
退職代行屋、幽霊を辞めさせる—第1話
第1話 死んだ社員から退職代行の依頼が来た
会社を辞められなかった人は、死んでも出社する。
それを知ったのは、火曜日の午前二時だった。
退職代行リーブライトの夜間相談窓口に、ひとつの通知が届いた。
私はそのとき、コンビニの冷めたカフェラテをすすりながら、三日前から返事のない依頼者に送る文面を考えていた。
退職の意思に変更がない場合は、明日午前十時に弊社より勤務先へご連絡いたします。
この一文を、もう七回書き直していた。
退職代行という仕事は、たぶん世間が思っているよりずっと地味だ。
泣きながら電話してくる人がいる。
怒鳴りながら申し込む人がいる。
「明日から会社に行かなくていいですか」と、子どもみたいな声で聞いてくる三十代もいる。
でも、こちらがやることは基本的に変わらない。
本人確認。
委任範囲の説明。
勤務先への連絡。
貸与物の返却方法。
退職届の送付。
未払い賃金、有給、社会保険、離職票。
言葉だけ並べると、役所のパンフレットみたいだ。
だけど、そのひとつひとつが、誰かにとっては命綱になる。
だから私は、夜中でも通知を切らない。
新しい相談フォームを開いた。
依頼者名。
黒川直人。
年齢。
三十四歳。
勤務先。
東都システムロジック株式会社。
雇用形態。
正社員。
退職希望日。
できるだけ早く。
ここまでは普通だった。
問題は、次の欄だった。
「現在の状況を簡単にご記入ください」
そこには、こう書かれていた。
十一日前に死亡しました。
それでも会社に行っています。
退職させてください。
私は、画面を見つめた。
午前二時の事務所は、妙に静かだった。
エアコンの音。
古い冷蔵庫の低い唸り。
隣のデスクで、桐谷さんが寝袋にくるまっている。所長なのに、いちばん事務所に泊まる人だ。
私はカフェラテを置いた。
もう一度、画面を読んだ。
十一日前に死亡しました。
悪質ないたずら。
そう判断するのが普通だった。
退職代行の相談窓口には、変な問い合わせも来る。
「上司を辞めさせたいです」
「夫を会社から解放してください」
「異世界勤務ですが対応可能ですか」
最後のは少し笑ったけれど、対応履歴にはちゃんと「対象外」と残した。
今回も、そうすべきだった。
でも、私は削除ボタンを押せなかった。
理由は、添付ファイルだった。
一枚の画像。
死亡診断書の写真だった。
名前は、黒川直人。
死亡日は、十一日前。
死因欄には、ぼかしが入っていた。
いたずらにしては手が込んでいる。
本物なら、もっと悪い。
私は首の後ろをさすった。
退職代行は、死者の依頼を受けない。
というより、受けたことがない。
そもそも死者は労働契約を終了しているはずだ。
法律以前の話として、死んだ人は出勤できない。
できない、はずだった。
私は返信欄にカーソルを置いた。
黒川様
お問い合わせありがとうございます。
恐れ入りますが、ご本人確認のため——
そこで手が止まった。
ご本人確認。
死んだ本人に。
私は小さく笑ってしまった。
深夜の事務所でひとり笑うと、笑い声はびっくりするほど薄っぺらく響く。
そのとき、電話が鳴った。
夜間相談用のスマホではない。
事務所の固定電話だった。
固定電話。
いまどき、営業電話か、役所か、ものすごく古い会社しか使わない。
しかも午前二時だ。
桐谷さんが寝袋の中で「出ないで」と言った。
起きていたらしい。
「なんでですか」
「午前二時の固定電話は、だいたい人生が詰んでる」
「うちの仕事、だいたいそうですよ」
「それもそうか」
電話は鳴り続けていた。
私は受話器を取った。
「退職代行リーブライトでございます」
数秒、何も聞こえなかった。
それから、男の声がした。
「黒川です」
私は背筋を伸ばした。
声は若かった。
疲れていた。
泣いてはいない。
でも、泣くよりずっと深い場所で、何かが割れている声だった。
「先ほどフォームを送られた黒川直人様でしょうか」
「はい」
「確認のため、お電話番号を——」
「電話番号はありません」
「……現在お使いの番号ではなく、ご登録いただいた携帯番号で結構です」
「携帯、会社にあります」
「では、ご自宅の——」
「家には帰れていません」
受話器を持つ手に、少し力が入った。
「黒川様。現在、どちらにいらっしゃいますか」
向こうで、かすかに電子音が鳴った。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
まるで、誰かが入退室カードを何度もかざしているような音だった。
「会社です」
私は時計を見た。
二時七分。
「勤務中ですか」
「たぶん」
「たぶん?」
「席に座ると、朝になります。気づくと会議に出ています。昼になると、コンビニのおにぎりを買いに行こうとして、エレベーターの前で戻されます。夜になると、誰もいないオフィスで資料を直しています」
「いつからですか」
「死んでからです」
私は何も言えなかった。
電話の向こうで、男が息を吸う音がした。
いや、正確には、息に似た何かだった。
「退職届を出したんです」
「いつですか」
「死ぬ三日前です」
「会社は受理しましたか」
「していません」
「理由は」
「繁忙期だから」
私は目を閉じた。
その言葉なら、何度も聞いた。
繁忙期だから。
今は人が足りないから。
引き継ぎが終わっていないから。
君が抜けたら困るから。
社会人なんだから責任を持て。
みんな我慢している。
逃げるのか。
この手の言葉は、なぜかどの会社でも同じ顔をしている。
「黒川様」
私は、できるだけいつもの声を出した。
相談者がパニックになっているときほど、こちらは事務的でなければならない。
事務的であることは、冷たいことではない。
相手が沈まないように、床を作ることだ。
