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Photo bywagamama008

喫茶店に住みたかった|いつでも消えていいと思いながら、居場所を探していた話

    将来の夢

    喫茶店に住みたかった。

    ずっとそう思って生きてきた。
    借金を返し終わったら死んでもいい、と思っていた頃も、たぶん心のどこかでそう思っていた。
    叶えたい夢というより、自分だけの、自分のための居場所、という意味で。
    子供の頃の私は、それを「喫茶店のマスターになりたい」と呼んでいた。

    紅茶が好きで、紅茶コーディネーターの資格をとった。
    コーヒーも好きで、お茶菓子を作るのも好きだった。
    何かを飲みながら本を読む時間が好きだった。
    壁には本をたくさん置いて、木漏れ日がさす店内はテーブルが広くて、ギャラリースペースもあったりして。
    たまに珍しい茶葉とか取り寄せて今月のお茶にしたりして。
    店内には焼き菓子の匂いがして。
    お客さんとは少し顔見知りになっちゃったりして。

    中学生くらいの時に、個人経営の喫茶店が閉業する確率はどのくらいなのか、どんな人が始められるのか、土地が安い都道府県はどこなのか調べた。
    東京都の練馬区に生まれ、東京23区での開業なんて無理だろうと思った。
    それでも始める覚悟を持てる人が船を漕ぎ出すのだろうが、自分がそこまでの情熱を持っていないのもわかっていた。

    喫茶店経営は老後の楽しみにしよう。
    私は喫茶店を経営したいのではなく、喫茶店に住みたいだけだ。
    繁盛させる経営のためにあれこれ頑張りたいのではなく、喫茶店という空間にいることがそのまま仕事になってほしいだけだ。
    お金さえあれば、採算度外視の道楽で喫茶店を経営することができるはずだ。
    まずお金を稼ぐのが先決だから、経営の勉強はまだしなくていいし、喫茶店と関係ない職業に就いていい。

    そう自分に言い聞かせて回り道を正当化した。
    口が達者な子供だったので、自分を納得させることにも成功した。

    16歳〜18歳、高校生

    親の借金・離婚、親の恋人出現。
    このあたりから自立願望が強くなっていった。
    マンションから引越し、父は家を出て、母と二人暮らしになった。
    そのうち母が頻繁に恋人を家に連れてくるようになった。
    居心地の悪くなった高校生の私は、追い出されたわけではなく自発的に一人暮らしを始めた。
    物件探しも全部自分でやり、全てが決まってから母に報告した。
    高校生が一人で家を借りるために必要な手続きを丁寧に教えてくれる優しい大家さんに出会えた。
    仕送りなどをもらうことなく、バイトをして生活費を捻出した。
    学費は基本的に免除される成績だったが、一度だけ全額ではなく半額免除になって気まずかった。

    父は法律事務所に勤めていた。
    司法試験には受かっていなかった。
    そこで連帯保証人になって破産したと聞いた。
    私はそれなりに父のことが好きだったので、父を捨てた母のことを責めた。
    当時中高生だったので細かいことは聞かされていなかったが、住んでいたマンションが差し押さえられるなどで察した。
    父のことも母のことも、断片的な情報で一方的に断罪した。

    父とは離れ、母のことも好きではなくなった後、ひねくれた子供の私は親への嫌がらせのためだけに弁護士を目指そうとした。
    父がなれなかった弁護士になることで父に勝ち、父を捨てた母は娘が弁護士になることで父を捨てたことを忘れられなくなるだろうと思っていた。
    学費も生活費も自分で稼ぐしかないと思いながら、高校は特別進学コースに進んだ。
    喫茶店に住みたい夢は忘れていなかったが、まずはお金がないと生活は破綻するんだと骨身に染みていた。
    苦手分野以外、そこまで努力しなくともある程度の成績だった。
    しかし、高校3年生になっても特に塾に通うでもなく、ただ学校の勉強だけをやっていたので大きく伸びることはなかった。
    それでもお金がないという理由で国公立大学を目指していた。

