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怪談「秋」 落ち葉の褥(しとね)

    【あらすじ】
    信濃国境にある領地を守る名君・秋山源三郎繁氏は、乱世の飢えに苦しむ領民や難民を救う統治を行っていた。 ある夜、領内を騒がせていた「のっぺらぼう」の怪異に遭遇。口減らしのために我が子を奪われた母親の哀しい怨念に触れた源三郎は、二度と飢えによる悲劇を起こさないと誓い、領内の金山で採掘される金をすべて米に変え、怪異との約束を守ろうとする。 豊作により各国が軍備を整えたことで甲斐国は大軍勢で信濃国に侵攻を開始する。源三郎も決戦に参戦し、不利な平野戦へと打って出る。激闘の末に討ち取られるも、恩義を感じていたムジナたちの執念が首を守り抜き、五体満足で静かに故郷へと帰り着くのだった。

    【目次】
    第一章 国境の領主
    第二章 忍び寄る飢饉
    第三章 暴かれた真実
    第四章 見えない城壁
    第五章 千曲川の激闘
    第六章 落ち葉の褥

    【本編】
    第一章 国境の領主

    秋風が、越後と信濃の国境に位置する小さな領地を吹き抜けていく。
    この領地は峻険な山間部にあり、古くから独自の生態系を持つ「山の民」を治める領地であった。領内に暮らす山の民の多くは、獣を追う狩猟で生計を立て、あるいは険しい峰々を駆ける山伏といった者たちであり、彼らは山の複雑な地形や一瞬で変わる気象を完璧に熟知していた。彼らが日々の生活の中で培った山道を見通す知識や、過酷な山野で鍛え上げられた桁外れの身体能力は、山間部における戦において絶大な力を発揮していた。
    突如として険しい崖の上から現れて敵の陣営を蹂躙する奇襲戦術や、不慣れな外敵を迷路のような山道へと深く誘い込み、退路を断って挟み撃ちにする戦法など、彼らは山という巨大な要塞を味方につけた戦術に極めて長けていた。そして、この一筋縄ではいかない強靭な山の民の軍勢を、強力な統率力で束ね上げていたのが秋山家である。山の多い地形において秋山家が率いる兵は負け知らずであり、周辺の諸大名からは「北信濃最強の軍隊」として恐れられていた。
    この北信濃最強の軍を率いるのは、秋山家の三代目領主、秋山源三郎繁氏である。非常に高い知性と優れた合理性を併せ持つ聡明な男でありながら、その心根には深い慈悲を宿しており、常に領民の安寧を第一に考える、誰もが認める名君であった。

    しかし、時代は冷酷な乱世である。全国的に領地や食糧の奪い合いが激化し、力のある者だけが生き残る下剋上の時代。源三郎も決して例外ではなく、その時代の波に巻き込まれた。どれほど北信濃最強という武名が鳴り響き、敵国からの侵攻がなかったとしても、この乱世の影響は戦とは違った形で顕在化したのである。隣国である越中や越後では激しい戦が続いており、国境を遮る城壁もないこの地には、戦火によって家や家族を失った難民が押し寄せていたのだ。
    信濃の大身たちの間では「難民は断固拒絶、見つけ次第追い返せ」という厳しい方針が定まっていたが、領民想いの源三郎は、迷い込んでくる哀れな民を隠れて黙認し、領内に住まわせていた。

    それが可能だったのは、領内の山奥にある小さな金山のおかげであった。 そこで採れる金は決して良質ではなく、不純物ばかりが混ざった代物だったが、他国から米を買い付ける程度の蓄えにはなった。他国に売れば買い叩かれるような金であっても、これがあるおかげで、民に過酷な年貢を課すことなく一領の統治を賄えていたのである。
    質の悪い金であろうと、金山の管理は一国の命脈を握るため、厳重に行われていた。 その監視の意味もあって、源三郎は毎月のように老臣の平林左馬介(ひらばやし さまのすけ)を連れて金山の巡回を行っていた。彼が足を運ぶたび、採掘の作業を行う領民たちの労を労い、一人一人に優しく声をかけるため、坑夫たちは皆、涙を流して感謝した。 しかし、実はこれには別の真意もあった。聡明な領主だからこそ、極限の乱世において、領民が金を盗んで逃げ出すような真似をしないか、動きに不審な点はないかを、その鋭い目で直に確認するための巡回でもあったのだ。

    金山へと続く峻険な山道の途中には、不動明王を祀る慈救寺という寺があった。かつてより修験者たちはこの寺で祈祷を捧げてから、命がけで険しい山へと登って行った。山の険しさを誰よりも知る彼ら修験者は、同時に金山の厳重な監視役も担っていた。また、この寺の境内には地蔵菩薩も優しく祀られており、和尚は毎日、領内で戦死した者や餓死した者といった、哀れに命を落とした者たちの供養も丁寧に行っていた。

    源三郎は巡回時には必ずこの寺に立ち寄り、和尚の顔を見た。これにもまた裏の目的があり、金山から金を盗んで逃げ出そうとする者が山道の脇を下ってこないか、和尚の目を借りて監視する意味合いが含まれていた。
    ある月の巡回時、彼は和尚から、心苦しい話を聞かされた。 「先日、越中から流れてきたと思われる難民の女性が、この国に来る途中、飢えで死んだ我が子を抱え、供養してほしいと駆け込んできましてな。その母親は、冷たくなった子供の亡骸をわしに預けると、魂が抜けたような顔でそのままどこかへ去ってしまいました。哀れゆえ、すぐに丁重に葬りました」 和尚の言葉に、源三郎は黙然とした。ついに難民たちの間に、食糧不足の影響が及び出したことを痛感した。

    地蔵菩薩へのお参りを終えた後、和尚に連れられ、その赤子の墓へと案内された。 そこは他の領民たちが眠る寺の裏手ではなく、境内から少し離れた、寂しい山裾の端にぽつんと置かれただけの粗末なものであった。しかし、その石の両脇には、どこからか手折ってきたのであろう美しい野花が供えられており、どこか穏やかさを含んでいた。 墓の前で深く手を合わせ、静かに祈りを捧げていると、思いのほか時間を費やしてしまったようで、気がつけば周囲は夕暮れの深い陰に包まれた。

    ふと、上ってきた山道の脇に目をやると、大きなクヌギが生える丘の下に穴があり、その中で小さな動物が身を縮めているのが見えた。 和尚がそれに気づき、白髭を撫でながら言った。 「ああ、あれはムジナですな。最近、あの穴で2匹の子供を産みましてね、とても可愛い盛りです。ですが秋山様、夜になるとムジナというのは人を驚かせようと、恐ろしい化け物になって出てくると言い伝わっております。さあ、夜道は危険だ、早く城へ戻りましょう」 和尚に促され、源三郎は背後に広がる不気味な山の闇を気にかけながら、その場を後にした。
    だが、その年の秋の深まりは、領主としての「優しさ」と「監視」の双方の目を欺く、恐ろしい事態を引き起こすことになる。


