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余白を、書く。

    真っ黒だったスケジュール帳に、余白なんて存在しなかった。

    真っ黒だったスケジュール帳
    その端っこの場所に、
    あの日、わたしは「本屋に行きたい」と書いた。

    あれは予定じゃなかった。

    人生をあきらめないための、小さな願いだった。

    人は、すぐには変われない。
    環境も、過去も、誰かも、思うようには変わらない。

    それでも、

    今日をどう生きるかは、自分で選べる。

    わたしは、そのことを一冊のスケジュール帳の余白から教えてもらった。

    ちゃんと生きようとして、ちゃんと分からなくなっていく

    あの頃は、手帳も、気持ちも、
    何もかもが真っ黒だった。

    仕事。
    子どもの予定。
    病院。
    学校。
    締め切り。

    「やること」が隙間なく並んでいて、それをひとつずつ消していく毎日。

    そして気づけば、

    スケジュール帳は真っ黒になっていた。
    達成感なんて、ほとんどなかった。

    「次」が待っているから。

    気づけば、一日が終わっていた。

    そんな毎日を、ちゃんと生きているんだと思っていた。

    本当は、違っていたんだ。

    空白が怖かった。
    いつも、不安だった。

    でも、何に怯えていたのかは、うまく言葉にできなくて。

    ただひとつだけ分かっていたのは、

    「間違えたくない」という気持ちが、
    いつの間にか「動けない」に変わっていたこと。

    だから埋めた。

    予定で。
    やることリストで。
    人のための時間で。

    生きているというより、こなしていた。

    今日を終わらせることだけで精一杯だった。

    何かを選ぶというより、「選ばなくてもいいように」していただけ。
    そのほうが、楽だったから。

    何をしていても、どこにいても、落ち着かなかった。

    上司からの電話が鳴る気がする。
    鳴っていないのに、着信音が聞こえた気がして、何度もスマホを見た。

    今なら、分かるのに。
    あの時は、知ろうとしなかった。

    上司は、わたしを責めていたわけじゃない。
    たぶん、信頼してくれていたんだと思う。

    でも、あの頃のわたしは、誰かに責められているんじゃなくて、自分で自分を追い込んでいた。

    母にも。
    子どもにも。
    職場にも。

    「いい人」でいようとしていた。

    そして一番、いい顔をしていた相手は、自分自身だったのかもしれない。

    「大丈夫。」
    「できる。」
    「まだ頑張れる。」

    そう言い聞かせていた。

    汗が出る。

    言葉に詰まる。

    息が浅くなる。

    うまく呼吸ができない。

    でも、「休みます。」の一言だけが、どうしても言えなかった。

    やめられなかった。
    やめ方が、分からなかった。

    頑張ることを、選んできた。
    誰かの役に立つと、うれしかった。

    だからこそ、「頑張れない自分」を認めるほうが怖かった。

    あの頃のわたしは、「ちゃんと」に守られていた。

    ちゃんと働く。ちゃんと育てる。
    ちゃんと笑う。ちゃんと我慢する。

    その枠の中にいれば、間違えずに済むと思っていた。

    でも、「ちゃんと」は、鎧にもなる代わりに、
    少しずつ息ができなくなる、重い荷物でもあったんだよね。

    そんなある日。

    真っ黒だったスケジュール帳の、ほんの小さな余白に、

    「本屋に行きたい。」

    そう書いた。

    たった、それだけ。
    行けるかどうかも分からない。
    いつ行けるのかも分からない。

    それでも書いた。

    予定じゃなかった。

    目標でもなかった。

    たぶん、願いだった。

    今なら思う。
    あの一行は、「本屋に行きたい」じゃなかった。

    「わたしに、戻りたい。」

    そんな小さな声だったんだと思う。

    でも、あの頃のわたしは、まだその意味を知らなかった。
    だから、「本屋に行きたい」としか書けなかった。

    でもね。
    それで、よかったんだと思う。


    言葉が、わたしを探し始めた。
    (ミドル・モラトリアム)

