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雲の上の仕事

    あらすじ
    有名大学に通う翔は、要領がよくて挫折を知らず、将来は大手企業に就職するつもりでいる。彼は明確な将来の夢を持つ恋人に引け目を感じ、彼女と距離を置くため、夏休みを利用して北アルプスの山小屋で住み込みのバイトをする。標高2800メートルでの生活は驚くようなことばかり。最初は山小屋の仕事を「誰にでもできるやりがいのない仕事」と見下していた翔だが、ヘリや水揚げ、歩荷などの業務を経験し、次第に山の仕事にリスペクトを持つようになる。仲間たちとの交流や山小屋での日々を通して、少しずつ素直になっていく翔。そして下山前日、レスキューが発生する。

    「それ、下山したらすぐに治るよ」

    椅子に座って店番をしながらさかむけをいじっていたら、上から香穂ちゃんの声が降ってきた。売店のペットボトルの補充に来たのだろう、段ボール箱を抱えている。

    「さかむけ、下山したら治るんですか?」

    「うん。山は酸素が薄いからなかなか傷が治らないの。下界に下りたら一発だよ」

    そういえば、このさかむけができたのはいつだろう。ずいぶん治りが遅い気がする。

    「酸素薄いの、あんまり感じないんですけど」

    「それは翔の身体が高度順応してるからだよ。下山したら全力でダッシュしてみ。ぜんぜん息切れないから」

    標高2800メートルの場所にあるこの山小屋でバイトを始めて2週間。自覚はないが、身体は変化しているのかもしれない。

    ここは北アルプスにあるとある山小屋だ。登山口からは7時間、山頂までは10分。そこまで規模の大きな小屋ではなく、スタッフは自分のような短期バイトも含めて7人。俺は大学が夏休みの間、7月から9月半ばまで働く予定だ。

    当たり前だが、車で来られる山ではない。ここにたどり着くためには、急登の登山道を4時間ひたすら登り、その後、多少アップダウンのある稜線を3時間ほど歩かなければならない。周りにお店なんてあるはずもないので、食料などの物資はすべてヘリで運ぶ。電気も自家発電だ。

    山小屋は登山者のための宿泊施設だ。しかし、下界(山の人は街のことをそう呼ぶ)のホテルと比べると、建物もボロいし接客もラフだ。それでもお客さんは喜んでくれる。山では、温かいご飯が食べられること、屋根のある場所で安全に眠れることに価値があるらしい。

    香穂ちゃんが冷蔵庫にジュースを補充する。頭のてっぺんの大きなお団子がぴょこぴょこ揺れる。香穂ちゃんはここの一番古株のバイトで、今年で30歳になると言っていた。大学2年生の俺とは10歳も違うけれど、みんなが香穂ちゃんと呼ぶので、そう呼んでいる。

    木製の引き戸がガラリと開き、ドアに取り付けられているドアベルが鳴った。中年の男性客が、疲れと安堵の交じった顔で入ってきた。

    「こんにちはー」

    俺と香穂ちゃんの声が重なる。この小屋では、「いらっしゃいませ」ではなく「こんにちは」と声をかけるのがルールだ。

    「いやぁ、やっと着いた。最後の登りでバテバテだよ」

    「お疲れ様です。ご宿泊ですか? こちらの用紙にご記入をお願いします」

    宿泊受付を行ってお会計をし、部屋を割り当て、食券を渡し、注意事項を伝える。

    「翔、すごいじゃん。たった2週間で受付マスターするなんて」

    お客様が部屋へと向かったあと、香穂ちゃんが言う。

    「いや、誰でもできますよ」

    そうじゃないことを俺は知っている。俺と一緒に入った同期のえっちゃんと仁菜はまだ宿泊受付をマスターしていないからだ。

    自分で言うのもなんだけれど、俺はたいていのことは一度教わればできる。要領がいいのだ。子どもの頃からずっとそうだったし、この先のインターンや就活も、うまいことやっていくのだろう。

    「そうかな。翔は覚えるのが早いよ。私は最初の頃、こんなにテキパキできなかったもん」

    香穂ちゃんは仕事ができるし、基本的には優しくて面倒見がいい。接客態度も誠実だ。けれど、下界の接客に慣れている俺からすると、どこか違和感がある。

    しばらく一緒にいるうちに気付いた。香穂ちゃんは、愛想笑いを一切しないのだ。けして不機嫌ではないし、笑うことも多いが、接客業特有の作り笑いを一切しない。そのせいか、ときたまドキッとするほど厳しく感じるときがある。

    たとえば、山小屋に来た初日、俺は山小屋にゴミ箱がないことを知らなかった。「持ち込んだものは持って帰る」という山のルールは知っていたが、山小屋はサービス業だから、ゴミくらい引き取ってくれるだろうと思っていたのだ。

    俺と同じように考えたのだろう、あるお客さんが、持ち込んだお菓子の空き袋を香穂ちゃんに「これ、捨てといてよ」と渡そうとしたとき、香穂ちゃんは毅然と言い放った。

    「ご自身で持ち込んだものはお持ち帰りください。山のルールですから」

    静かな口調だったが、あまりにも毅然としていたので、強く印象に残った。この人と比べたら、俺は常日頃、どれだけの愛想笑いをしているだろう。

    そんなことを思い出していると、またドアが開いた。30代くらいの男性客が肩で息をしながら駆け込んでくる。

    「こんにちは」

    「あの、さっきそこで、クマを見かけて。登山道からは少し離れていたんですけど」

    男性は興奮したように言った。俺の背後で、香穂ちゃんがすっと立ち上がる。

    「それはびっくりしましたね。近かったですか?」

    「自分から10メートルくらい離れたところに」

    「小屋の西側の斜面ですよね。そうなんですよ、目撃情報もよく上がっているんです。なんせ生息地域なので……」

    香穂ちゃんがあまりにも平然と言うので、俺もお客様も言葉を失ってしまった。

    「人が多いときは、小屋周りや登山道には現れないと思います。もし一人でいるときに遭遇したら、声を出さず、目を逸らさず、そのまま後ずさりしてください」

    「そんな……」

    そのお客様の宿泊受付を終えて、香穂ちゃんと二人になったとき、聞いてみた。

    「ここ、クマ出るの?」

    「そりゃあ出るよ。山だもん」

    「さっきのあれ、声を出さず、目を逸らさず、そのまま後ずさりって……。実際にクマに遭遇したとき、そんなに冷静でいられる?」

    「難しいねぇ。私がクマに遭遇したときは、テンパって『うわぁ!』って大声出して、背中見せて逃げちゃったよ。追いかけてこなくてよかったぁ」

    なんだか、思っていたよりもずっと過酷な世界に足を踏み入れてしまったようだ。

    ◇

    俺がこの山小屋で短期バイトをしてみようと思ったのは、電波の繋がらない場所に行きたかったからだ。

    子どもの頃から、勉強もスポーツも人間関係も、たいした努力をせずともそつなくこなせた。地方の進学校でサッカー部の部長を務め、誰もが名前を知る東京の有名私立に通い、仲間に恵まれたおかげで特に地方出身というコンプレックスを感じることなく過ごせている。我ながら、挫折のない人生だと思う。

    この先始まる就活にもあまり不安はなくて、たぶんそこそこいい企業の内定はもらえるだろう。周りもみんなそんな感じで、「堅実に大手に行くか、スタートアップで自分の力を試すか悩む」などと話している。

    俺は性格的に、大手が合っていると思う。やりたいことや目標は特になくて、ホワイト企業ならどこでもいい。商社も不動産も金融も、どこからでも内定は取れるのではないか。

    そんな俺に、彼女の梨央が言った。

    「翔って将来のビジョンがないよね」

    梨央には明確に将来のビジョンがある。入社したい外資系企業があり、そこに入るために今はアメリカに留学している。

    時差はあるけれど、毎日やり取りをしていた。しかし、だんだんと梨央からのメッセージを開くのが憂鬱になってきた。夢に向かって着実に前進している彼女は、夢のない俺を内心でどう思っているのだろう。梨央のSNSに登場する人たちは、どの国の人もみんな、表情が輝いていた。これが、夢を持っている人の表情なのか。

