
さくらを知らない
あらすじ
会社員の遠藤渉(34歳)は、ある月曜日の朝、父・誠一(64歳)が突然姿を消したことに気づく。財布も携帯も家に残ったまま。父の書斎を調べると、段ボール箱いっぱいの新聞スクラップが出てきた。すべて1994年、8歳の少女・橋本さくらが通学途中に消えた未解決失踪事件に関するものだった。
当時父が同じ団地に住んでいたことを知った渉は、元担任教師、元捜査刑事、さくらの幼馴染を訪ね歩く。食い違う証言、深まる父への疑惑。そして三十年前、父はさくらのために法律の外に踏み出していた。
父はなぜ消えたのか。さくらは今、どこにいるのか。親子三十年の空白が、静かに解けていく本格ミステリー。
第1章「空白の月曜日」
月曜日の朝というのは、いつも同じにおいがする。トーストの焦げた香りと、インスタントコーヒーの薄い湯気と、父がつけっぱなしにするテレビの天気予報の声。遠藤渉にとって、それが「朝」の定義だった。
だからその月曜日が異質だと気づくまでに、少し時間がかかった。
台所に降りたのは七時二十分。いつもなら父・誠一がカウンターに座ってコーヒーを飲んでいる時間だ。六十四歳になった今も、父は渉より早起きだった。定年退職して三年が経つのに、体に染みついた習慣というのは消えないらしい。
しかしその朝、台所には誰もいなかった。
コーヒーメーカーのスイッチも入っていない。食パンは袋のまま、冷蔵庫の上に置かれていた。テレビも消えている。
渉は特に気にせず自分でコーヒーを淹れ、トーストを焼いた。父が先に出かけることなど珍しくない。近所の公園を散歩するのが日課だったし、顔なじみの喫茶店で朝食をとることもある。
気になりはじめたのは、夜になっても父が帰らなかったからだ。
午後七時。夕食の時間になっても父の姿はない。携帯に電話をかけると、二コール目で父のスマートフォンが二階の寝室で鳴った。部屋に入ると、充電ケーブルに繋がれたままのスマートフォンが画面を光らせていた。財布も、鍵も、いつも玄関の小棚に置いてある父の定期入れも、そこにあった。
渉は玄関に戻り、下駄箱を確認した。父の靴は、通勤に使っていた黒い革靴と、普段履きの白いスニーカーと、サンダルが一足。すべて揃っている。
出かけるとしたら、何を履いて出たのか。
嫌な感触が、胃の底に落ちた。
近所の公園に行った。父がよく立ち寄る喫茶店「まきの」にも顔を出した。公園のベンチに父の姿はなく、まきのの店主である牧野さんは「今日は来てないよ、そういえば昨日も来なかったな」と首をひねった。
警察に電話したのは夜九時を過ぎた頃だ。
応対した警察官は、丁寧ではあったが、明らかに深刻には受け取っていなかった。
「お父様はおいくつですか」
「六十四です」
「認知症の診断などは」
「ありません。至って健康です」
「家族間でのトラブルや、最近様子のおかしなことは」
「特には……」
言いかけて、渉は少し迷った。ここ最近、父が何かを考え込んでいることは確かだった。食事中に何度か上の空になっていたし、先週の金曜日には珍しく晩酌をして、窓の外をずっと眺めていた。何を見ているのか聞いたら、「昔のことを思い出してた」とだけ言った。
でもそれは、老いた父親がたまに見せる感傷のように思えた。
「特には、ないと思います」と渉は答えた。
「でしたら、ご自身の意志で外出された可能性が高いと思われます。六十四歳で健康であれば、現時点では行方不明者の届け出という形にはなりにくく……まずは二、三日様子を見ていただいて」
電話を切ったあと、渉はしばらくソファに座っていた。
財布も携帯も靴も置いて、どこへ行くというのか。
眠れないまま夜が明けた。翌朝、会社に連絡して休みをとった。そのまま父の部屋を調べることにした。何か手がかりがあるかもしれない。行き先のメモでも、連絡先でも。
父の寝室は質素だった。シングルベッドと小さなタンス、本棚が一つ。本棚には園芸の本と歴史小説が並んでいる。引き出しを開けると、通帳と印鑑、古い保険証書が出てきた。特に変わったものはない。
書斎に移った。
父が書斎と呼んでいたのは、四畳半の小部屋だ。渉が子供の頃から「入っていい」とは言われていたが、「触るな」とも言われていなかった。ただ何となく、父の領域という感じがして、用事がなければ入らなかった。
部屋の中央に古い木製の机。その上にはカレンダーと、読みかけの文庫本と、メモ帳が一冊。メモ帳を開いたが、買い物リストと、どこかへの電話番号が一つ書いてあるだけだった。電話番号には市外局番がついていたが、どこの番号かはわからない。
本棚を確認し、机の引き出しを開け、押し入れを覗いた。
押し入れの奥に、段ボール箱が三つ積まれていた。
