
犬人
【 あらすじ 】
移植の拒絶反応をなくす、その技術を完成させた天才科学者・山内俊二は、自らが最初の被験体になるとは、思いもしなかった。
母を心臓移植の拒絶反応で喪い、種の垣根を越えて拒絶しない移植技術を生み出した俊二。だが成果を狙う工作員に刺され、瀕死の彼が助手の橋本に遺した願いは、常軌を逸していた。
「僕の頭を、あの犬に移植してくれ」
自らの技術で、俊二の頭部は実験用の秋田犬の胸に接合される。犬の体に人の顔を持つ異形「犬人」。一つの体に宿った二つの脳。肉体の制御から解き放たれた俊二の脳は、思考の全リソースで宇宙と交信し、超越した世界を体験する。
ひとつの魂が肉体の檻を出るとき、命は、種を越え、時を越え、次なる進化へと歩き出す。
--------------------------------------------------------------------
【 本文 】
早朝の宝ヶ池は、靄に沈んでいた。
サミュエル・シンプソンの足音と、呼吸音だけが、ひっそりとした公園に響く。
昨日は先斗町で、外務省と環境省の役人から舞妓を交え手厚く接待を受けた。
時差のせいと、気の重い交渉、飲みなれない日本酒にトライしたせいか、少し悪酔いして頭の芯にまだアルコールが残っていた。
国際会議場に隣接するホテルに戻っても、なかなか寝付けず、決心するようにパッと起き上がると、トレーニングウェアに着替え、ジョギングシューズを取り出し、はねた髪だけ水でおさえ、ホテルを後にし宝ヶ池の周りを軽くジョギングし始め、今日の会議でプレゼンする重々しい不安を消し去るがごとく徐々にストライドの幅をひろげ、ピッチをあげた。
やがて、ボート乗り場をゴールと決めると、一気に全力疾走でスパートして、膝に手をついて、荒い息を整えた。
苦しい呼吸も落ち着いてきた頃、立看に「鯉の捕獲禁止」と書いている池をのぞくと、エサがもらえると思ったのか、大きな鯉が口をパクパクと開けて、サミュエルの前に集まってきた。
サミュエルは、しばらくその光景を眺めていたが、期待して寄り付く鯉を気の毒に思いゆっくりとその場を後にしようとした。
<ガサゴソ・・>
突然背後で、何かが、蠢く音がした。
湿った、引きずるような唸り、そして人の声?、何かぶつぶつがと思慮深くつぶやいたように聞こえた。
振り返ると、大きな犬の後ろ姿があった。残飯の容器に鼻を突っ込み、貪っている。
ただ、その毛には、点々と、黒く乾いた緋色の血の跡がこびりついていた。首には、犬の首輪とは思えない、精巧な配線が、張り巡らされ、通信部分が点灯してる小型端末がセットされている。
サミュエルは、おそるおそる背後から犬に近づいてみた。
近くによると、その犬は、かなり大きいだけでなく、なぜかそれにもまして大きな存在感を漂わせていた。
犬は、サミュエルの気配に気づき、首をめぐらせ、こちらを、振り向いた。
サミュエルの、息が、止まった。
首輪の下の、犬の胸の辺りが目に入ると、サミュエルは思わず声を上げずにはいられなかった。
<・・・!>犬の、胸に。
人間の、顔が、あった。
端正な、男の顔。その頭部には脳波を計測するバイオセンサーの電極らしきものが絡まっている。
<・・・なんて、悪趣味な!>
ドキッとしたサミュエルであったが、落ち着こうと自ら律すると、やはり犬の胸についている人の顔はマネキンか蝋人形、悪い冗談だ。としか考えつかなかった。
しかし、その人の顔が、あまりにも出来がいいので、サミュエルは確かめずにはいられず、再度手を伸ばし、震える指を、その頬へ、伸ばした。
触れた。
そのとき、サミュエルの全身に悪寒が走った。
体温が、あった。
皮膚の、しっとりとした弾力。毛穴。そして、指先に伝わる、作り物ではありえない確かな脈動。
その瞬間、閉じていた男の瞼が、ぴくり、と、痙攣しうっすらと、開いた。
焦点の定まらない、その目が、一瞬、サミュエルを、捉えた。
「うわあっ・・!」
サミュエルは、絶叫して跳びのいた。
犬?は、驚いて身を翻し、靄の中へと、一目散に、駆け去っていく。その胸に埋もれた人の顔が、揺れながら、遠ざかっていった。
宝ヶ池の水面に、鯉が跳ね波紋を広げた。
サミュエルは、その場に、へたり込んだ。
<生きていた。あれは、生きて、いる。>
サミュエルは、冷えた汗で、半ば魂の抜け殻のような放心状態のまま、とぼとぼとホテルに向かって戻り始めた。
「遠くへ行っちゃだめですよー、わかったわねぇ!」
保母の河合順子は、朝からずっと、園児に向かって声を張り上げ続けていた。今日は東山幼稚園の遠足。園児たちを、宝ヶ池公園の「子どもの楽園」に引率して、てんやわんやだった。
「ねえ、ねえ」
順子の手を、園児の田辺真智子が、しきりに引っ張る。真智子は、集団行動が苦手な子だった。列を勝手に抜け出しては、新米保母の順子を、手こずらせる。お歌の時間でも、みんなが歌う最中に、一人だけ、平気で教室を出ていこうとする。順子は毎日、この子に、気を張っていた。
今日も、最初こそはしゃいでいた真智子が、例に漏れず、勝手に動き始めた。
「迷路、行くから、先生も来て」
真智子が、順子の手を引く。
そのとき、別の園児が転んで、火がついたように泣き出した。
「ちょっと、待っててね」
順子は、真智子にそう言い置いて、転んだ園児のもとへ駆けた。べそをかく子の膝を払い「痛いの痛いの飛んで行け―♪」あやして、振り返る。
真智子の姿が、なかった。
迷路の、入り口で、小さな背中が、その奥へと、ちょうど消えていくところだった。
「あハハハ、ヒィー!・・」聞き覚えのある真智子の奇声。
真智子が、最高に楽しいときに上げる、いつもの声が、迷路の中から響いた。
「真智子ちゃん、どこー?」
順子は、真智子を探しているふりをして声を張り上げた。
「せんせー、この、ワンワン、おじさんがついてるよー!」
何を言っているのかと、子供用の迷路の垣根の上から、真智子を見下ろした。
真智子が、大きな犬の頭を、ペシペシと、無邪気に叩いていた。
犬は、されるがまま、真智子の傍らに、佇んでいる。
「真智子ちゃん、危ない!」
順子は、犬が苦手だった。だが、迷わず、迷路を回りんで、真智子を、抱き上げた。
順子は、一瞬、氷ついたように固まって動けなくなった。「誰・・・!」
犬の、胸に。
人間の、顔が、ついていた。
大きな秋田犬の胸に、埋め込まれるように、端正な男の顔が。
瞼が、ふいに、開いた。焦点を結んだ瞳が、真智子を、そして順子を、はっきりと、捉えた。それは、まぎれもなく、意志を持って、こちらを見ている、人間の、目として輝きを放っている。
順子の背筋を、氷の塊が、滑り落ちた。
順子は、ハッと我にかえり、真智子を抱き上げ、迷路をかけ出ると、犬も後を追って迷路を駆け出した。
腕の中の真智子だけが、けらけらと、笑っていた。
「せんせー、おろして。ワンワンおじさんと、あそぶの」
「だめ!・・」
犬の首輪から人の頭部に配線がはられているのを順子は見つめ、ふと思い出したかのように、真智子を降ろし、震える手で、スマートフォンを取り出し、シャッターを切った。
パシャ、という電子音に耳を立て身を翻すと、犬?は駆け去っていった。
真智子は、名残惜しそうに、小さな手を、振っていた。
順子は、その場に立ち尽くし、撮ったばかりの写真を、確かめた。
呆然とする順子のもとを離れ 、前川先生に駆け寄った真智子は「おじさんが、ワンワンについてたよ」と言った。
前川は、わけもわからず、にっこりとして「変なおじさんについていったらダメですよ、わかったわネ?」とさとした。
「おじさんじゃなくって、、お兄さんの、顔だったよね」順子が言うと、真智子は「そう、お兄ちゃんワンワン」と頷いた。
順子は、Xに、写真を投稿した。
「宝ヶ池公園で、こんな犬を見たのですが・・これって、何なのでしょう」
そして、大学の先輩でもある、毎朝新聞の記者、石井健司に、最も鮮明な一枚を選んで、LINEを送った。
『石井先輩、ご無沙汰しています、河合です。緊急で見ていただきたいものが。今日、宝ヶ池で、大きな犬の胸に、本物そっくりの男の人の顔がついているのを見たんです。首輪に配線、精巧な装置もついていて。特殊メイクか、電動の作り物かとも思ったのですが、あの目に宿っていた生気と、しばらく動けなくなるような、存在感。作り物とは、どうしても思えなくて。きっと、騒ぎになります。調べてもらえませんか』
送信ボタンを押した指が、まだ、震えていた。
犬の胸についていた端正な男の顔立ち、首輪に配線と何か精巧な装置がついていたので、電動で動く特殊メイクじみたものかもしれないと思いもしたが、しばらく、放心状態にさせる存在感が順子に作り物ではないことを実感させていた。
あの男の瞳が、順子の脳裏に焼きついて、離れなかった。
<22年前>
山内博之は心臓移植手術の難易度の高いオペを何度もこなし、その実績から、京大病院の心臓外科には、山内の移植手術を待ち望む患者が全国から押し寄せ過密スケジュールに追われていた。
「お父さんは本当に立派なお医者さんだ」
「俊ちゃんもお父さんのように立派なお医者さんになれたらいいね」と多くの人から慕われ、尊敬される父であったが、幼い俊二にとっては家にいるときは疲れ切って眠っているか、難しい医学雑誌を読んでいる父しか知らない。
患者さんの容態の急変や、救急患者の連絡を受けるとすっ飛んで行くのが俊二にとっての父であり、ちっとも面白くなかった。
「お父さんは何人もの命を救っているのよ」
母の祐子は父への表彰状、感謝状、記念品、アメリカの有名な医師や大臣と一緒にとった写真が所狭しと飾られている部屋で、俊二によく言って聞かせた。
ある日「俊二、今日は、遊園地に連れて行ってやる」と父が言って、俊二は大喜びで、母に用意してもらったナップサックと帽子をもって待ちきれず、先に庭に出て、母と父が出てくるのを今か今かと待ちわびていた。
なかなか、出てこない父と、聞こえて来た電話のベルが、俊二を不安にさせた。
その時、玄関から父が飛び出し、俊二が声をかける隙もなく、一目散に車に向かっていく父の姿が見えた。
バタンとドアを閉める音、急発進して加速する車の音が俊二にはむなしく響いた。
「お父さんの手術した患者さんの容態が急に変わったの」
母は、ナップサックを投げ捨てて、今にも泣き出しそうな俊二を優しく諭した。
いつだったか、俊二の父が、若い新任の医師に任せ、家族で公園にピクニックに出かけたとき、病院で術後の患者さんの容態が急変し、亡くなった。
看護師長の川島は、どのような処置と対応だったか山内に報告し
「山内先生なら、あの患者さん亡くならずに済んだと思います」と新任の医師を不服そうに一瞥していった。
責任感の強い俊二の父は、それ以来、人に任せるのを避け、名目的には休みであっても、連絡があるといつでも駆けつけることができる距離と体制に身を置くようにしていた。
「俊ちゃん、お母さんとおもちゃ買いに行こうか?」
母の祐子は、手を握って、優しい笑みを浮かべていった。
山内博之と出会う前、菊池祐子は評判の美人だった。
博之がまだ、心臓血管外科のトレーニングをアメリカで受け、帰って医大に就任したばかりの若い頃、祐子は心臓発作をおこし、救急車で病院に搬送されてきた。
祐子は、拡張型心筋症だった。
激しい運動を避け、おとなしい生活を強いられていたが、成長するにしたがって、その美人薄命的な、控えめなところが、さらに上品な美貌を引き立て、外に出ない箱入り娘の清純さも加わり、男なら、ほっておけない魅力を漂わせていた。
病院に搬送されてきたとき、祐子の口には酸素吸入器がつけられ、すでに昏睡状態に陥っていた。
・・・ふと、祐子が気がついたとき、若い医師が祐子を見つめていた。
「ああ、気がつきましたか、あぶないところでした。お母さんがすぐに発見してくれてよかったですよ、・・でも、しばらく入院していただかなければなりません」
祐子は、小さく、うなづいた。
「・・ああ、担当医の山内博之です、何かございましたら、このボタンを押してください、すぐに看護師が駆けつけますから」
実のところ、山内は、祐子の天使のような寝顔に見とれていて、目を覚ました祐子の瞳を見たとき、その輝きにもう一度衝撃を受けたのだが、冷静を装い、形式的、事務的な話だけして、その場を後にした。
翌日、回診にまわる山内の顔を、病院のスタッフも患者さんも不思議そうに見ていた。
いつもの無精髭は綺麗さっぱりと剃られ、行ったこともない美容院に行って、髪もきちんとセットされている。
<この人、結構二枚目だったんだ>
いつもと違う山内に誰もがそう思った。
山内は祐子のところに来ると、他の患者の何倍もの時間をかけて、祐子が笑う迄、軽い冗談をとばした。
祐子より回診が先にある患者は、早い時間に終わり、後になる患者は待たされるようになった。
看護師はいらいらして、それとなく早く次に向かうように、話の腰を折った。
しばらくすると、山内が去った後、祐子も急に寂しくなってきた。
祐子の隣で入院しているおばちゃんが、うれしそうに祐子を見て笑っていった。
「山内先生、きっと、あなたに惚れんのよ」
「きっと、みなさんに、お優しいのでしょ」祐子は冷静を装って言った。
「病院の噂は、早いんだよ、」といって、隣のおばちゃんはニヤニヤしていた。
祐子も、そんな噂を聞くうちに、次第に山内を意識し始めた。
病院で雑誌を読んでいるときでも、山内らしい声が廊下から聞こえると、気になって仕方がない。
暇でしょうがないから、気になり始めたらずっと山内のことを考えてしまう。
朝の数分と午後の数分しか会えないことがその気持ちをさらに高ぶらせ始めた。
ある日、山内のチームの回診に山内がいなかった。
「気分はどうですか?」
「ええ、おかげさまで」祐子は軽く頭を下げた。
「ああ、山内先生なら本日は研究成果を持って、医療学会の講演に出席してるんです。明日はいつものように回診に戻って来ますよ」
医師は隣のおばさんと目が合うと、含み笑いをし「医局ではこの噂でもちきりなんですよ」とニッコリしていった。
翌日、山内はいつものように回診にやってきた。
「調子はどうですか?明日で退院ですね、退院後もしばらく通院となりますが、」
隣のおばさんが聞き耳を立てているのがわかった。
期待していたわけではないが、明日退院なのに山内はいつもよりそっけなく祐子を後にし、山内のチームのインターンや看護師も何処となく物足りないような不思議な空気をただよわせながら、祐子の病室を出ていった。
祐子は、山内に恋してるのを強く感じていたが、明日退院なのに、今朝の山内の態度を考えると、夢を見ていたのだと考え始めていた。
消灯になっても、なかなか寝付けなかった。
<もしかしたら、自分は余命いくばくもないのかもしれない、だから、ほかの患者さんより優しくしてくれたんだわ>
「シィー」
その時、山内が人差し指を唇に当てたまま、薄暗い中、カーテンをめくって中に入ってきた。
「今日は当直なんです」
隣のおばさんが、おおきないびきをかいて寝ている中ひそひそ声で言った。
「どうなさったんですか?」
「ええ、なんといっていいか、まあ、夜ばいみたいなものです」
二人は、意外にも、おたがいクスクス笑った。
「僕とつきあってもらえませんか?」
山内は、真顔でいった。
「私、体弱いんですよ、それにー」
「そのことは、地球上のだれよりも、よく知っているつもりですけど」
「しばらく病院通いだし」
「それなら、毎日会えるじゃないですか」
山内は名刺に、自分の携帯番号を書いて、祐子の枕元に置いた。
「もし、連絡なかったら、救急車で連れ戻しに行きます」
祐子は、困ったような顔をしながらも、目は同意していた。
山内は、祐子の手を握るとキスをした。
どれくらい時間が過ぎたか、救急車のサイレンが聞こえると、山内は急に真顔になって、窓から外を見た。病院の救急部外来前に向かう救急車を確認すると、祐子に急いでもう一度キスをしてから出て行った。
祐子は、山内に手を振った。うれしくて仕方なかった。
「今日で退院ですね、おめでとうございます」
昨日の夜のことは何もなかったような態度で、山内は祐子に接してきた。
「薬だけは忘れずに飲んでおいてくださいね」
あまりのそっけなさに、隣のおばさんも、少しがっかりした表情を隠さなかった。
看護師も、用件がすんだ状況を確認して「後で係りのものが参りますから、必要な手続きと精算をしてからお帰りください。あと、ご両親がもうすぐお迎えにこられます。退院おめでとうございます」と言った。
看護師に山内はうなづき、軽く祐子に会釈して離れた。
祐子は少し不安になって、山内の後姿を寂しげに見ていた。
その時、山内は祐子のほうに誰にも気づかれないように振り返ると、いたずらっ子のように、下で手を振って去った。
荷物を紙袋につめながら、祐子がうれしそうにニヤニヤしているのをおばさんは怪訝そうにみていた。
挨拶を済ませ、精算し、祐子は両親と家に帰った。
「祐子、さっきからなにニヤニヤしてるんだい」
食事しているときもうれしさを隠せない祐子を母は不思議そうに見ていた。
「え?・・ああ、お母さんが作ってくれた料理おいしくて、ほら、病院の食事って全然おいしくないんだもん、塩気がなくてまるで、なんか、ほら、カスみたいで」
「そうなのか?、今度入院するときは別の病院にしてもらいなさい」
「病院なんだから・・モー、あたりまえじゃない」
真顔で言う父に、母は食べながら口を押さえていった。
いつもより腕によりをかけて、作ってくれた、母の夕食を終え、しばらく団欒した。
「おい、祐子、薬飲んでないだろう?」
祐子は、ハっとして、食後の飲み薬をそそくさと取り出して、台所に向かい、薬を飲むと山内のことを思い出した。
<今頃、もう勤務おわったかなー?>
祐子は自宅に戻れた悦びと、いつも会えてた山内がいない寂しさの板挟みにあっていた。
退院以来、母か父が祐子のそばに必ず寄り添って離れないから、電話したくても、できない。
「ねえ、ねえ、たまにはお父さんとお母さんで舞台でも見てきたら?今、南座でいいのやってるらしいよ」
「馬鹿いうな、もしこの前みたいな発作が起こったらどうする!?母さんが、運よく帰ってきたからよかったようなものの、本当に危なかったんだぞ」
父は語気を強めていった。
「母さんには、パートを止めて、しばらくお前の横にいてもらうことにしたんだ」
祐子は、愛情での軟禁状態だと思いながらも、父の言うことに筋が通っているので素直に謝った。
プルルル・・・、プルルル・・・
「はいモシモシ菊池です・・・ああ・・え・・え・・おかげさまで、元気ですよ・・はい、少々お待ちください、祐子、山内先生よ」
「もしもし、お電話かわりました」
「これから、救急車で迎えに行こうと思っていたところです」
山内のいたずらっ子っぽい声を聞いて祐子はうれしいのだが、心配そうに見ている母をみると、冷静を装い、そつなく普通の対応をした。
「ええ、おかげさまで、大丈夫です」
「こっちが大丈夫じゃない、頭がおかしくなってるんだよ、会いたくて」
祐子は少し笑いそうになったが「いつも、そばに母か父がついていてくれますから」っと平然と答えた。
「・・・そうだな、わかった、ちょっと、ご両親に代わってくれ」
山内は少し考えてから、いった。
祐子は、もう少し話したかったが、母に代わった。
「・あ、はい、あさって、病状の検査があるから来てくださいですって」
祐子の父は、手帳を取り出し、仕事のスケジュールを確認してから、電話中の母にOKと手で合図した。
「よろしくお願いします」
受付窓口に診察券を提出したとき、病院のスタッフが、これが評判の、というふうに祐子に値踏みするような物色感を漂わせた。
「元気そうだね」
心臓外科の前で待っていると、名前を呼ばれるまでもなく、山内はわざわざ外まで出迎えに来た。
祐子は山内と診察室に入った。
「薬の副作用は?」
「・・ん・・大丈夫です」
看護師は、祐子から採血をすると、血液をもってその場から離れた。
「禁断症状」
「禁断症状?・・・ないです」
「僕は君の笑顔を一日見ないだけで禁断症状が出てるんだけど」
山内は、看護師までは、届かない小さな声でささやいた。
「ああ、その禁断症状・・あります。わたしも・・」祐子は、照れてうつむき加減にいった。
「こんにちは」おなじみの、チーム山内のインターンが、あついあついと祐子のレントゲン写真がはいった茶封筒で顔を仰ぐしぐさをしながらはいってきた。
山内は、周囲に二人の仲を隠そうともしない態度をとり「ご両親交えて別室で病状の説明してくる」と言って写真を受け取った。
「特発性拡張型心筋症ですね。通常状態より心筋が薄く延びてます。心臓のポンプ機能が低下して。もう少し、病状が進行していくと重篤なうっ血性心不全や治療抵抗性の不整脈をおこし危険です。激しい運動や心臓に負担を強いることは心臓発作を起こす可能性があるので、今までどおり避けていただいて、しばらくアンギオテンシン変換酵素阻害薬などを続けてみようと思います。」山内は両親と祐子を交互に見ながら言った。
「ただ、薬では、進行を遅らせることは可能ですが、根本的な解決にはなりません。
あたらしい、バチスタ手術、遺伝子治療、心筋シートなどで、どの治療が菊池さんに最良なのか考え、適切な処置をとっていきたいと考えています。」
祐子と両親は真剣に聞いていた。
「お願いします」祐子の母は、なかば涙を浮かべて山内に哀願して言った。
「楽観できる状況ではありませんが、私は祐子さんに最善の治療を施し、治したいと考えていますし、その自信があります・・・それに・・幸せにする自信もあります」
「・・・」一瞬、父も母も祐子もハトが豆鉄砲食らったような顔になった。
「祐子さんと結婚を前提にお付き合いさせてください、幸せにしたいと思っています」予想以上に祐子の父は戸惑って、なにも言い出せないのを受けて、山内はきりだした。
「博之さん・・」祐子ですら唐突過ぎて、両親のリアクションを気にして戸惑っていた。
「僕には君しかないって感じるんだ」
病状説明中の常識破りなプロポーズと挨拶だが、山内の真剣な気持ちや、真っ直ぐな意思は心に届いていた。
「・・まあ、・・今後の治療の件はわかった・・・んん、祐子との交際の件は・・私たちも今返事となると・・、まあ、常識的に、なあ」
父は、言葉を選びながらとつとつと空気を探るように話した。
血液検査の結果を聞いて、薬を受け取るまでの間、祐子の母は、うれしそうに看護師さんや、チーム山内のインターンと楽しそうに立ち話していた。
「聞いたんだけど、山内先生って、将来を嘱望される若手なんですって!」
さっきの待ち時間、母が、楽しそうに話していると思ったら、早速、山内先生の評判を聞いて、良い縁談だとハイになって「あらためて、博之さん、今週末、家に挨拶に伺いますって」母はもう眼鏡にかないすぎたというばかりに、祐子に楽しそうに言った。
「みんなで食事しましょう、先生、食べ物は何が好きなの?」
申し出を受けるどころか、本人より完全にハイテンションな母に戸惑う父の顔が母の後ろで見えて、祐子は吹きだした。
それから、半年後、祐子の妊娠を知って、二人はすぐに結婚した。
山内の厳格な父の山内茂雄と母の慶子、親戚は、そろって、よりによって心筋症の患者をわざわざ結婚相手に選ぶのか、猛反対した。
まして開業医の父、茂雄は、やがて博之に山内医院を継がせようと、山内医院で勤める優秀な女医との結婚に思うところがあって、将来のことを考え猛反対した。
「子どもをおろしてください、博之と別れて欲しい」と、菊池家に手切れ金を勝手に持参して行こうとした父に、山内はその後ほとんど連絡を絶ち、勝手に入籍しての挙式だったため、両親や親戚はもちろん、医師会にも強い力のある茂雄の圧力で、京大病院の上司でさえ、表立って祝福することができず、気まずそうに、こっそりお祝いを手渡されたりもした。
両親の援助もなく、若い二人は、祐子の先輩の田口牧師にお願いして、北山の教会で、こじんまりとしていたが愛にあふれた挙式を挙げてもらった。
「ああ、ヒロ君」
北病棟の産婦人科に、走ってきた山内を見つけ義母は立ち上がっていった。
予定日を過ぎ、いつ生まれてもおかしくない状況だったが、すんなりと産みだせない祐子の連絡を受けて、山内は、急いで駆けつけてきた。
「すいません、オペが長引いて」
