【エッセイ】音楽における「こう来たらこう!」の感覚と“外さない”作曲家バッハ
先日とある曲を初めて聴いた。
その曲を歌っているグループは私の好きな曲調が多く、よくSpotifyで聴いているのだが、シャッフル再生に入ってまだ一度も聴いたことのないその曲が耳に入ったのだ。
Spotify無料会員である私は運営の課金圧に負けることなく、大人しく強制シャッフルに身を任せた。
前奏、良い。
Aメロ、良い。
Bメロ、良い。
いいぞ。やっぱりこのアーティストは信用出来る。
サビへの期待感が自然と高まる。
そして、サビ。
とんだ肩透かしを喰らう。
前奏から積み上げていった盛り上がりがすべて台無しになるサビだった。
例えるならせっかく個性的でエッジの効いたメロディで構築していったのに、サビで急にありきたりなJ-POPになってしまった感じだ。
肩を落としてアプリも落とした私は、環境音に塗れた通勤路を歩きながらふと不思議に思った。
さっきサビを聴いた時に思った「そのサビじゃないだろ!」という感覚はどこから来ているのだろう。
究極を言ってしまえば「好み」の一言なんだろう。
料理を作れなくても美味しい、まずいの判断は出来るし、絵を描けなくても人の描いた絵の上手い下手、好き嫌いも判断出来る。
ただ、料理と絵は全くの未経験ではないため、一応作り手の目線に立てる。
なのに、音楽については作曲の経験が全くないのになぜか「ここはこうじゃないだろ!」と思ってしまうのだ。
なんというかセオリーのような曲の展開だけがどこか頭の中であって、そこから外れると気持ち悪いと思ってしまうのだ。
じゃあ、そのセオリーを開示してみろと言われても無理なのだ。
ただうまく言えない「こう来たらこうだろ!(説明不能)」が存在するのだ。
そのせいなのか、私には「好きなアーティスト」がほとんどいない。
どんなアーティストでも数曲(私にとって)外れない曲を出すことは出来てもそれ以上はなかなかいない。
だから、曲単位で好きになるしかない。
唯一邦楽で好きなのがPlastic Treeだが、彼らは奇跡的にその“セオリー”から大きく外れることをしないのだ。
勿論全部の曲が病みつきになるくらい好きなわけではない。
が、私にとっての一本線のような厄介なセオリーを時に大胆に逸らしてくるようで、概ね綺麗になぞってくれる。
Spotifyの無慈悲シャッフルにも耐えられる稀有なアーティストだ。
そして、実はもう一人、絶対セオリーを外さない作曲家がいる。
バッハだ。
普段の私はクラシックより断然ロック派だが、バッハだけは下手なロックミュージシャンよりも正確に線をなぞってくる。
正確さだけでいえばPlastic Treeよりも上だ。
楽器も演奏人数も関係なく、彼の曲はいつも安心して聴ける。
私は長い曲が苦手なのだが、それはドパガキ的な意味だけでなく、長ければ長いほど一本道セオリーから外れる確率が高くなるからだ。
それでもバッハは絶対に外さない。
おかげでアルバムまるごと流しっぱなしでもずっと心地良く聴くことが出来る。
おかげでバッハが好きなのに好きな曲名が言えない。
ランダムの流しっぱなしで満足してしまい、曲名を覚えておくのを忘れるからだ。
以上最初は冒頭の曲の愚痴を書こうと思っただけなのに、いつのまにかバッハ讃歌になった記事でした。
もしバッハに詳しい人がいたら、バッハはどうしてこんなにも「外さない」のか語ってもらいたいなと思います。
また、噂によると「女性にウケやすい旋律」や「オタクが好きな曲調」等という作曲における本物のセオリーもあるらしいですね。
久しぶりにバッハ聴こうかな。
今度は曲名を覚えておかなければ。
