
【創作大賞応募作品 】凪ぐまで君を待つ
「好き」が言えない男と、「大丈夫」と笑う女。
傷つくことを恐れて、愛を言葉にできない西柴蓮。
嫌われることを恐れて、本音を隠す朝比奈遊羽。
不器用な二人は、静かに惹かれ合っていく。
けれど、幸せが深まるほど、失う怖さもまた育っていった。
そして二人の恋を揺らしたのは、静かに忍び寄る別れの気配だった。
愛は、言葉か。行動か。
波が来ても、風が吹いても。
凪ぐまで、君を待つ。
これは、傷を抱えた二人が、もう一度誰かを信じるまでの、切なくて優しい再生の物語。

【登場人物紹介】
□ 西柴蓮(にししば れん)
⸻
□ 朝比奈遊羽(あさひな ゆう)
⸻
□ 美南(みなみ)
⸻
ー この物語が、あなたの心にも静かな凪を届けられますように ー
【第一話 波音】
言葉なんて、あてにならない。
そう思うようになったのが、いつからだったのかは覚えていない。
ただ、気づけばそうだった。
言ったって伝わらないことがある。
伝わったって、なくなるものはなくなる。
だったら、最初から信じないほうがいい。
そうやって生きるほうが、ずっと楽だった。
⸻
朝四時半。
浪子不動 の海は、まだ夜の色を少し残していた。
水平線の向こうが、じわじわと群青から薄い橙へ変わっていく。
波は腰くらい。
風は弱い。
悪くない。
ボードを小脇に抱え、砂浜を歩く。
足裏に伝わる冷たい砂の感触が、眠っていた神経を少しずつ起こしていく。
この時間が好きだった。
誰も余計なことを喋らない。
波は、何も聞いてこない。
期待もしない。
裏切りもしない。
ただ来て、崩れて、消える。
ポケットのスマホが震えた。
立ち止まって画面を見る。
ー 朝比奈遊羽。
いつもの名前。
そして、いつもの一言。
『おはよ、れんれん。今日も好き』
……朝からうるせぇ。
そう思いながら、口元がほんの少し緩んだ。
返事はしない。
既読だけつけてスマホをしまう。
返信がなくても、遊羽は気にしない。
いや。
気にしていないように見せるのが上手いだけかもしれない。
そう考えて、西柴蓮 は小さく息を吐いた。
遊羽は、わかりやすい女だ。
よく笑う。
よく喋る。
感情が顔に出る。
好きなものは好き、嫌なものは嫌。
なのに、人の機微には妙に敏感だった。
蓮が機嫌悪い日も、疲れてる日も、何も聞かず隣に座る。
聞かないくせに、全部気づいている。
ああいうのを、ずるいと言うんだろう。
波打ち際でリーシュを足首に巻きながら、遊羽の声を思い出す。
——れんれん、好き。
軽い言葉じゃない。
あいつは毎回、本気で言っている。
だから困る。
好き。
その言葉は、蓮にはずっと遠かった。
言えば伝わるなんて、思えなかった。
言葉は、なくなる。
人も、なくなる。
十二歳の冬、それを知った。
⸻
「蓮、母さんもう行くから」
玄関の冷たい空気。
小さく震える妹たち。
俯いた父。
ドアの外へ出る母。
あの日の景色だけ、やけに鮮明だった。
母は妹を二人連れて行った。
蓮は残った。
理由なんて知らない。
聞かなかった。
聞けなかった。
母は最後に、一度だけ蓮を見た。
その目が、今でも忘れられない。
そして、静かに言った。
「蓮は、お父さんに似てるね」
たった、それだけだった。
意味なんて説明されなかった。
でも、子どもには十分だった。
選ばれなかった。
連れて行かれなかった。
父に似ているから。
その事実だけが、胸の奥に沈殿した。
⸻
海へ出る。
冷たい水が腰まで上がる。
深く息を吸って、パドルする。
波待ちの時間。
世界が静かになる。
何も考えなくていい。
……はずなのに。
『今日も好き』
頭に浮かぶ。
しつこい。
ほんと、しつこい。
でも、そのしつこさに救われている自分がいる。
蓮は眉間に皺を寄せた。
面倒くさい。
我ながら、面倒くさい。
波が来た。
ボードの向きを変える。
漕ぐ。
立つ。
一瞬で、音が消える。
波の上を滑る数秒だけ、全部がなくなる。
雑音も、記憶も、感情も。
なのに。
波を降りた瞬間、最初に浮かんだのは遊羽だった。
……重症だな。
蓮は苦笑した。
⸻
昼過ぎ。
サーフショップの仕事を終え、店を出る。
潮の匂いが染みついた上着を羽織り、駅へ向かう途中でスマホが鳴った。
遊羽からだ。
「もしもし」
「あ、れんれん?」
聞き慣れた声。
少し高くて、明るい。
自然と肩の力が抜ける。
「ん」
「今どこ?」
「店出た」
「会いたい」
即答だった。
蓮は足を止めた。
「……急だな」
「会いたくなったんだもん」
「仕事は」
「終わった」
数秒、沈黙。
電話の向こうで、遊羽が小さく笑った気配がした。
「今、ちょっと困った顔した?」
「してねぇ」
「したね」
「してない」
「れんれん」
「ん」
遊羽の声が少しだけ柔らかくなった。
「好き」
蓮は空を見上げた。
夕暮れ前の白い空。
心臓が、わずかに跳ねる。
何度聞いても慣れない。
何度聞いても、困る。
返せないから。
返したことがないから。
沈黙が落ちる。
遊羽は急かさない。
責めない。
ただ、待つ。
その待ち方が、苦しかった。
「……どこ」
「え?」
「どこいんの」
一拍置いて、遊羽が笑った。
その笑い声に、胸の奥が少し熱くなる。
「駅前」
「二十分」
「うん」
電話が切れる。
蓮はスマホを下ろした。
結局、言えなかった。
好きだなんて。
でも、会いに行く。
それが答えになっていると、勝手に思っている。
もし違ったら?
もし、伝わっていなかったら?
ふと、そんな考えがよぎった。
蓮は首を振る。
考えても仕方ない。
⸻
駅前に着くと、遊羽はすぐ見つかった。
人混みの中でも目立つ。
長い髪。
綺麗に引かれたアイライン。
華奢な身体。
綺麗めの服装。だけど、纏う空気はどこまでも自由だ。
そして、蓮を見つけた瞬間。
ぱっと顔が明るくなる。
その表情を見るたび思う。
……こんな顔を、自分に向けるなよ。
勘違いしそうになる。
いや。
もうしているのかもしれない。
遊羽が駆け寄ってくる。
「れんれん!」
嬉しそうに笑う。
太陽みたいだ、と蓮は思った。
遊羽は蓮の前で立ち止まり、少し息を弾ませながら言った。
「会えた」
それだけで、胸のどこかが柔らかく崩れる。
蓮は視線を逸らした。
「……大げさ」
遊羽はふふっと笑った。
そして、何でもない顔で言う。
「今日も好き」
蓮の喉がわずかに動く。
言え。
好き。
それだけだ。
なのに。
言葉が、出ない。
出そうとすると、喉の奥で何かが引っかかる。
怖い。
何が怖いのか、自分でもわからない。
ただ、言った瞬間に壊れそうで。
蓮は代わりに、遊羽の手首を軽く掴んだ。
「……行くぞ」
「どこ?」
「飯」
遊羽が目を丸くする。
それから、花が咲くみたいに笑った。
「うん」
手は離さなかった。
離せなかった。
この温度が、あまりにも心地よかったから。
知らなかった。
誰かといるだけで、こんなふうに静かになれるなんて。
知らなかった。
失うのが怖いと思う日が、また来るなんて。
知らなかった。
——この“好き”が、いつか自分を追い詰めることになるなんて。
このときの蓮は、まだ知らない。
【第二話 好き】
朝の店内には、ドライヤーの音と誰かの笑い声が絶えず流れていた。
カットクロスが擦れる音。
シャンプー台を流れる水音。
薬剤の匂い。
忙しい空気。
嫌いじゃない。
むしろ好きだった。
「遊羽さん、そのハサミ取ってもらっていいですか?」
「はいはーい」
朝比奈遊羽 は鏡越しににこっと笑いながら、後輩の真帆へハサミを渡した。
横浜駅近くの美容室は、今日も忙しい。
目の前の人が少し綺麗になって、少し嬉しそうな顔で帰っていく。
それを見るたび、美容師になってよかったと思う。
「遊羽さんって、いつも楽しそうですよね」
シャンプーを終えた真帆が、ぽつりと言った。
「そう?」
「はい」
真帆は少し首を傾げる。
「なんていうか……悩みなさそう」
遊羽は思わず吹き出した。
「それ褒めてる?」
「褒めてます!」
即答だった。
かわいいな、と笑う。
でも次の言葉に、遊羽の手がほんの少し止まった。
「あと」
「ん?」
真帆が少し言いづらそうに続ける。
「遊羽さんって、寂しい時ほど笑いますよね」
一瞬、音が遠のいた気がした。
鏡の中の自分が、いつも通り笑っている。
なのに、心臓だけが嫌な跳ね方をした。
……鋭い。
遊羽は小さく息を吐いた。
「真帆ちゃんさ」
「はい」
「最近、彼氏とうまくいってないでしょ」
真帆が固まった。
図星だ。
わかりやすい。
「……なんでわかるんですか」
「顔」
真帆がしょんぼり肩を落とす。
少し迷ったあと、小さな声で言った。
「実は、微妙です」
「何が?」
真帆は唇を噛んだ。
それから、ぽつりと落とす。
「好きって、言ってくれないんです」
その瞬間。
遊羽の指先が止まった。
ああ。
それ、知ってる。
すごく知ってる。
真帆は続けた。
「行動では優しいんです」
遊羽は静かに聞く。
「迎えに来てくれるし、荷物も持ってくれるし、体調悪い時はすぐ気づいてくれるし」
……うん。
れんれんもそうだ。
真帆の声が少し震えた。
「でも、言葉がないと不安になる時ってあるじゃないですか」
ある。
ものすごく、ある。
「私ばっかり好きなのかなって思っちゃって」
遊羽は一瞬、何も言えなかった。
鏡に映る自分が、少しだけ困った顔をしていた。
「……そっか」
絞り出した声は、思ったより柔らかかった。
真帆はうつむく。
「重いですかね、私」
遊羽は首を振った。
「全然」
即答だった。
「好きって言ってほしいって、普通だよ」
普通。
そう。
普通なのだ。
好きな人に、好きと言ってほしいなんて。
それなのに。
西柴蓮には、それがない。
⸻
仕事終わり。
店を出る頃には、空が茜色に染まり始めていた。
遊羽はスマホを見た。
蓮とのトーク画面。
最後のやり取りは昨日。
遊羽
『今日も好き』
既読。
それだけ。
……いつものこと。
なのに今日は、少し胸が重かった。
真帆の言葉が抜けない。
私ばっかり好きなのかな
「……やだなぁ」
独り言が漏れる。
そんなふうに思いたくない。
思いたくないのに。
考えてしまう。
れんれんは、私のこと好き?
好きだから会ってくれる?
好きだから手を繋ぐ?
好きだからキスする?