    最近、本をよく読む。
    いや、読むというより、本を、たべている。

    言葉を飲み込んで、「わたしならどう思う?」って何度も噛んでみる。
    そうすると、不思議と、自分の輪郭が少しだけ見えてくる。

    書評を書くのが好きなのも、たぶんそのせいだ。
    本の感想を書いているようで、いつも書いているのは、わたし自身のことだから。

    「この主人公、どうしてこんな選択をしたんだろう。」
    そう思ってページを閉じる。

    でも、パソコンを開いて書き始めると、不思議なことが起こる。

    気づけば、主人公の話なんて半分くらいしか書いていない。

    「もし、わたしだったら。」
    そんな言葉から始まって、いつの間にか、自分の話になっている。

    あの場面で胸が苦しくなった理由。
    あの一文に、何度も目が止まった理由。
    登場人物にイライラした理由。
    逆に、「この人、好きだなぁ」と思った理由。

    それを書いているうちに、「あぁ、わたしは、こういうことを大切にしたい人なんだ」と気づくことがある。

    本は、答えを教えてくれるものだと思っていた。
    けれど、本は、わたしに質問をしてくる。
    「あなたは、どう思う?」
    「あなたなら、どう生きる?」
    ページをめくるたびに、そんな声が聞こえてくる気がする。

