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【 #エッセイ 】『名前を呼ばれない働き方をしている』 #創作大賞2026 #エッセイ部門


    ◻️その日、
    私は一度も名前を呼ばれなかった


    「タイミーさん、こっちお願いします」
    「そこのお兄さん、それ運んで」
    「終わったら次、あっち入ってください」

    確かに指示は私へ向けられていた。
    けれど、そこに“私”はいなかった。

    名前ではなく属性で呼ばれる。
    個人ではなく、労働力として扱われる。
    最初はその違和感に少し戸惑った。
    だが、二度、三度と現場を重ねるうちに、
    それがこの働き方の本質なのだと
    理解した。

    必要なときだけ呼ばれ、
    用が済めば帰される。
    誰かが休めば代わりに入り、
    不要になれば静かに消える。
    私は“代替可能な人間”として働いていた。

    けれど、もともとそういう働き方を
    望んでいたのは、ほかでもない私自身だった。


    ◻️三年半勤めた企業を辞めた


    2024年5月。
    私は三年半勤めた企業を辞めた。

    派遣社員として働いていたその職場は、
    決して高給ではなかったが、
    私にとっては都合がよかった。
    通っていたダンススタジオに近く、
    通勤の交通費もかからず、
    業務もほぼ座り仕事。
    “働く場所”としては悪くなかった。

    だが、三年も経てば人も環境も変わる。

    増床。
    人員増加。

    職場の空気は少しずつ変わり、
    通っていたダンススタジオの
    インストラクターたちも次々と辞めていった。
    気づけば、その場所に居続ける理由は
    なくなっていた。

    『もう辞めるか』

    そう思ってから、一か月もかからなかった。

    私は昔から、組織に属することが
    苦手だった。
    毎日同じ時間に起き、同じ場所へ向かい、
    同じ顔ぶれに囲まれ、
    似たような会話を繰り返す。
    そういう生活に、
    どうしても耐えられなかった。

    だから退職後、
    最初に選んだのはウーバーイーツだった。

    ◻️理想の働き方に思えた


    好きなときに働ける。
    誰にも縛られない。

    最初は理想の働き方に思えた。
    けれど、現実はそう甘くなかった。

    稼げる時間帯は限られている。
    ブーストは消え、維持費は重く、
    閑散期には依頼も激減する。
    自由とは、ただ“保障がない”ということ
    でもあった。

    次に登録した日雇い派遣も長くは
    続かなかった。
    選考があり、案件には入れず、
    募集要項は曖昧で、都合の悪いことは
    はぐらかされる。
    そのくせ、希望していない案件の
    営業電話だけはよくかかってきた。

    そして職場では、こう呼ばれる。

    「お兄さん」

    名前ではない。
    そこにいる“誰か”でしかない呼び方だった。

    それでも私は思っていた。
    もっと自由に、もっと合理的に働ける場所が、どこかにあるはずだと。

    そうして辿り着いたのが、タイミーだった。


    ◻️これこそが理想なのではないか


    自分で仕事を選べる。
    嫌な職場は二度と行かなければいい。
    人間関係に縛られず、その日その時だけ
    働けばいい。

    初めて使ったとき、私は確信した。
    これこそ、自分にとって理想の働き方だと。

    ——少なくとも、その時までは。

    2026年4月現在。
    タイミー使用回数200回以上。
    実働1300時間以上。
    シェアフルを含めれば、
    単発労働の現場は数えきれない。

    その中で私は、
    この社会のあらゆる“歪み”を
    目撃することになる。
    そして何より知ったのだ。
    名前を呼ばれない働き方は、
    思っていた以上に人を削るのだと。

    ◻️現場ごとに違う
    “単発バイトへの温度”


    現場を転々としていると、
    嫌でも見えてくるものがある。
    それは、「良い職場」と「悪い職場」の違いだ。

    単発バイトという立場だからこそ、
    その差はむしろ鮮明に浮かび上がる。

    丁寧な職場は、
    最初から最後まで丁寧である。
    担当者は同じ空間にいて作業説明をし、
    適宜様子を見に来る。
    そして終業後には必ず評価コメントを
    残してくれる。

    ほんの数十秒で済むその行為を、
    彼らは“労働者への礼儀”として
    理解している。

    一方で、雑な職場は驚くほど雑だ。

    「はい、これやっといて」
    「経験者ですよね?」
    「前と同じ感じで」

    そう言い残して、
    担当者はどこかへ消える。
    そこにあるのは信頼ではない。
    放棄である。

    説明責任を果たさず、
    曖昧な指示だけを残し、
    問題が起きれば
    “理解していなかった側”
    の責任にされる。
    そして自分たちの想定と少しでも違えば、
    露骨に不快そうな顔をする。