    高校は「関東で給食を出してくれる学校がここしかない」という理由で奨学金がもらえる女子校に指定校推薦で入っていた。
    そのため受験勉強というものをしたことがなかった。
    「そこまで人生を賭けて他人に嫌がらせがしたいか?」
    「奨学金を返すのも絶対大変なのに、そこまでして学びたいことがあるのか?」
    「最終的にやりたい喫茶店経営に関しては、大学以外でも学べるのでは?」
    たくさんの言い訳を集め、大学進学から逃げた。

    落ちこぼれることはなかったが、所詮井の中の蛙であり、勉強そのものは全体で見ると飛び抜けて得意なわけではないと現実を知った。
    天才ではないし、努力して秀才になるほどの熱意もなかった。
    あの頃私の進路に振り回された先生方には、20年近く経った今も申し訳ない気持ちでいる。

    18歳、高卒後の就職

    高校在学中にバイトしていた喫茶店には就職しなかった。
    高卒で入社した会社はワッフル屋などを展開していたが、経営不振により社長が飛んだ。
    自己破産をしたはずの親の借金の関係で、自分にも借金ができた。
    法律上どういう扱いだったのか、今でも正確にはわかっていない。
    ただ当時の私は、返すしかないものだと思っていた。

    ひとまず全額消費者金融で借りて返し切り、自分の借金にしてからコツコツ返すことにしたので逃げようがなかった。
    これが終わったら死んでもいい、という許しを自分に与え、迷惑をかけないように頑張って返済し切ってから消えようと思った。
    強い希死念慮というより、ゴールが遠すぎると頑張れない精神状態だった。
    これさえクリアしたら終わりにしてもいいという赦しが必要だった。

    何もかもをリセットしたくなり、会社を退職して3つのバイトを掛け持ちし数ヶ月資金を貯め、「ここより涼しいところで生活したい」と北海道へ引っ越した。
    暑さが苦手で、満員電車も苦手だった。
    将来の喫茶店開業においても、北海道の方が東京よりは土地が安い気がした。
    開業するために移住するのではなく、事前にその土地の住人になっていたかった。
    当時はそんな言葉で自分を納得させていたが、なるべく遠い土地でリスタートしたいだけだった。

    誰に相談するでもなく、ただの一度の旅行という名の下見だけで引越し先の地域を決め、戻ってからは不動産屋とのやり取りで遠隔内見を済ませ、単身で移住した。
    高校生時代からの度重なる引越しにより、物件探しや急な引越しという部分でのハードルは恐ろしく低かったので、スムーズに進んだ。
    涼しいところという観点だけなら他でもよかったはずなのに、東京23区で生まれ育ったゆえに不便を受け入れられないだろうという考えで「涼しい中でも一番栄えていそう」と札幌を選んだ。

    何もかも自分で勝手に決めたくせに、引っ越す時は淋しくなり感傷的になったりもした。
    自分は「別れ」というものが苦手なんだと理解したのはこの時だった。
    目の前に居なくとも、関係性が途切れていないということが大事だった。
    今は連絡をとっていないだけで、その気になればいつでも話せるという関係を維持するようになった。
    居場所を失うことを極端に恐れていた。

    20歳、フリーター

    北海道に引っ越してからは、2年ほどまたバイトを掛け持ちして過ごした。
    朝から昼までコールセンターで働き、昼から夜まで喫茶店で働いた。
    コールセンターからフルタイムでの部署移動の打診を受けたので、喫茶店を辞めて掛け持ち先を夕方から夜までのカフェバーに変えた。

    カフェバーでお客さんと軽くお話しする接客は、将来の喫茶店経営の予行演習にも思え、カクテル作りに関してはあまり上達しなくとも自分の好きなお酒がわかってきて楽しかった。
    このタイミングで借金を返し終わり、いつでも人生から上がる準備ができた。

    22歳、健康面での翳り

    会社の健康診断でしこりが見つかった。
    特に強い自覚症状があるわけでもなかったが、経過観察のために何度も通院するのが嫌だったので切除手術に踏み切った。
    結果悪性だったため、切除してよかったのだが、あんなに嫌だった経過観察による通院は必要になってしまった。
    飛び飛びでしか通院せず、主治医に理由を追及され、さらに病院が苦手になった。
    すみませんと謝ると「あなたの身体のことなので私が怒ることではありません」と言われ、さらに身の置き場がなくなった。