だったら。
どうして、一度も言ってくれないんだろう。
遊羽は立ち止まった。
だめだ。
今日は、だめだ。
変な方向に考え始めてる。
スマホが震えた。
着信。
れんれん。
遊羽の目が少し見開く。
慌てて出た。
「もしもし」
「どこ」
相変わらず主語がない。
遊羽は少し笑った。
「横浜駅」
「何時に終わった」
「さっき」
数秒の沈黙。
それから。
「今から行く』」
「……え?」
「待ってろ」
通話が切れた。
遊羽はスマホを見つめた。
今から?
胸が、少しうるさくなる。
⸻
四十五分後。
西口裏に停まっている蓮の車を見つけた。
黒いチェロキー。
気だるそうな立ち姿。
人混みに紛れていても、すぐわかる。
蓮は遊羽を見るなり、眉をひそめた。
「なんだその顔」
「え?」
「泣きそう」
遊羽の呼吸が止まった。
……この人は。
どうしてこういう時だけ、すぐ見抜くんだろう。
「泣きそうじゃないし」
「嘘」
即答だった。
蓮が一歩近づく。
「なんかあった?」
遊羽は視線を逸らした。
言えない。
言ったら面倒くさい女みたいだ。
好きって言ってほしいなんて。
重い。
重すぎる。
「別に」
「遊羽」
名前を呼ばれる。
優しい声だった。
それだけで、張っていたものが少し揺らぐ。
「……会いたくなっただけ」
蓮は黙った。
遊羽は笑おうとした。
「ごめん、忙しかったよね」
その瞬間。
蓮の手が、遊羽の頭に触れた。
ぽん、と。
乱暴なくせに優しい手。
「謝んな」
短い一言。
胸が、痛い。
優しい。
ずるい。
好きって言わないくせに。
こういう時だけ、全部伝わるみたいな顔をする。
⸻
海沿いを少し歩いた帰り道。
遊羽はヒールのせいで小さくよろけた。
「あ」
ぐらりと身体が傾く。
次の瞬間。
蓮がしゃがんだ。
「……え?」
「乗れ」
遊羽は目を丸くした。
「え、いいよ」
「いいから」
「でも」
蓮が振り返る。
少しだけ呆れた顔。
「落ちるぞ」
……もう落ちてる。
とっくに。
遊羽は観念して背中に乗った。
広い背中。
潮の匂い。
体温。
心臓が、近い。
遊羽は小さく呟いた。
「れんれん」
「ん」
「……好き」
蓮は少し黙った。
また、返事はない。
やっぱりない。
そう思った、その時。
「知ってる」
いつもの返事。
でも今日は、それだけじゃなかった。
蓮は前を向いたまま、静かに言った。
「だから来た」
遊羽の目が見開く。
時間が止まったみたいだった。
だから来た。
その声が、胸の奥へまっすぐ落ちていく。
言葉が出ない。
涙が滲む。
好きって言ってほしい。
そう思っていたはずなのに。
たったこれだけで、全部持っていかれる。
ずるい。
ほんとうに、ずるい。
遊羽は蓮の背中に顔を埋めた。
好き。
好き。
好き。
この人を好きでいるのは苦しい。
でも。
それ以上に、幸せだった。
ふいに、遊羽は口を開いた。
「ねえ、れんれん」
「ん」
「今度、ライブ見に行ってもいい?」
蓮がわずかに足を止めた。
沈黙。
数秒。
「……別に」
ぶっきらぼうな声。
でも、断ってはいない。
遊羽は笑った。
「じゃあ行く」
返事はない。
けれど。
背中越しに見えた耳が、少しだけ赤かった。
たぶん私は、まだ待てる。
あなたの心が凪ぐ、その日まで。
【第三話 音】
ライブハウス特有の匂いがある。
汗。
アルコール。
埃。
機材の熱。
それが全部混ざった、少し息苦しい空気。
朝比奈遊羽 はフロア後方で、胸の前で小さく手を握った。
落ち着かない。
妙にそわそわする。
隣にいた友人の美咲が笑った。
「遊羽、緊張しすぎじゃない?」
「してないし」
「してるって」
美咲は楽しそうに遊羽を見た。
「そんなに見たかったんだ、れんれんのライブ」
遊羽は少しだけ視線を逸らした。
「……まあ」
本当は、ずっと気になっていた。
海にいる蓮。
二人でいる蓮。
仕事中の蓮。
でも、それだけじゃない気がしていた。
まだ知らない蓮がいる。
そんな気が、ずっとしていた。
照明が落ちた。
歓声が上がる。
ドラムのカウント。
次の瞬間。
轟音。
腹の奥を直接殴られるような重低音が、フロアを揺らした。
ステージが光る。
そこにいた。
西柴蓮 。
遊羽の呼吸が止まる。
黒いTシャツ。
深く被ったキャップ。
左耳のピアスが光る。
ギターを抱える姿は、確かに蓮なのに。
まるで別人だった。
普段、感情を顔に出さない男。
何を考えているかわからない男。
その男が今、音を掻きむしるみたいにギターを鳴らしている。
鋭く。
荒く。
獣みたいに。
遊羽は目を離せなかった。
蓮は煽らない。
笑わない。
客席に媚びない。
ただひたすら、音にすべてを叩きつけていた。
指先が弦を削る。
アンプが唸る。
歪んだ音が空気を裂く。
胸が苦しい。
どうしてだろう。
泣きそうだった。
「……すご」
美咲が呆然と呟く。
「普段あんな静かなのに」
遊羽は答えられなかった。
静かじゃない。
違う。
この人は静かな人じゃない。
ずっと勘違いしていた。
この人は——
激しい。
ただ、それを外に出さないだけだ。
曲が進むほど、蓮の音は熱を帯びていった。
そして最後の曲。
イントロが鳴った瞬間、空気が変わった。
遊羽にもわかった。
何かが違う。
蓮の右手が、それまでとは明らかに違う熱を帯びる。
掻き鳴らす、というより叩きつける。
音が悲鳴みたいに歪む。
弦が切れそうなほど強く。
壊れそうなほど激しく。
まるで。
言葉にならない何かを、全部そこへ押し込めるみたいに。
苦しい。
苦しそう。
どうしてそんな顔をするの。
遊羽の視界が滲む。
蓮は叫ばない。
何も喋らない。
それなのに。
叫び声よりずっと大きく、何かが伝わってくる。
この人はずっと。
何かと闘っている。
最後の一音が落ちた。
静寂。
ほんの一瞬の無音。
次の瞬間、割れんばかりの歓声が上がった。
でも遊羽は、拍手もできなかった。
心臓だけがうるさい。
手が震える。
息が浅い。
……なんだったの、今の。
⸻
ライブ後。
裏口近くで蓮を待つ。
しばらくして、蓮が出てきた。
タオルを首にかけ、汗で髪が少し濡れている。
その姿に、また心臓が跳ねた。
蓮は遊羽を見るなり、眉がわずかに動いた。
「なんで泣いてんの」
遊羽は慌てて目元を拭いた。
「泣いてない」
「嘘」
即答だった。
遊羽は小さく笑った。
「れんれん」
「ん」
少し迷う。
聞いていいのか。
踏み込んでいいのか。
それでも、聞きたかった。
「さっきのライブ」
蓮が遊羽を見る。
遊羽は小さく息を吸った。
「……なんか、苦しそうだった」
夜風が吹いた。
遠くで電車の音がする。
蓮はすぐには答えなかった。
沈黙。
数秒。
長い間。
そして、ようやく。
「……昔のこと」
たった、それだけ。
遊羽は何も聞かなかった。
聞けなかった。
そこには、まだ触れてはいけない痛みがある。
遊羽は一歩近づいた。
そっと、蓮のTシャツの裾を掴む。
「れんれん」
「ん」
震えそうになる声を、まっすぐにする。
「私は」
蓮が遊羽を見る。
逃げない。
遊羽は微笑んだ。
「急にいなくなったりしないよ」
蓮の瞳が、わずかに揺れた。
ほんの一瞬。
でも確かに揺れた。
沈黙。
蓮は何も言わない。
何も返さない。
けれど。
帰り道。
繋いだ手に、少し力が入った。
いつもより、少しだけ強く。
それだけだった。
でも遊羽には、それで十分だった。
この人はきっと、
言葉にできないものを、
ずっと胸の奥に抱えて生きている。
そして、それを誰にも見せないまま、
ここまで来たのだ。
遊羽は繋いだ手を、そっと握り返した。
たぶん。
この人を好きになるというのは、
言葉を待つことじゃない。
言葉にならない痛みごと全てを、
抱きしめたくなることなのだ。
そのとき遊羽は、まだ知らない。
この静かな夜が、
いつか二人の未来を大きく揺らすことになるなんて。
【第四話 熱】
六月の終わり。
湿った風が、街に夏の匂いを運んでいた。
朝比奈遊羽 は美容室を出た瞬間、顔をしかめた。
「……暑っ」
昼間の熱気が、まだアスファルトに残っている。
スマホが震えた。
画面を見る。
れんれん。
珍しい。
遊羽は少し目を丸くして電話に出た。
「もしもし?」
「終わった?」
低い声。
少し掠れている。
「今終わったよ」
数秒、沈黙。
「……迎え行く」
遊羽が瞬きをした。
「え?」
「近くいる」
「え、なんで?」
少し間。
「……会いたい」
遊羽の呼吸が止まった。
心臓が、一拍遅れて大きく跳ねる。
れんれんが。
今。
会いたいって言った?
「……れんれん?」
「あと五分」
通話が切れた。
遊羽はスマホを見つめたまま固まった。
今の、聞き間違いじゃないよね。
会いたいって、言ったよね?