    生まれて初めて、コンプレックスというものを感じた。梨央から直接責められたことはないけれど、「翔って将来のビジョンがないよね」と言われた日以来、軽蔑されているのではないかとメッセージを深読みしてしまう。

    そのうち、梨央と距離を置きたくなった。すでにアメリカと日本という距離があるのに、ネットのせいで四六時中つながってしまう。電波のない場所に行きたかった。

    そこで、北アルプスの山小屋でバイトをすることを思いついた。登山の経験はたいしてないが、昨年、大学の仲間とノリで富士山に登ったので、装備は持っていた。

    しかし、来てみたら、なんとスマホの電波が繋がるじゃないか。弱いながらWi-Fiもある。けれど、俺はここに来た日から、ずっとスマホを機内モードにしている。梨央は「しばらく山小屋でバイトするから電波つながらない」という言葉を信じているだろう。

    ここには俺も含めて7人のスタッフがいる。

    支配人の小倉さんは40代で、奥さんと娘さんがいて、麓の街にマイホームを構えている。支配人といっても、経営しているのはオーナーなので、小倉さんは雇われ店長のようなものだ。オーナーはここの他にも2つの小屋を経営していている。

    香穂ちゃんは頼れるお姉さんといった感じ。驚いたことに定住しておらず、山小屋の仕事がない時期はスキー場やゲストハウスで働いていると言っていた。

    彼女と同い年で同期の樹生くんは、いつもニコニコしていて穏やかだ。けれどあまり自分のことは話さないから謎が多い。仕事中はぼさぼさの長髪を結んでいて、耳たぶには大きめのピアスホールの痕がある。

    27歳の慎ちゃんさんは山小屋歴4年目で、少しぽっちゃりしている。小屋の中ではもっとも常識人で、ごく普通のお兄さんだ。

    今年の新人は、俺とえっちゃんと仁菜。えっちゃんと仁菜はともに23歳で、俺よりも少し年上だ。介護の仕事をしていたというえっちゃんは、小柄で小動物みたい。仕事の覚えが悪く、いつもオロオロと自信なさげにしている。コンカフェで働いていたという仁菜は丸眼鏡をかけていて、見た目はオタクだがギャルマインドの持ち主だ。

    この山小屋はマニュアルも何もなくて、仕事はすべて先輩から教わる。勤務初日は、今どきそんな教育体制の職場があるのかと驚いた。香穂ちゃんに「マニュアルや研修はないんですか?」と尋ねたら、「まぁ、山だからね」と笑われた。

    仕事内容はどれも簡単なので、すぐに覚えた。皿の3枚持ちも、生ビールをキレイに注ぐのも、すぐにできるようになった。ここでの仕事は誰にでもできることばかりだ。従食(スタッフの食事)を作るのだけが、料理未経験の自分には不安だったけれど、それも料理本を見ながらやってみたらなんとかできた。

    こんなにイージーな仕事を一生の仕事にしたら、やりがいがないだろうな。長く働いている人には悪いが、そう思ってしまう。

    そもそも山小屋の仕事は季節労働と呼ばれる。通年の仕事ではなく、期間限定の仕事だからだ。香穂ちゃんのように住み込みの季節労働を転々としている人がけっこういるらしいことを、俺はここに来て初めて知った。

    自分が就職したら手に入れるであろう給与や安定と比べたら、季節労働は安定していない。香穂ちゃんを含め、なぜそんな働き方を選ぶ人がいるのか、まったく理解できない。そんな生き方を続けて、将来に希望はあるのだろうか。

    まぁ、「将来のビジョンがない」と言われて彼女から逃げてきた俺が言えたことじゃないけど。

    ◇

    お客様の夕食を片付けて今日の仕事が終わると、スタッフは厨房のテーブルで夕食を食べる。

    山小屋に来て驚いたことの一つが、消灯時間の早さだ。山小屋では9時に消灯する。客室の電気もすべて消すので、お客様は9時にはもう寝るしかない。

    お客様は9時に寝かせておいて、スタッフは10時や11時頃まで飲んでいたりもする。もちろん強制ではないから自室に引き上げてもいい。仁菜はおしゃべりだが、「漫画やアニメを楽しみたい」という理由で、仕事が終わるとすぐに自室へ引き上げる。

    自室といってもスタッフルームは一つで、大きな2段ベッドが4つ置かれている。2段ベッドにはそれぞれカーテンがついていて、ベッド一つ分が自分のスペースだ。ちなみに小倉さんだけはスタッフルームではなく、屋根裏の、余った布団を収納している物置で寝起きしている。

    今日も夕食後、みんな厨房でだらだらと喋っていた。今日は仁菜もいて、めずらしく全員が揃っている。

    「今日、クマ見たっていうお客さんが来て」

    俺が言うと、仁菜は「クマ!?」と甲高い声を上げ、小倉さんはうんうんと頷きながら「生息地域だからねぇ」と言った。

    「俺がこの小屋に来たのは20年前だからもうなかったけど、30年くらい前は、クマ番って制度があったんだよ。ほら、二階の窓から倉庫見えるでしょ。一晩中、窓から見張って、クマが出てきたら石を投げて撃退するんだよ」

    「そんな原始的な……!」

    えっちゃんも仁菜も初耳だったらしく、目を丸くしている。

    「昔は倉庫もボロかったからクマも入りやすかったんだろうな。倉庫を建て直して頑丈にしてからは、クマ番も廃止されたらしい」

    「じゃあ、今は何も対策してないんですか?」

    「いや、倉庫の横の柵に電線が張ってあるでしょ? あれ、触ったら電流流れるよ。クマ避け」

    「そんな大事なこと、なんで教えてくれないんですか!」

    ベテランスタッフはみんな電流のことを知っていたらしく、「ごめんごめん」と笑っている。危うく、何も知らずに触るところだった。

    それからしばらくはとりとめのないお喋りをして、10時頃、小倉さんが「そろそろお開きにしようか」と言った。

    「明日はご来光が4時43分だな。客食(お客様の食事)が5時からだから、早番は4時。早番は、香穂ちゃんとえっちゃんと仁菜ちゃんで。遅番は6時からな」

    ここに来て驚いたことはいくつもあるが、朝の早さと、日の出や日の入りの時刻によって客食の時刻が変動することもその一つだ。お客様はみんな、ご来光を見てから朝食を食べるので、自然と朝食の時間が5時になる。朝の5時に朝食だなんて、街の宿泊施設では考えられないことだ。

    早起きはプレッシャーだ。明日は遅番だと思うと、気持ちがラクになった。

    ◇

    「翔! ねぇ、翔!」

    翌朝、二段ベッドの上段で寝ていたら、誰かに身体を揺さぶられた。なんとか目を開けると、丸眼鏡をかけた仁菜の顔があった。なんだかすごく興奮している。

    「ねぇ、朝焼けがすごいの! 今早番の最中なんだけど、香穂ちゃんが『ご来光見てきていいよ』って言ってくれて。翔も早く!」

    何がなんだかわからない。正直、美しい朝焼けを見るよりも寝ていたい。しかし仁菜の剣幕に圧倒されて、ベッドを這い出る。

    玄関の扉を開けると、外はもう明るかった。小屋の周りにはすでに大勢のお客さんがいて、大きなカメラを構えている人もいる。ダウンを着て頭に手ぬぐいを巻いたえっちゃんが「こっち、こっち」と手招きをする。

