
【主観と客観の起源】西洋数学/物理学発展の足枷となってきた「キリスト教倫理」について。
日本語に翻訳する過程で曖昧さが混入するので、欧米哲学の出発点となる古典的論理学は日本人にとってあまり有効な思考ツールとはいえません。
古典論理の基本
古典論理(classical logic)は形式論理の部類で、最も研究され最も広く使われている論理である。標準論理(standard logic)とも呼ばれる。
特徴
以下に示す性質が特徴である:
●排中律の採用及び、二重否定の除去;
●無矛盾律と、矛盾からはいかなることも導ける(Principle of explosion)とすること;
●帰結関係(論理的帰結)の単調性(Monotonicity of entailment)と帰結関係の冪等性(Idempotency of entailment);
●論理積の交換法則(en:Commutativity of conjunction);ド・モルガンの双対性: 全ての論理演算子はどれか他の演算子の双対である;
以上の諸条件からは、古典論理は命題論理と一階論理に必ずしも限られないが、普通はそれらに議論を限定する。
アリストテレスのオルガノンは、彼の三段論法の理論を示しており、その論理は判定(judgment)の形が制限されている: そこではp(前件)とq(後件)の関係の表明(assertion)が以下の4種類のどれかの形をとる。
A(All p are q=全称肯定)命題;すべてのpはqである。
E(No p are q=全称否定)命題;すべてのpはqではない。
I(Some p are q=特称肯定)命題;或るpはqである。
O(Some p are not q=特称否定)命題;或るpはqではない。
* A命題とI命題はラテン語の肯定AffIrno、E命題とO命題はラテン語の否定nEgOから取ったもの。
これらの判定において、双対な2つの演算子のペア2つがあり、それぞれの演算子がもうひとつの否定であるという関係がなりたつ。これがアリストテレスが彼のSquare of oppositionでまとめた関係である。アリストテレスは彼の系の正当化において、それらの法則が三段論法的フレームワークの範囲内の判定で表現できないにもかかわらず、排中律と無矛盾律を明示的に定式化した。
「同一律(law of identity)」…「AはAである(A=A)」すなわち、すべての事物(命題)はそれ自身と同一であり、他の事物(命題)とは異なる。
「排中律(Law of excluded middle)」…任意の命題 P に対し「P であるか、または P でない」という命題が常に成り立つ()。
「無矛盾律(Law of contradiction)」…ある事物について同じ観点でかつ同時に、それを肯定しつつ否定することはできない()。
おや?何処かで同一律(law of identity)「AはB(A=B)」に論理的帰結(logical consequence, entailment)「AならばB()」が混じってきますね。例えば「枕草子」の有名な章句もどちらかというと後者。
春はあけぼの(曙)…春は明け方に一番趣がある!
夏は夜…夏は夜に一番趣がある!
秋は夕暮れ…秋は夕暮れに一番趣がある!
冬はつとめて(夙めて)…冬は早朝に一番趣がある!
そしてどうやら後者は機械学習アルゴリズムにおける「特徴抽出(Feature Extraction)」すなわち「対象を最も良く代表する特徴を検出する作業」に対応する様だ?
教師あり学習や統計モデルにおける前処理の一つで、元の学習データから有用な情報を抽出する次元削減の一種である。各入力は元の学習データよりコンパクトな特徴量で構成される。特徴抽出では関連性の高い情報に絞ったデータを入力することで学習モデルの予測精度と意思決定アルゴリズムの性能を大幅に向上し得る。
それでは「論理的帰結」とは?