    単純に働きすぎ故の体調不良も重なり、バイト中に一瞬意識が飛んだこともあった。
    手に持っていたカクテルを落とし、作り直させてしまったあの夜のことが忘れられない。
    自分は丈夫であると自負していたが、人に迷惑をかけるのであれば話は別だった。
    生活を見直す必要があると思った。

    23歳、ケーキ屋さんでの住み込み

    カフェバーで一緒に働いていた人が、パティシエだった。
    独立開業して一軒家を改装したケーキ屋を開くというので、開業を手伝って、当時の仕事は辞めずに住み込みで家賃を納めた。
    喫茶店に住み込みで働きたいと夢見ていた私には、まさに願ってもない誘いだった。
    一緒に食器の買い付けに行くのは楽しかったし、「おかえり」と言ってもらえるのも、オーナーのケーキや焼き菓子がお客様に褒められているのも嬉しかった。
    たまに食べさせてもらうケーキは、どれも本当に美味しかった。

    ただ、現実はそんなに甘くなかった。
    住み込みといっても、ただケーキ屋に住むだけなので、家賃は発生する。
    ずっとここにはいられないと思うくらいにはお金がなかった。
    古民家の店舗の奥の部屋に住んでいたが、扉を2枚くぐればそこは店舗。
    営業時間中に甘くない匂いを漏らすわけにはいかないので、料理もできない。
    仕事から帰ってきて、毎日の夕飯はコンビニご飯だった。
    店内には焼き菓子の甘い匂いがして、ショーケースには誰かのためのケーキが並んでいるのに。
    憧れていた「店に住む」を中途半端に叶えてみたら、私はその店の奥で、ひとりコンビニのお弁当を食べていた。

    思えば、店に住むという夢に一番近づいたのはこの時だった。
    このまま「カフェスペースの運営を自分に任せて」というように発展していったとしてもおかしくなかった。
    なのに、記憶に靄がかかったように詳細が思い出せない。
    理想に近づいても、自分とオーナー双方の資金面での厳しさによって、それを味わう余裕がどこにもなかった。

    結局1年くらいで出ることになり、不甲斐なさと申し訳なさで疎遠になった。
    その後、結婚や出産の連絡をもらい、あの時はごめんと言い合い、少しだけあの頃のことを昇華することができた。
    確実に言えることは、楽しいこともたくさんあったこと、見切り発車でも人生は続いていたこと、彼女は今もケーキ屋のオーナーであるということだけだ。

    24歳〜25歳、結婚・転職

    一緒に働いていた人と結婚した。
    よく飲みにいって仲良くなり、時間を合わせるのが大変だからと同棲するようになり、特に生活に問題がなさそうだったので「同棲続けるなら結婚していいな」と特に劇的なプロポーズなどなく決断した。
    その際、仕事のスケジュールが合わないために時間が作れず、土日や夜間の対応が入る仕事から転職をした。
    ずっと働くような会社ではないと思っていたので特に躊躇いはなかった。

    転職活動をして1社目で採用された。
    高卒でも気風が合っていれば採用してもらえる会社に感謝した。
    営業部だったので夜遅くまで忙しいこともザラにあったが、幸いにも全国的に売れている部署で働いていたのでやりがいがあった。

    福利厚生がしっかりしていたので、産休と育休を2回ずつ取らせていただいてもちゃんと戻るポジションがあった。
    出産前は2回とも切迫早産などで数ヶ月入院しており、引き継ぎなどでご迷惑をおかけして申し訳ない気持ちで産休に入った。
    その分頑張って働こうと思いながら復職したが、元来そこそこ要領がいいこともあり、復帰後そんなに時間をかけずに勘を取り戻していった。

