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心の病をなかったことにした国。それでも守られた「カルテ」

    皆さん、こんばんは。

    今日は終戦記念日ですね。

    そこで、「戦争と心」について、日本で実際にあったことを調べてみました。

    私自身も、精神疾患を抱えながら日々生きている身です。
    戦時中に起きた精神疾患にまつわるエピソードは、他人事とは思えません。
    過去を忘れず、未来につなげるために、記事にします。

    少しだけお付き合いいただければ嬉しいです。


    「戦争神経症」という言葉を、聞いたことはありますか。

    私は、今回調べるまで、具体的にどういうものか、ぼんやりしていました。

    戦争神経症とは、主に戦争のため従軍した方が起こす神経症で、外傷はなくても、手足の震え、まひといった神経症状が起こるもののようです。

    今で言うPTSD(トラウマ)に近い概念でした。

    でも、戦時中の日本には存在しなかったんですよ。

    1938年、日本の陸軍省の幹部が、こんな趣旨の発言をしたそうです。

    世界戦争で欧米軍で多発した戦争神経症は、幸いにして一名も発生していないことは、国民の士気が旺盛であることを如実に示すもの

    Yahoo! JAPAN「未来に残す 戦争の記憶」
    https://wararchive.yahoo.co.jp/wararchive/mai5.html

    日本軍には戦争神経症の兵士は一人もいない、として誇ったんですね。

    ところが実際には、

    国府台陸軍病院では終戦までの約7年間に約1万人の兵士らが精神疾患になって入院し、治療を受けた。

    東京新聞デジタル
    https://www.tokyo-np.co.jp/article/422272

    戦争神経症とされた診断名の患者は1372人(17%)に上る。『臓躁(ぞうそう)病(ヒステリー)』『神経衰弱』などの診断名で、現在のPTSDも含まれると考えられている。

    Yahoo! JAPAN「未来に残す 戦争の記憶」
    https://wararchive.yahoo.co.jp/wararchive/mai5.html

    「一名も発生していない」と公言された人たちが、少なくとも、1000人以上いた。

    国府台陸軍病院のカルテには、兵士本人の言葉が残されているそうです。

    参考にした記事には、命令で、子どもを含めた民間人を殺傷した際の記憶が夜ごと蘇って眠れない、という生々しい告白が書かれていました。他にも、

    廊下などで誰かに殴られそうな気がしてそっとよけて歩く

    国府台陸軍病院のカルテ
    Yahoo! JAPAN「未来に残す 戦争の記憶」
    https://wararchive.yahoo.co.jp/wararchive/mai5.html

    戦場での体験によって、院内の廊下を歩くだけでも暴力の危険を感じてしまうほど、心が傷ついていた様子がうかがえます。

    兵士たちは占領地で人の命を奪いました。
    命令されたとはいえ、これは明らかな虐殺であって、加害行為です。

    でも同時に、それを命じた国との関係では、被害の側にいたと言えるのかもしれません。

    単純に白黒で分けられない、難しいものですね。
    「人を傷つけてはならない」という、絶対的に思える原則すら怪しくなるなんて。

    ところで、国は「戦争神経症患者は一名も発生していない」と言い、実際にはいた。食い違いは、どこから生まれたのでしょうか。

    なぜ「いない」ことにされたのか

    実は戦前、心の病は個人の問題とみなされていたそうです。

    現代でもまだそうした誤解があるぐらいですから、戦前がどうだったのかは、想像に難くありません。

    戦前は、個人の問題と見なされた。病気と偽る『詐病』を見つけることが軍医の重要な仕事だった

    Yahoo! JAPAN「未来に残す 戦争の記憶」
    https://wararchive.yahoo.co.jp/wararchive/mai5.html

    第二に、軍事精神医療の対象となった少数のケースに目を転じてみても、軍医たちは戦争神経症の原因が戦場・兵営の暴力性ではなく、恩給や兵役免除に対する願望という患者個人の逸脱性であると解釈し、戦争神経症の解釈の枠組みそのものが戦争神経症を不可視化する構造を有していた。

