夏の森
あらすじ
小学生の主人公は、夏休みに友達と遊んでいる時に、森の奥で「あいつ」と遭遇します。担任の先生や母親に「あいつ」のことを説明するのですが、残念ながら冷たい言葉しか返ってきません。鋭敏な感覚の少年の夏の日々を描きました。裏テーマは「記憶について」です。
1
俺たちは、鬼兵じじいに見つからないように、アシド製作工場のフェンス沿いの細い砂利道を背中を丸めて走った。突き当たりの斜面は、7月になって一気に延びた雑草が生い茂り、砂利道がほとんど覆われている。汗をかいた手足に、雑草の穂が張り付くのも気にせずにかけあがり、全員ではぁはぁと息を切らしながら、森のなかに入っていった。アシド製作工場からは、煙が立ち上ぼり、ポンプが金属を叩くような、カァーンカァーンという音が鳴り響いている。森に入るところを工場の鬼兵じじいに見つかったら、柄の長い箒でなぐられるので、このあたりには五年生でもほとんど近づかない。ただ、今日の東ゆしぬ区の連中との戦争かくれんぼは絶対に負けることができないので、敢えてこの森に隠れることにしたのだ。連中もまさか俺たちが、この森に身を潜めているとは思いもしないだろう。森に入ると、工場のカァーンカァーンという音は遠くなった。木の幹が風に揺れ、ごとんごとんとなり、生い茂った葉は、ざわうざわうとなびいている。俺は、さっき斜面を上る時に膝についた砂利を払いながら言った。
「おい、みんな、ここまで来れば、あいつらも簡単には見つけられないだろうな。とは言っても油断はできない。」
「そうだな。連中のなかには、相当ここらへんに詳しいやつもいる。いざとなったら追ってくるぞ。昌平分隊がうまくやってくれればいいけどな。」
ユウキがランニングシャツの裾を引っ張って鼻のあたりの汗を拭きながら言った。短く刈り込んだ天然パーマに、雑草の穂が絡まっている。
「とりあえず、もう少し森の奥へ行こう。」
俺はそう言いながら歩き出していた。
「僕、こんなところ来たのはじめてだよ。大丈夫?先生もこの森には入っちゃいけないって言ってたよ」
ヒデオが、顔の回りと飛び回る虫を手で追い払いながら、不安そうに言った。その後ろで、ヒデオのあとにくっついているのは、弟のヒデユキだ。まだ三年生のヒデユキは背も低いが、兄のヒデオよりも活発な性格で、平気な顔をしている。
「わかってるよ。でもな、先生がこの森に入るなって言い出すようになる前から、俺たちはここには何回か来てるんだぜ?」
ユウキの方に目線を送ると、ユウキは得意気な顔でにんまりと微笑み、ヒデオ兄弟にうなずいた。
「そうそう。まっ、俺たちに任せておけよ。冒険だよ。」
俺とユウキを先頭にして、森の奥へと入っていった。森のなかは陽の光が遮られ、ひんやりとしている。そこらへんに落ちていたちょうどいい棒を片手に、大きなシダの葉を掻き分けながら奥へ進んでいった。
「でもなんでこの森とアゲノ沼には近づいちゃいけないんだろうな。」
「アゲノ沼はメドツがでるらしいぞ。」
ユウキが答える。
「メドツなんてほんとうにいるのかよ。」
俺は鼻で笑いながら言う。すると、ヒデユキが甲高い声で話に割って入った。
「いるよ。となりのクラスの子が、メドツにね、足をつかまれて、沼に引っ張られたんだよ。」
俺は振り返り、ヒデユキを見つめた。ヒデユキは、唇を尖らせながらまっすぐこちらを見ている。大きく風が吹いて、ざわう・・ざう・・ざわう、と木の枝がなった。突然、じっじじじじっぃいと大きな音がしたので、全員が驚いて身を屈めたが、セミがアカガシの木から鳴きながら飛び立っただけだった。
少し歩くと、茂みがトンネルのように口を開いているところがあって、その向こうが明るくなっていた。森の暗さに押し出されるようにして、俺たちはその細いトンネルを一列になってくぐった。その先は、高い木々に囲われた狭い草原になっていた。先頭を歩いていたユウキが、あっと言って立ち止まった。頭に絡まったクモの巣を払うのも忘れ、俺たちは、その陽だまりのなかにポツリと立ち尽くすものに出会った。
2
その狭い草原は、高い木々に囲われており、そこだけ風がふかず、しずかだった。暗い森から出てきたからか、太陽の光がよりいっそう眩しかった。短い雑草が生い茂り、明るい黄みどり色に光っていた。それは、そのなかにひとりで立ちつくし、すこしも動かずにどっしりとした目でこちらをずっと見ていた。背のたけは、人間の大人よりも高い。鼻先が黒く、陽の光に照らされてテラテラと光っている。毛深い太い脚。手はちょこんと胸のあたりで折り畳まれていた。予期せぬものとの出会いに、俺たちは声も出ずにいた。見つめあったまま何秒かが経った。夏の光が肌をじりじりと暑くても、どうしても動くこともできなかった。小さな声で沈黙を破ったのはヒデオだった。
「ねぇ・・・」
「しずかに。ちいさい声で話せよ。」
喋りかけたヒデオをユウキが遮った。
「ごめん。あれなに?」
小さな声でヒデオが喋り直した。
「わかんねぇ。ずっとこっち見てるぞ。」
「お前、話しかけてみろよ。」
ユウキがぎこちない笑顔をこちらに向けた。
「ばか。そんなことできるはずないだろ。」
俺たちは、なぜか後ろに引くことができなかった。そういう緊張感の中にいた。空中を飛ぶ羽虫が太陽に照らされて、光の粒のようだった。厚い雲が流れてきて、一瞬のうちにあたりが暗くなった。遠くからアシド製作工場のカァーンカァーンという音が聞こえてきた。腕に虫が止まっているのか、チクリとした感触がある。それでも、俺は「それ」から目を離すことができないでいた。
「俺、家からカメラとってくる。」
ユウキが呟いた。
「何分かかると思ってんだよ。戻ってきた時にはいなくなってるよ。」
雲が頭上を通りすぎた。木々に囲まれたこの狭い草原に沈殿している、透明な湿度の粒を抱えた空気が照らされて、またあたりが明るくなっていく。それはクリーム色の大きな布を翻すようだった。
すると、そいつは頭を一瞬ぴくっと動かし、身を固くした。
また工場のカァーンカァーンという音がこだました。
そしてそいつは、どっと駆け出し、向こうの草むらに入っていった。草と木を踏む、ぱきりぱきという音がしずかに遠ざかっていった。
それが去ったあと、俺たち四人はやっと呼吸をつき、お互いの顔を見合わせた。あれが通った道に近寄ってみると、途中で地肌が出ているとこがあって、そこに足跡がついていた。くっきりと土がへこんでいて、重そうな足跡だった。俺は、あれが入っていった森の入り口を眺めていた。奥が青みどりに暗く、そこをめがけて風が吹いてくるような気がした。
俺たちは、口々にさっきの遭遇について感想を言いながら森を引き返した。東ゆしぬ区の連中との戦争かくれんぼの最中だということも忘れていた。こちらを見つめるどっしりとした目を忘れることができなかった。みんな気分が高揚していた。