祐子の両親は、数時間待ち続けていた。
「これ以上、心臓に負担がかかると母体が危ないから、帝王切開に・・ああもうご両親には」山内を見つけると、看護師が駆け寄り報告した。
分娩室前で不安そうな祐子の両親の目が山内と合った。
山内は急いで消毒液で丹念に手を洗い、分娩室に入ると、祐子は麻酔で眠っていた。
産婦人科医の米山は、山内と目があうと、わずかにうなずいた。
山内は心電図計に不整脈を認め、祈るような気持ちで、米山に目で同意した。
米山は切開し、手際よく看護師が赤ちゃんを取り上げた。
沈黙の後、「・・・・おぎゃ・・・おぎゃ・・・・・」赤ちゃんは大きな声で産声を上げた。「おめでとうございます。男の子です」米山がそう告げたとき、外で、犬が吠えた。
騒がしさに窓から外を見ると、一頭の野良犬が、この部屋の方をまっすぐに見上げて吠えていた。応えるように、遠くで別の犬が声を上げ、犬たちの声が、さざ波のように広がっていく。山内は気にも留めず、まだ焦点の定まらない赤ちゃんの瞳を満足そうに見入って「お父さんですよ」と言った。
麻酔が切れるまで、眠っている祐子を見つめていると、山内は病院に搬送されてきた祐子に惹かれ、見つめていたことを思い出す。
立て続けのオペの過密スケジュールの中、祐子を見ていると、なぜか忘れかけていた安らぎを覚え、えもいえない癒された感覚にひたった。
山内は、何かを決定する際、直感とひらめきを何より大事にする。
理性は自分の頭だけで考える。だが直感は、すべての英知から導き出される真実だ 。
初めて 、今のように祐子を見たとき、すぐに運命の人だとわかった。
言葉や、思考の余地はなく、ただそう直知したのだ。
「祐子、祐子・・・」山内は、静かに目を開いた祐子の手を握りしめた後、少しおどけたように駆け出していった。
しばらくすると、祐子の部屋に、山内が赤ちゃんを抱いて現れた。
祐子はなんとか起き上がろうとしたが、とめられ、顔のすぐ横に赤ちゃんを寝かしてもらった。
「祐子によく似てるきれいな男の子だ」
「でも、鼻は博之さん・・いや、これやっぱり私の鼻だわ」
祐子は、いとしそうに、わが子の顔を見つめ、自分の指を握らせ、ふれあっては幸せそうに笑みを浮かべた。
「次の出産は無理だ、心臓に負担がかかりすぎて・・」
産婦人科の米山はお祝いと、喜びの談笑がおわると、山内にそう切り出した。
米山にいわれなくても、山内には、わかっていた。
祐子は、二人子どもがほしかったため、最初で最後の出産だと知ったとき、長男であるわが子に「二人分ねと『俊二』と名づけ」 一人のわが子に二人分、それ以上の力いっぱいの愛情をぶつけた。
俊二は祐子の優雅で神秘的な美しさと優しさ、父のやたらロジックに強い知性を受け継ぎ、なにか特別な輝きを生まれながらに放っていた。
もちろん、愛情ゆえの親バカも少しは加担していると、山内は自分なりに自覚しようと努めていたが、祐子に連れ添って病院に来た俊二をみた待合室のおじいちゃん、おばあちゃんは、自分の孫に向けるような笑顔をむけ、元気をもらい、看護師も
「この子、伊達男ですよ、将来、先生より女の子、泣かせますよ~」
とアイドル的なうけ方もしていて、親ばかを引いても、魅力があると得意げに認識していた。
そして、うわさが広まり、結婚以来、連絡不通だったお爺さんになった茂雄の耳にはいると、息子夫婦に文句のひとつでもと思って、少し威厳をちらつかせて、俊二に会いに出向いてきたが、ひとたび俊二と会った瞬間から、孫の愛くるしさに頬をほころばせ、以来、おもちゃを買っては休みのたびに俊二に会いに来て、ちやほやするようになったので、瞬く間に俊二の部屋はおもちゃ箱になり、茂雄の態度は急変し、五月人形や、グランドピアノまで、かわいい孫に買いそろえて与えた。
俊二は、本当は外に出かけて走り回って遊びたいのだが、父の過密スケジュールと心臓が悪い母にもしものことがあってはと、事情を子どもでありながら察していて、我慢して部屋でおもちゃで遊んだり、ピアノを弾いたりしていた。
祐子は、いつも一緒にいる俊二に本を読み聞かせていたが、今日は静かだと思った時に俊二が、父の医学事典をもくもくと読んでいるのを見たとき、特別な何かを感じていた。
「俊ちゃん、おじいちゃんからもらった顕微鏡は?」
祐子は、車に乗って走り去っていた父に取り残されたようにたたずむ俊二を抱き上げていった。
病院は、最新の光学顕微鏡にリニューアルし、前モデルの顕微鏡を、俊二にと、茂雄じいちゃんが持ってきたが、未開封だった。
ついこの前まで、実際に病院で使用していた顕微鏡は、かなりの精度でよく見えた。
祐子はたまねぎや、にんじんの薄皮、葉についた小さな虫などせっせと用意しては、食い入るようにレンズを覗く幼い俊二に、渡して、顕微鏡にセットさせた。顕微鏡で何時間も飽きることなく観察する俊二の姿から、我が子でありながら頼もしい将来が垣間見える。
「ねえ、すごい、微生物がこんなにくっきりと見えてる」
祐子も、レンズを覗いて「ワーほんとだ!」っと一緒になって驚いた。
俊二は母を真似て、台所から野菜や果物、魚など薄くスライスしては顕微鏡で観察し、拡大して、微生物がうごめく姿を見つけて、その動きに見入っていた。
その話を受け、俊二に、茂雄じいちゃんが標本や、図鑑など買い与え、母を置いて家を出ない俊二は、知的好奇心の赴くまま毎日観察と学習に明け暮れていた。
俊二は、小学校にあがっても、友達の話や、学校の勉強の話を普通の子供のように家で話さないどころか、その子供離れした傾向はどんどん顕著になっていった。
「祐子、俊二っていつもああなのか?」
父は熱心に顕微鏡を見ては、ノートにスケッチしたり、図鑑で調べたりしてる俊二をみていった。
「そうなの、あなたも、小さい頃あんな風だったの」
「そんなわけないよ、小さい頃って言えば、近所の子どもたちと、鬼ごっこしたり、川に魚とりに行ったりとか、そんなかんじだ」
「私も、あやとり、それも、やっと覚えたころよね、誰に似て・・なにか、私に投与した薬の副作用で、天才でも生まれたかのような・・」
「ないない」山内は、かぶりをふり、二人して、俊二への期待と、集中してなにかやっている時は、たとえ食事だと声かけても、辞めない俊二を見つめていた。
「ただ、もっと子どもらしく、外で走り廻ったり・・」
山内は、運動を避け外出が難しい祐子を責め ているような気がして、ふと言葉をとめた。
「ほんと、せめて、兄弟でもできれば、一緒に元気よく遊ぶのに、ごめんね・・」
祐子が少し、うなだれたので、山内は、話題を止めて、医学雑誌に目を移そうとした。
「それに、近所の子どもたちとも、俊二ぎこちないのよ、あの子のレベルにあわないっていうか、みんな、うちに遊びに来ても、あの子、細胞の説明したりして」祐子は友達づきあいのできないわが子を心配する気持ちと、ほかの子と比べて、圧倒的にレベルの高いわが子を誇らしく感じる気持ちが交錯して、複雑な心境だった。
「そうだ、犬でも飼ったらどうだ?俊二も外で犬と散歩したり、公園でボールなげて、犬が取りに、なんて、なあ、元気よくって、楽しそうだろう・・」
「そうね、犬なら俊ちゃんのいいお友達になるかもね」
翌日、祐子と俊二はタクシーに乗って、四条の百貨店にむかった。
「マルチーズか、ヨークシャ・・ああ、外で一緒に遊びまわるんだったら柴犬かな」
祐子はどの犬がいいか俊二と思い巡らせていた。
俊二は母とタクシーに乗って、一緒に四条まで出かけてきたことがうれしくてたまらなかった。
「まあ、山内様、俊二君?です、よね?いつも、おじい様から伺っておりますが、思っていた以上に利発そうなお子様で、まあ、いつもありがとうございます」
店内に入ると、山内医院のお孫さんだと、茂雄がいつも孫の画像や動画を見せびらかして、孫の自慢話をしては、なんでも一番高いものを買っていくもんだから、店員もすぐに利発そうな俊二に気づき、わざとらしいほど満面に笑みをつくって、様子を逐一みまもった。
「あれって、ガリレオが作ったんでしょ?」
望遠鏡を指差してそういった俊二に店員は「マァー!、すごい、俊二君ガリレオ知ってんの!?」と大げさに胸に手をあててリアクションをした。
また、俊二と祐子の一挙手一投足に注意を払っている店員と目が合うたびに、わざとらしく笑みを作るので、監視されてるような居心地の悪さを感じ、逃げるように軽く会釈をして屋上のペットショップに向かった。
屋上には、幼い子どもならみんな乗りたがる、ゾウやネズミなどをモチーフにしたミニカーや、小さな蒸気機関車など、ちょっとしたミニ遊園地なみにあり、祐子は勧めたが、俊二はほとんど関心を示さなかった。
ペットショップの入り口近辺には、ヤモリや、カメレオンまでおり、俊二はその場で立ち止まると食い入るように見入っていたが、祐子は苦手だった。
「コンニチハ」
九官鳥がいうと、また立ち止まり、なかなか中まで行き着かない、俊二が観察してるときの集中力と根気には感心させられるが、祐子は座ってその様子を見ていた。
祐子は、九官鳥の口や喉の辺りを興味深そうに観察している俊二を確認して、一足先に、犬がいる店内に入った。
「マーかわいい」
祐子は、生まれたてのミニチュア・ダックスやチワワ、おもちゃを元気よく咥えて遊ぶパピヨン、祐子を窓越しに舐めようとするプードルなど、ひとつずつ見てまわった。眠っている柴犬の前に来る。
「ママ・・」
俊二が、ペットショップに入ってきた瞬間、祐子の目の前の柴犬は、クラクションで飛び起きたかのように立ち上がり
「ワォォォォン!ワンワンワォォォォォン!・・!!!ワン!」
他の犬も、烈火のごとくそろって吠え始めた。
店員もびっくりして、その対応に追われているが、犬以外の猫や、ウサギ、他の動物は何もないかのように全く落ち着き払っていた。
あまりのけたたましさに、祐子は耳をふさいだ。
俊二の方に目を向けると、俊二が触れている、サークル・ケージのダックスが狂ったように、俊二の指を舐めている。
他のお客さんもびっくりしていたが、あまりのうるささに、一旦でた。
「こんなの・・発情しててもここまで吠えません」
店員もどうしたものか、迷惑かけて申し訳なさそうに、説明しながらも、全く判然としないようすで、ドギマギしていた。
俊二を抱き上げたとき、哀願するような犬の遠吠えを聞き、久方ぶりの外出で疲れたのか祐子も息苦しくなって、ショップの外で呼吸を整えた。
俊二が外に出ると、ものの数秒で、外まで響き渡っていた犬の遠吠えが、何事もなかったかのように止んだ。
呆然とする祐子を俊二は見上げていた。
「ねえ、ねえ、どの犬飼うの?」
俊二は、もう一度ペットショップに向かった。
エプロン姿の店員が、ご迷惑おかけしましたとばかりに、その姿をみて、ドアを開けて俊二を迎え入れてくれた。
俊二がペットショップに再度戻った瞬間
「ワォォォォン!ワンワンワォォォォ」
祐子は、俊二を危険なダンジョンの入り口から救い出すような感覚で、俊二を引っ張り上げて、ペットショップから連れ出した。
祐子は、急いで、俊二と店を出たのと、突然、けたたましく吠えた犬でドキっとして、胸が苦しいのか、しゃがみこんだ。
店主は、俊二が入店するとけたたましく吠えあげた犬の一連の様子をみていて、何が起こったのか、判然としない様子で、祐子と俊二を困惑気味に見つめていた。
「俊ちゃん、なんか、犬が興奮するにおいとか、お薬とか」
「マタタビの犬バージョン」苦しそうだった母が、少し元気を取り戻してきたので、俊二はニコニコして言った。
「うそ、なにもしてないよ、でも、犬って、僕のことすごく好きみたい」
小学校で俊二が、窓際で校庭をうろつく野良犬をポカンと見つめていたら、やがて犬は構内に向かって走り出し、しばらくすると、俊二のクラスの前でなにやら犬と、珍入犬を追う学校の職員の声がした。
担任の大田先生がドアを開けた時、先生の足元を潜り抜け、入室した犬が戸惑いもなく俊二に向かって駆け寄り、飛びついた。
尻尾をこれ以上ない勢いで振り、過剰な愛情表現を俊二に示す犬を、大田先生と、駆け寄った職員で引き離し、外へ連れ出した。
教室から外に出る際の犬の絶望感あふれる、悲しげな遠吠え、俊二を見つめる哀願した瞳が、俊二の心にやきついている。
また、通学路の途中にあるクラスメイトの鈴木君の家に上がりこんだときも、鈴木君の犬が吠え続け、うるさくて、なかなか遊びに集中できず、すぐに帰ったこともあった。
以来、鈴木君の犬は、俊二が通りがかる5分ほど前から、決まってそわそわし、吠え始めるので、鈴木君のお母さんは、犬がけたたましく吠えると、俊二とわが子がそろそろ帰るとわかった。
結局、あまりに騒々しく、犬を飼うどころではなく、代わりに天体望遠鏡を俊二に買ってやった。
俊二が興味を示したし、祐子も、俊二に部屋にこもって本を読んだり、顕微鏡を覗いたりするだけでなく、外気に触れ、天井を越えてはるか遠くの摩天楼の開放感を感じて欲しいという意向もあった。
「あの星は600年前の姿を今地球に見せてるんだよ」
時は流れ、中学生になった俊二は屋上に上がってきた父を見つけると、うれしそうに言った。
何時間も、屋上に上がったきり帰ってこない俊二を心配して、祐子を寒空の下、外気に触れさせるわけにもいかず、水割り片手に父が上がってきた。
「そうか、600年も前の姿か」
父は乾杯と、グラスを星に向けて見せた。
「なくなっても、600年も輝き続けるのか」感慨深げに、俊二の頭をなでながらいうと、水割りを口にした。
「母さんも、いつまでも俊二を見守っていたいだろうな」
そうぽつりといった父を、俊二はレンズから目をそらして見ると、瞳を潤ませているのか、父の瞳が、わずかな星の光できらきらと光を放っていた。
「母さんの心臓、移植しないと助からないの?」
「誰に聞いた?」
父は、俊二をチラッと見たが、何もいわず、残った水割りを飲み干した。
ウイスキーの香りがプンプンと漂い、俊二は、望遠鏡から目を離した。
「最近、お父さん、お酒ばっかり飲んでない?」
「そうだな、お父さんがしっかりとしないとな、・・・さ!、母さんがそろそろ寂しがっている頃だ、そろそろ降りて母さんのところにいってやれ」
「俊ちゃんずーと星見てたの?」
夕食後、屋上に上がって、あまりにも長く降りてこない俊二の冷たくなった手を温めながら祐子は「俊ちゃん、風邪引くからもっと厚着してね」といった。
さっきの話の後だけに、俊二は、そういえば、母の顔色が少し悪いと思った。
みずから紅茶と、俊二には暖かいココアを入れると、食卓に家族そろってくつろいだ。
「俊二、学校は面白いか?」
父は、もう一杯水割りを作ろうとして、母にさえぎられ、紅茶を目の前に置かれおどけて見せた。
俊二はその質問で、一瞬、目を伏せて話した。
「友達と遊んでも、面白くないし、勉強も簡単すぎて、退屈だよ」
俊二は口にこそしなかったが、簡単すぎて、退屈な授業、幼稚で話も行動も合わない同級生と無理矢理楽しそうな振りをして、あわせたりするのが本当に面倒だった。
「そうか・・・」
「そろそろ、俊二も、思春期だが、悩みはないのか?」
考えてみると、こうして家族そろって俊二と話す機会は少ないまま、俊二が大人になりつつあることに不思議な感覚を覚えた。
「・・ああ・・父さん、どうして生命ってあるの?」少し思い出したかのように俊二が聞いてきた。「っていうか、どうして、たんぱく質や脂肪や有機物の塊が、成長して、学んで、考えたり、悩んだりして、最後は死を迎えるの?、生物と無生物の分岐点はどこ?」
「・・・それは不思議だな、父さんでも確かな説明は難しいな・・」
俊二に子どもらしからぬ、研修医よりも難解な質問を投げかける我が子には、驚かされた。
祐子は、風呂がそろそろたまったと思ったのか、席を離れ風呂場に向かっていった。
「なあ、さっきの話だけど」
祐子がいなくなると、父は小声で俊二に話した「さっき、母さんの心臓、移植しないと助からないの?って聞いただろ?、誰から聞いたんだ?」
俊二は、台所に置いてある、母が食後に飲んでいる薬を指差した。
「これ、最近新しく追加された薬だよね、何の薬か調べたんだ。それと、母さん、最近しんどそうだから」
「父さん、母さん元気になるように全力でがんばるからな」
「俊ちゃんお風呂入りなさい」
「わかった、すぐ入る」
母に答えながら、父の真剣なまなざし、子どもではなく、俊二に男と男の約束、決意を交わすような態度をみて「僕もがんばる」ふたりはお互い硬く手を握った。
「研修医の森田徹です。よろしく」
数日後、山内家に、若い研修医が来た。
「実は、富山のほうから、私をたずねて研修に来ている、森田君だが、しばらく、我が家に居候することになった」
「居候とは・・ひどい言い方ですね」森田は山内と冗談が言えるほど打ち解けている様子で楽しいおにいちゃんといった感じだった。
森田は、勉強熱心な医者の卵で、山内の論文を読み、シンポジウムでの研究成果を聞き、山内の心臓外科医としての技術、知識、医師としての考え方を慕って、どうしてもと京大病院に山内の研修医として働きたく尋ねてきていた。
まじめで、熱心で、自分の考えに共感してくれる森田を山内は信頼していた、表向き、富山の田舎から出てきて家賃を浮かせたいというようなこともほのめかしたが、実は、祐子の病状が芳しくないので、たびたび家に寄っては、様子を伺う過密スケジュールの山内を見かねていたので、折り入って相談し、また、俊二と議論できる、いいお兄さん役としてもどうかと山内も考えてみたのだ。
森田は、持ち前の明るい性格で、山内家にすぐ打ち解けた。
俊二に関しては、山内にその噂は聞いていたが、内心親バカも手伝ってのことだろうと思い、受験勉強など家庭教師も引き受けるつもりでいたが、自分の部屋で難解な医学書を読んでる姿を横から覗き、その理論に対し違う角度から別解も森田に訴える俊二の底なしの能力に正直、将来にわたっては畏敬の念を抱く存在になると確信していた。
事実、学校の先生が、不定期に俊二のことに関して山内宅に訪問することもしばしばだった。
「知能検査の結果なのですが」
担任の先生と教頭先生は、茶封筒から引き出した書類を祐子の前において「ごらんの通り俊二君の知能レベルは、常識の範疇を超え、非常に高いレベルです。正直、当校の生徒はもちろん、各教育機関に問い合わせましても、前例がありません」
俊二が学校や家庭でする質問内容や、その知識など並外れていることは認識していたが、特別な教育を施すこと、少なくとも俊二が志望している学区内の公立高校に進級することは、もったいないという話など祐子に強く訴えてきた。
「山内茂雄先生も大喜びで、山内医院の後を俊二君に継がせるから、いい学校や教育機関があればと・・」
祐子は、俊二の人生は、俊二が決めて、悔いのない人生を歩んで欲しいという、いつも考えを、とつとつと語るだけだった。
「なんか、天才になる薬でも飲ませてるんじゃないか?」
「そんな薬あったら、僕が飲んでますよ」
玄関を出て安心したのか打ち解けた先生と森田の談笑が聞こえる。
「俊二君、ここを離れたくないんですよ、俊二君は今、お母さんの病気がどうしたら治るか一生懸命考えて、自分が治したいとまで思ってるんです、遠くに行っているあいだに、お母さんが亡くなりかねないから、近くにいたいんだと思います」
「失礼ですが、俊二君のお母様は危ないのですか?」
「山内先生も、ドナーさえ見つかれば奥様にすぐ緊急移植手術をすると、待ちわびている状況です」
祐子は自分は父さんに守られているから、俊二の好きな学校に進んで欲しいと、何度かいったが、俊二は、ちょっと無理をすれば座り込んだり、階段を休み休み上ったりし始めた母のそばを離れたくなかった。
「母さんの病気僕が治すね」小学校の頃、俊二がいった言葉がよぎった。
祐子は、時々動悸や疲労感に襲われ、料理をするのもつらい日は、俊二に出前で済ませてもらうことも多く、悲しい気持ちになることもあったが、俊二は母や、森田と一緒に幸せそうに食事していた。
「移植は、父さんでもできるけど、そのあと、拒絶反応が起きないように免疫抑制剤飲まないとダメでしょ?だから、今拒絶反応が起きない方法を考えてるんだ」
そういって俊二は、アメリカの研究者に父の名前で勝手にメールを送り、問い合わせていることを白状し、その英文メールを、かばんから出した。
「父さんに成りすまさないと、返事が返ってこなくって」
「聞かなかったことにする」森田は苦笑しながら、俊二が送ったという文面に目を落とした。
冒頭の一文で、箸が止まった。
If we could temporarily erase only the "self" markers from the surface of transplanted cells, the immune system would lose its target. Rejection could be eliminated without lowering immunity.
森田は、続きをスマホの翻訳にかけた。日本語に変換された文面を、目で追う。
本人の細胞で遺伝子操作した臓器を作れば、拒絶反応は起きない。倫理的な問題も、かなりクリアできる。でも、それはあくまで、同じ人間の中での話だ。
もっと根本のところを、考えるべきではないか。
どの臓器にも育つ万能細胞があるように、どの生物の組織とも接合できる、もっと抽象度の高い細胞の状態があるのではないか?あるいは、細胞そのものを変えるのではなく、免疫システムが医療の最も残酷なパラドックスとして「異物」と判断する仕組みのほうを、無効にできないだろうか?
細胞の表面には、「自分はこの体の一員だ」という識別情報がある。免疫は、その情報を読み取り、見知らぬ情報を持つ細胞を攻撃する。ならば、移植した臓器の細胞から、その識別情報だけを一時的に消し去る分子構造があれば、免疫システムは、攻撃の標的を見失う。免疫力を下げることなく、拒絶反応だけを、ゼロにできる。
そして、もしその分子が、人間の細胞だけでなく、あらゆる生物の細胞表面の識別情報を無効化できるものであれば臓器の接合は、人間同士だけでなく、人間と、他の生物の間でも、理論上、可能になる。
ドナーを待たずとも、臓器は、製造できる。
"Organs could be manufactured without waiting for a donor."
森田は、うまそうに平らげていた寿司が、喉を通らなくなっていた。
これは、中学生が書く文章ではない。いやまだ誰も、たどり着いていない領域だ。
中学を卒業する頃には、俊二の体はヒョロっと伸びて、父はいつの間にか俊二に抜かれていた、俊二には、肩までしかなくなった母さんは、小さく思え、余計に衰弱してきたように思えた。
俊二は、家のすぐ近くにある公立高校にもちろんトップで進級し、入学式には新入生代表として挨拶をした。
祐子は入学式の朝まで、出席するといいはったが、顔色が悪く、父と、森田に止められた。
「ごめんね、俊二の晴れ姿を見に行けなくて」祐子は涙を浮かべていった。
「大丈夫だよ、もう高校生なんだから、それより、安静にしといてよ」
俊二は入学式の挨拶をそつなく終えた。
保護者は挨拶中、こそこそと「山内医院のお孫さんで、すごい秀才らしいとか」「男前で、頭よくって、天は二物を与えてるわね」とか「お母さんが、もう長くなさそう」だとか「ひそひそと噂している。
高校に入学しても、俊二にとって授業は退屈で、興味を持てなかった。
俊二の探究は、夜に始まった。世界中の名医や科学者に、父の名を騙ってメールを送る。
心臓移植の限界、拒絶反応を食い止める薬物と手法、その可能性と方法論。
返ってくる論文のURL、薬物名、化学反応式、遺伝子治療の最前線を、片端からプリントアウトする。
翌日の授業は、そのすべてに目を通すための、内職の時間だった。
教師の声を聞き流しながら、俊二は、世界の英知を読み解いていき、ときおり、思考は、遠くへ飛んだ。
化学変化が、原子のレベルで、頭の中に、映像として展開する。
精密な化学工場である人体が、なぜ「生きている」のか?
その問いに、引き込まれる。
シュレーディンガーは、生命とは、エントロピーに抗い続ける、秩序であるという。
ならば、と俊二は思う。その秩序の中に宿る「意識」は、いったい、どこから生まれるのか?