    第二章 忍び寄る飢饉

    その年の夏は凄まじい日照りが続き、川は干上がり、領内の穀物はおおむね全滅した。米の市場価格は高騰し、不純物混じりの金では買い付けられる米の量が大幅に減ってしまった。飢えの恐怖に直面した周辺の各国では、口減らしのために我が子を殺める行為が暗黙のうちに横行し始めていた。しかし、源三郎はそれだけは絶対に許さなかった。特に、未来ある子供の命を奪う身内があれば、厳罰に処すと厳しく取り締まっていたのである。

    「源三郎様、今年の紅葉は例年以上に見事なのは皮肉でございますな」
    左馬介の言葉に、源三郎は縁側から燃えるような山々を見つめ、寂しげに微笑んだ。 この美しい赤は、飢えと戦で消えた多くの命の色。そして、この美しさの裏で多くの命が飢えに震えている。 民から年貢を取らず、口減らしも許さず、難民すら黙認する。その優しさは源三郎の信念だったが、国境の峻烈な現実において、その理想はあまりにも重く、残酷な歪みを生み出そうとしていた。

    そんな折、里の赤子が夜陰に紛れて連れ去られるという、前代未聞の事件が発生した。

    その報が源三郎の元へと上がってきたのは、翌日のことだった。我が子を奪われた親は「不審な誰かが我が子を抱き上げたが、その顔を思い出そうとすると頭が真っ白になる」と怯えており、犯人の顔がどうしても思い出せないのだという。その不可解さから、領民たちはこれを「神隠し」と呼んで恐れた。

    源三郎は、金山の監視と同じように領内の治安維持のためにも警備に並々ならぬ力を入れており、彼の統治下ではこれまでただの1件も事件が起きていなかった。それだけに、今回の赤子連れ去りは一領の主として極めて重く受け止めるべき大事件であった。
    「必ず捕まえよ!」
    一刻の猶予もないと即座に決断した源三郎は、ただちに領内に異例の取り締まり強化を命じた。しかし、配下に任せるだけでは収まらず、自らが陣頭指揮を執って犯人探しを行った。
    そして、その日の夜、源三郎は自らも甲冑を崩して身に纏うと、信頼を置く老臣の左馬介と、僅かな手勢の馬廻衆を連れて夜警へと繰り出した。犯人の足跡を執念深く追い求めながら、領内で赤子がいる家、あるいは小さな子供のいる家を、一軒一軒抜かりなく回って警戒を呼びかけた。
    その途中、実際に赤子が連れ去られた被害に遭った家にも自ら足を運んだ。しかし、そこにいた両親は、我が子を失った絶望と正体不明の犯人への恐怖からか、ただガタガタと酷く体を震わせるばかりであった。「何も思い出せない、何もわからない」の一点張りで、まともに会話にすらならない異常な状態であった。
    それでも源三郎は夜回りの先頭に立ち、網を山際まで広げて捜索を続けた。

    捜索が続くうちに、夜の闇がいっそう深く静まり返る「冷え込む秋の丑三つ時」を迎えていた。
    源三郎たちがその時に訪れたのは、山際にひっそりと佇む一軒の猟師の家であった。その家は、つい先日10人目の子供が生まれたばかりの、子だくさんな家庭であった。
    しかし、源三郎と左馬介が警戒のためにその家に入ったとき、ある異変に気づく。家の中に、生まれたばかりのはずの「10人目の子供」の姿がどこにも見当たらなかったのである。土間に集まった上の子供たちは何かに怯えたように互いに身を寄せ合い、両親は尋常ではない様子でただ下を向いたまま、頑なに黙り込んでいる。
    張り詰めた空気の中、沈黙を破ったのは長男であった。彼はすでに立派な青年に成長し、父親の猟を日々手伝っている、頼りがいのある若者だった。その長男が震える声で言うには、つい先ほど、10人目の弟が何者かによって家から攫われたのだという。だが、長男は奇妙なことを口にした。「確かに奴を見たはずなのに、その顔が一向に思い出せないのです」と。

    その不可解な証言に全員が戦慄したその時、家の周りを捜索していた馬廻衆の、引き裂かれたような悲鳴が外から響き渡った。
    「何事だ!」 源三郎と左馬介は即座に刀の柄に手をかけ、急いで外に飛び出すと、声を頼りに家の裏庭へと回り込んだ。
    雲の切れ間から漏れる月明かりが、ぼんやりと裏庭の陰を照らし出していた。源三郎たちは、そこで「それ」を目撃したのである。
    異様に引き伸ばされた影。振り返ったその顔には、目も鼻も口もない。 日本の古き怪異「のっぺらぼう」である。顔が思い出せないというのも元から「思い出すべき顔」が存在しなかったのだ。
    「な、なんだこれは!?」
    数々の修羅場をくぐり抜けてきた北信濃最強の武士たちであったが、この世の者ならぬ悍ましさを前に、一瞬にして全身の血が凍りつくような衝撃を覚えた。ただの賊や敵兵であれば恐れることなく切り伏せる猛者たちだったが、のっぺらぼうが放つ異様な妖気に空間そのものが支配され、まるで金縛りに遭ったかのように身動きが取れなくなってしまったのである。
    「くっ、体が、動かん!」
    勇敢な馬廻衆は、恐怖に歯を食いしばりながらも必死に槍を構え、怪異に立ち向かおうとした。しかし、鉛のように重くなった四肢は言うことを聞かない。源三郎や左馬介もまた、刀を抜こうと柄を握る手に渾身の力を込めるが、呪縛されたかのように指先が硬直したままで、どうしても刀を鞘から引き抜くことができなかった。
    一触即発の対峙が続くかと思われたが、のっぺらぼうは彼らを襲うことはしなかった。ただ、悲しげにその巨体を震わせると、ずるずると這うような不気味な動きで、突如として背後の山道へ向かって逃げ出した。
    怪異が離れたことでようやく呪縛が解けた武士たちは、すぐさまその後を追った。しかし、呪縛の余韻で膝の震えが完全には収まらず、思うように足が前に出ない。誰もが焦りで足をもつれさせ、うまく走れずに遅れていく。
    その中で、源三郎だけが呼吸を荒げながら、恐怖と硬直を完全にねじ伏せた。一領の主として、民の赤子を救うという「領主の執念」だけが彼の身体を突き動かしていた。
    源三郎はもつれる脚を叱咤して食らいつくように後を追ったが、山道へ逃げ込んだのっぺらぼうの足は、まるで闇を駆ける獣のような凄まじいすばしこさであった。一瞬でも目を離せば、うっそうとした木々の合間に吸い込まれてしまう。源三郎は息を弾ませ、激しく打つ鼓動を感じながら、何度もその姿を見失いそうになりながらも、必死に闇の奥へと駆けていった。


    第三章 暴かれた真実

    獣のようなすばしこさで闇を駆けるのっぺらぼうを必死に追った源三郎だったが、うっそうと生い茂る木々の合間で、ついにその姿を完全に見失ってしまった。荒い息を吐きながらハッと辺りを見回したとき、彼はそこが、毎月のように金山へ向かう途中で立ち寄る、あの不動明王と地蔵菩薩を祀る慈救寺の境内であることに気がついた。