頬が熱い。
やばい。
無理。
顔がにやける。
⸻
十分後。
黒のチェロキーが、道路脇に停まっていた。
運転席から、西柴蓮 がこちらを見る。
いつもの無愛想な顔。
でも遊羽にはわかった。
少し疲れている。
助手席に乗り込む。
「おつかれ」
「ん」
エンジン音だけが車内に流れる。
遊羽はちらりと蓮を見る。
横顔。
顎のライン。
ハンドルを握る長い指。
好き。
普通に好き。
かなり好き。
「……なに」
蓮が前を向いたまま言った。
遊羽が笑う。
「見てただけ」
「見るな」
「なんで」
「気が散る」
遊羽は吹き出した。
「運転してるれんれん好き」
「知らん」
「今日もかっこいい」
「うるさい」
ぶっきらぼうなのに、耳が少し赤い。
かわいい。
本当に、この人はわかりやすい。
⸻
海沿いの駐車場。
エンジンを切ると、波の音が微かに聞こえた。
窓の向こうで、夕陽が海を橙色に染めている。
遊羽はシートにもたれた。
「海、きれい」
「ん」
「こういう時間、好き」
蓮は何も言わない。
でも、否定もしない。
遊羽はそっと言った。
「れんれん」
「ん」
「会いたいって言ってくれたよね」
蓮の眉がぴくりと動いた。
「……言ったか?」
「言った」
「覚えてねぇ」
「嘘」
沈黙。
遊羽が少し笑う。
「嬉しかった」
蓮は黙ったままだ。
でも遊羽は続けた。
「好きって言われるのも嬉しいけど」
少し息を吸う。
「会いたい、のほうが嬉しいかも」
車内が静かになる。
波の音だけが聞こえる。
蓮は窓の外を見たまま動かない。
何も言わない。
やっぱり言いすぎたかな。
そう思った、その時。
蓮が小さく息を吐いた。
「……ずるいな」
「え?」
蓮がようやく遊羽を見る。
その目が、少しだけ困っていた。
「お前、そういうこと平気で言う」
遊羽は笑った。
「れんれんが言わないからでしょ」
蓮の喉が動く。
何か言いかけて、やめる。
遊羽は待つ。
急かさない。
ただ待つ。
長い沈黙のあと。
蓮が、ぽつりと落とした。
「……言葉にすると」
声が低い。
掠れている。
「なくなりそうで嫌なんだよ」
遊羽の呼吸が止まった。
初めてだった。
蓮が、自分の内側を言葉にした。
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけでも。
確かに、開いた。
蓮は視線を逸らした。
「馬鹿みてぇだけど」
遊羽は首を振った。
「馬鹿じゃない」
涙が滲みそうになる。
「全然、馬鹿じゃないよ」
蓮は何も言わない。
でも、その沈黙は前と違った。
閉じた沈黙じゃない。
隣にいていい沈黙だった。
しばらくして。
遊羽が小さく笑った。
「ねえ」
「ん」
「キスしたい」
蓮が固まった。
「……は?」
「したい」
「急だな」
「だって今すごく好きだから」
「意味わからん」
遊羽はくすっと笑った。
「れんれん」
「ん」
「こっち向いて」
蓮が深く息を吐いた。
「……お前さ」
呆れた声。
でも次の瞬間。
蓮の手が遊羽の頬に触れた。
熱い手。
優しい指。
そして。
触れるだけのキス。
短い。
けれど、心臓が壊れそうになるほど甘かった。
離れたあとも、額が近い。
呼吸が混ざる距離。
蓮が低く言った。
「……今、それ以上喋んな」
「なんで?」
「理性なくなる」
遊羽の顔が真っ赤になる。
数秒。
沈黙。
そして遊羽は思った。
ああ。
この人もちゃんと。
同じ熱を持ってる。
怖がりながら。
必死で隠しながら。
それでも。
確かに、自分を好きでいてくれている。
そう信じられる夜だった。
⸻
二人はまだ知らない。
幸せが深くなるほど、
失う怖さもまた、
静かに育っていくことを。
【第五話 体温】
七月の夜。
昼間の熱を残した空気が、窓の隙間からゆっくり部屋に流れ込んでいた。
西柴蓮の部屋には、アンプの小さなランプだけが灯っている。
ギターを膝に乗せ、蓮は黙々と弦を張り替えていた。
金属が擦れる微かな音。
静かな夜だった。
ソファでは、朝比奈遊羽が胡座を崩したまま座っていた。
仕事終わりでそのまま来たから、少し疲れているのだろう。
さっきまで喋っていたのに、急に静かになった。
蓮がふと視線を向ける。
遊羽は眠っていた。
「……」
思わず手が止まる。
無防備だった。
長い髪が肩から滑り落ち、頬にかかっている。
薄く開いた唇。
規則正しい呼吸。
さっきまで笑っていた女が、まるで子どもみたいな顔で眠っている。
蓮は小さく息を吐いた。
「こんなとこで寝るなよ」
もちろん返事はない。
立ち上がり、ソファの横に置いていた薄手の毛布を手に取る。
そっと遊羽にかけた。
肩を覆うように整える。
そのとき、髪が頬に張りついているのが目に入った。
少し迷ってから、指先で髪を耳にかける。
柔らかい。
熱い。
触れた瞬間、胸の奥が妙にざわついた。
……無防備すぎる。
こんなふうに眠れるのは。
きっと。
信じているからだ。
自分を。
この場所を。
この距離を。
蓮は視線を落とした。
信じる、なんて。
簡単にできるものじゃない。
なのに遊羽は、何のためらいもなくこちらへ身を預けてくる。
それが怖い。
でも。
嫌じゃない。
むしろ——
困るくらい、嬉しい。
蓮は眉間に皺を寄せた。
面倒くさい。
ほんとに。
自分が、一番面倒くさい。
⸻
どれくらい経っただろう。
ソファが小さく揺れた。
遊羽が身じろぎする。
長い睫毛が震え、ゆっくり目が開いた。
ぼんやりした視線が彷徨って、蓮を見つける。
「……れんれん?」
寝起きの掠れた声。
子どもみたいな呼び方だった。
蓮の喉がわずかに動く。
「起きた?」
遊羽はまだ半分夢の中みたいな顔をしていた。
「……うん」
身体を起こしかけて、毛布に気づく。
それから蓮を見る。
「これ……」
「寝てた」
遊羽が少し笑った。
「そっか」
そう言って、ふいに手が伸びた。
蓮の腕を掴む。
きゅ、と。
無意識みたいな力だった。
蓮が視線を落とす。
遊羽は離さない。
「……なに」
「なんでもない」
「なら離せ」
「やだ」
即答。
蓮は小さく息を吐いた。
「ガキか」
遊羽は答えない。
ただ、指先だけが少し強くなる。
その小さな力が、妙に胸に響いた。
まるで。
離れるのを怖がっているみたいで。
⸻
しばらく、静かな時間が流れた。
外で、遠く車の走る音がする。
遊羽がぽつりと口を開いた。
「ねえ」
「ん」
少し間。
ほんの少しの躊躇。
それから。
「今日、泊まってもいい?」
蓮の呼吸がわずかに止まる。
遊羽は続けた。
明るく言おうとしているのが、逆にわかった。
「無理なら全然いいよ」
その瞬間。
蓮の中で、何かが引っかかった。
無理ならいい。
大丈夫。
気にしない。
遊羽はよくそう言う。
優しさだと思っていた。
気遣いだと思っていた。
でも違う。
最近、わかってきた。
これは——逃げ道だ。
断られた時、自分が傷つかないための。
予防線。
蓮は静かに遊羽を見た。
「遊羽」
遊羽が瞬く。
「ん?」
蓮は低く言った。
「そういう言い方すんな」
遊羽が固まる。
笑顔が、ほんの少し止まった。
「……え」
蓮は視線を逸らさなかった。
「無理ならいい、とか」
沈黙。
「断られた時の予防線、張るだろ」
遊羽の呼吸が止まる。
図星だった。
胸の奥を、真っ直ぐ射抜かれたみたいだった。
なんで。
なんでわかるの。
遊羽は唇を噛んだ。
笑えない。
誤魔化せない。
蓮が続ける。
「……試されてるみたいで、嫌だ」
その一言に、遊羽の心がひどく揺れた。
違う。
試したかったわけじゃない。
ただ怖かっただけ。
断られるのが。
重いって思われるのが。
迷惑って思われるのが。
遊羽は視線を落とした。
喉が苦しい。
うまく声が出ない。
「……ごめ」
言いかけた、その時。
蓮が小さく息を吐いた。
長い沈黙。
それから。
ぶっきらぼうに言った。
「泊まれよ」
遊羽が顔を上げる。
蓮は少しだけ眉をひそめたまま続けた。
「帰すなら」
喉が動く。
「とっくに起こしてる」
遊羽の目が見開いた。
時間が止まる。
心臓が、遅れて大きく鳴った。
蓮は視線を逸らす。
耳が少し赤い。
「……だから」
小さく。
掠れた声で。
「最初から、逃げんな」
その瞬間。
遊羽の中で、何かがほどけた。
ああ。
この人は。
見ていないようで、全部見ている。
言わないだけで。
気づいていないふりをしているだけで。
ずっと。
遊羽はゆっくり手を伸ばした。
蓮のTシャツを掴む。
「れんれん」
「ん」
声が少し震える。
「私ね」
蓮が見る。
その目は、優しいのに鋭い。
遊羽は小さく笑った。
泣きそうだった。
「断られるの、すごく怖い」
初めてだった。
こんなふうに言葉にしたのは。
「嫌われるのも」
喉が震える。
「重いって思われるのも」
涙が滲む。
「怖い」
静寂。
蓮は何も言わない。
でも次の瞬間。
大きな手が、遊羽の後頭部に触れた。
引き寄せられる。
気づけば額が胸に当たっていた。
蓮の心臓の音が聞こえる。
速い。
自分と同じくらい。
蓮の低い声が、頭上から落ちた。
「……俺も」
遊羽が息を呑む。
それだけ。
それだけなのに。
胸の奥へ、深く落ちた。
俺も。
怖い。
そう言ったのだと、わかった。
遊羽は蓮の服をぎゅっと握った。
「れんれん」
「ん」
「好き」
沈黙。
返事はない。
いつも通り。
なのに今日は、不思議と寂しくなかった。
代わりに、抱きしめる腕に力がこもる。
強く。
逃がさないみたいに。
その体温が、何より雄弁だった。
言葉より先に伝わるものがある。
たぶん、二人はまだそれを上手く説明できない。
でも。
触れた体温だけは、嘘をつかなかった。
⸻
この夜を境に、
二人は少しだけ近づいた。
けれど——
近づくほど見えてしまう傷があることを、
まだ知らなかった。
【第六話 未来】
七月の終わり。
夏の熱気が少しだけ和らいだ夕方、朝比奈遊羽は助手席の窓を開けて潮風を吸い込んだ。
「気持ちいい〜」
黒いチェロキーは、海沿いの道を静かに走っている。
運転席の西柴蓮は、片手でハンドルを握ったまま短く返した。
「髪、ぐちゃぐちゃになるぞ」
「いいもん」
遊羽は笑った。
「れんれんの前だし」
蓮がちらりと横目で見る。
「そういう問題か」
「そういう問題」
即答。
蓮は小さく息を吐いた。
呆れているようで、どこか柔らかい。
遊羽はそんな横顔を見て、ふと思った。
この人、前よりよく笑うようになったな。
声を出して笑うわけじゃない。
でも。
目元とか、口元とか。
ほんの少しだけ、前より温度がある。
それが嬉しかった。
⸻
浪子不動の近くに車を停める。
夕暮れの海は、昼間とは違う静けさをまとっていた。
オレンジと青の境目みたいな空。
寄せては返す波。
潮の匂い。
遊羽は靴を脱いで砂浜へ降りた。
「冷たっ」
