
六本木に密かに好きな公園がある。【小説家・燃え殻さん エッセイ】
ヨックモック公式noteでは、お菓子を食べる時間をもっと豊かにしてくれるエッセイシリーズ「おかしな物語 by ヨックモック」をお届けしています!
今回のゲストは、小説家の燃え殻さん。
日常の機微を描くエッセイや小説で幅広い共感を集めています。2017年『ボクたちはみんな大人になれなかった』で小説家デビュー。同作はNetflixで映画化、そのほか著書も多数出されており、他にもラジオパーソナリティやなどなど広く活動されています。
ふとした日常から、思い出を振り返る——燃え殻さんから届いたあたたかなエッセイを皆様にもお裾分け! どうぞお楽しみください。
六本木に密かに好きな公園がある。
六本木西公園。その公園は昔、一世を風靡したクラブ、いやディスコがあった場所のすぐそばにある。僕はその公園に、二十年以上、密かに通っている。密か過ぎて年に一度の年もあれば、週に一度通う年もあった。今年は週に一度は顔を出している。毎週録っている、J-WAVEの番組収録の前か、終わったあとに行くことが多い。
公園には、だいたい人は誰もいない。ときどき猫の親子がゆっくりと公園内を横切るくらいだ。六本木だというのに、とても静かに時間が流れていて、気のせいだと思うが、空気も澄んで感じる。草の匂いや土の匂いがする。空を見上げても気持ちいい。裏手には、意外にも古くからある住宅地が広がっている。夕方だと、どこかの家の夕飯、ときどきはカレーの匂いがすることだってある。

六本木西公園のある場所は、六本木にしては人通りが少ない地区に面している。僕はそのすぐ近くの雑居ビルで、二十年くらい前、テレビの裏方として働いていた。朝も夜もない生活だったが、ときどきひと息つきに、公園にふらっと行った。これからどうなるんだろう、そう口に出すくらい全部のことに悩んでいた。二十六歳だった。
あれからいろいろあった。いま二十六歳の自分に、なにがあったか問い詰められても、ひと言では言えない。ただ、あのときの不安100%の自分には、「大丈夫、全部どーにかなるから。ならなかったことはすべて忘れるから」と伝えたい。
五十二歳になった。
あのとき、ふらっと座ったベンチは、数年前に公園の全面改修がされて、跡形もない。でも、新しくなった公園の新しくなったベンチに座っても、あの頃のことを思い出すから不思議だ。
今日の夕方も、ラジオの収録後にふらっと公園に立ち寄ってみた。近くのコンビニで、サンドイッチとホットのカフェオレを買って、ベンチに座った。とりあえずカフェオレをひと口。ふ〜、っとため息と深呼吸の間のような息を吐いて吸う。草の匂いがした。
小学生くらいの男の子と、若い父親がゴムボールでキャッチボールをしていた。ここが六本木だということを忘れてしまいそうな景色だ。男の子の暴投で、ゴムボールが父親の頭上高く超えていき、すべり台があるほうに転がっていった。僕からも少し距離があったが、無性にゴムボールを触りたくなって、立ち上がって取りに行き、「すみませーん!」と笑顔で会釈をした父親めがけて、僕は弧を描くようにゴムボールを投げた。
僕の父も、昔よくキャッチボールをしてくれた。僕の家は横浜の郊外にある。所謂、新興住宅地と呼ばれる場所にあった。近くに小さな駐車場があり、そこでよく父とキャッチボールをした。

駐車場は一軒家に囲まれている。僕は小学生低学年くらいだった。ゴムボールでも工夫をするとカーブやシュートは投げられる。僕は握りを強くして、父に向かってカーブを投げる。父は「もっと、人差し指に力を入れて、こうだよっ!」と言い、ビュンと曲がるカーブを投げ返してきた。父の曲がり過ぎるカーブを、僕は見事に取り損ね、後ろに逸らした。大きく跳ねたゴムボールは、一軒の木造家屋の敷地内に、吸い込まれるように入って行った。僕は立ち尽くし、父と顔を見合わす。「お前、ピンポン押して取ってこいよ!」父は昔からこういうところがあった。
舌打ちを一つくらいして、僕はたらたらと歩いて、その家まで行く。柵越しに見ると、庭の奥のほうにゴムボールが、ポツンとあるのがわかった。フーッと息を吐き、僕はインターフォンを押す。「はい……」優しい声がすぐに聞こえた。もう一度、僕は父親のほうを振り返る。父親は投げるフォームのチェックかなにかをしながら、こちらを見てくれもしない。僕は意を決して、「すみません。ボールが庭に入っちゃって。取りたいんですけど、すみません……」と出来るだけ失礼がないように、すみません、多めでインターフォンに向かって頭を下げた。「あー……、はいはい」また優しい声がして、少し時間が経って、玄関のドアが開いた。