埃をかぶっている。かなり古いものだ。ガムテープで封がされていたが、一番上の箱だけ、テープが剥がされていた。最近開けた跡がある。
渉は箱を引き出し、フタを開けた。
中に入っていたのは、新聞の切り抜きだった。
丁寧にクリアファイルに収められたものもあれば、そのまま折り畳まれたものもある。一枚取り出して広げると、日付は一九九四年九月とある。三十年前の新聞だ。
見出しを読んだ瞬間、渉の手が止まった。
『町田市内で小学二年生女児が行方不明に 登校途中に消息絶つ』
別の切り抜きを手に取る。
『橋本さくらちゃん失踪から一週間 目撃情報なく捜索続く』
また一枚。
『橋本さくらちゃん事件 捜査進展なく 両親が再度の情報提供を呼びかけ』
箱の中身はすべて、同じ事件に関する記事だった。一九九四年から一九九六年にかけての新聞スクラップが、几帳面に日付順に並べられている。二番目の箱も、三番目の箱も開けた。同じだった。橋本さくら。町田。失踪。捜索。手がかりなし。迷宮入り。
なぜ父がこんなものを持っているのか。
渉は床に座り込み、切り抜きの束を膝の上に広げた。窓の外では雀が鳴いている。父が丹精込めて育てているプランターのパンジーが、朝の光の中で揺れている。
橋本さくら。一九九四年九月、当時八歳。町田市内の小学校に通う二年生。九月十二日の朝、自宅から学校へ向かう途中で姿を消した。通学路は自宅から学校まで徒歩十五分。いつも一人で歩いていた。その日も同じように家を出たが、学校には着かなかった。
三十年前の、未解決の失踪事件。
そしてそれをずっと集め続けていた父は今、どこにもいない。
第2章「1994年の町田」
橋本さくらという名前を、渉はそれまで聞いたことがなかった。
少なくとも、意識的には。
しかし段ボール三箱分の切り抜きを読み進めるうちに、その名前は奇妙な質感を帯びてきた。知らないはずなのに、どこか遠くで聞いたことがあるような。夢の中で一度だけ出会った人の顔に似た、そういう感覚。
渉は書斎の机に向かい、切り抜きを時系列順に並べ直した。
一九九四年九月十二日。橋本さくら、八歳。町田市立第三小学校の二年生。朝七時四十分頃、自宅のある鶴川団地を出発。学校までの通学路は一本道で、徒歩で約十五分。しかしその日、さくらは学校に現れなかった。三時間目が終わった頃、担任教師が欠席連絡のないことを不審に思い、自宅に電話。母親が青ざめた。
捜索はすぐに始まった。通学路を警察と地域住民が歩き、近隣の公園や空き地を調べた。しかし何も出てこなかった。ランドセルも、上履き袋も、さくらの痕跡は通学路のどこにも残っていなかった。
目撃情報は一件だけあった。通学路の途中にある文房具店の店主が「朝八時頃、店の前を黄色いランドセルの女の子が歩いていた」と証言した。しかしその後の目撃情報はゼロだった。文房具店から学校まではあと七分の距離で、その七分の間にさくらは消えた。
渉は記事を読みながら、スマートフォンで検索をかけた。「橋本さくら 失踪 1994 町田」。出てくるのは当時のニュースを振り返るブログ記事や、未解決事件をまとめたサイトだ。写真も一枚あった。学校の写真撮影で使われたものらしく、おかっぱ頭の小さな女の子が、少し緊張した顔でカメラを見ている。
三十年経っても、解決していない。
渉は検索を続けながら、父・誠一の過去を辿りはじめた。
父は東京都出身で、大学卒業後に都内の建設会社に就職した。渉が生まれたのは一九九〇年で、その頃は確か横浜に住んでいたはずだ。母が亡くなったのが一九九三年、渉が三歳の時。その後しばらくして、父は職場の近くに引っ越したと聞いている。
職場の近く。
父が勤めていた建設会社の本社は、町田市にあった。
渉は立ち上がり、父の寝室に戻った。タンスの引き出しを改めて開け、奥まで手を入れる。古い封筒が出てきた。中には年賀状の束と、薄くなったパスポート、そして一冊の手帳。手帳の表紙に「1994」と書いてある。
開いた。
父の几帳面な字で、予定が書き込まれている。会議の時間、取引先の名前、昼食をとった店の名前。そして住所欄に、鉛筆で書かれた文字があった。
「町田市鶴川三丁目——」
鶴川。
橋本さくらが住んでいた、鶴川団地と同じ町だ。
渉は手帳を持ったまま、しばらく動けなかった。偶然かもしれない。町田市は広い。鶴川という地名も、それほど珍しくない。父が同じ地域に住んでいたからといって、何かを意味するわけではない。
そう思おうとしたが、できなかった。
父は三箱分の新聞記事を、三十年間手放さなかった。定年後も、引っ越しのたびにこの箱を運び続けた。渉が知るかぎり、この家に越してきたのは二十年前だ。それ以前にも少なくとも二度は引っ越しているはずで、それでも捨てなかった。
なぜ。
理由は一つしか思い浮かばなかった。捨てられない理由があったからだ。