足裏に触れる砂に声が漏れる。
蓮は少し後ろから、それを見ていた。
「子どもか」
「子どもじゃないし」
「同じだろ」
「失礼な」
遊羽は頬を膨らませる。
でも、すぐに気になることを口にした。
「ねえ」
「ん」
「浪子不動って、変わった名前だよね」
蓮の足が少し止まる。
「急だな」
「前から気になってた」
遊羽は振り返った。
「なんで浪子なの?」
蓮はしばらく黙っていた。
風が吹く。
沈黙。
遊羽は急かさない。
待つ。
やがて蓮が、ぽつりと話し始めた。
「昔、この辺の漁師が祈ってたらしい」
「何を?」
「海で死なないように」
遊羽の目が少し丸くなる。
蓮は海を見たまま続けた。
「荒れた日に波に呑まれても、帰ってこられるように」
帰ってこられるように。
その言葉が、波音に溶けた。
遊羽は小さく呟く。
「……いいね」
蓮は何も言わない。
少しして、遊羽が聞いた。
「れんれん、昔からここ来てたの?」
沈黙。
長い沈黙。
遊羽は、聞きすぎたかなと思った。
でも。
今日は違った。
蓮は逃げなかった。
「……来てた」
低い声。
「中学くらいから」
「一人で?」
「ん」
遊羽は蓮を見る。
蓮は波を見ている。
その横顔が、少し遠かった。
「なんで?」
蓮の喉が小さく動く。
そして。
「海は」
少し間。
「黙ってたから」
遊羽の呼吸が止まりそうになった。
その一言だけで、わかってしまう。
この人が、どれだけ一人でいたのか。
誰にも話せなくて。
話したくなくて。
話しても仕方ないと思って。
ただ、ここへ来ていた。
遊羽の胸が締めつけられる。
ゆっくり、蓮の隣に立つ。
そして。
そっと、小指を絡めた。
蓮がわずかに目を動かす。
遊羽は海を見たまま言った。
「今は?」
蓮が黙る。
「今も、逃げに来てる?」
風が吹いた。
長い沈黙。
やがて。
蓮が低く言った。
「……昔はな」
遊羽の心臓が跳ねる。
蓮は続ける。
「今は違う」
遊羽が振り向く。
「何が違うの?」
蓮が、遊羽を見る。
まっすぐ。
数秒。
それから。
「……お前を思い出す」
遊羽の思考が止まった。
え。
今。
なんて。
顔が熱くなる。
心臓がうるさい。
無理。
死ぬ。
「れ、れんれん」
「ん」
「それ、反則」
蓮は少し眉を寄せた。
「何が」
「そんなの好きになるじゃん」
蓮が小さく息を吐く。
「もうなってるだろ」
遊羽、停止。
数秒後。
「……そうでした」
蓮の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
……笑った。
遊羽はその顔に見惚れた。
こんな顔、ずるい。
⸻
波打ち際を歩きながら、遊羽がふいに言った。
「ねえ、れんれん」
「ん」
「もし子どもできたらさ」
蓮が止まった。
遊羽は気づかないまま続ける。
「名前どうする?」
「……は?」
蓮が呆れた顔になる。
「飛躍しすぎだろ」
「いいじゃん、妄想くらい」
遊羽は笑った。
「れんれん、なんかある?」
蓮はしばらく考える。
本当に珍しく。
真面目に考えている。
そして。
ぽつり。
「……浪子」
遊羽が目を瞬く。
「ん?」
「ん」
「なんで?」
蓮は少し海を見る。
「帰ってこられる名前がいい」
遊羽の目が大きく開く。
蓮は続けた。
「どこ行っても」
喉が小さく動く。
「戻ってこられるような」
遊羽はもう駄目だった。
胸がいっぱいになる。
この人は。
未来を見ていないと思っていた。
違った。
見られなかっただけだ。
怖くて。
失うのが怖くて。
でも今。
少しだけ。
確かに未来へ手を伸ばした。
遊羽は立ち止まり、蓮を見上げた。
目が熱い。
泣きそう。
「れんれん」
「ん」
「私」
声が震える。
でも、笑った。
「浪子、好き」
蓮が静かに見下ろす。
遊羽は続ける。
「………でも、、、波にしない?」
沈黙。
波の音。
夕暮れ。
世界が静かになる。
そして。
蓮が、ゆっくり遊羽の頭に手を置いた。
ぽん、と。
いつもの手。
でも今日は、少し違う。
手のひらが離れない。
髪を撫でる。
愛おしむみたいに。
そして。
蓮が低く言った。
「……遊羽とだったら」
遊羽の呼吸が止まる。
蓮の喉が動く。
言葉を選ぶみたいに。
苦しそうに。
それでも、逃げずに。
「少しだけ」
沈黙。
「先のこと、考えてもいい」
遊羽の目から、涙が落ちた。
ぽろり、と。
蓮が眉をひそめる。
「なんで泣く」
遊羽は笑いながら泣いた。
「だって」
涙が止まらない。
「嬉しいから」
蓮は困った顔をした。
でも。
次の瞬間。
遊羽を抱き寄せた。
強く。
静かに。
胸の鼓動が聞こえる。
生きている音。
確かな体温。
遊羽は蓮の胸に顔を埋めた。
この人となら。
明日も。
その次も。
きっと。
そう信じたくなる夜だった。
⸻
けれど。
未来を語り始めたその日から、
運命は静かに、
二人を試す準備を始めていた。
【第七話 亀裂】
八月の朝。
アスファルトから立ち上る薄い陽炎。
横浜駅近くの美容室は、今日も忙しい。
ドライヤーの音。
薬剤の匂い。
笑い声。
いつも通りの風景。
朝比奈遊羽は最後の仕上げを終え、鏡越しに客へ微笑んだ。
「すごく似合ってます」
鏡の中の女性が、ぱっと顔を明るくした。
「え、やばい……めっちゃ好きです!」
その笑顔を見る瞬間が、たまらなく好きだった。
髪型ひとつで、人の表情は変わる。
背筋が伸びる。
目が輝く。
少しだけ、自分を好きになれる。
遊羽は、それを何度も見てきた。
だから美容師が好きだった。
⸻
昼過ぎ。
予約の波が少し落ち着いたタイミングで、店長が声をかけた。
「遊羽、ちょっといいか」
いつもより少し真面目な声だった。
遊羽は首を傾げる。
「はい?」
バックヤードへ入ると、店長がタブレットを差し出した。
画面にはメールが開かれている。
差出人を見て、遊羽の動きが止まった。
atelier MARE 福岡本店 採用担当
「……え?」
店長が腕を組む。
「君のInstagram見て連絡が来た」
意味が入ってこない。
「インスタ?」
「うん」
店長がメール本文をスクロールする。
朝比奈遊羽様のInstagram投稿を拝見しました。
施術写真、リール動画、ブランディングを含めた発信力に強く惹かれています。
特に顔まわりデザインの再現性と、顧客満足度の高さに感銘を受けました。
ぜひ一度、お話の機会をいただければ幸いです。
遊羽の呼吸が止まる。
店長が静かに言った。
「福岡最大手だよ、ここ」
沈黙。
鼓動だけがうるさい。
「……なんで、私」
店長が少し笑った。
「それ、俺じゃなくて向こうに聞け」
遊羽は画面を見つめたまま動けない。
店長は続けた。
「遊羽」
「……はい」
「技術が上手い美容師なんて、山ほどいる」
遊羽が顔を上げる。
店長の目は真っ直ぐだった。
「でも遊羽は違う」
静かな声。
でも重い。
「遊羽は、人を引き寄せる力がある」
遊羽の瞳が揺れた。
店長はタブレットを下ろす。
「腕がいいだけじゃない」
一拍。
「遊羽に会いたくて来るお客さまがいる」
胸が熱くなる。
店長が少し笑った。
「それ、才能だから」
遊羽は何も言えなかった。
喉が詰まる。
嬉しい。
誇らしい。
でも。
同時に、怖かった。
頭に浮かんだのは、仕事じゃない。
ただ一人。
れんれん。
⸻
営業後。
バックルームで、美南がコーヒーを飲んでいた。
姉御肌の先輩。
面倒見がよくて、でも踏み込みすぎない。
遊羽が隣に座ると、美南は一瞬で気づいた。
「なに、その顔」
「え?」
「人生変わりそうな顔」
遊羽が苦笑する。
「なんですかそれ」
「当たった?」
遊羽は観念して、今日の話をした。
全部。
福岡。
MARE。
スカウト。
話し終えたあと、美南は静かに聞いた。
「で?」
「……で?」
「遊羽はどうしたいの」
その問いに、遊羽は答えられなかった。
「わかんないです」
美南はコーヒーを置いた。
「嘘」
遊羽が固まる。
美南が遊羽を見る。
優しい目だった。
「遊羽、その笑い方してる時って、大体しんどいよね」
心臓が止まりそうになる。
真帆も言った。
寂しい時ほど笑う、と。
でも美南はもっと深いところを見ていた。
遊羽の目が少し潤む。
「……れんれんが」
声が震える。
「れんれんが、なんて言うかわかんなくて」
美南は黙って聞いている。
遊羽は小さく笑った。
笑えていない笑顔で。
「応援してくれると思うんです」
喉が痛い。
「でも、それが怖い」
美南が静かに言った。
「引き止めてほしい?」
遊羽は、何も言えなかった。
沈黙が答えだった。
美南がぽつりと落とす。
「苦しいのってさ」
遊羽が顔を上げる。
「どっちを選んでも、後悔しそうな時なんだよ」
その言葉が胸に刺さった。
⸻
夜。
蓮の部屋。
ギターの弦を軽く弾く音が、静かな部屋に響いていた。
遊羽はソファに座りながら、落ち着かない指先を膝の上で組んだ。
言わなきゃ。
でも怖い。
蓮が気づいた。
「どうした」
「え?」
「今日、変」
見抜かれた。
遊羽は小さく笑った。
「……わかる?」
「わかる」
即答だった。
その一言で、もう逃げられなくなる。
遊羽は息を吸った。
「今日ね」
喉が乾く。
「福岡のサロンから声かけられた」
部屋が静かになる。
蓮の手が止まった。
遊羽は続ける。
「atelier MAREっていう」
沈黙。
長い沈黙。
蓮は何も言わない。
遊羽の鼓動が速くなる。
「……れんれん?」
蓮が低く聞いた。
「行きたいのか」
その質問に、遊羽は詰まった。
行きたい。
行きたくない。
どっちも本当だった。
「……わかんない」
正直に言う。
蓮は視線を落とした。
数秒。
それから。
ぽつりと。
「行きたいなら行けば」
遊羽の呼吸が止まった。
一瞬、意味が入ってこない。
蓮は続けた。
「お前が決めろ」
静かな声。
責めていない。
怒っていない。
きっと蓮なりの誠実さ。
でも。
でも——
胸が、冷えた。
遊羽は笑った。
反射みたいに。
「そっか」
笑う。
笑えているはずだった。
「うん」
平気なふり。
大丈夫なふり。
でも蓮は眉を寄せた。
「遊羽」
その声で、何かが切れた。
遊羽は笑ったまま言った。
「れんれんってさ」
声が少し震える。
止まらない。
「私がいなくなっても平気そうだよね」
沈黙。
蓮の表情が止まる。
遊羽は、自分で言ってしまった言葉に傷ついた。
違う。
本当はこんなこと言いたくない。
でも止まらない。
「夢、応援してくれるんだよね」
笑う。
痛い。
苦しい。
「優しいね」
蓮が低く言う。
「……何が言いたい」
遊羽の目が潤む。
「わかんないならいい」
蓮の眉間に皺が寄る。
「遊羽」
「だって」
ついに声が割れた。
「行くなって、一回くらい言ってよ」
静寂。
波の音もない。
何も聞こえない。
涙が落ちた。
