
テンポ
私の目の前に、造形の整った男が座っている。その整った目や、鼻や、輪郭を見ているだけで私は良い気持ちになれた。この時間が意味のあるものに感じた。彼は会話のテンポが独特でそれがとても心地良かった。質問を投げかけると、うーんとも言わず、黙って、少し目線を逸らす。彼と私の間に沈黙が生まれる。その少しの沈黙のあと、ひとつひとつの言葉を、自分の心とそぐわないように、間違えないように、丁寧に発していく。そのテンポのなかにいる時、彼と時間を共にしていることを感じられてうれしくなる。私も黙って、決して会話を急がない。彼の傾けた顔の、きれいな顎筋をただ見つめていた。その時間がとても心地良かった。彼は自分の言葉に過ちがないように、どれだけ酒を飲んでいても、考えながら、ゆっくりと言葉を発していく。一方で私は飲量が増えるにつれて自分の話すスピードがはやくなっていくのを感じ、自分が発する言葉に居心地のわるさを感じるほどであった。でもぎゃくに言えばそれが彼と時間を過ごしていることの裏付けであり、その居心地のわるさすら心地良く感じた。彼はどれだけ酒を飲んでも顔色ひとつ変わらず、話のテンポも変わることなく、酔っている様子がまったく見られないな、と考えていると、たまに少し呂律がまわっていなくて、それが分かるとちゃんと酔っているんだなとうれしくなる。彼は自然に気配りができてとても優しい。私がトイレに立つそぶりを見せると、スリッパをさっと履きやすいように出してくれて、そのスリッパの整った姿を見ると、彼が私に優しくしてくれているという事実にうれしくなる。そんなことが前にもあって、相手の靴やスリッパまで整えてくれるような気配りをする人には初めて出会ったなと思っていた。彼はおそらく無自覚にその行動をしていて、そんな自然な優しさがとても素敵だなと思う。なぜ彼がそんなに丁寧に言葉を紡げるのか、スリッパを整えられるのか、いかにしてその態度が育てられてきたのかに興味がある。だから彼の育ちや考えや生き方を少しでもいいから多く知りたいと思う。でも彼は、自分はただ酒を飲むのが好きなだけで、酒を飲めればそれでいい、といつも言っていた。それもほんとうなのだろうけど、私はもっとほんとうのことが知りたいと思っていた。彼ともっと仲良くなりたいというのは少し傲慢で、ただ少しでも長く彼のテンポのなかにいられる時間があればそれが私の望むことだった。