    源三郎は急ぎ本堂へと向かうと、固く閉ざされた寺の戸を激しく叩き、「和尚! 和尚はおらぬか!」と声をかけた。
    「はて、このような真夜中に一体何事で。おぉ、秋山様ではございませぬか!」
    突然の激しい物音に驚いて起きてきた和尚は、戸の向こうに立つ源三郎の姿を見るなり目を丸くした。源三郎から事の一部始終を聞かされた和尚は、ただ事ではないと顔をこわばらせ、共に境内を捜索することに同意した。むろん、信心深い和尚は、自分の預かる境内にのっぺらぼうのような怪異が逃げ込んできたなどとは、とても許せることではなかった。

    和尚が手に持った提灯の、揺れる仄暗い灯りだけを頼りに、二人は静まり返った境内を進んだ。昼間は見守るように佇む地蔵菩薩の石像も、夜の闇の中ではどこか物憂げに浮かび上がって見える。その前を静かに通過し、さらに奥の、あの大きなクヌギの木が生い茂る丘の近くまで来た時のことだった。
    「あそこに、誰かおりますな」
    和尚が提灯を掲げ、声を潜めて指さした。見れば、暗がりの向こうに、一人の女がこちらに背を向けてぽつんと立っている。
    源三郎はごくりと唾を飲み込み、腰の刀の柄に手をかけながら、遠巻きにその女に向かって鋭く声をかけた。
    「そこにいるのは誰だ! こんな夜更けに何用じゃ!」
    声をかけられた女は、拒むこともなく、すうっと音もなくこちらを振り向いた。 提灯の青白い光がその顔を捉えた瞬間、源三郎の身体に再び戦慄が走った。その腕に先ほどの赤子を抱いており、こちらを向いたその顔には、目も、鼻も、口も、何一つ存在しなかった。紛れもない、あののっぺらぼうであった。
    「ひっ!?」
    和尚の喉から、短い悲鳴が漏れた。
    のっぺらぼうの足元には、空間を埋め尽くすほどの落ち葉が、あのクヌギの巨木から降る生命の温もりのように敷き詰められている。
    ムジナのいた大きな穴の奥にも大量の落ち葉がふかふかの布団のように敷き詰められており、その中には昨日連れ去られた赤子が静かに眠っていた。多少の衰弱は見られたが傷一つなく、小さなムジナの子らが寄り添うように眠っていた。

    そこに、ようやく遅れて追いついてきたのは、左馬介と馬廻衆であった。彼らは抜いた刀を手に構えながらも、目の前の異形の姿に圧倒され、未だ恐怖で身体を硬直させていた。
    しかし、源三郎は違った。我が身の恐怖などとうに消え失せていた。怪異の腕の中に、先ほど連れ去られたばかりの無事な赤子の姿を、そして昨日連れされた赤子も発見できたことで、彼の心には一領の主としての使命感が激しく燃え上がった。ここで退くわけにはいかない、ますますこののっぺらぼうを放っておけないという強い思いが、彼を一歩前へと踏み出させた。
    源三郎は真っ直ぐに怪異を見据え、毅然とした態度で刀を突きつけた。
    「子供を、どうするつもりだ!?」
    その声は強く凛々しく、その化け物を退治しようとする強い意識を感じさせるものであり、のっぺらぼうを激しく責め立てるものであった。

    だが、向けられた鋭い敵意に、のっぺらぼうの、のっぺりとした顔の皮膚が引き裂かれるように中央から割れた。それは口の形を成し、女の声で血を吐くように鳴いた。
    「ちがう。私はこの子を、助けたいのだ」
    その悲痛な響きを持った声を聞いた瞬間、和尚の身体がびくりと震えた。 「あ、秋山様、この声、聞き覚えがございます。先日、この国に来る途中に飢えで死んでしまった我が子の亡骸を抱え、泣きながらわしの元へ供養に訪れた、あの難民の母親の声に間違いありませぬ!」
    和尚は驚愕と哀れみの混ざった表情で、震える声でその事実を源三郎へと伝えた。

    その言葉に、源三郎は息を呑んだ。姿も声も知らぬはずの母親だったが、この墓の主こそが、目の前の哀しい怪異の正体なのだと確信した。人を驚かせるために化けるというムジナの妖気が、我が子を失った母親の強烈な怨念と混ざり合い、この「顔のない怪異」を形作っていたのだろう。

    「口減らしを厳しく禁じたから、村の者たちは、見つからぬよう、闇に紛れて我が子を殺す計画を立てていた。 良心の呵責に耐えかねた一部の者が、夜な夜なこの寺の地蔵菩薩様に助けを求め、泣きながら口減らしの算段を話していくのを、私は聞いたのです。」

    割れた口から悲痛な事実が告げられた後、彼女はぽつりぽつりと、流民になる前の幸せだった頃の思い出から、どうして我が子が死ぬ羽目になったのかという過酷な経緯を話し出した。

    「私は、越中のとある穏やかな漁村で、漁師の娘として生まれました。そこは豊かな海に恵まれており、男たちが漁に出れば、いつも網から溢れんばかりの大漁でした。毎日、食べるものに困ることなどなく、ただ潮風に吹かれて平穏に暮らしていたのです。
    やがて年頃になった私は、ともに海を見て育った幼馴染の漁師の男と恋に落ち、夫婦になりました。まもなく私のお腹には新しい命が宿り、目のくりくりとした、本当に可愛い女の子が生まれたのです。あの頃は、貧しくとも、ただ家族三人で寄り添っているだけで幸せでした。
    しかし、そんなささやかな幸せは、容赦のない乱世の波に一瞬で呑み込まれました。時を同じくして、隣国である越後との戦さが激化し、私たちの村にもついに戦火が迫ってきたのです。燃え盛る村から逃げ出そうとしたその時、略奪を目的に押し寄せてきた凶暴な敵兵たちに見つかってしまいました。
    絶体絶命の危機の中で、夫は『早く逃げろ!』と叫び、自らが肉の盾となって敵の刃の前に立ちはだかりました。夫が命を賭して時間を稼いでくれたおかげで、私は娘を抱き、泣き叫びたいのを堪えて、どうにかその場を逃げ延びることができたのです」

    母親の割れた口から漏れる言葉は、涙の代わりに血を吐き出すかのような怨嗟と哀切に満ちていた。しかし、その逃避行の果てに待っていたのは、この国へたどり着く途中で、最愛の娘が命を落とすというあまりにも残酷な現実であった。そして、それはただの病死や、避けられぬ餓死などではなかった。それこそが、彼女が怨念の怪異となり、今回の事態を引き起こすに至った真の要因であった。

