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零式戦隊クロスレンジャー 第10話 追憶

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    奈良で寺院の伽藍を腐食し、仏像を操って混乱を拡大するヴェスパー。アカネはノア・ハブから“エクステンド・アクター”を遠隔操作するアオイと力を合わせ、アダムとセラフィム・アークに挑む。力を一点に集めた伐折羅大将像に苦戦するも、ふたりの連携が勝利を導いた。だがアダムは像を従え、闇へと消え去った──


    1. ジャカルタ湾津波未然制御事件


    バリ島・リゾートホテルのプールサイド──

    午後の強烈な陽射しを、椰子の葉の影が柔らかく遮っていた。

    デッキチェアにビキニ姿のまま身を沈める神崎かんざきアカネは、サングラスの奥で目を閉じていた。
    わずかに焼けた肌を雫が伝い落ちる。戦場とは無縁の、短い休息。

    すれ違う客が思わず視線を止めても、アカネは気にも留めず、気だるげに足を組み直した。

    そのときだった。

    ──ゴウン……!

    地面が腹の底を鳴らすように揺れ、チェアがきしむ。プールの水面に波紋が走り、小さな悲鳴が響く。宿泊客たちがざわつくなか、アカネはグラスを置き、落ち着き払って揺れの収まるのを待った。

    「……またか」

    誰に聞かせるでもなく、低くつぶやく。

    インドネシア近海ではここ数日、断続的に有感地震が続いていた。大きな津波の心配はない──それはすでにΩオメガ-FLAMEフレームが予測し、海辺の案内ホログラムにも「接近禁止」と赤字で表示されている。
    リゾート客は揺れが収まると、すぐ笑顔を取り戻した。

    だが、アカネの胸には妙な感覚が残る。

    サングラスを外し、遠くの海に視線を投げた。
    紺碧の水平線。その下に眠る巨大断層──眠れる獣の寝息のようなざわめきが、彼女には聞こえる気がした。


    そのバリ島から西へ約1,000㎞──ジャカルタ湾を臨む洋上の浮上型人工都市ノア・ハブ。

    鳴海なるみ碧あおいはひとり、G.O.A本部の中央戦略局棟最上階へ足早に向かっていた。

    「失礼します!」

    自動ドアが開くと、すでにアレックス・藤堂、キャロル・スペンサー、そして瀬戸恭一きょういちの姿があった。

    「急に呼び立ててすまない。作戦統括部隊として、君にも参加してもらう」
    重厚なデスクの奥から藤堂が声をかける。

    「会うのは初めてだな、鳴海碧」
    キャロルが視線だけを寄こす。

    「あ……奈良ではいろいろとお世話に……」

    「アカネと組ませたのは、こいつの強い推薦でな」キャロルは隣の恭一を顎で指す。
    「見事な連携だった。あとは経験を積み、瞬間的な判断力を磨くことだ」

    「……は、はいっ!」

    恭一が横から笑みを浮かべる。
    「アオイの資質は、一度火中で試すべきだと思ってた。神崎と組んだのは驚いただろうが……」

    奈良での共闘が脳裏をよぎる。
    孤独を背負ったようなアカネの横顔。
    鋭い叱責と、なぜか不意に訪れる安心感──


    藤堂の低い声がその想いを断ち切った。
    「さて、本題だ。Ω-FLAMEの最新予測についてだ」

    モニターが起動し、インドネシア沖のプレート構造が赤く浮かび上がる。

    「今からちょうど2週間後、2月17日現地時間午後3時。ここから南西200㎞沖で、巨大地震発生の確率が8割を超えた」

    「……!」
    アオイは思わず息を呑んだ。

    「震源地は、南緯7.2度・東経105.5度。バンテン州の南沖、水深およそ25㎞のスンダ海溝浅発域だ。規模はマグニチュード8.0前後。確率は87%だ」

    「ここからは、私が補足しよう」
    キャロルが投影地図に指を滑らせる。

    「破壊域は200〜300㎞。ジャカルタ湾岸の都市機能は直撃を受けるだろう。Ω-FLAMEが提示した“事後シナリオ”は4つだ」

    彼女は淡々と列挙した。
    「ひとつ、ジャカルタ湾に津波が40分以内に到達し、港湾都市機能が一時麻痺する確率63%。
    ふたつ、首都圏通信網の過負荷。人工衛星中継と海底ケーブル障害で広域ブラックアウトに至る確率48%。
    みっつ、空港・港湾の閉鎖に伴う物流遮断。48時間以内に生活物資が不足し、市街が混乱に陥る確率72%。
    そして最後に──医療や交通ネットワークを狙った電子機器の一斉不具合。EMP、あるいは意図的なジャミング重畳の可能性だ。確率29%。
    ……この最後が、私たちの神経を逆撫でする」