渉はメモを取り出し、手帳の住所を書き写した。それから書斎に戻り、段ボール箱の中を改めて確認した。切り抜きの束の一番下に、折り畳まれた紙が一枚あった。広げると、手書きの名前と電話番号のリストだ。七つの名前。すべて、さくらの失踪事件に関係する人物だろうか。一番上には「村上 健司」とある。その横に「元・町田署」と書き添えられていた。
父は、この事件を調べていた。
ただ記事を集めていたのではない。関係者の連絡先まで調べていた。
そしてその直後に、姿を消した。
第3章「食い違う証言」
翌朝、渉は町田に向かった。
父の手帳に書かれた住所——町田市鶴川三丁目——は、今はどんな場所になっているのだろう。電車で四十分。新百合ヶ丘で乗り換え、鶴川駅で降りた。改札を出ると、穏やかな住宅地が広がっていた。駅前に小さなロータリーがあり、パン屋と薬局と不動産屋が並んでいる。
父はここに住んでいた。三十年前の、一九九四年に。
スマートフォンの地図アプリで鶴川団地を検索した。駅から徒歩八分とある。歩きながら、渉は何を聞けばいいかを考えた。当時の住民に話を聞きたい。しかし「父がここに住んでいた」「失踪した少女の記事を集めていた」それだけで、何者かもわからない中年男が突然訪ねてくるのだ。まともに相手にしてもらえるだろうか。
鶴川団地は、想像よりずっと広かった。五階建ての棟が十数棟、碁盤の目のように並んでいる。一九七〇年代に建てられたものだろうか、外壁はくすんだ白で、ところどころ補修の跡がある。敷地内の公園では老人がベンチに座って日向ぼっこをしていた。
まず管理組合の事務所を訪ねた。窓口にいた六十代の女性に、正直に話した。父が行方不明になったこと、父が一九九四年にこの近くに住んでいたらしいこと、橋本さくらちゃんの事件の記事を大量に持っていたこと。
女性は眉をひそめたが、追い返しはしなかった。
「さくらちゃんのこと、ねえ」と彼女は言った。「私ね、あの頃ここに住んでたのよ。もう三十年以上いるから」
名前は田中和子、当時四十代で、今も同じ棟に住んでいるという。
「さくらちゃんはね、うちの二棟隣だったの。おとなしい子でね、いつも一人で本を読んでた。お母さんとはたまに挨拶する程度だったけど」
「父の名前は遠藤誠一といいます。当時三十代前半だったはずですが、ご存知ですか」
田中和子は少し考えた。
「遠藤さん……遠藤誠一。うーん、ちょっと待って」
彼女は首をかしげた。
「背が高くて、痩せた人?」
「そうです」
「あの人ね、さくらちゃんのことよく気にかけてたわよ。なんか、団地の中でたまに見かけると、さくらちゃんに声かけてた。飴あげたりとかね」
渉の胸に、また嫌な感触が落ちた。
「どんなふうに、声をかけていたんですか」
「どんなふうって……普通よ、普通。おじさんが子供に飴あげるくらいの。変な感じではなかったわよ」田中和子は少し強調するように言った。「ただ、あの事件のあとに刑事さんが来て、遠藤さんのことも聞かれたの。さくらちゃんと接点があった大人を調べてたんでしょうね。でもすぐに容疑者から外れたみたいで、それきり」
容疑者。
その言葉が、空気の中にしばらく残った。
次に渉が訪ねたのは、さくらが通っていた小学校の元担任教師だった。切り抜きの中に名前があり、今は退職して同じ町田市内に住んでいることがSNSで確認できた。七十代の女性で、電話で事情を話すと、会うことを承知してくれた。
名前は佐久間順子。小さな一戸建てに一人で住んでいた。庭に丁寧に手入れされた花壇がある。玄関で迎えてくれた顔は穏やかだったが、目の奥に何かを測るような光があった。
「さくらちゃんのことは、今でも夢に見ることがあります」と佐久間は言った。「担任として、あの子を守れなかったという気持ちが、ずっとあって」
「さくらちゃんはどんな子でしたか」
「明るい子ではなかったけれど、賢い子でした。国語が得意で、作文がとても上手で」佐久間は少し間を置いた。「ただ、家のことは……少し、心配していました」
「家のこと?」
「お父さんが、少し厳しい方でね。さくらちゃんが学校で元気がない日は、だいたい前の晩に何かあったんじゃないかと思っていました。でも、あの時代はそういうことに踏み込めなくて」
渉は慎重に聞いた。「父の名前は遠藤誠一といいます。当時、鶴川に住んでいました。さくらちゃんと接点があったかもしれない人物なのですが、ご存知ですか」
佐久間の顔が、かすかに動いた。ほんのわずかな変化だったが、渉は見逃さなかった。
「遠藤さん……いえ、存じません」
でも一瞬、何かが走った。その顔に。
「本当に?」
「ええ」佐久間は静かに繰り返した。「存じません」
帰り道、渉は田中和子の言葉と佐久間順子の言葉を並べて考えた。