ペンローズが、示唆していた意識は、量子レベルの現象と、無関係ではないのかもしれない。脳を、ニューロンの発火という電気回路として捉えるのではなく神経細胞の内部、微小管で起きる、量子的なプロセスこそが、意識という現象を、生み出しているのだとしたら。
もし、そうなら。
宇宙と人間の意識は、量子のもつれを通じて、どこか深いところで繋がっているのではないか。
俊二は、窓の外を見た。
春の光が、校庭に、揺れていた。
その問いを、頭の中で静かに転がし続ける。
もう、ノートは、いらなかった。すべては、彼の頭蓋の内側で、余すことなく、描かれていく。
俊二の心ここにあらずを察してか、先生も回答に俊二を指名することがあったが、問いに対しパッと答えを出す俊二に、これといって注意を促すこともできなかった。俊二は、免疫力を落とすことなく拒絶反応を回避する矛盾を解消するパズルを、頭の片隅で考え続けていた。
「山内、聞いてるのか?覆水盆に返らずを英語でどう表現する」
「はい、It is no use crying over spilt milk. です」
周囲の生徒は「オーッ」と冷やかしと尊敬の声をあげた。
「そうだ、後悔先に立たずってことだな、こぼれたミルクはもう盆に返らないからな、みんなも後悔しないよう勉強しとかないと、受験の時には痛い目にあうぞ」
「先生、時間を戻せばこぼれたミルクは元に戻ります」俊二は平然と言った。
「時間は、戻らないだろう?」
「量子力学の方程式は時間に対して対称です。素粒子のレベルでは、時間を逆向きに走らせても物理法則は成立する。時間が一方向にしか流れないのは、量子の問題ではなくエントロピーの問題です。宇宙全体の乱雑さが増え続けているから、僕たちはそれを時間の流れと感じているに過ぎない」
「・・・つまり?」
「つまり、エントロピーを完全に逆転させれば、こぼれたミルクは戻ります。それに、ホーキングの虚時間では、時間は空間の一次元として扱われるので、過去も未来も原理的には同じ場所にある。さらに、エヴェレットの多世界解釈に従えば、ミルクをこぼさなかった宇宙は今この瞬間も並行して存在しています。こぼれた宇宙と、こぼれなかった宇宙が、同時に」
「もういい、頼むから、その話は物理の時間にやってくれ」
そのやり取りで、他の生徒の笑い声が教室に巻き起こった。
俊二は高校3年生になり、5月も半ばに差しかかったころ、職員室に呼ばれ、森田が待っていた「俊ちゃん、これから病院に行くよ」と、いつもとは違う厳格な表情でいった。
「ドナーが」森田は少し興奮気味だった。
交通事故で重篤な脳損傷を負い、搬送先で脳死と判定された患者から、適合しそうな心臓が出たという。
「緊急移植手術で、お母さんは、先に病院に搬送された」
俊二は、学校を早退し、森田と病院に向かった。
病院に向かうタクシーの中で、森田はメールを確認し「よし!」と力強く握りこぶしを作った。
<ドナーリンパ球に対するクロスマッチ検査が陰性、本日、移植手術を行う、妻の両親に連絡頼む>
森田は、俊二にメールを見せるように携帯を渡し「緊急で移植手術するから、お母さんのご両親に連絡して」といった。
病院に駆けつけると、山内のチームはあわただしく手術の準備をしていた。
祐子はすでに、点滴で眠りかけていたが、俊二がそばに行くと目を開いて手を強く握った。
「俊ちゃん」
「がんばってね、これで治るんだね」
母の体力が手術に耐えられるかどうか心配しながらも、俊二は最悪の結末だけは決して心に描かないように母の無事を祈った。
「大丈夫よ」俊二の思いを察して祐子は言った「俊ちゃんをちゃんと産めたんだもの」と俊二の手をいとおしそうに何度も握りなおした。
「父は、じゃあ、やるぞ」といつもと違う、りりしくも緊張した面持ちで祐子の手を握り締めてから、チームのスタッフに搬送するように指示した。
祐子の両親が、手術室に駆けつけたときにはすでに、祐子は全身麻酔で眠っていた。
不安そうに涙ぐんでいるお婆ちゃんを勇気付ける俊二を、頼もしそうに、おじいさんは見ていた。
二時間過ぎ、三時間過ぎ、いたたまれない思いを抱きながら も、時々緊張感が解けるのか、俊二に学校のこと、勉強のこと、そして、俊二が生まれたときも、そういえばこんな状況だったと、しみじみお婆ちゃんは話して聞かせてくれた。
こうして、懐かしい話を家族でしている間も、人工心肺装置で全身の循環を維持しながら母の心臓は取り除かれ、ドナーの心臓の動脈を吻合しているのかと思うと、複雑な心境で、ともすれば、自分も手術に参加したいような思いだったが、執刀しているのは、ほかならぬ父であるという強い信頼が支えになっていた。
「4時間か、早い!」手術灯が消えると、医院長や研修医はすぐに反応した。
「さすが山内先生だ」
俊二が横を見ると、お婆ちゃんが祈り、お爺さんがお婆ちゃんの背中を軽くたたきながら大丈夫だと勇気づけていた。
手術室が開いて、出てきた父は、俊二と目が合うと確信に満ちた表情でうなづき、義父母を認めるとマスクを取り
「手術は無事成功しました」と、精魂込めて達成した爽やかさを漂わせていった。
周囲のスタッフは、軽く会釈や、目くばせをしてすれ違い、やれやれといった安堵と、消耗の激しさをうかがわせる静けさがあった。
祐子が目覚め、しばらくすると、丹念に消毒を終えて、入室用の白衣やマスクを装着して入室してきた俊二を見て、祐子は、若かりしときの山内博之をこの世で初めて認識した時のことを思い出した。
そして、俊二を出産したときのことも・・
思えばあの小さな赤ちゃんだった俊二に当時の父親と同じくらいの頼もしさを今生きたまま現実に感じている、そのことで感謝の気持ちがあふれる思いだった。
「母さん」祐子がにっこりすると俊二の表情が和らいだ。
看護師さんが点滴のスピードを慣れた手つきで調整し「どうですか、痛いとこありませんか?」と確認していた。
「顔色も、いいですよ」と入ってきた山内に森田がいった。
「ホッペが田舎の娘みたいだろ」と茶化した父に徹夜でハイになっている俊二は笑いが止まらなくなった。祐子も笑いかけたが、笑うと切開部分が痛むらしく、「笑わせないで」と顔をしかめた。
「ズーと母さんの移植手術のこと考えていたからな、正直手術してるとき、まるでどこかですでに何度も経験したことをやってるような気がしたな、不思議と心臓も想像通りの、、切除して持ったときの重さや感覚まで全くイメージどおりだったから」
病院の食堂で親子そろって朝食をとりながら父はいった。
「で、俊二も知ってると思うが、このあとが心配だ、三ヶ月ほど入院する必要がある。拒絶反応や感染症が起こらないように細心の注意をしないとな」
俊二はおじいちゃんとおばあちゃんが食堂に入ってきたので、手を挙げた。
「どうも、眠れなかったでしょ?」義父母がくると、山内は改まって立ち上がり、挨拶した。
「ああ、ありがとう、祐子のあんな元気そうな顔、ほんと久しぶりに見たよ」
なかば、うれしさで興奮した様子で、改めて山内と堅い握手をした。
「祐子が退院するまで、俊二のこと頼みます。じつはここから3ヶ月ぐらいが大変で、拒絶反応が出ないように細心の注意が必要ですし、免疫力も落ちますしね」
しばらく、祐子は家に帰れないので、お婆ちゃんが住み込みで俊二の面倒を見ることになっていた。
しばらく、学校から帰ると、母のお見舞いに通う日々が続いた。
経過も順調そうで、俊二の拒絶反応や、感染症の不安も杞憂におわり、今後山内家には幸せあふれる生活が待っているかに思えた。
祐子が倦怠感を訴えたのは昨夜のことで、朝にはすでにいっそう深刻な事態に陥っていた。拒絶反応を抑える免疫抑制剤の副作用で、敗血症にかかった、俊二と祐子の母に医師は説明した。
その日、みるみるうちに祐子の容態は変わり、熱も上がり続けた。
「最悪だ」心臓外科の医局はピリピリとしていた。
それというのも、山内に、よりによって、ドナーの心臓移植を受けるレシピエントの優先順位を他のレシピエントから、祐子に故意に変更した疑惑が持ち上がり、順番を待っている間に命を落とした遺族と裁判沙汰となって、医師免許剥奪の可能性も帯びてきたため、医師会と弁護士会に顔が利く茂雄の口ぞえで、先週末から山内は東京の医師会の幹部や、弁護士会、顔の利く議員に相談、陳情に出かけていて、留守だった。
山内も後ろ髪ひかれる思いだったが、相手側の弁護士の訴えや、山内個人の問題ではなく、病院全体の名誉のために、周囲の同僚の説得をうけ、京都を離れた。
いくら携帯にかけても不通だった。
森田はせきたてる思いでメールを送信した。
<至急!奥様、敗血症で高熱、すぐ連絡してください>
倫理委員会に顔が利く議員と一席設け、一通り根回しを終え、山内は東京駅に着いた。
いつも祐子にひいき目に対応してくれてる詰め所の看護師さんたちに、お土産でもと、お土産売り場で適当な菓子を選択し、包装してもらっている間に、医局に帰る時間を報告しようと、携帯電話を手に取った。
陳情中に突然携帯が、鳴ったもんだから、反射的にスイッチを切ったままだったことに気づいた。
山内は電源を入れると、留守電とメールの着信音がなった。
メールを開いた瞬間
「ああ、お客さん!」
山内はお土産も受け取らず、切符も購入せず、まっしぐらに改札を走りぬけ、発車間際の新幹線に飛び乗った。
走り始めた新幹線のデッキで、山内は森田に電話した。
<でない・・>病棟なら携帯使用不可のため切っているのだろう、嫌な予感がした。森田の着信は朝からだった。
「ああ、山内だ」詰め所に連絡したとき、看護師の三浦の声のトーンだけで、山内は事態の深刻さを感じ取った。
苦しそうな母の様子を見ながら、俊二には父がいない現状はあまりにも心細く恐怖に感じられた。
「今、父さん京都に戻ってくるところだからね」俊二は母にいった。
上がり続ける熱と、不整脈、拒絶反応と感染症をほぼ併発している。
点滴のチューブに注射器で解熱剤を投与し、看護師と医師は深刻そうに状況を見守り顔を見合わせていた。
ずっと、苦しそうに、酸素吸入を続けていた祐子は、みずから酸素吸入器をはずし「俊ちゃん」と俊二の所在を確かめた。
「俊ちゃん」
俊二は母の手を握った。
「お母さんは、これでいいのよ」
「元気出して、もうすぐ父さん戻ってくるから」
「お母さんは弱かったわね、でもこうして、心臓が弱かったおかげで、お父さんにも、俊ちゃんにも会うことができて、本当に幸せよ、母さんには十分すぎるほど・・ね」
「ここで携帯電話使用しないで・・」制止する看護師をさえぎり、森田は山内に繋がった携帯電話を、祐子の耳元につけた。
「おい!もうすぐ帰るからな、がんばるんだぞ!」
携帯からでも、山内の声は室内のスタッフに聞こえるほど大きかった。
「あなたと会えてよかった、本当に幸せだったわ」
「これから、もっと幸せになるんだよ、がんばれぇ!」
「今度、目が覚めたとき、またあなたが見つめて・・・」
「祐子・・」
心拍数がフラットになった警報音とほぼ同時に、新幹線はトンネルに突入し、携帯電話の電波は途絶えた。
山内は、デッキで打ち震え京都まで泣きくずれた。
病院に到着すると、祐子が「お帰り」といつもと変わらず体を起こすシーンを何度も思い描いたが、泣きじゃくっている義母が目に入り、恐る恐る病室に入ると、祐子の顔には、真白い布がかけられてあった。
山内は唇を震わせながら、布の両端を軽くつまむとゆっくりめくって、祐子の顔を見た。
祐子は穏やかに目を閉じ、開くことはなかった。
山内の涙が祐子の顔にじかに、ポタポタと降っていた。山内は、唇にキスして「お休み」といった。
葬儀は結婚した思い出の北山の教会で、田口牧師にお願いした。
反対を押し切って結婚した時と違い、多くの方が参列し道路まであふれ、インターンの医師が交通整理まで引き受けてくれた。
俊二は、母の治療をするために自分なりに研究したノートを棺のすみにしのばせ、母の胸に花を置いた。
「俊二くんか、大きくなったな」
田口牧師は、俊二の肩にいつくしむように手を添えていった。
「田口牧師、お世話になります、よろしくお願いいたします」
「わかった、俊二君、もう悲しむな、祐子さんは亡くなったんではない、神に召されたんだ」
俊二は。田口牧師に深々と頭を下げた。
「キャン!、キャン!」
わずかな隙間から突如ビーグル犬が駆け込んで、俊二に飛びついてきた。
「こら!、ジンジャ」葬儀の前に俊二の喪服に足跡がつき、田口牧師は興奮する犬の首輪をつかんで引き離した。
「ジンジャって?犬の名前ですか」俊二は教会で飼っている犬がジンジャ(神社)だと思うと、吠えるジンジャを見て、母がなくなってから初めて微笑んだ。
「おい、恵美、恵美、早くジンジャを連れだしてくれ」
事態を不思議そうに眺めていた、かわいらしい、端正で輝く目をした少女は、ふと我に帰ったように、駆け寄ってきて、牧師のつかんでいたジンジャの首輪を持つと、俊二に未だ向かおうとするをジンジャを困惑気味に引き寄せた。
恵美は、俊二を不思議そうに見つめ、小さく会釈してから「すいません、大丈夫ですか?」と声を掛け、犬の足跡をはたいている俊二の微笑を確認してから、俊二に向かおうと最後の抵抗を示すジンジャを「コラ!ジンジャ・コラ!」とひきずるように力づくで、つれ出した。
「娘さんですか?」
田口牧師は「不出来なやつで」といいながら、俊二の喪服についた、犬の足跡を手で払った。
厳かな葬儀礼拝のあと、告別式に入り、父が遺族代表で会葬御礼の挨拶を言葉を詰まらせながら終えた。
学校の先生や、森田など俊二と目が合うと元気出せといわんばかりの思いが伝わり、俊二はコクリと会釈した。
多くの参列者が出棺を見送り、霊柩車の脇で我慢できず、嗚咽をもらしていた。
菊池の祖父と祖母、森田が泣きじゃくっている様子を見て、俊二はもう涙もかれたと思っていたが、いたたまれずまた涙が噴出し、霊柩車に続いて行った。
見送りも途切れたかと思ったとき、ジンジャが吠えあげる声が聞こえ、俊二は窓越しに、俊二に向かって吠えるジンジャを制する、恵美と目があった。
山内は有罪とあらば、医師免許剥奪されかねない状況ではあったが、先走って移植を受けた祐子本人が亡くなってしまったので、幾分、相手方のテンションも下がり、茂雄から示談金を渡されたこともあって先方は訴えを取り下げた。
倫理委員会は山内に2ヵ月の謹慎処分を下すに留めた。
謹慎処分の間、祐子を失った山内は、意欲もなく、毎日のようにウイスキーを飲んで過ごす日々だった。
俊二も、学校から帰ると、部屋にこもり、ぼんやりと過ごし、夏休みに入ると昼前に起き上がってきては、ホテルのプールに出かけ、毎日、毎日昼から夕方まで疲れ果てるまで泳ぎ、家に帰ると何も考えずに寝た。
俊二は泳いでいるときの苦しみで悲しみを忘れ、眠っているときに夢で母に会えるような気がして、ひたすらそのルーチン生活を続け、一月ほどすると、腕や胸板に筋肉がつき、日焼けして、ひょろっとしていた細い体は、たくましい均整の取れた体になっていた。
「少しぐらいいいだろう、お酒は初めてか?」
山内は、鴨川沿いの納涼床に俊二を誘った。
「父さん病院戻ったら、たくさんの命救うぞ、・・なあ、こんなつらい思い誰にも、どの家族にも味わわせたくないよな」そういったとき、母が亡くなってから、はじめて父の顔に生気が出てきたように思った。
俊二は「母さんの初盆どうするの?」と鴨川のせせらぎを感じながら聞いた。
五山の送り火を見て、感慨深い思いをしたのは今回が初めてだった。
『大文字・妙・法・舟形・左大文字・鳥居形』と燃え、浮かぶ字を見ているとジーンとしてきた。
母の魂が、あの世に向かって帰って行く・・・・
母の死はあまりにも俊二の魂を揺さぶった、
魂って、意識って何なんだ、運命は決まってるのか、神はサイコロを振らないのか、振るのか、どうしてだれもこんな不思議なことに驚き好奇心を抱かないのか?
「たくさんの命救うぞ、・・なあ、こんなつらい思い誰にも味わせたくない」
といった父の言葉を今反芻すると、俊二も、できるだけ多くの人の命を救うため、医学部に進むことを決めた。母のような人を救うこと、ドナー待ちで苦しませないこと、そもそもこの意識とは何かを突き止めること、それを成し遂げると、母に心で誓った。
「山内さんに折り入ってお願いがあるのですが」
田口牧師から、ひさしぶりの連絡だった。
「葬儀の斡旋ですか?」
結婚式、葬式とすっかりお世話になった、祐子の先輩ということで、田口牧師とすっかり打ち解けている山内は、冗談をいった。
「おい、罰当たりなことをいうな、でも、冗談が言えるようになったんだな、元気になってきてよかった、・・で、相談に乗って欲しいのは、就職に関するお願いなんだが」
「わかった、履歴書をファックスして下さい」
「それが・・時間があればぜひ当人と面会して欲しい」
山内は、夜、教会に隣接する田口さん宅に用件の詳細を聞きに出向いた。
「祐子さん、本当に残念だったな、でも、祐子さんは幸せな人生だったと思うよ」
田口牧師は感慨深く山内にいった。
「で、就職の件、橋本君といってな、京都大学の医学部卒なんだが」
山内は笑った「冗談でしょ?、京大の医学部だったら、私の口ぞえなくても、親父の病院だって採用したいよ」
「それが、うちの施設で育った子で、父親が育児能力なくて、うちに」
「当人が優秀なら別に問題ないだろう?」
山内は、さっきから履歴書を細部にいたるまで読んでいった・・「橋本神治・・・」
「教会の前に捨てられてた、犬の毛だらけのドライブBOXに、瀕死の状態で」
「瀕死?・・」
「神治君を呼んでくれ」
牧師は百聞はドアを開けて言った。
しばらくすると、うつむき加減の・・・第一印象は、ガーゴイルだった。
小柄で、小太り、骨が少し歪んでいる。ほっぺはふくらし粉で膨らんだように横に広く、赤く日に焼けているが、かさかさの肌には、にきびをつぶした後や、どうしたのか深い傷跡が口元や首にあり、輪郭が少し変形している、赤い鼻は低く、上を向いている。
山内は言葉を失った。
「橋本神治です。お世話になっています」
橋本は、恐縮して、なにかに怯えたような物腰で、ぎこちない笑顔をつくり、歪んだ口で息が少し漏れるような声でいった。
「うちの施設では、身寄りのない子や、いく当てのない子どもを引き取って育てているのだが、神治君は、ほんとうに面倒見がよくて、頑張り屋で、頭もいい。なのに・・就職先決まらなくて」
理由は見ての通りだと、田口牧師が言ったように、山内は感じ取った。
「神治君は、なにになりたいのかな?」
実のところ、医学部だから医師という答えはほぼ認識してるのだが、この風貌と物腰で、さっきの流れで山内医院で働きたいとか要望されたらどうしたものか、はっきりとした茂雄の性格だと、平気でこの青年を傷つけるようなことを言うだろう、俊二が医学部に行くと言ったので、跡継ぎができると茂雄が喜んでいるところだった。
「医師です。山内先生のような執刀医にあこがれています、僕は貧乏で医療費を払えない人や、絶望的な人を無料で救ってあげる医師になる自信があります」
橋本の成績は、もちろん、それを成し遂げるのに十分な可能性を持っている、普通の容姿であれば、
内々の事務職ならばと山内は思いをめぐらせていたが・・、
「今まで、アルバイトで特別養護老人ホームで働いていたんだよね?」
「はい、ただ、お婆さんやお爺ちゃんにも、打ちとけることもできず・・」
夜、下の世話で呼ばれていくと、認知症のおばあちゃんに化物が来たと騒がれ、名目上、辞職していた。
「あと、田口さんのお嬢さんの恵美ちゃんの家庭教師させてもらってるのですが、恵美ちゃん、めでたくもう推薦で合格致しました」
「そうか、おめでとう。うちの俊二も受験だ」
「ああそうか、しっかりしてるよ俊二君は、この前の葬儀でも凛々しいし、気丈な態度で・・秀才らしいな」と田口牧師は葬儀の時の俊二を思い起こした。
脱線しかけた話を元に戻し、考えながらも、老人ホームでそれなら、なおのこと一般病棟では難しいと山内は考え始めていた。
「今、話にあったように、先だって、うちの妻が、なくなって」
「はい」知ってますと橋本はうなづいた。
「ああ、神治くんは、葬儀の準備と後片付けもやってくれたんですよ」
「そうですか、では、改めて、その節は、お世話になりました」と山内は橋本に改めて頭を下げた。
「で、その、レシピエントの選択のときに、私が妻を優先させまして、あわや医師免許剥奪かと、幸い倫理委員会等の罰則処分が終わったばっかりなので、病院に口を利くだけの権威と就職に口ぞえすることが不正ととられたときのリスクを考えると、もちろん当たってみますけど、ちょっと厳しいかな」っと、言わざるを得なかったし、それが山内の率直な見解だった。
実のところ山内医院にお願いしたかったのだが、山内が、そこに焦点を合わさないようにしているのもわかったので「神治くん、ちょっと下がってくれるか?、先生と話がある」と橋本にいった。
「では、失礼します」と橋本はさがっていった。
「見ての通りなんだ」田口牧師は少し深刻な顔をした。
「本人には言いづらいが客商売や人に接する仕事は難しいと思う」
「実をいうと」田口はそうなんだと同意したように頷いて言った。「私も当たってみて、一つだけ、保健所 、、っといっても、犬の処分場なら採用してもいいという返事があってね、ただ、命を救いたいといってる京大卒の神治くんに、犬の処分場の話はどうだろうかとは、あんまりで、先に山内さんにお越しいただいたんです」
「病院のほうでは、問い合わせてみるが、実験の助手とか、正直いやがって誰もしない実験の後かたづけや清掃とか、それもアルバイトくらいなら、いけるかもしれないが」
「お願いします、瀕死の神治君を治療してくれたのが、先生のお父さんの茂雄さんで、山内医院に何か縁があればと願ってね」
「いろいろ当たってみますね」山内の考えてくれている様子をみて、田口はただ、深く頭を下げた。
田口牧師がまだ若い頃、クリスマスの特別礼拝の準備に追われていた十二月、橋本は、教会の入口に、寒空の下、ペット用のドライブBOXに置き去りにされていた。
橋本は、犬に噛まれた傷が化膿し、高熱で衰弱し、泣く力さえ残っていなかった。
ドライブBOXには、端の方に焼酎のレシートとか、犬なのか、この子のものなのか判然としない吐しゃ物とか、尿の跡が、そのまま残っていて、橋本をくるんでいたダニだらけのぼろ布には、たくさんの犬の毛が付着していて、放置された犬独特の臭いを放っていた。
そして、ないより痛ましいのは、いたるところに青アザがあり、頭部にタバコを故意に押し付けた火傷の後もあった。
田口牧師は、近所の山内医院に抱きかかえ飛び込み、山内茂雄医師がちょうど今の山内ぐらいの頃、橋本を治療してくれた。
いったい、どうすれば、こんなむごい事ができるのか、田口の心は痛み、そして、山内茂雄先生は、抗生物質や栄養剤を点滴しながら執刀し治療を施し、一時手遅れだと思われた橋本をの命を取り留めた。
田口牧師は、警察の捜査で、レシートと状況から、秋田犬を扱うブリーダー、橋本勇作が父親だと特定され、自ら滋賀まで勇作のもとへ赴いたが、荒れ果てた暮らしぶりを見て、この子を返すことは断念した。
警察には内々に収めてもらうよう頼み、教会の施設で育てることを申し出た。
もちろん、本人には、幼いころから、両親は交通事故で亡くなり、橋本は奇跡的に一命を取り留め、傷跡はその事故の時の傷だと嘘で通していた。
橋本はまだ2歳にも満たない状況だったから、虐待のことも、治療のことも覚えていない。
でも、「医者になりたい」、しかも「山内先生のような医者になりたい」と橋本がいったとき、田口はなにか、この子の潜在意識には記憶が残っているのか、この世に生を受けてから、数々の虐待の末、命を救ってくれた医師に初めて愛情というものを感じ、記憶の底に山内医院のことが残っているのではなかろうか、犬の処分場の話と医師の話、橋本の運命や人とのつながりを改めて感慨深く感じ取って、葬儀で再会した山内にお願いした。
橋本は、幼少から、田口牧師と充子夫婦に親に代わって愛情に包まれ育てられた。
みんなでお祈りをし、ご飯を食べ、お代わりすると田口牧師は、うれしそうに微笑んだ。
「人を愛し、罪を許してあげなさい」と、ことあるごとにいって聞かされた。
しかし、子どものいじめは執拗、陰湿で、橋本はいつも耐えていた。
耐えに耐えて、それでも耐えきれないときは泣き出した。
酷いのはその、泣く橋本を見ては、その顔が面白いと泣き顔を見てさらに笑われ、からかわれたことだ。
「お祈りして、そんな豚みたいな顔になるなら、どんなくだらない神様なんだ」
橋本は、神様を侮辱する悪態は許すことができず、クラスメイトをつきとばした。
クラスメイトは、倒れるとき、イスで後頭部を打ちつけ、四針縫う怪我をし、橋本はクラスでののしられ、自分がいじめられてても取り合わない担任の先生に呼び出され職員室でひどく怒られた。
その晩、その子の親が施設に怒鳴り込んできて、何度も橋本に変わって頭を下げ、謝り続ける田口夫妻を見て、涙が止まらなかった。
そんな嫌な学校生活の合間に唯一橋本が救われる日が日曜日だった。
施設の仲間もみんな揃って礼拝し、午後から一緒に遊ぶ、ここだけは誰も橋本をいじめたりしなかった。
それに、可愛い恵美ちゃんと日曜日には会える。
恵美ちゃんは、田口夫妻の子供で、三歳ぐらいの頃からヨチヨチと礼拝に参加するようになって、みんなと遊ぶようになっていた。
恵美ちゃんは明るくかわいらしい輝きを放っていて、幼い頃からどこか他の子とちがう神聖な雰囲気を醸し出していた。
恵美ちゃんは施設の子供の中で、アイドルだった。
