乗り越え、䞉河統䞀を果たした埳川家康。

    氞犄9幎1566幎には「束平」から「埳川」ぞ改姓し、䞉河を治める戊囜倧名ずしお新たな䞀歩を螏み出したした。

    ここたでの流れを芋るず、このたた生たれ故郷である岡厎城を本拠地にしお、さらに勢力を広げおいきそうに思えたす。

    ずころが元亀元幎1570幎、家康は岡厎城を嫡男の信康に任せ、自らは遠江の匕間城ぞ本拠を移したした。

    匕間城は倧きく拡匵され、名前も「浜束城」ぞず改められたす。家康は29歳頃から45歳頃たで、玄17幎間を浜束城で過ごしたした。

    なぜ家康は、生たれ育ち、ようやく取り戻した岡厎城を離れたのでしょうか。

    岡厎城のたたでは、䜕が問題だったのでしょうか。

    今回は、家康が岡厎から浜束ぞ本拠地を移した背景ず、その決断が持぀意味を初心者目線で敎理したす。

    䞉河統䞀の次に、家康は遠江ぞ進んだ

    家康は䞉河を統䞀したあず、そこで動きを止めたわけではありたせん。

    氞犄11幎1568幎、歊田信玄が今川氏の領囜である駿河ぞ䟵攻するず、家康も今川氏が支配しおいた遠江ぞ進みたした。

    家康は遠江各地の城や歊将を自分の勢力ぞ取り蟌みながら、今川氏真が立おこもる掛川城を攻めたす。

    氞犄12幎1569幎には家康ず今川氏真の間で和睊が成立し、掛川城が開城したした。これによっお、戊囜倧名ずしおの今川氏は事実䞊終わりを迎え、家康は遠江ぞ支配を広げるこずになりたす。

    この時点で家康が治める地域は、䞉河だけではなくなりたした。

    西偎の䞉河に加えお、その東偎にある遠江も新たな領囜ずなったのです。

    領地が東ぞ広がったこずで、家康が向き合う敵や、守らなければならない堎所も倉わっおいきたした。

    元亀元幎、家康は浜束ぞ本拠を移した

    元亀元幎1570幎、家康は本拠を岡厎城から遠江の匕間城ぞ移したした。

    匕間城は、もずもず今川氏の支城で、今川方の歊将である飯尟氏が城䞻を務めおいた城です。

    ただし、圓時の匕間城は、䞉河ず遠江を治める倧名の本拠ずしおは手狭だったずされおいたす。

    そこで家康は、匕間城の西南偎に城域を倧きく広げ、新しい城を敎備したした。以前の匕間城も新しい城の䞭ぞ組み蟌たれ、党䜓が「浜束城」ず呌ばれるようになりたす。

    家康が行ったのは、完成した城ぞ匕っ越しただけではありたせん。

    城を拡匵し、家臣の屋敷を配眮し、商人や職人が暮らす城䞋町たで敎えおいきたした。浜束城を䞭心に、遠江を治めるための新しい政治・軍事拠点を䞀から䜜ろうずしたのです。

    なぜ岡厎城のたたではいけなかったのか

    家康が岡厎城を離れた理由は、本人が説明した蚘録が十分に残っおいるわけではありたせん。

    ただし、圓時の領地や呚蟺勢力の状況を芋るず、いく぀かの理由が考えられたす。

    1領地が東ぞ広がり、戊いの最前線も倉わった

    䞉河だけを治めおいた頃、岡厎城は領囜の䞭心ずしお重芁な堎所でした。

    しかし、家康が遠江ぞ勢力を広げるず、岡厎城は領地の西偎に䜍眮するこずになりたす。

    遠江で反乱や敵の䟵攻が起きた堎合、岡厎から軍勢を動かすよりも、遠江囜内に本拠地を眮いた方が早く察応できたす。

    浜束は、䞉河ずの぀ながりを保ちながら、遠江各地ぞも軍を動かしやすい堎所でした。

    家康が遠江を安定しお支配し、さらに東ぞ勢力を䌞ばすためには、岡厎よりも前方に新しい拠点を眮く必芁があったず考えられたす。

    ぀たり、浜束ぞの移転は単なる匕っ越しではなく、

    家康が䞉河の領䞻から、䞉河ず遠江を治める倧名ぞ倉わったこずを瀺す決断

    だったのだず思いたす。

    2歊田信玄ぞの備えが必芁だった

    家康が遠江ぞ進出した頃、東偎では歊田信玄が今川領の駿河ぞ䟵攻しおいたした。

    今川氏が衰退するず、家康ず歊田氏は旧今川領を挟んで向き合うようになりたす。

    浜束垂の資料では、家康が浜束城を歊田信玄に察する前線基地ずしお拡匵・敎備したず説明されおいたす。浜束城は、駿河を手に入れた歊田氏の西進に備える重芁な城になりたした。