    冷たい空気の中、身震いをしながらえっちゃんのほうに行く。一面の雲海の中、稜線の向こうにオレンジ色の丸い朝日がくっきりと顔を出していて、その周辺の雲が淡いオレンジに染まっていた。朝日から伸びたいくつものオレンジ色の光の筋が、雲海を切り裂くように広がっている。

    じりじりと顔を出す朝日をじっと見ていると、目が焼かれるようだった。なんだか絵画のようで、現実感がない。どのくらい見ていただろう。時間が止まったようだった。

    「うちらが来てから一番のご来光だって!」と仁菜がはしゃいだ声を上げる。

    そういえば、ここに来てからというもの、日の出も日の入りもガスっていることが多かった。そういうものだと思っていたけれど、こんなに美しい景色を見られるとは。

    急に静かになった仁菜のほうを見ると、なんと、涙を流していた。

    「いやいやいや、どんだけ感受性豊かなんだよ」

    「だって私、山を描いた小説のご来光の描写読んでここに来たから」

    仁菜がポケットからティッシュを取り出して鼻をかむ。

    「今のところ、今シーズン一番の朝焼けだね」

    独特のハスキーボイスに振り返ると、香穂ちゃんがいた。ポケットに手を突っ込んで、満足そうな顔をしている。

    「香穂ちゃん、来て大丈夫なんですか? 厨房、誰もいないんじゃない?」

    「うん、ぜんぶやってきた。あとはお皿運ぶだけだから大丈夫」

    香穂ちゃんはまぶしそうにご来光を見つめている。

    「香穂ちゃんって、何年もこの景色見てきてるんですよね? 飽きませんか?」

    そう尋ねると、香穂ちゃんは小さく笑いながら「飽きる飽きる。でもいいの。好きだから」と言った。

    香穂ちゃんがえっちゃんと仁菜に「さ、もうすぐ客食だから厨房戻ろ!」と声をかけ、三人でパタパタと小屋の中に戻っていった。

    腕時計を見る。4時43分だ。稜線の深い緑色のシルエットから、オレンジ色の丸い太陽がすっかり顔を出し切った。

    そういえば、ご来光を見ている間は何も考えていなかったな。

    そんなこと、いつぶりだろう。たぶん俺は、無意識のうちに、常に何かを考えてしまっている。何も考えていないときは、スマホの画面を目に流し込んでいる。

    そんな自分にはめずらしく、稜線からじりじりと顔を出すオレンジ色の光を見ている間は、頭の中がからっぽだった。だけど不思議と、退屈ではなかった。

    香穂ちゃんの「飽きる飽きる。でもいいの。好きだから」という言葉が甦る。この先、就職して、毎日が同じことの繰り返しで心がすっかり倦んでしまったとき、自分は同じことを言えるだろうか。

    ふと、梨央のことを考える。常に成長を求める梨央は、頭の中をからっぽにする時間があるだろうか。梨央にも、この景色を見せたい。ポケットからスマホを取り出し、機内モードのままのそれで写真を撮った。

    小屋に戻ろうとして辺りを見回すと、それぞれ離れた場所に、小倉さんと樹生くんと慎ちゃんさんがいた。小倉さんは一眼レフを、慎ちゃんさんはスマホを構えていて、樹生くんはまぶしそうに目を細めて微動だにしなかった。

    みんな、遅番でも起きてくるくらいこの景色が好きなんだな。

    ◇

    「明日、天気がよければヘリが来ます」

    夕食の際、小倉さんがあらたまった感じで言った。

    「翔くんとえっちゃんと仁菜ちゃんにとってははじめてのヘリだね。明日の朝の客食は5時。ヘリはたぶん6時頃にこっちに来ると思うから、朝食の片付けしつつ、ヘリ荷を運ぶ感じ」

    「はい! ヘリはどこに着陸するんですか?」と仁菜が聞く。

    「着陸はしないよ。吊ってきた荷物を置いていくだけ。置くのはテント場の辺りだから、今日はテントのお客様は断ってる」

    新人3人はヘリという言葉に顔を輝かせているが、香穂ちゃんと樹生くんと慎ちゃんさんは真顔だ。いや、どちらかというとテンションが低いかもしれない。

    「明日は何便ですか?」と樹生くんが聞く。

    「気合いの7便」

    それを聞いた瞬間、樹生くんが小さくため息をついたのを見逃さなかった。
    疑問に思う。うちの山小屋のテント場は狭い。7便分もの荷物を下ろす場所があるのだろうか。

    それを尋ねると、小倉さんはあっさり「ないよ」と言った。

    「1便目の荷物が来たら、2便目の荷物が来るまでにすべての荷物を小屋の中に運ぶ。野菜やドリンクは倉庫に。冷食は厨房のストッカーに収納するから、厨房の裏口にどんどん運ぶ」

    「男子が小屋まで荷物を運んで、女子が倉庫整理やストッカー収納をするの」と香穂ちゃんが補足説明をした。

    「ヘリが来るとなったら男子チームで下げ荷を作るから、樹生くんと慎ちゃんと翔くんはつなぎ着てヘルメットかぶって待機してて」

    「下げ荷?」

    「行きはヘリが食材とか燃料を持ってきてくれるでしょ。それで、帰りは下ろす荷物を持っていってくれるんだよ。だから倉庫のゴミ袋をまとめて、ヘリが運べる状態にしておく」

    なるほど。山小屋の仕事は知らないことだらけだ。

    翌朝、俺は言われたとおりにつなぎを来てヘルメットを装着し、倉庫に溜めておいたゴミを次々をテント場へ運ぶ。「もっこ」と呼ばれる、太い綱を編んだ四角い網状のものを広げ、その上にギリギリまでゴミ袋を重ね、もっこの端を結ぶ。もっこの先は輪っか状になっており、そこをヘリがひっかけて吊っていくらしい。

    「1便目来るよー」

    小倉さんが声をかけてくれる。樹生くんと慎ちゃんさんと俺は少し離れた場所にいて、二人がしゃがんだので、俺も慌ててしゃがんだ。

    遠くに聞こえたヘリの音がどんどん大きくなって、その姿が視界に入ったときにはもう、耳を塞ぎたいほどの轟音になっていた。ヘリが近づくと、ぶわぁと強い風が吹いた。しゃがんでいなかったらよろけていただろう。あまりの風圧に思わず顔を伏せ、おそるおそる顔を上げると、ヘリが約5メートルほど離れた中空にいた。想像よりも大きい。

    青空を背景に、空より深いブルーのヘリが、轟音を立てながら白いお腹を見せている。ヘリは大きなもっこを下げていた。

    ものすごい迫力だ。今まで見たどんな映画よりも、圧倒的なダイナミックさだった。

    小倉さんが、くるくると地面に円を描くジェスチャーをする。「ここに荷物を下ろせ」という合図らしい。

    ヘリは少しずつ高度を下げ、どさっともっこを地面に下ろした。その瞬間、とてつもない砂埃が舞い上がる。

    小倉さんが手で、ヘリからもっこを外す。そして、下げ荷のもっこをかけた。

    小倉さんはパイロットとアイコンタクトを取っているようだ。ヘリを見上げて両腕で大きく丸を描くと、ヘリはくるっと旋回して戻っていった。

    樹生くんと慎ちゃんさんは素早く結ばれたもっこの両端をほどいて広げる。すると、そこには想像以上にたくさんの段ボール箱があった。1もっこが運べる荷は600キロだと、樹生くんから聞いたことがある。つまりここには600キロ分の荷物があって、俺たちは4人でそれを小屋まで運ぶのだ。次のヘリが来るまでの間に。

    「1便目はペットボトルだな。翔くん、倉庫に運んで」

    先輩方に倣って、ペットボトルが入った段ボールを3ケースずつ運んだ。正直、かなり重い。みんなが倉庫までダッシュするので、俺も走ろうとしたが、段ボール箱が重すぎて走れない。