みんな、恵美ちゃん、恵美ちゃんと、気を引こうと一生懸命おもちゃを持ってきたり、面白い顔をして笑わせたりした。
まるで、この施設の子にとって、恵美ちゃんだけが自分たちより恵まれた、一般の子を唸らせ、黙らせる光のように感じていた。
橋本は中学に入ると、いじめられたり、けなされたりしながらも、立派な医師になって、いつか見返してやると、夜遅くまで勉強した。
施設の子供の世話をした後、静かに参考書や問題集を開いては、眠くなったら、馬鹿にしているクラスメイトを思い出して鼓舞し、面白そうなTVをみている、みんなの笑い声を後目に、聞こえない振りをして勉強した。
高校に入学しても、小柄で、変形した体でスポーツをすることもなく、のけ者にされても動じず黙々と受験勉強を繰り返した。
医師になるための医学部は、国立でしかも奨学金をもらう以外、橋本にその道は開かれていなかった。
ガールフレンドはおろか友達さえできない橋本は、その青春の全てを犠牲にして、京都大学医学部に合格した。
「すばらしい、なあ、みんな、努力は実るんだぞ、神治兄ちゃんをみんな見習え」
田口牧師はしみじみと、何度も祝福の言葉を送ってくれた。
この、合格の瞬間、そして、恵美ちゃんを交え施設のみんなで合格を祝ってくれたことが、暗い灯火のような橋本の人生を、一瞬ポッと燃え上がらせ、照らし出してくれた瞬間だった。
「橋本さん、今日もお手伝いしてくださるんですか?」
恵美はうれしそうに橋本に気づき声を掛けてくれた。
高校生になった恵美は、いよいよ橋本にはまぶしくなってきた。親愛なる田口夫妻の娘で、妹のような存在というのではなく、明らかに可愛く美しい女性として意識し始めていた。
橋本は施設に来て、本当は、田口さんや、施設の子供に会いたいのではなく、恵美に会いたいのだということに気づいていた。
「最近、橋本さんによく会うんだ」
施設で、お父さん役だった田口は、相変わらず同じジャンパーで施設に来る橋本の生活や経済状態、孤独な環境を気にしていたが、恵美の話を聞いて、就職はおろか、アルバイト先さえ難しい橋本をこのまま放置しておくのは罪悪だと思い、橋本が独り立ちするまで、責任をもって見届けようと決め、受験も近くなってきた、恵美の家庭教師を口実として、週二回家に来てもらうようにした。
希望のキリスト教系の女子短大に推薦で恵美は合格した。
うれしくもあり、橋本が恵美と会える至福の時間の終わりを意味した。
「恵美ちゃんおめでとう」
恵美が推薦入試で合格したので、田口家ではささやかなお祝いをした。
「橋本が恵美に教えてくれたからだ、本当にありがとう、次は神治君の就職だな」
田口牧師は深く御礼をした。
恵美も父に合わせて、感謝の言葉を橋本にいった。
「こちらこそ、何から何まで」橋本は田口牧師に頭を下げた。
山内の口ぞえで、医学部の実験補助の口が決まってはいたが、実情は実験の補助といっても、マウスやラットなど実験動物の世話や死骸の処理、清掃と消毒など、誰もやりたがる者がおらず、医学部を出た人間に任せる仕事では、到底なかった。
「山内さんのおかげで、京大医学部の実験室で決まりました」
「そうか、よかった、セーブライフには、また報告兼ねて挨拶に行っとこう」
橋本の就職先を用意してくれていた、動物愛護団体のセーブライフは、保健所で処分される犬と猫の救済を手助けする非営利団体で、主に、無責任な飼い主に捨てられた、犬や猫の里親を探すボランティア活動をしていた。
田口牧師は橋本の就職先として代表の小宮山に相談に乗ってもらっていた。
処分場は、飼い主が無責任にも放棄した犬を一週間保護して、引き取り手がつかない場合はガス室に追いやって炭酸ガスで窒息死させて焼却するという。
恵美は、父に連れ添って来たものの、キャンキャンと吠える犬が助けを求めているようで、胸を締め付けられる思いがしたし、時として、自分の運命がわかるのか、絶望して、まったく動かない犬さえいて痛ましくて見ていられなかった。
「この犬は神社の軒下に捨てられていまして、連れてくるときから全く吠えないし、なつこうとしないですね」職員のひとりが、絶望しきっているのか、まったく反応のないビーグル犬を抱いてきた。
「かわいそうに」恵美は思わず抱きあげた。
ビーグル犬は、恵美をくんくんと嗅いでいて、職員が引き取ろうとすると、必死で右に左に体をゆすって、恵美から離れまいとした。
「この犬も処分されるんですか?」
「ええ、引き取り手がいないですから」
「私、この犬引き取ります」恵美は、いたたまれず、とっさにいった。
「処分するなんて、ほっとけなかったのよ、慈悲よ慈悲」
「ちゃんと、恵美が世話するんだぞ」
結局、このビーグル犬は恵美から離れず、恵美以外には寄り付かなかったので、恵美が世話する以外になかった。
田口夫妻にも、施設の子供にもなつかず、物静かで神社の軒下で悟りを開いていたかのように吠えることもなかったという犬。
恵美は、神社にいたから、単純にジンジャと命名した。
「全く、なつかない犬だな」
田口牧師がエサを持っていっても、無反応なジンジャにいった。
「神社にいたから、宗派が違うんじゃない」
恵美は、笑いながらそういって、ジンジャをなでた。
「そういえば、山内さんの葬儀の時、ジンジャ、俊二さんめがけて飛びついていったじゃない、尋常じゃなかったわ」
「いたぁ!」橋本が、ジンジャをなでようとしたとき、噛み付かれて手を引いた。
「今度、山内さんとこ、ジンジャ連れて行ってもいい?」
「やめときなさい、俊二君受験前なんだから」
俊二は、難なく、当たり前のように合格して、京都大学の医学部に進学した。
医学部には父を慕う教授や学生も多く、案内してくれたり、レクチャーしてくれたり、お祝いくれたり、したたかに特別扱いを受けた。
自動車免許を取ると、茂雄は、合格祝いに、車好きの俊二に最新のSUVを買ってくれた。
俊二は瞬く間に、学部やキャンパスでも人気者になり、その才能に期待を寄せられた。
母の命日、俊二は自宅の祭壇の母の写真に手をあわせ、母が好きだった生八ツ橋を備え、免疫を抑制することなく、拒絶反応の出ない薬の研究をすることを母に誓った。
しばらく厳かに、母との思い出に浸っているとき、
「キャン!、キャン!・・・」
と犬の吠える声が聞こえてきた。
家政婦が、お客さんだと玄関のドアを開けたとたん、興奮するジンジャが俊二めがけて駆け込んできた。
「キャン!、キャン!」尻尾をこれ以上振れないくらい喜び勇んでいるジンジャの後
「もう、こら!、ごめんなさい」と恵美は入ってきた。
「こら、ジンジャ!」ジンジャは、恵美に呼ばれても眼中にないほど、俊二に飛びつき離れない。
「ああ、すいません、田口です」
恵美は予想はしていたが、あまりに露骨な化学反応のごとくジンジャが俊二に反応するので正直びっくりしていた。
「いつもはおとなしい犬なんですけど」
「これが?」俊二は、興奮して落ち着かないジンジャを抱きかかえ、あわただしく舐めるジンジャに笑った。
「本当にすいません、田口の娘の恵美と申します、本来ですと父が来るところを」
ジンジャがすっかり俊二に抱かれて、落ち着いたのを見計らって、恵美はいった。
「たしか、母の葬儀の時」
「ええ」
「僕に、何か、においでもあるのかな?犬にとって、猫のまたたび、みたいな」
「そんな~」恵美は笑った。
「でも、子供のころから犬は僕に引き寄せられるみたいなところがあって」
「そうなんですか」
恵美は、興味ありげに、俊二の首の辺りをくんくんと嗅いでみた。
「わ、臭い!」
俊二はあわてて、自分のにおいを嗅いでみた。
「冗談です」恵美はいたずらっ子のような目をして笑った。
俊二は、においを嗅ぎに顔を近づけた恵美に一瞬ドキッとした。その悪戯に心から笑い、母がなくなってからというもの、初めて癒される感覚を恵美に覚えた。
恵美はさわやかで知的な俊二に見つめられると、ジンジャがどうして俊二に惹かれているのか理由を解明しようとする前に、自分が俊二に惹かれているのがわかった。
俊二は、誰といても、いつも何かを考えていたり、思いついたりする性分で、とくに自分の部屋の難しい本や、顕微鏡をはじめとする実験機材などで、騒がれたり、無知だったりすると、早く帰ればいいのにと独りになりたがる性分だったが、恵美といると安らぎを感じ、時間を忘れ、気がつけばとりとめもない話をしながら、あまえるジンジャをなでたりするだけで3時間も4時間も過ぎていた。
突如、着信音が流れ、恵美は携帯をバックからあわただしく取った。
「・・ああ、ごめんなさい、まだ山内さんのお宅なの・・橋本さん・・んん、わかったすぐ帰る」
「お家から」
「うん、お父さん、いちいち、家族そろって一緒にご飯食べたがるの」恵美は少しうっとうしそうに答えた。
「そう、じゃあお父さんによろしく伝えといて・・っていうか、送って行こうか?」
車の中で、携帯電話を取り出すと、恵美は橋本からのメールに短く返信した。
「メアド教えると、一日中長いメール送って来て、、」
恵美は車で充電中の俊二の携帯を勝手に手に取って俊二の携帯から自分にかけてワン切りした。「山内さんの番号登録しておきますね」と、運転する俊二の端正な横顔を見て言った。
「ご無沙汰しています」
俊二はせっかくなので田口宅で挨拶をした。
「まあ、まあ、俊二君、あがってあがって」
田口牧師は、俊二を招いた。
「キャン、キャン!」ジンジャの吠える声が聞こえ、恵美が帰ってきたのだろうと、食卓では、橋本は初めて買ったスーツをそそくさと整えて恵美を待った。
「おい、山内さんとこの俊二君だ」
奥さんの充子さんも、それを聞くと「まー、こんなむさくるしいところまで」と満面の笑みで迎えた。
「どうも」橋本は恵美と俊二に立ち上がって頭を下げたが、スーツ姿の橋本を見ても、チラット注意を向けただけで、席に着いた俊二の隣に、当たり前のように座った恵美を見たとき、何かに胸をえぐられたような寂しさと痛みを感じた。
「キャン、キャン!」といつもは存在感のないジンジャまで、俊二の横で、うれしそうに尻尾を振っている。
「本当だ」ジンジャの振る舞いに、田口夫妻も興味深そうに感心している。
「母の葬儀の時はお世話になりました、今日一回忌も無事終わりました」
俊二は改めて、御礼をいった。
「祐子さんも、こんな立派に息子さんが育って、思い残すことなく逝けたと思うよ」
田口牧師は、頼もしそうに俊二をまじまじと見ていった。
「ああ、橋本君だ、葬儀の時はボランティアで世話役してくれたんだよ」
「橋本です」
俊二は正直その猪八戒のような風貌に気をとられながらも、当たり障りのない笑顔で「その節はありがとうございました」とお礼をいった。
「お父様には医学部の研究室での職をお世話いただきまして、本当にありがとうございました」
「じゃあ、そのうち研究所でお会いしますね」俊二は名刺を見て奇遇だというように言ったが、橋本は実は何度も食堂や、研究室で人気者の俊二を遠まきに見ていた。
「橋本君にも今だからいうが」田口牧師は少し真剣な面持ちで「負傷してた君を執刀し、回復させてくれたのは、山内医院で、俊二君のお爺さんなんだよ」
橋本は、しばらく沈黙して、改めて、俊二に頭を下げた。
「さあ、俊二さんも今日はたくさん食べてくださいね」
奥さんの充子さんは、俊二と恵美の小皿やグラスを取りに、台所にむかった。
「本当に山内家には縁があるな」田口牧師はワイングラスを置くと上機嫌に、身を乗り出して、妻に聞こえないような声で「実は父さんな、同級生だった俊二君のお母さん、美人で有名でな、学生時代思いを寄せてたんだよ・・・」
奥さんが戻ってテーブルに着くと、田口牧師は何もなかったかのように、俊二のグラスにワインを注ごうとした。
「いえいえ、今日車なので」と施設の子供にジュースをもらった。
しばらく恵美は、今日のジンジャの様子や、俊二を交えた山内家のことなど上機嫌で話した、俊二にとっても、家族でおしゃべりしながら食事は、懐かしく、心休まる思いがした。
俊二は、聞きながらも、時折寂しそうな顔をしてる橋本に気づき、癌の新しい治療法や、移植手術の技術、拒絶反応や免疫抑制剤のことなどを話し、二人の専門的な会話を聞いて、専門用語がわからないながらも田口夫妻も楽しそうだったし、俊二は少し橋本の容貌にもなれてきて、話が弾むと「よく、勉強されてますね、これも何かの縁です一緒に医学の発展のために研究手伝ってもらえませんかと提案し」橋本と改めて握手した。
橋本は、話の内容と志に共感し、医学部に入ってきたばかりで、自分の持ってる生命観をはるかに凌駕する器を持っている俊二に嫉妬と驚きを感じた。
ただ・・・俊二は、橋本との会話に集中し、気にも留めてなさそうだが、橋本には、俊二の横に寄り添い、かいがいしく俊二の小皿にサラダや惣菜を取り分けている恵美の様子が気になって仕方がなかった。
「俊二さん、頭もいいし、男前だし・・もてるんでしょ?」
と話が一段落すると充子がいった。
「恵美もな、たぶん俊二君、目当てで、会いに行きたいもんだから、わしの代わりに挨拶に行くって」
恵美は、モーっと、酔っ払っている父を声なき声で制した。
「ジンジャが会いたがってたの・・」恵美の、明らかに照れてる様子を見たとき、橋本は恵美が俊二に引かれていること察した。
帰り際、自転車に乗って帰る橋本をよそに、SUVで帰る俊二に手を振る恵美を見たとき、さらに確信を深めた。
自転車の橋本を抜き去るとき、別れの挨拶のようにクラクションを鳴らして走り去る俊二に、橋本は頭を下げた。
自分の人生で初めて、医療の方向性、研究のテーマなど一緒に取組みたいと思わせた男としての、さわやかな期待と、憧れで神々しくもあった恵美が、はじめて男を意識する女としての側面を引き出された、悔しさと苦しみがが同居し、橋本に入り組んでいた。
「お父さん、ちょっと話しすぎよ」
膨れる恵美に「お父さんだって、青春時代はあったさ」
「そうじゃなくって、橋本さん治療したの、山内医院だったとか、私が俊二さん目当てで代わりに行ったとか・・・」
「いわないほうがよかったかな」と酔いがさめかけてきた田口牧師は神妙な様子でいった。
俊二が家に着くと、携帯にメールが入っていた。
<今日は本当に楽しかったです♪。俊二さんが帰るとジンジャがもう寂しがってる。私も、少しさみしいかなww・・またおあいしたいです~♪ 恵美>
俊二が返送すると、すぐにまた返送されてきて、何度もメール交換は続き、<お休みなさい>のメールを送ったときは、日付が変わっていた。
橋本は、恵美の決して自分には見せなかった好意を抱く女としてのしぐさを思い出し、苦しみ、眠れず、結局深夜にユニットバスに熱めのお湯をためて、浸かった。
立ち上がっては、湯気で上気する体を、ユニットバスの鏡に写し、縫い合わせた傷跡や、何かに噛み付かれている傷跡などをまじまじと見て幼少の記憶を取り戻そうとしていた。
今になっても、これほど深い傷後が残っているとなると、物心もつかない当時、どれほど深刻な状況であったか、医師の知識をまとった今となっては、改めて実感する。
うすうす感づいていたが、たぶん、何かにかまれた傷後は、交通事故では説明できない、山内医院での治療を聞いたとき、手繰り寄せるべき封印された記憶の断片が引き寄せられた。
その後、俊二と恵美は毎日のようにメールを交わし、携帯で話し、そして会う約束をしては、河原町に出向き、お気に入りの抹茶のおいしい店でパフェを食べたり、食事をしたり、時として鴨川の河原に腰を下ろしては、とりとめもなく、河のせせらぎを聞きながら語り合った。
「河のせせらぎと、恵美の声を一緒に聞くと、僕の魂に心地よく響くよ」俊二は、恵美とずっといたいと思った。
恵美も「お爺ちゃんと、お婆ちゃんになっても、この河原に腰かけて、ずっと話していたい」ともう決めてあるとばかりの気持ちを伝えた。
恵美は、母がなくなってから無気力に陥った俊二の心を癒し、安らがせ、穏やかに気力を充実させていった。
2人は、一緒に琵琶湖の花火大会に出向き、五山の送り火を眺め、俊二は幸せであることを亡き母に報告し、楽しい夏も終盤にさしかかったとき、二人はドライブに出かけ、ドライブウェイの頂上にある展望台で美しい夜景を眺め、俊二は恵美を抱きしめ、そのまま当然の成り行きのように結ばれた。
朝目覚めると、恵美は布団にもぐって、俊二の体にいたずらして、はしゃぎ、布団の中で俊二をいじっては不思議そうな顔をしていた。
夜は恵美が恥ずかしがって、ほとんど電気を消して、薄明かりだったため、よくわからなかったが、朝の光が漏れる部屋で裸の恵美を見ると、俊二はよみがえった。
昨夜は、やっと入ったのだが、今朝は意外なほどすぐに一緒になり、果てた後、恵美は何度もキスをしてきた。
俊二は恵美といるといつも安らぎ、まるでずっと昔から知っているような感覚すら感じるほど深く結びついたし、恵美はつきあえばつきあうほど、尊敬すべき天才的な片鱗を見せる俊二にどんどん魅せられていって、山内家と田口家では、いつの間にか二人は公認の仲になっていた。
橋本は、少しばかりおなかの調子が悪いとき、決心して山内医院にいった。
山内茂雄は老体ながら、矍鑠として、診断をしていた。
優しく、良心的で、腕もよく、待合室は小さな子供から、お爺さん、お婆さんまで、大勢の患者さんで、座る隙間もないほどだった。
橋本は、病院のつくりを見て、なにか記憶に通じるものがないか思い巡らせもしていた。
「橋本さん、橋本神治さん」
橋本は呼ばれると診察室に入った。
「どうしました?」
おなかの調子が悪いことを話し、半身裸になって、茂雄の前に座った。
聴診器をあて、おなかと背中を打診し、橋本が茂雄に昔の治療の事実関係を聞こうとしたとき。
「元気だったか?今、大学病院の研究室にいるらしいね」
と茂雄はいった「君のことは博之にも就職の件で相談あったから・・」
「そうですか」橋本は、茂雄に向き合うと「幼い頃、先生が僕の体を治療してくれたんですよね?」っと聞いてみた。
茂雄は「大変だったんだぞ、田口さんが君を病院に搬送したときは、もうダメかというところだった、ただ、あの時、治療した子供が、こうして、立派な医者を目指してがんばってくれて、うれしいよ」
橋本は、自分を助けてくれた医師の記憶をたどり、実感しようとした。
「この、かまれた傷、消えませんか?」
「ああ、秋田犬に咬まれてたとこな、皮膚を移植したら治るが、形成外科の方だな、気になるか?」
<秋田犬?>
「どうして秋田犬だとわかったんですか?」
カルテを書きながら、茂雄は<田口がいつか言ってたが、知らなかったのか>と小首を傾げ
しばらく、沈黙が流れた。
「最近は、俊二君の研究の手伝いもさせていただいてます」と橋本は加えた。
「おー!俊二と、そうか、よろしくな、たまには遊びに来いと、いっといてくれ」と
茂雄は満面の笑みを浮かべた。
橋本は自分は何処から来たのか?何度も思いをめぐらせた。
橋本は、医学部を優秀な成績で卒業し、その知識と技能を修得しているにもかかわらず、医師として雇ってくれる先がないことを不公平に感じながらも、研究の補助にちなんで、医学や生物学を徹底的に勉強できる環境にあった。
自分を毛嫌いしたり、風貌で差別することも、胸に突き刺さる言葉も投げかけることのないマウスや細菌の管理、知的で、けなされることなき環境が板についてきていた。
さらに、仲間に誘われることのない橋本は、夜遅くまでの残業や、徹夜の管理も苦じゃなく、進んで引き受け、就業時間に比例して、一人生活するには潤沢な収入も手にし、所持品や引越しで環境も整い、気分もおおきくなっていた。
口添えしてくれた山内博之先生は、橋本への生活基盤と能力を発揮できる環境を、最大公約数的に示してくれた。
内心、医学部の研究の補助の仕事は、忙しく患者に振り回される医師より、対人の仕事が向かない橋本にとって、居心地よく、はまり役だった。
そして、橋本は自分でも気づいていたが、通常ならグロテスクで扱うことが生理的に困難な死骸や、臓器、亡くなった動物や、実験で死んでいく有様を観察するなど、潜在的にある種のサディスティックな喜びや快感を感じる自分に気づいた。
もちろん、病気で苦しむ人や、家族を遺族にしたくない純粋なモチベーションは常にあったが、執刀するイマジネーションは夢にも現れ、首尾よくメスをつきたて、切除することがリアルな妄想としても日々橋本の中に根づいていた。
そういった、橋本の欲求部分は、礼拝や神の教え、恵美への思いで毎週のように引き戻されることによって抑えられていたのだが、
実験室では充実して孤独感もなく、俊二と恵美の関係に傷つき、教会に足が遠のくうちに、抑制が外れ、俊二のいう、拒絶しない薬品でもできたら、いろいろな生物同士を接合させたいような衝動があった。
橋本は、なんで秋田犬に咬まれていたのか、また施設に入る前どうだったのか、田口牧師に真実を聞く決心を固め、学生時代には入ることさえはばかられた、高級な菓子売り場に出向き、お茶菓子など下げ、タクシーで田口宅に向かった。
「おお、久しぶりだな、なんか頼もしくなったな」
田口牧師は橋本の身に着けた服装や靴のグレードがあがり、そういった部分から湧き出てくる自信や落ち着いた物腰を感じ取った。
「私も、田口牧師のおかげで、やっと一人前になりました」
橋本は談笑のあときり出した「もう、社会人です。僕が本当は何処で生まれたのか、どういう経緯で、何があって負傷していたのか、施設に引き取られたのか真実を教えてほしいのですが」
田口牧師は、沈黙の後「この前、私が山内医院での神治くんの治療のことを口にしたことを、後で気にはしていたんだ」
「秋田犬・・」橋本が話しかけると、
「神治くんは、教会の入り口に置かれててな、警察の捜査でお父さんがわかったんだが、生活に困窮して、目が見えなくなった、秋田犬のブリーダーさんで」
「そうだったんですね」
「酒癖の悪いお方でな、神治君を戻すわけにはいかなかった」
「今も、」
「今もご健在だよ、ほら、動物愛護団体のセーブライフの小宮山さんが、秋田犬のブリーダーでは、ちょっとした有名人らしい」押し黙ってる橋本に「神治君も立派に独り立ちしたし、会いに行くなら、」と言ったが、父の連絡先をメモして、少し考えることにした。
俊二は、大学でも、ある種の将来を嘱望された天才として扱われ、父との繋がりもあり、自由な研究が手放しで許され、また潤沢な研究費用も、国や、製薬会社などが提供し、その成果を将来につなげて欲しいと切望されていた。
研究内容には、あらゆる臓器や、どの組織にも育つ能力を秘めた万能細胞を作製し、患者と同一の遺伝子を持つ臓器を再生し、拒絶反応のない移植医療を実現する方法を倫理の問題をクリアーし実現すること。
臓器移植の際、免疫力を低下させることなく拒絶反応を抑制する薬の開発、それも、ドナーリンパ球に対するクロスマッチ検査がどうであろうが、ドナーの適合性を問題視しない拒絶抑制剤の開発。
この研究では俊二は正直、異なる生物間ですら移植、接合できてしまう抑制剤を、少なくとも候補物質とターゲットとなるタンパク質との結合状態をコンピュータのシミュレーション上で、計算、理論の実証はできたと確信していた。
この計算、実験、臨床するにあたって、俊二はAlphaFold3をベースに独自改造したモデルを走らせ、NVIDIAのH100クラスターをクラウドで借り受け、タンパク質の立体構造予測から分子動力学シミュレーションまでを統合したパイプラインを組み上げた。
「AIが出した答えの意味を、まだ人間が理解できていない段階にある」と俊二はいったが、研究員には伝わっていないようだった。俊二は計算に専念し、橋本は研究を支えてくれた。
他の誰もが嫌がる、一人での徹夜の実験のデータの監視や、正直、異臭が漂ったり、気持ち悪かったりする処理や後かたづけなど雑用も何でも率先して引き受けてくれるので、本当に重宝する存在だった。
その風貌ゆえに、本来医師として第一線で働ける知識をもっていたが、実験助手に甘んじてくれているので、能力的にありがたかったうえ、田口さんのつながりで信用度も大きく、計算結果や、新薬の候補の分子構造など世界的成果は、製薬会社にとってゴッドメディスンであって社運を左右しかねない重要情報になりうるので、セキュリティや管理も任せ、計算した成果を、生物実験、臨床実験の予定など二人だけの秘密も共有してた。
橋本は、もちろん、一緒に実験する中で、俊二の天性の分析力、発想や意図、器用さは、まさに悔しいが自分の次元をはるかに超えた才能だと尊敬していたし、お爺さんからの家系ごと代々恩人でもあるので、大きな存在だった。
だが、時折、実験スタッフも、有名な医師や製薬会社の幹部も全て食事も取材も俊二、俊二、俊二と俊二を中心に回り、自分を独り実験室に置き去りにして、楽しみながらも栄えていく俊二の姿に、嫉妬し、幾度も俊二に自己重要感を蔑まれるような疎外感を味わされ、おそらく、携帯電話の楽しげな会話の様子で憶測だが、ほぼ確実に自分を研究室に残し恵美とデートの約束をしていると思うと、その思いはさらに強くなった。
アパートと、研究室を往復し、計算、研究の補助に没頭している間に月日は流れ、夏を迎え、製薬会社の営業か詐欺の電話しかかかってこない橋本のスマホがなった。
「神治君、元気にしとるか?」全くご無沙汰していた田口牧師からだ。
「実は頼みたいことがあるのだが」と、毎年教会の施設の子供を引き連れて祇園祭に出かけるのだが、田口牧師は今年、ひどい腰痛らしく、子供たちと出かけるのがつらい、是非橋本に子供たちの引率をお願いできないかということだった。
祇園祭もハイライトの宵山・山鉾巡行、橋本は施設に出向いた。
「神治くんも、忙しいのにすまんね、腰がなんとも痛くて」
