
一つ星、空へ。 最終話(第八話) 完結

十一章 決勝
相手は私立聖和学院だった。
春の甲子園に三年連続で出場している。エースは二年生ながらすでにプロのスカウトが見に来ると噂の男だった。スタンドが、これまでと違った。人が多かった。カメラを持った大人が何人もいた。
架純はベンチでスコアブックを開いた。手が、少し震えていた。
遼太郎はそれを見た。何も言わなかった。
グラウンドに出た。
整列して、礼をして、守備につく前に、遼太郎が声をかけた。
「ちょっと来て」
九人がマウンドに集まった。架純だけがベンチから見ていた。
遼太郎が全員の顔を見回した。
「今日は最初から本気で投げる」
西川が遼太郎を見た。遼太郎は頷いた。
「最後までもつかどうかはわからない。どうなるかもわからない。でも、やれるとこまでやってみる」
誰も何も言わなかった。
中村が口を開いた。
「甲子園、行こう」
また、沈黙があった。
それから西川が「当たり前だろ」と言った。坂本が「最初からそのつもりだし」と言った。田島が「行きましょう」と言った。遠藤が無言で頷いた。橘が「絶対行く」と言った。
中村が笑った。
「よし、行くぞ」
全員が散った。
遼太郎はマウンドに上がった。
中村が構えた。サインを出した。遼太郎は頷いた。
振りかぶって、全力で投げた。
パァン。
スタンドが、ざわっと動いた。相手の一番バッターがのけぞった。バットを構えたまま、固まっていた。今のはなんだ、という顔だった。
ストライク。
遼太郎は同じように投げた。
パァン。
バッターのバットが、ボールの遥か手前で空を切った。相手ベンチの誰かが立ち上がった。
三球目。
パァン。
三振。バッターがヘルメットを叩いた。首を振りながらベンチに戻った。
相手ベンチが静まり返った。
味方のベンチが、沸いた。
西川が「おい」と言った。声が上ずっていた。坂本が「やばい」と繰り返していた。田島が眼鏡を押さえながら立ち上がっていた。橘が「え、え、え」と言っていた。遠藤が無言で、でも目が据わっていた。中村がミットを叩きながら叫んだ。
「もう一丁!!」
二番バッターが打席に入った。
パァン。パァン。パァン。
また三振だった。バッターが呆然とした顔でベンチに戻った。
三番バッターが打席に入った。今度は慎重に構えた。目を細めて、遼太郎を見据えた。
パァン。パァン。パァン。
また同じだった。
三者連続三振。
ベンチが爆発した。全員が立ち上がって叫んでいた。架純だけが座ったまま、でもスコアブックを持つ手が震えていた。
遼太郎がベンチに戻ると、西川が真顔で言った。
「お前、本物だ」
遼太郎は何も言わなかった。ただ、水を一口飲んだ。
一回の裏、遼太郎が一番打者として打席に入った。
相手のエースが振りかぶった。
一球目、外角のストレート。見逃した。ストライク。
二球目、スライダー。ファール。
三球目。
遼太郎はバットを握り直した。来る、とわかった。直球だった。
振り抜いた。
打球がぐんぐん伸びた。レフトが下がった。下がり切れなかった。
フェンスを越えた。
スタンドがどよめいた。相手ベンチが静まり返った。
遼太郎はダイヤモンドを一周した。ホームを踏んだ。ベンチに戻ると、全員が待っていた。西川が無言で拳を出した。遼太郎は拳をぶつけた。
架純がスコアブックに数字を書き込んだ。ペンを持つ手が、もう震えていなかった。
1対0。
二回、三回、四回。
遼太郎は投げ続けた。
回が進むごとに、球が重くなっていくような気がした。疲れではなかった。逆だった。体が、マウンドに馴染んでいくような感覚だった。腕の振りが滑らかになって、指先の感覚が研ぎ澄まされていった。
パァン。パァン。パァン。
三振。また三振。また三振。
相手のバッターが、回を重ねるごとに変わっていった。最初は強気に構えていた。次第にバットを短く持つようになった。目が、迷い始めていた。どこに来るかわからない、でも絶対に来る、その恐怖が体に出ていた。
五回、六番バッターが打席に入った。慎重に、慎重に構えた。それでも、パァンという音の後には、バットが空を切っていた。
相手のベンチが、回を重ねるごとに静かになっていった。スカウトたちがメモを取る手を止めて、ただ見ていた。