    だから、本を閉じても終わらない。
    そこからが、本番だ。

    コーヒーを飲みながら考える。
    お風呂の中でも考える。
    スーパーで野菜を選びながら、「あの言葉、なんか引っかかるな。」なんて思い出す日もある。

    本を読んでいる時間より、本を読んだあとの時間のほうが長いのかもしれない。

    だから、読むというより、たべる。
    少しずつ噛んで、ゆっくり飲み込んで、自分の血や肉に変えていく。

    急いで読んだ本よりも、何日も頭の中に残っている一文のほうが、案外わたしを変えてくれる。

    書評も同じ。
    「面白かった。」
    「泣けた。」
    それだけなら、数行で終わる。

    でも、どうして泣いたんだろう。
    どうして笑ったんだろう。
    どうして、その言葉だけは忘れられないんだろう。

    そこを書こうとすると、自然と、自分の人生を振り返っている。

    本の感想を書いているつもりなのに、
    出来上がった文章を読み返すと、「これ、わたしのことばっかり書いてるな。」なんて笑ってしまう。

    何かを調べるなら、他の方法もあるけれど。
    本は、答えを出すだけじゃない。
    新しい世界と出会わせてくれる。

    そして、同時に、
    自分のことも、少しだけ知っていく。

    だから今日も、本を読む。
    いや。
    やっぱり、本を、たべる。


    隙間とわたし。

    息子は、ふたり。
    きょうだい、二人とも喘息があって、小さい頃は入退院を繰り返していた。

    病院は、決して嫌いな場所じゃない。

    もちろん、好きでもない。

    でも、あの場所には、日常から少しだけ切り離された時間が流れていた。

    息子の隣で、点滴の音を聞いていた。

    入院部屋には、小さなテレビと簡易ベッド。
    あとは、折りたたみのイス。
    あのイス、長く座っていると、おしりが痛くなるんだよね。

    だから、ときどき立ち上がって窓の外を見る。
    ……と言っても、景色なんて、ほとんど覚えていない。

    白い壁と、点滴の音と、子どもの寝息。
    そんな時間だけが、ゆっくり流れていた気がする。
    ただ、時間が流れていく場所だった。

    そこで観ていたドラマの中の言葉が、

    ふと、胸に落ちてきた。

    ドラマなんて、いつ以来だろう。

    何を観たいかも分からなくなっていた。
    時間をつぶすために、なんとなくテレビをつけた。
    そのくらいだった。

    その小さな画面から、あるセリフが聞こえてきた。

    「今どう生きるかは、決められるよ。」

    その瞬間、「頑張れ」と言われた気はしなかった。

    むしろ逆だった。

    「ああ、まだ決めてもいいんだ。」

    そんなふうに聞こえた。

    あの頃のわたしは、「ちゃんと」に捕まっていた。

    ちゃんと働かなきゃ。ちゃんと育てなきゃ。
    ちゃんと笑わなきゃ。ちゃんと迷惑をかけないようにしなきゃ。

    毎日、そんなことばかり考えていた。

    いや。

    考えていたというより、
    考えなくても済むように、「ちゃんと」の中に隠れていたのかもしれない。

    そのほうが、楽だった。

    自分で決めなくていいから。


    四十代になって思う。
    人生って、思っていたより長い。

    でも、思っていたより体力はない(笑)。

    だから最近は、頑張ることよりも、ご機嫌でいる工夫を覚えた。

    アメとムチなら、アメを少し多めにしたい。

    コーヒー豆を挽いてもらうこと。
    本を一冊買うこと。
    書評を書くこと。

    たった三十分、一人になること。
    そんな寄り道が、次の日のわたしを助けてくれる。

    もしかしたら今の私は、「ミドル・モラトリアム」の真っ最中なのかもしれない。

    学生時代みたいに、「これから何者にでもなれる」とは思わない。
    でも、「このままで終わりたくない」とは、まだ思っている。

    その気持ちがあるうちは、大丈夫。
    そう信じている。

    本をたべる。

    言葉を、自分の中で何度も噛んでみる。

    そうして残ったものが、少しずつ、わたしになっていく。

    だから今日も、本を読む。

    いや。

    やっぱり、本を、たべる。


    寄り道は、才能。

    最近、「AIに相談しすぎる人が増えている」なんてニュースを見かけた。

    恋愛相談をしたり、人生相談をしたり。
    なかには、AIに依存してしまう人もいるらしい。

    そのニュースを見ながら、「そういう人もいるんだなぁ」と思った。
    でも、わたしにとってAIは、ちょっと違う。

    相談相手というより、考えごとの散歩に付き合ってくれる人。

    そんな距離感だ。

    「これって、どう思う?」

    「え、なんか違う。」

    そんな曖昧な言葉でも、ちゃんと返事が返ってくる。

    もちろん、毎回「その通り!」なんて思うわけじゃない。

    「うーん、それはちょっと優等生すぎるかな。」

    「もう少し生活感がほしい。」

    そんなふうに、ひとりでツッコミを入れる日もある。

    でも、それが面白い。

    返ってきた言葉に「違う」と思えた瞬間、自分が何を考えていたのかが見えてくるから。

    考えるって、答えをもらうことじゃない。

    自分の本音を見つけにいくことなんだ。

    最近は、そんなふうに思っている。


    四十代って、不思議だ。

    若い頃みたいに、「何者かになりたい」と焦る気持ちは少し落ち着いた。

    でも、「このままで終わりたくない」という気持ちは、まだちゃんと残っている。

    だから、本を読む。

    映画を観る。

    ドラマを一気見する。

    AIと、とりとめのない話をする。

    全部、「何かを勉強するため」じゃない。

    「わたしは、どう思う?」を忘れないため。

    そんな時間だ。

    最近、自分に「ちょっとだけ、お金をかける」ことも覚えた。

    昔は、自分に使うお金がいちばん後回しだった。


    子どものもの。

    家のもの。

    必要なもの。

    それが終わって、もし残ったら。

    そんな順番だった。


    でも最近は、順番を少しだけ変えてみた。

    コーヒー屋さんでマンデリンを挽いてもらう。

    お気に入りのチョコレートをひとつだけ買う。

    本屋で気になったエッセイを一冊連れて帰る。

    百円ショップじゃなくて、「これ、好きだな」と思った文房具を選んでみる。

    それだけで、一日が少しやさしくなる。


    もちろん、高級ブランドのバッグを買うわけじゃない。

    旅行へ何度も行くわけでもない。

    でも、数百円や千円で、自分が少し笑えるなら、それはもう十分だ。

    最近のわたしには、「ご機嫌代」と呼んでいる。

    そう考えると、不思議と罪悪感がなくなった。


    昔は、「こんなことにお金を使って。」と、自分で自分を叱っていた。

    今は、「明日のわたしが笑えるなら、必要経費かな。」と思っている。

    年齢を重ねるって、こういうことなのかもしれない。


    最近の寄り道リスト、そう、こんな感じかな。

    ・コーヒー屋さんで豆を挽いてもらう。
    ・買う予定のない本を立ち読みする。
    ・映画を一本だけ観る。
    ・ドラマを一気見する夜をつくる。
    ・AIと、とりとめのない話をする。
    ・少し高いチョコレートを買う。
    ・文房具売り場を、意味もなく一周する。
    ・コインランドリーで本を読む。
    ・レビューを書く。
    ・何も買わずに雑貨屋さんを歩く。