田口夫妻は恐縮気味だった。
「いえ、いいですよ、こんなことぐらい」
橋本は、出かけるのを楽しみにしてる子供たちに笑顔を振りまいたが、施設の子供は月日が流れて一巡し、橋本と面識のある孤児はほとんどいなかった。
「さあ、みんな、よかったな、今日はこの施設のヒーローの橋本さんが連れて行ってくれるぞ」
橋本と目が合うと「えーこのおじさんがヒーロー?」と訝しそうに子供の目がいっていた。
子供たちの歓声が上がった方を見ると、恵美が俊二と一緒に浴衣姿で現れた。
橋本は、つややかな恵美に見惚れて言葉がでない。
田口牧師は「恵美も色気づいて」と、橋本にコソコソ声で耳打ちした。
「お姉ちゃん可愛い!!」橋本と目があうと恵美は何か言おうとしたが、子供たちにさえぎられ軽く会釈をした。
俊二に微笑む幸せそうな恵美、思い会う二人の様子は、見事なぐらいお似合いで、カミソリの刃さえ入り込む余地のないほどの繋がりを感じさせた。
「恵美おねえちゃんとお祭り行きたい!」と弓子ちゃんは、恵美の手を引っ張っていった。
恵美が少し困ったように俊二を見つめると「僕はいいけど」と橋本の方に目配せした。「橋本さん、わざわざ来てくれたのに」
「いや、恵美おねえちゃんがいいの!」と弓子ちゃんは、恵美の手を引っ張り、橋本は嫌だと言わんばかりに目がうったえている。
露骨に橋本を毛嫌いする子供たちに、恵美は注意するどころか、愛も変わらず幸せそうに、屈託のない満面の笑みを浮かべていた。
恵美と俊二に楽しそうに打ち解け、寄り集まっていくる子供たちを見たとき
「じゃあ、僕はお役御免でいいかな?」田口牧師に、恵美と俊二に哀願する子供たちを、微笑ましそうなつくり笑顔で見つめながらいった。
「神治君、せっかくだから一緒に晩餐しないか?、神治君とゆっくり話してみたいと思ってたし、ちょうど良かった」
子供と手をつなぎ出かける、幸せそうな浴衣姿のカップル、外にでても、しばらく一緒に出掛けたがって吠え続けるジンジャ
嬉しそうに話す田口牧師のことばが入ってこない。
いつも胸が痛いほど想い続けてる恵美が、軽い会釈だけで、橋本に声もかけず出かけて行った。恵美にとって橋本など眼中にない、はっきりとそう認識させたシーンが頭から離れず、ワインを飲みながら、浴衣であらわになった、犬の噛み傷をさすった。
昨夜。田口牧師と、飲みすぎた。
酔っ払って、鼓動がまだズキズキと高鳴り、気持ち悪い。
橋本は少し、よろめきながら、トイレに駆け込み、戻した。
洗面所で、二日酔いでむくんだ顔、情けないほど醜かった。
生まれも、容姿も、才能も全部揃っている俊二、全てが完璧にできているくせに、何も無い橋本に下働きをさせ、成果をあげた上に、その全てを奪い取った。
橋本は、洗面台の鏡をもう一度見つめ、昨日しきりに「神が、神が」と田口牧師に諭されてたとこを思い出した。
「なにが・・・神様だ・・いるもんか!」
山内俊二の研究は、絵に描いたように、新しい成果を生み出し、大学卒業後、すぐに俊二はまるで甲子園のヒーローがプロ入りするごとく、段階を飛び越え教授として大学側に受け入れられた。
さらに、bioRxivへのプレプリント投稿に端を発してからというもの、Xで研究者のあいだに瞬時に拡散し、バージニア医科大学の教授が、父の名前を借りて、少年の頃から自分に、その質問をしていた事実をポストしたことで一気にバズリ注目を浴び、候補物質とターゲットとなるタンパク質との結合状態をAIシミュレーションして効率的に絞り込む手法によって、臨床をほぼシミュレーションで補い、低コストでスピーディーに国際的なレベルの研究に挑み、評価を受け、正式なNature掲載に至ってからは、ひっきりなしに取材の依頼や、訪れてくる製薬会社、医療機器メーカー、政府からの支援の話など、忙しく立ち振る舞う状況が加速した。
もし実現すれば、ノーベル賞学者を両手ほど優に生み出せる歴史的な研究を指揮し、そのことによって、病気の治療は豹変し、移植はドナーを待つ必要もなくなると、多くの疾患や、損傷を受けて不自由な暮らしを送る人にとっては、人生に希望の蜘蛛の糸が降りてきたことになる。
そして、その糸をまさにつかみ、おろしているのが俊二だった。
大学も、病院も、山内俊二ここにありと、俊二への信望をますます高め、国会議員や厚生労働省も何をどう支援するべきか打診に訪れた。
製薬会社の幹部や、研究についてその成果にあやかりたい利権がらみの組織、団体、また、宗教的、倫理的に意義を訴えるものなどの対応に俊二も手に負えず、事情と経過を深部まで把握している橋本が俊二に代わって代理対応する機会も増えた。
橋本の風貌に一瞬戸惑いながらも、俊二の右腕で、研究成果を管理する立場であることを知ると、豹変して丁寧な対応、置き土産、接待なども施し始め、わざとらしく機嫌をとっている。
ハイエナだと感じていたが、献身的に努力しても結局俊二に全ていいとこどりされ卑屈になっていた折、自己重要感とプライドをくすぐられた橋本は、そうだ、俺がいなければ今までの実験も成り立たなかったはずだと、この実験の果実にあやかる権利が自分にあると決めこみ、ドル箱の研究成果の秘密のデータを、自分が管理していることを外に向かって強調してほのめかして、まんざらでもない満足感にひたった。
「なんだ、あの橋本ってキモイ野郎は!」
俊二と交友関係のある衆議院議員の鈴木太郎は、山内家が茂雄の代から応援していた鈴木健三郎の地盤を継いだ二世議員で、厚生労働省の官僚と国会議員を交えた議連『臓器移植を考える議員の会』で、俊二に代わって説明した橋本を露骨に非難した。
鈴木によると、橋本は始終、まるで、自分がこの研究を指揮して、成果を出したかのようにプレゼンし、その結果、今後の医療を含め、社会福祉に大きな革新をもたらすと訴え、山内俊二の名前は一言も口にせず、低姿勢で名刺交換をする役人や製薬会社、議員各位に、もちろん鈴木議員にも、実験の成果物に関するヒヤリング、契約、支援に関しての要望は、自分を通すように偉そうな態度で指示していたという。
「それにな、昨晩も、ライフウィル製薬の役員と銀座に出向いて・・」
「橋本さんは、大丈夫だとおもうんですが」俊二は、橋本をかばうようにいった。
「いや、俺から聞いたって言わないでほしいのだが、悪徳製薬会社、ライフウィル製薬のフィクサーである渡辺が橋本を買収し、研究データーを抜き取ろうとしている。こいつは、業界で黒いうわさが絶えないし、手段も選ばない。もっと気をつけろ」
「わかりました」
「もっと信用できるスタッフ、採用したほうがいいぞ、世界が注目している実験だし、この実験が臨床されて、認可が下りたら、医療関係の会社はどうなる?よっぽど管理体制もしっかりしてないと社運をかけた生臭そうなことが起こる予感がぷんぷんする」
鈴木は、俊二が無頓着すぎると釘をさした。
「わかった、注意しとくよ」
俊二は、橋本がなにか利益のためによからぬ行動をとっているとは思いたくなかったが『臓器移植を考える議員の会』への出席依頼があったことすら、鈴木議員の連絡ではじめて知ったのだ。
「なあ、稲村 さん、橋本さん今朝、東京に行ってるの?」
「議連の出席で議員会館ですよね」
「そう、そう、それは、なんで橋本さんがよばれてるの?」
「え?」稲村は、送信済みのFAXを探し出し、山内に手渡した。
新時代の医療と新しい臓器移植の可能性と問題点を法改正を含め検討するために、実験の進捗状況など交え報告して欲しいと、『臓器移植を考える議員の会』の名前で要請されていた。
「橋本さんが実験が佳境で山内先生忙しいから医療関係や政府関係者への対応は自分に任せられたと、、」
俊二は「これから、面会のアポや研究の件で問い合わせがあったときは、橋本さんを挟まず、直接、私に教えて欲しい」といった。
稲村は、少しきょとんとしたが「わかりました」と状況を察した。
俊二は、最新の実験データや、研究成果を保管しているファイルを全て確認し、ファイルのパスワードを変更し、俊二のスマホで承諾なくデーターにログインできないように再設定した。
橋本が帰ってきたとき、俊二はそれとなく問いただすと
「まあ、あれは山内先生が出向くまでも無い会だと思いまして」と顔色一つ変えず、悪びれるところは無かった。
俊二は、改めて橋本を意識してみると、態度が以前より素っ気なく、高圧的で、ネクタイ、スーツ、カフスやベルト、靴にいたるまで、研究室からの収入では到底賄いきれるものでないブランド物で身を包み、悪目立ちする金のネックレスをしている。
祇園のクラブで、女性に大盤振る舞いをしてる橋本と、ばったりあったという話を、先だって、父から聞いた時は、たまにはあの人も、遊びたいだろうと受け流したが、今になって、最近夜の実験の監視も、新しく橋本の助手として雇った大林に丸投げして、無責任に帰り、大林君がミスをするとこっぴどく叱りつける橋本に不信感をいだいていた。
俊二は、セキュリティーや管理体制の強化と、新たな信頼できる人員の確保を決めた。
「いよいよ研究も大詰めに入る、今後、取材や打ち合わせ、許認可をめぐる事務手続きなど雑用も増えるし、世界からの注目もさらに浴びることとなりますから、情報が錯綜しないようにスケジュールは稲村さん、重要案件は必ず、私、山内を通してください」
朝礼を開き、山内はいつに無く厳しい口調でいった。
橋本は、無反応だったが、自分に言っているのだと感じていた。
「本日から新しく研究の助手を務めていただく、平岡君だ」
平岡は上気し、自己紹介をした。
「長い!」年配のスタッフが自己紹介する平岡に指摘し、周囲は笑いに包まれた、俊二は平岡と目があうと手短に話すように手で短くするジェスチャーをした。
橋本は、俊二の態度が最近急によそよそしくなったことを感じとっていたし、自分が推薦した人材を不合格にし、橋本の意見は全く取り上げられることはなくなった。
橋本に情報を流す、研究スタッフを維持するために、祇園や雄琴に親分気取りで連れて行っては、食事、酒、女で部下の気持ちをつなげる大盤振る舞いをしていたが、新人は橋本の誘いには乗ってこない。何か言うとパワハラとか、そもそもお酒を飲まないし、山内に憧れていて、食堂で山内の凄い所を逆に橋本に語るだけだった。
今回、辞任させられたスタッフは、橋本に情報を教えてくれたスタッフで、つなぎとめる潤沢な軍資金を準備してくれていたライフウィル製薬も、橋本の影響力や力に不信感を抱き、昨夜も「橋本先生、どうなってますのん、先生にいくら投資したか自覚してもらわんと」っと、渡辺が高圧的にいった。
渡辺は、製薬会社で起こった薬害の訴訟などをもみ消す凄腕の示談屋として入社し、大学病院や大病院の教授・院長・薬剤部長に賄賂や接待、あの手この手で院内採用薬の決定に食い込み、業績を上げ、手段を選ばないので、役員すらもてあまし恐れている存在になっていた。
そして、そのことを逆に自慢げに橋本に、幾度となく接待の席で酒を強いて語っていた。
有名になった俊二のプロジェクトの元には、優秀なスタッフや支援も増え、一緒にいれば、なんでも勉強になる俊二をリスペクトして、フットワークよく動いてくれ、橋本がやっていた裏方の仕事も、献身的に手伝ってくれた。
俊二はコンピュータのコードのデバッグやパラメーター最適化はここのところ急速に発展したAIでこなせるようになり、幾分か余裕ができ、橋本に頼ることもなくなった。
橋本は、辞任に追い込まれた助手からもゴネられた。俊二がセキュリティーの管理を強化し、アクセスログから、研究内容やデータコピーを精査し、事実関係を調査してつきとめ、事実上は解雇なので退職金も支払われることはなかった。
「橋本さんに頼まれたこと、口外しようかな、私だけ解雇ってただで済むと思います?」
解雇された研究員は露骨に、データーを取得させた橋本を脅した。
また、今まで、当たり前のように、ライフウィル製薬が決済し支払いをしてくれていたクラブや花街での飲食費や、渡辺がむしろ楽しんでいた高級ホテルのスイートルームでの豪遊も橋本宛の請求書で不意に送りつけられてきた。
ライフウィル製薬に連絡しても、担当者は経費で落ちるものではないと取り合わなかった。 今までの接待費用はどこから支払われていたのかさえ、判然としない。
請求書は、渡辺から、研究データを是が非でも渡せという脅し、最後通牒に思えた。
今までの所業がもれたら直ちに橋本は職と実績、そして田口牧師の信頼も失うことがわかりきっているし、渡辺や失職した助手は、橋本の対応いかんによってはそうするだろう。
ドンペリなどあけまくって調子に乗ったつけは大きく、金のネックレスや時計、売れるものは全部売って、カードローンなど借金して整理し、渡辺と縁を切るしかなかった。
橋本は、実験室ではそれとなく監視されてるのか、独りになることはないが、食堂ではいつも独りだった。
研究助手たちが、橋本を一瞥してひそひそ言ってる。橋本は、いつも注意を払われながら、同時に疎外感を感じていた。
「ねえ、今年こそ旅行に行こうよー」
「恵美、もう少し待って、また・・」
「またっていつよ?」
「実験がひと段落ついたら」
「二年前からズーっとそういってる、段落着か・な・いー!、行くもん!」
恵美は珍しく、いじけたようにホッペを膨らませた。
俊二も、病弱だった母や、父の忙しさで遠出して遊んだ経験もなく、最近、余計な気遣いやストレスもたまって、自身も研究の大詰めを迎える前に気分転換の必要を感じていた。
このまま続ければ、いつまでも忙しさにキリがないし、信頼できるスタッフも育ったところだった。
「よし、わかった、じゃあ、たまには思い切って休もう」と決心した。
「ほんと?!、やったー!」
恵美は、俊二の腕にしがみつき、ワンワンとジンジャのようにはしゃいでみせた。
俊二は恵美のために、スケジュールを調整し、最先端のGPUクラスターでも数日かかる計算をRUNさせた状態で休むことに決めた。
コンピュータシミュレーション上とはいえ、『(仮)YAMAUCHI GENE BRIDGE(遺伝子のかけ橋)』というプロジェクトはほぼ完成の域に達していた。
心臓移植の拒絶反応を免疫力を低下させることなく抑えるというだけでも画期的なのだが、俊二の理論上、この薬品の分子構造なら、生物間の垣根を越えても拒絶反応を抑制する働きが期待できるという恐るべき結論にいたるところだった。
「違う生物でも拒絶反応が無いって?まるで映画ですね」
研究員一同、俊二の理論を聞いて、狐につままれたような、それでいて知的興奮を抑えられない不思議な気分になった。
「僕の下半身を馬に移植してケンタウルスにしてください」
「本当に臨床実験でやってみたい気がする」
ほとんど寝不足で、ハイなスタッフはそれを聞いただけで、笑いがとまらなかったし、楽しそうな笑い声を、少し離れた場所で、橋本は聞いていた。
俊二は、好奇心も手伝って、すでに自分の遺伝子を解析し、コンピューター上にデータとして移し込んでいた。旅行後の記念すべき第一回のGENE BRIDGE実験は、その遺伝子から作ったオルガノイドを、別の生物に移植する治験と決めていた。あとは、俊二の細胞を拒絶しない相手、どの動物を対象にするかを、選ぶだけだった。
「僕とくっつく相手は、七十キロ以上の哺乳類。犬に好かれる体質だから、できれば犬がいい。けど、七十キロの犬なんて、いるかな」
面白くもあり、恐れ多くもある実験だった。スタッフは、好奇心と期待、そしてどこか神の領域に踏み込むような畏敬の念を、このプロジェクトに感じていた。
「秋田犬が、いいです」
七十キロと聞いた瞬間、橋本は、即座に思い至っていた。
いつだったか、自分を捨てた父を〈滋賀県 秋田犬 ブリーダー 橋本〉と検索したことがある。そのとき、古い取材ブログが出てきた。
「なんと、七十キロの秋田犬」という見出しで、盲目のブリーダーとして父親が紹介されていた。
その「七十キロ」という言葉が、橋本の記憶の底から、その記事を、瞬時に引き上げた。 「これが、いいですよ」橋本は、咄嗟に輪の中へ入り込むと、その記事を、スマホの画面で俊二に見せた。
「秋田美人のDNAだと面白かった」
俊二を笑わそうと、平岡がいったが、俊二はスルーし、橋本の提言に、スマホの画面を見ながら、ここのところ珍しく真剣に向き合った。
俊二は、豚の心臓が拒絶なく接合される陳腐なものより、なんとなく今まで犬と自分との不思議な相性を考えると、直観的に自分と秋田犬が接合したシミュレーションで、拒絶抑制をデータ上得ることに当然の様な説得力を感じ同意した。
「ん、面白いね、俺は、犬と相性がいいからな、じゃあ、僕のDNAと接合させるパートナーの秋田犬の選定と購入は、橋本君に任せてもいいか?」
俊二が承諾すると、「山内犬誕生ですね」とスタッフが楽しそうにつっこんできた。
一瞬、稲村が不審そうに表情をしたが、俊二は、橋本に頷き
橋本も「わかりました」と頷く。
LinuxのコードとデータにバグがないかをAIとともに再確認すると、計算をRUNする為の、リターンキーを、スタッフを集めて、セレモニー的に押した。アミノ酸の配列からタンパク質がどういう3Dの形に折りたたまれるかを完全に計算できるはず。
「人間同士の臓器移植の拒絶抑制の計算結果がでるまで5日コンピュータ走り続けたよね」
「そうです」稲村は、前の実験の記録を見て確認した。
「すまんが、計算結果が出るまで、旅行に行ってくる」
「婚前旅行ですか?、いいですね」
稲村はうらやましそうに言った。
先日「橋本先生、早く入金していただけないと、ツケがたまって困ってるんだけど」
渡辺のどすの効いた声だった。
信じがたいことに、京都に滞在してるホテルや遊興費まで橋本にせびり続けている。
ライフウィル製薬にその旨を伝えても、誰もが、渡辺の名前を出せば係わり合いになりたがらない、重役ですら、渡辺に首根っこをつかまれ、総会屋として脅されたら困ると、この件にかかわらないように、橋本の連絡を受けなくなった。
「いい加減にしてくれ、いつまでせびるつもりだ」
「なに、こら!そもそも、あんたが研究室の情報と交換に、俺たちにおねだりして。せびってたんだろうが」
「ばらそうかな、教会に取り立てに行こうかな」
「教会は関係ない!」
「あんたの、親父のとこも、多重債務で、眼も見えねえし、話にならねえ、」
「親父だって!?なんで知ってる、」
橋本は渡辺が何か言おうとしていたが、咄嗟に切り、しつこく続く着信を何度も切って、悲しさと怒りで震える手で、着信拒否をした。
橋本の心は、決まっていた。実験結果が出たら、俊二にすべてを打ち明け、渡辺と縁を切り、研究室を去る。
そして秋田犬の購入は、はからずも、盲目の父に会いに行く橋本の背中を強く押してくれた。
俊二は実験用の白衣を脱ぎ捨て、久々にスーツで決め、田口宅に向かった。
旅行に先駆け、恵美にプロポーズしたとき、恵美は俊二に抱きついてきて、しばらくはなれず、離れたときには、俊二のシャツが涙で濡れていた。
俊二の車が玄関の前に止まったとき、恵美は待ちかねて外に飛び出してきた。
「ちょっと緊張するな」
スーツ姿の俊二を見て恵美はうれしそうに「大丈夫よ、返事決まってるから」と俊二を見つめた。
恵美の母は玄関まで笑顔で、お出迎えしてくれ、俊二を和室に案内した。
田口牧師は改まってかしこまり、俊二を迎え入れた。
「俊二君、今日は話があるそうだな」
本当は朝から、恵美に「俊二にもらった」といっては指輪を何度も見せ付けられていた夫妻だが、何食わぬ顔で俊二に話を諭した。
「お嬢様の恵美さんとは、ご存知の通り交際を重ねてまいりまして、将来の伴侶にと心に決めております。もしご両親の承諾さえいただけるのでしたら、不束者ですが」
しばらくの沈黙ののち「よろしく、俊二君、こんな娘だが」
「こんなとは何よ」恵美は笑いながら膨れて見せた。
二人は、そのままの足で、俊二の父に報告に向かった。
山内家に上がると、恵美と、俊二は父に促され母の祭壇に二人で挨拶し、父に報告した。
父は、実は田口牧師から連絡を受けていて、母の写真を持って、テーブルに向かうと、祝福した。
橋本は、車も売り払い、手放していたので、田口牧師の軽のハイトワゴンを借りると、滋賀県野洲市・・・ナビで住所をセットしようとした。
途中まで打ち込むと、正にその住所がメモリーにあり、この車は、何度もそこに行ったことがあることに気づいた。
過去トラウマを消し去る、あらゆる技法を使ったつもりであったが、今になって、最も強く過去に向かって走り初めている。
秋田犬のブリーダー、飲んだくれ、アル中、自分を寒空の下、捨てたこと、考えなくとも乱れた生活は容易に予想できた。
「モクテキチシュウヘンデス、アンナイヲ、シュウリョウシマス」
ナビに告げられ、橋本はゆっくりと車を降りた。
植物のつるが絡みついた金網フェンスに、古いさびたプレート、「橋本犬舎」と書いてある、今にも落ちそうなポストには、督促状らしき封筒があふれんばかりに無理矢理突っ込まれ、『悪臭、迷惑!』『出でいけ!』『金返せ!』と書かれた、貼り紙もある。
橋本は、魂が抜けたように、呆然と玄関のさびたフェンスの前に立ちつくしていた。
「ワワワワン!ワン!」
突然、フェンス越しに、橋本に向かって大きな犬が吠えかけてきた。
橋本は、ドキッとして、フェンスから離れ、少し冷静になって、吠え続ける犬を見ると、大きな秋田犬だった。
「だれだ!」
凄みを利かせた乱暴な声で男が現れた。
「橋本さんですか?」すこし声が上ずった。
「ああ」男は「また、保健所か?」と神治に向かって声を荒げた。
「違います。犬のDNAを研究してる上田です」とっさに嘘をついた。
「それにしても、立派な、秋田犬ですね」
「ああ・・何年も大きな秋田犬と掛け合わせたからな、そこらの犬なんぞへし折っちまう、最高だ」男は、自慢げに語り、橋本に寄り付いて、クンクンとにおいをかぐと大人しくなったルカにシンクロするかのように態度を軟化させた。
「まあ、あがれ」男は玄関の鉄格子を開くと「あんた、はじめてか?、ルカは知らない人が来ると吠え続けるんだがな」と盲導犬のようにルカに促され玄関に戻っていく。
「すまんが、電気止まってるんだ」
薄暗い部屋で、男はにんまりとしていった。
「でもな、俺には明かりなんか、関係ねえ」
男の目を見ると、失明していることがわかった。
眼が暗さに慣れてくると、何処に座るのもはばかられるほど、あたりに犬の毛が付着していた。
糖尿病ですか?、橋本は、むくみや、歩行の様子ですぐ判断できた。
「医者の言うこときかねえで、放置しといたら目が見えなくなってな、このザマだ」男は、ルカのほうに顔をむけ「まあ、あいつらは盲導犬代わりにもなる」といった。
皮肉にも、自分が捨てた子供が医師免許を持っているなど思いもよらないだろう。
部屋には、犬の写真や、血統証、数々のブリーディングの表彰状に橋本勇作殿とあった。
写真は、犬と写ったものばかりで、、1枚だけ、赤ちゃんの写真があった。籠にはいっている、判然としないが、食い入るように見つめた。
「何の用だ?」
「70キロの秋田犬の記事を読んで、購入を考えています」
「他の犬なら25万に負けとくが、70キロのルカは50万じゃないと譲れないな、どっかのアホが、成犬だから8万なんて抜かしやがったが、信用して欲しい、本当に世界一の秋田犬だ、主人に忠実だし、嗅覚も最高に鋭い」
研究費の経費で請求すると高いと思われるな、そう考えていると。
「安いもんだ、俺の人生を掛けて育ててきた血統を受け継いでいる、俺は目が見えない分、感じるんだよ。気配だけで、体重やその犬の正確、肉質までわかっちまう、大きな秋田犬同士を掛け合わせて70キロもある秋田犬だぞ、あんた、種うえしてまわるだけでも、十分もうかる犬だぞ」考えを見透かしたかのように勇作はいった。
「あんた。妙だな、ここに来るの初めてだよな?」スマホでルカを撮って、LINEしてる橋本を見えない眼で追っていった。
「ええ」
「だよな・・・」
「まだ、決済の返事待ちです」
神治は、勇作の思考を断ち切るかのように答えた。
勇作は傍らに置いてあった焼酎の瓶をおもむろに持ち、ラッパ飲みした。
「失礼ですが、、」
「生活か?、秋田犬のブリーダーだけで食っていけるわけねえだろう、エサ代だってバカにならねえのに」男は、にんまりとした「まあ、妙な話だが、捨てる神あれば拾う神ありってとこか」
「拾う神?」
勇作は、遠くを眺めるように思い出していた。
フィリピンパブのホステスと結ばれ、子供ができたとき、一度は、真面目に生きようと思ったが、酒癖が悪く、酒に酔っては暴力をふるい、赤ちゃんを置いて、妻に出ていかれ、生活は更に乱れ、ブリーダーだけで食っていけなかったから、京都で鯉を盗んでは売っていた。
クリスマスの夜、宝ヶ池で鯉を盗み、車で戻る時、我慢できない尿意を催し、車を路肩に停めて、立しょん便した。
凍てつく草むらから、湯気が出て、糖尿の甘い特有の匂いが漂う。
明るい子供たちの笑い声が聞こえ、ふと顔を上げると、糖尿病でかすみ始めていた目に、教会に隣接した施設で、子供たちがツリーの前で、楽しそうに遊んでいる様子が見て取れた。
勇作は車に戻ると、助手席に放置していた赤ん坊は烈火のごとく叫んで泣いていた。
抱き上げると、犬にかまれた傷口は腫れあがって熱を持ち、膿んで黒ずみかけていた。
泥酔したあの日、泣き止まない赤ちゃんにタバコを押し付けた後が残って、病院に行くと警察沙汰になると放置していたのだ。
今まで眼がかすんでよくわからなかったが、抱いて近くで見ると、このまま放置すれば重篤な状況になるのは、はっきりとわかった。