    「翔、無理しなくていいから。2ケースずつでいいから」

    樹生くんが走りながら声をかけてくれる。まったく息が切れていない。

    俺は心のどこかで山小屋の仕事を「誰にでもできる簡単な仕事」だと思っていたけれど、違った。誰にでもできる仕事なんかじゃない。とんでもない体力おばけにしかできない仕事だ。

    荷物を倉庫の入口に置くと、スタンバイしていた女子チームが荷物を倉庫内に収納していく。

    なんとかすべての荷を倉庫の入り口に運び終えると、すぐに2便目が来た。

    少しずつ近づいていく音とともに、谷からすっとヘリが顔を出す。ヘリが角度を変えると、遠心力でもっこがブンと振れる。

    かっけぇ……。

    このかっこよさをこの至近距離で見てしまったらもう、どんな人だって斜に構えてはいられなくなるんじゃないだろうか。

    この日は、無事に7便がすべて飛んだ。途中でガスってしまい、ヘリが中断されることもあるらしい。

    ヘリが無事に終わると、香穂ちゃんがほっとした顔で「みんな、お疲れさま!」と言った。

    みんな、まだ朝食も食べていない。朝に香穂ちゃんが用意してくれたらしい大量のおにぎりを、みんなでほおばった。俺はお腹が空きすぎていておにぎりが止まらなくなり、仁菜に「翔、フードファイターみたい」と笑われた。

    俺が「ヘリ荷運ぶの、やばかった」と言うと、仁菜とえっちゃんも、「女子は女子で大変だったんだよ~!」と言う。

    冷凍食品は段ボールごとストッカーに入れようとすると入りきらないので、段ボールを開封し、中身をゴミ袋に移してストッカーに収納するのだと言う。もたもたしていると解凍されてしまうので、それらの作業を大急ぎで延々と繰り返したらしい。

    朝からこんな大仕事を終えても、一日の業務は変わらない。これから客室を掃除して、昼食営業をしながら夕食の仕込みをしなければいけない。

    長い長いヘリの一日。夕食は、香穂ちゃんが「みんながヘリ頑張ったお祝い」と言って焼肉にしてくれた。樹生くんが、焼肉のたれではなく豆板醤と塩で食べていたので、真似してみたらものすごく美味しかった。

    「おいしい!」

    「だろ?」

    ビールを飲んでいる樹生くんは、少し疲れたように笑った。

    小倉さんが「ヘリの日は大変でしょ。でも、これからは2週に1回は来るからよろしくね」と言った。

    そんなに頻繁にヘリを見ていたら、今日のような感動は薄れるのだろうか。だんだん見慣れてきて、何も感じなくなるのだろうか。想像がつかない。

    ◇

    7月も半ばになるとぼちぼちお客さんが増えはじめ、海の日の連休から一気に忙しくなった。

    週末や連休になると、普段は個室として使っている部屋にも布団を敷き詰めて、大部屋として使用する。1枚の敷布団に対して、2つの枕と2つの掛け布団をセットするよう指示されて驚く。1枚の布団に二人が寝るということだ。

    「ここ、カップルとか夫婦を案内するんですよね?」

    テキパキと布団にシーツを敷いている香穂ちゃんに尋ねると、「いや、お一人様も案内するよ?」と当然のように言われた。

    「1枚の敷布団に知らない人同士を寝かせるんですか!?」

    「だって、そうしないとお客様が入りきらないんだもん」

    「完全予約制とかにしないんですか?」

    「社長や支配人は何度も検討してるよ。でも、予約なしで来ちゃったお客様を泊めないわけにはいかないじゃん。隣の山小屋まで3時間かかるんだから、場合によっては遭難しちゃうよ」

    「客室に入りきらないくらいお客さん来ちゃったらどうするんですか?」

    「食堂と談話室のテーブルを撤去して予備の布団を敷くよ」

    信じられない話ばかりだ。

    えっちゃんと仁菜は1枚の布団に二人で寝転がり、「これ、相手が知らないおじさんだったら無理~!」と騒いでいる。

    「もちろん、男性と女性は部屋を分けるよ」

    大部屋の布団セットが終わると、みんなで厨房に入る。夕食の仕込みをしつつ、昼食営業に対応するのだ。

    フロントで注文を受けた小倉さんが伝票を書き、厨房に「カレー3です!」や「山菜うどん2です!」などと伝える。注文が入ると、みんな仕込みの手を止めてカレーをよそったり、うどんを湯がいたりする。仕込みをする人と昼食営業に対応する人を分ければいいようなものだが、厨房が狭いため、なかなかそれができないのだ。

    狭くて人が動き回ることができない厨房内では、見事なチームワークによって昼食営業のメニューを作る。

    たとえば山菜うどんの注文が入ったら、ストッカー(業務用の冷凍庫)の近くにいる樹生くんが業務用の冷凍うどんを出し、鍋の近くにいる香穂ちゃんに渡す。香穂ちゃんはうどんを鍋に入れてゆがく。食器棚の近くで作業をしていた仁菜がうどんの器を香穂ちゃんに渡す。香穂ちゃんは器につゆと麺を入れて、山菜を盛り、えっちゃんに渡す。すでにお盆にお箸をセットしていたえっちゃんが「山菜うどんのお客様ー!」と言いながら食堂に出ていく。

    俺は圧力釜の近くで作業をしているので、カレーや丼物が入ったときにごはんをよそい、鍋で加熱しているパウチをかける係だ。誰が決めたわけでもないのに、自然と作業をする位置と役割が決まっていった。

    ただ、みんながみんな、常にスムーズに動けるわけではない。山菜うどんとカレーうどんとカレーライスと親子丼のオーダーが同時に入ると、動線が乱れててんやわんやになる。特にえっちゃんはパニック状態になることが多い。

    そんなとき、香穂ちゃんは必ず「声出していこー!」と声をかける。すると、樹生くんがふざけた口調で「麺取りまーす!」とストッカーに行く。みんなが真似して「お皿用意しま-す!」「ごはんよそいまーす!」と声を出していると、なぜか自然とうまくいく。

    連休の昼食営業はまさに戦場だった。火を使っているので厨房内はとんでもなく暑く、小倉さんからは何度も「熱中症対策のためにこまめに水分摂ってね!」と言われているが、水を飲む暇がないくらいオーダーが立て込む時間帯がある。首に巻いたタオルで、こめかみを流れる汗を拭う。

    そんな中で、なんとか夕食の仕込みをする。うちの小屋は、昼食営業こそ業務用のレトルトを使うが、夕食は基本的に手作りだ。千切りマシンを使って大量のキャベツの千切りを作る人、ふろふき大根用の大根を切る人、酢の物用のきゅうりをスライスする人、トマトをくし切りにする人、デザートのグレープフルーツをスマイルカットにする人……。それぞれが分担して仕込みを行うので、「作業」といった感じで、あまり料理をしている自覚はない。俺は料理の経験はないが、わりと器用なので、どの作業もすぐにできるようになった。ただ、ねぎの小口切りを細く切るのだけはまだ苦手だ。

    お昼ご飯はたいてい香穂ちゃんが作ってくれて、厨房のすみで一人ずつ食べる。そうしないと手が回らないからだ。今日は卵とレタスのチャーハンだった。疲れていて食欲がないと思ったが、にんにくの香りが空腹を思い出させ、気付けばお変わりしていた。

    1時半に昼食営業が終わると、2時からは交代で休憩を回す。休憩じゃない人はたいてい、売店で店番をすることになる。ここの売店では生ビールを提供していて、晴れた日はじゃんじゃん売れる。大学1年生のときに居酒屋でバイトしていたので、生ビールを注ぐのは得意だ。