「きっと森の奥に工場があって、そこで実験されたのが逃げ出してきたんじゃないかなぁ?ねぇ、どう思う?」
ヒデオが大きな身ぶり手振りで言った。来たときよりも声が大きくなり、空想の仮説を力説している。先を歩く俺とユウキは、二人で目を見合わせ、鼻で笑って答えた。
「どうって言われても、そんなのあるわけないだろ。」
「そうだよ。ヒデオの妄想だろ?」
足元の小枝を踏みつけながら進んだ。
「でも見ただろ?そうでもなきゃ説明できないって思わない?他に説明がつかないじゃないか。」
「森の奥に工場なんて無いって。この獣道以外に、この森に入る道なんてないんだぜ?」
と俺は言った。
「あるよ。」
ヒデユキが甲高い声で短く言うのが聞こえた。俺は思わず振り返りヒデユキを見る。ヒデユキは立ち止まり、じっとりと俺の目を見ながら言った。
「他に道はあるよ。それにクラスのやつが見たんだ。森の中に大きな銀色の屋根があったって言ってた。」
ヒデユキが嘘を付いているようには見えなかった。でも、そんな工場があるはずがなかった。それなのに、俺は、この自分よりも小さな三年生の言葉を、鼻で笑うこともできずにいた。
「そういえば明日、学校で陸上の練習だろ?先生に今日あったことを言ってみようぜ。」
ユウキが言う。
「そうしてみよう。でもこの森には言ったことは絶対に言うなよ。」
「当たり前だろ。立ち入り禁止の森だからな。男の約束だ。」
それ以上、俺たちは今日の遭遇のことについてしゃべらなかった。
森の出口に近づいていた。アシド製作工場の方から、独特なつーんとした臭いが漂ってきた。暑そうに照った黒い屋根から、少し青みがかった煙がむくむくと吐き出されていた。
「ショウコクサンの臭いだ。」
とユウキが呟く。決まった時間になるとこの臭いが漂ってくる。フェンスの影に隠れて、鬼兵じじいがいないことを確かめてから、また背中を丸めて工場の前を走り去った。
別れ際、ヒデオが口を開いた。
「ところで、アシド製作工場ってなに作ってるんだろうね?」
「知らないよ。」
俺とユウキは平坦に答えて、それぞれが家路についた。
3
台所では母さんが鼻唄をうたいながら夕御飯の支度をしていた。
「お帰り。ちょうど帰ってきたのね。手を洗ってきなさい。もう食べられるんだからね。」
そう言いながら、茗荷を刻んでいる。俺は、はーいと生返事をして、脱衣室に行った。鏡を見ると顔のいろんなところにクモの巣や土が付いている。蛇口を捻ると、この季節特有のぬるい水が出てきた。六時のチャイムが窓の外から聞こえてくる。集会所のところに大きなスピーカーがあって、六時になると大きな音で町内放送のチャイムが流れるのだ。どこかの飼い犬が、チャイムに誘われて遠吠えをする。つられるようにして、うちの飼い犬のクロキチも吠え出した。外はまだ暗くなりきっていない。ランニングシャツをきたおじさんの自転車が窓の外を走り抜けていった。
台所に戻り、冷蔵庫を開けて、ドアポケットから透明な容器にはいった麦茶を取り出す。左手に持ったコップに乱暴に麦茶を注いで一気に飲み干した。リビングでは姉ちゃんがテレビを見ている。
「かあさん、今日さ、変なの見たんだ。」
「変なの?あんた、また勝手にひとんちに入ってきたんじゃないんでしょうね?」
母さんは、そう言いながらてきぱきとシンクとコンロを行ったり来たりしている。
「あんたね、変なとこに行くんじゃないよ。この間だって、吉沢さんのご隠居がびっくりしちゃってたじゃない。お部屋から外を見てたら、子供が塀のしたからにょっきり出てきて、よく見たらあんただったって。もう、スーパーで吉沢さんとばったり会ってそんな話されるもんだから、おかあさん恥ずかしくって。」
「あれは冒険で、あそこが吉沢さんの家だって知らなかったんだよ。」
母さんは、ぐつぐつと煮え立っている鍋からほうれん草の束を取りだし、ざるにあけながらこっちをキッと見た。
「だれのおうちかなんて関係ないでしょ!勝手にひとんちに入るなっていってるのよ!」
「だから家だと思わなかったんだよぉ。」
「もっと失礼なこと言うんじゃありません。」
あきれたような口調で、ほうれん草を流水で洗っている。
「俺、ほうれん草嫌い。」
「なに言ってんのよ。あれが食べたい、これはやだとかね、そういうのは自分で準備するようになってから言いなさい。」
母さんは、俺に背を向けて鍋から味噌汁をよそいはじめた。
「さぁっ、持っていってちょうだい。」
味噌汁をどんどんと俺の手元に置いていく。母さんが、リビングの方に顔を向けて言った。
「おねえちゃんも、そろそろごはんよ。ごはんよそってちょうだい。」
俺はテーブルに味噌汁や箸を並べながら聞いた。
「まだお父さん帰ってきてないの?」
「まだよ。今日は遅くなるみたいね。先に食べちゃいましょう。」
ごはんと茗荷がはいった豆腐の味噌汁。焼いた鯵。それからほうれん草。一日中外を走り回ってきたので腹がへっていた。
「ねぇ。かあさん、今日さ、変なの見たんだよ。」
俺は、ほうれん草に鰹節をたくさんかけながら言った。ほうれん草は嫌いだけど、鰹節をたくさんかければ食べれるのだ。テレビでは、甲子園のダイジェストをやっている。
「変なの?なに?」
母さんは口では返事をしているが、今日の甲子園の県代表の勝敗が気になってしょうがないようで、目線はテレビに釘付けになっている。
「森のなかで、けむくじゃらのおっきいやつがいたんだ。じっと動かなくって、こっちを見てて、少ししたら森に入って行っちゃったんだよ。」
「ふーん、犬?」
「犬じゃないよ。」
「じゃあ鹿でしょうね。」
「違うよ。」
「あら、甲子園負けちゃったわね。残念。」
母さんはやっぱりあまり話を聞いていない。
姉ちゃんが言う。
「翔太。あんた、あそこの森入ったんじゃないの?アシド工場のところの脇道から行ったでしょ?」
姉ちゃんは勘が鋭い。姉ちゃんの言葉を聞いて母が、こっちを見ていった。
「え?あそこの森には行くなって言われてるでしょ?また、なんでこの子は言うこと聞かないんだろうね。」
俺は、お説教から逃げるために、母さんの小言を聞きながら、残りのごはんを味噌汁で流し込み、食卓を離れた。食器を流しに置いて、玄関に掛けてあるクロキチの散歩用のリードをひっつかんで外に飛び出した。
「クロキチの散歩行ってくる!」
母さんはまだ後ろから何かを言っていたが、こういう時は逃げてしまった方がいいのだ。今日あったことは明日先生に話してみよう。そう思いながら、ようやく暗くなりだした道路をクロキチと一緒に散歩をした。遠くの方からカァーンカァーンと音がしている。
「こんなところまで聞こえるんだな。」
クロキチのリードを握りながら、音の方を見て呟いた。
4