    「夫を失い、家を焼かれた私は、同じように逃げ延びた難民の集団に混ざり、険しい国境を越えて信濃へと向かう過酷な放浪の旅へと身を投じました。ですが、終わりなき放浪の過程で、集団全体の食糧を確保することは日に日に困難になっていったのです。
    私は極限の食糧難からみるみる痩せ細り、娘に与えるべき乳が全く出なくなってしまいました。集団から僅かに回ってくる貴重な米を、私は少しでも長く持たせるために薄い重湯にし、乳の代わりに娘の口へと運んで辛うじて命を繋いでいました。
    けれど、飢えが極限に達した時、ついに恐ろしい矛先が、まだ言葉も話せぬ私の赤子へと向けられたのです。
    『こんな赤子に重湯であっても米を回すのは勿体ない。どうせ死ぬ命だ、動ける大人の取り分に回すべきだ』
    誰の口からだったかは、もう分かりません。暗闇の中から、そんな恐ろしい声が上がったのです。それは、集団が生き残るための、私の娘に対する『事実上の口減らし』の宣告でした。それ以来、私たち親子には一粒の米すら回されなくなりました。
    まだほんの小さなか弱い命です。ほんの数日の間、食事を与えられなかっただけで、娘は泣く体力すら失い、やがて声もあげなくなりました。そしてある日の朝、私が目を覚まして娘を抱き上げた時には、あの子はすでに冷たくなっており、息をしていなかったのです。」

    怨念に震える女の声が、深夜の境内に冷たく響き渡る。さらにのっぺらぼうが話を続けたことで、彼女のあまりにも深い無念が、いかにしてこの異形を生み出すに至ったのか、その哀しいエピソードが明らかとなった。

    「あの時、和尚様に我が子の亡骸を託した後、私は魂が抜けた体のまま、難民たちが身を寄せる集落へと戻りました。ですが、事実上、我が子を口減らしで殺した彼らの、のうのうと生きている姿がどうしても許せなかった。もう、誰の顔も見たくなかったし、誰とも一言だって話したくはありませんでした。
    皆が生きるために貪り食う、炊き出しの米の匂いにも激しい嫌悪感を覚え、胸が狂いそうになった。私はただ一人、暗闇の中で、誰の顔も見ないように固く目を瞑り、誰とも話さぬよう固く口を閉ざし、生きるための息をする気力さえも失っていったのです。
    心を完全に閉ざし、見ることも、話すことも、呼吸することさえも拒絶した私の心身は、生きたまま、まさに目も鼻も口もない『のっぺらぼう』へと化していきました。
    それでも、あの子のことがどうしても忘れられず、しばらくして私は再びこの寺へと戻ってきたのです。そこで、和尚様があの子のために小さなお墓を作り、毎日丁寧に供養してくださっているのを見ました。その優しさに、私の乾ききった心から感激の涙が溢れ、止まりませんでした。あの子に寂しい思いをさせたくないと、お墓の傍らに美しい野花をそっと供えました。」

    生きたまま人間の心を捨て、我が子への狂おしいほどの愛着と怨念だけを遺して怪異となった彼女は、この領内で親たちが目を盗んで「口減らし」を行おうとしているのを地蔵菩薩の前で聞いた時、二度と同じ悲劇を繰り返させまいと動き出したのだ。彼女は親たちに殺される前に赤子を連れ去り、温かい落ち葉の褥で守ろうとしていたのである。

    「私は知っている、飢えと寒さで我が子を失うあの胸が引きちぎれるような痛みを。我が子と同じ目に遭わせたくなかった。 だから、殺される前に私が連れ去り、ここで温めて、守らなければならないのだ」
    哀しい決意が、夜の境内に響き渡る。

    源三郎の胸に、底知れぬ絶望と無力感が押し寄せた。
    毎月のようにこの山道を登って金山を巡回し、不審な点はないかと、領民を一人一人凝視して厳重な監視を行ってきた。口減らしを厳禁とし、理想的な統治を行っている自負さえあった。それなのに、自分の目が届かぬ裏側では、着実に我が子をあやめる口減らしの計画が進んでいたのだ。
    法で禁じ、取り締まりをいくら強化したところで、飢えという極限の現実の前では、領主としての命令など何の意味も持たなかった。民は生き延びるために、あらゆる手を使って、自らの手で我が子を殺めようとしていた。それが今回の「のっぺらぼう」という怪異によって暴かれたに過ぎない。
    痛烈なジレンマが、彼の心をズタズタに引き裂く。
    「いま、この化け物から子供を取り返し、親元へ返したところで、一体何になるというのだ」
    米が尽きかけている現状は変わらない。子供を村に戻せば、親たちは再び、源三郎の目を盗んで口減らしの計画を立て直すに違いない。それを力ずくで処罰を行えば、待っているのは、食い扶持が足りずに村が全滅するという未来だけだ。
    理想を追えば領民が全滅し、領民を生きながらえさせようとすれば子供たちが口減らしにあう。どちらを選んでも、待っているのは地獄だった。自分が敷いてきた統治のすべてが、机上の空論として瓦解していく現実を突きつけられ、ただ立ち尽くすしかなかった。

    「すまぬ、すまぬ!」
    源三郎はボロボロと涙を流しながら、がちがちと震える手で、抜いていた刀をゆっくりと鞘へと収めた。 この怪異を斬ったところで、自分の無能さが消えるわけではない。むしろ、民を救おうとしているこの死者の執念を、刀で否定することなど到底できなかった。

    「お前の言う通りだ。私は何も見えていなかった。私の独善がお前を苦しめ、民を追い詰めていたのだ。だが、どれだけお前が温めようと、冷たい土の上では、この子たちは本当に死んでしまう!」
    膝をつき、のっぺらぼうに向かって深く頭を下げ、拝むような、許しを乞うような姿勢のまま、血を吐き出すように叫んだ。

    「お前がこの子を守ろうとした優しさを、どうか私に引き継がせてくれ! 私は領主だ! 一領の財をすべて失おうとも、他国から法外な値を吹っかけられようとも、必ず米を買い戻し、誰も口減らしをしなくてよい未来をこの手で勝ち取ってくる! だから、信じてくれ! この子を、もう一度だけ人の世の、親の元へ返してくれ!」

    彼の涙ながらの訴えに、のっぺらぼうは動きを止めた。 引き裂かれた口が、寂しげに、しかしどこか安堵したように緩む。
    「お頼みいたします」
    確かにそう聞こえた気がした。 次の瞬間、月光に照らされた怪異の姿はさらさらと崩れ、大量の乾いた秋の落ち葉となって夜風に舞い散った。のっぺらぼうの身体が消えた。間もなく、小さなムジナの子らが寂しげに鳴きながら、穴から出て逃げていく。その先の丘に母親のムジナらしき姿があった。首を上げて源三郎を見ていたが、しばらくして子と共に林の中に消えていった。


    第四章 見えない城壁

    静寂が戻った境内で、源三郎は呆然と立ち尽くしながら、傍らに立つ和尚に問いかけた。
    「和尚、わしは、ムジナに化かされたのであろうか?」
    和尚は静かに首を振り、提灯の明かりで自らの足元を照らしながら答えた。
    「そうかもしれませんが、そうでないかもしれませんな」
    その言葉に、源三郎は小さく、しかし噛みしめるように呟いた。
    「確かに、わしは化かされたのではない。むしろ、領主として決して忘れてはならぬ、最も大切なことを教えられたのかもしれぬな」