白髪の小柄なお婆さんが笑顔で立っていた。どうぞ、と言われ、僕はもう一度頭を下げて、庭のゴムボールを回収しに走った。「お茶飲んでいく?」お婆さんにそう言われたが、「いや、あの父がいるんで……」と僕は緊張した面持ちで、その場をあとにしようとした。「ときどき、キャッチボール。やってるわよね?」お婆さんにそう声をかけられる。振り返って、「あっ……、すみません」と僕は思わず謝罪する。「いいのよ。ときどき聞こえてたわ」「聞こえてた?」僕はそう訝しがる。「うん。居間に座っているとね。よく聞こえるの。楽しそうな声が。いいなあって」お婆さんはそう言って微笑んだ。「すみません」僕は間抜けな感じでもう一度謝ってしまった。すると、お婆さんは両手で口を抑えて、ははは、ともう一度笑った。いたたまれない僕は「では、すみません」と今度こそその場を去ろうとした。「あっ、じゃあこれ持っていって。お話しできて嬉しかったわ」お婆さんはそう言って、ビニール袋に細長いクッキーのようなものを四、五本入れ、僕に渡してくれた。
父のところに戻って、ビニール袋の中を見せると、「おっ、シガール入ってんじゃん!」と一本取り出して、早速食べ始めた。僕も慌てて一本取って、封を切って食べる。シガールは思っていたよりも繊細だった。ポロポロ落としそうになりながら、僕は慎重に口に運んだ。濃厚な甘さが口に広がる。それが、人生で初めて食べたシガールだった。

そのあとのことは、父にも誰にも言ったことがない。
その日から数日後、僕は駐車場までひとりで行って、お婆さんの家の前で、ポーンと庭に向かってゴムボールを投げた。そのあと何拍か空けて、インターフォンを押した。
もう一度、シガールを食べたかったのかもしれない。お婆さんに会いたかったのかもしれない。「はい」と暗い男の声が聞こえた。「すみません。ボールが庭に入っちゃって……」僕がそこまで言うと、「勝手に取っていいよ」とぶっきらぼうに言われ、インターフォンはガチャッと切れた。僕は慌てふためき、走ってボールを取りに行ったのを憶えている。
夕暮れの六本木。男の子がまたまた大暴投をし、父親のジャンプも届かず、ボールは大きく跳ねながら、すべり台を超えて、転々と転がっていく。僕はまた立ち上がって、ボールを追おうとしたが、「大丈夫です! すみません!」と父親が大声で制したので、僕は笑顔で手を振って、ベンチに座り直した。ボールは生垣のほうまで跳ねていく。あのときの優しいお婆さんの声を、久しぶりに思い出した。草の匂いがする。土の匂い。僕はまだ、ボールの動向が気になっていた。
【プロフィール】燃え殻
1973年生まれ。2017年『ボクたちはみんな大人になれなかった』で小説家デビュー。同作はNetflixで映画化、エッセイ集『すべて忘れてしまうから』はDisney+でドラマ化、『あなたに聴かせたい歌があるんだ』がHuluでドラマ化(原作と脚本)された。著書に小説『これはただの夏』、エッセイ集『それでも日々はつづくから』ほか。
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「おかしな物語 by ヨックモック」の第3回、いかがでしたか?
ふとした瞬間に思い出す、子どもの頃を思い出ってありますよね。そんなひと時の片隅に、ヨックモックやシガールがあると嬉しいです。
ヨックモックの公式Podcast版「ヨックモックpresents おかしなおしゃべり」でも、燃え殻さんをゲストにさまざまなお話をお伺いしています。テキストとあわせて、ぜひ聞いてみてくださいね!
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(おわり)
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