    日本看護協会出版会「教養と看護」
    中村江里氏「不可視化されたトラウマ」
    https://jnapcdc.com/LA/nakamura/

    つまり、「戦争という暴力的な環境に問題があるのではなく、恩給が欲しいとか、兵役免除が欲しいためにナンクセつけてるんだろう」と判断した、ということですね。

    病気を「本人の弱さ」とみなす傾向は、ここから生まれたようです。

    判断を後押ししたのは、不平等な制度。

    傷病が公務、つまり戦争によるものであればカルテに「一等症」と記載され、除隊後に恩給が受けられる。一方、公務によるものでないと判断されれば「二等症」とされ、一時金しか支払われなかった。
    (中略)
    戦争神経症のうち最も数の多い「臓躁病」の兵士では、86・9%が「二等症」と判定されていた。「一等症」と判定されたのは11・8%で、上位階級の者が多かった。

    Yahoo! JAPAN「未来に残す 戦争の記憶」
    https://wararchive.yahoo.co.jp/wararchive/mai5.html

    つまり、戦争神経症と診断された兵士のその後の処遇は、「一等症」か「二等症」かで大きく分かれました。

    その上、実際に現場にいたであろう下級兵士のほとんどが「二等症」で、上位階級の者が「一等症」とみなされるというのは、どうも身分による差別があったのではないかという想像をかきたてます。

    心を病んだ下級の兵士は、病気が公務によるものとすら、認められていなかったのです。

    さらに、

    精神疾患になることは「国賊」であるというのが多くの患者の自己認識であった。

    日本看護協会出版会「教養と看護」
    中村江里氏「不可視化されたトラウマ」
    https://jnapcdc.com/LA/nakamura/

    恐怖を訴える症状は、強靭さを求められた当時の男性のジェンダー規範にも反するものだった。

    『戦争とトラウマ 不可視化された日本兵の戦争神経症』(吉川弘文館、2018年)という本を書かれた社会学者の中村さんは、インタビューでこう話しています。

    上官の命令で罪のない中国の市民を殺してしまったり、加害行為を拒んで顔が変形するほど上官から殴られたりした体験を語る患者もいました。加えて、暴力に耐えて当然という抑圧的な軍隊の構造があります。精神疾患は本人の弱さが原因とみなされ、さげすまれ、なきものにされました。

    中村さんインタビュー
    中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター
    https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=109283

    なんという現実でしょうか。

    戦争で人を殺傷する兵士は、残酷にならなければならない。
    残酷さを拒むことも、残酷さに耐えられないことも、弱さであり、罪だった。

    「弱さのせい」にされた裏には、戦争のために不都合な事実からは目を背けようという、合理的な軍部の判断があったのかもしれません。

    それが、心を病んだ兵士たちの存在を見えなくしていたのです。

    そしてこの時作られた「心の病は弱さだ」という、「使う側」にとって都合の良い幻想は、現代を生きる私たちの間にも、根深く残っていると思いませんか?

    「個人の問題でしょ」
    「そんなことにも耐えられないあなたの弱さでしょ」

    深刻さの度合いには差があるかもしれませんが、過酷な勤務で心を病んでも、労災扱いにならず訴訟も難しい今の日本に思いを馳せました。

    カルテの焼却命令。守った人たち

    その上、終戦のとき、「戦争によって心を病んだ人たちがいた」という記録は焼かれかけたそうです。

    実際に、焼かれてしまった記録もあったとか。

    中村江里・広島大准教授は新潟県にあった新発田陸軍病院の患者の病床日誌(カルテ)も分析している。一部は「昭和二十年八月十六日焼却セリ」と記載され、軍命令で焼却されたものがあったとみられる=中村准教授提供

    Yahoo! JAPAN「未来に残す 戦争の記憶」
    https://wararchive.yahoo.co.jp/wararchive/mai5.html

