
一万倍の世界で
彼女は3歳になる少し前にわが家へきた。脚は短くて、胴は長い。あらゆるものをクンクンかいで、世界をみている。
彼女はとっても食いしん坊だ。フードの袋をあけようものなら、もれでてきた香りにヨダレを飲み込み、早く食べたいと部屋中を走り回る。
たまにやってくる母も姉は彼女には甘い。2人とも香水が好きなのに、彼女と会う日はまとわない。彼女の鼻は信じられないくらい性能が良くて敏感だから。人間の一万倍もの嗅覚をもっている。
わが家にくるまえは、たくさん動物がいる家にいたらしい。彼女はそこで小さくなって、居場所を探していたそうだ。
彼女は毛布が大好きだ。日向でくるまり、クンクンしながらみつめてくる。人間にはできない無垢なまなざしは、まったく揺らぐことがない。子どものような母のような、愛と優しさに満ちた眼に
私はみとれる。顔を近づけると鼻先を小刻みに動かす。きっと愛すらかぎとってしまう。
実は彼女はとっても人見知りで、私と夫以外がだっこするのは至難の業だ。散歩中に人とすれ違うのも最近ようやく慣れてきた。
そんな彼女が、ごくたまに、すれ違う人を追うようについていくことがある。彼女が後を追う人は、たいていの場合、食べ物を持っている。懸命にクンクンと宙を嗅ぐ小さな生き物に気がつくと、「かわいいですね」とみんな笑ってくれる。私は「すみません」と会釈しながら、その場限りのご挨拶をする。
食いしん坊だね、と笑いながら、私は少しほっとする。食べ物を追ってたんだね、なら良かった。
すれ違う人の香りに、ハッとする彼女をみると、ありえないと思いながら、たまに考えてしまう。
前のおうちの人がいたの?
懐かしい香りをみつけたの?
もしも彼女が前のおうちの香りを嗅いだら。リードをぐいぐい引っ張って、懐かしい香りを求めるのだろうか。
そんな小さな妄想をして、すこしキュンとして、あらためて願う。彼女が「わが家」の香りを、今日も安心してクンクンできますように。一万倍の世界で、いちばん好きな香りのひとつでありつづけられますように。
さぁ、今日もいっしょに散歩にいこう。🐾