    重苦しい沈黙が落ちた。

    「つまり……自然災害と同時に“人為的テロ”が重なる可能性が高いと?」
    恭一の言葉は鋭く、静かだった。

    藤堂は頷き、低く言い放つ。
    「そのとおりだ。問題は発災の“後”だ。この混乱に乗じ、ヴェスパーが必ず動く。やつらの狙いは市民を恐怖で縛り、未来を疑わせることにある」


    ──最初から避難所が狙いだったんだ。ヴェスパーの野郎どもは!

    ──ま、放流があったとしても、もっと多くの避難所を潰すまでだったがな


    アオイの脳裏には、初任務の苦い記憶──バンコクの光景がよみがえっていた。

    胸の奥で息苦しさが募り、思わず口を突いて出た。

    「……でも、オメガ理論なら……その、予測だけじゃなくて、“制御”することもできるんじゃないですか?」

    一瞬、室内の空気が張り詰める。

    「社会因子を動かして、地震や津波の規模を抑える。以前ジャカルタで、そういう事例があったんじゃ……」

    アオイの言葉に、藤堂は腕を解き、重々しい眼差しを向けた。

    「──確かに、前例はある。だが今回は違う」

    「どういうことですか?」

    キャロルが低く答えた。
    「2049年。ジャカルタ湾で起きた“未然の津波制御事件”。あれは、偶然と最適な条件が重なった、奇跡に近い成功だった」

    「津波制御……」
    アオイの瞳が揺れる。

    「そうだ。俺もキャロルも、現場にいた」

    藤堂は視線を落とし、あの日の情景を思い返す──



    2049年・ジャカルタ湾管制センター──

    壁一面に展開するホログラムには、赤く染まった震央と数十万の避難対象を示す人口分布図が重ねられている。
    耳をつんざくアラームが、室内の緊張をさらに煽っていた。

    「Ω-AIモデルの演算結果、最新報告です。48時間以内にマグニチュード7.5以上の地震発生。津波発生確率は……87%!」
    解析員の声が矢継ぎ早に響く。

    若き日の藤堂は、制服の襟を乱したまま苛立ったように声を張り上げた。

    「ああ、もう間に合わないッ!地殻エネルギーを止めるなんて不可能だ!避難を徹底するしかないだろ!」

    「落ち着きなよ、藤堂の坊っちゃん。ここであんたが狼狽えてどうする」
    静かに返したのは、まだ20代のキャロルだった。

    「キャロルさん、ぼく……いや、俺は!曲がりなりにも、この現場の責任者なんだ!ここは避難誘導を徹底すべき──」

    ──パシッ!

    キャロルの平手打ちが飛んだ。
    職員たちは一瞬息を呑み、ホログラムすら音を失ったかのように揺らめく。

    「なっ、親父にもぶたれたこと──」

    「いいかい、坊っちゃん。その親父さんがオメガ理論の可能性に賭けて、国際実動組織を立ち上げようとしてるんだろ。その息子がここで逃げ腰でどうする!」

    藤堂は涙目で睨み返すしかなかった。
    その肩に、ぽんと手が置かれる。

    「藤堂、一度冷静になろう。もう一度彼女の話を聞くんだ」
    振り返れば、学生時代からの盟友ルーカスが立っていた。

    「君はいずれ上に立つ人間だ。“社会因子側の逆制御”が可能なら──それは未来を回避する最初の一歩になる。君にとっても……絶好の機会じゃないか?」
    ルーカスは藤堂の耳元に囁いた。

    藤堂は奥歯を噛み締めた。

    「……すまない。そうだな、キャロルさん。もう一度聞かせてくれないか──」


    恭一とアオイは思わず顔を見合わせた。
    「坊っちゃん……って」
    「ビンタしたんですか?長官を……」

    「おい、キャロル!余計なこと言うな!」
    藤堂が耳まで赤くしながら声を上げるが、キャロルは知らぬ顔で当時の記憶をさらに語り始めていた──



    「じゃ、よく聞きな坊っちゃん」
    「その……坊っちゃんって言うの、やめてもらえないかな?」
    管制センターのざわめきが静まり、ホログラム卓を挟んでキャロルと藤堂が対峙する。