    その間に、緊張の解けた馬廻衆たちが急いでのっぺらぼうのいた場所、そして、穴の中から赤子を抱き上げ、保護した。赤子は健やかに眠っていた。
    復讐の怪異が去ったと知るや、老臣の左馬介が怒りを滲ませながら源三郎の前に進み出た。
    「殿、事態は一刻を争います。口減らしを企てていた不届き者の親たちを即刻ひっ捕らえ、厳罰に処すべきです! そしてただちに領内の取り締まりをさらに強化し、二度とこのような悪巧みをさせぬよう目を光らせねばなりませぬ!」
    しかし、源三郎は静かに、だが断固とした口調でそれを遮った。

    「左馬介、それには及ばぬ」
    「な、なぜでございますか! 殿があれほど禁じた口減らしを密かに企んでいたのですよ!」
    「赤子は直ちに親元へ返してやるのじゃ。そして、決して彼らを責めてはならぬ。ただ取り締まりを厳しくし、赤子を返しただけでは、彼らの飢えが癒えぬ限り、また同じことが繰り返されるだけだ。親たちが我が子を殺そうなどと追いつめられたのは、彼らの不忠ではなく、わしの統治が至らず、彼らを飢えさせていたからに他ならぬ」

    源三郎は真っ直ぐに左馬介を見つめ、力強く命じた。
    「左馬介、今すぐ城へ戻り、蔵から米俵を運び出せ。そして、この赤子の家へと送り届けるのじゃ。領民が腹を満たし、安心して子供を育てられるようにすることこそが、今わしがなすべき『取り締まり』である」
    領主の「真の優しさ」に触れ、左馬介は深く頭を垂れた。

    寺の境内を後にした源三郎は、保護した子供たちを部下に任せておめおめと城へ戻るようなことはしなかった。子供は源三郎の手によって無事に親の元へと帰されたのである。彼は夜通しの疲労も見せず、一軒ずつ直々に領民の家を回っていった。

    まず向かったのは、初めに赤子が誘拐されたあの家であった。その家にたどり着く頃には、東の空が白み始め、夜闇がゆっくりと朝焼けの光へと移り変わっていた。
    馬廻が静かに戸を叩くと、中から母親が出てきた。我が子を失った絶望から、その目の下には濃いクマができ、表情は虚ろで、覇気のない返事をするのが精一杯という痛々しい様子であった。 源三郎は馬廻からそっと赤子を受け取ると、自らの両手で母親へと直接手渡した。腕の中に我が子の温もりを感じた途端、母親の顔に劇的な安堵の表情が広がった。
    それと同時に、奥から父親も姿を現した。しかし父親は、我が子との再会を喜ぶ一方で、ひどく不安げに怯えた様子を見せていた。口減らしをした筈の子が生きて帰ってきたことが村の者たちに知れ渡り、厳しく責め立てられ、村八分にされることを恐れていたのだろう。
    その心中を察した源三郎は、深く頭を下げて親たちに詫びた。
    「全てはわしのせいじゃ。面目次第もない。この赤子がこうして無事に帰ってきたとて、明日生きるためのコメに困る状況は変わらぬであろう。案ずるな、後ほど城から直々に米を届けさせる。これからは、この領内の者を誰一人として飢えさせるようなことはせん。わしを信じよ」
    予想だにしなかった領主の慈悲深い言葉と謝罪に、父親も母親も言葉を失い、その場に崩れ落ちるようにして平伏した。二人は地面に額を擦り付けながら、涙を流して何度も何度も感謝の意を表した。

    続いて向かった2軒目は、あの丑三つ時に訪れた子だくさんの大家族の家であった。
    今度は、馬廻がいくら戸を叩いても全く反応がない。辺りは静まり返っていたが、耳を澄ますと、家の中から衣のこすれる音や小さな物音がかすかに漏れ聞こえてきた。子供が多い分、全員で完全に息を潜めることが難しかったのであろう。彼らは明らかに居留守を使っていた。それもやはり、地蔵菩薩の前で口減らしの計画を立てていたことが領主に露見し、厳しい処罰を受けるのではないかと、恐怖で怯えきっていたからに違いなかった。
    家の中の親たちの怯えを悟った源三郎は、戸の外から、中へと届くように大きな声で語りかけた。
    「わしじゃ、領主の秋山源三郎繁氏じゃ。其方たちの子を、あの化け物から無事に取り戻してきたぞ。安心致せ、あの化け物はもう二度と現れぬ。口減らしを考えねばならぬほどに其方たちを追い詰めたのは、すべて領主であるわしの責任じゃ。其方たちは何も悪くない。さあ、早う、この子を抱いてやってはくれぬか」
    源三郎の温かくも凛とした声が響いた次の瞬間、サッと激しく扉が開き、中から母親が飛び出してきた。母親は源三郎の手から我が子をひったくるように抱きかかえると、その場にへたり込んで激しく泣き崩れた。
    源三郎は、ここでも一軒目と同じように、すぐさま城から米俵を届けること、そして今後も一領の主として飢えから皆を守り抜くことを力強く伝えた。猟師の父親は、その言葉を聞くと大勢の子供たちをその場に正座させ、自らも深く頭を下げた。源三郎は、彼らが企てていた口減らしの計画について、やはり一切責めることはしなかった。罪を憎んで人を憎まず、領民を飢えさせていた自らの不徳をただ省みるのみであった。

    その後、源三郎の命によってこの家を皮切りに、領内の困窮した家庭へと次々に十分な米俵が届けられた。さらに、城の備蓄米を放出して領内全体の大規模な炊き出しを行い、飢えに苦しむ全ての領民に手を差し伸べた。形だけの禁止令ではなく、命を繋ぐための真の救済措置を行ったことで、領内から「口減らし」の暗い影は完全に消え去ったのである。

    地獄のジレンマを打ち破るため、彼はあの夜の誓い通り、金山から採れる金をすべて使って、不足していた米を他国から買い付け、村全員に分け与えた。それは、一領の財政を傾けかねない、未来を切り売りするような捨て身の施策だったが、このことで村には活気が戻った。
    領民たちは口々に「さすが我が領主、秋山様だ。この飢饉でも一人も口減らしをせずに守ってくださった」と彼を神仏のように称えた。

    この慈悲深い名君の噂は、飢えに苦しむ周辺の国々へ瞬く間に広がり、領内には以前にも増して多くの難民が押し寄せるようになった。
    源三郎は、金山から採掘される金を惜しげもなくすべて米へと変え、それらの難民をも分け隔てなく救い続けた。それゆえに武器や防具の調達といった軍備そのものは一時的に疎かになったものの、彼に命を救われ、その大恩に報いようとする強固な意志を持った人々が全国から集まり、他国からの侵略があった際には、皆が進んで戦への参加を申し出てくれたのである。
    また、幸いにも源三郎の領地は険しい山間部に位置していた。この天然の急峻な地形こそが、いかなる巨大な人工の城郭よりも強固な盾となり、こちらから他国へ侵攻する戦でない限り、防衛の戦において負けることは決してなかった。この盤石な地理的優位性こそが、源三郎が軍備を削ってでも、金をすべて領民のための米に変えるという大胆な決断を下すことができた最大の理由でもあった。