次の日、学校に行くとすでに校庭にたくさんの生徒がいた。一学期のうちに、短距離走、長距離走、走り幅跳びなどの記録をとって、誰がどの種目に参加するかが決められる。俺は長距離走のメンバーだ。校庭の端の方では、先に家を出た姉ちゃんが七八人の生徒と一緒に走り幅跳びの順番を待っているのが見えた。サッカーゴールの近くで、地面にはしごのようなものを置いて、足を高くあげながら走っているのは、短距離走のメンバーたちだろう。その中にヒデオの姿が見える。短距離メンバーから少し離れたところで、大きな声で指示を出したり笛を吹いて合図をしているのが寺下先生だ。今は短距離走の指導をしているが、生徒指導の先生でもある。くせ毛を短く刈り込んだ髪型。年中赤い顔が、今日は特に赤く、汗でぴかぴかと光っている。グランドの照り返しが眩しいのだろうが、目を細めて眉間にシワを寄せているのがさらに人相を悪くしている。少し太った背の高いこの先生には、何度も怒られているので、見つからないように目をそらして歩いた。
グラウンドの真ん中辺りで集まっているのが長距離走の一団だ。長距離走を担当しているのは、小内先生だ。小内先生は、優しい若い女の先生で、みんなからこっちゃん先生と呼ばれている。その一団の方へ歩いていると、ユウキが走ってやってきた。
「翔太、おそいぞ。遅刻だぞ。」
ユウキが注意するように言った。校舎の一番上に付いている時計を見ると、集合時間の九時を十分ほど過ぎていた。近道を歩いてきたはずなのに、道端にいたどこかの家の飼い犬をなでたり、田んぼ沿いの用水路に葉っぱを流して遊んでいるうちに遅くなってしまったようだ。
「まぁ、気にするなよ。」
俺は苦笑いで返した。
「それに俺のとこはこっちゃん先生だ。ちょっとぐらい遅れても楽勝だ。」
「そんなことより、ミヤジーに昨日のこと話にいこうぜ。ミヤジーは今、体育倉庫の方でライン引いてるぞ。」
俺たちは、体育倉庫の方へ駆け出した。ミヤジーというのは、担任の宮嶋先生のことだ。男子たちは、この若い男の先生のことをそれなりに信頼していた。朝、いつもちょっとねむそうに教室に入ってくるのが、親近感を感じさせた。それに、先生は大人のくせに、毎週、サンデーとジャンプとマガジンを買っているらしく、好きな漫画の話をあつく語ることがあった。他の先生よりも、俺たちの言い分を聞いてくれるところが気に入っていた。
グラウンドを駆け抜け、校舎とプールの間の道に入ると、ちょうどミヤジーが体育倉庫から、塗装のはげた赤いラインカーをもって出てくるところが見えた。へろへろになったタオルを首から下げ、額の汗をぬぐっている。
「せんせーい!昨日変なの見たんだよー!」
俺たちは駆け寄りながら大きな声で言った。体育倉庫の近くまで来ると、蒸し風呂状態になった体育倉庫から、むっとした熱気と石灰の臭いが溢れだしてきた。ミヤジーは紺色のポロシャツについた石灰の粉を払いながら、こちらの方を見た。
「おう、おまえたち。夏休みを楽しんでるみたいだな。」
ミヤジーは、汗でずり落ちる眼鏡を手の甲で押し上げながら、笑顔で言った。
「先生、昨日、変なやつにあったんだ。全身が毛だらけ、目がこんなでよ。」
体育倉庫のアルミの扉をガタガタとしめ、グランドに向かって歩くミヤジーの脇について、俺は指で丸をつくって、額の端の方に当てながら説明した。ミヤジーは、「おう」とか「うん」とか言いながら笑顔で話を聞いてくれた。体育倉庫からグラウンドまでの歩く道に、ラインカーから石灰の粉がぽとぽと落ちて白く点々を作っていく。
「気づいたらそいつが立ってたんだ。ずっとこっち見てた!」
俺とユウキが交互に、しかも思い付いたままにしゃべりまくるので、ミヤジーにどれぐらい伝わったのかよく分からなかった。ミヤジーは作業の手を止めることなく、薄くなったグラウンドの百メートルラインをなぞり出した。俺たちは、ちょっと屈みながらラインカーを押すミヤジーのあとにくっついて、昨日の話を続けた。ミヤジーは特に聞き返したりすることもなく、黙って笑いながら聞いているので、手応えがなく、余計に説明の口調を強めてしゃべりまくった。
「そんで、いきなりそいつが走り出して、茂みのなかに入っていったんだよ。」
そこまで話したとき、ちょうどグラウンドの中央の朝礼台の前まで来た。ミヤジーは立ち止まって「いたたた」と言いながら腰に手を当てて、体をまっすぐに伸ばした。野球の顧問をしているミヤジーのがっしりした腕が汗でじっとり光っている。ミヤジーはぼろぼろの朝礼台に寄りかかり、眼鏡をはずして顔の汗を拭いて言った。
「おまえたち、アシド製作工場のところの森に入ったな?」
にんまりと笑っている。
「げ」
ユウキが思わず声を漏らす。森のことはうまく伏せながら話をしたつもりだったのに、甘かったかと思った。ミヤジーは軍手を脱ぎながら、眼鏡の縁から俺たちの顔を覗くように見た。
「おまえたちがあの森でなにか変なものを見たって話は、もう職員室で飛び交ってるよ。武田先生が言っていたからな。」
武田先生は、隣のクラスの受け持ちで、ヒデオの担任の先生である。おそらく俺たちよりもはやくヒデオが武田先生に昨日のことを話したのだろう。森のことは言うなって言ったのについ口を滑らしたに違いない。俺は心の中で舌打ちをした。ここは一旦謝るしかない。
それにしても、職員室でその話が飛び交っているというのはまずい。あの寺下先生の耳にも入っているのかもしれないと思うと気が重くなった。
「森に入ってすいませんでした。」
俺たちは、謝るときの表情を作った。ミヤジーは、大きく溜息をついたが、ふっと微笑むと「あの森に入っちゃいけないよ。」と言った。注意がそれだけで済んだので安心した。
「でも先生、俺たちが森の中で見たのはなんだったんだろう?分かりませんか?」
ミヤジーはまた、ずり落ちる眼鏡を手の甲で押し上げながら言った。
「お前たちが言うような生き物はいないよ。なにかと見間違ったんだろう。少なくとも森の奥の工場から逃げ出した生き物ではないよ。そんな工場も無いよ。」
ヒデオが言ってた変な仮説のことを言っているということがすぐに分かった。先生は、いかにも笑いをこらえているという風にくすくすと笑っている。それが悔しくて、俺はかみつくように反論した。
「それはヒデオが勝手に言ってるだけだ。俺も森の奥にそんな工場があるとは思ってないですよ。」
先生はまだ笑っていたが、幾分真面目な表情を作って答えた。
「そうか。でもな、そいつは大人よりも大きかったって言ったよな?そいつとどれぐらいの距離があったんだ?」
「うーん、あのひまわりぐらい離れてたと思うけど。」
俺は校舎の手前の花壇に咲いているひまわりを指さして言った。するとユウキが口を挟んだ。
「え?そうかな。あの平均台ぐらいじゃない?」
ユウキはもっと遠くの方を指さして言った。すると先生は、大きな声で笑って天を仰いだ。
「ほらな。おまえたち二人でさえ、こんなに違うんだぞ?大きさにしたって正確だと言えるか?突然、森の暗いところから出て目がくらんだのかもしれないだろ。」
「それは・・・」
