
地獄、その先、<9> (最終章)【 #創作大賞2026 #恋愛小説部門 】
風が吹くと、熱気が身体を包み込み、身体中の毛穴から水分がじわっと出てくる。でも、もうすぐこの不快感も味わわなくて済む。秋になれば、少しだけ冷たい風が吹き、身体の熱と混じって、ふわふわとした心地よさを感じられる。
もうすぐ、夏が終わる。同じように、僕たちも終わる。次の季節がきた時、僕と透雨は一体どんな身体をしているのだろうか。来年また夏が来れば、僕たちは今と同じような姿に戻ってしまうのかもしれない。
僕は登山口に突っ立って、スマホを見つめていた。
「何見てるの?」
僕は透雨にスマホを見せた。
「綺麗」
「あぁ。これを今から見に行く」
「どうせなら、写真じゃなくて実物を最初に見たかったな」
「写真と実物は全然違うから大丈夫」
「実物見たら、私はなんて思うんだろ」
「さぁ。行こっか」
僕たちは山を登り始めた。
僕が透雨の少し先を歩き、時々振り返って様子を確認した。少し後ろを歩く透雨の足音のリズムに耳を澄ませた。
時間が経つにつれて、透雨の足音のリズムが崩れ始めた。それでも、前を向いて一生懸命歩こうとしている。
普段から、このくらいの熱で生きてくれれば、僕はここまで苦しまなくてすんだ。
静かに呼吸をする僕。呼吸が乱れる透雨。今の透雨を見ていると、普段の自分を見ているようだ。苦しい。辛い。もう逃げたい。それでも、必死に生きようとして、前に進む。その苦しみを今、透雨は味わっている。
「大丈夫か」
「......うん」
「いや、ちょっと休憩しようか」
「ごめん」
僕は透雨に水筒を差し出した。透雨は一口ずつ、ゆっくりと水を飲んでいる。
僕は周りの景色を見渡した。山はどこに意識を向けるかで、感じる匂いが変わる気がする。僕が踏んでいる土に意識を向ければ、湿った重い匂いがするし、木に意識を向ければ、深呼吸をしたくなるような軽い匂いがする。
山に何枚も落ちて重なっている落ち葉は、時間が積もっている匂いがする。落ち葉は、時間が過ぎれば土に還っていく。ならば、それまで少しでも、生きた実感を得たいはずだ。
僕は落ち葉が重なっているところに移動し、層を蹴り飛ばした。少しの間、ひらひらと葉っぱが宙を舞う。その時間が、僕にはすごくゆっくりに思えた。土という現実に触れれば、あとはもう消えるしかないのだから。
「もう大丈夫」
「そっか。あと少しだから頑張ろう」
僕たちは再び、山頂を目指し始めた。
再び歩き始めてから、透雨の足音のリズムが崩れることはなかった。僕が振り返って表情を確認しても、鋭い目つきで上を睨みながら歩いているだけ。僕には、何が透雨をそこまで変えているのかよくわからない。もしかしたら、山頂からの景色を見れば、本当に何か変わるのかもしれない。
「着いた」
透雨は微かに息を切らしながら、身体を前後左右、全部の方向に向けて景色を眺めていた。
透雨は黙ったまま、笑っていた。その笑顔は、僕が触れたくて仕方なかった、あの時と同じものだった。このまま、どこにも落ちずに済む未来が、まだ残っている気がした。
透雨は僕に背を向けて言った。
「ここから見える景色ですら、世界のたった一部。結局、私たちはこんな世界で生きていくしかないんだね」
「うん」
「もう、全部終わったんだ」
「これからだよ」
「あ、雨降ってきたね」
僕は透雨の隣に立ち、背中に手を回した。その背中は僕の手の熱をどこまでも吸い込み続ける。熱は重なり、溶けて一つになる。
山頂を吹き抜ける風が、僕たちの喉に、乾いた砂のように流れ込む。身体にまとわりつく雨粒も、少しずつ吸収されていく。
今、この瞬間も、僕たちの身体は変化し続けている。僕たちはもう、二度と元の形には戻らない。
何度も何度も、強い風が吹いた。透雨の背中に触れている手が風に押され続ける。
「ソラ? 手、震えてる」
透雨が一歩後退りをした。
もう、一緒に行こう。行きたいんだ。現実という名の地獄の、その先へ。