    「オメガ理論は、まず膨大なパラメーターを統合して“どんな未来がどの確率で起きるか”を示すものだ。『48時間以内にM7.5以上の地震、津波発生確率87%』──ここまでは未来予測のフェーズだ」

    キャロルの声に、職員たちの手が止まる。

    「だが次のフェーズがある。その予測に対して、どの因子をどう操作すればリスクを減じられるか。それを数値的に逆探索するのが、オメガ理論の応用範囲──未来を回避するシナリオを導き出すのさ」

    藤堂が食い下がる。
    「……そのシナリオで、断層に溜まったエネルギーを止められると?」  

    「止めるんじゃない」キャロルが首を振る。
    「エネルギーが一気に解放される前に、細かく揺らして小出しにするんだ」  

    ルーカスが横から言葉を挟む。
    「直接断層に触れるわけじゃなく、電力や地下水圧、港湾交通──社会因子を通して地殻に微妙な負荷を与えるわけか」

    「そのとおり。板チョコを一気に折るんじゃなく、あらかじめヒビを入れて折れ方を変えるんだ」 

    藤堂は目を閉じ、唇を噛む。
    ──避難に徹するか、賭けに出るか。  

    「……分かった。やろう」

    彼は顔を上げた。

    「もう時間がない。介入シナリオに沿って動く!この地震を……“制御”する!」


    ホログラム卓の光が一斉に切り替わり、管制センターの空気は緊迫の色を帯びた。

    「全系統、回線確保──行くぞ」
    藤堂の号令と同時に、壁一面に「介入シナリオ#A-12《Counterflow》」が赤字で浮かび上がる。

    キャロルが矢継ぎ早に指示を飛ばす。
    「電力系統、沿岸ピーク負荷を12%内陸へ移送。揚水発電は“吸い上げ”モード固定、ダム群は段階的に逓減──潮汐と地盤ひずみのモデルに合わせ、12分周期で微調整をかけろ」
    「了解、送信! 全系統応答あり!」
    オペレーターの指が卓上を走り、光点が次々と緑に変わる。

    ルーカスが別ラインを開いた。
    「地下水圧注入プロトコルを#3から#1へ。沿岸浅層帯は停止、内陸側深層ウエルのみ0.3MPaでパルス注入だ」
    「注入開始──センサー群、オールグリーン!」

    キャロルはすかさず次の領域へ。
    「港湾VTS、大型船は沖待機。曳船とタグボートは入港作業を中断、岸壁クレーンは全停止。ヤードのコンテナは内陸側へ移動」
    「ジャカルタ湾、タンジュン・プリオク、ホールド入りました!」