中村は毎回、ミットを構えながら笑っていた。こういう球を受けるために、ずっとキャッチャーをやってきたような顔をしていた。
八回の裏、西川が打席に入った。
一球目から振りにいった。空振り。
二球目、ファール。
三球目、低めのカーブ。西川のバットが、すくい上げるように出た。
打球がライトスタンドに飛び込んだ。
2対0。
西川がダイヤモンドを一周した。ホームを踏んだとき、遼太郎と目が合った。
西川は何も言わなかった。遼太郎も何も言わなかった。
それだけでよかった。
九回の表、遼太郎はマウンドに上がった。
最終回。
グラウンドを見渡した。西川が一塁で頷いた。坂本が三塁で拳を握った。遠藤が外野で静かに構えた。田島がセカンドで眼鏡を直した。橘がレフトで足踏みした。中村がミットを叩いた。
全員いた。
全員、ここにいた。
あと三人。
ここまで一本のヒットも出ていない。一人のランナーも出ていなかった。
遼太郎はボールを握った。
一人目のバッターが打席に入った。相手の七番だった。目が変わっていた。最終回の目だった。
中村がサインを出した。遼太郎は頷いた。
振りかぶって、投げた。
パァン。
バッターがのけぞった。ストライク。
二球目。また同じ音がした。バッターのバットが、ボールの手前で止まった。ストライク。
三球目。
遼太郎は全力で腕を振った。
パァン。
バッターのバットが空を切った。崩れるようにして、膝が折れた。
三振。
バッターがゆっくり立ち上がって、ベンチに戻った。振り返らなかった。
あと二人。
二人目のバッターが打席に入った。相手の八番だった。小柄で、足が速そうだった。バットを短く持った。当てにきていた。
中村がサインを出した。遼太郎は頷いた。
一球目、外角のストレート。バッターがバットを出した。ファール。粘る気だとわかった。
二球目、内角。体をのけぞらせて、かろうじて避けた。ボール。
三球目、また外角。バットに当たった。ファールで逃げた。
遼太郎は息を吐いた。しぶとい。
四球目。
中村がサインを出した。遼太郎は少し間を置いて、頷いた。
振りかぶって、投げた。
バッターが振った。打球がセカンド方向に上がった。
田島が動いた。サングラスもない、夕日が真正面から差し込む方向だった。田島は目を細めながら、グラブを伸ばした。
捕った。
ベンチから声が上がった。架純がスコアブックに力強く書き込んだ。
田島はゆっくりグラブを下ろした。眼鏡を直した。何事もなかった顔をしていた。でも、耳が赤かった。
二アウト。
あと一人。
遼太郎はボールを握った。
風が止んだ。グラウンドが、しんと静まり返った。スタンドの声も、どこか遠くなった。
西日が眩しかった。マウンドに真正面から差し込んできた。遼太郎は少し目を細めた。こんなに太陽が眩しいと思ったのは、いつぶりだろうと思った。
ベンチを見た。
架純がいた。
スコアブックを膝に置いたまま、こちらを見ていた。目が合った。今度は逸らさなかった。
遼太郎も逸らさなかった。
一秒、二秒。
架純が、小さく頷いた。
遼太郎は前を向いた。ボールを握り直した。縫い目に指をかけた。
打席に、最後のバッターが入った。
そのときだ、左胸の奥から、これまでとは違う痛みが広がった。鈍くなかった。鋭かった。息を吸うと、肺の中が狭くなるような感覚があった。
マウンドの上で、一瞬だけ膝が折れかけた。
堪えた。
中村がサインを出した。遼太郎は頷いた。
振りかぶって、投げた。
ボール。
外れた。こんなに外れたのは、今日初めてだった。
中村が立ち上がって、また構えた。
投げた。
またボール。
スタンドがざわついた。ベンチの全員が立ち上がった。
視界が、じわじわと霞んできた。
投げた。
ボール。
三ボール。
投げた。
ボール。
四球。走者が一塁に出た。
中村がタイムを取った。
マウンドに全員が集まった。遼太郎を囲んだ。
中村が遼太郎の顔を見た。一瞬で、わかった。
「疲れたんだろ?交代しよう」
「だめだ」
「桐島」
「あと一人だ」
西川が遼太郎の肩に手を置いた。
「お前がいなかったら、俺たちここにいなかった」
坂本が言った。「俺、バット振れるようになったの、お前のおかげだから」
橘が言った。「最初に声かけてくれなかったら、今も帰宅部だった」