    こうして並べると、本当にたいしたことはしていない(笑)

    でも、この「たいしたことのない時間」が、案外わたしを救ってくれている。


    きっと、昔のわたしなら、「もっと頑張らなきゃ。」と言っていただろう。

    資格を取るとか。

    副業を始めるとか。

    もっと有意義な時間の使い方があるんじゃないかって。

    でも今は違う。

    有意義って、誰が決めるんだろう。

    コーヒーを飲みながら、本を読む三十分。

    AIと、「この説明、なんか違うよね。」と話して笑う十分。

    そんな時間があるから、また家族にやさしくできる。

    また仕事を頑張れる。

    だったら、それは十分、有意義じゃない?


    最近は、「寄り道をしないと頑張れない。」じゃなくて、

    「寄り道をするから頑張れる。」

    そんな順番になった。


    人生は、効率だけでは回らない。

    少しくらい遠回りしたっていい。

    ちょっと立ち止まったっていい。

    スーパーで旬の野菜を見つけてうれしくなる日も。

    コーヒーの香りに深呼吸する朝も。

    AIとの何気ない会話から、自分でも知らなかった本音に出会う夜も。

    全部まとめて、わたしの暮らしだ。


    寄り道って、時間の無駄じゃない。

    わたしは最近、本気でそう思う。

    寄り道をするたびに、「ちゃんと」の鎧が少しずつ軽くなっていく。

    そして、「今日も悪くなかったな」と思える日が、一日、また一日と増えていく。


    だから今日も、少しだけ寄り道をする。

    本を開く。

    コーヒーを淹れる。

    AIに、「ねぇ、ちょっと聞いて。」と話しかける。

    そして、ときどき笑う。

    そんな暮らしが、今のわたしは、けっこう気に入っている。


    コインランドリーの憂鬱と回復のじかん

    わたしは、コインランドリーが好き。
    ……いや、好きというより、楽ちん。

    洗濯機が回っている三十分は、「待つ」しかできない。

    昔なら、その時間さえもったいないと思っていた。
    でも今は違う。
    誰にも急かされない。
    誰かのために動かなくてもいい。
    その不自由さが、妙に心地いい。

    実は、数ヶ月くらい前から、その三十分で肩甲骨をゆるめる運動をしている(笑)。
    動画を見ながら腕を回して、伸ばして、深呼吸。
    誰も見ていないし、少しくらい変な動きでも気にならない。

    四十代って、体は正直だ。
    昨日の疲れが今日に残る。

    朝起きた瞬間、「あれ、肩が重い。」なんて日もある。
    若い頃は、「痩せたい」が口ぐせだった。

    でも今は違う。

    肩が軽い。
    ぐっすり眠れた。
    階段を息切れせずに上れた。
    そんなことのほうが、ずっとうれしい。

    だから最近は、体をいじめるダイエットよりも、体が喜ぶことを選びたい。

    スーパーでも少し変わった。
    お菓子を買う日もある。
    でも、その横で野菜も一つカゴに入れる。
    ヨーグルトを選んでみる。
    「あ、今日はこれが食べたい。」
    そんな小さな選択を楽しめるようになった。

    コーヒーも変わった。
    昔はインスタントで十分だった。
    今も十分なんだけど。
    ときどき、お気に入りのコーヒー屋さんでマンデリンを挽いてもらう。
    家に帰って、プラスチックのソーサーにマグカップ。
    高そうなカップなんて持っていない。
    でも、香りだけは、ちゃんと贅沢だ。
    最近は、こういうことにお金を使う。

    高級バッグじゃない。
    豪華な旅行でもない。
    コーヒー豆だったり、本だったり。
    少しだけいいチョコレートだったり。

    昔のわたしなら、「もったいない。」と思っていたかもしれない。

    明日のわたしが少し笑えるなら、それは必要経費。

    人生を変えるためじゃない。
    今日を気持ちよく終えるためのお金。

    そう思えるようになった。

    日常って、人生のほとんどを使う。

    だったら、その日常を、
    ほんの少しだけ好きになれたら、それだけで十分なんじゃないかな。

    コインランドリーの三十分。
    肩甲骨をゆるめる時間。
    挽きたてのコーヒーの香り。
    旬の野菜を見つけて、ちょっと嬉しくなる夕方。
    どれも、小さなことばかり。