    知らない現場で、知らないルールの中、
    初見の作業を“当然できる前提”で
    押しつけられる。
    単発バイトとは、
    その理不尽の受け皿になりやすい
    立場なのだ。


    ◻️構造の象徴


    単発バイトとは便利な存在だ。
    責任だけは正社員並みに求められ、
    待遇は消耗品以下なのだから。

    その構造を象徴しているのが、
    終業後レビューの有無である。
    レビューは数秒で終わる。
    しかし、その数秒がこちらの次の仕事を
    左右する。

    ギグワーカーにとって評価は生命線だ。
    高ければ案件は増え、
    低ければ「応募条件を満たしていません」
    と静かに弾かれる。

    この世界では、
    人間性より先に“数値”が見られる。
    人格より先に、“グッド率”が審査される。

    私はそこでようやく理解した。
    ここでは人は人として見られていない。
    “性能付きの労働力”として
    管理されているのだと。


    ◻️単発に慣れていくということ


    朝、案件を探す。
    条件を見る。
    保存する。
    募集開始を待つ。
    通知が鳴った瞬間に応募する。

    働く。
    帰る。
    また探す。

    その繰り返し。
    不安定なはずなのに、
    不思議と不安はなかった。
    むしろ私にとっては、
    この働き方こそが楽園だった。

    人間関係を築かなくていい。
    飲み会もない。
    意味のない雑談もない。
    組織への忠誠も求められない。
    求められるのは、決められた時間に、
    決められた場所へ行き、
    決められた作業をこなすことだけ。

    それだけでいい。

    初めて単発に入った日の緊張感は、
    もう遠い記憶の中にある。
    いつしか私は、
    初対面の職場に怯えることもなくなった。

    どの現場にも独自の空気がある。
    「ここではこう振る舞え」
    という暗黙のルールがある。

    “足並みを揃えろ”
    “空気を読め”
    “察して動け”

    そうした圧力は、どこの職場にもある。
    一度は私も、そこに適応しようとした。
    人間らしく振る舞おうとした。

    だが、やめた。

    空気を読むことに人生を削るくらいなら、
    嫌われたほうがまだましだった。
    私は意図して、

    “組織に馴染む努力”

    を捨てた。
    与えられた仕事を淡々とこなす。
    必要以上に近づかない。
    期待もしない。
    失望もしない。

    それが、この世界で摩耗しないための
    生き方だった。


    ◻️自衛として身についた流儀


    単発を続けるうちに、
    私は自然と“傷つかないための作法”を
    覚えていった。

    ① 挨拶は短く、はっきりと。
    愛想ではない。礼儀でもない。
    敵意を持たれないための予防線だ。

    挨拶を怠れば、
    「感じが悪い」
    「扱いづらい」
    と判断される。
    その瞬間、評価は死ぬ。
    だから最低限の社交性だけは演じる。

    ② 職場の人間とは必要以上に関わらない。
    雑談はしない。
    踏み込まない。
    踏み込ませない。

    どうせ今日限りの関係だ。
    情を持つだけ無駄である。

    ③ 終業後は感謝だけを置いて去る。
    「ありがとうございました」
    その一言だけでいい。

    媚びない。
    喋りすぎない。
    印象に残りすぎない。

    爪痕ではなく、“無難”を残して去る。

    そうして私は、どの現場でも
    “そこそこ使える無個性な労働力”
    として振る舞う術を覚えた。

    皮肉な話だ。
    社会に適合できなかった私が、
    社会に最も都合のいい
    “無色透明な労働者”
    になる技術だけは、
    誰よりも上達していったのだから。


    ◻️正社員/固定メンバーとの対比


    正社員や固定メンバーを見ていると、
    彼らには彼らなりの重みがあるのだと
    分かる。

    毎月のシフト提出。
    責任ある持ち場。
    引き継ぎ。
    欠勤すれば誰かに迷惑がかかり、
    辞めるにも順序と理由が必要になる。

    組織に所属するということは、
    自由と引き換えに責任を
    背負うということだ。

    その点、単発バイトは違う。

    募集がある。
    応募する。
    働く。
    終われば帰る。

    極論、それだけで成立する。

    もちろんスケジュール管理は必要だ。
    だが固定シフトのように、
    一か月先まで人生を拘束されることはない。
    案件が出ても、入りたくなければ入らない。
    それで誰かに咎められることもない。