論理的帰結(logical consequence, entailment=伴意)は、論理学における最も基本的な概念であり、複数の文(または命題)の集合と1つの文(命題)の間が「~だから、当然~」という繋がり方をする関係を指す。例えば、「カーミットは緑色だ」という文は、「全てのカエルは緑色だ」と「カーミットはカエルだ」の論理的帰結である。そのような論理的帰結の確かさは、前提が真かどうか、および完全かどうかに依存する。
なるほど、つまり「可換=AがBならBはA(A=B⊨B=A)」なのが「同一律の範囲」で、「可換とは限らない=AがBならBはAであるかBはAでない()」なのが「論理的帰結の範囲」。ベン図上では後者は「A=B(B=A)となる特徴量の範囲について、さらに特徴量Cを想定するとA=B=Cとなる範囲とA=B(となる範囲が排他的に峻別される)」状況に対応します。

「命題論理における論理的帰結」と「機械学習理論における特徴抽出」は、一見すると異なる分野ですが、どちらも 情報の関係性を明示化し、推論や予測の基盤を整える という点で共通点を持っています。ただし、その方法や前提は大きく異なります。
1. 命題論理における論理的帰結定義:
ある命題の集合 Γ から命題 φ が「必然的に導かれる」ことを指します。
記号で書けば Γ ⊨ φ。
性質:
形式的であり、真理値(真/偽)のみを扱う。
推論規則(例:モーダスポネンス)に基づき、前提が真であれば結論も必ず真になる。
知識が完全に与えられているという前提に立つ。
2. 機械学習における特徴抽出定義:
データから学習に有用な情報(特徴量)を取り出す過程。
性質:
経験的であり、統計的なパターンや分布に依拠する。
完全な真偽の推論ではなく、予測の精度を高めるための近似的・確率的な表現を重視。
データが不完全でも、確率的に有効な特徴を見つけ出す。
3. 共通点抽象化の働き:
論理的帰結 → 前提から本質的に導かれる命題を抽出
特徴抽出 → データから本質的に予測に寄与する要素を抽出
構造の明示化:
論理的帰結 → 命題間の必然的な関係を構造化
特徴抽出 → データ空間に潜む相関やパターンを構造化
推論や予測の基盤:
両者とも、その後の推論(論理推論 or 学習モデルの予測)のために不可欠な前処理・基盤を担う。

まとめ共通点: どちらも「大量の情報から本質を抽出して、次の推論・予測に役立てる」という点で同じ。
相違点: 論理的帰結は 形式的・演繹的 で、特徴抽出は 統計的・帰納的。
モーダスポネンス(羅: modus ponens=MP)とは、論理学における妥当で単純な「論証」である。ラテン語で「肯定によって肯定する様式」の意。前件肯定(affirming the antecedent)または分離規則(the law of detachment)とも呼ぶ。
推論の最も典型的な形式であり、一般に次のような形式である。
P ならば Q である。
P である。
従って、Q である。
論理演算の記法では次のようになる。ここで、⊢は論理的帰結関係を表す。
いずれも前提条件が2つ存在する。第一の条件は条件文または論理包含演算であり、Q が P を包含することを示す。第二の条件は P であり、第一の条件の条件部分が真であることを主張している。これら2つの前提から論理的に Q が真であることが導かれる。
以下にモーダスポネンス(MP)的な文章の例を示す。
●今日が火曜日なら、私は働きに行く。
●今日は火曜日だ。
●だから、私は働きに行く。
この論述は正しい。しかしそのことは論述に含まれる命題の各々が正しいかどうか(真であるかどうか)とは無関係である。モーダスポネンスとして「健全」な論述は、その結論が真となるいかなる状況に於ても、全ての前提が真であるべきである。論述が正しくとも前提の一部が真でない場合には「不健全」となり得るのであり、論述が正しくかつ全ての前提が真の場合には「健全」である。ほとんどの論理体系でモーダスポネンスが採用されている。
●論証がモーダスポネンスで、その前提が真なら、その論証は健全(Sound)である。
●前提は真である。
●従って、その論証は健全である。
命題論理では、モーダスポネンスが推論規則とされている。
要するに「大量の情報から本質を抽出して、次の推論・予測に役立てる」抽象化作業において「演繹的思考法」と「帰納的思考法」の結果が重ならないなら、その範囲の推論に重要な影響を与える「第3の代表的特徴」を見逃しているという話に?