田中和子は言った。父はさくらに「よく声をかけていた」と。飴をあげたりしていたと。しかし佐久間は「存じません」と言った。担任教師が、自分のクラスの生徒と接点のある地域の大人を知らないだろうか。
証言が食い違っている。
どちらかが嘘をついている。あるいは、どちらも部分的な真実しか話していない。
駅に向かいながら、渉はメモ帳を開いた。父の書斎で見つけた名前のリスト。「村上 健司」「元・町田署」。
次はこの人物に会いに行くしかない。
第4章「元刑事の沈黙」
村上健司の現住所を調べるのに、二日かかった。
電話帳には載っていない。SNSもやっていない。父のメモにある電話番号に何度かかけたが、繋がらなかった。しかし切り抜きの中に、村上が定年後に書いたという地元紙のコラムの記事があった。そこに「神奈川県相模原市在住」とある。相模原市内の同姓同名を片っ端から検索し、ようやく一人に辿り着いた。
連絡をとると、村上は驚いたようだった。
「遠藤誠一の息子さん?」
その言葉で、渉は確信した。父と村上は面識がある。
「父をご存知なんですね」
電話口の沈黙は、三秒ほどだった。
「……会いましょう」
待ち合わせ場所に指定されたのは、相模原市内のファミリーレストランだった。平日の午後、店内はほぼ空いていた。窓際の席に、七十代とおぼしき男が一人で座っていた。がっしりした体格で、短く刈った白髪。元刑事と言われれば納得するような、どこか圧のある顔立ちだ。
村上は渉を見るなり、じっと顔を確認してから「座れ」と言った。挨拶もなかった。
「お父さんが消えた、ということは聞いている」
「父から連絡がありましたか」
「いや。ただ、そうなるかもしれないとは思っていた」
渉は身を乗り出した。「どういう意味ですか」
「お前さんに話す前に一つ聞く」村上はコーヒーカップを置いた。「お父さんのことを、どこまで信じているか」
「どこまで、というのは」
「遠藤誠一という人間が、善人だと思うか。あの事件に関わっていないと思うか」
渉は答えを探した。三日前までなら迷わず「はい」と言えた。しかし今は、その問いが重石のように胸の上にある。
「わかりません」と正直に言った。「だから調べています」
村上は長い間、窓の外を見ていた。
「俺はあの事件の担当刑事の一人だった。さくらちゃんが消えてから三年間、捜査に関わった。結局、何もわからなかった。遺体も出ず、目撃者もなく、証拠もない。俺にとっては、今も終わっていない事件だ」
「父のことを調べましたか」
「した。最初の段階で」村上はゆっくり言った。「遠藤誠一は、さくらちゃんと面識があった。団地内で何度も話しかけているところを複数の住民が目撃している。さくらちゃんの部屋の窓から、遠藤の部屋の窓が見えた。それだけで犯人扱いはできないが、調べた」
「結果は」
「シロだった。少なくとも、俺たちが調べた範囲では」
「範囲では、というのは」
村上がまた黙った。今度は長かった。
「遠藤誠一はな、さくらちゃんが消えた当日、アリバイがあった。朝から夕方まで、会社にいた。同僚が証言した。タイムカードもあった。だからシロになった」
「でも?」
「でも」村上は渉を見た。「俺はずっと引っかかっていた。アリバイがある、それはそうだ。でも遠藤は、俺たちに何か隠していると感じた。刑事の勘みたいなもんだが、あいつの目が、怖かった。後ろめたさじゃない。何かを守るような目だった」
「何を守る?」
「それがわからなかった」村上は首を振った。「俺はお前さんに一つだけ言っておく。この事件を掘り返すなら、覚悟しろ。お父さんが善人のままでいられない可能性がある。それを受け入れられるか」
「受け入れます」渉は言った。「父が何をしたのか、知りたいんです」
村上はしばらく渉の顔を見ていた。それから、ため息をついた。
「さくらちゃんには、家に帰れない理由があった。俺はそう思っている。父親が、暴力を振るう人間だった。当時、俺たちはそれを掴んでいた。でも証拠がなかった。母親も否定した」
「さくらちゃんは、家から逃げた?」
「逃げたか、あるいは誰かが匿ったか」村上は静かに言った。「もしも誰かが匿ったとしたら、その人間はさくらちゃんを守るために、ずっと黙っていなければならない。三十年間」
渉の心臓が、強く打った。
「父が、さくらちゃんを」
「証拠はない」村上は遮った。「俺が言えるのはここまでだ。あとはお前さんが自分で確かめろ」
立ち上がりかけた村上を、渉は引き止めた。
「もう一つだけ。父が失踪する直前、誰かに連絡を取っていたと思いますか」
村上は一瞬止まった。
「心当たりがある顔ですね」
「……さくらちゃんの幼馴染に、宮本麻衣という女がいる。今は都内に住んでいるはずだ。あいつはさくらちゃんのことを、誰より知っていた」村上は静かに続けた。「お父さんのメモに、その名前はなかったか」