    「交通はどうだ?」
    「BRTを内陸ループに再配分、高架鉄道は西端モジュールをスタンバイ!」

    ──Ω-AIモデル出力:発震予測まで 47:28:12。

    ジャカルタ湾管制センターの空気は張り詰め、全員が昼夜を惜しまず、それぞれのミッションに没頭していた。



    発震予測まで残り 30分。
    壁一面のホログラムに「カウントダウンタイマー」が赤く点滅し、センターの空気は極限まで張りつめていた。

    「地下水圧、微振動応答に変化!」
    「西ジャワ沿岸に群発小地震を検知!」
    「プレート境界応力、予測カーブどおり──!」

    次々に飛び交う報告に、藤堂は唇を噛みしめた。
    「……このまま、本当に抑え込めるのか……?」

    「焦るな、藤堂」
    キャロルの声は冷たいが確信に満ちていた。
    「パラメータはまだ臨界値に届いていない。逆に、分散が始まっている証拠だ」

    ルーカスが補足する。
    「応力のピークが二つに割れている。板チョコじゃなく、薄く裂けるクッキーみたいな分布だ。揺れは大きいが、壊滅的にはならないはずだ!」

    ──発震カウントダウン、残り3分。

    「全ライン最終確認!電力負荷分散、注入パルス同期!」
    「各沿岸自治体、防災局へのリアルタイム配信は継続!」

    やがて、地の底から獣が唸るような低音が走った。

    「──ッ……来るぞ!」

    藤堂の声と同時に、管制室全体が大きく揺れる。
    天井から砂埃が舞い落ち、モニターが軋むように振動した。

    「震央確定!ジャワ島北西沖、南緯5.9度・東経106.3度──」
    「規模は……マグニチュード5.3!繰り返す、5.3!」

    一瞬、全員が息を呑む。
    「……5.3? 予測の7.5を大きく下回った……!」

    「津波計、異常なし!」
    「湾口波高は15センチ以下、沿岸到達の恐れなし!」

    歓声ともどよめきともつかぬ声が、管制室に渦を巻いた。

    藤堂は机に手を突き、肩で荒く息をしながら天井を仰ぐ。

    「……やったのか、俺たちは……」


    ──夕刻。

    熱を含んだ風が、湾の水面を鈍く撫でていた。

    堤防の上。藤堂、ルーカス、キャロルの三人は並んで海を見ていた。
    遠くに灯る沖合の船影。抑えたサイレンの尾。

    藤堂は長く息を吐き、口元に笑みとも苦笑ともつかぬ色を浮かべる。

    「……震央は確かに揺れた。けど、想定された大津波は来なかった。まだ信じられない……本当に、ぼくらは“大地震を制御できた”というのか」

    キャロルは手すりに肘を置き、淡々と返す。

    「エネルギーの蓄積が不完全だったこと。境界条件の調整が奇跡的に噛み合ったこと。そして現場の人間の手際。三拍子が揃った稀有な例さ。だが、二度と同じ条件が揃うとは限らない。過信は禁物だ」

    ルーカスが肩をすくめ、空を仰ぐ。

    「それでも、明日から世界中が同じことを望む。“未来は回避できるのか”とな。人類は今日を境に、神を手にしたと錯覚するだろう」

    藤堂は海の方へ一歩、靴先を寄せる。

    「……オメガ理論か。親父の言うとおりだ。世界は混沌に向かう……だからこそ、秩序を維持するための国際組織が求められる」

    彼は振り返り、二人を見た。

    「ありがとう。君たちが現場で踏みとどまってくれたおかげだ」

    キャロルが口の端をわずかに吊り上げる。

    「もう、坊っちゃんではなさそうだな。藤堂ちゃん」

    「……う、うるさいなっ!」

    三人の間に微かな笑いが生まれる。
    その背後で、湾の波は何事もなかったかのように岸を打ち続けていた。


    2. ダッカ情報奪取作戦


    G.O.A本部司令室──
    藤堂の声が、静まり返った部屋に響いた。

    「──だが、今回の地震は2049年の比ではない。規模はマグニチュード8クラス。オメガ理論で“制御”できる余地はない」

    キャロルが冷ややかに言葉を継ぐ。
    「制御できると言っても、それは“条件が揃ったとき”に限られる。プレートに数百年分の歪みが溜まっていたら、人間の介入なんて焼け石に水さ」

    「そう……ですか……」
    アオイはわずかに肩を落とした。

    しかしキャロルはすぐに投影ホログラムを切り替えた。
    赤いラインで染め上げられるジャワ島の被害予測図。

    「だが落ち込んでいる暇はない。Ω-FLAMEの完成で、未来予測の精度は当時より格段に上がっている。問題は“発災後”だ。予測と事後シナリオを踏まえ、何をすべきかを判断するのは我々だ──なあ、藤堂ちゃん?」

    「……う、うむ」
    藤堂はわずかに咳払いをして応じた。
    「ヴェスパーは必ず動く。だから今回は日本支部との合同チームを編成する」

    「日本支部と……?」
    アオイが驚きの声を漏らす。

    「都市機能と治安を押さえ、テロの芽を潰す。大規模な作戦になる。だからこそ、作戦統括部隊のおまえたちに声をかけたのだ」
    藤堂は重く告げる。

    恭一とアオイは背筋を正した。

    「情報公開のタイミングは?」
    恭一が問う。

    「政府には今日中に。市民には明日だ」
    藤堂が答える。
    「混乱を抑えるためだが……同時に、ヴェスパーが予測を傍受する可能性も高い。やつらの動きは早いからな」