演繹(えんえき)的とは、一般論やルールを具体的な事象に当てはめて結論を導き出す思考法です。帰納(きのう)的とは、個別の具体的な事例や事実の共通点から一般的な法則や結論を見出す思考法で、演繹的とは逆の流れをたどります。演繹法は前提が正しければ結論も正しいと言い切れるのに対し、帰納法は前提が正しくても結論が正しいとは限らない不確実性があります。
演繹的(えんえきてき)考え方:
一般的な原理や法則から、個別の具体的な結論を導き出します。
特徴:
前提が正しければ、結論も正しいと言い切れます。
結論の確実性が高いです。
例:すべての人間は死ぬ(一般論)。ソクラテスは人間である(個別的事実)。ゆえに、ソクラテスは死ぬ(結論)。
活用場面:
アイデアや提案の妥当性を証明する際などに有効です。
帰納的(きのうてき)考え方:
複数の具体的な事例やデータから、共通点を見出し、一般的な法則や仮説を導き出します。
特徴:
個別の前提が正しくても、結論は正しいとは限りません(不確かさがある)。
新しい知識や理論を得るのに役立ちます。
例:今日空が落ちた、明日も空が落ちるかもしれないと予測する。
活用場面:
データ分析や統計をとる際、または仮説を立てる際に役立ちます。
違いと使い分け流れ:
演繹法は「一般から個別へ」、帰納法は「個別から一般へ」と、思考の方向性が逆です。
結論の確実性:
演繹法は結論の確実性が高いのに対し、帰納法は結論に不確かさが伴います。
使い分け:
状況に応じて、どちらのアプローチで思考を進めるか、または両方を組み合わせて使うかが重要です。例えば、帰納法で一般的な方針を考え、演繹法でその方針に沿った具体的なアクションプランを示す、といった使い方が考えられます。
健全でない、不健康な、しっかり造られていない、ぐらぐらした、根拠の薄弱な、不合理な、ごまかしの、(経済的に)不安定な、信用できない
一般に「命題論理(Propositional Logic)」という奴ですね。昔学校で一通り習った記憶がありますが、難し過ぎて全然頭に入らず、結局全部忘れてしまいました。改めて読み返して引っ掛かったのが「爆発律(Principle of explosion)」についての説明。
「爆発律(Principle of explosion)」…矛盾から任意の命題が証明できる→真偽の概念がもはや無意味なものとなってしまう()。ここで⊢は論理的帰結関係を意味する。言葉で表すならば、「AかつAでないならば、Bである」という意味であり、このBが任意である事から全てが自明となる。
爆発律の一例として、「全てのレモンは黄色である」と「全てのレモンが黄色であるわけではない」という矛盾する二つの文を考え、その両方が真であると仮定する。すると、例えば「ユニコーンは実在する」という命題は、以下のような論法によって証明される:
1.仮定より、全てのレモンが黄色であるわけではない。
2.仮定より、全てのレモンは黄色である。
3.よって、「全てのレモンは黄色である または ユニコーンは実在する」という文も真である。なぜならば、この文の前半部分(「全てのレモンは黄色である」)は、既に仮定されているからである。
4.しかし、「全てのレモンが黄色であるわけではない」という文も(仮定より)また真であるから、3の文の前半部分は偽である。したがって、3の文全体が真であるとすれば、文の後半部分が真でなくてはならない。つまり、ユニコーンは実在する(このような推論は選言三段論法として知られている)。
5.同様の手順により、ユニコーンが実在しないことも証明できる(よって、「ユニコーンは実在すると同時に実在しない」という矛盾も導かれる)。これは、任意の論理式に対して適用できるため、真であるような命題が爆発的に増加する。
爆発律がもたらす問題への別のアプローチとして、矛盾許容論理と呼ばれる別種の論理を考案した数学者もいる。これは、他の(全ての)文の真理値に影響を与えることなく、いくつかの矛盾する命題を証明できるようにするものである。
違和感を覚えたのは、私が普段、以下の様な確率論で考えてるから。

排中立が擬似的に成立している様に見えるのは「ハンマーで潰して変形させてしまった」「飼い犬が飲み込んでしまった」といった「とりあえずここでは考えない選択肢」の出現確率全てを0と見積もると規約しているからに過ぎない。ただ「ここでは想定しない」だけで「王子が突如舞踏会に乗り込んできたガラスの靴の美女に一目惚れしてしまい、それまでの政略結婚計画が全て御破算になった」「iPhone登場によって携帯電話市場にゲームチェンジが発生した」といったパラダイムシフト自体はいつ起こっても不思議でなく、事前にそれに備える事も出来ないのである。
