
シナダス 〜氷河期世代アラフィフフリーランスがアルバイトをしたら〜 #3.歯ブラシダス
「50年生きていて、知らないことってあるもんね」
とカップから口を離してケイコが言った。
さっきまで集っていた近所の小受ママたちが解散したカフェは、暖かい午後の光に包まれて清々しい。
客は数えるほどだ。
「この世にあんなにたくさんのこんにゃくがあるなんて知らなかったし、菓子パンは毎月新作が出るんだね。ランチパックなんて、期間限定コラボをしょっちゅうやるんだよ」
それは、知ってた。
「この間なんて朝の品出し中に、やたら客が来るの。なんなんだろうって思ってたらね、選挙だったの」
「選挙?」
「そ。選挙がある日ってね、朝からスーパーが混むんだって。業界の常識らしいよ」
ふーんと相槌を打ちながら私もカフェオレに手伸ばす。いつものコーヒーより50円高い。バイトのおかげだ。
ケイコは続ける。
「私さ、大学出てからずっとフリーランスだったんだよね。だから、組織って良く分からなかったんだけど、スーパーってエリアマネージャーが時々巡回に来るんだよね」
「上司ってやつね」
「で、そのエリアマネージャーが一番気を使うのは誰だと思う?」
「誰?」
「古株のパート。辞めたらお店が回らなかったりするんだって」
「そうなの?」
「要は、普通のおばさんが一番の強者だってことだよね。知らなかったわ」
本当に、この年になっても知らないことはたくさんある。
手に職があると持ち上げられてきた私たちより、パートでじっくり働いてきた女性の方が世の中では強いということも。冬場のリップクリームが3日ですっかり売れてしまうことも知らなかった。
知らないことだらけだ。
(嘘でしょ…?)
私は空っぽの什器の前で呆然としていた。
だって、おかしい。
あれほど並べたリップクリームが、もうすかすかなのだ。
(インバウンドなのかな)
と、思いながら、イドの真似をして買ったグリップつきの手袋を嵌めて、作業に取り掛かる。
オリコンの中は今日もリップクリームでいっぱいだ。前回より場所は把握できているから、スムーズに取り掛かれる。
少し余裕が出てきたので作業しながら店内を眺めると、うず高くオリコンが積まれた一角が見えた。
歯ブラシコーナーだ。
今日、私はこの後、あのコーナーを任されている。いつも担当している大学生が休みだからだ。
私より古株の中国人は断っていた。日本語が読めないと難しいらしい。
「…では、シナダさん、申し訳ないですが、お願いします」
医薬品の納品が多くて手伝えないというイドの様子は、本当に申し訳なさそうだった。
(そんなに、大変なのか…)
逆に、気になる。
リップクリームを終え、歯ブラシのオリコンを開いた瞬間、その理由が分かった。
まさに、混沌。
オリコンの中には、
システマ、G・U・M、ピュオーラ、ディープクリーン、NONIO、クリニカ、デンタルプロ、Ora2、ビトウィーン、クリーンデンタル
といった各ブランドの歯磨きがごちゃごちゃに入っている。
たまに箱に入っていたり、ゴムで束ねられていたりするが、大概はそのまま入っているのだ。
とりあえず仕分けはじめたが、すぐに気がついた。
ブランドで分けるのは、大分類の整理にすぎない。
ひとつのブランドの中で、
長さが、ふつう、コンパクト、超コンパクト、ワイド、超ワイド、
と分かれていたり、
幅が、ふつう、スリム、超スリム、
に分かれていたり、
硬さが、ふつう、やわらかめ、超やわらかめ、かため、
に分かれていたり、
形が、フラット、山型、ドーム型、
に分かれていたりする。
そのため、メーカーによって「#466」とか「D42」といった識別用の記号が振られているのだが、それすらないメーカーもある。
となると、幅ふつうの硬さふつうか、幅ふつうの硬さやわらかめかは、JANコードか文字情報から読み取るしかない。
日本語が読めてもめんどくさい。
メンタルにきそうだ。
絶望する品出し担当者が多いのも分かる。
なにしろ出しても出しても終わらない。
数ある歯ブラシメーカーの中で圧巻なのは、エビスだ。
6列レギュラー、6列コンパクト、7列ラージなどのヘッドサイズと、ふつう/やわらかめ/超やわらかめの硬さの掛け合わせで、無限のバリエーションを生み出し、他社を圧倒している。
恥ずかしながら私はまったく知らなかったが、歯ブラシ界では重きを置かれているのだろう。陳列の1倍良い位置の一列を占めている。
そんな良いのか、エビスの歯ブラシは。
ものすごく、気になる。
と、思っていたら、
歯周病ケア用の歯ブラシ、歯間用、舌歯ブラシなど特殊なものや、極端な山型になっている奇跡の歯ブラシなんてものもある。
世の中の人はみんな、こんなにたくさんの選択肢から、歯ブラシを選んでいるのか。
と、少し愕然とした。
海外もこうなのだろうか。
日本だけなのかな。
もし、世界全体の傾向だとしたら、
「人は、なんのために歯を磨くのか」と、いうところまで突き詰めた結果が、この多様性なのかもしれない。
黙々と手を動かしながら、ふと。
(歯を磨くって、私が思っていたよりもずっと意味があることかもしれないな)と思った。
「…お疲れ様でした」
バイトの後、やや同情的な声色のイドに別れを告げた後、私は駅の反対側のドラッグストアに駆け込んだ。
冬だというに汗で服が肌に張り付き、膝はグラグラする。だが、今日は体より頭を使った。
私は歯ブラシ売り場に辿り着き、クリニカの極薄ヘッドの歯ブラシを手に取り、レジに向かった。
これは、私のそっぽむいた奥歯に合いそうだ。
生まれてこの方、毎日なんとなくしていた歯磨きが、ちょっと楽しみになってきた。