    恭一が顔を上げる。
    「キャロルさん、Ω-FLAMEの事後シナリオをもう一度」

    画面に浮かぶのは赤字のシナリオ群。
    ──医療や交通ネットワークを狙った電子機器の一斉不具合。EMP、あるいは意図的なジャミング重畳。確率29%。

    「……啓示の三柱トリアークなら、シグマが出てくる可能性が高いな」
    恭一が低くつぶやく。

    キャロルが頷く。
    「反オメガ理論の急先鋒だ。ジャカルタ湾津波制御に真っ向反対の論文をいくつか寄稿していたな」

    「地震、台風、山林火災……災害関連の場面で前線に姿を見せたことも多い。となれば──」
    恭一が思案に沈む。

    藤堂が割って入った。
    「セラフィム・アークもヴェスパーの武装も、シグマの手によるものだ。捕獲できれば一大戦果になる!」

    アオイが声をあげた。
    「シグマが出てくるかどうか……Ω-FLAMEで予測できないんですか?」

    キャロルは即答した。
    「行動が不規則すぎて、蓄積データが足りない。せいぜい“こういう条件なら現れる確率が高い”程度だな」

    「……つまり、絶対じゃないけど、条件次第で現れる可能性をシナリオ化できるってことですね?」

    キャロルがにやりと笑う。
    「頭が回るな、アオイ。そうさ、条件がそろえば高確率で現れる。だからこそ、今が罠を仕掛ける好機だ」

    藤堂が机を叩いた。
    「恭一、作戦立案の中心はおまえに任せる。どうにかしておびき寄せろ。シグマでなくても、トリアークの誰かさえ捕獲できれば……!」

    「了解!」
    恭一の声は力強かった。

    「期待してるぞ……それに本拠地を吐かせることができれば一気に叩ける。5年前、当時ソルジャーだった神崎がもたらした候補地情報──そろそろ真実を突き止めるときだ」



    バリ島・ウルワツの断崖──

    乾いた潮風が、アカネの髪をさらった。
    眼下には紺碧の海。崖下で砕け散る波が白い飛沫を散らし、空には傾き始めた陽が赤みを帯びている。観光客のざわめきはとうに消え、残されたのは風と潮騒だけだった。

    アカネは岩壁に背を預け、しばし瞼を閉じる。

    胸の奥に沈めた記憶──


    5年前。

    砲声と炎に包まれたダッカ市街地。
    崩れた建物の影で、アカネはタクミとカエデと肩を並べていた。

    《全員撤退せよ!くり返す、作戦は中止だ!》
    無線から、司令部の声が焦りを帯びて響く。

    「くそッ!ダメか……」
    アカネは胸元に抱えた端末を睨んだ。
    敵拠点から奪取したAクラスの情報。
    しかしEMP電磁パルスで通信は完全に死んでいる。赤い送信ランプは沈黙したままだ。

    「敵の火力が増してる。徹底的に潰す気だ」
    タクミが銃を構えながらつぶやいた。

    「転送は不可能。残るのはこの端末だけね……」
    カエデの声にも緊張が混じっていた。

    アカネは即座に指示を出す。
    「カエデ、端末を持って戻れ。私が防戦に回る。タクミはフォローを」

    「な……撤退命令が出てるのよ!」
    カエデが即座に反発する。

    「上は現場をわかってない。このデータを無事に持ち帰られなければ、これまでの犠牲も無駄になる!」

    タクミが低く遮った。
    「わかった。おまえの指示は俺が全隊員に流す。だがアカネ、端末は指揮官のおまえが持ち帰れ」

    カエデが端末を彼女の胸に押し当てる。
    「そう。リーダーが生きて帰ってこそ意味があるのよ。ここはアタシらが食い止める」

    「バカを言うな!三人で──」

    「アカネ、おまえには未来が見えてる。だから俺たちはおまえのことを信じている」
    タクミが微笑む。
    「俺はおまえの“目”になる。最後まで見届けてやる」