クリスマスツリーが飾られ、子供たちの笑い声が聞こえる施設をみると、勇作は、泣き止んだ瞬間、いつもは犬を乗っけるドライブBOXをとり、施設の前にまだ赤ちゃんの神治を置いて、十字を切ると足早に立ち去った。
「拾う神だ」
「今からもう、30年も前になる、神々しいお方が、毎月、月末に欠かさず、七万円恵んでくれ、そのお方が、おれの話し相手になってくれていることで、俺の生活と、精神が常軌を保つことができてるよ、、そのお方が生命線だな、神々しいっていうか、牧師さんが懺悔を聞いてくれてる感じだ・・ルカもその神がつけた名前だよ、最近は、腰痛もちの神様で時々遅れてくるがな」っといってにんまりした。
<田口牧師に間違いない!>橋本は、そう確信した。
「ところで、あんた、年はいくつだ?」
「23歳です」来月で30歳の節目を迎える橋本は、勇作に見透かされてるようで、思わず嘘をついた。
勇作はまるで犬のように鼻が利くというか、考えながら虚空をクンクンしてるような気がする。
「そうか、、あんた、不思議だな、どこかであったような気がしてならない、本当に、初めてだっけ?目が見えなくなってから、なぜか、気配で感じるだ、犬の良さや、健康状態も見えてる時よりよくわかる」
「許可がおりました」神治は、届いた俊二からのLINEを確認し「この後予定がありまして、支払いの件ですが、月末でよろしいですか?」と、気づかれそうな気配にいたたまれず、そそくさと事務的な話に戻した。
「そうだな、面倒かけるが、現金で持参してもらえるか」
「承知いたしました、ルカちゃんのお迎えも、改めて連絡します」
勇作は手を差し出し、握手を求めた、その腕には刺青と、犬に噛まれた傷跡がある。
橋本は、少し躊躇して握手し、机に放置してある電気代の督促状をこっそり持ち出した。
男は、外の鉄格子まで送ってきた。
それまでルカは橋本をくんくん嗅ぎながら、しっぽを軽やかに振ってついてきた。
「ほー、ルカ、新しいご主人様がわかるのか?・・どうも俺と同じニオイをあんたに感じるんだろう」
「それでは月末に、持参いたします」感づかれそうな気配の中、橋本は足早に後にした。
俊二と恵美は二人だけのグアム旅行を楽しんだ。
強くて暖かい日射しに歓迎され、二人でショッピングを楽しみ、ダイビングにチャレンジし、チャモロ料理をたべ、急に降ってきたスコールで、びしょ濡れで大笑いし、時として、自然の解放感で、素直な感覚でインスピレーションが働くのか、科学や医学、宇宙観など哲学的な話に夢中になる俊二だったが、恋人岬を手をつないで歩き沈む夕日を見ながら、二人で築く家庭のこと、子供のこと、将来を語り、誓い合った。
「もう少しで、シミュレーションの結果が出る」
楽しい旅行があっという間に終わる寂しさと、計算結果が出れば、あとは臨床のみで世界的な研究成果が得られ、医療の歴史的な転換点を担う満足感が俊二には交錯していた。
「ねえ、ねえ、違う生物でも拒絶しないってどういうこと?」
二人は毎夜、愛し合っては、ベッドで語り合った。
「まず移植するドナーとレシピエントのDNAを解析して、それぞれの細胞表面に存在するMHC・主要組織適合遺伝子複合体 が「自己か異物か」を識別するための分子標識の立体構造をAlphaFold3で予測して、そのドナーの抗原に対してレシピエントのT細胞受容体が「攻撃すべき異物」と認識する特定の結合部位を特定し、その認識を無効化するデコイペプチドをGPUクラスターで設計する」
「わからない、もっと簡単に」
「免疫細胞って、血の繋がった家族しか受け入れない、すごく厳しい家系みたいなものなんだ。外から来た人は、本当なら追い出される。でもGENE BRIDGEは、その人を本物の家族にしてしまう特別な儀式みたいなもので、誰も『よそ者』だと思わなくなる」
恵美は俊二の手を握った。
「じゃあ、わたしも今、その儀式の途中なんだね」
恵美は幸せそうに微笑んで、抱き着いた。
「でも、計算してつくったこの家族専用のGENE BRIDGEは、別の家族には使えない。別の家族のは最初からDNAを解析して再解析と再設計が必要になる。今なら数日かかるからこうして旅行できてるけど、量子コンピュータで計算出来たら数分で終わるな」
「えー、旅行何度もできるように、量子のコンピューターって開発止めて欲しい」
「まあ、量子コンピュータとAIの組み合わせなら、接合部分の細胞が抽象度を上げて、万能細胞の性質に戻って、同化できるようなことも計算しそうだけどね」
何を言ってるのかわからず、ちょっとふてくされたような表情をした恵美に「新しい助手がね、原理的には、種の壁すら無効化できるから、下半身に馬を移植して、ケンタウルスになるっていってたよ」というと、恵美は笑った。
「でも、俊二さん、浮気したら、チョッキンして、馬の大きいあそこに付け替えてやる」
俊二は、恵美に指で、チョッキンと股間を挟まれ「おいおい、怖いなー、浮気しないって」っと恵美を抱きしめキスをした。
スマホが震え、実験結果が完了したのかと俊二は、ぱっと手に取った。
橋本からのLINEだった。ひらくと、実験用の犬はこれでいいかという、橋本からの確認の長い文章、、途中まで読むと、大きな秋田犬だなと写真を見て「OK!」と返信するとスマホを置き、恵美を抱きに戻った。
「えー!50万ってぼったくられてないですか?」
稲村は、ルカの決済の要求に不審感を隠さなかった。
「一番大きな秋田犬で、70キロ以上は他にない。山内先生の確認も取ってある」
橋本は、俊二との、LINEを稲村に見せた。
「山内先生が帰国した時にはすぐに取り掛かれるように、セットしときたいから急ぎだ」
稲村はLINEを確認すると「振込じゃダメなんですか?」と言ったが「先方、目が見えないんだ」と橋本が少しイラついて言ったので、これ以上詮索せず、事務的に現金を数えると封筒に入れて、橋本の前に置いた。
「ここに、サインお願いします」
「犬の餌とか、いろいろ購入するから、、」
「領収書ちゃんととってきてくださいね」稲村は、眼も合わさずいった。
橋本が施設に行くと、ちょうど田口牧師が腰を押さえながらハイトワゴンに乗ろうとしていたので、小走りで手を振った。
「神治くん、これから出かけるとこでな」
「僕が、代わりに行きますよ、車貸して欲しんです」
「月末は支払いとかあるから、昼過ぎには戻ってくるよ」
「野洲市の犬舎なら僕が」
若干の沈黙の後「・・ちょっといいか」田口牧師は橋本に中に入るように目くばせした。
車を降り、橋本と応接間に入りると、田口は、なにも言わず、外を見ていたが、施設の女の子がお茶を出して退出すると
「秋田犬友の会に聞いてみると、橋本さんその世界では有名なブリーダなんだ、決して悪い人じゃない」
「父なんですよね?」橋本が聞くと田口は、ああと、言う風に頭を縦に振った。
「糖尿病網膜症で、失明が決定づけられて、もう先行きが不安だからと、」お茶を一口飲んで「悪い人じゃない、神治君を、戻したほうがとも考えたこともあるが、お酒を飲むと、な・・人が変わるようだ」といった。
「それからずっと田口牧師が父を支えてくれてたんですね」
しばらく、田口は、今までのいきさつをとつとつと、支援していたにもかかわらず、申し訳なさそうに話した。
田口牧師が茶封筒を出そうとしたとき
橋本は手で制した「本当に、ご迷惑掛けました。今までの分は、お返しできたらと思います、・・それから、今後は私が父を支えますので、どうか、お心遣いなく」
「そうか、神治くん、立派になったな」
田口牧師は橋本を感慨深げに見ていた。
「皆さんは、お変わりないですか?」
不意に橋本がきくと、田口牧師は思い出したように
「ああ、そうだ、恵美がめでたく結婚することになったこと、報告をしてなかったな、もちろん俊二君とだ、まったく、娘にはもったいない」
橋本は、知っていたが、田口牧師の満足そうに話す言葉が途中から何を言っているのか聞き取れなくなるような心苦しさを感じた。
橋本にとって女性であり神聖な存在はいまだに恵美だけだった。
山内俊二は、その恵美にいとも簡単に女の顔をさせ、心もからだも開けたのだ。
「それはおめでとうございます」
橋本は思いとは裏腹にうわべだけのあいさつを交わしながらも、今までいたたまれない気持ちになっていた、この心境が、自分にも本当の父親がいるという実感で孤独感から解放され温められ守られていいることに気づき始めていた。
本来なら、許されざる父のことを、今日会えることが心の支えに感じられ、この後の人生で父を支えながらつつましく生きていくことも、選択肢として眠れぬ夜に、考え続けていた。
「秋田犬を乗っけるので、洗車してからお返しします、すいませんが夜になると思います」
ハイトワゴンを発車し、ミラー越しに映った、腰を押さえて橋本を見送る田口牧師が、生涯の恩人として大きな存在でありながら小さくなったように感じた。
京都から野洲に向かう国道沿いの大型ホームセンターに車を止め、犬のフードや首輪、リードなど買い、勇作の為のサプリや、簡単に食べれるおやつ、レトルト食品などを購入した。
「領収書はいかがいたしますか」
橋本は、一瞬、研究所の経費で私用物まで落としてしまうことになると気づき「すいません、これとこれは別で」と籠分けして領収書をお願いした。
いままで、施設の仲間は家族だと思い過ごしてきたが、さっきから、勇作の為を思って買い物をしている時、本当の繋がりのある存在への想いを実感し、今までに感じたことがなかった、温かみのある心地よさのようなものを感じ、本来なら経費と私用の物を混ぜて会計する事などない橋本だが、無意識で繋がった導線を進むかのように、一緒に籠に入れてしまっていた。
元気に、吠えたて迎える秋田犬、とりわけ神治に飛びついて喜ぶルカの気配を感じてか、ぶっきらぼうな勇作も「ルカ、お迎えがきたぞ」っと、まんざらでもなさそうににこやかな表情で迎えた。
こっそり電気代を支払っていたので、スイッチを入れると古い蛍光灯だったがそれなりに部屋が明るくなった。
光がともった部屋で、改めて見るとゴキブリの死骸や、割れたグラスの破片、酔って暴れたのか、傷だらけの古い畳には血痕とおぼしき染みまで見当たり、いっそう惨鬱な状態だった。
神治は、よろしければと、差し入れの袋を手渡した。
「ああ、ありがとう。バックレるかと思ったよ、約束しても来ない奴多いからな」
譲渡証明書を神治に手渡した。
神治が譲渡証明書を確認している間、勇作は、差し入れのペットボトルの飲料をまさぐり「なんだ、酒はないのか」といって、イカスルメの袋を取り出し食べ始めた。
「マイクロチップの名義変更は、スマホでできるようになってる。そっちでやってくれ」
勇作は、そういうと、手を出して、お金はと神治に催促した。
勇作は神治から現金の入った封筒を受け取ると、厚さをノギスのように指でつまみ「あれ、7枚ばかり多くないか」と言った。
勇作の指先のセンサーの様な正確さに驚いた、封筒には田口牧師が託けようとした、7万円も一緒に封入していた。
「実は、田口牧師からの支援も入っています。今後は、私が持参します」といった。
勇作は、「なんで、あんたが田口・・」はっとして黙り込み、手を伸ばすと、神治の首元を探った指先が、傷跡に触れた。「おまえ……おまえなのか?」
「おい、今月分はどうなっているんだい?」
ルカを車に乗せ、研究室に向かう橋本のスマホから、別の番号で掛けてきた渡辺の声だった。
父との再会で、忘れかけていたが、月末に、振り込むのが当然とばかりの口調でがなり立てる。
「いい加減にしてくれ、もう金もなければ、支払ういわれもない」
「YAMAUCHI GENE BRIDGE、もう計算結果が出て、臨床試験用のデータはそろったんだってな」
「誰に聞いた!」
「いえないねぇ」渡辺は茶化した口調でいった。
「協力しないと、今まであんたが、接待や高額な顧問料も受けて、研究データを製薬会社に渡してたこと、リークするぞ」
「すればいいさ、もう終わりだ、俺は研究室を辞める、お前のことこそ、明るみにしてやる」
「なぁ、データーをコピーするか、せめて製造権が欲しい、もう付きまとわないし、報酬は十分払う、悪い話じゃないだろう」
「もう、私は、この数ヶ月、更新したパスワードを共有すらさせて貰ってない。もう関わるな」
橋本は、鳴り続けるスマホを何回か切ると、渡辺に情報を渡してる研究員が内部にいる事に辟易しながら、また着信拒否にした。
「無理です」想像してたより大きな秋田犬に、稲村は退いた。
70キロもの犬を研究室に運ぶため手伝って欲しいと、声がけして来たが、吠えるルカの牙を見たとき、もともと犬が苦手な稲村は即答した。
橋本は「どうしよう?」といいながら稲村に領収書を手渡した。
『橋本犬舎』とかいてある領収書を見て「同じ名前なんですね」と稲村はいった。
「ああ、親父がブリーダーなんだ」
稲村は、高額な犬は、身内にお金を落としたのだと言わんばかりの、少し斜に構えた顔をした。いつもなら相当不愉快に感じる橋本だが、自然と出た、親父という言葉で、堅牢で揺るがない気持ちになった。
「ドッグフード代、ガソリン代も落ちるかな?車は、田口牧師に借りた」と領収書を渡した。
「田口牧師?」
「恵美さんのお父さんだよ」
「ああ、山内先生の義理のお父様になるかたですね」といって、稲村は快諾した。
LINEで平岡を呼んだが、なかなか既読にならず「平岡さん呼ぼうと思って」と稲村は電話をかけた。
平岡は、稲村に好意を寄せていて、いつもなら即答で返事が来るはずなのだが、電話に出ないので、切った。
「ごめん、今、パークハイアットで食事中」と豪華なステーキとワインの写真と共に平岡からレスが来た。
おいしそうと、よだれダラダラの絵文字を送ると
「平岡さん、いないです。ワンちゃん、マウスやラットと一緒の飼育室も厳しいので、地下の第4会議室に、ケージなど設置して臨時使用許可を得ています。通用口から廊下を歩いても大丈夫だと思いますので」と通用口と第4会議室の鍵を渡した。
橋本は、ルカの首輪に紐をかけると、ルカは車から飛び降りて、行くべき場所がわかっているかの如く、橋本を勢いよく引っ張って、研究所の方に走って行った。
颯爽としたルカに引っ張られて、よたよた歩く橋本をみると、どっちが散歩してもらってるのかわからないような情景に稲村は笑った。
「今度一緒に行こう」と平岡からレスが帰ってきた。
インスタの、におわせ投稿の様な豪華で派手な写真ばかり送ってくるが、稲村は、給料を前借できるか聞いてきてた平岡が、たまたま上がった草コインで、他の女とよろしくしてるんだろうと、既読ノーレスで放置した。
いいタイミングだった。
オンラインカジノや、仮想通貨への投資で溶かし、借金が膨らみ、どこからも借りられなくなっていた。
月末の家賃や電気代が払えない状況で、ライフウィル製薬から顧問契約の打診は、まさに渡りに船だ、平岡は橋本が犬を連れてくるとは聞いていたが、月末に契約するか、来月にするか、1日違いでも顧問料が1月分減るといわれ、今月分を即払いと言うことで、躊躇なく面会の予定を入れた。
最初、渡辺を観たとき、派手な風貌やゴージャスな時計、嫌な予感を感じたが、最高の鉄板焼き、ワインを堪能し気分良く打ち解けていた。
最初は、ただ、「日本の医学の発展に平岡が必要だ」と平岡の優秀さなど褒めたたえ、平岡の自慢話を相槌で受け入れていた渡辺だが
「で、具体的に私は何をすればいいのですか?」と平岡が言った時、渡辺は高圧的な表情に豹変し「先生。単刀直入に言う。GENE BRIDGEの設計データが欲しい。シミュレーションの計算手法、デコイペプチドの分子構造、設計アルゴリズム。それさえあれば、うちが先に特許を出せる。山内先生が論文を出す前にな」
「それって、、」平岡は急に酔いがさめたように感じた。
「当たり前だ、2億円も報酬払うんだからな」
「2億円!」平岡は月80万円になるならと勇んできただけに上ずった。
「あんたな、月80万って、違法金利で、いくら借りてると思ってるんだ」
製薬会社への通常の薬品採用や、治験への積極的な協力など便宜を図って、80万という話を同僚だった医師からこっそり聞いてきたが、
「調べさせてもらってるんだよ」
茶封筒から、平岡本人ですら詳細を見るのが怖くて書き出さなかった正確な借入先とその額、金利など印刷された用紙が入っていた。平岡は、オンラインカジノの借金は5000万を超え、違法な高利での借金もあり、正直、通常の褒章ならもはや払えないと思ってはいた。
全部見透かされてる、しかも金利で膨れ既に9000万円近い数値になっている。
「大丈夫、あんたに足はつかない」
渡辺はスマホを取り出し、橋本宛に振り込んだネット銀行の履歴を平岡に見せた。
「橋本には、ずっと振り込みで渡してきた。記録がしっかり残ってる。だが、あんたには現金だ。一円も足がつかない」
渡辺は平岡の横に紙袋を置いて薄く笑った。
「今日引き受けてくれたら、ここに2千万円ある、残りは、データを確認してからだ、それに俺の言うことを聞いてくれたら、闇金業者など、黙らせてやる、橋本みたいに裏切ったら」っと、チーンっと爪はじきにして見せた。
橋本は、ルカに引っ張られながら第4会議室に入ると、ブルーマットが敷かれ、ドッグフードや、エサ入れに使うのか、鍋など置かれていた。
ケージがあったが、ルカには小さく、橋本は紐をとりあえず、隅っこに積み上げていたテーブルの足で括った。
橋本は、水を鍋に8分目まで汲んできて、ルカの前に置くと、ちゃぷちゃぷと飲み、ドッグフードを置くとバリバリと瞬く間に平らげた。
橋本は、おしっこシートや、敷布も敷き、橋本をクンクンと嗅ぐルカをなでながら、久方ぶりの安らぎを感じていた。
俊二が午後13時には研究室に戻ってくると、グループラインに送られてきた。
せっかくだから、ゆっくりした明日からにしたらどうかとか、スタッフの喜びを表す絵文字とかで、LINEは散らかったが、橋本は、個別に俊二に「少し時間をいただけませんか?」と送信した。研究のことで報告や、今後のことを話しておきたかった。
いつの間にかご飯を食べて眠っているルカを観ながら、橋本は今までのことを思い出し、今後のことを思いめぐらした。
静かな会議室で、橋本は、ユーチューブなどで、犬のしつけや、大型犬の餌や健康についてなど、数々の動画を見ていた。
「ウルルル・・WAN WAN WAN・・・!」
研究補助員や、契約職員が部屋に入ってくると、ルカはうなり、咆哮をあげ吠えたてた。
「危な!・・」ルカは手を出した助手にあわや噛みつこうとしたので、助手は手をひっこめた。
「この橋本犬、大丈夫ですか?、おっかないですよ」
橋本犬という言い草に、少し引っかかるが、それにしても実験に似つかわしくない凶暴性を発揮してる。
「おお!おおきな秋田犬ですね」小麦色に焼けたすがすがしい山内が入ってくると、ルカはしゃがみクンクンと子犬のように甘え鳴きした。
「何故か、犬はやたら僕に興味を示すのですよ」
「その現象も、脳波で解明できますかね」俊二に顔を押し付け、子供のように甘えるルカを観ながら、橋本は不思議そうに言った。
俊二に甘えるルカをなでようと、他の助手が手を出したら、ルカは敵意をあらわにして吠えたてた「なんだ、この橋本犬」
「ルカだ」橋本は、ルカにあたる助手にいうと、不快そうな目で見るスタッフたちに一瞥した。
「山内教授、ご飯いきましょう」
「橋本さんも」と俊二がいうと「いえ、、、少しここで話をしたいんですが、いいですか?」といった。
「すぐ行くから先に行っといて」俊二が助手たちに言うと
「橋本さんは、橋本犬と一緒にご飯たべとけばいい」と言う声が聞こえた。
「留守中、有難うございました」
俊二は、改めてお礼をいうと、俊二にとびかからんばかりにクンクン鳴くルカに歩み寄り、ルカをなでながら、いった。
「みんな、お父様にお金を落とすためだとか、いろいろ言ってますけど、ルカは、安いぐらいだと思いますよ、本当に立派な秋田犬です」
ルカは満足そうな目でなでてくれている俊二をみて、尻尾を振り続けている。
「そんな噂が立ってるんですね」
橋本が言うと、その弁明ではないのかと、俊二は改めて橋本をみた。
「そんなこと言われても仕方ないんです。不審がられた通り、、」
橋本は、今まで実験の情報をライフウィル製薬に流して、金品を受け取ったことなど、全て洗いざらい俊二に話した。
俊二はだまって聞いていた。
「今後の事ですが、山内先生のIPS細胞から作ったオルガノイドをルカの皮下に移植し、GENE BRIDGEで拒絶反応が起きないかの治験ですが、私も加えていただきたいのです」
「いいですよ、ルカちゃん橋本さんと、僕にしか、なついてないようですしね」
俊二は、改めて、小麦色に焼けた顔で、真っ白な歯を出して、甘えるルカをなで、爽やかに笑った。
改めて、自分が恋敵として 嫉妬するにはレベルが違いすぎると、今になってみると実感する。もう、恵美に未練もなく、幸せを心から願える。
「GENE BRIDGEの治験に参加して、成功を見届けてから、私は、退所致します」橋本は、相談すべきことを自然とよどみなく、いった。
「・・そうですか、、橋本さん、契約職員だと、退職金はほとんど出ないんです。何か、私にできることはありませんか」
俊二はかなり精度の高い憶測で情報漏洩にかかわっていたとはいえ、今までの橋本の功績に対し申し訳なさそうに言った。
橋本は、少し考えてから、口を開いた。
「では、実験が終了したら、ルカを、私に譲ってもらえませんか?」
橋本がいなくなったらこんな大きな秋田犬、実験室も持て余すし、ちょうどいい提案だとおもった「わかりました。ルカは、実験が終わったら橋本さん、連れて帰ってください」
「犬と共に去りぬですね」俊二に橋本が冗談を始めて言った気がする。
「それと、父が糖尿病で失明していまして。GENE BRIDGEの技術で、いつか父の目を、治してやれないかと」俊二は、橋本の眼を見ると、うなづき、握手して肩をたたき合った。
橋本は、俊二が出て行ったあと、全ての告白と、今後の鮮明なビジョンで心が軽くなり、お土産のバカでかいチョコレートを食べ始め、ルカのクレクレ吠えに応え「犬は、チョコはだめだってよ」とルカにいって、ささみのおやつの袋を開けて与えた。
「橋本さん」
スマホで動画を見ながら、うつらうつらとしていた時、ドアの開く音と共に、ルカが吠えたて、びっくりして目が覚めた。
「橋本さん」ルカに吠えたてられ、稲村が、少しこわごわと入ってきた。
橋本が「ルカ!」というと、ルカは座って静かになった。
「山内先生がルカを実験室18時に移して欲しいということで、頼めますか?」
橋本は「はいよ」とルカの餌など袋にまとめながら返事をした。
「それと、、ごめんなさい」
稲村はうつむき加減で「橋本さんが犬購入で研究費を水増しでごまかして中抜きしたかのような噂、私が立てたんです、さっき、山内先生に、妥当な価格で、お父様にはお世話になってると、注意されて、、」
「そうですか、もういいよ」
「ホントに、すいませんでした」稲村は、申し訳なさそうに、橋本が立て替えてた、ドッグフード代、ガソリン代の入った茶封筒を渡した。
「大型犬の口輪がいるね」稲村に向かって咆哮をあげ続けるルカを見て行った。
「私買っときます、それと、当直だった平岡さんですが、ちょっと遅くなると連絡が」
「じゃあ、平岡君が来るまでは俺がいるから、ラットの餌も、やっといた方がいいね」
「お願いできますか」重ね重ね申し訳なさそうに、稲村はいった。
「よろこんで」初めて心を開いてくれた稲村の態度に、橋本も笑顔で答えた。
「平岡さん、この大事な時にパークハイアットで食事って、、」
稲村はしわい顔をしてLINEで、送られてきた豪勢なステーキとワインの写真を橋本に見せた。
橋本は、写真を見た瞬間、渡辺と会食してることを確信した。パークハイアットで、何度も渡辺に食事に誘われ、覚えのある全く同じコースの写真だ。
自分が断った今、平岡を抱き込んだのは明白だった。
「お酒飲んだみたいで、当直の日に不謹慎ですよね」
けげんな顔をした橋本に稲村はいった。
研究室のサーバーが、走り続け、導き出した答え。画面に表示された数値を、俊二は何度も見返した。完璧に、理論は、現実になる準備を終えていた。
昼食後俊二はすぐに実験室に来ていた。
せっかくだから明日からにしては、と気遣うスタッフを、笑顔でいなし、算出されたばかりの配列を、一刻も早く、この手で分子にしたかった。
フロー式の自動ペプチド合成機に、データを流し込む。
AlphaFold3が確定させた、二十二残基の配列。
ドナーとレシピエント、二つのDNAペアの隙間に割り込み、免疫系の「異物」認識だけを選んで塞ぐ、世界でただ一つの分子。
リターンキーを押すと、ポンプが低く唸りはじめた。加熱されたフローの中で、アミノ酸が一残基ずつ、樹脂の上に繋がっていく。
一残基あたり一分足らず。UV検出器の波形が、残基が繋がるたびに規則正しく立ち上がっては落ちた。俊二はその波形を眺めながら、ふと、母の心電図を病室で見つめていた夜のことを思い出した。
あのとき、繋ぎとめられなかった命。
いま、目の前で、繋がっていく分子。
ポンプの唸りを聞きながら、本体が回り終えるまでの小一時間、俊二は、母がそばで寄り添い、この成果を称えてくれている気配「俊ちゃん凄いわね」母の声を鮮明に聴いたように感じた。
後工程のプロトコルも、俊二は組み上げていた。樹脂からの切断、簡易カラムでの精製、凍結乾燥、溶解。本来なら半日仕事の工程が、目を見張る技術革新で、驚くスピードで仕上げていく、白い粉末になったそれを、滅菌した溶解液で溶く、無色の、わずかに粘性のある液体が、小さなバイアルの底に溜まった。
