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本能の上に乗った、未完成の知性    −−人はなぜ言葉を発し、文章を残すのか。


そんなことを考えていたとき、まったく別の疑問が浮かんだ。
人はなぜ、格闘技を観るのだろうか。


創造性を働かせて言葉を紡ぎ、文章を残すことと、自分と同じ人間である誰かが殴り合い、身体をぶつけ合い、闘う姿を見たいと思うこと。
その二つは、あまりにもかけ離れているように思える。

古代ローマでは、人々はコロッセオに集まり、剣闘士たちの闘いに熱狂した。時代や場所は違っても、公開処刑に大勢の人が集まった歴史もある。


もちろん、現代の格闘技と公開処刑を同列に語ることはできない。格闘技にはルールがあり、互いの合意があり、そこには高度な技術、駆け引き、勇気、そして鍛錬の末に到達した身体の美しさがある。
私自身、格闘技を観るのが好きだ。


それでも自分自身を眺めてみると、そのさらに奥に、「どちらが強いのかを見たい」という、かなり原始的な欲求もどこかに潜んでいるように思える。
人間とは、とても不思議な生き物である。


音楽に涙し、花を美しいと思い、見知らぬ人の苦しみに心を痛める。
一方で、争い、妬み、奪い、ときには他者の苦痛さえ娯楽にする。
知性的で気高いところと、野蛮で獰猛なところが、同じ人間の中に同居している。


そうすると人間という生き物は、本能という土台の上に、知性が少し乗っただけの動物なのだろうか。

そう考えると、生殖も興味深い。
太平洋サケの多くは、生まれた川へ戻り、産卵にほとんどすべてのエネルギーを使い果たして死ぬ。カマキリでは、交尾の前後に雌が雄を捕食することさえある。一方、人間の性行動には強い快楽が伴い、生殖とは無関係にも行われる。
同じ「子孫を残す」という生命現象なのに、その方法は驚くほど違う。


進化という観点からすれば、生命は個体の幸福や長寿を目的として形づくられてきたわけではないという。生き残り、繁殖し、結果として次の世代へつながった性質や仕組みが、長い時間の中で残されてきた。
そこに「種を存続させよう」という意思があるわけではない。


しかし人間は、そうした生物学的な傾向だけでは説明できない生き方を選ぶようになった。
生殖を目的としない性行動をする。子供を持たない人生を自ら選ぶ。血縁を越えて子供を育てる。ときには自分の生命を危険にさらしてまで他者を救う。

そして何より奇妙なのは、自分の中にある本能を、自分自身で眺めることができることである。
なぜ私は怒るのか。
なぜこの人を好きになるのか。
なぜ争うのか。
なぜ生きたいと思うのか。


生命が長い時間をかけて作り上げてきた仕組みの中から、ついには「なぜ自分はこのように考えるのだろう」と問う生物が現れた。
その問いのために不可欠だったものの一つが、言葉なのかもしれない。


言葉によって、人間は自分の頭の中にあるものを他人と共有できるようになった。「あそこには獲物がいる」という情報だけではない。

「あいつは敵だ」
「私たちは仲間だ」
「これは正しい」
「これは正しくない」

こうして、目の前に存在しないものについても、その場にいない者たちとも、多くのことを共有できるようになった。
そこから家族を超えた集団が生まれ、社会が生まれ、宗教、国家、法律、科学、文明へと発展していった。


人間は、遺伝子とは別に、「経験や知識を目に見える形で残し、世代を越えて継承していく仕組み」を作り上げた生き物ともいえるのではないだろうか。



しかし、「われわれ」を作ることは、同時に「彼ら」を作ることでもあった。
言葉が暴力を生み出したのではない。攻撃性や縄張り争いは、人間以前から存在する。けれども人間は、言葉によって暴力を組織化できるようになったといえる。

さらに文字によって知識を蓄積し、他人と共有し、科学によって自然を理解し、ついには一人の人間の身体能力からは想像もできないほど強力な兵器を作った。
石器時代の人間と大して変わらない身体に、何千年もの知識が接続されている。
しかしこの仕組みは、一方で医学を生み、農業を発達させ、法律を作り、互いに顔も知らない人間同士が支え合う巨大な社会を築くことも可能にした。

そうすると、人間とは、自分たちがもともと持っていたものを巨大に増幅させることのできる生き物なのではないだろうかと思うのである。

愛情も、好奇心も、協力も。
欲望も、恐怖も、憎悪も。

これらのいずれも、そして言葉も知性も、それ自体が善なのでも悪なのでもない。
では、それほど高度な知性を持つ人間は、本当に賢い生き物なのだろうか。
どうも、そう簡単には断言できない。


これをすれば後悔すると分かっているのに、やってしまう。
この言葉を口にすれば相手を傷つけると想像できるのに、言ってしまう。
自分を苦しめることになると知りながら、目の前の快楽をやめられない。
歳を重ねたからといって、人間がいつも理性的に振る舞えるようになるわけでもない。

わかっている。
それでも、やめられない…
 
しかも、頭のいい人は愚かなことをしない、というわけでもない。
そもそも、後から見れば愚かに思える行動も、その瞬間の本人にとっては、それなりの理由があって選ばれたものなのだろう。


むしろ知性は、ときとして欲望を止めるブレーキではなく、すでに出してしまった結論を正当化するアクセルにもなる。

「今回は大丈夫だ」
「自分だけは違う」

人間は、自分自身さえ巧妙に説得する。
そうするとどうやら、知能が高いことと賢明であることは同じではないらしい。

未来を予測すること。
欲望を抑えること。
自分を客観視すること。
失敗から学ぶこと。
自分の間違いを認めること。
そして新しい事実を前に、それまで正しいと思っていた考えを捨てること。

これらはすべて、「考える」から派生した別々の能力なのだろう。
だとすれば、人間は「高度な知性を獲得した完成された動物」なのではないのかもしれない。


数十億年に及ぶ生命進化の歴史の中で形づくられてきた本能の上に、人間は比較的最近になって強力な知性を手に入れた――まだ未完成の段階にある生き物なのではないか、とさえ思う。

問題は、知性が稚拙なことではない。
そのあまりに強力な知性をどう扱えばよいのかを、私たちはまだ十分には知らないことなのかもしれない。

そして、だからこそ人は言葉を発し、文章を残すのだろうとさえ思う。
自分の中にある欲望や恐怖や矛盾を言葉にして、自分自身の前に置いてみる。

なぜ私はそう思ったのか。
本当にそれは正しいのか。
私は何者なのか。

答えが出なくても、考えたところまでを書き残す。
個体の寿命を越えて経験や思考を共有するために、そして何世代かに渡って答えをみつけ出すために、遺伝子だけでは残せないものを、人間は持つようになったとは言えないだろうか?
だから文章を書く。

「私はここまで考えた。あなたはどう思う?」

そう記して、まだ見ぬ未来の誰かへ向けて流す。


文章とは、人間という未完成の生き物が、自分自身と自分意外を理解しようとして流し続けてきた、瓶の中の手紙と同じようなものなのではないだろうか。

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