なおこの様に「(確率の総計を1と見積もる為に)最外縁の補集合を空集合として切り捨てる」アプローチを「閉世界仮説(Closed world assumption)の導入」と呼ぶ。
「抽出した各評価次元を被覆する区間塊[A,B)(B≧A)集合の全てにおいて、全ての区間塊の下限が一つ下の区間塊の上限と重なる」ルベーグ可測条件の導入もまた閉世界仮説を成立させる手段の一つ。
上掲の様な場合を想定しなくても「同時に沢山投げたコインのうち何枚を集計するか」で出現確率はどんどん変化していく(ベイズ更新が発生し続ける)。そうした確率分布の遷移を表現するのが二項分布やβ分布。
二項分布(Binomial Distribution)
ただし



$${Beta(ϕ|α,β)=\frac{Γ(α+β)}{Γ(α)Γ(β)}ϕ^{α−1}(1−ϕ)^{β−1}}(α>0,β>0)$$
ただしガンマ関数

この様に統計学や機械学習アルゴリズム、というより「単語のトークン化によって構成されるベクトル集合の出現頻度や同時出現確率から座標系を構築する」自然言語処理(NLP=Natural Language Processing)の世界には「(全てが連続確率分布で表されるので)排中律が成立しない」ばかりか「ラッセルのパラドックス」すなわち「分類(カテゴリー)集合は、その分類そのものを集合に含める事が出来ない(犬の品種の集合は「犬の概念そのもの」を分類に含められない)」も存在しない。あるのはただ「前回までに抽出された特徴による分類」への「今回抽出された特徴による分類」の適用と、その交差エントロピー誤差を縮める方向に向けてのベイズ更新的作業のみというシンプルさ。
もしかして古典論理学って「ベン図(集合論)」で考えると次々にボロが?
【実例1】「AはBである」「BはCである」「よってAはCである」は三段論法として成立する。
上掲の「モーダスポネンスにおいて健全(Sound)」な場合。
「AはBである」「BはCである」「よってAはCである」という推論は、古典的論理学では典型的な 三段論法(syllogismus, syllogism) の形をしています。以下、順を追って説明します。
1. 古典論理学における三段論法
三段論法は、二つの前提から必然的に結論を導く推論形式です。アリストテレス以来、古典論理学における推論の基本モデルとされてきました。
一般形大前提(Major premise):すべての B は C である
小前提(Minor premise):A は B である
結論(Conclusion):A は C である
2. 今回の具体的な形
与えられた例を整理すると:小前提:「AはBである」
→ A ∈ B (A は B の範疇に属する)
大前提:「BはCである」
→ B ⊆ C (B は C に含まれる)
結論:「AはCである」
→ A ∈ C (したがって A は C に属する)
これは、集合論的に言えば 包含関係の推移律(if A∈B and B⊆C then A∈C)を表現しています。
3. 論理的妥当性
この推論は、古典的論理学において 妥当(valid) な推論形式です。
具体的には、アリストテレス論理学における 第一格 (Figure 1)・Barbara 式 と呼ばれる典型例に相当します。
形式:
●すべての B は C である
●すべての A は B である
●ゆえにすべての A は C である
ラテン語名「Barbara」は、この推論型の記号的パターンから来ています。
4. 注意点
ただし「AはBである」「BはCである」という日本語の表現は、量化の範囲が曖昧になりやすいです。
例えば「Aが個別の対象」「BやCが集合」なのか、「A, B, C が全てクラス概念」なのかで解釈が変わります。古典論理学では、通常は 全称命題(すべての…は…である) として扱います。
✅ まとめると
「AはBである」「BはCである」「よってAはCである」は、古典論理学において アリストテレス的三段論法(Barbara 型) の典型例であり、集合論的には「包含関係の推移」に対応する、妥当な推論形式です。