    でも、その小さなことが、一日の満足感をぷちアップしてくれる。

    若い頃は、人生を変えたかった。
    今は、一日を好きになりたい。
    その違いは、案外大きい。

    つい先日、家から車で10分ほどの本屋へ行った。
    目的の本は決まっていたはずなのに、いつものように店内をぐるりと歩く。

    料理本をめくってみたり。
    写真集を開いてみたり。
    エッセイの棚で立ち止まったり。

    効率だけ考えたら、無駄な時間なのかもしれない。
    でも、そういう時間に出会う言葉のほうが、不思議と長く心に残る。

    人生も、少し似ている。
    遠回りしたから出会えた景色がある。

    立ち止まったから気づけたことがある。

    だから今日も、少しだけ寄り道をする。

    急がない。

    ちゃんと立ち止まる。

    そんな生き方も、悪くない。


    わたしを、生きる。


    気がつけば、「頑張ったご褒美」は、少しずつ卒業した。

    昔は、「これが終わったらケーキを食べよう。」とか、「今週を乗り切ったら好きなものを買おう。」とか。

    いつも、ご褒美は未来にあった。

    でも最近は違う。
    頑張ったからじゃなくて、今日をご機嫌で過ごしたいから。

    そんな理由で、自分にアメをあげる。

    お気に入りのコーヒーを淹れる。
    スーパーで旬の果物を買ってみる。
    帰り道、アイスを一本だけ買う。
    本屋へ寄って、気になるエッセイを立ち読みする。
    肩甲骨をゆるめて、「あぁ、今日も凝ってたなぁ。」なんて笑う。

    どれも、ほんの小さなこと。

    でも、その小さなアメがあるだけで、一日は少しだけやさしくなる。

    ムチは、放っておいても勝手にやってくる。

    仕事。
    家事。
    親のこと。
    子どものこと。
    年齢とともに増えていく体の変化。

    だから、自分でアメを用意してあげるくらいで、ちょうどいい。

    40代を過ぎたあたりから、ご褒美の先延ばしをやめるようになった。

    もう少し、後でいい。
    これが出来たら、自分にご褒美あげよう。

    そんな時間、後どれくらいあるのだろう。

    別に、行き当たりばったりの人生を過ごしたい訳じゃない。

    おひとり様至上主義って訳でもない。

    誰かと生きるのは、もちろん楽しい。

    家族と笑う時間も好きだし、
    友達とのおしゃべりも好き。

    でも、それと同じくらい、
    自分と仲良く暮らすことも、大切なんじゃないかな。

    ひとりで本を読む時間。
    ひとりでコーヒーを飲む時間。
    ひとりで映画を観て、泣いたり笑ったりする時間。

    誰かのためじゃない。

    評価されるためでもない。

    ただ、自分が「心地いいな」と思える時間。

    そんな時間が少しずつ増えてから、誰かにもやさしくなれた気がする。

    結局、一番長く付き合う相手って、自分なんだよね。
    だったら、もう少し機嫌よく付き合ってもいい。

    責めるより、笑う。
    急かすより、待つ。
    完璧を目指すより、「今日はこれで十分。」と言ってあげる。

    四十代になって覚えたのは、そんなことだった。

    人生を大きく変える方法は、わからない。

    でも、一日の満足感を、ほんの少しだけ"ぷちアップ"させる方法なら、少しずつ見つけられるようになった。

    それは、特別なことじゃない。

    寄り道をすること。
    余白を書くこと。
    そして、ときどき、自分にアメをあげること。

    真っ黒だったスケジュール帳には、今も予定が並んでいる。

    それでも、余白を書く場所だけは、空けてある。

    さて。

    今日は、何を書こう。


    #創作大賞2026 #エッセイ部門


     
     
    / ヨハクで整える、わたしの人生 / スキルより、体験が価値になる時代。 焦らず、比べず、余白から整える 40代限界ワーママの「ストレスをためない」生き方を発信中

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