見出し画像

小豆島の風が私を育てた |私の戦争疎開と祖母の島①

前回は、
均等法とともに歩いた
40年について
お話しました。

今回は、
もっと昔の話です。

均等法どころではありません。

男女共同参画もありません。

まだ私が、
ただの
小娘だった頃の
お話です。

私は昭和十二年
12月生まれです。

歴史の本で
振り返れば、

その年は
日中戦争の
最中だったようです。

翌年には
国家総動員法が
制定されます。

さらに
その後、

日本は
太平洋戦争へと
進んでいきます。

けれども、
もちろん
当時の私に

そんなことが
分かるはずもありません。

世界情勢も
知りません。

政治も
知りません。

国家が
どこへ向かっているのかも
知りません。

幼い子どもに
見えていたのは、
自分の周囲の
景色だけでした。

私は奈良に
ルーツを持つ
家系でしたが、

祖父と父は
奈良から出て

大阪、
そして神戸で
事業を営んでいました。

当時としては
かなり恵まれた
家庭だったと思います。

祖先は
父型が
奈良奉行の与力で、

母型が
熊本藩の
家老の娘だった

由緒ある
武家の出だったと
聞いて育ちました。

なにぶん
朧気ですが、
なんとなく誇らしく
感じていたように思います。

祖父も父も
武家出身でありながら

事業で成功し、
神戸で
暮らしていました。

幼い頃の
記憶は、
どちらかと言えば
明るいものばかりです。

戦争の影など
感じることもなく、

兄と遊び、
家族に囲まれて
暮らしていました。

今から
考えれば
不思議なものです。

後に
神戸も大阪も
空襲を受けます。

街は
焼けます。

多くの人が
亡くなります。

けれども、
その頃の
日常には、

そんな未来を
予感させるものは
ありませんでした。

少なくとも
幼い私には。

大人たちは
何かを
感じていたのかもしれません。

しかし
子どもだった私は、
ただ毎日が続くものだと
思っていました。

そんな
ある日、
私と兄は
瀬戸内海の
小豆島(しょうどしま)へ
向かうことになりました。

学童疎開
というより

縁故疎開
だったと思います。

今なら
大変な
出来事として
語られるのでしょう。

けれども
いまの私の
記憶の中では、

不思議と
悲しみよりも

景色が
先に浮かびます。

神戸から
大阪へ。

そして
天保山の港。

船に
乗るというだけで
冒険でした。

今のような
大型フェリーではありません。

子どもから
見れば
十分大きな船でしたが、

それでも
海の近さを感じる
船旅でした。

海風の匂い。

潮の香り。

白い波。

遠ざかる港。

そして
少しずつ
近づいてくる
おおきな島影。

瀬戸内海には
不思議な魅力があります。

太平洋のような
荒々しさではありません。

湖のように
穏やかでありながら、

無数の島々が
浮かび、

その向こうに
また別の島が見える。

どこまでも続く
多島美です。

私が後年、

知らない土地へ
転勤しても
平気だったのは、

この船旅が
原点だったのかもしれません。

小豆島には
祖母がいました。

祖母の実家は
島ではそれなりに
大きな地主でした。

地域では
三好一族の血筋だという
言い伝えもありました。

本当かどうかは
分かりません。

けれど
子どもにとっては、

そんな話も
楽しいものでした。

広い屋敷。

大きな
緑の庭。

見上げる
青い空。

神戸とは
全く違う世界です。

朝になると、
縁側の向こうから

海の匂いを
含んだ風が
吹いてきました。

庭へ出ると、

茅(かや)の葉に
露が残っていて、

足元が
少しひんやりします。

空は
どこまでも高く、

雲は
ゆっくり
流れていました。

遠くには
山が見えます。

見上げれば山。

振り向けば海。

私が
新たに
暮らすことになった
小豆島は

そんな場所でした。

神戸では
家や人が
たくさんありましたが、

小豆島では
風や空の方が
近くに感じられました。

私は祖母が
大好きでした。

おおらかで、
とても大きな愛情を
持った人でした。

島の人たちも
皆そうでした。

今でも
覚えています。

誰かの
家の前を通れば
よしこちゃん、
と声をかけられる。

畑へ行けば
何か持たされる。

道を歩けば
知り合いに会う。

今なら少し驚くほど
人との距離が近い。

けれど、
それが
当たり前でした。

畑の
そばを歩くと、

丸い葉が
土の上いっぱいに
広がっていて、

日に温められた
土の匂いがしました。

今思うと
甘藷(さつまいも)の
畑だったのかもしれません。

季節によって
咲く花も違います。

虫たちの声も
違います。

夕方になると、
海から吹く風が
少し涼しくなり、

一日の
終わりを
知らせてくれるようでした。

小豆島には
真言宗の行事も
たくさんありました。

祝い事があれば
地域が集まる。

お寺に
人が集まる。

屋敷に
人が集まる。

子どもも
一緒になって
賑やかに過ごす。

私は
そうした行事が
大好きでした。

大人たちの話は
よく分かりませんでしたが、

みんなが集まって
笑っている様子を
見るのが
好きでした。

お寺へ
向かう道にも
見慣れた人たちがいて、

私たち子どもに
気軽に声をかけてくれました。

戦時中というと
暗い話ばかりが語られます。

もちろん
実際には
大変な時代だったのでしょう。

物資も
不足していきます。

家族が
離れて暮らす
辛さもありました。

しかし
私の記憶に残っている
小豆島は、

それだけではありません。

陽の光があります。

海があります。

山があります。

人の笑顔があります。

瀬戸内の
穏やかな風があります。

そして
祖母の家の
縁側があります。

夏の日には
縁側の板が
陽射しで温かくなり、

そこへ座って
ぼんやり庭を
眺めるのが好きでした。

蝉の声が
響き、

遠くで
船の音が
聞こえることもありました。

海は
朝と夕方で
色が違い、

それを見るのも
楽しみでした。

今振り返ると、
私はそこで育てられたのだと思います。

人を怖がらないこと。

知らない場所へ
飛び込むこと。

まず話を
聞いてみること。

困っている人がいれば
声をかけること。

後になって
均等法の仕事を
するようになり、

全国を転勤して
歩くことになりました。

奈良も、
富山も、
岐阜も、
京都も。

初めての
土地ばかりでした。

けれど、
不思議と私は
土地を怖いと思ったことがありません。

それはきっと、
幼い頃に
小豆島で
教わったからでしょう。

知らない土地には、
知らない景色がある。

知らない人がいる。

そして案外、
その人たちは優しい。

そんな
当たり前のことを、

私は戦争の時代の
小さな島で
学んだのかもしれません。

いいなと思ったら応援しよう!