    「お待たせしましたー」

    生ビールを渡すと、40代くらいの男性のお客さんがその場でぐいっと一口飲んだ。そして稜線を見回し、くしゃっと笑顔になる。

    「山で飲むビール、最高だね! お兄さんも、仕事終わったら毎晩飲んでるの?」

    「いえ、俺はお酒飲めなくて……」

    俺は二十歳になっているのでお酒を飲める年齢なのだが、飲むとすぐに酔って会話のパフォーマンスが下がるので飲まないようにしている。酔っている姿を人に見せるのも嫌だ。

    ビールを受け取ったお客さんは、小屋の周りにたくさん設置してあるベンチのひとつに座って飲んだ。

    ここでビールを飲む人はみんな笑顔だ。山小屋で働いてみてわかったけれど、山小屋のお客さんは、下界の居酒屋のお客さんと比べると相当に機嫌がいい。そりゃあそうだ。苦労して標高2800メートルの場所に登ってきて、360°を稜線に囲まれた景色を見ながらビールを飲むなんて、誰もが笑顔になるだろう。

    俺にとっては見慣れた稜線も、お客さんにとっては絶景だ。俺が日常を過ごすこの場所は、お客さんにとっては非日常。非日常を過ごす人は、みんなたぶん、日常にいるときよりも少しだけいい人になる。

    夕食出しの一時間前になると、全員が厨房に集合する。お客さんの人数分、作業台にお皿を並べ、昼に作っておいた料理を盛り付け、食堂に並べる。

    ちなみに、この小屋の食堂は72人までしか入らない。お客さんが72人いる場合は、一回目のお客さんが食べ終わって片付けたあとに、二回目のお客さんのぶんをセットする。これを二回戦と呼ぶ。最盛期の連休は三回戦が当たり前だ。

    お客さんがみんな食べ終わると、食堂を片付ける。それと同時に、明日のお弁当を注文しているお客さんの人数分、お弁当を作る。

    それらがすべて終わると、一日の仕事は終了。ようやくスタッフの食事が始まる。そんなに忙しくなかった頃は当番制だったが、忙しくなってからは香穂ちゃんが作るようになった。みんなが片付けやお弁当作りをしている間に作ってくれる。

    今日の夕食は豚キムチとポテトサラダ、卵とトマトの中華炒めだった。香穂ちゃんの作るごはんは味付けがけっこうしっかりしていて、頑張った身体に染みる。景色を見る余裕がないほど忙しかった一日は、ごはんだけが楽しみだ。香穂ちゃんのごはんがおいしすぎて、えっちゃんと仁菜はここで働きはじめてから少し太ったという。

    「不思議なんだけど、最盛期って、男子は痩せて女子は太っていくの」と香穂ちゃんが言う。

    「最盛期は食欲なくなるからなぁ」と樹生くん。

    「私は忙しいとそのストレスでいっぱい食べちゃうんです~」とえっちゃんが困った顔をした。たしかに、最初に会った日よりも顔がふっくらした気がする。

    ◇

    ヘリはかなり天候に左右される。2週に1回来ると聞いていたが、それはヘリの日の天候がよかった場合の話で、今日はヘリの予定だったがガスっていて視界が悪かったために飛ばなかった。よくあることらしい。

    「明日に持ち越しかな」

    小倉さんはそう言ったけれど、その翌日も、翌々日も、ヘリは飛ばなかった。

    「このままずっと飛ばなかったらどうなるんですか?」

    夕食のときに聞いてみると、小倉さんは「歩荷だねぇ」と言う。

    「うちから歩いて3時間のところに系列の小屋があるでしょ。そこはヘリが無事に飛んでるんだよね。だから歩いて食材を借りに行くんだよ」

    歩荷という言葉は知っていた。山で荷物を運ぶ人のことだ。かっこいいなとは思うけれど、俺にはできる自信がない。中高の6年間サッカー部だったから体力はそこそこあるけれど、重い荷物を背負った経験はないからだ。

    「香穂ちゃん、足りなくなりそうな食材は?」

    小倉さんが尋ねると、香穂ちゃんはすぐに「キャベツとトマトときゅうりですね。お肉類は前回多めに発注したから足りると思います」と答えた。

    「ちょっと、隣の小屋にキャベツとトマトときゅうり借りられるか聞いておくわ」と小倉さん。

    トマトときゅうりは1ケースの重さがたいしたことはない。しかしキャベツは、1ケースがけっこう重い。それを何ケース背負うのか。

    「歩荷行くとしたら、誰が出る?」

    普通に考えれば、樹生くんと慎ちゃんさんだろう。しかし、意外な人物が手を上げた。

    「私、行きたいです」

    えっちゃんだった。えっちゃんは地元出身だし、子どもの頃からよく両親と登山をしていたというだけあり、体力がある。同じ日に一緒にこの山小屋まで登ってきたけれど、バテバテだった仁菜とは対照的に、えっちゃんは息を切らすことなく登っていた。だけれど、歩荷って女の子でもできるものなんだろうか?

    「じゃあ、えっちゃんと翔くんで行こうか」

    「えっ!」

    正直、自信がないけれど、女の子のえっちゃんが立候補しているのに、男の自分が嫌だとは言えない。どうか、ヘリが飛んでほしい。

    しかし、嫌な予感は当たるもので、それから数日経ってもヘリは飛ばなかった。

    俺とえっちゃんは背負子(荷物を括り付けて運ぶ道具)を背負って、系列の山小屋へと向かった。

    隣の小屋までは、アップダウンもそこそこあるし、鎖場もあるが、平坦な稜線歩きの時間もある。森林限界を越えているので、基本的にずっと岩場だ。360°、どこを見回しても山しか見えない。稜線を歩いている間は、天井人になったような気分だ。

    「えっちゃんはさ、なんで山小屋に来たの?」

    そう尋ねると、後ろからえっちゃんの「えー」という声が聞こえた。

    「前職は介護士でね、老人ホームで働いてたんだけど、私ポンコツだからミスばっかりで、向いてないなと思って。あと、老人ホームって仲良くなった利用者さんが亡くなっちゃうことがけっこうあって。それがしんどくて、一旦離れたくなったの」

    「じゃあ、下山したらまた介護の仕事に就くの?」

    「それもまだ決めてなくて。でもここに来て、香穂ちゃんみたいに転々としながら働くのもかっこいいなと思って。ワーホリでニュージーランドに行ってみたいなって思って、今、休憩時間に少しずつ英語の勉強してるの」

    一緒に働いているのに、まったく知らなかった。ドジでおっちょこちょいなえっちゃんが、そんな背景を抱えて山に来て、新たな目標を見つけていたなんて。

    「翔はなんで山小屋に来たの?」

    「んー、特異な経験をしていれば就活の面接でネタにできるかなと思って」

    咄嗟に嘘をついてしまった。夢に向かって邁進する彼女に引け目を感じて逃げたくなったことを、言えなかった。えっちゃんならきっと、聞いてもバカにしないのに。

    話しているうちに、系列の小屋に到着した。地図上のコースタイムは3時間だが、俺とえっちゃんは2時間で到着することができた。

    系列の小屋にはすでに話が通っていて、お昼ご飯を食べさせてくれた。
    そして、俺はキャベツ3ケース、えっちゃんはトマト3ケースときゅうり2ケースを背負子に括り付けた。

    背負った瞬間はたいした重量ではないと思ったが、一歩歩くたび、背負った荷物の重さが肩に食い込む。

    それでも平坦な場所はおしゃべりをしながら楽しく歩いてきたが、アップダウンや鎖場はお互いに無言だった。最後の急登になると、俺もえっちゃんも肩で息をしていた。一歩踏み出すとズシリと肩の荷が重くなり、次の一歩がなかなか出ない。唇を噛んで、なんとか歩みを止めないようにした。