俺は反論することもできずに、八つ当たりにユウキを肘で小突いた。
「とにかくなぁ、そんな生き物はいないよ。何かと見間違ったんだ。」
ミヤジーはまた眼鏡を直しながら、思い出したように言った。
「でも、佐々木先生はお前たちが変ななにかを見たって話を信じるって言ってたぞ。」
「本当!?」
ユウキが声を弾ませて聞いた。佐々木先生は、50歳ぐらいの女の先生だ。濃い赤い車に乗っていて、四年生の担任をしている。それ以外なにも知らない。堅物っぽい雰囲気だと思っていたけど、案外いい先生なのかも知れないと思った。ミヤジーが続ける。
「あぁ。佐々木先生は、「夢があっていいじゃないですか。」って言ってたよ。」
そう言ってミヤジーはまた笑いをこらえながらくすくすと笑った。結局、佐々木先生も、「信じる。」と言いながら僕たちの話を「夢」だって言ってるんじゃないか。ユウキと顔を見合わせた。これ以上話してもだめそうだという諦めの表情が漂っていた。ミヤジーは一度脱いだ軍手を手にはめながら言った。
「さて、先生は残りのラインを引かなきゃならん。おまえたちもこんな所でさぼってないで、練習するんだ。翔太、お前は長距離走だろ?ユウキ、走り高跳びはあっちだ。さぁ、行くんだ。しっかり練習しろよ!」
俺たちは、追い出されるようにその場を離れた。
「なんだよ。ミヤジーも信じてくれねぇのかよ。」
遠ざかりながらラインカーを押しているミヤジーの背中を眺めながら言った。
「それにヒデオが変なこと言うから、馬鹿にされちまったよ。なぁ。」
ユウキが毒づく。
「とにかくあとでヒデオのとこにも行ってみよう。」
俺たちは分かれて、それぞれの競技のところへ向かった。こっちゃん先生が、遅れてやってきた俺の所にやってきて、微笑みながら言った。
「こらー。遅れてきちゃだめじゃない。」
「はーい。すいませんでしたー。」
俺もへらへらと答えた。
「ちゃんと練習してね。」
それだけいうとこっちゃん先生は戻っていった。去り際に、こっちゃん先生は半身に振り返り、笑いながら
「変な生き物にあったんだってね。」
とだけ言った。
こっちゃん先生にそのことを言われるとは思っていなかったので、驚いた。それ以上に、職員室には、俺らの遭遇したあいつのことを信じてくれる人は本当に一人もいないのかもしれないと思った。
グランドを何周も走らされて陸上の練習は終わった。ユウキと合流して、歩いていると、前の方をフラフラとヒデオが歩いていた。
「おーいヒデオ、待てよ。」
俺たちはヒデオのもとに駆け寄った。
「翔太たちか。」
「『翔太たちか。』じゃないよ。さっきミヤジーに昨日のこと話したけど、信じてもらえなかったよ。お前が変なこというから先生たちに笑われちゃったよ。」
「そうだぞ。なんか俺たちが嘘言ってるみたいな雰囲気になってよ。」
ヒデオは足元の小石をけりながら俯いて何も喋らない。
「ヒデオ?どうした?」
ヒデオは答えずに、リュックサックのひもを神経質にこねくり回している。明らかに元気がない。ヒデオは陸上の練習ごときでばてるようなやつじゃないのに。
「なるほど。お前、短距離だったよな?森に入ったことを寺下先生にえらい怒られたんだろ?あいつが怒るのはいつものことだ。そんなの気にするなよ。」
ヒデオの肩に手を掛けて励ましたが、反応が薄い。
「いや、寺下先生には何も言われていないよ。」
ユウキと顔を見合わせた。ユウキが声のトーンを高くして言った。
「昨日のあいつのことだけど、ミヤジーは見間違いだって言うんだ。そんな訳ないのになぁ!」
当然俺たちは、ヒデオが、あれは見間違いなんかじゃないと言ってくれるだろうと思っていた。それなのに、ヒデオは下唇をぎゅっとかみしめながら首を傾げた。
「いや・・・」
目には戸惑いの色が見える。
「ど、どうしたんだよ。」
ユウキが言う。
「いや、昨日のは、やっぱり見間違いかもしれないよね。」
「なに言ってるんだよ。」
ついあきれたように笑ってしまった。
「俺たちちゃんとあいつを見たじゃないか。」
「でも先生も見間違いだっていうし。よく考えたら、あれって犬だったんじゃない?」
俺はあいつのどっしりした目を思い出した。見上げるような大きさ、太く毛深い足。そして土にめりこんだ足跡。犬なはずがない。それをヒデオも一緒に見たのに。
「俺、ちょっともうこの話はよすよ。工場にももう行かないから。」
そういうとヒデオは歩調をはやめて、一人で帰ってしまった。
「なんだよあいつ。先生に言われたからって、俺たちを裏切るのかよ。」
ユウキが怒りながら言った。俺は、怒りよりも、突然、あれを見間違いだったと言い張ったヒデオになにがあったのか得体のしれない怖さを感じていた。
「あれは見間違いなんかじゃない。」
俺は自分に言い聞かせるように言った。
「あれが犬なはずない。俺たちは見たもんな!」
力強いユウキの声に、俺はしっかりと頷いた。
5
その日の夕焼けは、赤色が空全体を覆い、東の空にまで達していた。 家には父さんと俺だけだった。父さんはさっきまで椅子に座ったまま、おなかの上に新聞を乗せて寝ていたが、目が覚めたようで、また新聞を読みだした。森の中で見たあいつのことを聞いてみようと思った。
「とうさん。」
とうさんは何も言わず、新聞から顔をあげてこっちを見た。大きな扇風機が首を振って、父さんの方に向くたびに、新聞紙がぺらぺらとなびいた。
「この間、森の中でへんなやつを見たんだ。背が大きくてね、父さんより大きかったよ。足が太くって毛が生えてて、手はこんな感じ。」
俺は手を胸のあたりに折りたたんで説明した。
「目がこう、ここら辺にあった。」
指で丸をつくって、額のあたりにあててみせた。父さんは、新聞を下ろし、頷きながら話を聞いている。
「森のちょっと奥の方の、広くなったところにいたんだ。ずっとこっちを見てて、動かなかったよ。でも、最後は茂みの中に入っていったんだ。」
うまく話せたか分からなかった。父さんは少し考えているようだ。
「見たことがなかったよ。あいつ。動物園にもいないと思うよ。でも誰も信じてくれないんだよ。先生に言っても犬だろって言われるし。」
父さんは、ようやく低い声で言った。
「なんだかラマクみたいだな。」
「ラマク?」
聞いたことの無い名前に心が踊った。父さんはニコニコと微笑み、立ち上がった。
「そうだ。ラマクだ。もうここら辺にはいないと思っていたけどな。」
そういいながら本棚までぺたぺたと歩いていった。父さんは本棚をぐるりと見渡すと、上の方にあった本を一冊取り出した。
「見てみろ、これがラマクだ。『良馬喰』でラマク。」
その本にはラマクの絵が載っていた。写真の横の説明書きを、父さんが指でなぞりながら読んでくれた。
「東北地方に生息していたが、1960年以降、数が激減し、絶滅危惧種に指定されている。現在は、北海道の一部で生息が確認されている。かつては福を呼ぶ一方で、いたずらをして人を困らせると考えられていた。」