田島が眼鏡を直しながら言った。「僕、野球好きになりました」
遠藤が、珍しく口を開いた。「俺も」
全員が遼太郎を見ていた。
中村が言った。「続き、俺たちに任せてくれ」
遼太郎は全員の顔を見た。
霞んだ視界の中で、全員の顔がはっきり見えた。
「投げさせてくれ」
誰も止めなかった。
全員がポジションに戻った。
遼太郎はボールを握った。
次の打者が打席に入った。
中村が構えた。
遼太郎は深く息を吸った。
振りかぶった。
投げた。
その瞬間、左胸が弾けるように痛んだ。
マウンドが、傾いた。
空が、見えた。
六月の空より、ずっと高い空だった。
目を閉じる前に、架純の声が聞こえた気がした。
救急車のサイレンが、グラウンドに響いた。
架純は遼太郎の手を握ったまま、救急車に乗り込んだ。誰も止めなかった。止められなかった。
担架に乗せられた遼太郎の顔は、穏やかだった。眠っているみたいだった。
架純は遼太郎の手を、ずっと握っていた。
グラウンドに残った八人は、しばらく動けなかった。
誰も何も言わなかった。
救急車が走り去った方向を、全員が見ていた。サイレンの音が、遠くなって、消えた。
中村が「桐島、大丈夫かな」と言った。誰も答えなかった。答えられなかった。
坂本が「なあ」と言いかけて、やめた。
田島が眼鏡を外した。レンズが曇っていた。
橘が「どうしよう」と言った。それだけだった。どうしようという言葉しか、出てこなかった。
遠藤が、グラブを握ったまま、グラウンドの土を見ていた。
しばらくして、西川が空を見上げた。目が赤かった。一度だけ、深く息を吸った。
それから、前を向いた。
グラブを手にはめた。
「やるぞ」
誰も何も言わなかった。でも、全員が動いた。
西川がマウンドに上がった。生まれて初めて、マウンドに立った。土の感触が、スパイクの裏から伝わってきた。
遼太郎がいつも立っていた場所だった。
中村が構えた。
西川は息を吸った。
投げた。
ストライク。
スタンドから声が上がった。
二球目。
打者がバットを振った。打球がセカンド方向に転がった。
田島が前に出た。低い姿勢で、グラブを地面すれすれに出した。ボールがグラブに収まった。
田島は一塁に投げた。
アウト。
試合終了。
スタンドが、爆発した。
八人がグラウンドの真ん中に集まった。誰かが泣いていた。誰かが叫んでいた。誰かが笑っていた。みんなが、全部だった。
でも全員が、グラウンドの外を見た。
救急車が走り去った方向を、見た。
病院の廊下、架純は椅子に座っていた。
スコアブックを胸に抱えていた。
しばらくして、処置室のドアが開いた。
医者が出てきた。架純は立ち上がった。
医者は言った。
「意識は戻りました」
架純は息を吐いた。長い息だった。
処置室に入ると、遼太郎がベッドの上に横になっていた。顔色が悪かった。でも目が開いていた。
架純を見た。
「甲子園」と遼太郎は言った。声がかすれていた。
架純は遼太郎の隣に立った。スコアブックを、ベッドの上に置いた。
「勝ったよ」
遼太郎は目を閉じた。
口元が、少し緩んだ。
「連れていけた」
架純は答えなかった。
ただ、遼太郎の手の上に、そっと手を置いた。
病院の廊下に、夜が深まっていた。
甲子園
夏の甲子園は、別の世界だった。
スタンドの声量が違った。グラウンドの広さが違った。空の青さまで、違って見えた。
その日、遼太郎は病院のベッドの上にいた。
天井を見ていた。窓の外に、夏の空が見えた。どこまでも青い空だった。今頃、あいつらはあの空の下にいる。そう思った。
一回戦、相手は大阪の強豪校だった。
結果は1対12だった。
遼太郎のいない甲子園では、純粋な実力の差だった。
ベンチに戻ったとき、誰も下を向いていなかった。
西川が言った。「来られた」
それだけだった。それだけで全部だった。
試合後、九人でグラウンドの土を集めた。田島が袋を人数分用意していた。いつの間に準備したのか、誰も聞かなかった。
架純は土を集めながら、遼太郎のことを思っていた。
病院の窓から同じ空を見ているだろうか、と思った。
出発
甲子園の翌日、架純は遼太郎の病室にいた。
「アメリカに行くことになった」
架純は隣に座ったまま、前を向いていた。