「そばにいてって」
もう止まらない。
「言ってよ……」
蓮が動かない。
その沈黙が、何より苦しかった。
遊羽は唇を噛んだ。
だめだ。
こんなの。
重い。
最低だ。
遊羽は立ち上がった。
「……ごめん」
声が震える。
「今の忘れて」
笑う。
いつもの笑顔を作る。
「私、ちょっと帰るね」
その瞬間。
蓮が立ち上がった。
低い声。
掠れた声。
痛いほど抑えた声。
「……その笑い方、やめろ」
遊羽が固まる。
蓮が一歩近づく。
目が、苦しそうだった。
「それ見せられるのが、一番きつい」
遊羽の目が見開く。
蓮の拳が震えていた。
言葉を探している。
必死に。
でも、まだ届かない。
その距離が。
二人の間に初めて見えた。
消えない線のようだった。
⸻
帰り道。
遊羽は一人、駅のトイレの鏡の前に立っていた。
泣き腫らした目。
ひどい顔。
遊羽は深く息を吸う。
そして。
口角を上げた。
笑う。
いつもの顔。
大丈夫。
うん。
大丈夫。
鏡の中の自分が笑う。
でも。
その目だけは、まったく笑っていなかった。
【第八話 傷跡】
八月の終わり。
朝比奈遊羽は、美容室の鏡の前で最後の片付けをしながら、小さく息を吐いた。
福岡。
その文字が、頭から離れない。
行きたい。
怖い。
嬉しい。
苦しい。
感情が、ひとつにまとまらない。
「遊羽」
背後から声がした。
振り向くと、美南 が腕を組んで立っていた。
「今日、蓮くんと会うんでしょ」
遊羽の手が止まる。
「……うん」
美南は遊羽をじっと見た。
「まだ、ちゃんと話せてない?」
遊羽は笑おうとした。
「話してるよ」
「全部?」
その一言に、喉が詰まる。
笑顔が少しだけ崩れた。
美南が静かに言う。
「遊羽」
責める声じゃない。
だから余計に痛い。
「怖いのはわかる」
遊羽は唇を噛む。
「でもね」
美南の声が柔らかく落ちる。
「言わないまま決めるほうが、きっと傷つける」
遊羽は何も言えなかった。
わかっている。
そんなこと、最初から。
わかっているのに。
——言えない。
言葉にした瞬間、本当に現実になる気がして。
今ある幸せが、音を立てて変わる気がして。
「……うん」
絞り出した声は、少し掠れていた。
⸻
夜。
蓮の部屋。
窓の外から、遠く波の音が聞こえる。
低く、静かで、深い。
蓮はキッチンに立ち、コーヒーを淹れている。
いつもの光景。
いつもの時間。
なのに今日は、何もかもが少しだけ遠い。
「飲む?」
グラスを置きながら、蓮が言った。
「ん、ありがと」
指先が触れる。
たったそれだけで、胸が痛い。
好き。
こんなにも好きなのに。
どうして、こんなに怖いんだろう。
蓮が向かいに座る。
沈黙。
でも嫌な沈黙ではない。
いつもの二人なら、この静けさすら心地いい。
……いつもの二人なら。
遊羽の視線が、ローテーブルの端に止まった。
古びた写真立て。
今まで気づかなかった。
そこには、小さな子どもが三人写っていた。
真ん中に、少し不機嫌そうな男の子。
両脇には、小さな女の子が二人。
遊羽の指先が止まる。
「……これ」
蓮の動きが、ほんのわずかに止まった。
「小さい頃?」
沈黙。
数秒。
やがて蓮が短く答えた。
「……ああ」
遊羽は写真を見る。
「妹?」
「うん」
初めて聞いた。
妹がいることも。
二人いることも。
遊羽は写真から視線を上げた。
「今も会ってるの?」
その瞬間。
空気が変わった。
ほんの少し。
でも確実に。
蓮の目から温度が消えた。
遊羽の心臓が跳ねる。
……まずい。
踏み込んだ。
そう思った時だった。
蓮が、ぽつりと口を開いた。
「会ってない」
低い声。
感情が読めない。
遊羽は息を止めた。
蓮は視線を落としたまま続ける。
「母親が出ていく時」
沈黙。
遊羽の指先が震える。
蓮の声だけが静かに落ちる。
「妹二人、連れてった」
時間が止まった。
遊羽の呼吸が浅くなる。
蓮は笑わない。
怒らない。
ただ、事実だけを置いていく。
それが余計に苦しい。
「……俺だけ、残った」
遊羽は何も言えない。
言葉が見つからない。
蓮の喉が、小さく動く。
「最後に言われた」
静かな声。
静かすぎる声。
だからこそ痛い。
「蓮は、お父さんに似てるね」
遊羽の胸が締めつけられる。
それだけ?
それだけで?
十二歳の子どもに?
蓮が小さく息を吐いた。
「意味なんか、知らねぇよ」
視線は写真のまま。
「でも、ガキには十分だった」
沈黙。
波の音だけが、遠くで響く。
「選ばれなかった」
その一言で、遊羽の目が潤んだ。
蓮は続ける。
「連れていかれなかった」
声が少し掠れる。
「置いてかれた理由なんか、知らねぇ」
遊羽の喉が震える。
苦しい。
苦しい。
どうしてこの人は。
こんな痛みを、ずっと一人で。
蓮が、自嘲気味に笑った。
「だから」
その笑いが、あまりにも寂しかった。
「なくなる前提で考える癖、ついた」
遊羽の心臓が大きく跳ねる。
全部、ここにつながっていた。
続く未来を想像できない理由。
幸せを怖がる理由。
好きと言えない理由。
全部。
全部。
ここだった。
遊羽は、ゆっくり蓮のほうへ身体を向けた。
そして、そっと手を伸ばす。
蓮の手に触れる。
少し冷たい。
蓮が、わずかに目を上げた。
遊羽は、泣きそうになるのを堪えながら微笑んだ。
「れんれん」
声が震える。
それでも、まっすぐ言った。
「れんれんは、れんれんだよ」
蓮が動かない。
遊羽は続ける。
「お父さんじゃない」
涙が滲む。
「誰かの代わりでもない」
喉が痛い。
でも、言う。
「置いていかれる側でもない」
沈黙。
長い沈黙。
蓮の瞳が、わずかに揺れた。
ほんの少し。
でも確かに。
遊羽は、蓮の手をぎゅっと握った。
「私は——」
そこまで言って、止まった。
福岡。
言わなきゃ。
今しかない。
言わなきゃいけない。
なのに。
蓮の目を見た瞬間、言葉が凍りついた。
言えない。
今、この人に。
今、この傷の前で。
言えるわけがない。
遊羽は唇を噛んだ。
蓮が、その沈黙に気づいた。
目が細くなる。
何かを察する。
空気が張る。
そして。
蓮が、低く言った。
「……遊羽」
「……ん」
次の言葉で、遊羽の血の気が引いた。
「いなくなるなら」
蓮の声は静かだった。
静かなのに、刃みたいだった。
「先に言え」
遊羽の呼吸が止まる。
世界が、止まった気がした。
どうして。
どうして、そんなこと言うの。
まだ何も言ってないのに。
蓮は遊羽を見ない。
まるで、自分に言い聞かせるみたいに続ける。
「急にいなくなるのだけは」
喉が動く。
「……無理だ」
その一言が、遊羽の胸を切り裂いた。
ああ。
この人は。
別れが怖いんじゃない。
——置いていかれるのが、怖いんだ。
遊羽の目から、ついに涙がこぼれた。
でも。
泣く資格なんてない気がした。
だって。
今、この人の未来を握っているのは、自分だから。
遊羽は声を失ったまま、蓮の手を握り続けた。
離せなかった。
離したら、本当に終わる気がして。
その夜。
二人の間にあった沈黙は、
今まででいちばん静かで、
今まででいちばん苦しかった。
そして遊羽は、まだ知らない。
この沈黙が、
もうすぐ取り返しのつかない決断へ繋がることを。
【第九話 予兆】
空はまだ夏の青さを残しているのに、風だけが少し変わっていた。
朝比奈遊羽は、美容室のバックヤードでスマホを握りしめていた。
画面には、福岡の新店舗責任者との面談日程。
そして、その下に届いたメッセージ。
最終意思確認をさせてください
ご返答、お待ちしております
遊羽は長く息を吐いた。
指先が冷たい。
怖い。
でも。
胸の奥にある感情は、恐怖だけじゃなかった。
嬉しい。
誇らしい。
夢みたいだ。
自分の仕事が、ちゃんと誰かに届いていた。
毎晩遅くまで編集したリール動画。
こだわって撮った施術写真。
光の入り方、角度、色味、BGM。
たった数秒の動画に、何時間もかけた日もある。
フォロワーが増えるたび、嬉しかった。
保存数が伸びるたび、自信になった。
そして何より——
自分の仕事を見て、
「この人に任せたい」
そう思ってくれる人がいた。
その事実が、何より嬉しかった。
「遊羽」
声に顔を上げる。
美南が壁にもたれていた。
「……考えてる?」
遊羽は小さく笑った。
「顔に出てる?」
「出まくり」
即答だった。
美南は遊羽の隣に座る。
少し沈黙してから、口を開いた。
「店長、なんて?」
「行ってこいって」
「うん、言うと思った」
遊羽は視線を落とした。
美南が続ける。
「遊羽ってさ」
「ん」
「技術もあるけど、それだけじゃないんだよね」
遊羽が顔を上げる。
美南は真っ直ぐ言った。
「お客さんがまた来たくなる理由、わかる?」
遊羽は少し困った顔で笑った。
「え、何」
「あなた、人を綺麗にする時」
美南の声が柔らかくなる。
「髪だけ見てない」
遊羽が黙る。
「その人ごと見てる」
胸が、少し熱くなる。
美南は笑った。
「だから選ばれたんだよ」
沈黙。
そして。
美南が静かに、核心を突いた。
「で」
遊羽の肩がわずかに強張る。
「蓮くんには?」
喉が詰まる。
数秒、何も言えない。
やがて。
「……まだ」
美南は目を細めた。
責めない。
でも、逃がさない目だった。
「言いな」
遊羽の目が潤む。
「怖い」
絞り出すような声。
「言ったら、全部変わりそうで」
美南は静かに聞いている。
遊羽の唇が震えた。
「行かないでって言われたら、どうしようって思う」
声が掠れる。
「でも」
涙が滲む。
「何も言われなかったら、それも怖い」
沈黙。
美南が小さく息を吐いた。
「恋って大変だね」
遊羽が少し笑う。
涙混じりの笑い。
美南が頭を軽く撫でた。
「でもさ」
その声が優しかった。
「どっちに転んでも、傷つくなら」
遊羽が美南を見る。
「後悔しないほう選びな」
その言葉が、深く落ちた。
後悔しないほう。
遊羽は、ゆっくり目を閉じた。
浮かぶのは、れんれんの顔。
笑わない顔。
困った顔。
耳が赤くなる顔。
不器用な優しさ。
静かな体温。
好き。
どうしようもなく、好き。
だからこそ。
選ばなければいけない。
遊羽はスマホを開いた。
返信画面。
震える指で文字を打つ。
福岡行き、正式にお受けします
送信。
画面が切り替わる。
送信完了。
その瞬間。
胸の奥で、何かが音を立てた。
決まった。
もう戻れない。
遊羽は唇を噛んだ。
涙が零れそうになる。
その時。
スマホが震えた。
LINE。
れんれん。
呼吸が止まる。
メッセージ。
おつかれ
今日、会えるか
遊羽の視界が滲んだ。
会いたい。
今すぐ会いたい。
抱きしめてほしい。
行かないでって、言ってほしい。
でも。
それを願うのは、ずるい。
遊羽は何度も文字を打っては消した。
伝える?
今?
今日?