    国府台陸軍病院では終戦までの約7年間に約1万人の兵士らが精神疾患になって入院し、治療を受けた。戦後間もなく軍からカルテの焼却を命じられたが、当時の医師たちはドラム缶に詰め込み、土の中に埋めて守ったとされる。
    (中略)
    このカルテは1951年に掘り出され、下総精神医療センター(千葉市)に保管された。

    東京新聞デジタル
    https://www.tokyo-np.co.jp/article/422272

    国府台陸軍病院でも、軍からカルテの焼却を命じられましたが、当時の医師たちは命令に従いませんでした。記録を守り通したのです。

    命令に従わずに、人の痛みの記憶を残そうとした人たちも、いたんですね。

    その後の保存にも、尽力した人がいました。

    浅井氏は1970年代から「貴重な資料を何らかの形で残して伝えていきたい」との思いで、カルテの整理に着手。残されていた計8002人分の原本をトラックで1時間ほど離れた自院に運んではコピーして製本し、データをコンピューターに打ち込んだ。専属の事務員も雇って4〜5人で作業に励み、15年余りを費やした。

    東京新聞デジタル
    https://www.tokyo-np.co.jp/article/422272

    私たちがこの記録を今読めるのは、焼かずに守ろうとしてくれた人たちがいたからなのですね。

    戦争という、悲惨で人間性を奪うような出来事の中でも、誰かの心の痛みを、危険を冒して守ろうとしてくれた人がいた。

    彼らが守ってくれたのは、カルテだけではありません。
    「悲惨な現実の中でも、正しくあろうとする心」そのものだったという気がします。

    戦争の向かう先と、平和への願い

    ここまで読んで、皆さんはどう思われましたか?

    私は本当に、本当に嫌だなと思うと共に、怖くなりました。

    私がもし戦時中に生まれていたら、どうなったでしょうか……。

    もちろん男性であっても、兵士としては難しいでしょう。

    私が抱えている双極性障害は、うつ状態と躁状態を不定期に繰り返すような性質があります。

    ある日寝ていて起き上がれず、ある日やたらと元気で自分の行動を制御できない可能性がある人に、武器を持たせて戦わせるなんて不安すぎます。

    そこで、細々と生きていくしかありません。でも戦況が悪化すれば、また「心の病は弱さのせいだ」「怠惰な詐病だ」「国のための資源を浪費する国賊だ」といった言説が膨れ上がり、肩身が狭くなる。

    そして戦争に直接関係しない医療は、順番に削られていくのではないでしょうか。私の飲んでいる薬だって、製造が中止されたり、入って来なくなったりするかもしれない。まして私はひきこもりなので、いざという時に逃げることも難しい。

    戦争をする、ということは、痛んだところや弱いところからどんどん切り捨てていき、存在すら認められなくなるということなんですね。

    私は、戦争になれば、真っ先に「なかったこと」にされる側です。
    戦争中の世界に、私の居場所はないのだと思います。

    だからこそ、これは昔の出来事として、他人事にはできませんでした。

    今も世界では、戦争は続いています。そこでも同じように、士気を維持するために、無かったことにされた痛みはあるのでしょう。

    居場所がなく、倒れていった人たちも、たくさんいたはず。
    名前も顔も知らないけれど、そういう方達の痛みに思いを馳せました。

    改めて、私は二度と日本に戦争をしてほしくないし、巻き込まれるような事態にもなってほしくありません。日本の外で、自分自身が関わらないとしても、それを肯定することもできません。

    痛みが痛みとして認められず、存在すらなかったことにされるような世界。

    私が今いとおしく思うようなささやかな幸せも、それを大切に日々を生きている人々の笑顔も、9割は消え去ってしまいます。

    それが地獄ではなくて、なんなのだろう。

    終戦記念日の今日、改めて平和を願います。
    私たちの優しい日常が、いつまでも続きますように。

    最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


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