
【怖い話】解ける
自分の名前を書いていた。
だが、ペンの先から出ている黒い液体が、何なのかわからない。
白い紙の上に、黒い「虫」のような線がのたうち回っている。 さっきまで、それは私の名前の「一画目」だったはずだ。
それが今、ただの粘り気のある汚れとして、そこにある。 自分の名の一部が、指先からドロリと腐り落ちていく。
私はそれを、ただ見ていた。
夜。
向かいに座っているものが、何かを咀嚼している。 妻、だったもの。
だが、その輪郭はもう「人」としてまとまっていない。 のっぺりとした、湿った肉の塊。
その中央に、暗い二つの穴が開いている。 穴の底では、濡れた、小さな二つの球体が、生き物のように震えながら私を狙っている。
その下。 肉の裂け目から、白い骨のような粒が覗く。 粒が噛み合わされるたびに、ぐちゃり、という音が響く。 皿の上の何かを、その穴に押し込むたびに、肉が不自然に波打つ。
「……ねえ……いてる?……ねえ……」
肉の裂け目から漏れるのは、もはや言葉ではない。 私の鼓膜を、ざらざらした何かで、じかに撫で回されているような不快感。
私は椅子を蹴り、洗面所へ這いつくばった。
鏡を見る。
そこに映っているのは、崩れかけた、ただの「物体」だった。 私は、それを、私という形に直さなければならない。
耳、鼻、唇。 順番。位置。
私は、剥がれ落ちていく自分のパーツを、指で強引に押し込む。 ここ。 ここは、ここだ。
血と脂にまみれた指で、自分の輪郭を無理やり縫い付けていく。
カチリ、と音がした。 世界が、不自然なほど静かになる。
「……できた」
私は安堵し、洗面所のドアを開けた。 廊下の向こうから、「妻」がやってくる。
彼女の顔の真ん中に、巨大な「耳」が、上下に二つ、縦に張り付いていた。 耳は、私の呼吸を、逃さぬようにひくひくと、卑猥に動いている。
目も、鼻も、口も、もうどこにもない。 ただ、二つの耳だけが、そこにある。
「…………」
何かを言おうとして、私は自分の手を見た。 手のひらの中心が、横に裂けていた。
裂け目から、赤い舌が覗き、ピチャリと私の手のひらを舐める。 私はその手で、自分の顔に触れた。
「…………きれいだ」
手のひらの裂け目が、そう言った。
頬に当たる手の感触。指。粘膜。 それらが、私の頬と一体化し、溶けて混ざり合っていく。
耳。唇。眼球。 それらが、正しい場所を失い、私の身体のあちこちで、勝手に脈打ち、瞬きを始める。
「…………」
私は、自分の「顔」だった場所に、指を突っ込んだ。 そこにはもう、何もなかった。
ただの、温かい穴。
私はその穴の中に、自分の、手のひらにある「口」をねじ込んだ。 自分を、自分で食べ始める。
ズルリ、と音がした。
妻の顔にある二つの耳が、歓喜するように震えている。
私は、私を飲み込み、世界はただ、一つの、巨大な、意味のない肉の塊へと溶け落ちていった。
(完)
やや