    何度か、現場の社員やリーダーに
    「次も来れませんか?」
    「この日、人が足りなくて」
    と声をかけられたことがある。

    だが私は、その場で曖昧に笑って、
    二度と応募しなかったこともある。
    無責任だと思う人もいるだろう。
    常識がないと言う人もいるだろう。

    それでも、私は思う。

    それでいいのだ。

    誰にも人生を握られないこと。
    嫌な場所に「もう行かない」という
    選択肢を持てること。
    それは、この時代において極めて
    強い権利だ。

    自由とは、持っているだけでは意味がない。
    行使して初めて武器になる。
    私はその武器を、
    必要なときにはためらわず使う。


    ◻️名前を持つ者/持たない者


    長くその場にいる人間には、
    名前がある。

    「田中さん」
    「佐藤さん」
    「〇〇リーダー」

    そこには、個人として認識される
    権利がある。
    だが、単発バイトにはそれがない。

    「おい」
    「お兄さん」
    「そこの人」
    「男の人」

    名札を渡される現場もある。
    だが、あれは単なる識別タグにすぎない。
    そこに人格は宿っていない。

    私たちは“人”というより、
    その日だけ補充された労働力の記号だ。
    欠けたら補充される。
    壊れたら入れ替えられる。
    誰でもいい。
    代わりはいくらでもいる。

    それを痛感した現場は、
    一度や二度ではない。

    最初は傷ついた。
    腹も立った。
    けれど回数を重ねるうちに、
    私は理解した。
    これは個人への侮辱というより、
    システムそのものの設計なのだと。

    そう思わなければ、
    自分の尊厳を保てなかった。
    だから私は、一歩引いた場所から
    その光景を見るようになった。

    ここは、そういう世界なのだと。


    ◻️所属のある人間への羨望と距離感


    固定の居場所を持つ人間を見て、
    羨ましくなかったと言えば嘘になる。

    社員証を首から下げ、
    当然のように雑談し、
    当然のように翌日もそこへ来る人々。
    その輪の中に自然に溶け込める人間たち。

    「もっと器用に生きられていたら」
    「もっと社会に適応できていたら」

    そう思ったことは、一度や二度ではない。
    いや、おそらく何万回もある。

    だが、そのたびに自分を他人の型に
    押し込めようとして、心が軋んだ。
    適応できない自分を責め、
    なれない誰かになろうとして、
    精神をすり減らした。

    だからもう、認めることにした。
    私は、あちら側の人間ではないのだ。

    組織に深く根を張り、
    同じ場所に留まり続ける生き方に、
    どうしても息苦しさを覚えてしまう。

    羨望はある。
    だが、憧れきれない。
    近づきたいのに近づけない。
    理解したいのに同化できない。

    その距離感ごと、きっとこれが私なのだ。

    そして今では思う。
    どこにも所属できなかったからこそ、
    見える景色がある。
    名前を呼ばれない場所を何度も
    渡り歩いたからこそ、書ける言葉がある。

    私は“所属できなかった人間”ではない。
    “所属の外側から世界を見てしまった人間”
    なのだ。

    ◻️ギグワーク時代の労働とは何か


    ギグワークとは、
    単なる新しい働き方ではない。
    それは、雇用という制度そのものが
    変質し始めた時代の象徴である。

    最低賃金は毎年のように改定される。
    しかし、その上昇を人々が
    実感できることは少ない。
    なぜなら、それ以上の速度で物価が
    上がっているからだ。

    企業は法律に従い、
    最低賃金を支払わなければならない。
    だが、その負担が増せば増すほど、
    企業は固定雇用を避けたがる。

    実際、私の肌感覚でも、
    2025年10月の最低賃金改定を境に、
    それまで頻繁に募集していた案件が
    急に消えた企業は少なくなかった。
    「人を雇う」ことそのものが、
    企業にとって重い固定費に
    なりつつあるのだ。

    その一方で、社会は今、
    AIという新たな技術革新のただ中にある。
    人件費を削減したい企業と、
    人間を代替しうる技術の進歩。
    この二つが同時に起きていることを、
    果たして偶然と言っていいのだろうか。

    ギグワークは、
    不景気と技術革新が同時に進む
    時代が生んだ、
    ひどく合理的で、
    ひどく人間的ではない
    働き方なのかもしれない。