「どうだ?似ているか?」
僕の伝説上の生き物を見つけたようでうれしかった。しかし、絵をよく見ると一瞬のぬか喜びであったと気づかされた。そこに載っているのは、似ているとも似ていないとも、判断のつかない生き物だった。
「似てるような、似てないような。こんな角は無かったけど。」
「そうかぁ」父さんは残念そうに本を閉じた。
「ラマクはな、元々は東北にいたスサブチ族が神様の使いとして崇めてた。そのなごりでラマクを祭ってる神社だってあるんだよ。」
ずっと遠くから、あたり一面真っ赤な空に、キェェェンという音が響いた。まるで男の人の叫び声のようだった。驚いて網戸に近づくと、また、キェェェンと聞こえた。
「あぁ、珍しいな。アラハキジの鳴き声だ。」
父さんが言った。急ブレーキを掛けたような、喉を縦に引き裂いたような鳴き声が、赤い空に響き渡った。網戸から吹き抜ける風と一緒に、部屋の隅によどみのような不安感が忍び込んでくるようだった。
6
夜、寝付けずにベッドの上をゴロゴロとしていると、考えたくも無いのにミヤジーやこっちゃん先生やヒデオのことが頭の中を駆け巡った。誰に見間違いだとか勘違いだと言われたって、この目ではっきりと見たものを、無かったことになんかできるか。ユウキと二人だけになってしまったとしても、絶対に俺は見たんだ。そう思うと、だんだん腹が立ってきた。こんなにむきになってしまう理由が自分でも分からなかった。かけていたタオルケットが急にうっとうしく感じられて、蹴っ飛ばし、また寝返りを打った。
その時、半開きになっているブラインドの隙間が青白く光っていることに気づいた。何かに照らされているのだろうか。床に、ブラインドの影がストライプの模様を作っている。細長く床に落ちた白い光の束以外は黒く、そこが壁なのか天井なのか、それともその先まで夜が続いているのか見当がつかないようだった。俺は、窓の方に目を凝らしながら、つい体を起こして、しずかに、片足ずつフローリングに足を下ろした。窓辺に近づいて、ブラインドの羽に指をかける。金属の薄い感触が指に伝わった。外を覗くと、それは、見たこともない月明かりであった。隣の空き地の草も、焼却炉の煙突も、庭の踏み石も何もかもが照らされてはっきりと見えた。となりのおばあちゃんが暮らしている平屋の屋根が青白く照らされているのを見降ろしていると、別の家を見ているような、もしくは、窓の外の景色が、いつもの世界とそっくりなだけの別の世界と入れ替わったような気がした。遠くから車のような黒い塊が走ってきて、ヘッドライトの黄色い色が俺の目を差した。
二階のこの部屋まで、真っ黒い奇妙な形の腕をガクガクと広げて伸びあがっているのは、桜の木であった。キョキョキョキョという変な鳴き声の鳥が、黒い空にもっと黒いシルエットで飛んでいる。数本の桜の木の向こうに、リンゴ畑がある。
その時、リンゴの木の間を、ゆっくりと何かが歩いているように見えた。木の幹に寄りかかってもぞもぞと動いているようだ。葉っぱの陰に隠れてよく見えないが、大きさは大人よりも大きい。まさか、森のあいつがやってきたんじゃないだろうか。俺は急いでブラインドをあげて、窓を開け、身を乗り出してその正体に目を凝らした。坂の上の方から強い風の塊がどうっと吹いて、リンゴの木の枝を大きく動かした。俺は息を呑んだ。思わず、窓の縁を掴む手に力が入ってしまう。木の根元の短い草が照らされ、いよいよ月の光が幹に届く。そう思った時、
「ゴトンゴトンゴトンゴトン」
貨物列車の音が響いた。
俺はその音に気を取られたのだろうか。気づいた時、風は止み、リンゴの木の傍らにはもう何もいなかった。夏の虫の声を聞きながら、俺はまだしばらくリンゴの畑が月明かりにてらされるのを見つめていた。
7
俺とユウキとシュウは野根地区にある廃校に忍び込むことにした。秘密基地にしていた廃トラック置き場を追い出されたので、新しい場所が必要になったからだ。この廃校は旧野根小学校と言った。野根小学校と隣の福道小学校が合併して、今、俺たちが通っている小学校になったらしい。木造2階建ての校舎で、外壁の塗装は剥がれ、木の素地が見えている。大きく育ったケヤキの気が、校舎の屋根に覆いかぶさって、日が当たらないのだろう。そこだけ、びっしりと苔が生えていた。
俺たち三人は、あたりを気にしながら、校舎のまわりをぐるぐると回って、調べてみたが、扉という扉は固く閉められており、どこも開かなかった。なので、俺たちは窓ガラスを割って侵入するしかなかった。このあたりは人通りが少ないとはいえ、正面のガラスを割っては目立ち過ぎる。校舎の裏側は、崖のように急な斜面になっていて、下には、牛舎が見えた。トラクターにのったおじさんが、牛舎の周りをなんども行ったり来たりして、牛の餌を運んでいるようだ。
いろいろと口論はあったのだが、結局、いいだしっぺということで、俺が石で窓ガラスを割る係、ユウキが牛舎のおじさんを見張る係、シュウが校舎の正面側を見張る係になった。
俺はしゃがんで二人からの合図を待った。ずっと牛舎の方を見ていたユウキは、興奮の入り混じった表情の顔をこちらに向け、「いけ!」の合図をする。シュウの方を見ると、シュウも「だれもこないぞ」と合図をした。俺は素早く立ち上がり、手に持っていた石を頭の上ほどにある窓ガラスに強く叩きつけた。細い桟で仕切られた40センチ角ぐらいのガラスは思ったよりも薄く、簡単に割れた。パン!カシャーン!という音が、からっぽの校舎に響いた。ここからはスピード勝負だった。ユウキとシュウも駆け寄ってきて、みんなで手早く桟に残っているガラスを取り除いた。
「よし、いけ!」
ユウキが小さな声で鋭く言い、両掌を重ねて、右膝の上に置いて、窓の下で姿勢を低くしてスタンバイした。俺は頷き、ユウキの手のひらに足をかけると、飛び上がって校舎のなかに滑り込んだ。今度は、俺が窓から体を伸ばして、飛び上がるユウキを引き上げた。シュウも引き上げてやろうと思ったが、背が低いシュウは、すぐにあきらめて
「俺はあたりを見張ってるから、ふたりでどこか開けられそうな扉を探してくれ!」
と言った。
俺とユウキは校舎の中を歩いた。いつ廃校になったのか知らないが、床には白くほこりが溜まり、足跡がくっきろついた。歩くたびに、侵入した証拠を刻んで行くようで少し怖くなった。それでも俺たちは校舎のなかをうろうろと歩き回り、話をした。
「なぁ、ユウキ、この間の森のなかのあいつのことなんだけど。」
俺は前を歩くユウキに声をかけた。ユウキは今は使われていない教室を覗き込みながら言った。
「うわぁ。黒板に『さようなら」?って書いてある。」
「この間の森のあいつのこと、父さんにも喋ったんだ。」
ユウキは何も答えずに廊下を歩いていく。ミシミシと床が鳴っている。
「父さんに言ったら、ラマクじゃないかって言うんだ。ラマクってのは・・・」