計算の算出から、液体になるまで。わずか二時間ほどの作業だった。あの時、この薬がこのスピードで抽出できたなら、母を救えた。
世界中の誰も見たことのない薬が、いま、手のひらに乗るほどの一本に収まっている。
俊二はバイアルにラベルを貼った。油性ペンで、自分の手で、短く書いた。
『YAMAUCHI GENE BRIDGE ―lot.0』
要した時間はプロジェクトAIの予想通り、時計を見ると、ちょうど18時前だった。
恵美からのラインには、いつになく切迫した文字が並んでいた。
「今日は、今日だけは絶対、絶対、絶対一緒にいたい!」
帰りの飛行機で吐き気を催した恵美を、身に覚えのある俊二は、おそらくつわりだろうと察していた。妊娠すると、精神的にも支えが必要だと、同僚医師から聞いたことはあったが、恵美に電話をすると、あの冷静な恵美が、泣いてあまりにも懇願するので、そこまでとはと、少し困惑したが、今日はほっとくわけにはいかなかった。
橋本は、動物飼育室で、ラットやマウス、兎などにエサを与え、この間まで、なんで俺がこんな仕事をと思ってはいたが、自分に身内ができた今、憑き物が落ちたみたいに、生きとし生けるものに爽やかで自然な愛情のようなものを感じていた。
今までのお礼を、動物たちにつぶやきながらエサを一通り与えると、会議室にもどり、ルカを地下の会議室から二階の研究室へ移した。
研究室に入ると、俊二を見つけたルカは、興奮し、しっぽを振って俊二に駆け寄り飛びついた。
「犬に好かれる遺伝子ですね」自分よりも俊二には、さらに従順なルカを認めながら橋本はいった。
俊二は、口元をルカに舐めまくられながら、笑った。
「今日、オルガノイド移植の準備、お願いしてもいいですか?、この後、急に予定が入って申し訳ないのですが」
「もちろんです、むしろ、やらせてください」
研究室には、診察台が一台、据えられていた。
獣医学部に掛け合い、余っていた中古の一台を借り受けしてきたものだ。
二人がかりで、ルカを抱え上げ、診療台にルカを載せると、ずしりと重く、70.4キロと表示された。
研究室には、購入したばかりの新しい機材が首尾よく準備されていた。GENE BRIDGEの投与に先立ち、投与後、拒絶反応が起きないか、心拍や脳波に異常が出ないか、二十四時間体制でモニタリングする。
『BioTrace TX-9』と記された大型動物用の生体遠隔測定システム。
自由に動く実験動物の生理データを、心電図、脳波、体温、活動量を同時に計測し、無線でデータを送信し連続記録できる代物。
ルカは、俊二の顔を一度舐めると、おとなしく身を委ねた。
俊二は、ルカの頭部の毛を指で分け、頭蓋の上の三箇所、前頭部と、左右の側頭部に、導電性のジェルを塗り、皮膚に密着させ脳波計測用の電極を固定し、心電図の電極を四肢に付けていった。前肢の付け根の左右、そして後肢の付け根。四肢誘導。それぞれの毛を小さなペット用のバリカンで刈り、消毒し、電極パッドを貼り付け、電極から伸びる配線を、首輪型の送信ユニットに接続した。首輪には、小型の送信機、バッテリー、そしてGPSモジュールが組み込まれている。
「バッテリーの充電、途中だけど、残量20%以下になったら、充電したバッテリーと差し替えてください」
研究室のメインモニターに、波形が現れた。規則正しい心電図の波。そして、その下に、脳波。ルカの、生命の鼓動が、リアルタイムで描かれていく。覚醒と睡眠のリズムがはっきりした、犬特有の、単純な脳波だった。
俊二は、ルカの頭を、そっと撫で、若干の脳波の変化と、心拍数の揺らぎを確認した。
「よし!、じゃあ、初めてのGENE BRIDGEの投与を行います」
俊二は、バイアルを保冷庫から取り出してきた、ラベルの『lot.0』の文字。シリンジの針を、ゴム栓にそっと刺し込む。無色の液体が、ゆっくりと吸い上げられていく。
今までの成果がそこにあった。
俊二は、自分でも気づかぬうちに、涙ぐんでいた。母を救えなかったあの日から、ずっと追い続けてきた答えが、いま、この注射器の中にある。
橋本は、脳波電極の着いた首輪とルカの頭を両手でしっかりと支え、口元をそっと押さえた。これだけの巨体が暴れれば、注射どころではないし、噛みつくことも、十分にありえた。橋本は身構え、ルカを押さえた。
だが、ルカは暴れなかった。
俊二が、ルカの前肢の静脈を探り、消毒する。
針先を、そっと血管へ入れる。それでも、ルカは身じろぎ一つしなかった。
俊二は、親指でゆっくりとプランジャーを押した。
無色の液体が、ルカの血管へと、静かに流れ込んでいく。
橋本の手のなかで、ルカはじっと静かにしていた。逃げようとも、身をよじろうともしない。まるで、これから何が起ころうとしているのかを、すべて承知しているかのように、穏やかな目が、ただ虚空を見上げていた。
ルカを診察台から二人でおろし、橋本がリードを重い診察台の脚に二重に結わえた。
ルカは何事もなかったかの如く、大人しく伏せ、橋本が水を置くとちゃぷちゃぷと飲んだ。
「15分以上急変がないか、しばらく見ておかないと」俊二は、時計を見て「アナフィラキシー出るなよ」といった。
俊二は、自分のスマートフォンを取り出し、操作した。
画面には、研究室のモニターと同じ波形が表示された。
「バッチリ、クラウドに上がったデータを僕のスマホからも確認できるようにしました」
俊二は、スマホに流れるルカの脳波を見つめ、橋本にも見せた。
「念のため、橋本さんのスマホからも、確認できるようにしますね」
俊二は橋本のスマホから、システムにログインし、波形を確認して、操作方法を教示し手渡した。
五分が過ぎたが、ルカに、アナフィラキシーの兆候はなかった。心拍も、脳波も、安定したままだった。GENE BRIDGEは、ルカの体に、静かに受け入れられていた。
ただルカは静かに伏せたまま、ときおり俊二のほうへ穏やかな目を向け、そして俊二と目が合うと、α波が極めて高くなっている。
「これは?」
橋本が、机の上のスケッチに、目を留めた。
俊二の顔が、ルカの胸に埋め込まれた、奇妙で、リアルなスケッチだった。
複雑な計算式がその横に書かれており、人の脳を追加した時の心臓の負担などで算出すると、”70kg”以上の生物でないと酸素が十分に行き渡らないなどと算出したメモまである。
「ああ、それ、ずっと考えていたんですが」俊二は、珈琲を淹れながら、笑みを浮かべた
「GENE BRIDGEで、完全に異物と判定されずに同化したとして、もし、一つの体に、脳が二つ存在したら、どうなると思います?」
橋本に珈琲を渡し、自らも一口を飲んでいった。
「随意運動の指令は、大脳の運動野が出します。それを、小脳が、無数の筋肉のタイミングに翻訳して、協調させる。
でも、もし、二つの脳から、同時に指令が来たら、末梢の神経や筋肉は、どちらに従えばいいのか、わからなくなる。右足を、出すの、出さないの、どっちなんだい?!って」
俊二の眼が知的好奇心で輝いている。
「神経系には、可塑性があるから、使われ方に応じて、回路を組み替えていく。だから、しばらくすれば、二つの脳は、役割を分担するかもしれない。一方が、運動と、身体の維持を引き受け、もう一方は思考に特化する」
二人は珈琲の香りの中、究極の思考実験を繰り広げた。
「人間の脳は、その処理能力の多くを、身体の制御に割いている。歩くこと、平衡を保つこと、内臓を動かすこと。もし、その負担から、片方の脳が解放されたら・・純粋な思考と、想像に、すべての資源を、注げる。それは、僕たちが知っている知性とは、まったく違う次元の、何かに、なるかもしれない。」
身体制御という雑用をすべてルカの脳に任せて、私の脳がその負担から完全に解放されたらどうなるか。
「ただでさえ天才的な山内先生の脳が、純粋な思考と想像だけに100%のリソースを注げるようになるってことですから別の次元の知性ですよね」
「ただ」俊二は、ふと、現実的な眼をした。
「これを、人で検証するのは、倫理的に、不可能ですよね、たとえ、事故か何かで、頭部しか、残らなかった被験者がいたとしても」
「鳥か何かで、やってみますか」橋本が、冗談めかして言った。
「頭を、三つ付けたら、キングギドラだ」
二人は、笑った。
笑いながら、橋本は思った。この人と、こうして、いつまでも、研究を続けられたら、どんなに、よかったか。一時の嫉妬と、欲に駆られて、自分が、どれほど大きなものを失ったか。今となっては痛恨の極みだ。
俊二が時計を確認すると十五分が過ぎた。
「よし、ルカの体は、GENE BRIDGEを拒否しない。これで、次に進めます」
俊二は、安堵の息をつき、保冷庫から、小さな培養皿を取り出した。
透明な培地の上には、薄い膜のような、淡い組織が乗っていた。
「これが、僕の皮膚のオルガノイドです」
数週間前から、培養してきたものだった。俊二自身の細胞から作ったiPS細胞を皮膚へと分化させたもので、すでにGENE BRIDGEの溶液に浸してあった。
この溶液の中で、細胞表面の標識が、『山内俊二の細胞』という名札が、消えて、免疫が、異物だと認識できない状態に書き換わっている。
「これをルカの皮下に移植します。そして、拒絶反応が出ないか、数週間、モニタリングする。もし、拒絶が起きなければ、臓器の移植実験に」
俊二は、言葉を切った。その目が、輝いていた。
ドナーを待つ必要が、なくなる。世界中の、移植を待ちながら死んでいく人たちが、、
母のことを、思い出しているのだ、と橋本にはわかった。
「ルカ、ちょっとだけ、眠ってもらうよ」
俊二が前肢に針を入れると、ルカは一度だけ、まるですべてを委ねるように、俊二の顔を見上げ、その大きな体から力が抜け、瞼が、ゆっくりと、降りていった。
モニターの脳波が、覚醒のリズムから、まどろみの波へと、静かに移り変わっていった。
俊二は、ルカの胸の毛を、ペット用のバリカンで四角く剃り、露わになったピンク色の皮膚を消毒し、自分の皮膚のオルガノイドをピンセットでつまみ、ルカの胸を小さく切開して、慎重に滑り込ませる。最小限の縫合。淡い俊二の皮膚片が、犬の胸に、静かに、収まった。
人と犬の境界を、初めて越えた、小さな一片だった。
「この後は、拒絶反応が出ないか、見届けるだけです」
俊二の声には、長い旅の終わりに立つ者の、静かな高揚があった。
「こんな、医学の歴史的な瞬間を一緒にできたこと、、」橋本も感極まっていた。
そのとき、俊二のスマートフォンが、震えた。
「恵美ちゃん」の四文字。
いつもなら、誰の前でも幸せそうに電話にでるが、今夜の俊二は、なぜか、わずかに表情を翳らせて「失礼します」と、研究室を出ていった。
橋本は、眠るルカの傍らに、しばらく座っていた。
胸の上下に合わせて、首輪のセンサーから送られてくるモニターの画面に安らかな寝息のような波形を、刻み続けていた。
戻ってきた俊二は、衣服をすでに手に持ち、かばんにスマホを戻しながら
「すみません、橋本さん。今日は帰らないと、もうすぐ平岡君来るはずなんですが、それまでお願いしてもいいですか?」といった
「はい、大丈夫です。」
「あと、平岡を信用しないでください、この神聖な治験にふさわしくない、明日からも私が」
「ああ、申し訳ないんだが、橋本さんのデータへのアクセス権、停めてしまったままだ、解除しないと」
「また、明日でいいですよ」
俊二は、小さくうなづいて、眠っているルカの頭を撫で「ルカ。また、明日な」といって、足早に研究室を後にした。
俊二が去ったあと、橋本は、眠るルカの胸の、小さな皮膚片を、しばらく観察していた。
移植した直後の組織は、ふつう、血流が乏しく、青白く、頼りない。
やがて拒絶反応が始まれば、赤く腫れ、黒ずみ、壊死していく。
それが、異種間移植の、宿命で、人と犬の種の壁が、必ず、その小さな皮膚を、異物として攻撃するはずだったが、ルカの胸に収まった俊二の皮膚片は、健やかな、桜色をしていた。
黒ずみも、腫れも、まったくない。
それどころか、切開の境界では、ルカの皮膚と俊二の皮膚の細胞が、まるで最初からそうであったかのように、寄り添い、馴染み始めていた。境目が、既に、わからなくなりかけている。
血色がよく、わずかに、温かい。生きた組織が、新しい体に、受け入れられていく、その兆しだった。
橋本は、息を呑んだ。
拒絶反応の、気配が、まったくない。
GENE BRIDGEは、本物だと、直感が告げていた。
種の壁を越え、異物として攻撃されることなく、静かに、根を下ろそうとしている。
脳波も、心拍も、鎮静下で、穏やかに安定している。あと一時間は、ルカは目を覚まさないだろう。
橋本は、眠るルカと自撮りで写真をパシャリと撮った。
スマホに映る自分の髪や顔は脂ぎっていた。
今日一日で1っか月分ぐらい働いた心持と同時に、ルカの寝息を確かめると、今のうちにと、シャワー室でシャワーを浴びることにした。
雨の中、渡辺のいかついベンツに乗せられ平岡は行きなれた研究室に向かっていた。
いつもはくたびれたスクーターで向かう道も、この後首尾よくやれば、借金返済と、こんなベンツの購入も現実的なのだと複雑な心境をくゆらせていた。
「本当に橋本さんがやったことにできるんですよね?」
「しつこいね、心配するなって、あいつのパソコンもスマホにも監視プログラムを仕込んで、IDも、パスワードも、メールも、届くあらゆる通知も。俺の端末へ送られてきている。なにもかもだ、顧問契約と同時にマクロが・・」
平岡は、顧問契約の添付ファイルを自分も開き、マクロを有効化して、スパイウェアを仕込まれていることを確信した、借金のことも、行動も筒抜けだ。
「 お前、さっきの食事を自慢げに送ってただろ、軽率な野郎だ」
平岡の頭の中を見透かしたかのような渡辺の不敵な顔を見て、平岡はぞっとした。
「橋本のやろう・」とまで言って、渡辺は笑い始めた。
「あの面で、僕の奥さんってファイルに綺麗な女の子の写真入っててな、それって、山内先生のフィアンセで、」渡辺は大笑いし始めた「一時、恋敵として対抗しようとしてたんだぜ、あの面で山内先生に、、ちょろいもんだ、恋してる奴を手なずけるのは」
平岡も当てはまると言わんばかりに、渡辺は運転しながら、平岡の肩をつかんでゆすった。
橋本が田口牧師や恵美と連絡を取り、勇作と和解し、ルカを引き取り、渡辺との縁を断ち切った、その心境の変化のすべてを、橋本が、ワンクリックで植え付けられた、目に見えない寄生虫を通して渡辺は、見ていた。
渡辺が笑いながら、橋本の恥部に触れた話をしている間、関わってはいけない人物だと平岡の胸の奥ではアラートが鳴り続けていたが、さっき闇金業者から借金返済の催促電話がかかってきたとき、渡辺が変われと、催促し、ほんの数十秒で平岡に戻すと、高圧的な取り立て屋も丁寧な口調となり、おそらく、その筋では名前の知れた総会屋か何かなのだろうと、平岡も自身の窮地から逃れるには仕方のない選択か、もう逃げることもできないだろうと自分に心の声がどんよりと言い聞かせ始めていた。
大学病院に到着し、研究棟の夜間出入口にベンツが近づいた時、駐車場から出てくる一台のSUVと、すれ違った。
見慣れた車だった。平岡は、反射的に、首をめぐらせた。
ワイパーが水滴をよけた特、運転席の横顔が、街灯の光に、一瞬だけ、浮かんだ「山内先生だ」
何かを急ぐように、ハンドルを握り、まっすぐ前を見つめていた。こちらには、気づかない。
「山内先生だな、彼女がご乱心で・・全く女ってやつは、まあ、この後、抱いてやればおさまるってもんだな」渡辺は、ルームミラーからちらりと遠ざかっていくテールランプを見て「ほら、俺たちのおぜん立て、神様が準備してくれてるだろ」といって下品な声で笑った。
夜間通用口の警備員が、顔を上げた。
「お疲れさまです」平岡が、首から下げたIDカードを示した。
「ああ、平岡さん、当直ですね」
夜勤の警備員は、ディスプレイで当直予定を確認し、頷いた 。
警備員が、渡辺に目をやる。
「試薬の業者さんです。明日の実験で使う試薬を、重いので一緒に来てもらいます」と平岡は言った。
渡辺は、台車に載せた発泡スチロールの箱を、軽く叩いてみせた「低温輸送のやつなんで、急ぐんです」
「じゃあ、こちらに、お名前を」
渡辺は、記帳台のペンを取り、滑らかな字で、実際に取引のある会社名と、偽りの名を記し、その通りの偽名刺を首尾よく見せ、ゲスト用のカードを受け取った。
「なんだ、本物の試薬をわざわざ持ってきたのに」山内と鉢合わせになってもいいように、本物の実験に使う試薬を積んだ台車のガタガタと言う音が、しんと静まり返った研究棟の廊下に響いている。
渡辺は、橋本のスマホから取得しているGPSの画面を平岡に見せてうすら笑いを浮かべた。
シャワールームだなと位置的に平岡は認識し、研究室のICカードを、リーダーにかざした。
「橋本さんが戻ってきたらどうするんですか?」
「裏切り者はぶっ殺してやるよ、その前に全部あいつに罪をかぶせてな」渡辺は平岡にも威嚇を込めて低い声で凄んで言った。
研究室に入ると、ひときわ大きな秋田犬が寝そべっている。
「ルカちゃん、眠ってるよ」状況は全て認知しているとばかりに、たじろぐ平岡に言った。
ルカの胸には、これが、俊二の皮膚のオルガノイドだろうと聞かされていた皮膚が、既に縫い目などない、血の通った綺麗なピンク色で完全に同化していた。
平岡は、GENE BRIDGEの実験の成功と、その同化結合するスピードに畏敬の念を感じ、汚い渡辺にこの成果を渡すのが、2億円など安すぎるとさえ感じた。
「早くしろ」言われなくても、橋本と鉢合わせする前に、データーを取得しようと、平岡はワークステーションの前に立つと、なれた手つきでGENE BRIDGEのログイン画面を開いた。
渡辺は、既にハックしていた、橋本のIDとパスワードのスクショ画面を、平岡に見せた。
ID【 hashimoto.s.4r 】
<このアカウントは、現在、利用を制限されています。管理者にお問い合わせください>
「橋本さんのアカウントは、、、止められている」
平岡は、橋本が怪しいということで、自分が採用された事を思い出した。
「ログインできません」
「できない、だと!?」
「そういえば、橋本さんが疑わしいから、アクセス拒否した方がいいと山内先生にみんなで提言してました」平岡はふと思い出したかのように言った。
「このドあほ!!」般若の様な顔で、渡辺は平岡の頭を思いっきりはたき「、、、仕方がねえ、お前のIDでアクセスしろや」と言った。
「嫌ですよ!、それじゃあ、僕が犯人になるじゃないですか!?、約束が違う」
「うるせえよクソガキ」渡辺の手が、懐に伸びた。
鈍い金属音とともに、折りたたみナイフの刃が、起き上がった。
刃渡りの長い、黒く鈍く光る、殺傷のための刃物だった。それが、平岡の喉に、突きつけられた。
「お前に、選ぶ権利なんか、ねえんだよ」
平岡は、鋭利な刃物が喉の動脈をなぞる感覚に怯えながら、自分のIDとパスワードを震えながら入力した。
「ごめん、遅くなって、すぐ向かうから」
俊二は、LINEに手早くメッセージを打ち込み恵美に送信しながら雨の中、濡れながら小走りに車に乗り込んだ。
スマホのカーナビアプリで、京大の研究室から北山上賀茂の田口教会まで15分と表示されている。LINEが既読になり「気を付けてきてね」と返信されたテキストが浮かび上がる。
俊二は、スマホをセットされたフォルダーに置き、エンジンをかけ、向かった。
今まで研究に研究をかさね、世界の医学会、移植医療を根本から変える画期的なイノベーションを前にしながら、不安定になった彼女のケアに急いで走る自身の姿をルームミラーで見て、結婚するとはこういうものかもなと、家庭をあまり顧みなかった父よりも、家庭は大事にしたいと思っていた。
見慣れた女子大の前を通り、あと少しで到着だと思った。
LINEとは違う、短いプッシュ通知の音が鳴り、メールが届いた。
下鴨本通北山の交差点で信号が赤になり、俊二は車をとめポンとメールを確認すると
「サインインのリクエストがありました承認しますか?」
プロジェクト:GENE BRIDGE
申請者ID:hiraoka.m.8k(平岡)
アクセス端末:第一研究棟・研究室ワークステーション
[ 承認 ] [ 拒否 ] のプッシュ通知認証
俊二は、すぐ平岡に電話をかけたが、呼び出し音が、鳴り続ける。五回、六回。出ない。
橋本の言葉が、蘇る「平岡を信用しないでください、この神聖な治験にふさわしくない」
そして、橋本に、電話をかけた。出ない。留守番電話に、切り替わった。
「山内です、平岡君がデータにサインインしようとしてます。折り返し下さい」
「プー」信号が青に変わっても動かない俊二の車に、後ろのトラックがクラクションで煽った。
俊二は、発進し交差点を左に曲がると、田口教会を目と鼻の先にして、ハンドルを切り、研究所に引き返した。
ビーグル犬のジンジャが急に玄関に行っていつものように吠え始めた。
何故か、俊二が来るときは、ジンジャが察知し興奮して吠えたてる。
特に車の影も形も見えないときから何か感じて?不思議だが。
恵美は、到着を確信して玄関を開けた。
朝から説明できないが、もう俊二に会えないような予感がして、研究が大詰めになると、しばらく会えないということで旅行したにもかかわらず、どうしても、今日会いたいと言う理性では測れない衝動を、わがままを言ってる、そうわかっていながら抑えることができなかった。
何故か、ジンジャが悲しそうにキュンキュンかぼそくなき始めたとき、恵美のラインに
「研究所でトラブルが、ホントごめん、先に休んでて」と入ってきた。
温厚な俊二も、今日という日には、なぜこうも次々と事が起こるのかと、腹の底から、いきり立っていた。
いつもは安全運転の俊二が、気づけば、アクセルを踏み込んでいた。
一般道を、80キロで、走り抜けていく。
母を喪ったあの日から、考えて、考え抜いて、たどり着いたのが、GENE BRIDGEだった。
母は、心臓移植を受けた。だが、命を救うはずのその手術のあと、移植された心臓を、母自身の免疫が、異物として攻撃し始めた。それを抑えるために投与された、免疫抑制剤。
その薬が、母の抵抗力を根こそぎ奪い、やがて、ささいな感染から敗血症を引き起こし、母を、連れ去った。
拒絶反応を抑える薬が、母を殺した。
その矛盾を、根本から解き放つために、俊二は、GENE BRIDGEを生み出した。免疫を抑え込むのではなく、異物を、はじめから異物でなくしてしまう。母のような死を、二度と、誰にも味わわせないために。
俊二は、金銭には、無頓着だった。
研究さえできれば、それでよかった。
だが、と、ハンドルを握りしめながら、俊二は、いまさらのように、思う。
コロナ禍で、ワクチンが、どれほどの富を生み、どれほどの力を動かしたか。
GENE BRIDGEが世に出れば、そこに絡む利権も、収益に関わる権利も、想像を絶する規模になる。世界中の製薬資本が、欲しがるだろう。
管理や、情報の扱いにおいて、自分は、あまりにも、杜撰で人を信じすぎた。
それが持つ「力」の大きさから、目を逸らしていた。もっと、慎重であるべきだった。
車から足早に駆け出し、研究棟の、夜間通用口。
いつもなら、警備員に、明るく声をかける俊二が、今夜は、手早くサインだけを済ませると、挨拶の一つもなく、研究室へとむかい、ICカードをかざして入った。
凄む渡辺に従い、平岡が、ワークステーションの画面にファイルを開き、渡辺は、物色しながら研究の成果物を発泡スチロールの箱に詰めていた。
「平岡くん。どういうことだ?」
平岡は、答えなかった。ただ、唇を噛み、渡辺と俊二の間で、目を泳がせている。
「彼にはね、いろいろと、事情があるんですよ」渡辺は、ナイフを背に隠し、ゆっくりと歩み寄った。
「山内先生、GENE BRIDGEの販売権をライフウィル製薬に譲ってもらえないですか?、もちろん、先生が一生遊んで暮らせるお金を用意させてもらう、何なら、役員として迎え、売り上げの何パーセントかロイヤリティーで払い続けてもかまわない」
「断る」
俊二は、平岡の肩をつかんで押しのけると、ワークステーションの前に、立ちはだかり「これは立派な犯罪ですよ、警察に届け、ライフウィル製薬とも、平岡君とももう終わりです」
「そうか。残念だな」
渡辺の顔から、笑みが消え、しゃがみ、綺麗に移植されたオルガノイド、眠るルカの胸にナイフ滑らせ、ルカの胸から血が滴った。
「何をする、俊二は椅子で渡辺を殴りつけ」うずくまる渡辺をみて、すぐ緊急通報装置の押しボタンを押そうとした。
「なにしやがるんだい!」
俊二は、自分の背中から胸に熱い塊が、めり込むのを感じた。
何が起きたのか、すぐには、わからなかった。ただ、渡辺の上気した赤い顔が、すぐ近くにあって、その目は、冷え切っていた。
俊二の膝が、折れた。床に、崩れ落ち、鮮血がとめどなく、あふれ出していた。
「なんてこと・・・話が、違う・・・!」平岡が、悲鳴のような声を上げた。
「うるさい。行くぞ」
渡辺は、血のついたナイフを、無造作にGENE BRIDGEの現物と、試薬の詰まった保冷ボックスに投げ込むと、小脇に抱え、凍りついた平岡の頭を叩き「行くぞ」と研究室を出た。
橋本は温かいシャワーを浴び、あまりにも長かった今日一日の疲れを流しながら、父やルカの存在、俊二との交流で感じた希望に包まれた気分で心地よい瞑想状態になった。
さっき見た、ルカの胸に俊二の顔が埋め込まれたかのようなあのスケッチの画像が、頭から離れず、このオカルトじみたフランケンシュタインのような手術が、極めて高度な計算の帰結として実際にそうなった時、2つの脳と繋がれた神経、意識、思考はどうなるのだろうか?