渉はメモ帳を開いた。七つの名前。上から四番目に、確かにあった。
「宮本 麻衣」
第5章「さくらの影」
宮本麻衣は、都内の小さな花屋で働いていた。
SNSで見つけた。店のアカウントで花の写真を上げていて、プロフィールに本名があった。四十代前半のはずだが、写真で見るかぎり実際の年齢よりずっと若く見える。さくらと同じ団地に住み、同じクラスだったと、切り抜きの中の記事に名前があった。
電話をかけると、最初は警戒された。
「さくらちゃんのことを調べているって、どういう方ですか」
「父が行方不明になりまして」渉は正直に話した。「父が三十年前、鶴川に住んでいました。橋本さくらちゃんの記事を大量に持っていた。父が何を知っているのか、知りたいんです」
電話口の沈黙。それから、低い声で「わかりました」と言った。
待ち合わせは店の近くの喫茶店だった。
宮本麻衣は細い肩をした女性で、テーブルについたとき両手を膝の上でぎゅっと握り合わせていた。
「さくらちゃんのことを誰かに話すのは、久しぶりです」と彼女は言った。「もう終わったことだと思っていたのに、終わっていなかった」
「さくらちゃんはどんな子でしたか」
「優しい子でした」麻衣はゆっくり言った。「でも、悲しそうな子でもあった。いつもどこか遠くを見ているような。学校にランドセルを忘れて、翌朝また取りに来たことが何度かあって。家に帰りたくないんだなって、子供ながらに思っていました」
「お父さんのことを怖がっていましたか」
麻衣は少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「直接は言わなかったけど、そうだと思っていました。さくらちゃんのお父さんは怖い人でした。団地の中でも有名でした、怒鳴り声が聞こえるって」
「消えた日の前日、さくらちゃんと話しましたか」
「しました。放課後、公園で一緒に遊んで、暗くなる前に別れた。さくらちゃんはそのとき、変なことを言ったんです」
「変なこと?」
麻衣は窓の外を見た。
「『もうすぐ遠くに行くかもしれない』って。子供が言うには妙な言葉でしょう。私は冗談だと思って、どこ行くのって笑って聞いたら、さくらちゃん、笑わなかった。『ひみつ』って言って、帰って行った」
渉は息を止めた。
「行く場所を、知っていたんでしょうか」
「今はそう思います」麻衣は静かに言った。「あの子は計画していた。あの年齢で、誰かに助けを求めて、そこに行く準備をしていた」
「誰かに、というのが」
「遠藤さんだったんじゃないか、って」麻衣はゆっくり言った。「当時は知らなかったんです。でも大人になってから、ふと思い返して。さくらちゃんがよく話しかけられていた大人の人がいた。背の高い、痩せた男の人。遠藤さんっていう名前だって後から知った」
「父が、さくらちゃんを?」
「わかりません」麻衣は首を振った。「ただ、もしそうだとしたら、あの子は助かったってことになる。だから私は、それを信じたかった。ずっと」
渉は次の問いを慎重に選んだ。
「最近、誰かから連絡はありましたか。父から、あるいは別の誰かから、この事件に関して」
麻衣の手が、膝の上でかすかに動いた。
「ありました」
「誰から?」
「遠藤さんから、ではなかったです」麻衣は言いにくそうに口を開いた。「さくらちゃんのお父さんから」
渉は顔を上げた。
「橋本さくらちゃんの、父親から?」
「一週間前です。突然電話がかかってきて、さくらのことを調べている人間がいないか、誰かから連絡が来ていないかって聞いてきた」麻衣の声が、かすかに震えた。「私、怖くて。昔から怖い人だったから。何も知らないって言って切りました」
「その人は今、どこにいるんですか」
「わかりません。でも」麻衣は渉を真っ直ぐ見た。「気をつけてください。あの人は、さくらちゃんが生きているとしたら、それを許せない人だと思う。三十年経っても、そういう人だと思う」
帰りの電車の中で、渉は頭を整理した。
さくらは消える前日、「遠くに行く」と言った。父はさくらと面識があり、さくらは父を信頼していたかもしれない。父はさくらを匿い、その秘密を三十年守り続けた。そしてさくらの父親が今、何かを嗅ぎつけ、動き始めている。
父が姿を消したのは、さくらを守るためか。
あるいは、さくらの父親に何かされたのか。
電車の窓に、暗い夜の景色が映っていた。
第6章「三十年の約束」
家に戻った渉は、もう一度父の書斎を調べた。
今度は段ボール箱の底まで全部出した。切り抜きの束、名前のリスト、そして一番下から出てきたのは古いアルバムだった。表紙に日付はない。開くと、色あせた写真が並んでいる。