【実例2】「AはBでない」「BはCでない」「よってAはCでない」は三段論法として成立しない。
上掲の「モーダスポネンスにおいて不健全(Unsound)」な場合。
「AはBでない」「BはCでない」「よってAはCでない」という推論は、一見「三段論法」の形をしているように見えますが、古典論理学の立場から言うと 妥当な推論ではありません。順を追って説明します。
1. 命題の形式に整理する
「AはBでない」 → A∉B
「BはCでない」 → B⊈C (B は C の範疇に含まれない、あるいはBの一部はCでない)
「よってAはCでない」 → A∉C
2. 妥当性の検討
古典論理学では、推論の妥当性は「前提がすべて真なら、結論も必ず真になるかどうか」で判断されます。
この場合、前提が真でも結論が真であるとは限りません。
反例
A=スズメ
B=犬
C=動物
とすると:
「スズメは犬でない」 → 真
「犬は動物でない」 → 偽(動物である)
→ この時点で前提が矛盾しているので結論は成り立たない。
別の例を考えると:
A=犬
B=石
C=無生物
とすると:
「犬は石でない」 → 真
「石は無生物でない」 → 偽(石は無生物である)
やはり結論が前提から出てきません。
つまり、この論理式には 推移律 が働かないため、必然的結論にはならないのです。
3. 古典的論理学における位置づけ
アリストテレス論理学の三段論法には、正しい型(Barbara, Celarent, Darii, Ferio など)が体系的に分類されています。
しかし「否定」だけを連鎖させたこの形式(「AはBでない」「BはCでない」→「AはCでない」)は、その有効な型には含まれません。
これは 否定の誤用による擬似三段論法 の一例です。現代論理学的に言えば、この推論は 不妥当 (invalid) です。
4. まとめ
「AはBでない」「BはCでない」「よってAはCでない」は、古典論理学では 妥当な推論形式ではない。
理由は、「非〜」の命題は推移性を持たず、前提が真でも結論が真になる保証がないから。
したがって、これは三段論法の正しい型(Barbara 型など)には含まれず、論理的誤推論 とされる。

なんかもう「古典的論理学なんてスッパリ忘れてベン図でだけ考える方が楽」の領域に入ってきましたね。なおモーダスポネンスについては現代哲学の立場からこういう批判も。
初期の著作では、ボゴジアンは内容についての自然主義的理論を痛烈に批判していた。
『知へのおそれ(Fear of Knowledge)』を含む彼の後の著作の多くでは、様々な形態の相対主義を批判しており、特に知識と理性は客観的なものではなく、根源的には文化的なもの、あるいは主観的なものであると主張する認識論的相対主義が対象となっている。
ボゴジアンは論文「盲目的推論(Blind Reasoning)」にて、我々は推論の方法(その典型例はモーダスポネンスとされる)を正当化するための理由に対して盲目であると主張している。彼は単純な推論的外在主義(Simple Inferential Externalism)を非一貫的な立場として、また単純な推論的内在主義(Simple Inferential Internalism)は受け入れがたい立場として、どちらも拒絶する。これらに代わり、彼は第三の選択肢として新たな形の「合理的洞察(rational insight)」を提示する。この論文は、ボゴジアンとクリスピン・ライトの間で進行中のやりとりと合わせて、認知的相対主義に対抗するためのプロジェクトの一部である。
認知的相対主義=言語的相対論?
言語的相対論(Theory of linguistic relativity)または言語的相対性原理(Principle of linguistic relativity)、サピア=ウォーフ仮説(Sapir-Whorf hypothesis、SWH)は、「どのような言語によってでも現実世界は正しく把握できるものだ」とする立場に疑問を呈し、言語はその話者の世界観の形成に関与することを提唱する仮説である。ベンジャミン・ウォーフが唱えた理論であり、個人が使用できる言語によってその個人の思考が影響を受けることを体系化した理論である。ウォーフとエドワード・サピアの研究の基軸をなした。
認知主義、非認知主義、道徳的実在論、そして道徳的相対主義の違いは何ですか?