    ふと振り返ると、遠くにえっちゃんの姿が見える。

    「翔、先に行って!」

    えっちゃんを置いていくのは忍びなかったが、待っていてもプレッシャーになるだろう。俺はえっちゃんを置いて、先に小屋に到着した。

    小屋の扉を開けると、フロントに小倉さんがいて、厨房からみんなが出てきた。

    「翔、お疲れさま!」

    みんなが口々に労ってくれる。特に感激屋さんの仁菜は「こんなに重そうな荷物を持ってきてくれたの……?」と目を潤ませた。

    そのうちにえっちゃんが到着し、仁菜はえっちゃんに抱き着いた。えっちゃんは「大げさだよ」と照れている。

    野菜が足りないから、歩いて運ぶ。

    なんてわかりやすい仕事なんだろう。意味が明快だ。それに比べれば、下界の多くの仕事は複雑すぎて「意味」が見えにくいかもな、と思った。

    ◇

    「そろそろ水場に行かないとなぁ」

    記憶が飛ぶほど忙しい週末を送ったあと、平日のお茶の時間に小倉さんが言った。この小屋では、午前と午後に一回ずつ、スタッフ全員でお茶を飲む時間がある。

    水場という言葉はベテランスタッフのみんなの口からよく耳にする。しかし、俺はこの小屋の水事情をいまいちよくわかっていない。上水道も下水道もない山の中で、なぜ蛇口をひねると水が出るのか。その仕組みを、尋ねないまま気づけば8月になっていた。

    この小屋では常に節水を呼びかけられている。

    「うちは水が乏しい小屋だからね。同じ北アルプスでも、場所によっては湯水のごとく水を使える小屋もあるんだよ」

    いつか、香穂ちゃんが真顔で言っていた。「湯水のごとく水を使う」とは、日本語として正しい用法なのだろうか。

    「水場って、どこにあるんですか?」

    「しばらく登山道を北に進んで、途中から下るんだよ。そこから先は、道なき道を歩くの」と慎ちゃんさん。

    小倉さんの説明によると、水場と呼ばれる沢からこの小屋まではホースのようなパイプが通っていて、水場のエンジンをかけることで水をポンプアップし、貯水タンクに貯めているらしい。貯水タンクは小屋の裏に大きなものがいくつかある。俺も、空になったタンクの中に入って掃除をしたことがある。

    そろそろタンクの残量が心もとなくなってきたから、誰かが水場に行ってエンジンをかけなければいけないらしい。その際、ペットボトルに入れた軽油を持っていき、エンジンに給油するのだという。

    「翔、せっかくだから行ってみる? 俺も行くから」

    樹生くんに言われて、さっそく明日、水場に行くことになった。

    「登山道って外れても大丈夫なんですか?」

    「俺が場所覚えてるから大丈夫。ただし、クマが出る」

    えっ

    樹生くんも小倉さんも香穂ちゃんも、誰も笑っていなかった。クマが出るのは本当なのだろう。

    翌日、樹生くんと俺は小屋の備品である小さなザックに軽油を入れて、小屋を出た。出る直前、香穂ちゃんから「途中でお腹空くと思うから」と大きなおにぎりを2つずつ渡された。

    昨日話していた通り、樹生くんは登山道を北側に進む。

    「樹生くんって、山小屋がない時期は何してるんですか?」

    ふと、聞いてみた。樹生くんはいつもニコニコしていて話しやすいけれど、自分の話をしない。前々から、ミステリアスだと思っていた。

    「引っ越し屋でバイトしてる」

    「そうなんだ! どこに住んでるんですか?」

    「東京」

    「実家ですか?」

    「いや、一人暮らし。実家も東京だけど、親と仲悪いからもうぜんぜん帰ってない」

    「そうなんだ。香穂ちゃんみたいに、住所不定なのかと思ってました」

    ミステリアスだと思っていた樹生くんは、質問すればなんでも答えてくれた。こちらが勝手に謎めいたイメージを抱いていただけらしい。

    「樹生くんは、なんで山小屋に来たんですか?」

    「んー、自然のあるところで、人間らしい暮らしをしたかったから。翔は?」

    「俺は、彼女と連絡取るのが嫌になって、電波のないところに行きたかったんです。彼女のことを嫌いになったとかじゃないんですけど、彼女がめちゃくちゃ自分を持ってる人で、なんかずっと引け目みたいなのがあって」

    山に来てはじめて、人に梨央の話をした。梨央の、常にくっきりとアイラインが引かれた目を思い出す。自信満々に口角が上がった唇。あの、気の強そうで華やかな感じが大好きだった。いや、過去形じゃない。今も好きだ。

    樹生くんが立ち止まり、登山道脇のハイマツを掻き分け、道なき道を進みはじめる。比喩ではなく、本当に道がなかった。まるで高山植物のジャングルだ。登山道がいかに整備されているかを思い知る。

    「翔、何か叫んで」

    「えっ!?」

    「この辺、クマが生息してるから。大声出してたら寄ってこないから」

    そんなことを言われても、咄嗟に叫ぶ言葉が見つからない。戸惑っていると、樹生くんが「ぎゃー!」と喚きながら下りの斜面を駆け抜けていったので仰天した。いつものクールな樹生くんからは想像もつかない。

    「わー!」

    続いて叫んでみたが、まだ照れがある。

    それでも樹生くんと二人、「うっきゃー!」「うひょー!」「やっほほーい!」と奇声を発しながら歩いていると、だんだんテンションが上がってきて、笑いが止まらなくなった。自分でも何が面白いのかわからないけれど、お腹を抱えて笑ってしまう。こんなふうに人目を気にせず笑ったのはいつぶりだろうか。見ると、樹生くんも顔をくしゃくしゃにして笑っていた。

    ひとしきり笑ったあと、樹生くんが「歌うか」と言った。クマ避けだろう。

    「何歌います?」

    「うーん、俺と翔、10歳違うからなー。お互いが知ってる曲ってあるかなぁ」

    「森のくまさんとかどうですか?」

    「それにしよ!」

    絶対にクマに遭遇したくないのに、クマに出会ってしまう歌をがなりながら、俺たちは小走りで道なき道を進んだ。

    枝を掻き分けながらしばらく斜面を下ると、一気に視界が開ける。ここが水場なんだとわかった。ちょろちょろと流れてくる沢と、少し大きな水たまり程度の水場。うちの小屋が節水を強いられている理由がわかった。

    「あーあ、やられてんな」

    樹生くんがエンジンを見て言う。エンジンには、引っ掻いたような跡がついていた。

    「これ、なんですか?」

    「クマの爪痕」

    またもぎょっとする。山小屋に来てから、ぎょっとすることばかりだ。

    樹生くんは持ってきた軽油を給油し、エンジンをかける。しばらくしてから樹生くんが無線で「こちら水場、水揚がってますか、どうぞ」と言うと、小倉さんの声で「水、揚がってます、どうぞ」と聞こえてきた。樹生くんが俺の目を見てにこっと笑う。今日のミッションが完了したのだとわかった。

    もしエンジンの不具合などで水が揚がらなかったとしても、樹生くんならなんとか解決してしまうのだろう。

    この人は本当にかっこいいなと思う。今まで、大企業に就職してすごい成果を上げている大学の先輩などにも会ってきたけれど、山という自然の驚異の中に放り込まれて、知恵と体力でサバイブできる人がどれだけいるだろう。樹生くんは、知恵も体力も誇らない。自分の力を誇示しないからこそかっこいい。

    樹生くんと二人、香穂ちゃんのおにぎりを食べた。一つは梅干しで、もう一つはおかかだろうか、なんだかお好み焼きのような味がする。

    「このおにぎり、なんですか?」

    「おかかマヨ。たぶん醤油も入ってる。香穂ちゃんがよく作るんだよ」

    クマに気を取られてあまり意識していなかったが、おにぎりを食べ始めると、お腹が空いていたことを思い出した。一気にぺろりと平らげてしまう。

    「香穂ちゃんのおにぎりって大きいですよね」

    「手が大きいからね。具までが遠いんだよね」

    樹生くんは優しく笑った。

    ◇

    9月に入ると、山は急に秋の気配を帯びはじめた。乾いた風が冷たい。仕事中は動き回っているからTシャツでもいいけれど、動いていないときはフリースを羽織らないと寒い。

    山小屋は、日の出と日の入りの時刻に合わせて客食の時刻を変える。だから自然と、日の出と日の入りの時刻を意識することになる。ここに来たばかりの頃、仁菜に起こされて見た日の出は、たしか4時半頃だった。それが今では5時20分だ。季節の移ろいを感じる。