「弊社は退職の意思表示を、勤務先へ代わってお伝えするサービスです。ただし、弁護士業務にあたる交渉はできません。また、ご本人様の状況によっては、対応範囲の確認が必要になります」
「死んでいるからですか」
「……はい」
「死んでいたら、辞められませんか」
その質問は、おかしかった。
おかしいのに、笑えなかった。
私は父のことを思い出した。
四十九歳だった。
死亡診断書には、急性心不全と書かれていた。
会社の人は、葬儀でこう言った。
「責任感の強い方でした」
私はその言葉を、今でも許していない。
責任感という言葉は、便利だ。
誰かが壊れるまで働いた理由を、きれいに包んでしまう。
黒川さんは、電話の向こうで黙っていた。
私は言った。
「辞められます」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
寝袋の中で、桐谷さんが動いた気配がした。
「少なくとも、辞める意思をなかったことにはさせません」
受話器の向こうで、電子音が止まった。
「本当ですか」
「はい」
「会社は、僕が死んだことを知っています」
「はい」
「でも、出勤記録が残っているんです」
「出勤記録?」
「毎朝、打刻されています。僕の社員証で」
私はメモを取った。
死亡後の打刻。
社員証。
未受理の退職届。
東都システムロジック。
「黒川様。確認させてください。社員証はどこにありますか」
「僕の机です」
「会社のどなたかが使用している可能性は」
「あります」
「心当たりは」
電話の向こうで、何かが落ちる音がした。
紙の束。
あるいは、ファイル。
黒川さんの声が、急に遠くなった。
「すみません」
「どうしました」
「課長が来ました」
私は事務所の壁時計を見た。
二時十三分。
「この時間にですか」
「はい」
「黒川様、可能であればその場を離れてください」
「離れられません」
「なぜですか」
「呼ばれました」
「誰に」
少しの沈黙。
それから、黒川さんは言った。
「黒川、資料まだ?」
背中が冷えた。
今の声は、黒川さんの声ではなかった。
低くて、平坦で、相手を人間だと思っていない声。
続けて、電話の向こうで別の音がした。
キーボードを叩く音。
プリンターの起動音。
蛍光灯の震える音。
オフィスの音だった。
深夜のオフィスの音。
私は受話器を握った。
「黒川様。聞こえますか」
返事はない。
「黒川様」
しばらくして、かすれた声が戻ってきた。
「すみません。戻されました」
「どこへ」
「席に」
私は、胸の奥で何かが小さく鳴るのを聞いた。
怒りだった。
恐怖より先に、怒りが来た。
死んでもなお、席に戻される。
そんなことがあっていいわけがない。
「黒川様」
「はい」
「明日の朝、弊社から御社へ連絡します」
「会社は、受けないと思います」
「それでも連絡します」
「僕は、どうすればいいですか」
私は一瞬、答えに迷った。
退職届を書いてください。
社員証を返却してください。
貸与物を整理してください。
普段ならそう言う。
でも、死んだ人に返せるものと、返せないものがある。
「まず、退職の意思をもう一度確認させてください」
私は言った。
「黒川直人様。あなたは、東都システムロジック株式会社を退職したい。これで間違いありませんか」
電話の向こうで、長い沈黙があった。
たぶん彼は、その言葉を待っていた。
誰かに確認してほしかったのだ。
死んだことではなく。
壊れたことでもなく。
迷惑をかけたことでもなく。
ただ、自分が辞めたいと思ったことを。
「はい」
黒川さんは言った。
「退職したいです」
私はメモに、そのまま書いた。
退職意思あり。
その五文字を書いた瞬間、事務所の照明が一度だけ点滅した。
桐谷さんが寝袋から顔を出した。
「相良さん」
「はい」
「今、誰と話してる?」
私は受話器を押さえて、小声で答えた。
「依頼者です」
「固定電話、線抜いてあるよ」
私は、机の下を見た。
確かに、固定電話のケーブルは抜けていた。
黒いコードの先が、床に転がっていた。
それでも受話器の向こうからは、黒川さんの声が聞こえていた。
「相良さん」
私は、まだ名乗っていなかった。
「明日、会社に来てくれますか」
窓の外で、始発前の街が青く沈んでいた。
私は息を吸った。
父の葬儀の日の線香の匂いが、なぜか一瞬だけ鼻の奥をかすめた。
「行きます」
そう答えると、電話は切れた。
受話器から、ツー、ツー、という音だけがした。
線の抜けた電話から。
私はしばらく、その音を聞いていた。
桐谷さんが、寝袋のまま言った。
「相良さん」
「はい」
「その依頼、受けるの?」
私は、メモの最後に一行を書き足した。
会社を辞められなかった人は、死んでも出社する。
そして言った。
「受けます」
午前二時十八分。
退職代行リーブライトは、初めて幽霊の退職を受任した。
──
作者より
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
「辞めたい」と言うことさえ許されなかった人の声を、相良と一緒に少しずつ拾っていく物語です。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたら、スキ・コメント・フォローで応援していただけるとうれしいです。
次回
第2話 受理されなかった退職届
黒川直人は、死ぬ三日前にたしかに退職届を出していた。
けれど会社は、それを「受け取っていない」と言う。
しかも彼の社員証は、死亡後も毎朝、出勤を記録し続けていた。
──
全15話構成案
死んだ社員から退職代行の依頼が来た
受理されなかった退職届
死亡後も打刻する男
看護師は夜勤を降りられない
工場のラインは止まらない
塾講師の最後の授業
コンビニ店長、欠勤ゼロ日目
市役所の窓口で待つ人
父の退職届
辞めさせない会社
人事部の地下倉庫
父を殺した判子
最後の依頼人
退職代行屋、自分を辞めさせる
受理印