「手術?」
「ボストンに専門の医者がいるらしい。親父が手配してくれた」
「いつ」
「来週」
架純は何も言わなかった。しばらく黙っていた。
街灯が灯り始めていた。
「戻ってくる?」
遼太郎は少し間を置いた。
「戻ってくる」
「いつ」
「わからない」
架純は膝の上で手を組んだ。白く見えた。
「手紙、書いてよ」
遼太郎は黙っていた。
「メールでもいい。電話でもいい。何でもいい」架純の声が、少し揺れた。「連絡して」
遼太郎は架純を見た。
何か言おうとした。
言えなかった。
「行ってくる」と遼太郎は言った。
架純は前を向いたまま、小さく頷いた。
五年後。
遼太郎からの連絡は、一度だけあった。
渡米から三ヶ月後、深夜に一通のメールが届いた。
『手術、成功した』
それだけだった。件名もなかった。署名もなかった。たった一行だった。
架純は何度も読んだ。返信を書いては消して、書いては消して、結局『よかった』とだけ送った。
既読がついた。
返信は来なかった。
それから五年、何も来なかった。
架純は待った。
最初の一年は、毎日待った。スマホを何度も確認した。郵便受けを毎朝開けた。
二年目は、信じて待った。
三年目は、信じるという言葉の意味がわからなくなってきた。
四年目は、待っていることすら忘れようとした。忘れられなかった。
五年目、架純はスポーツ医学の大学院にいた。
なぜその道を選んだのか、誰にも言わなかった。自分でも、言葉にしたくなかった。ただ、白衣を着て、論文を読んで、実習をこなした。
夜、ひとりでいるとき、ときどきあのグラウンドを思い出した。
夕暮れの土の匂いを。
パァンという乾いた音を。
マウンドに立つ遼太郎の背中を。
結婚式
西川の結婚式は、十一月の土曜日だった。
会場に入ると、懐かしい顔が並んでいた。
中村が太っていた。坂本が髪を伸ばしていた。田島が眼鏡を変えていた。遠藤は相変わらず無口だったが、隣に女性がいた。橘がネクタイを曲げていた。
「架純ちゃん!」と中村が飛んできた。「久しぶり!変わらないね!」
「中村くんは変わりすぎ」
「太った? 太ったは言わなくていいよ」
西川が来た。五年で顔つきが変わっていた。でも目は同じだった。
「来てくれた」
「おめでとう」
西川は架純を見て、一瞬だけ何か言いたそうな顔をした。でも何も言わなかった。
「楽しんでいってくれ」
それだけ言って、他の客のところへ行った。
披露宴が始まった。
乾杯をして、料理が出て、スピーチがあって。懐かしい話が続いた。
デザートが出たころ、スクリーンに写真が映し出された。
グラウンドだった。
あの、ユニフォームを着た九人の写真だった。
最初の練習の写真。泥だらけの写真。延長戦が終わったあとの写真。決勝の写真。甲子園の写真。
会場がしんと静まり返った。
中村が泣いていた。坂本が天井を見ていた。田島が眼鏡を外していた。遠藤が隣の女性の手を握っていた。
架純はスクリーンを見ていた。
マウンドに立つ遼太郎の写真が映った。
あの夏の、青い空の下だった。
架純は息を吸った。
そのとき、会場の扉が開いた。
最初、誰も気づかなかった。
スクリーンに見入っていた。
でも一人、また一人と振り返った。
中村が振り返って、固まった。
坂本が振り返って、口を開けた。
田島が振り返って、眼鏡を落とした。
遠藤が振り返って、立ち上がった。
橘が振り返って、「え」と言った。
架純だけが、まだスクリーンを見ていた。
車輪の音がした。
静かな、車輪の音だった。
架純は振り返った。
遼太郎だった。
車椅子に乗っていた。でも背筋は伸びていた。髪が少し長くなっていた。顔つきが、大人になっていた。
目が合った。
遼太郎が、少し笑った。
架純は動けなかった。
五年間が、一度に押し寄せてきた。待った夜が。確認したスマホが。開け続けた郵便受けが。
前が、見えなくなった。
気づいたら、中村が遼太郎に飛びついていた。
「桐島!!桐島やんか!!」
「は、離せ」
「なんで来てんの!?いつ帰ってきたの!?なんで言わなかったの!?西川は知ってたの?ずるい!西川ずるい!」
坂本が割り込んできた。「俺も気づいてたし」
「嘘つくな」と西川が言った。
「気づいてたし!なんか感じてたし!」