    お客さんの入りも、週末は賑わうけれど、平日は静かなものだ。そういえばここに来た7月の頭も、平日はこのくらい静かだったっけ。

    俺は今年の夏しか知らないけれど、先輩方によると、今年の夏はかなりよかったらしい。具体的には、週末の天気に恵まれたからお客さんがたくさん入ったし、ヘリもほぼ順調に飛んだ。数日遅れて歩荷したこともあったけれど、過去には1ヶ月飛ばなかった年もあるらしいので、それに比べたらぜんぜんマシだろう。

    香穂ちゃんは「在庫の鬼」と呼ばれるほど在庫管理に情熱を傾けているが、週末に見込み通りにお客さんが入ったこと、ヘリがほぼ予定通りに飛んだことで、今年はかなり完璧な在庫管理ができているという。

    「でも、在庫に関してはシルバーウィークまで予断を許さないからね」

    香穂ちゃんが言うと、樹生くんが「香穂ちゃんは背中に『在庫』ってタトゥー入れてるから」と言った。樹生くんが冗談を言うのはめずらしいので、新人3人はその言葉を真に受けそうになった。

    平日が静かになればなるほど、これが山本来の姿なのだろうなと思う。お客さんであふれる週末の活気も好きだけれど、秋の山小屋のゆるさもいい。

    最盛期の忙しいときは、小倉さんがフロントに張り付いていた。しかし最近はお客さんが減ってヒマになったので、フロント業務を任される時間帯も増えた。前と違うのは、お客さんと雑談をするようになったこと。俺の雰囲気が変わったのか、なぜか前よりもお客さんに話しかけられることが増えた。

    「学生さん?」

    70代のお客さんに声をかけられる。

    「はい」

    「いいね、これからいくらでも好きな山に登れるね」

    俺はこのバイトが終わっても、山に登ることがあるだろうか。下山したらインターン先を探す予定だし、来年はいよいよ就活が始まる。就職したら、土日を使って山に登ったりもできるのだろうか。それとも、土日もスキルアップのための勉強に充てたほうがいいのか。

    えっちゃんや仁菜は、仕事を辞めて山小屋に来ている。下山したら無職になるはずだ。この先、どうするつもりなのだろう。

    フロントの小窓から稜線を眺めていると、なぜか切ないような気分になる。秋のせいか、ここのバイトの終わりが見えてきたからか。

    夕方、厨房で客食の片づけをしていると、外に出ていた香穂ちゃんがみんなに声をかけた。

    「今日の夕焼け、きれいだよ。小倉さんが店番してくれるから、みんなで山頂行こ!」

    香穂ちゃんは毎日、外に出て夕焼けをチェックしている。日によって、空の色や雲のかかり方がまったく違うらしい。

    山頂までは10分くらいだ。みんなでバタバタと登山靴を履いて、山頂を目指した。

    山頂にはすでに数人のお客さんがいた。夕日のほうを見ると、線香花火の最後のような真ん丸で真っ赤な太陽が、じりじりと稜線に沈んでいくところだった。山には流れるような薄い雲がかかり、その雲が赤く染まっている。

    太陽がすべて隠れると、まるで花火をバケツに入れたときのジュッという音がしそうだった。

    日が沈んだ空は、水色とピンクが混じり合ったような色だった。眼下に雲が流れていて、自分が雲よりも高い場所にいることを実感する。

    この光景を撮影しようとポケットのスマホを取り出して、やめた。画像じゃなくて、目に焼き付けておこうと思った。

    「もう少しで下山だな」

    誰に言うでもない言葉が口から出た。

    「翔は下山したらすぐ大学が始まるね」と香穂ちゃんが答える。

    「うん。来年は就活もあるし」

    「将来はどんな仕事に就くの?」

    「わからない。俺には将来のビジョンがないから」

    思わずタメ口で答えると、香穂ちゃんは「私もないよ」と笑った。

    「香穂ちゃんは下山したらどうするんですか?」

    「さぁ。今年もスキー場かゲストハウスかな。ちょっと働いて、あとは旅するのもいいな」

    「来年も山小屋に来るんですか?」

    香穂ちゃんは一瞬の沈黙のあと、「さぁ」とだけ言った。

    ◇

    えっちゃんと仁菜はシルバーウィークが終わるまでの勤務だが、俺はその前に大学が始まるので、みんなより一足先に下山することになっていた。

    下山日の前日は大雨だった。天気予報によると、夜には雨が上がるらしいが、登山道はぬかるんでいるだろう。

    夕食の準備をしているときのことだった。客食の数を確認しに、フロントにいる小倉さんに声をかけようとしたそのとき、玄関の引き戸が強く開いた。雨音が響く。

    「すぐそこで人が倒れています!」

    駆け込んできたびしょ濡れのお客さんが叫んだ。

    小倉さんがすぐに立ち上がる。何事かと厨房から出てきたスタッフたちに「樹生くん、レスキュー!」と声をかけた。小倉さんと樹生くんは乾燥室に走っていき、レインウェアを着こんで小屋を飛び出していった。

    あっという間のことだった。人が倒れていることを教えてくれたお客さんも、相当雨に打たれたのだろう、ブルブルと震えている。香穂ちゃんがタオルを渡し、土間のストーブに当たるよう言った。

    そのお客さんが落ち着いて、香穂ちゃんが宿泊受付をしているとき、男性を抱えた小倉さんと樹生くんが入ってきた。男性は意識がないようで、ピクリとも動かない。

    「大丈夫ですか? 山小屋に着きましたよ!」

    小倉さんが大きな声で呼びかけると、男性の身体が少しだけ動いた。若い人だ。小倉さんと樹生くんが男性の身体をゆっくり下ろすと、彼はストーブの前に座り込んだ。まだ意識が朦朧としているようだ。

    「毛布! 早く!」

    小倉さんが怒鳴った。その声でハッと我に返る。俺は意識を失っている人を見たのが初めてだったから、動転して固まっていたのだ。見ると、香穂ちゃんはすでにどこからか大量のタオルを持ってきていて、慎ちゃんさんは談話室からもう一台ストーブを運んできている最中だった。

    仁菜が厨房を飛び出す。俺もその背中を追って、予備の毛布を取りに行く。両手いっぱいに毛布を抱えて戻ってくると、えっちゃんがレスキューされた男性の手首を持っていた。脈を測っているのだ。

    「脈拍は正常です」

    えっちゃんは冷静だった。えっちゃんの言葉を聞いて、その場にいた人たちがみんなほっとするのがわかった。

    香穂ちゃんが売店で売っているTシャツの袋を破り、小倉さんに渡す。小倉さんと樹生くんは、男性を毛布で包み、外からは見えないようにして着替えさせた。樹生くんが自分のフリースを脱いで着せる。

    男性は何枚もの毛布でぐるぐる巻きにされ、ストーブの前で座っていた。しばらくすると意識が戻ってきたようで、薄目を開けて、「……すみません、すみません」と何度も繰り返した。

    「大丈夫です。立てるようになったら部屋にご案内します」

    怖かった。

    低体温症であることはわかる。ただ、レスキューされた男性はそこまで軽装というわけではない。ちゃんと、上下レインコートを着ている。それでも意識を失い、立てないくらいに衰弱した。