認知主義と非認知主義 は、道徳的言明の内容に関する理論です。認知主義者は、「赤ちゃんを殺すのは間違っている」といった道徳的主張は真偽を問えると考えています。つまり、他の真偽を問える主張(「猫はマットの上にいる」など)のように、真または偽になり得るということです。非認知主義者は、道徳的主張は真偽を問えないと考えています。厳密に言えば、真でも偽でもありません。それが最終的に何になるのかは、さまざまな非認知主義者の間で議論の対象となっていますが、選択肢としては、好みの表現(「うわ、赤ちゃんを殺すのは嫌だ」)、承認の報告(「私は赤ちゃんを殺すことに反対する」)、その他さまざまなものがあります。
道徳的リアリズム は、人々が使うのをやめてほしい嫌な言葉ですが、基本的に、道徳的主張は心の独立性を持っているという意味です(「地球は丸い」が人々の考えとは関係なく真であるように、人々の考えとは別の何かによって真である)。
道徳的相対主義 は、道徳的主張の真実は何かに相対的に固定されていると言います(基本的に人々の考え、多くの道徳的相対主義者は道徳が他の何かによって固定されているとは考えていません)。この「何か」は、あなた自身の個人的な意見、社会の意見など、あなたがどのような道徳的相対主義者であるかによって異なります。
道徳的主張が真偽を問えると考えている人(リアリストや相対主義者を含む、その他さまざまな人々)は認知主義者です。非認知主義者は、リアリストでも相対主義者でもありません。彼らは特定の種類の反リアリストです(ただし、彼らが道徳が現実ではないと考えているという意味ではありません。「リアリズム」は、心の独立性だけを意味しており、「現実」の唯一の概念ではないことを覚えておいてください)
なるほど、ここで論駁対象としての「道徳的実在論(Moral Realism)」なる概念が登場してくるのですね。
道徳的実在論(Moral Realism)とは、倫理的な言明は、世界の客観的な性質を指示する命題を表現しており、そうした性質をどれだけ正確に報告しているかによって命題の真理値は定まる、とする学説である。したがって、道徳的実在論は、存在論的傾向をもった倫理的認知主義(ethical cognitivism)の非虚無主義的タイプの一つであり、道徳的非実在論(anti-realism)や道徳的懐疑主義(moral skepticism)、そして非認知主義(non-cognitivism、道徳的言明が命題を表現することなどないとする立場)と対立する。ここでいう道徳的懐疑主義には、倫理的主観主義(ethical subjectivism、道徳的命題が客観的事実を表現することを否定する立場)や錯誤理論(error theory、真なる道徳的命題は存在しないとする立場)を含む。道徳的実在論は、倫理的自然主義(ethical naturalism)と倫理的非自然主義(ethical non-naturalism)の二つに分けられる。
一方、常に「閉世界仮説の維持」すなわち「演繹的推論と帰納的推論の結果が同じ範囲で考えてるか?」「ルベーグ可測なカテゴリー(分類)範囲で考えているか?」を意識し続ける重要性が浮上してくる訳です。
西洋数学/物理学発展の足枷となってきた「キリスト教倫理」
そもそも「ベン図」の概念が世に広まったのは19世紀以降、その大元となった「オイラー図」にまで遡っても18世紀までしか遡れません。
「オイラー図」から「ベン図」へ
オイラー図(Euler diagram)は、集合の相互関係を表す図。 ベン図 と類似しているが、ベン図では、存在しない集合関係を含め、異なる集合間のすべての可能な関係を示すのに対し、オイラー図では、実際に意味のある関係のみを示し、不要な領域を省略するという違いがある。