無理。
まだ無理。
震える指で、最後に送った。
うん😊
たった、それだけ。
⸻
夜。
黒のチェロキー。
助手席に乗り込むと、いつもの潮の匂いがした。
安心する匂い。
苦しくなる匂い。
蓮がちらりと遊羽を見る。
「疲れてる」
「そう?」
「顔」
短い返事。
でも、見抜かれている。
いつも通りだ。
いつも通りなのに。
今日は、それが苦しい。
車が走り出す。
街の灯りが流れていく。
沈黙。
でも、不思議と嫌じゃない。
遊羽は窓の外を見た。
言わなきゃ。
言わなきゃ。
言わなきゃ。
でも。
言葉が喉で凍る。
蓮がふいに口を開いた。
「店、どうだった」
心臓が跳ねる。
「……え?」
「今日、面談だったろ」
遊羽の呼吸が止まった。
覚えていた。
ちゃんと。
遊羽は唇を噛む。
「……うん」
蓮は前を向いたままだ。
「で?」
短い一言。
それだけなのに。
胸が締めつけられる。
言え。
今。
今しかない。
なのに。
「……まだ」
嘘が出た。
「返事してない」
その瞬間。
蓮の指先が、わずかに強くハンドルを握った。
遊羽は見逃さなかった。
数秒の沈黙。
赤信号。
車が止まる。
静寂。
エンジン音だけが響く。
そして。
蓮が、ゆっくり左手を伸ばした。
遊羽の手を掴む。
熱い。
強い。
逃がさないみたいな手。
遊羽が目を見開く。
「れんれん…?」
蓮は前を向いたまま、低く言った。
「……嫌な感じする」
遊羽の血の気が引いた。
「え」
蓮の喉が小さく動く。
「理由はわかんねぇ」
静かな声。
でも、どこか切実だった。
「でも」
長い沈黙。
信号が青に変わる。
後ろの車が動き始める。
それでも蓮は、すぐアクセルを踏まなかった。
そして。
掠れた声で、言った。
「……どこにも行くな」
世界が止まった。
遊羽の目から、涙が零れた。
どうして。
どうして今。
どうしてそんなこと言うの。
まだ何も言ってないのに。
まだ何も伝えてないのに。
蓮が、ようやく車を走らせる。
でも、手は離さなかった。
ずっと。
そのまま。
遊羽は声を殺して泣いた。
言えない。
もう、余計に言えない。
こんなの。
言えるわけがない。
窓の外で、街の灯りが滲む。
ぼやける。
消える。
流れていく。
まるで未来みたいだった。
掴もうとしても、指の隙間からこぼれていく。
その夜。
二人は隣にいた。
手も繋いでいた。
体温もあった。
それなのに。
心だけが、少しずつ離れていく音を、
遊羽だけが聞いていた。
そしてまだ、
蓮は知らない。
自分が掴んでいるその手が、
もうすぐ遠くへ行こうとしていることを。
【第十話 疾走】
朝から、嫌な静けさだった。
浪子の海は凪いでいた。
波がない。
風もない。
サーファーたちの声も、今日はどこか遠い。
西柴蓮は、ボードに肘をついたまま水平線を見ていた。
妙だった。
朝から、遊羽から連絡がない。
たったそれだけ。
普段なら、それだけで不安になることなんてない。
なのに。
今日は違った。
胸の奥で、何かがずっとざわついている。
理由なんてわからない。
ただ、落ち着かない。
スマホを開く。
トーク画面。
最後のメッセージは昨夜。
遊羽
『おやすみ、れんれん😊』
蓮
『ん』
それだけ。
いつもの、短いやり取り。
それなのに。
なぜか、その「いつも」が、もう遠いものみたいに感じた。
蓮は眉間に皺を寄せた。
馬鹿みたいだ。
何を焦っている。
何を怖がっている。
……わかっていた。
認めたくないだけで。
昨夜の遊羽は、少しおかしかった。
笑っていた。
いつも通り、明るかった。
でも。
——目が笑っていなかった。
あの顔を、知っている。
無理して笑う時の顔だ。
蓮は立ち上がった。
嫌な予感が、急速に輪郭を持ち始める。
スマホを握る。
発信。
遊羽。
コール音。
一回。
二回。
三回。
出ない。
舌打ちが漏れる。
切って、またかける。
出ない。
既読もつかない。
心臓が、重く沈んだ。
その時だった。
スマホが震えた。
美南。
蓮の表情が固まる。
嫌な予感が、確信に変わる。
通話に出た。
「……もしもし」
「蓮くん?」
美南の声が、いつもより低い。
張り詰めている。
蓮の喉が乾く。
「遊羽は」
数秒の沈黙。
そして。
美南が、静かに言った。
「……今日、福岡行った」
世界から、音が消えた。
思考が止まる。
呼吸が、止まる。
今、なんて言った。
福岡?
行った?
今日?
蓮の声は、自分でも驚くほど低かった。
「……なんで」
「新店舗の立ち上げ」
美南の声が少し震える。
「Instagram見た福岡のサロンから、うちの店長に直接声がかかってた」
言葉が、耳を素通りしていく。
理解が追いつかない。
いや。
違う。
理解したくない。
「……なんで俺に言わねぇ」
沈黙。
その沈黙が、答えだった。
美南が絞り出すように言う。
『言えなかったんだと思う』
蓮の指先が白くなる。
「蓮くん」
美南の声。
痛いほど真っ直ぐな声。
「追いかけるなら、今しかない」
心臓が、強く跳ねた。
その瞬間。
蓮は走っていた。
⸻
黒いチェロキーのドアを叩き閉める。
エンジン始動。
唸るような音。
アクセルを踏み込む。
タイヤが路面を噛む。
加速。
景色が流れる。
信号。
車。
全部、遅い。
遅すぎる。
ハンドルを握る手に力が入る。
呼吸が荒い。
心臓がうるさい。
頭の中で、ひとつの言葉だけが反響する。
福岡。
行った。
置いていかれる。
置いていかれる。
置いていかれる。
違う。
違う。
違う。
やめろ。
その瞬間、フラッシュバックした。
十二歳の冬。
玄関。
母の背中。
閉まるドア。
小さな妹たち。
遠ざかる足音。
そして、あの声。
——蓮は、お父さんに似てるね
やめろ。
ハンドルを握る指が震える。
赤信号。
ブレーキ。
止まる。
数秒が永遠みたいだった。
呼吸が浅い。
胸が苦しい。
喉が焼ける。
蓮はハンドルに額をぶつけそうになるほど前屈みになった。
唇が、勝手に動く。
「……行くな」
掠れた声。
「待て」
赤。
まだ赤。
長い。
長すぎる。
「置いていくな」
信号が変わる。
アクセル。
再加速。
チェロキーが夜の道路を裂く。
涙なんて出ない。
そんな余裕もない。
ただ、頭の奥で、ひとつの感情だけが暴れていた。
怖い。
怖い。
怖い。
またか。
またなのか。
また、大事なものがいなくなるのか。
何も言えないまま。
何も伝えられないまま。
蓮の喉が震えた。
声にならない。
でも、心が叫んでいた。
好きだ。
言えなかった言葉。
ずっと飲み込んできた言葉。
好きだ。
好きだ。
好きだ。
だから——
行くな。
⸻
空港に着いた時には、息が切れていた。
車をほぼ投げるように停める。
走る。
人混みを掻き分ける。
視界が揺れる。
息がもたない。
それでも走る。
搭乗口。
電光掲示板。
福岡行き。
表示。
——搭乗終了
蓮の足が止まった。
世界が、静止した。
……終わった。
遅かった。
数秒。
何も聞こえない。
人の声も。
アナウンスも。
全部、遠い。
膝から力が抜けた。
その場で、崩れ落ちそうになる。
終わった。
まただ。
また、間に合わなかった。
また、何も言えなかった。
また——
置いていかれた。
その時。
スマホが震えた。
蓮の呼吸が止まる。
画面。
朝比奈遊羽。
指が震える。
開く。
メッセージ。
⸻
『ごめんね、れんれん』
⸻
その一文だけで、視界が滲んだ。
続きがある。
震える指でスクロールする。
でも。
読めない。
最初の一文だけで、心臓が壊れそうだった。
蓮はその場で立ち尽くした。
誰も知らない。
誰も気づかない。
人混みの真ん中で。
西柴蓮は、生まれて初めて知った。
失う痛みは、
なくした瞬間より、
伝えられなかった言葉に気づいた瞬間に来るのだと。
蓮の唇が震えた。
声にならない。
それでも、零れた。
今さら。
遅すぎる。
それでも。
ようやく。
ようやく。
「……好きだ」
掠れた声は、誰にも届かない。
もう、届かない。
蓮はスマホを握りしめたまま、立ち尽くした。
福岡行きの飛行機は、
もう、とっくに空の向こうだった。
【第十一話 不在】
轟音が、遠ざかっていく。
朝比奈遊羽を乗せた飛行機は、白い機体を夕空へ溶かしながら、もう豆粒ほどの大きさになっていた。
西柴蓮は、その場から動けなかった。
呼吸が浅い。
心臓だけが、異様な速さで脈打っている。
遅かった。
間に合わなかった。
頭では理解している。
なのに、身体が受け入れない。
嘘だろ。
そんな言葉だけが、空っぽに反響する。
手の中でスマホが震えた。
震えているのは通知のせいじゃない。
自分の手だった。
画面には、遊羽とのトーク画面。
未読メッセージ。
一件。
たった一件。
それが、開けない。
指が止まる。
怖い。
読むのが怖い。
これを開いた瞬間、本当に終わる気がした。
本当に、遊羽がいなくなったと確定してしまう気がした。
蓮は強く目を閉じた。
だめだ。
逃げるな。
震える親指で、画面をタップした。
メッセージが開く。
そこにあったのは、長い文章だった。
遊羽らしい、整った文字。
一文字目を見ただけで、胸が痛んだ。
⸻
れんれんへ
こんな形で伝えることを、許してほしいです。
ごめんね。
先に言えなくて、ごめん。
たぶん、怒るよね。
傷つけたよね。
ほんとうに、ごめん。
福岡の話をもらってから、ずっと悩んでました。
行きたい気持ちもあった。
怖い気持ちもあった。
でも、いちばん大きかったのは——
れんれんのことでした。
⸻
蓮の喉が詰まる。
視界が少し滲む。
指先が冷たい。
それでも、読む。
⸻
れんれんの前で話したら、
私はたぶん行けなくなると思った。
れんれんが引き止めてくれるとか、
そういう期待じゃないよ。
ただ。
あの優しい顔を見たら、
私はきっと、自分の夢より、
れんれんを選んでしまうと思った。
それが怖かった。
夢を諦める自分も。
そのせいで、いつかれんれんを責める自分も。
どっちも、嫌だった。
⸻
蓮の呼吸が止まりそうになる。
……馬鹿。
胸の奥で、声にならない叫びが渦巻く。
馬鹿だ。
そんなの。
そんなの——
勝手に決めるな。
そう叫びたいのに、声が出ない。
遊羽の文字が続く。
⸻
れんれんは、
言葉を怖がっていたよね。
なくなる気がするって言ってたよね。
あの時、少しだけわかった気がしたの。
私も同じだった。
本音を言ったら、
壊れるかもしれないって怖かった。
笑っていれば、大丈夫だと思ってた。
明るくしていれば、
嫌われないと思ってた。
でも、本当はずっと怖かった。
私ばっかり好きだったらどうしようって。