    あらためて、山の怖さを思い知った。それと同時に、いざというとき何も動けなかった自分が情けなくて、いたたまれなかった。

    小倉さんと樹生くんはレスキューをした。香穂ちゃんは大量のタオルと着替えを用意した。慎ちゃんさんはストーブを運んだ。えっちゃんは脈を測った。

    俺と仁菜だけが、小倉さんに指示されるまで動けなかった。

    今までずっと、自分は要領がいいほうだと思ってきた。どこの業界に行っても、それなりに通用すると思い込んでいた。

    自分はなんて傲慢だったのだろう。本当は、意識を失っている人を前にして恐怖で固まってしまうくらい、役立たずなのに。

    ◇

    レスキューされた男性はその後、意識を取り戻した。

    「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。雨の中を歩いてきて、やっと小屋が見えたあたりで身体が動かなくなって……。気づいたらここにいたんです。助けていただき、ありがとうございました」

    ぼそぼそしているが、丁寧な口調だった。小倉さんが客室に案内すると、男性は自分で歩いて客室まで行った。個室を用意し、ストーブを設置した。食欲がないというので、夕食はキャンセルして、ゼリー飲料を提供した。

    そんなことがあったにも関わらず、仕事が終わって従食の時間になると、いつもと変わらないなごやかな雰囲気だった。まるでレスキューなんてなかったかのようだ。

    「翔は今夜が最後だから、とっておきのお肉を使ったよ」

    香穂ちゃんが作ってくれたのは、塊肉のポトフだった。昆布だしとにんにくが効いた、大根が入った和風ポトフだ。食べると、さっきまでの自己嫌悪が少し和らいだ気がした。

    いつものようにワイワイと夕飯を食べた。これが最後だと思うと、寂しいものがあった。

    夜になると、雨はすっかり上がっていた。最後だから星空を目に焼き付けておきたくて小屋の前のベンチへ行くと、先客がいた。香穂ちゃんだ。黒いダウンを着ている。俺は、香穂ちゃんの隣に座った。

    「翔も星見に来たの? 雨上がりの星はいいよ」

    濃紺の広い空に、無数の星がまたたく。山に来てからすでに何度か見ているけれど、何度見ても星の多さに驚く。星座には詳しくないが、夏とは少し星の位置が変わっているのがわかった。

    「今日、すみませんでした」

    俺が言うと、空を見上げていた香穂ちゃんが「何が?」と俺の顔を見る。

    「低体温症の人がレスキューされてきたとき、俺、怖くてボーっと突っ立っちゃって。ぜんぜん役に立てなかった。えっちゃんは脈測ったりしていたのに。俺だけ役立たずで、すみません」

    暗くて表情が見えないが、香穂ちゃんは小さく笑っている。

    「なんだ、そんなことか。当たり前だよ。意識失ってる人を前にして、冷静でいられるえっちゃんが特殊なんだよ。さすが介護士だよね」

    「俺、すごい自分が情けなかったんです。山小屋の仕事、俺はえっちゃんより要領よくできてるってうぬぼれてた。でも、肝心なところでダメだった」

    「そんなふうに思う必要はないよ。私なんて、最初は今の翔よりずっと仕事できなかった。でも、続けてるうちに少しずつできるようになっていったよ」

    香穂ちゃんは星を眺めながら言う。

    「人は、成長するからね」

    俺は山小屋で成長できただろうか。

    成長できたところがあるとすれば、山小屋の仕事にリスペクトを持てるようになったことだ。

    はじめは「誰にでもできるイージーでやりがいのない仕事」だと思っていた。けれど、山小屋は登山者に食事と寝床を提供し、登山者の安全を守る大切な仕事だ。この仕事を一生の仕事に選んだ小倉さんの気持ちがわかるし、この仕事を長く続けられる人を、俺は心から尊敬する。

    「俺、成長できたのかな」

    「うん。来たときより、ずいぶん素直になったと思うよ」

    香穂ちゃんは、俺が山小屋の仕事を見下していたことに気付いていたのかもしれない。

    「翔なら、どこに行っても大丈夫」

    ◇

    翌朝は快晴だった。

    低体温症でレスキューされた男性は、すっかり顔色がよくなり、朝食も他のお客さんと一緒に食べられた。身体は大丈夫そうだが、念のためにもう一泊していくという。

    俺は朝食を食べたあと、みんなに見送られて山小屋を出た。涙腺が緩い仁菜は泣いていて、他のみんなは笑顔だった。何枚も小屋の看板の前で写真を撮り、手を振って、歩き出した。振り返ったら、みんなはまだ小屋の前で手を振っていた。

    稜線の一本道をぐんぐんと歩く。寂しいような、清々しいような気持だった。

    歩けば歩くほど、2ヶ月半も連絡を絶ってしまった梨央のことや、これから始まるインターンのこと、来年の就活のことが頭の中に湧いてくる。

    そのたびに、打ち消すように山小屋の記憶を思い出した。ご来光を見たこと。ヘリが大変だったこと。えっちゃんと歩荷に行ったこと。みんなで山頂へ行き、夕焼けを見たこと。

    そのときは、大切な思い出になるなんて思っていなかった。一瞬一瞬を、ただ当たり前に過ごしていた。けれど今思えば、あれらの光景は、一生忘れられない記憶になるのかもしれない。

    もしも予定通り大手企業に就職できたとして、オフィスビルの中で毎日を過ごしているとき、俺は山で過ごした今年の夏を思い出すだろうか。うまくいかないことがあったとき、「だけど俺は、2800メートルのそこそこ過酷な職場で働くことができたし」という成功体験を思い出し、自信を取り戻すだろうか。

    3時間ほど歩いたところでお腹が空いたので、岩に座って、朝に香穂ちゃんが持たせてくれた大きなおにぎりを食べる。いつだったか水場に行ったときに作ってくれたのと同じで、一つは梅干し、もう一つはおかかマヨだ。

    アルミホイルにくるまれた大きなおにぎりにかぶりつく。おにぎりは塩が効いていておいしい。海苔が少ししんなりしているのも、かえって好きだ。なぜか、ゆうべの香穂ちゃんの「翔ならどこに行っても大丈夫」という言葉が甦ってきた。

    食べれば食べるほど、本当に大丈夫な気がしてきた。もともと、この先の人生も自分ならうまくやっていくだろうと思っていたけれど、表面的な「うまくやる」だけではなく、ちゃんとそのときどきで目の前の物事に一所懸命になれる気がした。

    そのまますいすいと下山して、登山口に着く。マイクロバスで電車の駅まで移動し、電車に乗ってターミナル駅に出た。そこからは高速バスで東京に帰る。

    山ではフリースを着ていたというのに、下界ではTシャツでも暑い。駅の雑踏の音が嫌に耳につく。山がいかに静かだったかを思い知った。

    高速バスが新宿に着き、そこから電車に乗った。大きなザックを持っているから、周りの人の迷惑にならないように、なるべく縮こまる。最寄り駅に着いたとき、ふと、香穂ちゃんの言葉を思い出した。

    「下山したら全力でダッシュしてみ。ぜんぜん息切れないから」

    駅から自宅アパートまで、夜の住宅街を全速力で走った。たしかに苦しくないが、蒸し暑い下界の空気が肌にまとわりつく。なんだか笑い出したくなって、声を出して笑ってしまった。樹生くんと水場に行ったときみたいだ。

    走っても走っても、たぶんいい方向にしかいかない気がした。失敗したら反省して、そこからまた立ち上がればいい。そんな当たり前の前向きさを、山に行く前の自分はどこかでバカにしていた気がする。

    自宅アパートの前についた。ポケットからスマホを取り出し、カメラとしてしか使っていなかったそれの機内モードを解除する。夜の暗闇の中で、梨央の連絡先を探した。


     
    ライター/著書『山小屋ガールの癒されない日々(平凡社)』『方向音痴って、なおるんですか?(交通新聞社)』 /有料記事は知人に読まれたくないだけで有益な情報じゃないです/お仕事のご相談はsaki.yoshidama@gmail.comへ

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