考案者であるレオンハルト・オイラー(Leonhard Euler,1707年~1783年)の名をとってオイラー図と名付けられた。アメリカでは、1960年代の 新数学 運動の一環として、ベン図とともに集合論の教育に取り入れられた。以来、読解教育や企業・組織におけるデータの可視化など、多様な分野で利用されている。

ベン図=ヴェン図(Venn diagram)とは、複数の集合の関係や、集合の範囲を視覚的に図式化したものである。イギリスの数学者ジョン・ベン (John Venn,1834年~1923年) によって考え出された。
オイラーによるオイラー図の特殊な場合に相当する。

どうしてそんなに研究が遅れたのでしょうか? ここでウィトゲンシュタインらによる「命題論理がキリスト教的言語ゲームの核心に位置し、その存立に不可欠なものであったから」なる分析が急浮上してくるのです。
命題論理をキリスト教倫理に応用する際には、キリスト教の教義を命題として捉え、その命題が倫理的に正しいか、あるいは神の意志に沿っているかなどを論理的に分析することになります。例えば、「偶像崇拝は禁止される」という教義は命題であり、この命題がキリスト教の倫理観においてどのような意味を持つのかを、命題論理の枠組みで考察することが考えられます。
命題論理とは
命題論理は、論理学の一分野で、命題(真偽を判断できる文)の真理値の組み合わせや、複数の命題の関係性を分析するための形式的なシステムです。
「PならばQである」のような論理的な関係を表現し、議論の妥当性を評価するのに用いられます。
キリスト教倫理とは
キリスト教倫理は、キリスト教の聖書、神学的教義、伝統に基づいて定められる道徳的な規範や行動の指針です。「愛と赦し」「隣人愛」「神の意志に従うこと」などが中心的なテーマとなります。
命題論理をキリスト教倫理に応用する考え方
教義の命題化:キリスト教の教義(例:「神は愛である」)を、真偽が問える命題として捉えます。
倫理的な判断の分析:特定の行動がキリスト教倫理に合致するかどうかを、その行動に関連する命題と教義との関係で評価します。例えば、「〇〇という行為は禁止されるべきか」といった問いに対して、禁止されるべき根拠となる命題(例:「神の愛に反する」)と、そうでない命題とを比較検討します。
行動原理の導出:複数の命題の論理的な関係性から、具体的な行動の指針となる原理を導き出すことも可能です。
例
●命題:「偶像崇拝は禁止される」(聖書の命令)。
●倫理的解釈:この命題はキリスト教徒が避けるべき行動を明確に示しており、命題論理によってその絶対的な正しさが導き出されます。
●応用:この命題に基づいて、キリスト教徒は偶像を崇拝する行為を倫理的に間違っていると判断します。
そもそも既にイタリア・ルネサンス期(14世紀から16世紀)には発見されていた虚数の概念が近代に入るまで忌避され続けてきたのは、この式を変形すると得られるオイラーの等式が上掲の「爆発律」を引き起こしてしまうから。
指数関数における底の変換式を用いると
考えてみれば実数軸と「(回転軸を中心に回転する)動径(ベクトル)」がぴったり重なるのはθ=0(真理値1)の場合とθ=π(真理値-1)の場合のみ。それ以外の時の真理値は全て0(接点が回転軸との交点のみなので測度0)なので排中律は破れていません。

確率論や統計学(とりわけベイズ統計学)の発展が遅れたのは「森羅万象には神の定めた固有確率が存在する」なるキリスト教倫理的直感にあくまで逆らうから。また「連続分布にのみ注目する」考え方も「常に真か偽かで考える」キリスト教倫理的排中律と相性が悪かった。
結局、キリスト教倫理において「モーダスポネンスにおいて健全(Sound)」と言えるのは「自らを愛するように隣人を愛せ」「産めよ殖やせよ」といった肯定的命題だけで「殺さない」「姦淫しない」「盗まない」「隣人について偽証しない」「隣人を貪らない」といった否定的命題は「推論上の不健全(Unsound)」から逃れられない?
なんだかもう、問題提起だけで結構な分量に。そんな感じで以下続報…