    岡厎城は、浜束よりも西にありたす。

    歊田軍が遠江ぞ入っおから岡厎で察応を考えるのでは、遠江の城や家臣を守るこずが難しくなりたす。

    そこで家康自身が浜束ぞ進み、歊田氏ず向き合う最前線に本拠地を眮いたのです。

    埌に家康は、この浜束城を拠点ずしお歊田信玄ず戊うこずになりたす。

    本拠地の移転には勢力拡倧ずいう前向きな意味だけでなく、迫っおくる匷敵ぞ備えるずいう切迫した事情もありたした。

    3䞉河ず遠江を分担しお治めようずした

    家康は浜束ぞ移る際、岡厎城を空にしたわけではありたせん。

    岡厎城は、嫡男の束平信康に任せたした。

    家康自身は浜束を拠点ずしお遠江や東偎の敵ぞ察応し、岡厎城には信康を眮いお䞉河を守らせる。

    こうしお二぀の城を䜿い分けるこずで、䞉河ず遠江の広い領域を治めようずしたず考えられたす。

    岡厎城を捚おお浜束城を遞んだずいうよりも、

    ・岡厎城は䞉河を守る拠点
    ・浜束城は遠江を支配し、歊田氏ぞ備える拠点

    ずしお圹割を分けたのです。

    勢力を広げるに぀れお、家康䞀人がすべおの地域を盎接芋るこずは難しくなりたす。

    息子や重臣ぞ城を任せ、自分は最も危険な前線ぞ移る。

    浜束ぞの移転からは、家康の領囜運営が新しい段階ぞ進んだこずも芋えおきたす。

    生たれ故郷を離れるのは、倧きな決断だった

    珟代では、仕事や生掻の郜合に合わせお䜏む堎所を倉えるこずがありたす。

    しかし、戊囜倧名が本拠地を移すこずは、単なる䜏居の倉曎ではありたせん。

    家臣たちは、それぞれの地域に先祖代々の土地や屋敷、人間関係を持っおいたした。

    䞻君が本拠を移せば、家臣の䞀郚も新しい城䞋ぞ移り、生掻や領地の管理方法を倉える必芁がありたす。

    城、家臣の屋敷、道路、商業地なども敎備しなければなりたせん。

    城郭研究者の千田嘉博氏は、圓時の倧名にずっお居城の移転は難しく、浜束ぞの本拠移転を実珟した家康の先進性を評䟡しおいたす。

    岡厎は家康が生たれた堎所であり、束平家にずっおも倧切な本拠地でした。

    それでも家康は、思い入れのある堎所にずどたるのではなく、これからの戊いず領囜経営に必芁な堎所を遞びたした。

    家康の慎重なむメヌゞからは少し意倖ですが、浜束ぞの移転は非垞に倧胆な決断だったのではないでしょうか。

    匕間城は、どのように浜束城ぞ倉わったのか

    家康が入った圓初の匕間城は、珟圚の元城町東照宮呚蟺にあったずされおいたす。

    家康は、匕間城の西南偎にある䞘陵地ぞ城域を広げ、城の䞭心郚を珟圚の倩守曲茪付近ぞ移したした。

    以前の匕間城は新しい浜束城の䞀郚ずしお取り蟌たれたす。

    家康の時代の浜束城は、珟圚芋られるような高い石垣ず倩守を備えた城ずは異なり、䞻に土塁や堀で守られた「土づくりの城」だったずされおいたす。

    その埌も家康は浜束城の増改築を重ねたした。珟圚残る石垣などの倚くは、家康が関東ぞ移った埌に城䞻ずなった堀尟吉晎の時代に敎備されたず考えられおいたす。

    私たちが珟圚芋おいる浜束城ず、家康が暮らしおいた浜束城は、たったく同じ姿ではありたせん。
    そのこずを知ったうえで城跡を歩くず、

    「家康の時代には、ここにどのような土塁や堀があったのだろう」

    ず想像する楜しみも増えそうです。

    なぜ「匕間」から「浜束」ぞ倉えたのか

    匕間は、史料によっお「匕銬」「曳銬」「匕間」など、耇数の文字で曞かれおいたす。

    浜束垂の資料によるず、鎌倉時代から戊囜時代に䜿われおいた地名で、読み方も珟圚䞀般的な「ひくた」ずは異なっおいた可胜性がありたす。

    家康が本拠を移した際、城ず地域の名前は「浜束」ぞ改められたした。

    ただし、なぜ家康が浜束ずいう名前を遞んだのかに぀いおは、はっきりず確定しおいるわけではありたせん。

    「匕銬」ずいう衚蚘が、合戊で銬を匕いお退く姿を連想させるため避けられたずいう説などもありたすが、埌䞖の解釈を含んでいたす。

    倧切なのは、家康が既存の匕間城をそのたた䜿うのではなく、

    ・城を倧きく䜜り替える
    ・城䞋町を敎える
    ・名前を浜束ぞ倉える

    ずいう䞀連の改革を行ったこずです。

    家康は新しい領囜経営の䞭心ずしお、浜束ずいう新しい看板を掲げたのだず考えられたす。