    しかし、天の試練はまだ終わってはいなかった。 次の年もまた、容赦のない日照りが続いたのである。あまりにも雨が降らないため、山肌は乾ききり、木々も葉も実も満足に育たなかった。

    ある日、城の窓から枯れ果てていく山々を見上げていた左馬介は、ため息混じりに源三郎へ言った。
    「今年は流石に、美しい紅葉を期待するのは難しいですな」

    そんな折、あの事件で居留守を使って怯えていた大家族の猟師の父親と長男が「殿にぜひ報告したいことがある」と城を訪れ、源三郎への謁見を求めてきた。見れば、長男はすっかり逞しく立派に成長しており、父親の後を継げるほどの見事な猟師の腕前になっていることが一目で分かった。

    源三郎は彼らの前に出て話を促すと、父親が重い口を開いた。

    「殿、今年は度重なる日照りのせいで山の木の実が全く育たず、餌となる虫なども激減してしまいました。それゆえ、飢えた熊や鹿などの山の獣たちが、食べ物を求めて次々と里へ下りてきては、田畑の作物を食い荒らすようになってしまい村の者どもは皆、大変困り果てております。私と倅は、夜になると、獣たちを駆除するために村の周囲を巡回しております」

    そこから、長男が興奮と畏怖の入り混じった声で引き継いだ。

    「ある夜のことでした。いつものように夜の巡回をしておりますと、目の前の茂みでカサリと小さな動物が動く気配がしたのです。私はとっさに銃を構え、その影を狙おうといたしました。しかし、その刹那、父親が『待て!』と私の腕を強く制したのです。
    息を殺して近づいていくと、茂みの奥から、小さなムジナの子が2匹、私たちの顔をじっと見つめた後、さらに深い藪の中へと入っていきました。気になってその子らの後を追うように中へ踏み込んだ時、私たちは息を呑みました。そこに、一人の女が静かに立っていたのです。
    私たち親子は、かつて我が家で遭遇したあの姿を一度見ておりますから、すぐに分かりました。目も鼻も口もない、あの夜のっぺらぼうでございます。しかし、その姿に恐怖はございませんでした。その女は、割れた口からかすかな声でこう呟いたのです。
    『約束を、守ってくれた。領主様に、心からの御礼を、感謝を、伝えておくれ』
    そう言い残すと、女の姿は煙のように、すうっと掻き消えてしまいました。そして、怪異が消え去ったその足元に、あの2匹の子ムジナたちに守られるようにして、一匹の大きな母親のムジナの死体が、静かに横たわっていたのでございます。私たちはこのムジナこそが、あの哀しい母親の魂の依り代だったのだと確信し、こうして殿の元へお届けに参った次第です」
    親子が恭しく差し出した敷物の上には、息絶えた母親ムジナの亡骸があった。

    源三郎はその亡骸を見つめ、彼女の深い思いを重く受け止めた。 口減らしという人の業に翻弄され、化け物となってまで子供たちを救おうとした母親。そして、自分の約束を信じ、最期まで領民や子供たちを山から見守り続けてくれたことへの感謝の念が、源三郎の胸を熱く満たした。
    「よくぞ知らせてくれた。この者の思い、決して無駄にはせぬ」
    源三郎は親子に深く感謝すると、「この亡骸を、どこよりも丁重に葬ってやるのじゃ」と命じた。

    その後、左馬介はあの地蔵菩薩のある慈救寺へと向かい、かつてムジナの巣があったあの大きなクヌギの木のすぐ近くに、ひときわ立派な「ムジナの供養塔」を建立した。母親ムジナがその魂を安らかに眠らせた後、この地にはある変化が起きていた。実は難民の波の中には、一領の命脈である金山の金を盗み出そうとする、他国の不届きな間者や盗人たちも紛れ込んでいたのである。それにもかかわらず、実際に金山から金が盗まれることはただの一度もなかった。 というのも、間者たちの間で、ある不気味な噂が密かに囁かれていたからである。

    金山へ登る途中の慈救寺の付近には、難民風情の女がうずくまり、赤子を抱いて泣いていることがある。哀れに思って声をかけると、その顔には目も鼻も口もなく、のっぺらぼうの怪異が現れる。それを見た者は恐ろしい呪いにかかる、と。

    他国からこの豊かな信濃の領地を狙い、闇に紛れて山道を登ろうとする者たちは、みなその寺に潜むという「顔のない怪異」の噂に怯え、寺に近づくことさえできずに命からがら逃げ帰った。かつて我が子を亡くした母親の哀しい執念は、今や形を変え、源三郎の領地とそこに生きる子供たちを守る、決して破れぬ「見えない城壁」となっていたのである。

    それから季節が巡り、次の年を迎えると、長らく土地を苦しめていた日照りは一転し、待ち望んだ恵みの雨が大地へと戻ってきた。天の慈雨によって領内はもとより、全土が未曾有の豊作に沸き立った。各国の蔵には潤沢な米が積み上がり、食糧の不安が消え去った。

    しかし、この豊作は皮肉なことに、別の災いをもたらす環境を整えてしまう。兵糧米が十分に揃ったことで、各国はこれまで成し得なかった「大軍勢を長期間投入する大戦」を仕掛けることができるようになったのである。
    過酷な現実は容赦なく押し寄せ、ついに信濃の国は、隣国である甲斐国から大軍勢による凄惨な戦を仕掛けられることとなった。
    元来、源三郎の部隊は、本国で戦が起きた場合であっても、北の宿敵である越後の動きを牽制するという極めて重要な任務を負っていたため、容易に動かすことはできず、これまでは本戦への出陣を命じられることはなかった。しかし、今回押し寄せてきた甲斐国の軍勢はあまりにも巨大であり、事態を重く見た本国から、源三郎へついに「直ちに出陣せよ」との参戦命令が下ったのである。

    出陣の日の朝。源三郎は軍勢を率いる前に、かつてあの事件の舞台となった慈救寺を訪れた。本堂の不動明王の前に平伏し、厳かに戦勝を祈願した源三郎は、見送りにきた和尚の手を固く握った。
    「和尚、留守中の金山の監視、しかと頼み奉る」
    「しかと承りました。秋山様、どうかご武運を」
    和尚と固い約束を交わした源三郎は、境内をさらに奥へと進み、大きなクヌギの木の傍らにある「ムジナの供養塔」の前へと足を運んだ。静かに手を合わせようとしたその時、ガサゴソと落ち葉を揺らす音がして、茂みから2匹のムジナの兄弟が姿を現した。あの夜、のっぺらぼうの足元で寄り添っていた、あの子らであった。
    すっかり大きくなった兄弟は、源三郎の姿を見ても逃げるどころか、親しげにその足元へ寄ってきた。源三郎がそっと手を伸ばし、彼らの頭を優しく撫でてやると、嫌がる素振りもせず、おとなしく目を細めてその温もりを受け入れていた。その様子は、まるで「私たちはあの夜の恩を忘れていない」と伝えているかのようであった。