ユウキが話を遮って声を出す。
「こっちの教室は散らかってるなぁ。昔のポスター貼ったままだ。」
「ラマクってのは・・・」
「昔のポスター怖すぎ!」
「おい!ユウキ、話聞いてくれよ!」
ユウキはなぜか俺の話を聞こうとしない。それに腹が立って、俺はつい大きな声を出した。ようやくユウキが俺の目を見た。口元には強引に作り笑いを浮かべ、気だるそうに言った。
「聞いてるよ。何だよ。」
「『何だよ。』じゃないだろ。この間の森のあいつのこと気にならねぇのかよ。」
ユウキはその質問には答えずに、こっちを見ている。俺は一度大きく息を吐いて、腹が立つ気持ちを抑えてから続けた。
「だから・・・ラマクってのは、絶滅危惧種で、この辺りにはもういないはずなんだ。本に書いてあるラマクの絵を見たけど全然俺たちが見たのとは違ったよ。」
ユウキは、また俺に背を向けて先を歩きだした。俺はユウキの背中に言葉を投げつける。
「それに、この間、夜中に外を見たらさ!リンゴの木の下に何かいたんだ!大人より大きかった!」
先を行くユウキの歩調が少し早くなった気がした。俺との距離が遠くなっていく。俺は構わずに続けた。
「もしかしてこの間のあいつが来たのかもしれない!木の下でもぞもぞして、こっちをみていたのかもしれないんだぞ!」
なぜユウキは答えてくれないのか。俺はなぜ追い詰められたような気分になっているのだろうか。
「なぁ!俺たちが見たあいつ!二本足で歩いてたよな!?ラマクは四本足なんだ!だから俺たちが見たのは・・・俺たちが見たのは!」
ユウキが突然振り向いた。
「翔ちゃん。」
俺を呼ぶ声は妙に落ち着いているようだったが、俺には分かる。その声が無理やり作っている声だってことぐらい。
「翔ちゃん。悪いけど、その話はもうやめよう。」
目の前にいるユウキが別人のようだった。空の校舎が静まり返っている。「なんで」
喉になにかねばねばしたものが張り付いて、声がそれ以上でなかった。
「あれはやっぱり見間違いだったんだよ。そうだろ?」
「いや・・・だって・・・お前までなに言ってんだ?この間、絶対、見間違いじゃないって言ってただろ?」
「言ったよ。でもよく考えろよ。あんなに遠くにいたんだ。正確には分からないだろ?それに突然明るいところに出て、目が眩んで・・・」
「ミヤジーの言ってたことをそのまま言ってるだけじゃんか!」
「違う!帰ってからちゃんと考えたんだ。」
「なんだよそれ。それでなんだ?お前まで『あれは見間違いでした』ってのか?」
「そうだよ。ありゃ犬かなんかだ。大きな犬だ。」
「あんな犬いるかよ。あんなに足が長い犬いないだろ!」
「でも、翔ちゃんが見たリンゴの木の下のやつって、それこそ見間違いじゃないのか?はっきりと見えたの?」
「・・・はっきりとじゃない。夜だし、良く見えなかったけど。」
なぜユウキは俺の言うことを信じてくれないのだろう。一緒に廃校に忍び込むような仲なのに。
「だろ?翔ちゃん、あれは見間違いだったんだ。リンゴの木の下のやつだって、気のせいだよ。」
悔しいけどその通りだった。俺はユウキの顔を睨みつけた。
「とにかく、俺はもうその話したくないんだ。」
「でも・・・」
ユウキはまだ続けたがる俺の目をじっと覗き込んできた。
「分かったよ。最後にこれだけ答えろよ。あいつは二本足で歩いてたよな?手は胸のとこにこうして丸めてたよな?」
俺は胸の前で手を折りたたんで見せた。ユウキは、ふっと笑って答えた。
「なに言ってるんだよ、翔ちゃん。あれは犬だぞ?犬は日本足では歩かないよ。」
ユウキはそう言って踵を返すと、ミシミシと廊下を歩いて俺から遠ざかっていった。俺は暫く立ち尽すばかりだった。廊下を曲がったあたりに、たまたま鍵がかけられていない扉があったのか、ガラガラと重い音がした。
8
明日で夏休みはもう終わりだ。ほとんどの宿題は何とか終わらせたが、読書感想文だけが残ってしまった。夏休み前に注文袋が配られて購入した推薦図書が、まったく面白くなくて、最後まで読むのを諦めてしまった。これでは読書感想文が書けないので、「銀河鉄道の夜」を読んでみた。話の筋は推薦図書よりも分かりやすかったけど、漠然とした読後感にひたるばかりで、感想といえるようなものは出てこなかった。テーブルの上に原稿用紙を束ねて置いて、少し書いては消してをくりかえしていると、原稿用紙はぼろぼろになり、鉛筆削り器が削りカスでいっぱいになっていった。俺は、とうとう諦めて畳の上でごろごろと寝転がって、網戸の向こうの景色を眺めていた。時間はもうそろそろ夕方だ。扇風機がしずかに首を振って、テーブルの上の憎たらしい原稿用紙を吹き飛ばしたようだ。
今日は、近所の荒木目神社のお祭りだ。俺は朝の九時ごろから三時ごろまでたっぷりお祭りを堪能した。毎年、夏休みの終わる直前に開催されるこのお祭りが、いわば俺たちにとって宿題の進捗状況のまずさ加減を現す一つの目安みたいになっている。去年は、宿題がまったく終わっておらず、ほとんどお祭りに行くことができなかった。近所の子供たちが、俺の家の前を通って神社に行く声を聞きながら、宿題をやった。町内のみんなが演奏する太鼓と笛の音が鳴りだしたらもうちょっとでお祭りはお開きということになるのだが、父さんが俺をかわいそうに思ったようで、最後の一二時間だけお祭りに行くことができた。
今年は、去年に比べると、あとは読書感想文を書くだけなので、かなりのハイペースで宿題を進めてきたということになる。そう思うととても誇らしい気分になった。
日が暮れるころ、母さんの提言で、みんなでお祭りに行こうということになった。父さんはお祭りの実行委員なので、家にはいなかった。そこで、母さんと姉ちゃんと俺の三人で家を出て、荒木目神社に向かった。三人で並んで歩くのは久しぶりだった。
荒木目神社では、参道に沿って屋台が並んでいる。裸電球をつないだような照明がついていて、昼間に来るのとは違う趣があった。俺は、母さんにお願いして緑色に光るブレスレットを買ってもらった。姉ちゃんはピンク色のを選んでいた。母さんは、夜ごはんのおかずにと、屋台の焼き鳥とお好み焼きを買っていた。チョコバナナも買ってもらい、あたりをみながらぶらぶらと歩いていると、正面からミヤジーと佐々木先生が歩いてくるのが見えた。腕には小学校の名前が入った腕章を付けている。ミヤジーと会うのは、陸上大会の練習の日ぶりだった。
「おー翔太!来てたか。あ、お母さん、こんばんは!」
ミヤジーが大きな声で俺と母さんに挨拶をした。俺の「こんばんは」の声をかき消すように母さんが話し出した。
「あら宮嶋先生、こんばんは。ご苦労様です。巡回ですか?」
「そうなんですよ。この荒木目神社のお祭りは小学校の生徒たちはみんな楽しみにしてますからね。危険なことがないか私たちが順番に巡回しているんですよ。」