最初の数ページは、若い頃の父と、知らない人たちが写った写真だ。会社の同僚だろうか、飲み会の席のものや、社員旅行らしいものがある。渉の母も数枚あった。まだ渉が生まれる前の、笑顔の若い女性。
ページを繰る手が、止まった。
一枚の写真がある。屋外で撮られたもので、父が一人の女の子と並んでいる。女の子は父の腰のあたりまでの背丈で、おかっぱ頭。笑っている。父も笑っている。こんな顔で笑う父を、渉はほとんど見たことがなかった。
写真の裏に、鉛筆で「さくら、1994.8」と書いてある。
失踪の、一ヶ月前だ。
渉はスマートフォンで写真を撮り、切り抜きにある写真と見比べた。同じ顔だった。おかっぱ頭、少し丸い輪郭、目がくっきりしている。間違いない。
父は橋本さくらを知っていた。面識があるどころではない。一緒に写真を撮るほど、親しかった。
渉は部屋の床に座り込み、考えた。村上が言ったことが頭に繰り返す。「もしも誰かが匿ったとしたら、その人間はさくらちゃんを守るために、ずっと黙っていなければならない。三十年間」。
さくらは今、どこかで生きているのかもしれない。
三十八歳になったさくらが、どこかの街で生活しているかもしれない。
その可能性が、初めて現実の重さを持って渉の前に現れた。
父のメモ帳を開いた。一つだけ書いてあった電話番号。市外局番は0467。調べると、神奈川県茅ヶ崎市の番号だ。
かけてみた。
二コールで繋がった。女性の声だった。
「はい」
「突然失礼します。遠藤渉と申します。父が遠藤誠一で、先日から行方がわからなくなっていまして」
沈黙があった。長い沈黙だった。
「……渉くん」
声が、かすかに震えていた。
「あなたのこと、誠一さんから聞いていました。三歳のときにお母さんを亡くして、誠一さんが一人で育てたって」
「あなたは」
「橋本さくらです」
渉は息ができなかった。
生きていた。さくらは生きていた。
「父が行方不明なのは知っていますか」
「知っています。連絡が取れなくなって、心配していました」さくらの声は静かだった。落ち着いた、大人の女性の声だ。「誠一さんには、ずっと守ってもらっていました。八歳から、ずっと」
「父が匿ったんですね」
「はい。私が頼んだんです。父が怖くて、どこかに連れて行ってほしいって。誠一さんは最初、警察に行こうと言いました。でも当時は、今みたいに児童虐待への対応が整っていなかった。私の父には、地域に顔が利く人間がいた。誠一さんはそれを知っていて、警察だけじゃ守れないと判断した」
「どうやって」
「遠縁の人を頼ってくれました。長野の、山の中の小さな集落。戸籍を変えることはできないから、名前だけ変えて、橋本さくらは死んだことにして」さくらは静かに続けた。「誠一さんは定期的に連絡をくれました。二年に一度くらい。私が結婚するとき、子供が生まれたとき、報告したくて電話したこともありました。誠一さんにとって私は、家族みたいなものだったと思います。私にとっても」
「父は今、どこにいますか」
「それが」さくらの声が沈んだ。「わからないんです。一ヶ月ほど前、誠一さんから電話がありました。私の父、実の父が、私を探しているかもしれないって。三十年間、誠一さんのことを恨んでいたみたいで、最近になってまた動き始めたって」
「さくらさんの父親が」
「名前は橋本勝です。今は千葉に住んでいます。去年、娘である私の存在を証明する書類が必要になる事情があって、そのときに戸籍を調べたらしくて。私が失踪したまま戸籍が残っていることに気づいた。そこから逆算して、誰かが匿っているとわかったんだと思います」
すべての点が、線で繋がっていく感覚があった。
「父は今、勝さんから逃げているんでしょうか」
「かもしれません。でも誠一さんは」さくらは言いにくそうに言った。「もしかしたら、自分から会いに行ったかもしれない」
「なぜ」
「最後の電話で、言っていました。『もう三十年だ、そろそろ終わりにしなければならない』って」さくらの声が、初めて揺れた。「私、止めたんです。危ないからって。でも誠一さんは笑って、『大丈夫だ、渉が心配するから早めに帰る』って」
父の声が、聞こえるような気がした。
第7章「真実の在処」
橋本勝の現住所を探すのに、半日かかった。
さくらから教えてもらった情報をもとに、千葉市内のいくつかの住所を絞り込んだ。さくらは「会いに行かないでほしい」と言ったが、渉は聞けなかった。父がそこにいるかもしれない。あるいは父の行方を知っているかもしれない。
千葉市の住宅地、二階建ての古い一戸建て。表札に「橋本」とある。
インターフォンを押した。
出てきたのは、七十代の男だった。小柄で、目が細い。若い頃は怖い顔だったのかもしれないが、今はただの老人に見えた。しかしその目の奥に、何か執念のようなものが残っていた。
「橋本勝さんですか」
「そうだが」