橘が「俺泣きそう」と言いながら遼太郎の肩を叩いた。田島が眼鏡を外して目を拭いながら「お久しぶりです」と言った。遠藤が無言で遼太郎の前に立って、それから短く「元気そうで」とだけ言った。
全員が遼太郎を囲んだ。質問が飛んだ。声が重なった。誰も遼太郎を離さなかった。
遼太郎は笑いながら答えていた。でも、視線だけが何度も同じ方向に動いていた。
架純がいる方向に。
西川がそれを見ていた。
しばらくして、西川が口を開いた。
「お前ら、俺の結婚式やぞ」
「わかってる!でも——」
「主役ほっといてどうすんだ」
中村が「あ」と言った。坂本が「そやな」と言った。橘が「ごめん西川」と言った。
西川は遼太郎を見た。目だけで、行けと言っていた。
遼太郎は小さく頷いた。
「西川、おめでとう」
「遅い」と西川は言った。でも、笑っていた。
人垣が、さっと開いた。
遼太郎がゆっくり架純に近づいてきた。
車椅子が、架純の前で止まった。
「待たせた」
架純は何も言えなかった。
「待たせすぎた」
涙が、止まらなかった。
「ごめん」と遼太郎は言った。「連絡できなかった。手術が長引いて、リハビリが長引いて、お前に中途半端な姿を見せたくなくて」
架純は首を横に振った。
「そんなの」架純の声が、震えた。「そんなの、関係ない」
「知ってた」
「じゃあなんで」
「意地張った」遼太郎は少し笑った。「馬鹿だろ」
架純は遼太郎を見た。泣きながら、見た。
「馬鹿よ」
「そうだな」
「大馬鹿よ」
「そうだな」
会場のどこかで、中村が泣いていた。坂本が「俺も泣きそう」と言った。西川が腕を組んで、でも目を細めて、二人を見ていた。
遼太郎が架純に手を差し出した。
「スポーツ医学、勉強してるんだろ」
架純は目を拭った。「なんで知ってるの」
「西川から聞いた」
架純は西川を見た。西川は知らん顔をしていた。
「俺の主治医になってくれ」
架純はしばらく遼太郎を見ていた。
それから、差し出された手を取った。
「なる」
遼太郎は架純の手を握った。
「ありがとう」
「お礼はまだ早い」架純は鼻をすすった。「これからちゃんと治してあげるから」
「手厳しい」
「当たり前だよ」
会場が、温かい笑いに包まれた。
式が終わったあと、二人は会場を出た。
十一月の夜は冷たかった。
遼太郎の車椅子を、架純が押した。
しばらく黙って、夜道を進んだ。
「寒くない?」と架純が言った。
「平気」と遼太郎は言った。
また黙って歩いた。
街灯が二人を照らした。
「ねえ」と架純が言った。
「なに」
「甲子園の土、まだ持ってる?」
遼太郎は少し考えた。
「持ってる。ボストンまで持っていった」
架純は笑った。声を出して笑った。
遼太郎も笑った。
夜道に、二人分の笑い声が響いた。
どこまでも続く道の上を、二人はいっしょに進んだ。
車椅子の車輪が、静かに回っていた。
最終章 五年後
十一月の夜だった。
海辺の道を、架純と男の子が歩いていた。
男の子の手は小さかった。架純の手をぎゅっと握って、波打ち際に近づいては引いて、また近づいては引いた。
「つめたい!」
「だから言ったでしょ、近づきすぎって」
「つめたーい!」
全然懲りていなかった。
砂浜を歩きながら、男の子が何かを見つけた。しゃがんで、拾い上げた。小石だった。白くて、丸い小石だった。
男の子は立ち上がって、腕を振りかぶった。
投げた。
小石が夜の空に弧を描いて、暗い海に落ちた。
架純は動けなかった。
その腕の振り方を、知っていた。
迷いのない、真っ直ぐな、あの振り方を。
「ママ?」
男の子が架純を見上げた。
架純は空を見上げた。泣きそうだった。泣いてはいけないと思った。でも泣きそうだった。
冬の空は高かった。
星がひとつ、輝いていた。
一番星だった。
六月の空より、ずっと高いところで、ただひとつ、輝いていた。
架純はしばらく、その星を見ていた。
「ママ、どうしたの」
「なんでもない」
「ないてる?」
「泣いてない」
「ないてるよ」
架純は男の子の頭に手を置いた。やわらかかった。温かかった。
「行こう」
「うん!」
男の子が走り出した。架純はその手を握って、一緒に歩いた。
波の音が続いていた。
星が、輝いていた。
一つ星、空へ。