ミヤジーは母さんに話をしながら、俺の方を見た。目線が合うと気づまりが気がした。森で会ったあいつを先生が信じてくれなかったからというのもあったが、もっと大きな理由は、あれから遊ばなくなったヒデオとユウキのことを思い出してしまうからだった。
「大変ねぇ。本当にお疲れ様です。まだこの時間でも子供だけで遊んでる子もたくさんおりますからねぇ。」
母さんが思い出したように続けて言った。
「それはそうと、いつもうちの翔太がご迷惑をおかけして申し訳ございません。家でも言って聞かせてるんですが、すぐ『冒険、冒険』って言って変な所に入っちゃうんですよ。」
ミヤジーは大きな声で笑ってから答えた。後ろに立っている佐々木先生もくすくすと笑っている。
「あっはっは。そうですね。翔太はすぐに『冒険』が始まっちゃうからなぁ。」
ミヤジーは俺の方に向き直って言った。
「あれからアシド製作工場のところの森に入ってないだろうなぁ?」
少しからかうような表情だった。俺は、小さく「はい」とだけ答えながら頷いてみせた。
「本当に申し訳ございませんね。この間もあの森に入ったみたいで、しかも帰ってきたら『変なのがいた』って騒ぎますしね。本当にこの子ってのは!」」
母さんはあきれた表情を作って俺を睨んだ。
「えぇ。私も聞きましたよ。『森で変なのを見た!』ってね。」
ミヤジーは俺の真似をしているつもりなのか『森で変なのを見た!』と喋る時だけ、ふざけたような声色を出したので、俺は腹が立った。
「あらやだ。あんた先生にまで言ったの?そんなこといちいち先生に言わないでよ。いやぁねぇ。そんなの見間違いに決まっているじゃないの。犬?鹿?熊だったらすぐに逃げなさいよ!危ないんだから。」
先生は、汗でずり落ちる眼鏡を直しながら言った。
「私も見間違いだって言ったんですがね。本人は見た気になってますからね。」
「そうなんですよ。本当に見た気になってますからね!ほほほほ。」
ミヤジーと母さんは一緒に笑い出した。佐々木先生も、常に同意するようにうなづきながら後ろの方で笑っている。楽しい気分が台無しになってしまった。俺は、怒りながら言った。
「なんだよ、みんなで寄ってたかって。俺は本当に見たんだ。森を抜けた空き地で、あいつを見たんだ。二本足で歩いて、手を胸のところに折りたたんでて、足がけむくじゃらで、背は大人より高かったんだ!本当だ!なんでだれも俺の言うことを信じてくれないんだ。」
俺が本気で言っているのをみて、先生と母さんは目をぱちくりとさせ、顔を見合わせている。
「それにこの間、夜に起きたら、外のリンゴ畑のなかにあいつがいたんだ!」
「あら、この子ったらまた・・・。困ったわねぇ。」
母さんはそう言いながらミヤジーと佐々木先生の方をちらりと一瞥してから、俺に言った。
「なにをまた言っているの?リンゴの畑のなかになにかいたって・・・。なにがいたっていうのよ。空想のおはなしでしょう?」
「空想じゃない!本当にいたんだ。」
楽しいお祭りのなかで、俺たちのまわりだけ異様は雰囲気になっていた。母さんはこれ以上、俺を責める気はなく、だれも何も言わなくなった。境内の方から笛や太鼓の音が聞こえてきた。ミヤジーと佐々木先生はそれをきっかけに、
「では私たちは巡回がありますので、これで失礼します。」
と言って境内の方へ歩いて行った。
俺は、帰る道中、気が収まらなかった。どうにかしてあいつの正体を確かめたい。見間違いではなかったという証拠が欲しくなっていた。それには、あの森の奥の空き地に行くしかないような気がしていた。
「母さん、俺、先に帰る!」
俺は母さんと姉ちゃんを置いて走り出した。もう日は暮れているが、今、行かなくてはいけないと思った。俺は走った。お祭り帰りの浴衣の親子を二組ほど追い越し、家に着くと、靴箱のなかから赤い大きな懐中電灯を持って、家を飛び出した。
住宅街を抜け、小川の横を走った。懐中電灯は大きく重い。走るリズムに合わせて、なかの乾電池が揺れるのか、カラカラと音がした。アシド製作工場のところまでやってきた。フェンス越しに見える限りでは誰もいないようだった。工場の明かりも消えている。
フェンス脇の砂利道を走り、斜面を登り、森に入った。懐中電灯の大きなゴムのボタンを押すと、その筐体の大きさに似つかわしくない程の弱々しい光が足元を照らした。
俺は慎重に進んだ。この森に来たのがずっと昔のことのように感じた。不意に背の高い草が顔に当たった。懐中電灯めがけて飛んできた虫が、顔の周りを飛び回る。でもそんなことはたいして気にならなかった。ぼんやりとみんなに言われた言葉が頭のなかでこだましていた。少しずつ、俺の記憶さえも潮の満ち引きのように浸食されていくような気がして、さらに足を速めた。
「俺は見たんだ。『あいつ』を俺は見たんだ。」
ようやく、あの茂みのトンネルまで来た。俺は迷わずに頭を低くしてトンネルにもぐりこんだ。トンネルの中はさらに暗く、懐中電灯の弱々しい光だけが頼りだった。なかごろまで進むと、木々に囲まれたあの狭い草原のちょうど『あいつ』がいたあたりに光るものが見えた。血液が逆流するような感覚が全身を駆け巡り、体の中から血が流れる音が聞こえるようだった。
「やっぱり『あいつ』がいるんだ・・・。」
気づかれないように、懐中電灯を消して、しずかにトンネルの出口まで歩いた。月明かりもない夜、遠くで緑色の光がゆらゆらと動いている。よく見ると、その光は二つあって、離れたり近づいたりしている。風が吹いて、そこらじゅうの木の枝が揺れ、ざわんざわんと音がした。秋の虫が鳴いている。その音に混じって、二つの光の方から甲高い声が聞こえてきた。その声に別の声が答えている。何を言っているかはわからないが、どちらの声も聞き覚えのある声だった。俺は、ゆっくりとトンネルから出た。すると二つの光は、こちらに気付いたのか、「しっ」という短い声を合図に、光の動きも声もぴたりと止まった。俺は、二つの光の方に懐中電灯を向けた。そこにいたのは、やっぱりヒデオとヒデユキだった。二人ともお祭りで買ったであろう緑の光るブレスレットをしていた。
「お前ら・・・ヒデオか?」
二人はこっちを見てまぶしそうに眼を細めている。
「ここでなにしてるんだ?」
「なんだ、翔太か。びっくりさせるなよー。」
ヒデオそういいながら、大きく息を吐いた。
「まぶしいなぁ。」
甲高い声。ヒデユキだ。
俺は懐中電灯を下げ、足元を照らした。
「なにやってるんだよ。こんなところで。」
思いがけず俺の声には緊張感が混じっていた。
二人は答えない。
「あいつを探しに来たのか?」
俺は重ねて聞いた。さっきよりも声が大きくなってしまった。
「そうなんだろ?お前らもやっぱり見間違いだなんて言ってたけど、ちがうよな?ここであいつにあったこと覚えてるんじゃないか!」
「そうじゃないよ。」
ヒデオがイライラしたような口調で言った。
「そうじゃない。あの時、落とし物をしたんだ。」