    カエデも返す。
    「じゃあ、アタシは“腕”ってとこね。タクミよりは当てになるわよ」

    束の間、戦場に似つかわしくない笑いがこぼれた。

    アカネは奥歯を噛み締めた。指揮官としての責務と、仲間を失う恐怖が胸の中でせめぎ合う。

    「……必ず戻る。だから、死ぬな」

    「行くぞ、カエデ!」タクミが叫ぶ。
    「了解!」カエデもライフルを構え、二人は瓦礫から飛び出した。

    閃光と銃声が闇を切り裂く。

    アカネは端末を抱きしめたまま、二人の背を目に焼き付けるしかなかった。


    「──ダッカの作戦か」

    藤堂が低くつぶやいた。

    「正直、あまり思い出したくないな……あの作戦は、犠牲が多すぎた」

    恭一が静かに言葉を継ぐ。

    「とくに前線の諜報部隊は……神崎以外は、全滅……」

    「……え……?」

    アオイが息を呑む。
    目を見開いたまま言葉を失う。

    藤堂の視線が宙をさまよい、重苦しい沈黙が場を覆った。


    ──ダッカ市街。

    炎に照らされる夜空。焼け落ちたビルの影を縫うように、ひとりの影が歩いていた。

    肩口から血が滴り、脚を引きずるたびに瓦礫に赤い跡が残る。
    胸に抱えた端末の冷たい感触だけが、現実につなぎ止めるものだった。

    「タクミ……カエデ……」
    かすれた声が、闇に溶けて消える。

    振り返れば、もう誰もいない。
    背後には銃声と炎だけ。

    「私は……い、生きて……戻らなきゃ……」

    アカネは血と煙の中を、ただひとりで進み続けた──



    「……結局、アカネさんが持ち帰った“情報”って、なんだったんですか?」
    アオイが思わず問いかけた。

    藤堂が答える。
    「敵拠点から奪った通信断片だ。解析の結果、ヴェスパーが活動拠点にしている可能性のある“島”や“地下網”がいくつか浮かび上がった」

    キャロルがホログラムを切り替え、淡い地図を表示する。

    「まず、ベンガル湾沖の小島。電力消費と通信トラフィックが異常に集中していた。表向きは無人島だが、衛星観測では夜間にだけ発光がある。
    次に、チッタゴン丘陵地帯の旧採掘区。強烈なEMP干渉が観測されており、近隣の海底ケーブルがたびたび遮断されている。
    そして、バングラデシュ南岸の孤島群のひとつ。ごく狭い範囲に高密度の電子ノイズが常時観測され、軍用クラスの施設が隠されている可能性が高い。
    最後は、パトクハリ沖合の干潟帯。外部から完全に遮断されており、情報はほとんど取れない。ただ断片的な交信記録は確かに検知されている……」

    「そんなに散らばって……」
    アオイが眉を寄せる。

    恭一が腕を組み、重く続けた。
    「共通しているのは、EMP反応と暗号化通信の痕跡。それが濃い場所ほど、ヴェスパーの本拠に近い可能性が高い。だが……どこが本丸かは、5年経った今も見抜けていない」

    キャロルがホログラムをさらに操作し、地図上に複数の光点を浮かび上がらせた。

    「この半年、ヴェスパーが現れた地点をプロットした。香港、シンガポール湾岸、バンコク、マニラ、名古屋、奈良……散発的に見えるが、Ω-FLAMEで解析すると一つのベクトルに収束する。推定では──南アジア域に大規模な戦力投下が近く行われる可能性が高い」

    「南アジア、バングラデシュ近辺か……」
    恭一の表情が硬直する。

    「もしヴェスパーの本拠地が判明すれば、我々の力を総動員する!」
    藤堂が決意を込めて告げた。

    「サミットで“予測AIの用途を防衛目的に限定”と決めたのに、もう攻勢防御に踏み出すとはな。随分な方針転換だな」
    キャロルが皮肉を込めて言う。

    「相手はテロ組織だ。世界は文句を言えまい」
    藤堂が低く応じる。
    「この混沌を利用して勢力を広げようとする連中に備えるには──こちらもしたたかに動かざるを得んさ」

    キャロルがにやりと肩をすくめる。
    「……まったく、変わったものだね、藤堂ちゃんも」

    「だからその呼び方はやめろと言ってる!」

    場がわずかに和む。

    しかしアオイの脳裏には、血に染まりながら端末を抱えていたアカネの姿がよぎる。
    彼女が必死に持ち帰った“断片”が、これから先の戦いの鍵を握っている──


    静寂の波打ち際。

    星明かりの下、サンダルを手にしたアカネの裸足が砂に淡い跡を刻む。

    寄せては返す波が、その足跡をすぐにさらっていく。

    小さく光る放つホロ端末。
    通信回線を開くと、速水はやみ猛たけしの低い声が届いた。

    「神崎、休暇中にすまない。すぐにノア・ハブ本部に合流できるか?」

    「……はい。寄るつもりでしたので」
    アカネは短く答え、暗い水平線を見据える。

    その掌には、奈良で拾った小さな木製の人形が握られていた。

    夜の海は何事もなかったように、ただ静かに白い飛沫を散らし続けていた。

    (第11話へ続く)


    ▼次回以降リンク

    第11話 未定
    第12話 未定
    第13話 未定
    ……


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    2025年5月から始めました。初めての小説(断念中)とかエッセイ的なものを書いていこうと思います。たぶん。 長く楽しく続けられれば。よろしくお願いします。

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