置いていかれる側だったらどうしようって。
⸻
蓮の手が止まった。
息が詰まる。
その一文が、胸を深く抉った。
置いていかれる側。
……違う。
違う。
お前は。
そんなふうに思ってたのか。
蓮は唇を噛んだ。
血の味がした。
知らなかった。
何も。
何ひとつ。
遊羽がどれだけ不安だったか。
どれだけ待っていたか。
自分は、何も知らなかった。
いや。
知ろうとしなかった。
言わなくても伝わると思っていた。
行動で十分だと思っていた。
それが、どれだけ傲慢だったか。
今ならわかる。
遅すぎるのに。
メッセージは続く。
⸻
でもね。
れんれん。
ひとつだけ、ちゃんと伝えたい。
れんれんが思ってるより、
私はずっと幸せでした。
好きって返してくれなくても。
会いに来てくれたこと。
手を繋いでくれたこと。
迎えに来てくれたこと。
泊まれって言ってくれた夜。
全部、全部。
ちゃんと伝わってたよ。
れんれんは、
言葉がなくても優しかった。
だから好きになった。
だから、今も好き。
⸻
蓮の視界が滲んで、文字がぼやける。
だめだ。
読めない。
呼吸が苦しい。
肺が潰れそうだ。
それでも、最後まで読まなければならない。
逃げる資格なんてない。
最後の数行。
そこに、遊羽らしい一文があった。
⸻
今日も好き。
明日も、たぶん好き。
その次の日も、きっと好き。
だから困るね。
れんれん。
もし、いつか。
言葉が怖くなくなったら——
その時は、聞かせてね。
あなたの言葉で。
あなたの声で。
好きって。
⸻
そこで、終わっていた。
それだけだった。
静寂。
空港の雑音が、急に遠くなる。
世界から音が消える。
蓮は立ったまま、動けなかった。
スマホを握る手から力が抜ける。
落ちる。
乾いた音。
拾えない。
膝から力が抜けた。
その場に崩れ落ちる。
床に手をつく。
肩が震える。
息が、できない。
胸が痛い。
痛い。
痛い。
喉の奥から、壊れた音が漏れた。
「……っ」
声にならない。
叫びにもならない。
十二歳の冬。
泣かなかった。
泣けなかった。
母がいなくなった日も。
妹がいなくなった日も。
父の前でも。
一度も。
泣かなかった。
泣いたら、本当にひとりになる気がしたから。
でも、今。
堰が壊れた。
「……遊羽」
掠れた声。
初めてだった。
こんなふうに名前を呼ぶのは。
「遊羽……」
涙が、落ちる。
止まらない。
「……好きだ」
声が震える。
遅い。
遅すぎる。
それでも、言葉が溢れる。
「好きだ……」
肩が大きく震えた。
「行くなよ……」
嗚咽で声が割れる。
「置いていくな……」
その瞬間。
蓮は、ようやく理解した。
自分が怖かったものの正体を。
別れじゃない。
失うことじゃない。
——伝えないまま、なくなることだ。
言葉が怖かったんじゃない。
本当は逆だった。
言葉にしないことのほうが、ずっと怖かった。
それを知った時には、もう。
隣に、遊羽はいなかった。
空港の床に落ちたスマホが、まだ薄く光っている。
そこに残る最後の言葉。
今日も好き。
蓮は涙で滲む画面を見つめながら、震える唇で呟いた。
「……遅ぇよ」
掠れた笑い。
泣き声みたいな笑いだった。
その夜。
西柴蓮は、生まれて初めて声を上げて泣いた。
そして翌日。
蓮の前に、ひとりの男が現れる。
長く避け続けてきた存在。
——父だった。
【第十二話 残響】
夜明け前だった。
空はまだ暗い。
波の音だけが、遠くから低く響いている。
西柴蓮は、海へ行かなかった。
ボードにも触れていない。
ギターにも。
何もできなかった。
部屋の床に座ったまま、一晩が過ぎていた。
スマホの画面は暗い。
遊羽とのトーク画面。
最後のメッセージが、刺さる。
ごめんね
ちゃんと話せなくて、ごめん
れんれんが好き
それ以上、読み返せなかった。
喉が焼ける。
胸が痛い。
呼吸が、うまくできない。
行けなかった。
間に合わなかった。
あの日。
空港へ向かった。
渋滞に巻き込まれた。
焦った。
叫びたかった。
でも、着いた時にはもう遅かった。
いない。
どこにも。
もう、いなかった。
蓮は両手で顔を覆った。
情けない。
惨めだ。
何も守れなかった。
何も言えなかった。
好きだ、と。
たったそれだけすら。
玄関の鍵が回る音がした。
蓮は顔を上げない。
聞き慣れた足音。
父だった。
西柴洋介。
無言で部屋に入り、立ち止まる。
散らかった部屋。
眠っていない顔。
赤い目。
全部見ただろう。
それでも洋介は、何も言わなかった。
キッチンへ向かう。
コーヒーを淹れる音だけが響く。
湯が落ちる音。
カップの触れ合う音。
静かな朝だった。
しばらくして。
カップがローテーブルに置かれる。
洋介が向かいに座った。
沈黙。
長い沈黙。
やがて。
洋介が口を開いた。
「泣いたか」
蓮の眉が寄る。
「……うるせぇ」
掠れた声だった。
洋介は少しだけ鼻で笑った。
「珍しいな」
蓮は何も返さない。
返せない。
沈黙。
また静寂が落ちる。
洋介はコーヒーに口をつけた。
そして、ぽつりと言った。
「俺も泣かなかった」
蓮の肩が止まった。
空気が変わる。
蓮がゆっくり顔を上げた。
洋介はカップを見たまま続ける。
「お前の母親が出てった日」
低い声。
感情を押し殺した声。
「泣かなかった」
蓮は動けなかった。
洋介が、自分から母の話をする。
初めてだった。
「泣いたら終わる気がした」
少し間。
「認めることになるからな」
蓮の喉が動く。
言葉が出ない。
洋介が続けた。
「だから黙った」
静かな声。
「何も言わなかった」
コーヒーの湯気が揺れる。
「行くな、も」
「悪かった、も」
「好きだった、も」
一拍。
「何も」
その一言が重かった。
重すぎた。
蓮の胸が軋む。
洋介は小さく息を吐く。
「言わなくても伝わると思ってた」
自嘲気味に笑う。
「馬鹿だった」
蓮の視界が滲んだ。
その言葉は、まるで。
鏡だった。
蓮は震える声で、ようやく言った。
「……俺」
声が掠れる。
喉が痛い。
それでも絞り出す。
「俺、親父みたいになってるか」
洋介の動きが止まる。
数秒。
沈黙。
逃げ道のない沈黙。
そして洋介は、はっきり言った。
「……そうだな」
蓮の心臓が強く打つ。
痛い。
図星だった。
痛い。
でも。
目を逸らせなかった。
洋介が、初めて蓮を見る。
まっすぐ。
逃がさない目だった。
「でも」
低い声。
「まだ間に合う」
蓮の呼吸が止まる。
洋介の喉が動く。
そして。
父は言った。
「お前、俺になるな」
世界が静まった。
波の音すら遠い。
洋介の声だけが残る。
「言わなきゃ、なくす」
蓮の目から、ついに涙が落ちた。
止められなかった。
ああ。
そうだったのか。
怖かったんじゃない。
言葉が。
好きが。
未来が。
怖かったんじゃない。
本当に怖かったのは。
——失ったあと、何も伝えていなかった自分を見ることだ。
蓮の肩が震えた。
息が乱れる。
嗚咽が漏れる。
十二歳の冬から凍っていた何かが、
音を立てて崩れていく。
洋介は、それ以上何も言わなかった。
慰めない。
抱きしめない。
ただ、そこにいた。
それで十分だった。
長い時間が過ぎた。
やがて。
蓮はゆっくり顔を上げた。
涙で滲む視界。
ローテーブルの上。
スマホ。
そこに映る、新幹線の時刻。
福岡。
まだ、間に合う便がある。
心臓が鳴る。
怖い。
もし遅かったら。
もし拒まれたら。
もしもう遅かったら。
怖い。
それでも。
蓮は知ってしまった。
怖いままでも、行かなきゃいけない時がある。
伝えなきゃ、なくなる。
蓮は立ち上がった。
鞄を掴む。
鍵を掴む。
洋介が低く言った。
「蓮」
振り向く。
洋介は前を向いたまま、ぽつりと言った。
「ちゃんと言え」
短い言葉。
でも、十分だった。
蓮は小さく頷く。
喉が震える。
それでも、今なら言える気がした。
初めて。
ちゃんと。
逃げずに。
蓮はドアノブに手をかけた。
そして、静かに言った。
「……行ってくる」
返事は少し遅れて返った。
「おう」
それだけだった。
でも、その一言が背中を押した。
玄関を飛び出す。
波の音がする。
浪子の海。
ずっと逃げ場所だった場所。
でも、もう違う。
逃げるためじゃない。
帰ってくるための場所だ。
蓮は走った。
ただ、まっすぐ。
もう二度と、
言えなかった後悔だけは残さないために。
【第十三話 告白】
福岡の朝は、少し曇っていた。
灰色の雲が空を薄く覆い、湿った風が街を抜けていく。
西柴蓮は、新店舗の前に立っていた。
呼吸が浅い。
心臓が、うるさい。
ここまで来た。
新幹線に飛び乗って。
知らない街を走って。
ようやく辿り着いた。
なのに。
足が動かない。
怖い。
もし、もう遅かったら。
もし、拒まれたら。
もし。
遊羽が、もう自分を必要としていなかったら。
喉が乾く。
逃げたい。
波の中に潜るみたいに、全部なかったことにしたい。
でも。
もう、逃げない。
蓮は拳を握りしめた。
父の声が蘇る。
——言わなきゃ、なくす。
蓮は息を吸った。
その時だった。
店の扉が開いた。
スタッフが数人、外へ出てくる。
その最後に。
朝比奈遊羽がいた。
時間が止まった。
遊羽も、止まった。
手に持っていたスマホが、わずかに揺れる。
目が見開かれる。
信じられないものを見るみたいに。
数秒。
誰も動かなかった。
やがて。
遊羽の唇が、かすかに震えた。
「……れんれん?」
掠れた声だった。
蓮は、一歩前へ出た。
それだけで、遊羽の表情が崩れる。
嬉しい。
苦しい。
信じたい。
信じるのが怖い。
全部が混ざった顔だった。
スタッフたちが空気を読んで離れていく。
二人だけが残る。
沈黙。
遊羽が先に口を開いた。
「……なんで」
声が震えている。
「なんで、ここにいるの」
蓮はすぐに答えられなかった。
喉が詰まる。
言え。
ここまで来ただろ。
逃げるな。
それでも、言葉が重い。
遊羽の目が潤む。
「今さら……」
笑おうとして、失敗する。
「今さら来るの、ずるいよ」
その言葉が、胸に刺さった。
ずるい。
ずっと自分が言ってきた言葉。
今度は、遊羽が言う。
蓮は唇を噛んだ。
「……悪い」
遊羽が首を振る。
「違う」
涙が落ちる。
「謝ってほしいんじゃない」
声が震える。
「期待、したくないの」
蓮の呼吸が止まる。
遊羽は泣きながら続けた。
「また、期待して」
喉が詰まる。
「また、だめだったら」
涙が止まらない。
「もう、無理だから……」
その一言で、蓮の中の何かが切れた。
もう駄目だと思った。
ここで黙ったら、本当に終わる。