「うそだ!あいつとあったことを覚えてたから来たんだろ!?」
「ちがうちがう!ちがうよ!本当に落とし物をしたんだ。」
「何を落としたんだよ!言ってみろよ!」
ヒデオがこっちをにらんでいる。口をぎゅっと結び、両手が次の言葉を探すようにせわしなく小刻みに動いている。
「それは」
唾をのんだのか、のどぼとけが動いた。
「それは、言えない。」
「言えないって?本当は落とし物なんかないから言えないんだろ!?」
ヒデユキは何を考えているのかよく分からない顔でじっとこちらを見ている。俺は急にヒデオと言い争いになっていること自体が嫌になった。
「ヒデオ、頼むよ。なんなんだよ。俺たち、ここであいつを見ただろ?なぁ?」
ヒデオが答えずに、短い沈黙が流れた。弱々しい懐中電灯の光がゆらゆらと、まるで潮の満ち引きのように揺れた。
ヒデオが口を開いた。
「犬がいるのをみたよ。俺たちは。」
ヒデオが言う『俺たち』に、俺は含まれているのだろうか。俺は急にどうでもよくなって、のろのろと踵を返した。
「そうかよ。分かったよ。」
低い雑草の上を、ざうざうと足を引きずりながら歩き、トンネルをくぐった。森の枝がざわんざわんとなっている。遠くからカァーンという音が聞こえた。俺はそのまま振り向くことなく森を出た。
9
「数年ぶりの実家だ。いいねぇ、のんびりしてて。」
真夏の空を見上げながら、翔太が大きな独り言のように言った。
「何言ってんのよ。年に一回ぐらいは帰ってきなさいよ。」
母の喜美江が、洗濯物をたたみながら言った。
「仕事が忙しくてね。まだ下っ端だから、こき使われてるってわけよ。」
翔太は昔と同じように、冷蔵庫のドアポケットから取り出した麦茶をコップに乱暴に注いで一気に飲み干した。エアコンの風が涼しい。
「あんたいつまでいるの?お墓参りは明日行くからね。それと、お父さんが仏壇の灯篭出しとけって言ってたわよ。」
「あー実家でもこき使われるのかー。」
「久しぶりにお盆に帰ってきたんだから、それぐらい黙ってやりなさい!」
喜美江が笑いながら言った。
「父さんは?」
「なんかの集まりよ。今日は遅くなるって。」
その時、リビングの扉がいきおいよく開いた。
「翔太おじちゃん!」
「おー!リクト!大きくなったなー。さすが年長さんだなー!」
翔太は、甥っ子を抱き上げる。遅れて由紀子がリビングに入ってきた。大きくなったおなかを抱えるように慎重に歩いている。由紀子のおなかの中にはリクトの妹がいるのだ。
「おかえり。今着いたの?」
「ただいま。今着いたところ。リクトは大きくなったな。ずいぶんと重くなって。」
翔太はリクトを床に下ろした。
「クラスでも大きい方だからね。リクト、よかったね。翔太おじさんがたくさん遊んでくれるってよ。」
由紀子がリクトの顔を覗き込むように言う。リクトは翔太の足元でぴょんぴょんと飛び跳ねながら、満面の笑みを翔太に向けている。
「翔太、私こんなだから、あんまり体を使って遊べないのよ。悪いけど一緒に遊んであげてちょうだい。」
翔太はリクトの頭をなでながら言った。
「よし!じゃあ公園行くかー!」
公園は、翔太が小学生のころにできた遊具は老朽化のためすべて取り壊され、新しい遊具に置き換わっていた。翔太は、大きなトランポリンやブランコで夢中で遊ぶリクトを見ながら、自分の小さいころを思い出していた。由紀子に言われていたように、こまめに休憩して、リクトに水筒の氷水を飲ませることを怠らなかった。
「リクト、来年から小学校だね。」
二人は東屋のベンチに腰掛けながら話をした。リクトは水筒を両手で持って氷水をごくごくと飲んでいる。
「うん。小学校って楽しみ。」
「小学校はたのしいぞー。おじちゃんは小学校が好きだったな。みんなで遊んでさ。この公園も小学校のころよく来たよ。」
「そんなに昔からこの公園あるの?」
リクトが不思議そうに尋ねた。
「あぁそうだよ。ずーっと前からあるんだ。」
そういいながら、翔太はあの夏のことを思い出していた。翔太は、あの夏休み以降もヒデオともユウキともずっと友達であり続けた。ユウキとは修学旅行の班も同じだった。中学校に上がってからは部活が別々になってしまったからか、みんなそれぞれの部活仲間が生活の中心になっていった。今はほとんど連絡も取らないが、友達であることに変わりはないと思っている。
それでも、翔太は「あの夏」のことを思うと、じんわりと広がる苦みのようなものを感じずにはいられなかった。
夕方、汗をかいたリクトがリビングで寝ている。
台所では喜美江が夜ご飯の支度をしている。
「ねぇ母さん。昔、小学校のころにさ、俺が森の中で変なやつに会ったって話したの覚えてるか?」
喜美江はザーザーと流水でキュウリを洗いながら答えた。
「覚えてるかって?覚えてるに決まってんでしょ。みんなに見間違いだって言われたのが悔しくって、夜に一人で森のなかに入って行って!行方不明になったと思ってみんな大騒ぎしたじゃない!」
「そうだっけ?夜に森に行ったのは覚えてるんだけどな。」
翔太は、あの夜、一人で森に行ったことを思い出そうとしたが、走るたびに懐中電灯がカラカラなっていたこと以外は、うまく思い出せなかった。
「あんたのベッドはもう準備しといたからね。二階の部屋使いなさい。置きっぱなしの荷物も上に持って行ったら?」
翔太は、うんとだけ答えて、和室に置きっぱなしにしていた自分の荷物を持って二階に上がっていった。
かつての翔太の自室は、喜美江たちが少しレイアウトを変えていたが、おおよそ昔のままであった。西日が窓から差し込んでいる。翔太は、レースのカーテンを閉めた。天井にいつの間にかできたシミが、時間の経過を感じさせた。本棚には、小学校の頃に買った漫画本や、中学校の授業で作った時計が置かれている。窓を開けると、夏の夕方らしい蝉の鳴き声が聞こえてきた。部屋は、エアコンがついていないので蒸し暑かったが、窓をあけて扇風機を回すといくらかマシになった。色褪せたカーテンが風になびいた。
翔太は自分のベットに腰掛け、窓の外のリンゴ畑を眺めていた。
「あの時、あいつを見たんだよな。結局、正体はわからずじまいか。」
夕ご飯の準備の手伝いでもしようかと思い、翔太は立ち上がった。電気を消し、部屋を出かかった時、翔太は違和感を感じた。階段を降り、台所にいる喜美江に、その違和感をそのまま伝えた。
「かあさん、俺の部屋って昔ブラインドじゃなかったっけ?」
喜美江は、年をとっても変わらない手つきで、煮立った鍋に刻んだ野菜を入れていく。湿度の高い湯気。いい匂いがする。喜美江が間延びした声で答えた。
「この家が建った時からずーっとあのカーテンよ。」
翔太は何かを思い出そうとしたが、何を思い出したいのかすら分からなかった。
「・・・・・そうか。」
カーテンだったよな。翔太は呟いた。
外では町内放送の六時を知らせるチャイムが、カァーン、カァーンと鳴り響いていた。
おわり