    そして、いよいよ出陣の刻限となった。 陣太鼓の音が響き渡り、秋山軍の軍勢が堂々と進軍を開始したその時、驚くべき光景が広がった。先ほど寺で見送ってくれたはずのムジナの兄弟が、行軍する軍勢のすぐ横を、並行するようにして一生懸命に走っていくのである。 馬上でその姿を認めた源三郎は、思わず目を見張り、それから深く感動して小さく呟いた。
    「お前たちもわしらに加勢してくれるというのか。かたじけない、ありがとうな」
    さらに、その軍勢の中には、あの猟師の家の長男の姿もあった。彼はこの数ヶ月でさらに逞しく成長し、今回は鉄砲隊の一員として参戦していたのである。父親譲りの類稀なる鉄砲の腕前が兵達の間で高く評価され、今回は若い身空でありながら、一隊を率いる「小隊長」へと大抜擢されていた。
    源三郎は自ら馬を歩ませて長男の前に進み出ると、直々に声をかけて激励した。
    「見事な出世ぶりだな。其方のその腕で、我が軍の背後をしかと守ってくれ。頼みにしておるぞ」
    「はっ! 殿にいただいたこの命、一歩も引かずに戦い抜く所存です!」
    小隊長となった長男は、誇らしげに胸を張り、力強く応えた。
    親たちの口減らしの計画を責めることなく、米を与えて命を救ってくれた源三郎のためなら、領民たちは喜んで盾となる覚悟があった。金をすべて米に変えたことで軍備の調達こそ遅れていたものの、源三郎の元に集まった兵たちの士気は、どの国の精鋭よりも高く燃え上がっていた。
    ムジナの兄弟も従え、領民たちの強い絆に支えられた源三郎の軍勢は、甲斐国の大軍勢が待ち受ける決戦の地へと向かって、堂々と突き進んでいく。


    第五章 千曲川の激闘

    千曲川の流域に広がる平原で、ついに信濃の大軍勢と甲斐の大軍勢が真っ向から衝突した。信濃国の各国の領主は千曲川の北から南の広域にわたり大規模に展開し、雁行の陣を敷いた。その陣形において源三郎の軍は流域の北側に布陣し、川を挟んで敵と対峙した。

    戦いの序盤、源三郎のもとに集まった士気の高い軍勢は、数に勝る敵軍を激しく圧倒していた。先鋒を務めたのは足軽と鉄砲隊の混成軍であり、あの小隊長に大抜擢された猟師の長男もその中に属していた。
    彼らは戦場で快進撃を続けていた。猟師として鍛え上げられた鉄砲の腕前を遺憾なく発揮し、まずは敵の先陣を切る騎馬部隊を精密な射撃で狙い撃つ。馬が撃たれて怯み、敵陣の足並みが乱れた一瞬の隙を見逃さず、足軽たちが一斉に襲いかかる。この見事な戦法が次々と功を奏し、敵の戦列を次々に破っていった。
    しかし、この快進撃の中に、恐ろしい落とし穴が潜んでいた。 源三郎の部隊は元来、険しい山岳戦を得意とする者たちであり、遮るもののないだだっ広い平野での大集団の戦は、あまり上手くなかったのである。
    さらに、鉄砲部隊の大半を占める猟師たちは、日頃から「獣」を撃つことに長けていた。そのため、彼らは無意識のうちに、戦場を駆ける敵軍の騎馬部隊の「馬」を正確に狙い撃ちしていたのである。
    武士の戦の作法において、馬を狙うことは卑劣な禁じ手とされていた。通常であれば、そんな不名誉な戦法を受ければ敵は怒り狂って強烈な反撃をしてくるはずであった。しかし、甲斐の軍勢は違った。彼らは激昂するどころか、不気味なほどスルスルと統率を保ったまま後退していく。
    快進撃に沸く先鋒部隊は、逃げる敵を討ち取ろうと、それに釣られるようにして敵陣の奥深くへと誘い込まれていった。
    本陣からその光景を見ていた左馬介は、冷や汗が背中を伝うのを感じ、ハッと気づいた。
    「これは罠だ。敵はわざと退いておる!深追いはするな! 引き返せ!」
    左馬介は声を限りに大声で叫んだが、戦場の轟音にかき消され、時すでに遅かった。
    次の瞬間、後退していた敵軍が瞬時に反転し、左右の平原からも伏兵が突如として姿を現した。源三郎の先鋒部隊は、本陣との間を完全に寸断され、あっという間に敵の大軍勢に挟み撃ちにされてしまったのである。
    四方から押し寄せる敵の圧倒的な数の前に、先鋒はひとたまりもなかった。包囲された部隊は激しい抵抗の末に全滅。源三郎から直々に激励を受け、あれほど誇らしげに胸を張っていたあの長男も、おそらく生きてはいないであろう凄惨な結末であった。

    「殿! 先鋒が、先鋒が全滅いたしました! 敵の包囲網がこちらへ迫っております!」
    血相を変えて報告に走ってきた左馬介は、源三郎の前に膝を突くと、悲痛な面持ちで叫んだ。
    「ここは平野、これ以上の抗戦は我が軍の壊滅を意味します! 私がしんがりを務めまする。殿は直ちに、お逃げください!」
    その言葉を聞いた源三郎は、己の不覚を呪うように固く拳を握りしめ、 「無念」 と、ただ一言、血を吐き出すかのように呟いた。
    しかし、一領の主として、これ以上生き残った兵たちの命を無駄に散らせるわけにはいかない。源三郎は鋭く前を見据えると、全軍に向けて退却の号令を発した。
    「全軍、退却! 後方の山へ退くのじゃ!」
    秋山軍が目指したのは、後方にそびえる小高い山であった。平原とは違い、うっそうと木々が生い茂るその山こそが、源三郎の部隊が最も得意とし、その真価を発揮できる地形であった。

    左馬介は、主君である源三郎が後方の山に向かって一目散に逃げる姿をその目で見届けると、覚悟を決めて反転し、迫り来る甲斐の大軍勢の前に勇敢に立ち塞がった。
    「殿の退路を開くのじゃ! 一歩も引くな!」
    左馬介の鋭い大号令のもと、残された殿部隊は一糸乱れぬ動きを見せた。まず、迫り来る敵の騎馬部隊に対し、一斉に鉄砲を放って足止めを食らわせる。激しい銃声とともに敵の先陣が倒れ、相手の勢いが確実に下がった瞬間を見計らい、左馬介らは深追いせず大きく後方へと退いた。
    敵が態勢を立て直して再び突撃してくると、左馬介はすかさず二発目の鉄砲を撃ち込ませる。そして、敵が怯んだ瞬間、今度は自軍をあらかじめ左右の二手に分かれさせてから、別々の方向へと退却させた。この老練な一進一退の戦術により、猛追してくる敵の軍勢をうまく分散させ、その進軍速度を著しく削ぐことに成功したのである。