    顧客対応がある部署だったので、時短で働くと誰かに代理対応を頼まなければならず、それが本当に嫌だった。
    自分で完結できる仕事がしたかったが、この会社でそういったポジションに行けるのは別のキャリアのルートで入社しているような人だけだった。
    休みやすい仕事は代わりがきく仕事なので、最初から自分で完結することを想定されていなかった。

    27歳〜31歳、出産

    結婚後の産婦人科受診でブライダルチェックのようなものをした。
    なぜか自分の身体はどこかに欠陥があると確信があった。
    やはり問題はあり、「今すぐ治療に入るか、今後一生子供はいらないか」の選択を迫られた際、25歳の私は「今後一生いらない」とは決断できなかった。
    また苦手な病院への頻繁な通院が始まった。

    結果的に27歳で第一子、31歳で第二子を出産した。
    さすがにいつでも消えていいとは言えなくなった。
    責任感はそこそこあるタイプだったので、迷惑をかけることが確定している選択肢は選べなかった。

    母になっても、自分の親への感謝の気持ちというのは増幅することはなかった。
    自分が親になって初めて親の偉大さがわかると聞いたことがあったが、「別の人間の子育てがどうだったかなんて関係ないな」としか思わなかった。
    育ててくれた恩は実際にあるのだろうが、生まれてきてよかった!と思っているわけではないので感謝が生まれることはなかった。
    この借金がなくなったら死んでも許されるな、という思いで生きていた数年がある限り、親との関係性を昇華することはない気がした。
    憎む感情を常に持ち続けているわけでも、何か危害を加えているわけでもないので、この思いを抱えていくことくらいは許そうと思った。

    子供は可愛いこともあるが、一人でいたい時間も同じくらい多かった。
    早くある程度大人になって、同じ目線で会話できるようになってほしい。
    見せられるほどの大きさはないとはわかりつつも、私の背中を見て勝手に育っていってほしいと思った。
    子供の細かい「できていないこと」ばかりに目がいく自分が嫌だった。
    無理に親を尊敬し直すことも、子供をわかりやすく溺愛することも目指さなかった。

    「家族のために面白くない仕事も頑張る」とは思えない性格だった。
    家族のための料理も、ある程度そつなく作れるようにはなっても、好きにはならなかった。
    育児こそが自分の使命だと心から尽力できるタイプでもなく、人生の大半を占める仕事の楽しくなさを諦め続けることはできなかった。
    そう思える人がいるのに、自分はそうではないことに後ろめたさを感じていた。
    家庭を持ったのなら、無理してでも楽しくない仕事を頑張るべきなのではないかと思った。
    思うだけでできなかった。

    35歳、現在

    自分が「意志が強いこと」に気がついた。
    長年ヘビースモーカーだったのに、出費を抑えたいならまずは嗜好品か、と思い立ったら翌日から1本も吸わずに禁煙に成功した。
    副業をしようと思ったら、まずは自分の昼食代を削り、自費で必要なものを揃え、個人事業主として開業し、独学で勉強して依頼を受けられるようにした。
    ストレスをなくすには、人が動くのを期待するよりも自分が動いた方がいい、ということを実感を伴って理解できるようになった。

    25歳で入社した会社にずっとお世話になっていたが、次第に情勢が変化してきた。
    事務方の仕事はAIで代用がきく範囲が増え、全国の拠点が減り、退職者が続出した。
    コロナでフルリモートになった働き方は、度重なる合併や分社化、事業譲渡などを経て出社必須に戻りつつあった。
    第二子の育児中に郊外へ引っ越した私にとって、育児中に出社必須になることは致命的だった。
    転職先を探すにも、通勤可能な範囲で給与を下げずに時短で働くことは難しかった。
    近いうちに転職になる、そして転職先がすごく少ないであろうことを見越して、副業に手をつけ始めた。

    副業の進捗記録としてnoteを始めたが、結局文章を書くことそのものが楽しくなった。
    小学生の頃から本を読むのが好きだったし、読書感想文を書くのも得意だった。
    中高生時代の「前略プロフ」を思い出した。
    人に見せるための複数人で運営しているサイトも、自分だけのためのクローズドなサイトもどちらも楽しかった。