「遠藤誠一の息子です」
男の顔が動いた。驚きと、警戒と、何か別のものが混ざった表情だ。
「……上がれ」
居間に通された。生活感のある部屋だったが、どこか荒れていた。新聞が積み上がり、灰皿に吸い殻が溜まっている。
「父を知っていますか」
「知っている」橋本勝は椅子に座り、渉を見た。「あいつが、さくらを隠したんだろう。三十年間、ずっとそう思っていた」
「父に会いましたか」
「会った」
渉の心臓が跳ねた。
「いつ?」
「五日前だ。突然ここに来た。玄関先で、立ったまま話した」橋本勝は低い声で言った。「さくらは生きている、自分が匿った、今は幸せに暮らしている、それだけ言って帰った」
「父は今どこに」
「知らん」橋本勝は首を振った。「言いたいことだけ言って、立ち去った。止める間もなかった」
渉は橋本勝の顔を見た。怒りがあると思っていた。憎しみや、暴力の気配を予想していた。しかし目の前の老人の顔には、怒りよりも疲労のようなものがあった。
「さくらはどこにいる」と橋本勝は言った。「遠藤は教えてくれなかった。場所だけ、教えてくれ」
「なぜ」
「娘に、謝りたい」橋本勝は目を伏せた。「三十年前、俺がしたことは間違いだった。わかっている。あの子が逃げたのも、俺のせいだ。今更遅いのもわかっている。ただ、一度だけ」
渉はしばらく黙っていた。
この男を信じていいのかわからなかった。さくらがどう思うかもわからない。しかし父は五日前にここに来て、生きていた。それだけがわかった。
「父は今どこにいるか、本当に知らないんですか」
「知らん」橋本勝は繰り返した。「ただ、帰り際に一つだけ言った。息子に心配かけて悪かった、もう少ししたら帰ると」
もう少ししたら帰る。
父の声が、また聞こえた気がした。
渉は立ち上がりかけた。そのとき、スマートフォンが鳴った。知らない番号だった。出ると、聞き覚えのある声がした。
「渉」
「父さん」
声が震えた。三十年間一緒に暮らした父の声が、電話越しに届いた。
「心配かけた。少し時間をくれ。もう少ししたら帰る」
「今どこにいるんですか」
「長野だ」さくらと同じ場所だ、と直感した。「会いたい人がいて。もう一度だけ、会っておきたかった」
「さくらさんに?」
電話口の沈黙。それから父は静かに言った。
「お前に話してなかったことを、帰ったら全部話す。三十年間、俺が守ってきたことを」
「橋本勝さんに会いました」
「そうか」父の声は揺れなかった。「あの人は怖くないか、もう」
「怖くはなかったです。疲れた老人でした」
「そうか」父はもう一度言った。「人間というのは変わるな。俺もそれを確かめに行った。変わった人間に、決着をつけに」
「父さんは、三十年前から全部知っていたんですか。さくらさんのお父さんのことも、警察に言えないことも」
「知っていた」父は静かに言った。「あの子の腕に、青あざがあった。笑って『転んだ』と言ったが、そういう傷ではなかった。俺は何もできない大人の一人になりたくなかった。ただそれだけだった」
渉は目を閉じた。
「帰ってきてください」
「ああ」父は短く言った。「帰る」
電話が切れた。
居間に静寂が戻った。橋本勝が、老いた目で渉を見ていた。
「生きているか、あの子は」
渉は少し考えてから、答えた。
「幸せにしています」
それだけ言って、立ち上がった。さくらに連絡を取るかどうかは、さくら自身が決めることだ。渉が決めることではない。
玄関を出ると、秋の空気が冷たかった。
父が帰ってくる。三十年間守り続けた秘密を抱えたまま、父が帰ってくる。
渉は駅に向かって歩きながら、ずっと胸の底にあった問いの答えを、ゆっくり確かめていた。父は善人か悪人か。法律の外で動いた父は、正しかったのか間違っていたのか。
わからなかった。おそらくこれからも、きれいな答えは出ない。
ただ、八歳の女の子に腕の青あざがあって、それを見た父が何もできない大人になりたくなかった、その気持ちだけは、渉にはわかった。
電車に乗った。窓の外に、秋の田んぼが広がっていた。稲穂が頭を垂れ、夕陽を受けて金色に光っている。
父が帰ってくる。
それだけが、今は十分だった。
エピローグ「空白の埋め方」
父が帰ってきたのは、失踪から十二日後の夜だった。
玄関のドアが開く音がして、渉は台所から飛び出した。父は少し痩せていた。髭が伸びていて、着ている服もくたびれていたが、顔の色は悪くなかった。むしろどこか、以前より穏やかな顔をしていた。
「ただいま」と父は言った。
渉は何も言えなかった。怒鳴りたいような、泣きたいような、その両方が喉のあたりで混ざって、どちらにもならなかった。
「腹が減った」と父は続けた。「何かあるか」
「冷蔵庫に昨日のカレーがあります」
「それでいい」