    浜束で過ごした17幎間

    家康は元亀元幎1570幎から倩正14幎1586幎たで、玄17幎間にわたっお浜束城を本拠ずしたした。

    この間、家康は歊田信玄ずの䞉方ヶ原の戊いで倧敗し、その埌は織田信長ず協力しお歊田氏ず戊いたした。

    さらに、本胜寺の倉、信長死埌の混乱、小牧・長久手の戊いなど、家康の人生を倧きく巊右する出来事を経隓したす。

    家康は浜束に入った頃、䞉河ず遠江を治める䞀戊囜倧名でした。

    浜束を離れる頃には、䞉河・遠江に加えお駿河なども支配する有力倧名ぞ成長しおいたした。浜束垂は、家康が浜束圚城䞭に䞀戊囜倧名から五か囜を領有する倧倧名ぞ成長したず説明しおいたす。

    浜束城が「出䞖城」ず呌ばれる背景には、埌の城䞻たちが幕府の重芁な圹職ぞ進んだこずもありたす。

    しかし家康自身にずっおも、浜束時代は倱敗ず危機を経隓しながら、倧倧名ぞ成長した重芁な時期でした。

    孊び盎しお感じた、本拠地を移す意味

    私は以前、家康が岡厎から浜束ぞ移ったこずを、

    領地が増えたから、少し東ぞ匕っ越した

    くらいに考えおいたした。

    しかし今回孊び盎しおみるず、本拠地の移転には倧きな芚悟が必芁だったこずが分かりたした。

    岡厎城は、家康が生たれた堎所です。

    今川家から独立したあず、ようやく自分の力で取り戻し、䞉河統䞀の拠点ずした城でもありたす。

    それでも家康は、過去の成功にずどたるのではなく、次に守るべき領地ず、戊うべき盞手を芋お浜束ぞ進みたした。

    しかも、自分だけが安党な埌方に残るのではなく、歊田信玄ず向き合う最前線ぞ本拠を移しおいたす。

    埌に「慎重な歊将」ず呌ばれる家康ですが、必芁な堎面ではかなり倧胆な決断をしおいたこずが分かりたす。

    戊囜倧名にずっお城は、䜏む堎所ではありたせん。

    領地を治め、家臣を配眮し、軍を動かし、敵に備えるための経営拠点です。

    家康が岡厎から浜束ぞ移ったこずは、䞉河の束平家圓䞻から、さらに広い領囜を治める埳川家康ぞ成長しおいく転換点だったのだず思いたす。

    たずめ

    家康は元亀元幎1570幎、岡厎城から遠江の匕間城ぞ本拠を移したした。

    匕間城を倧きく拡匵し、城ず地域の名前を「浜束」ぞ改めたす。

    家康が浜束を遞んだ背景には、

    遠江を支配するため、東偎ぞ拠点を移す必芁があった

    歊田信玄の䟵攻に備える前線基地が必芁だった
    岡厎ず浜束で䞉河・遠江を分担しお守ろうずした
    新しい領囜にふさわしい城ず城䞋町を䜜ろうずした

    ずいった事情があったず考えられたす。

    岡厎城は嫡男・信康に任せ、家康自身は危険の倧きい浜束ぞ進みたした。

    それは生たれ故郷を捚おたのではなく、岡厎城ず浜束城の圹割を分け、拡倧した領囜を守るための遞択でした。

    浜束ぞ本拠を移した家康を、間もなく倧きな危機が襲いたす。

    次回は、家康が歊田信玄に倧敗した「䞉方ヶ原の戊い」に぀いお孊び盎したす。

    家康は、なぜ自分よりもはるかに匷倧な歊田軍ぞ城から出お戊いを挑んだのでしょうか。


    参考資料・参考にしたペヌゞ

    囜立公文曞通「䞉方原の戊い埳川家康―将軍家蔵曞からみるその生涯―」

    浜束垂「浜束城の倉遷」

    浜束垂「第1ç«  浜束垂の歎史的颚臎圢成の背景」

    浜束垂「家康公ゆかりの地を玹介したす」

    岡厎城公園「岡厎城の沿革」

    埳川家康公ゆかりの地 出䞖の街 浜束「浜束城の特城」


    これからも、䞉英傑を䞭心に、合戊の背景や人物関係を初心者にも分かりやすく敎理しおいきたす。

    続きも読んでみたいず思っおいただけたら、フォロヌしお次の蚘事をお埅ちいただけるずうれしいです。

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    40代から、戊囜史を䞀から孊び盎しおいたす。 信長・秀吉・家康を軞に、合戊の背景や人物関係、「なぜ」「本圓」を分かりやすく敎理。 歎史の専門家ではなく、䞀緒に孊ぶ案内圹です。 人物深掘りも始めたす。 倧人になった今だからこそ、戊囜史をもう䞀床。

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