    自分が読みたい文章を自分で書くことも得意だった。
    自分の書いた文章は何度も読み返した。
    人のためになる文章を書いて、その評価によって自分がやっていることに価値を見出そうと思っていたはずなのに、書くこと自体が楽しくなって逆転してしまった。
    初志貫徹ができないことも自分の欠点だと改めて思った。

    「将来」は遠いのか

    SF小説も好きだったので、AR・VRやAIの台頭にワクワクした。
    私の憧れていた近未来になりつつあるのだと心が躍った。
    実際にはお金がないとVR機器を揃えることすらできず、まだ私の元には近未来は訪れていない。
    まずは自分が置いていかれないようにとAIなどIT活用のリテラシーを保つことに尽力した。
    私の見たい将来は、私がテクノロジーに置いていかれていたら見れないものに思えた。
    今思うと、本当に欲しかったのは新しい技術の知見ではなかった。

    小学生時代の夢は、宇宙に住むことだった。
    喫茶店に住みたいと思うよりずっと前から、「ここではないどこかに行きたい」と漠然と思っていた。
    近未来なものは好きなはずなのに、今では単純に憧れるのではなく焦ってしまう。
    この根底にあるのは、これまでと同じ願いなのではないか。

    私はずっと「あなたにここにいてほしい」と言ってくれる居場所を探していた。
    今の会社は、私がいる必要は全くない。
    人員が余っており、いつでも好きな時に有休が取れると言っても過言ではない。
    ただ、育児中の仕事というのは「あなたがいないと仕事が滞る」と思われる仕事に就くことはあまりにもリスキーである。
    「あなたがいなくても回るけど、あなたがいると助かる」という、都合の良い仕事を求めることになるが、受け皿がそんなに多いわけもない。

    では、フリーなら。個人事業主ならどうか。
    大企業特有の、納得のいかない動きに飲まれながら進んでいかざるを得ない状態からは少し脱することができる。
    なんでも自分で決める自由と責任が生じる。
    普通に働いていたら一緒に仕事ができない相手に、ダメもとで連絡してみることだってできる。
    ただ、自由になればなるほど、私が動けない時に代わりはいない。

    そうだ、忘れかけていた喫茶店に住む夢は?
    どこでも仕事ができるスキルがあれば、喫茶店に住みながらでもできるのではないか。
    今でも本当に喫茶店に住みたいと思っているか?
    どこでもできる仕事ならなんでもいいのか?

    考えなければいけないことは山積みだが、会社員勤めよりはこちらの方が楽しいと感じる。
    向いているのかもしれない。
    向いていることなら、頑張れるかもしれない。
    やらねばということに対しての意志が強いことは確認済みだ。
    一番の相談相手はいつだって自分自身だった。
    私のことを納得させられるのは、私しかいなかった。

    夢は喫茶店のマスターになることだと思っていた。
    でも本当は、私にとってのゴールは喫茶店を開くことではないのではないか。
    私はただ、ずっとそこにいられて、私がいることに意味がある場所がほしかっただけだ。
    広いテーブルも、壁いっぱいの本も、様々な国のお茶も、窓からの木漏れ日も、その場所を思い描くために必要なものだった。
    どれも大好きなことに変わりはないけれど。

    勢いの良さだけが取り柄の人生だった。
    いくつもの夢や希望を、自分で自分を騙して先送りにしてきたけれど、叶えたくないわけではなくて、叶える自信がなかっただけだ。
    失敗するのが嫌だから飛び込んでこなかっただけだ。
    飛び込まずに成功に見える方にずっと進んできた。
    今でも失敗するのは嫌いだが、「これが失敗だった」と思う範囲を狭める努力ならできるような気がする。

    口が達者な子供だった私は、そのまま大人になった。
    あの手この手で自分を説得しながら、生まれてよかったと思える人生にする方法を探している。

     
     
    私生活では2児の母|仕事以外のエッセイも|文章を書くのが楽しい|AIエージェントに興味あり|副業でAIを活用していく上で、何がうまくいかなかったか、どうするとうまくいったかをメインで綴ります|ご連絡はメッセージへ! https://yorisou-lab.com/

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