蓮は一歩近づいた。
遊羽が息を呑む。
蓮の声は、震えていた。
「遊羽」
初めてだった。
こんなに感情が剥き出しなのは。
「聞け」
遊羽が涙の中で蓮を見る。
蓮は拳を握りしめた。
怖い。
怖い。
でも言う。
「俺」
喉が焼ける。
「ずっと、怖かった」
遊羽が動かない。
蓮は続けた。
「なくなるのが怖かった」
声が掠れる。
「期待するのが怖かった」
胸が痛い。
「好きって言って」
呼吸が乱れる。
「それが、なくなる日が来るのが怖かった」
涙で視界が滲む。
でも、止まれない。
「だから」
蓮は、自分の弱さを初めて認めた。
「言わなかった」
声が震える。
「言えなかったんじゃない」
遊羽の瞳が揺れる。
蓮は言った。
「逃げてた」
沈黙。
風が吹く。
曇り空の下、蓮の声だけが残る。
「お前が待ってくれるの、甘えてた」
喉が痛い。
「好きって言ってくれるのに」
拳が震える。
「返さなくても、そばにいてくれるって」
自嘲気味に笑う。
涙が落ちる。
「最低だ」
遊羽が、かすかに首を振った。
でも蓮は止まらない。
止まれない。
「親父に言われた」
遊羽が息を止める。
「言わなきゃ、なくすって」
数秒。
沈黙。
蓮は、まっすぐ遊羽を見た。
もう逃げない。
もう逸らさない。
「遊羽」
名前を呼ぶ。
それだけで胸が裂けそうだった。
「今度は」
声が震える。
それでも、言う。
「一人で待たせねぇ」
遊羽の目から、大粒の涙が落ちた。
肩が震える。
唇が震える。
蓮は、最後の壁を越えた。
十二歳から越えられなかった壁。
ずっと喉に刺さっていた言葉。
やっと。
やっと。
声になった。
「遊羽」
世界が静かになる。
波の音もない。
風の音もない。
あるのは、この鼓動だけ。
蓮は言った。
「好きだ」
遊羽が息を止めた。
蓮の頬を涙が伝う。
「好きだ」
もう一度。
今度は、逃げずに。
はっきりと。
「ずっと」
喉が震える。
「最初から」
胸が熱い。
苦しい。
でも、生きている。
「お前が好きだ」
遊羽の膝が崩れた。
蓮が咄嗟に抱きとめる。
その瞬間。
遊羽が、蓮の胸を何度も叩いた。
弱く。
でも必死に。
「ばか」
涙声だった。
「ばか……」
また叩く。
「遅い」
また。
「遅いよ……」
蓮は何も言わない。
言い訳もしない。
ただ、全部受け止める。
遊羽は蓮の胸に顔を埋めた。
嗚咽が漏れる。
「どれだけ」
肩が震える。
「どれだけ待ったと思ってるの」
蓮の腕に力が入る。
強く抱きしめる。
逃がさない。
二度と。
遊羽が泣きながら笑った。
ぐしゃぐしゃの顔で。
それでも、遊羽らしく。
「……ほんと、ずるい」
蓮の喉が小さく震える。
笑ったのか、泣いたのか、自分でもわからない。
そして。
遊羽が、ゆっくり顔を上げた。
真っ赤な目。
涙で濡れた頬。
それでも、まっすぐ蓮を見る。
「れんれん」
「……ん」
遊羽は、泣き笑いで言った。
「今日も好き」
蓮の目が見開かれる。
何百回も聞いた言葉。
ずっと返せなかった言葉。
でも、もう違う。
もう、逃げない。
蓮は遊羽の頬を包んだ。
震える指で。
壊れものに触れるみたいに。
そして。
静かに、確かに返した。
「……知ってる」
遊羽が涙の中で笑う。
蓮は続けた。
声はまだ掠れていた。
でも、今度は最後まで言えた。
「俺も」
遊羽の目から、また涙がこぼれた。
蓮は額を重ねた。
距離がゼロになる。
呼吸が混ざる。
そして。
ずっと言えなかった言葉を、
今度こそ、完全に渡した。
「今日も好きだ」
遊羽が泣きながら笑った。
その笑顔を見た瞬間、蓮は思った。
ああ。
ようやく、届いた。
言葉は、なくなるかもしれない。
人も、なくなるかもしれない。
未来なんて、誰にもわからない。
それでも。
それでも。
言葉にしなければ、届かないものがある。
愛は、消えないために言うんじゃない。
届かせるために、言うんだ。
その日。
蓮の心を荒らし続けていた波は、
初めて静かに、凪ぎ始めていた。
【最終話 凪ぐ】
朝四時半。
浪子不動の海は、まだ薄い夜を抱えていた。
水平線の向こうが、ゆっくり白み始める。
波は穏やかだった。
高すぎず、低すぎず。
静かに寄せて、静かに引く。
西柴蓮は、ボードを抱えながら砂浜を歩いた。
足裏に伝わる冷たい砂。
潮の匂い。
肺いっぱいに吸い込む朝の空気。
変わらない。
この海は、何も変わらない。
一年前と同じように、波は来て、崩れて、消える。
でも。
変わったものもある。
ポケットのスマホが震えた。
画面を見る。
朝比奈遊羽。
蓮の口元が、ほんの少し緩む。
メッセージが表示される。
『おはよ、れんれん。今日も好き』
蓮は数秒、その画面を見つめた。
昔なら、既読だけつけて終わっていた。
返せなかった。
返し方がわからなかった。
言葉が怖かった。
でも今は違う。
親指が動く。
短い文字を打つ。
送信。
『おはよ』
一秒後。
既読。
その次の瞬間。
着信。
蓮は思わず眉を寄せた。
「……早ぇよ」
電話に出る。
「もしもし」
「れんれん!?」
朝からうるさい声。
変わらない。
でも、その変わらなさが愛しかった。
「今返信くれた!?」
「した」
「え、夢?」
「切るぞ」
電話越しに笑い声が弾ける。
蓮は、少しだけ目を細めた。
「今日、何時に上がる?」
「昼前」
『じゃあ待ってるね』
「ん」
数秒。
遊羽が静かになる。
それから、柔らかく言った。
「いってらっしゃい」
蓮は海を見る。
波が寄せる。
そして。
自然に、言葉が落ちた。
「……いってきます」
通話が切れたあと、蓮は少しだけ立ち尽くした。
昔なら、こんな一言すら出なかった。
でも今は。
少しずつ。
少しずつ、変わっていた。
⸻
昼過ぎ。
海から上がった蓮は、タオルで髪を拭きながら浜辺を歩いた。
遠くに人影が見える。
細いシルエット。
風になびく長い髪。
見間違えるはずがない。
朝比奈遊羽。
蓮の歩みが、わずかに速くなる。
遊羽は蓮に気づくと、ぱっと笑った。
その笑顔は、一年前と同じだった。
でも、どこか違った。
前みたいな、不安を隠す笑顔じゃない。
ただ、穏やかだった。
蓮が目の前で立ち止まる。
遊羽が言う。
「おかえり」
その一言で、胸の奥が静かに揺れた。
昔の自分なら、たぶん何も返せなかった。
でも今は。
蓮は、ごく自然に口を開いた。
「……ただいま」
遊羽の目が、少し見開かれた。
次の瞬間。
くしゃっと笑う。
その笑顔が、あまりにも嬉しそうで。
蓮は少し照れたように視線を逸らした。
「何」
「ううん」
遊羽が笑う。
「なんか、うれしくて」
蓮は小さく息を吐いた。
「大げさ」
「大げさじゃないよ」
遊羽は、少しだけ蓮に近づいた。
肩が触れる距離。
体温が伝わる距離。
その熱が、心地よかった。
⸻
海を見ながら、二人で並んで座る。
風が柔らかい。
波音が、遠く近く響く。
遊羽がぽつりと言った。
「ねえ」
「ん」
「前に話したこと、覚えてる?」
「何」
遊羽が、いたずらっぽく笑う。
「子どもの名前」
蓮の動きが、わずかに止まる。
遊羽が続ける。
「浪子」
蓮は思わず鼻で笑った。
「……あれか」
「あれです」
「変な名前」
「れんれんが気に入ってたくせに」
「気に入ってねぇ」
「嘘」
遊羽が笑う。
その笑い声を聞きながら、蓮は海を見る。
未来。
昔なら、その言葉だけで息が詰まった。
なくなる前提でしか考えられなかった。
期待することが、怖かった。
でも今は。
遊羽が、少しだけ真面目な声で聞いた。
「今でもアリ?」
蓮は遊羽を見る。
遊羽も、まっすぐ見返していた。
逃げ道を作らない目だった。
昔の遊羽なら、
無理ならいいよ
そう言っていた。
でも今は違う。
聞きたいことを、まっすぐ聞く。
蓮は、その変化が好きだった。
好きで、愛しかった。
蓮は少し考えてから言った。
「……その時になったら」
遊羽が瞬く。
蓮は続けた。
「また二人で考えればいい」
沈黙。
風が吹く。
波が寄せる。
遊羽の目が、ゆっくり潤んでいく。
「れんれん」
「ん」
「今の、反則」
「何が」
「未来の話してる」
蓮は少し笑った。
「そうかもな」
遊羽の目から、一粒涙が落ちた。
でも、それは悲しい涙じゃなかった。
蓮は、その涙を親指で拭った。
「泣くな」
遊羽が笑いながら言う。
「泣いてない」
「嘘」
即答だった。
遊羽が吹き出す。
「それ、れんれんの台詞だったっけ?」
「知らん」
二人で笑う。
静かな笑いだった。
でも、あたたかかった。
⸻
しばらくして。
遊羽が蓮の肩にもたれた。
小さな重み。
心地いい重み。
蓮は海を見た。
波が来る。
崩れる。
また引いていく。
昔、この海は逃げ場だった。
何も聞いてこない場所。
期待しない場所。
裏切られない場所。
だから、楽だった。
でも今は違う。
失う怖さが消えたわけじゃない。
怖いものは、今でも怖い。
なくなるかもしれない未来は、今でも怖い。
それでも。
それでも、思う。
怖いから愛さないんじゃない。
失うかもしれないから、言わないんじゃない。
怖くても。
失うかもしれなくても。
それでも、隣にいたいと思う相手がいる。
それが、愛なのだと。
蓮は、隣の遊羽を見た。
遊羽も、こちらを見る。
目が合う。
遊羽が、柔らかく笑う。
「なに?」
蓮の喉が、静かに動いた。
昔なら、また飲み込んでいた言葉。
でも今は違う。
蓮は、まっすぐ言った。
「遊羽」
「ん」
ほんの少し息を吸って。
静かに、でも確かに。
言葉にした。
「好きだ」
遊羽の目が、大きく見開かれる。
時間が止まる。
波の音だけが響く。
次の瞬間。
遊羽の目から、大粒の涙がこぼれた。
「……うそ」
声が震える。
「うそじゃねぇよ」
「れんれんが」
涙でぐしゃぐしゃになりながら笑う。
「れんれんが、そんな何回も好きって言うなんて」
蓮は少し眉を寄せた。
「何回もじゃねぇ」
「二回目でもすごいの!」
蓮は思わず吹き出した。
遊羽も泣きながら笑う。
ぐしゃぐしゃで、綺麗じゃなくて。
でも。
この人は、どうしようもなく愛しかった。
遊羽が蓮に抱きつく。
蓮は、その身体をしっかり抱きとめた。
細い背中。
あたたかい体温。
確かな鼓動。
ここにいる。
ちゃんと、ここに。
蓮は目を閉じた。
静かだった。
不思議なくらい。
心が、静かだった。
⸻
波の音がする。
もう、怖くなかった。
【完】最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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