
お前を助けたかっただけなんだ
#創作大賞2026 #お仕事小説部門 #ヒューマンドラマ部門
一九九九年、春。
バブル崩壊の傷跡が、まだ街中に残っていた。
俺たちは同じ日に入社した。
都内にある中堅商社。
入社式で配られた安っぽい辞令を、
まるで未来への切符みたいに握っていた。
「同期って、いいよな」
そう言って笑ったのが、野村だった。
細くて、
少し猫背で、
人の顔色ばかり見ている男だった。
俺は高橋。
体育会系でもないし、
正義感が強いタイプでもない。
ただ、
見て見ぬふりが嫌いだった。
配属先は同じ営業二課。
そこで俺たちは、
地獄みたいな社会人生活を始める。
最初に灰皿が飛んだのは、
入社して二週間後だった。
「野村ァ!!」
課長代理の島崎が怒鳴る。
ガン、と音がした。
金属製の灰皿が、
野村の額に当たった。
事務所が静まり返る。
野村は謝っていた。
「す、すみません……!」
額から血が流れていた。
なのに、
誰も止めない。
島崎は煙草をくわえたまま言った。
「バブル終わってからの新人は使えねえな」
みんな笑った。
愛想笑いだった。
会社っていうのは、
正しい人間より、
空気を読む人間の方が生き残る。
俺はその時、
初めて会社が怖いと思った。
忘年会の日。
すき焼き屋の座敷だった。
野村は鍋奉行みたいに働かされていた。
肉を焼いて、
酒を注いで、
笑顔を作って。
島崎が笑いながら言う。
「おい野村、卵足りねえぞ」
「はい!」
慌てて取りに行こうとした瞬間。
後ろから別の先輩が、
生卵を野村のワイシャツの胸ポケットに突っ込んだ。
ぐしゃ。
黄色い液体が広がる。
座敷が爆笑に包まれた。
「似合うじゃねえか!」
「ひよこ営業!」
野村も笑っていた。
引きつった顔で。
俺は笑えなかった。
島崎が酒を飲みながら俺を見た。
「高橋、お前さ」
低い声だった。
「いじめられてる同期と、いじめてる先輩。どっち取るんだ?」
座敷が静かになった。
試されてる。
そう分かった。
ここで空気を読めば、
会社員としては正解だった。
でも。
野村の胸ポケットから、
卵がぽたぽた落ちていた。
俺は即答した。
「……いじめられてる人を助けます」
空気が凍った。
島崎の笑顔が消えた。
「へえ」
その日から、
次に標的になったのは俺だった。
深夜二時まで残業。
終わらない資料。
休日出勤。
「高橋ならやれるよな?」
断れない空気。
野村は横で黙っていた。
助けない。
何も言わない。
でも俺は、
それでもよかった。
あいつを庇ったことだけは、
間違ってないと思いたかった。
二十九歳の冬。
会社の給湯室で、
俺は突然コーヒーカップを落とした。
右手が動かなかった。
言葉も出ない。
視界が揺れる。
救急車のサイレンだけ覚えている。
診断は脳梗塞だった。
「過労ですね」
医者は淡々と言った。
母親が病室で泣いていた。
俺はまだ二十九だった。
入院して一週間後。
野村が見舞いに来た。
見知らぬ女を連れて。
「久しぶり、高橋」
まるで学生時代の友達みたいな軽さだった。
女は言った。
「いつも主人がお世話になってます」
主人。
その言葉で分かった。
結婚するんだ。
野村は果物を机に置きながら笑った。
「いやー、高橋には報告しとかないとなって」
俺はうまく喋れなかった。
口が痺れていた。
野村は続ける。
「結婚式やるんだ。来れたら来てよ」
それから少し間を置いて。
「ご祝儀、大変だと思うけどさ」
冗談っぽく笑った。
その瞬間。
何かが、
完全に壊れた。
俺は、
この男を守ろうとして壊れたんだ。
人生を削って。
身体を壊して。
会社で孤立して。
でも。
野村にとって俺は、
“都合のいい人”でしかなかった。
悔しかった。
情けなかった。
涙が止まらなかった。
野村は困った顔で笑っていた。
「そんな泣くなって」
違う。
お前のために泣いてるんじゃない。
自分の人生のために泣いてるんだ。
退職したあと、
俺はしばらく何もできなかった。
右手には少し麻痺が残った。
再就職も難しかった。
会社は、
壊れた人間には冷たい。
でも。
ある日、
母親が言った。
「あんた、生きててよかったよ」
その言葉で、
初めて声を上げて泣いた。
会社では誰も言ってくれなかった。
成果を出せ。
耐えろ。
頑張れ。
そんな言葉ばかりだった。
でも本当は。
生きてるだけで、
十分だったんだ。
十五年後。
俺は小さな町工場で働いている。
給料は安い。
でも、
誰も灰皿を投げない。
誰も怒鳴らない。
定時になると、
みんな帰れと言う。
冬の夕方。
若い社員がミスして落ち込んでいた。
周囲が黙る中、
俺は缶コーヒーを渡した。
「大丈夫。明日があるさ」
若い社員は、
少し驚いた顔をした。
昔の俺みたいだった。
窓の外に、
夕焼けが広がっていた。
あの頃、
会社が世界の全部だと思っていた。
でも違った。
人間は、
会社のために生きるんじゃない。
生きるために、
働くんだ。
俺はようやく、
それを知った。
【終】
あらすじ
バブル崩壊後の就職氷河期。中堅商社へ同期入社した高橋と野村。陰湿ないじめを受ける野村を庇った高橋は、職場で孤立し、過酷なサービス残業の末に脳梗塞で倒れる。しかし、命を削って守った野村は、高橋の想像とは違う人間だった――。
失われた時代を生きた会社員たちの、痛みと再生を描くヒューマンドラマ。