    殿部隊にも凄まじい大きな犠牲が出た。次々と仲間が凶刃に倒れていく地獄絵図の中、左馬介は執念だけで戦線を維持し、源三郎たちが山へ逃げ込むための十分な時間を稼ぎ出した。
    「ここらが潮時か。殿、今追いつきまする!」
    役目を果たした左馬介は、血に染まった刀を握り締め、生き残った僅かな兵と共に猛然と源三郎の後を追い、山の入り口へと向かって馬を走らせた。

    しかし、山の入り口の林にたどり着いた左馬介を待ち受けていたのは、彼の想像を絶する最悪の事態であった。
    「殿ッ!?」
    左馬介の口から、悲痛な叫びが漏れた。そこには、甲冑を血に染めて冷たく横たわる、源三郎の遺体があったのだ。
    周囲で茫然自失のまま佇んでいた馬廻衆を、左馬介は激しく揺さぶり、何があったのかと問い詰めた。すると、涙を流す馬廻衆の一人が、震える声でことの一部始終を次のように話し出した。

    「山の入り口の林に差し掛かった時のことにございます。まさか、この場所に敵の伏兵が潜んでいようとは誰も思いませんでした。茂みから突如として数名の敵兵が躍り出て、不意を突かれた殿は槍で深く刺され、馬上から地面へと、仰向けにどさりと落ちてしまわれたのです。
    あまりの出来事に我らが動けぬ中、手柄を焦った敵兵がとどめを刺し、殿の首を撥ねようと刀を振り下ろしました。その瞬間、どこからともなくあの2匹のムジナの兄弟が飛び出してきて、殿の顔を守ろうと、そのお体に覆い被さったのです!
    敵兵は『邪魔だ、小汚い獣め!』と激昂し、刃を振るって2匹のムジナを無残に叩き切りました。そして、今度こそ殿の首を取ろうと顔を覗き込んだ、その瞬間でした。敵兵は突如、この世の者とは思えぬ恐怖の悲鳴をあげ、転がるようにして後ろへ飛び退いたのです。
    何事かと、後から続いた数人の敵兵も同じように首を取ろうと近づきましたが、誰も彼もが殿の顔を見た途端に『ひぃっ!』と叫び声をあげ、刀を放り出して蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていきました。
    敵が去り、我ら馬廻衆が恐る恐る殿の元へと駆け寄り、そのお顔を拝見したのですが、殿の頭部には、目も、鼻も、口も何一つ、ございませんでした。そこにあったのは、ただ滑らかな皮膚が広がる、あの『のっぺらぼう』の顔だったのです」

    馬廻衆の語るその信じがたい話を聞き、左馬介は息を呑んだ。
    かつて我が子を亡くした母親の哀しい執念。そして、源三郎への深い感謝。それらの思いが、生前に結んだ約束の通り、最悪の戦場で主君の「首」を敵の手から守り抜いたのだ。のっぺらぼうの思いは、敵を恐怖で退散させるための、最後の「見えない城壁」となって源三郎を包み込んでいた。

    左馬介は静かに膝を突き、ただ涙を流して深く頭を垂れるしかなかった。
    しかし、馬廻衆からそう告げられた左馬介が、覚悟を決めて恐る恐る主君の遺体に近づき、その顔を覗き込んだ時、そこにのっぺらぼうの怪異の姿は、もうなかった。
    光を失った源三郎の顔は、驚くほどに穏やかで、まるで大仕事を終えて深く眠りについているかのような、安らかな素顔に戻っていたのである。壮絶な戦場にあって、首を撥ねられることもなく、五体満足のままで故郷へ帰ることができる。それは、かつて源三郎に救われた母親の魂と、命を散らしたムジナの兄弟による、せめてもの最後の恩返しであったのかもしれなかった。
    「殿、お労しや。さあ、我が城へ帰りましょうぞ」
    左馬介は涙を拭い、主君の遺体をしっかりと抱き抱えて馬に乗せると、生き残った兵たちを率いて、住み慣れた城に向かって静かに全軍退却の途についた。

    こうして、かつて北信濃最強と言われた領主の最期は、あまりにも儚いものであった。しかし、源三郎の遺体は決して敵に汚されることなく、静かに故郷へと帰り着いたのである。


    第六章 落ち葉の褥

    源三郎の葬儀は、過酷な国境を守り抜いた偉大な領主として、厳かに、そして盛大に執り行われた。
    彼の亡骸は、あの慈救寺の格式ある本堂の裏手、歴代の領主や秋山一族が眠る立派な墓所に、丁重に埋葬されることとなった。その場所は、少し離れた静かな山裾の端にある、あの難民の赤子の粗末な墓をそっと見下ろすことのできる、景色の良い小高い場所であった。生前、身分の隔てなく命を慈しんだ源三郎にふさわしい、静かな終の棲家であった。
    また、源三郎の身代わりとなって命を散らしたあの2匹のムジナの兄弟も、和尚の手によって、あのクヌギの木の傍らにある「ムジナの供養塔」へ優しく一緒に埋葬された。

    冷たい国境の秋風が、新しく建てられたばかりの、源三郎の立派な墓標を包み込むようにして寂しげに吹き抜けていく。
    主を失い、静まり返った寺の境内にも。 格式ある立派な一族の墓所にも。 そして、少し離れた山裾の、小さな赤子の墓石の周りにも。
    境内にそびえるクヌギの巨木は、まるで全てを等しく慈しむかのように、静かに、カサカサと音を立てて、大量の温かい落ち葉を同じように、同じように、深く降り積もらせていくのであった。

    それから、気の遠くなるような長い年月が流れた。
    今はもう、あの激動の戦国時代を物語るものは何も残っていない。
    かつて数々の難民や死者を迎え、源三郎が毎月のように足を運んだ慈救寺は跡形もなく朽ち果て、時の流れの中に埋もれてしまった。
    本堂の裏手にあった格式高き歴代領主の墓所も、山裾の端にひっそりと佇んでいた難民の赤子の墓も、今では等しく激しく荒らされ、すっかり土に還ってその正確な形を知ることもできない。身分の違いも、かつての悲劇も、すべてはただの平坦な草むらへと姿を変えてしまっている。
    しかし、あの山道の脇に毅然と立っていた大きなクヌギの木だけは、今も変わらず同じ場所に残り、青空に向かって枝を広げている。
    秋になり、冷たい国境の風が吹き始めると、クヌギの木からは今も黄金色の落ち葉がさらさらと舞い落ち、静かに地面を覆い尽くしていく。そして、一面に敷き詰められたふかふかの落ち葉の中にこぼれ落ちる木の実を食べに、毎年、どこからともなくムジナの親子が姿を現すのだという。
    それはまるで、かつてこの地を救おうとした優しい領主と、我が子を守ろうとした母親の魂が、今も形を変えて、温かい「落ち葉の褥」の中で寄り添い続けているかのようであった。
    (完)

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    #創作大賞2026 #ホラー小説部門

     
     

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