二人で台所に並んで、温めたカレーを食べた。父は一言も言い訳をしなかった。渉も急かさなかった。食べ終わって、お茶を飲みながら、父はゆっくり話しはじめた。
最初から全部、話した。
一九九四年の九月、団地の公園でさくらと初めて話したこと。腕のあざに気づいたこと。少しずつ事情を聞いていくうちに、あの子が毎晩怯えながら眠っていることを知ったこと。失踪の三日前、さくらが「どこか遠くに行きたい」と言ったこと。父は迷った末に、遠縁の人間に頼んで、長野の山間の集落に預けた。当時の父にできる、精一杯のことだった。
「警察に言えなかったのは」と父は言った。「あの時代、ああいうことはなかなか動いてもらえなかった。それに橋本は地域の顔役みたいな人間で、何人か抱き込んでいた。さくらを預けた後も、俺のことが橋本に漏れないか、ずっと怖かった」
「だから記事を集めていたんですか。捜査の状況を確認するために」
「そうだ」父は頷いた。「俺に疑いの目が向いたのもわかっていた。アリバイがあったから助かったが、あの刑事——村上という人だが——は目が鋭くて、何度も話を聞きに来た。全部嘘をついた。さくらは知らないと、そう言い続けた」
「三十年間」
「三十年間」父は繰り返した。「さくらが結婚したと聞いたとき、子供が生まれたと聞いたとき、それが一番嬉しかった。あの子が幸せになっていくのが、俺の生きる意味みたいなものだった」
渉は湯呑みを両手で包んでいた。
「橋本勝が動き始めたと知って、会いに行ったんですか」
「会いに行く前に、さくらにもう一度会いたかった。最後になるかもしれないと思ったから」父は静かに言った。「向こうに着いて、さくらに会った。三十年ぶりだった。すっかり大人になって、母親になって、ちゃんと笑っていた」
父の目が、かすかに潤んだ。
「それだけで十分だった。それを見れただけで、三十年間は間違いじゃなかったと思えた」
渉は黙って聞いていた。
「橋本のところに行ったのは、その翌日だ。もう終わりにしようと思った。さくらが幸せに生きているということ、それだけを伝えて、決着をつけようと思った」
「父さんを恨んでいましたか、橋本は」
「恨んでいたと思う。でも老いていた」父は言った。「人間、歳をとると変わることがある。あの人は変わっていた。全部変わったわけではないだろうが、少なくとも俺の話を最後まで聞いた。昔の橋本なら、途中で怒鳴っていた」
「謝りたいと言っていました」
「そうか」父は少し驚いた顔をした。それからゆっくり頷いた。「それはさくらが決めることだ。俺が口を挟むことじゃない」
夜が深くなっていた。時計を見ると、日付が変わる少し前だった。
「警察に話しますか」と渉は聞いた。「村上さんも、まだ終わっていないと言っていました」
父は長い間考えた。
「さくらが望むなら話す。さくらが望まないなら、それに従う。決めるのはあの子だ」父は静かに言った。「俺がしたことは、法律の外のことだ。正しかったかどうかは、俺にはわからない。ただ、後悔はしていない」
渉は頷いた。
「一つだけ聞いていいですか」
「なんだ」
「俺が三歳のとき、母が亡くなった。それから父さんは一人で俺を育てた。さくらさんのことがあったのに、どうやってそれを、普通の顔でやれたんですか」
父はしばらく黙っていた。
「お前がいたからだ」父は短く言った。「お前を育てることと、さくらを守ることは、俺の中では同じことだった。子供を守ることが、俺にできる唯一のことだと思っていた」
渉は目を伏せた。
三十年分の空白が、静かに埋まっていく感覚があった。すべてがわかったわけではない。父のしたことの善悪も、これから先に何が起きるかも、まだわからない。でも父が帰ってきた。父の三十年間の理由が、今夜わかった。
それで十分だと、渉は思った。
翌週、さくらから短いメッセージが届いた。
「誠一さんが帰ったと聞いて安心しました。いつか、渉さんとも会えたらと思っています。私は元気です」
渉はそのメッセージを何度か読んだ。それから父に見せた。父は画面を見て、一度だけ小さく笑った。
返信は父が書いた。
「元気でいてください。それだけでいいです」
送信ボタンを押してから、父はスマートフォンをテーブルに置いた。窓の外、プランターのパンジーが秋の風に揺れていた。
「水やりをしなければ」と父は言った。
「昨日やりました」
「そうか」
父は立ち上がり、窓の外を眺めた。それからゆっくりと、庭に出て行った。
三十年間守り続けた空白は、埋まったわけではないかもしれない。ただ、その空白の形が、今夜初めて渉には見えた。それは後ろめたさの形でもなく、罪の形でもなく、不器用な父親が不器用なやり方で誰かを守ろうとした、その形をしていた。
渉は台所でお茶を淹れた。二人分。
庭からは、父が土をいじる小さな音が聞こえていた。