    ◻️「自由」と引き換えに失うもの


    けれど、この働き方には明確な代償がある。
    それは、協調性だ。
    いや、正確に言えば、協調性を
    “持たなくても生きられる”
    ようになることだ。

    組織に属する以上、人は多かれ少なかれ、
    自分を殺して生きなければならない。

    無能な上司を立てること。
    面白くもない雑談に愛想笑いすること。
    気の進まない飲み会に参加すること。
    理不尽なルールにも従うこと。

    そうした“社会人としての協調性”は、
    多くの場合、仕事の能力とは無関係な
    場所で要求される。
    だがギグワークには、それがない。

    嫌なら次から行かなければいい。
    合わない現場なら切ればいい。
    人間関係に人生を拘束される必要がない。

    これは、
    社会に適応できなかった者にとって、
    ある種の救済ですらある。


    ◻️承認・共同体・居場所


    もちろん、自由には代償が伴う。
    ギグワーカーには、
    会社員が当たり前に持つものがない。

    肩書きがない。
    所属がない。
    昇進もない。
    「〇〇会社の誰々」
    として認識されることもない。

    そこにあるのは、
    ただその日その時間だけ呼び出される
    労働力としての自分だけだ。

    誰かに必要とされている実感。
    組織に属している安心感。
    仲間と呼べる人間関係。
    そうした共同体的な承認は、
    この働き方では手に入りにくい。

    けれど、
    私はそれを必ずしも不幸だとは思わない。

    なぜなら、
    居場所とは与えられるものではなく、
    本来、自分で選び、
    自分で作るものだからだ。

    会社にしがみつかなければ居場所を
    持てない人生より、
    会社の外に自分の世界を持てる
    人生のほうが、よほど自由ではないか。

    確かにギグワークは不安定だ。
    脆い。
    社会的信用も低い。
    それでもその代わりに、
    誰にも支配されない時間を手に入れられる。

    私は思う。
    これからの時代、
    「どこに所属しているか」よりも、
    「所属がなくても生きられるか」
    が問われていくのではないかと。

    ギグワークとは、不完全で、歪で、
    脆い働き方だ。
    だがそれは同時に、
    組織に適応できなかった者たちが、
    社会の外縁で見つけた、
    もうひとつの生存戦略でもある。


    ◻️今日もまた新しい現場へ向かう


    現実的な話をすれば、
    私はこの働き方を、
    ただ消費されるだけの労働では
    終わらせていない。

    新しい現場で見たもの、
    感じたことを記録し、
    記事として発信する。
    そうすることで、
    使い捨てられるはずだった時間を、
    自分の言葉の資産へと変えている。

    使われるだけでは終わらない。
    搾取されるだけでも終わらない。

    社会に組み込まれた負の循環を、
    そのまま飲み込むのではなく、
    別の形に組み替えて、
    自分の糧へ変えていく。

    それが、私なりの生存戦略である。


    ◻️誰にも名前を呼ばれないまま


    もっとも、
    「誰にも名前を呼ばれない」というのは、
    少し大げさかもしれない。

    現場によっては、
    単発の人間にも敬意を持って
    接してくれる人がいる。
    名前を覚えようとしてくれる人もいる。
    “ただの労働力”ではなく、
    “ひとりの人間”として扱ってくれる
    場所も、確かに存在する。

    だからこそ私は、
    そうした小さな誠実さを指標にして、
    次に立つ場所を選ぶ。
    結局のところ、
    自由とは「好き勝手に生きること」
    ではなく、

    “どこに身を置くかを自分で選べること”

    なのだと思う。


    ◻️そうして生きていく


    社会は変わり続ける。
    働き方も、価値観も、
    正しさの定義すらも。

    かつては異端だった生き方が、
    数年後には
    当たり前になっていることもある。
    ならば、今この生き方もまた、
    時代の狭間に生まれたひとつの
    適応形なのかもしれない。

    企業に勤め、組織に属し、安定を得る。
    それが今なお“普通”とされている。
    だが、その普通からこぼれ落ちる
    人間も確かにいる。

    私はそのひとりだ。

    今日もまた、新しい現場へ向かう。
    知らない場所へ。
    知らない人々の中へ。

    たぶん今日も、
    私の名前を覚える者はいないだろう。

    それでもいい。

    名前を呼ばれなくても、私はここにいる。
    誰にも記憶されなくても、
    確かに今日を生きている。

    そして明日もまた、
    私はどこかで働き、
    どこかで書き、
    そうして生きていく。



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    #労働
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