気づけば、シャワーホルダにかけた、シャワーを浴びながら、まるでGENE BRIDGEを投与し橋本が切り離した頭部を接合するビジョンが、リアルに現れ、手や指先が動いていた。
シャワー音でかき消され不鮮明だが、スマホの音がさっきから聞こえているような気がした。だが、どうせ、平岡が、今日はこれなくなったと連絡してるのだろうと、ゆっくり頭を洗い、考え続けた。
シャワーを止め、体を拭き取ると、空腹を感じた。
よく考えてみると食事らしい食事はほとんどとらず、今日はルカを引き取り、山内の助手を務めた。
シャワールームを出て、研究所内の休憩スペースに出向き、アイスを購入し、久しぶりにこんな甘いアイス、教会でみんなで食べた幼少期のアイスの味を味わい、ガラスに映った自分の顔を笑顔にしてみた。
アイスを平らげると余計に食欲が出た。
橋本はスマホでセットしてもらったルカの心電図のモニターにログインした。
ルカは変わらず眠ったままで、単調に波を刻んでいた。
とりわけすることもない。カップ麺を自動販売機で購入し、AIに「3分でアラームかけて」と言ってふたを閉め、眼を閉じマインドフルネスで、幾度か呼吸を数えたとき
「ピピピピッ、ピピピピッ」とカップ麺のアラームではない、ルカの心電図が少し変化した甲高く鋭い警告音が一瞬なった。
橋本は慌てて画面を見たが、また元の正常な波に変わった。
さっきから、心電図ばかり見ていたが、ふと、何件か不在着信があることに気づいた。
「山内俊二」橋本は留守電を再生した「山内です、平岡君がデータにサインインしようとしてます。折り返し・・」
橋本は、カップ麺を置き去りにして、走り出した。
研究室のフロアーにでると、研究室から2人の男が出て、走り去るところだった、平岡と保冷ボックスを掲げているのは、間違いない渡辺だった。
「待て、こら!」
橋本は叫んだが、二人は背を向けたまま走り去った。
猛烈に嫌な予感が、背筋を這い上がった。
研究室に飛び込むと、血だまりの中に、俊二が、全身を、小刻みに、痙攣させながら倒れていた。
「先生っ..!」橋本の声に、俊二が、かすかに動いた。唇が震えている。
「すぐ救急車呼びます」
俊二の手が橋本を弱々しく掴んだ。何かを言っている
「もう間に合いません・・やってください」
「何をです?」
「・・やってください」
俊二は、あのスケッチ、ルカの胸に、俊二の顔が埋め込まれた、あのスケッチを指し
「・・・やって」
「ルカにあなたの頭部を移植しろと?」橋本は信じがたく聞き返した。
俊二は、頷き、その拍子に、肺に溜まった血を、口から、激しく咳き込んで、吐き出した。
「助からな、、い、もう、だから、やって」
血まみれの手を、痙攣させながら。俊二は、躊躇する橋本を、まっすぐに見て「ありがと・・」もう一度、深く、頷いてぐったりと空気が抜けたみたいに倒れ込んだ。
橋本は恐怖とも武者震いともとれない震えを感じていた。
一瞬、救急車を呼ぼうと理性的に考えたが、到底間に合わない。それこそ犬死だ、、
考えている時間はもうない、俊二の最後のお願いを叶える決意をしたとき、手の震えはとまった。
わずかな猶予しかない。
橋本は血に染まった震える指で、残されていたもう一本のバイアルを、手に取った。渡辺が奪い損ねた、最後の一本。俊二が、母のために、世界のために、生涯を賭けて生み出した、種の壁を越える分子の最終実験が、幸か不幸か、本人によって完璧におぜん立てされている。
橋本は、血に濡れた床に膝をつき、GENE BRIDGEを俊二の首に注入し、俊二の頭部への血流を、確保しにかかった。頸動脈を確認する。脳へ、酸素を送り続けなければならない。
体を失っても、脳だけは、生かし続ける。時間との、闘いだった。
脳細胞が、不可逆の闇に沈むまでの、わずかな猶予しかない。
橋本は運命のメスを握った。手は驚くほど迷いなく、一度やったことがあるかのように動いた。ためらえば、俊二の脳が死ぬ。橋本は、俊二の頭部を、その体から、解き放った。
あの天才で誰もが憧れる、俊二の頭部が、橋本の腕の中に、あった。
眠り続けるルカの胸を、大きく、切り開く。
橋本の手は、天が、この瞬間のために、この男に医師の技を授けていたかのように、正確に、速く、動いた。
そして俊二の頭部を、ルカの胸へと、あてがった。
その瞬間だった、若干緋色がかった俊二の血液とルカの血液が同じ色に変わっていく。 GENE BRIDGEの作用で細胞表面の識別タグが完全に無効化され、二つの断面がまるで磁石のように引き合っっているかのように、髪の毛よりも細い、無数の神経線維が、切断面から、淡く、光る糸のように、自然とルカの神経へと、手を伸ばし、触れ、絡み結ばれた。
一本、また一本。人間の神経と、犬の神経が、GENE BRIDGEで同化し、導かれ、境界を失って、融け合っていく。
俊二の頸から伸びる無数の血管の断端が、ルカの胸の血管へと、意志を持つように、吸い寄せられていく。
橋本がわずかに合うように少し動かすたびに、ぴたり、ぴたりと、寸分の狂いもなく、動脈は動脈へ、静脈は静脈へ、太さも、位置も、あつらえたように、合わさっていく。
橋本は、息を呑んだ。
これは、縫合ではなかった。人が手でつながなくても、二つの命、俊二とルカは、みずから、繋がろうとしている。
異物と異物が、もはや異物でなくなり、一つになろうと、引き合っている。そんな信じがたい光景が、いま、橋本の目の前で起きていた。
切断面の境界が、みるみる、消えていく。
俊二の皮膚と、ルカの皮膚が、あの胸のオルガノイドと同じ、健やかな桜色で、繋がっていく。縫う必要は無く、血は、もう繋がっていた。
どれほど時間がたったのか、時間感覚もない、半ば放心状態で、ゾーンの中にいた橋本の手が、止まった。
もう、するべきことは、なかった。ルカの心臓は、心なしか、さっきより早く脈打っていた。
力強く、俊二の頭部へと同化した血を送り始めていた。
そして、ルカ同様に、首輪のセンサーを、俊二の頭部の傍らに、もう一つ配線してあてがう。脳波、俊二の脳波が橋本のスマホに現れた。まだ弱い。だが確かに、そこにあった。
生きている。俊二の意識が、犬の脈動に支えられ生きている。
橋本は、床に、崩れ落ち、声を殺して、泣いた。
歓喜なのか、悲しみなのか、自分でもわからなかった。
ただ、俊二に、神に、託されたことを成し遂げた。
シャワーでスッキリした体は汗だくで、手は血まみれ、時計を見ると、もう2時20分、
なんとなく、2時22分のぞろ目で、動きだそうと、もう2分、血の香りがする研究所で、深呼吸しながら、現実とは思えない状況の考えをまとめた。
2時22分、橋本は、涙に濡れた顔を上げ、その新しい命を、見つめた。
ルカの体に、俊二の顔。
人と、犬。二つの魂を宿した、この世にただ一つの存在が、穏やかな寝息を立てて、そこに、横たわっていた。
ついでに22秒、立ち上がった。
ルカの胸に聴診器をあて、しっかりとした鼓動を聞き、俊二の額に手をあて、血が通い若干熱っぽさを感じた。確実に生きている。
橋本は、ルカと俊二の頭部が結合した、犬人を抱きかかえて台車に乗っけて、ブルーシートをかぶせた。
脱力したルカに俊二の頭部がついて、70キロ強のはずだが、二つの命の、重さは、それ以上に重く感じた。
橋本は、ドアを開け、廊下に誰もいないことを確認すると、犬人を乗っけた台車をがたがた押して、研究室を後にした。
台車の車輪の音だけが、深夜の静かな研究棟に、低く反響した。
橋本の背に、冷たい汗が伝った。
エレベーターには返り血を受けた渡辺の、血の足跡が残されていた。
橋本は、一階の通用口の手前で、ICカードを取出し、足を止めた。
もし、何か聞かれたら、シートをかぶせたまま、研究用の犬が拒絶反応で亡くなったとでも言おう、、
通用口の受付前に出たが、警備員の姿が、なかった。
いつも、夜勤の警備員が座っている、あの受付の椅子、空だった。
橋本は、嫌な予感に駆られ、カウンターの奥を覗き込むと、床に、あの人の好さそうな初老の警備員が、倒れていた。
渡辺が逃げる際に、証拠をためらいもなく消し去ったのだろう。
館内の監視カメラ。その録画が、、思った通り止まっていて、入館記録の用紙もなくなっている。
「すいません、あなたまで巻き込んでしまって」橋本は、手を合わせて、夜間通用口を出ると、雨は、上がっていた。夜の空気は、洗われたように、冷たかった。
橋本は、ルカを積んできた、田口牧師に借りたままのハイトワゴンに乗せようと、後部のハッチを開けた。
福祉用の車でよかった。車の後ろから、スロープが出て、傾斜した板が地面へと渡された。
いつもは車椅子を乗せるが、その斜面で犬人を乗せた台車を上げる。
橋本は、台車を、慎重に、スロープへと押し上げた。
車輪が、板の上を、ゆっくりと、転がる。脱力した犬人の重みに橋本の腕が震えた。
台車が、車内に収まった。橋本は、ブルーシートを、そっとめくり、俊二の額に、もう一度、触れた。温かい。確かに生きている。
橋本は、運転席に乗り込みエンジンをかけた。
ルームミラーには、ブルーシートに包まれた犬人が映っている。
ハイトワゴンは、滋賀の野洲市に向かって駐車場を出た。
父さんの、とこしかない。
そう確信して向かいながらも、勇作にいったい、なんて説明すればいいのかと考えながらの深夜ドライブだ。
自ら育てた、ルカに俊二の顔が埋め込まれた容態、勇作の眼が見えないことが幸いだと思ったが、説明しなければ、異常な状況をすぐに察するだろう。
世間に、この怪奇な状況を理解してもらえないことは明らかで、とりわけこの事実を知った時、恵美は、なんと思う。
「カサカサ」麻酔が切れてきてるのか、犬人の足が動くたびに、ブルーシートがカサカサと音を立てては振り返り思考の線が途切れ、堂々巡りを繰り返している。
あの、天才、山内俊二が、今自分によって生かされている、生かされている?、頭部だけ思考があれば生きてるということか?、もう別の・・
橋本は、息苦しくなり、琵琶湖畔に車を停め、缶コーヒーをがぶ飲みして、大きく深呼吸をした。
何らかの罪に問われるだろう、俊二の意識があっても、殺人罪の適用になるのか?
ささやかだが、父とのこじんまりした日常的な幸せが、刑務所暮らしで遠のくのか?
このまま、琵琶湖に飛び込み人生から消えてしまいたい衝動に駆られた時。
「キャン・・生きろ」声が聞こえたような気がして、我にかえって、ワゴンを開けた。
空耳か、まだ、ルカ、いや、犬人は眠っている。
俊二の意思に従い、行った接合、GENE BRIDGEを、目覚めた俊二の意識を守りたい思いが沸き立ち、閉まりかえった琵琶湖を後にした。
渡辺は事務所に戻り、血の付いた手や顔を丹念に洗い、血の付いた服をゴミ袋に詰め込んで、何事もなかったかのように新しいシャツに着替えていた。
「ダメだ、自首する」泣きじゃくり、震えながら言ったとき、平岡は渡辺に殴られ口の中に血の味が広がった。
「アホかてめえ、そんなことしたら俺までしょっ引かれるじゃねえか」
「さっさと着替えろ!、橋本が、殺ったことにして、やつも自殺に見せかけて葬るに決まってるじゃないか」とイラついた口調で言いながら、着替えを置いた。
渡辺は、しばらく、スマホをいじって、着替える平岡に、橋本のスマホに仕込んであるスパイウェアで追跡してるGPSを見せ「ほら、あいつだって、通報もせず逃げてやがる」
渡辺は、橋本のGPSが滋賀県に向かって橋を渡ってるのを確認し、どうせ、あのろくでもない親父に、かくまってもらう気だなと察し、食べたみかんの皮をゴミ箱に投げ入れ「もう、お前も後戻りはできないからな」と平岡にタオルを投げ渡し凄んだ。
「研究所でトラブルが、ホントごめん、先に休んでて」
そのLINEを最後に、俊二からの連絡は、途絶えた。
恵美は、ベッドに入ったものの、どうしても、眠れなかった。
枕元にスマホを置いて、何度も手に取って、既読のつかない自分のメッセージ「気をつけてね」
「終わった?」・「まだかかりそう?」・・・送るたびに、返事を待つが、既読にすらならない。
いつもの俊二なら、こんな時は気にかけ、何か一言は返してくれる。
スタンプ一つ、無い。
明け方、胸の奥がざわついた。
朝からの理由のない、確信的な嫌な予感。
何かが、おかしい。
ジンジャも、いつもなら丸くなって静かに眠っている時間だが、落ち着かなげに、鼻を鳴らしている。
恵美は、起き上がると、もう一度、俊二に電話をかけた。
呼び出し音が、虚しく続き、留守番電話に切り替わる。
橋本の携帯にも、かけたが留守番電話だった。
恵美は、名刺入れから、名刺をだして研究室から電話をかけた。
深夜だが、当直がいるはず、でも何度鳴らしても、誰も、出ない。
以前緊急の時のために聞いていた、夜間の、防災センターにもかけたが、繋がらなかった。
そして、恵美は、俊二の父、博之の名刺を探し当て、直接スマホの番号にかけた。
「こんな時間に、すみません。田口です、、俊二さんに連絡が取れなくて、確認してもらえませんか?」
博之は「わかった、俊二の奴、何やってんだか、恵美ちゃんごめんね」と、電話を切った。
恵美は、今から研究所に行こうと、父を起こして、せっついたが
「ああ、車は、神治君に貸してる」と言うと、悲壮感漂う恵美をみて「大丈夫だって、俊二君、浮気したりしないよ、こんな時間、寝てるだろう」と言った。
夜が明ける前に、ハイトワゴンは、野洲の犬舎へ着いた。
橋本は、エンジンを切り、しばらく魂が抜けたように動けなかった。
ハンドルに額をつけ、深く、息を吐き、犬舎を眺める。
突然、バイブレーションしていたスマホを手にする。
「俊二さんと連絡がつかなくて、橋本さん研究室ですか」恵美からのLINEだった。
誰に対しても、どう説明すればいいか橋本は、返事ができない。
橋本は、スマホを胸ポケットに入れて、車を出て、後部のハッチを開けた。
車の後ろから、スロープがせり出す。
傾斜した板が地面へと渡された。
橋本は、ゆっくりと、犬人を乗せた台車を両手で、しっかりと支えながら、傾斜を、一段ずつ、下ろしていく。
脱力した犬人の重みが、腕に、ずしりと伝わる。
70キロ強のはずが、それ以上に重く感じた。
台車が地面に着いたとき、息切れする橋本を背に、犬舎の犬たちが一斉に吠えた。
「誰だ!」勇作が古い木製のバットを持って出てきた。
「‥神治か」光を失った目が、宙をさまよいながら、息子の気配を感じていた。
「早朝からすまない」橋本の声を聞き、勇作の顔がけげんそうに曇った。
「どうした。こんな、夜明け前に」
勇作が、杖をつきながら、近づいてきて、その表情がかすかに、動いた。
「・・ルカだな、、おい、返品じゃないよな?、もう50万円、返済に使ったぞ」
橋本は、ブルーシートに手をかけ指が、震えた。
父に、伝える言葉が見つからない。
「死んでるのか?!」
「眠ってるだけだよ」
勇作は、両手を伸ばしルカの毛に、触れた。
勇作の指が、胸を撫でようとして、毛の生えていない、なめらかな皮膚に、触れたとき、橋本は手を握ってとめた。
「・・なんだ、これは?・。神治、なんだ、これは?」
指先に、人の皮膚を感じる「神治! これは、何なんだ! 答えろ!」
勇作の手のひらが、犬人の胸に、押し当てられる。
「生きとる」勇作が、掠れた声で言った「人の顔だよな?」
「ああ」橋本は、頷いた。声が、詰まった。「わけは、聞かないで」
勇作には何も、わからなかったが、息子が何かしでかし、ここにしか頼るところがないことはわかった。
「しばらく、ここで、ルカと、、山内先生を・・」
そこまで言って、泣きじゃくる息子に「しっかりしろ、何があったか知らんが、お前の味方だ」と言った。
橋本は、台車で、玄関に犬人を入れたとき、勇作がタオルをかけて、目が見えないにもかかわらず、首尾よく水を置いた。
一瞬、犬人が動いたかに見えたが、そのまま、眠った 。
「今から、田口牧師に行って、事情を話してくるよ、戻ってくるまで面倒見て」
勇作は、しゃがんで、ルカを見えない眼で見てるかのように見つめながら「何があったか知らんが、任せとけ」と言った。
恵美は、アプリでタクシーを呼び、家を出た。
この胸騒ぎ、玄関で、悲しげなジンジャの鳴き声が、俊二に何かあったことを確信させた。 恵美は、タクシーに乗り込み「京都大学医学部の研究棟まで」といった。
運転手が車を出し、夜明け前の京都の街並みが、流れていく。まだ、人影の少ない、静かな通りを見つめながら、恵美は膝の上で両手を握りしめていた。
俊二さん、何も、なければいい。ただ、研究に没頭して、電話に気づかなかっただけ。
そうあってほしい。何度も、何度も恵美は、自分に言い聞かせたが、研究棟に、近づくにつれ、運転手も「何かあったんですか?」と恵美に聞いた。
パトカーの回転する、いくつも、いくつもの赤色灯。
恵美の、心臓が、凍りついた。
研究棟へ続く道が、規制線で、塞がれていた。
その向こう、恵美の見慣れた研究棟の前に、おびただしい数の、パトカーが停まっていた。 救急車も、そして制服の警察官が慌ただしく行き交い、立ち入り禁止のテープが、風に揺れていた。
「・・・ここでいいんですか?」
恵美は、料金も、ろくに確かめず、紙幣を押しつけると、走り出していた。
「お客さん、お釣りっ」
恵美は「すみません、何があったんですか!?通してください!」
警察官が、恵美を、制した。
「下がってください」
「関係者です! 山内俊二の婚約者です」
その名を、口にした瞬間、恵美を、押しとどめていた警察官の、顔つきが変わり、何かを、確かめ合うような、視線の後、無線で連絡を取り、少し事情を聞かせてくださいと、パトカーに恵美を誘導した。
渡辺のベンツは、名神高速を、東へ、飛ばしていた。
スピードメーターの針が、180キロを指している。
深夜の高速は、車もまばらで、新しいスーツに着替え、返り血を洗い落とした、ハンドルを握る渡辺の横顔は、不気味なほど、殺人など全く思わせない、いつものキリっとした渡辺だった。
助手席で、平岡は、スマホの画面を握りしめていた。
何か、事件の報道が無いか、ずっと検索していた。
「どこに向かってるんですか?」
「ブリーダーの親父のとこだ。」渡辺は、前を見たまま言った。
「あいつ、隠れる場所が、そこしか、なかったってわけだ」
平岡はそこで、橋本やお父さんを殺るのかと、想像するだけで、震えが止まらなかった。
「渡辺さん、もう、やめましょう、人が、死んでるんですよ。山内先生が、警備員が、もうこれ以上は」
「あぁ?」渡辺が、ちらりと、平岡を見た。睨むその目は冷え切っていた。
「今さら、何、言ってんだ。お前は、もう共犯なんだよ。橋本を、片づけて、全部あいつのせいにする。それで、終わりだ。あいつが、自分で命を絶ったように、してやりゃあいい、遠隔操作で、奴のスマホから、山内のフィアンセにでも、自殺をほのめかすLINEで今日のミッションコンプリートだ」
「・・そんな」平岡は、歯向かえば、自分も同じ道をたどるだろうと実感した。
「橋本は、データを盗み、嫉妬で教授を殺し、頭を切り取って、逃げた。そんな男が、追い詰められ、思い詰めて、自ら消える。誰も、疑いやしねえよ」
平岡の顔から、血の気が、引いた。
この男は、何の躊躇もなく、橋本を殺す気だ。
そして、その筋書きを、もう、頭の中で、完成させている。
平岡は、自分が、どれほど、恐ろしい男の隣に座っているかを、いまさらのように、思い知った。逃げ場は、なかった。
前方の、路肩に、赤い光が、見えた。
パトカーだ
「……チッ」
渡辺は、舌打ちして、アクセルを緩めると、針が、180キロから、100キロの制限速度にぴたりと落ちた。
ベンツは、何食わぬ顔で、パトカーの脇を、通り過ぎた。
平岡は、もし、今、止められたら、いっそのこと自首しようと思った。
逮捕してもらった方が、渡辺といるより安全だと思っていた。
だが、パトカーは、動かなかった。
ベンツは、そのまま、何事もなく、走り去っていく。
パトカーが、ルームミラーの中で、小さくなると、渡辺は、再び、アクセルを、踏み込んだ。針が、180キロまで跳ね上がる。
渡辺が、薄く、笑った。「せっかく、親父に会えたってのに。俺を裏切ったから、今が、最後の親子水入らずだ」
ベンツは、野洲へと、突き進んでいくなか、平岡は、一言も発せず黙り込んだ。
橋本犬舎についた渡辺は、車から震えて出ない平岡を「この役立たず」と殴りつけ、スタンガンを持って出て行った。
「橋本を自殺に見せかけるにはナイフは使えない」と渡辺は運転しながら愚痴っていた。
「うるせえな、クソ犬」犬舎の犬がおびただしく吠える中、渡辺は悪態をつきながら、中に入ってきた。
勇作は、神治が忘れ物でもしたのかと思ったが、犬の吠え方で異変を感じた。
すべりの悪い引き戸をがたがたと開けると、研究室でみたはずの秋田犬が、タオルをかぶせられ寝込んでいるが、橋本も、橋本の靴も見当たらない。
「こら、バカ息子はどこ行った?」と勇作にいった。
「誰だ!」
見えない眼で渡辺を探る勇作に、渡辺は、玄関の靴を投げつけると、勇作はバットを握って立ち上がり打ち落とした。
「誰だといってる」
全く身じろぎ一つしない勇作を見ながら、スタンガンを試しに寝ている犬人に浴びせた。
びくっと全身が揺れた後、犬人は飛び起きた。
胸に、山内俊二の顔をみて、面食らった渡辺に、犬人は唸り、飛びつき、その首にかぶりついた。
もがく渡辺の首に噛みついたまま、ゆすり、渡辺の血がおびただしく噴き出した。
車の中で、震える平岡は、奇妙な鳴き声と共に、研究室にいたはずの秋田犬?が飛び出して走り去って行くのを観た。
その後、バットをもった勇作が、犬が走り去った方を見ていたが、周囲を探知するかの如く声をあげ、踵を返し、ゆっくりとベンツに向かって歩き始めた。
平岡は、震えながら、警察に電話した。
犬人を、父に託し、橋本は、田口牧師のハイトワゴンで、京都へ引き返していた。
恵美に打ち明ける自信がない、ただ、田口牧師にだけは、すべてを、包み隠さず話すつもりだった。
自分が、何をしてしまったのか。俊二が、どうなったのか、そして、犬人が、いま、勇作のもとにいることを。
朝を迎えた北山の街、見慣れた教会が見えてきた。
橋本が、捨てられ、拾われ、育てられた場所、その手前で、橋本はブレーキを踏んだ。
教会の前にパトカーが停まっていた。
そして、私服の、刑事らしき男たちの姿。
気づいた時には遅かった。橋本は、幾人もの警察官に取り囲まれていた。
「橋本神治、だな」一人の刑事が、確かめるように、言った。
橋本は、教会の十字架を見て、静かに頷き、抵抗しなかった。
「田口牧師に、一言だけ」橋本は、掠れた声で、言った。
刑事は、何も答えず、手際よく、橋本の両腕を後ろに回し、冷たい金属の感触が、手首にかかった。
連行される、その一瞬。教会の戸が開いた。
田口牧師が出てきて、警察官に囲まれた橋本を見た。
田口牧師の、顔が、凍りついた。
「神治君、何がどうなってるんだ!」
橋本は、すべてを、話したかったが、駆け寄ろうとする田口牧師を、警察官が、押しとどめる。
パトカーの後部座席に、押し込まれ、ドアが、閉まる。
窓の外で、田口牧師が、何かを、叫んでいるが、何をいってるか聞こえなかった。
橋本を載せたパトカーが、動き出すとき。ポケットの中で、スマホが、かすかに震えた気がした。犬人の、心電図と脳波が、また力強く脈動した証のように。
俊二の意識は、昏睡状態の中、犬の体と溶け合い、暗い眠りの底に沈んでいたが、死後の世界を思わせるその感覚は、体の内側だけに留まってはいなかった。
肉体の輪郭を越えて、外へと繋がっていた。
すべてを、俊二の意識は、自分の一部として感じ始めていた。
過去も、未来も、時間さえも、畳み込まれ、境界がなかった。
自分と他人が、皮膚という薄い輪郭で区切られているように見えて、その実、ひとつの同じ広大な場の上で共鳴し合う波の模様にすぎなかった。
俊二は、その、全体だった。いたるところに、あり、いたるところを、感じていた。
母の魂を構成していた情報も、周波数が合えば受信できた。
そして、その、広がった意識の、はるか一点に、俊二は、橋本の、絶望を感じ取った。
琵琶湖のほとりに立ち尽くす心が、暗い水底へと傾いていく。
消えてしまいたいというその衝動が、俊二の、広がった意識には、遠い一点で細く消えかけている灯火のように感じられ、俊二の意識は、その一点へと、伸びた。
力ではなかった。命令でも、言葉でも、なかった。
俊二は、ただ、その全体性そのものをもって、橋本を包んだ宇宙が、ひとりの人間を抱きしめるように、あらゆる方向から、同時に、橋本という個体の皮膚の内側にまで、外側から、全体として染み込んでいく。
境界など、はじめから、なかった。あなたと、私は、分かれてなど、いない。
あなたの命は、私の祖父が繋ぎ、あなたが、私に返してくれた。それは、ひとつの、途切れることのない、流れで、あなたが消えれば、その流れが、断たれる。
俊二は、自分を、救わなかった。救えることを、もう望んではいなかった。
昏睡状態で肉体を離れたこの意識には、死は、終わりでは無いと、わかっていた。
だが、橋本は、まだ、肉体の中にいる、
あの人はまだ、生きなければ、ならない。
これが、時間を超えた意識にできる介入だった。
俊二の、全体となった意識が、橋本の、消えかけた灯火に、そっと、触れた。
「・・生きろ」
その意志が、宇宙の、あらゆる方向から、橋本へと、注がれた。
俊二は、遠い一点で、消えかけていた灯火がふいに揺らぎ、橋本の心が、暗い水底から、ゆっくりと、顔を上げ、向き直っていくのを感じた。
俊二の意識は、静かに満たされ、現実を守った。
そして、その意識は、ゆっくりと犬人の、肉体の中へと還っていく。
まだ、この体で、果たすべきことが、残っていた。
その時 スタンガンの青白い火花が、犬人の脇腹でスパークし、全身に電流が走り、眠る犬人の脳波が大きく波打った。
「なんだ・・・」
俊二の意識が、闇の底から、一気に、引き上げられ目覚めた。
だが、目覚めた先の世界は、俊二が知っていた世界ではなかった。
まず、匂いが、情報の洪水だった。
むせ返るような、犬の匂い。錆びた鉄、そして人間。二人分の匂い。
汗と、脂と、金属と、かすかな血の匂いをまとった男。
俊二は、匂いだけで、この空間に、誰が、どこにいるかを、正確に、知覚した。
次に、色だった。
世界から、赤が、消えていた。
目の前の男の、興奮で上気した顔。それが、赤ではなく、くすんだ、黄土色に、沈んで見える。血の色さえ、鮮やかではない。だが、代わりに、青と黄が、異様なほど、澄んで、際立って、痛いほど鮮烈だった。
視野は、驚くほど広い。首を動かさずともほとんど真横まで、世界が、見えている。
そして、暗いはずの犬舎の中が、少しも暗くない。
また、人間の耳では、拾えなかった高い音が、無数に聞こえる。犬たちの、遠い唸り。
電子機器の、かすかな、高周波。
俊二は、面食らった。自分が、どこにいるのか。何に、なったのか。
世界が、これほど、違って、感じられることに。
自分が、思索し、証明しようとしていた、境界の向こう側。
人間の脳が、犬の器官で世界を捉え直している。
かつての自分の理論が、いま、この身をもって実証された。
そして、
俊二の、この、鮮明になった、犬の視覚が目の前の、男を、捉えた。
渡辺
その顔を見た瞬間、俊二の意識に、あの瞬間が蘇った。
研究室。背後からの、衝撃。背中から胸へと貫いた熱い塊。
この男だ。自分を刺し、恵美との未来を奪った。
犬人の、喉の奥から、発したことのない、低い唸りが、湧き上がった。
「ひっ」
渡辺が、後ずさった。犬の胸に埋め込まれた、自分が殺したはずの男の、顔。その双眸が、まっすぐに、自分を、見据えている。
渡辺の顔から血の気が引いた。
「な、なんだ、お前、山内!」
犬人の七十キロの巨体が、宙を舞った。
渡辺の体は、あっけなく床に叩きつけられる。
犬人の顎が、その首に食らいついた。
渡辺の絶叫が響いたが、犬人は、離さなかった。
ただ、俊二の意識は、その奥で、奇妙に静かだった。
憎しみだけではなかった。犬の本能と人間の意志が一つに溶け合っていた。
この男は、これ以上誰かを、傷つける、と言う確信で、食いちぎらんばかりに噛みついた。
やがて、渡辺は、動かなくなったのを確認し、犬人は、ゆっくりと顔を上げた。
俊二は、犬の脚で立っていたが、ルカの脳が制御しかすかな感覚の元、全力で走ってる情景は認識できた。
外へ、なぜか、そう思った。この場所ではない。行かなければ。
犬人は、駆け出した。
引き戸を抜け、野へ。冷たい空気が犬の鼻に、無数の匂いを運んでくる。
その中に、かすかに、遠く、京都の方角に、探し求める匂いの糸を、俊二は嗅ぎ取った気がした。
犬人は、その、匂いの糸を、たどるように走り去っていった。
震える手で、握りしめたスマホから、警察に通報したものの、体は硬直して動かなかった。
フロントガラスの向こうで、あの、奇妙な鳴き声を上げた秋田犬が、走り去っていったのを見た。
平岡は、勇作にベンツの助手席から引っ張り出され、ダンゴムシのように縮こまり泣きながら、ごめんなさいと叫んでいた。
パトカーのサイレンが、野洲の道に響き渡り、赤色灯が犬舎の敷地になだれ込んできた。
数台のパトカーと、救急車。警察官が次々と降りてくる。
がなり立てる勇作を、警察が押さえ、平岡も取り押さえる。
「僕です。通報したのは、僕です。中に渡辺さんが」
警察官が、平岡に手錠をかけた。
平岡は、抵抗せず、むしろ、その冷たい感触に、どこか、ほっとしている自分がいた。
ようやく、終わった。渡辺の隣から解放される。
警察官と救急隊員が、おびただしく吠える犬を横に、犬舎へ駆け込んでいく。
やがて、担架で渡辺が運び出されてきた。
首を、血に染めたタオルで圧迫されている。顔は、蒼白で、意識はなかった。
「相当な、出血だ。急ぐぞ」担架が、救急車へと運び込まれる。
平岡は、パトカーの後部座席からその光景を見ていた。
平岡を乗せたパトカーも、動き出す。平岡は、目を閉じた、なんで、こんな事になってしまったのか。
面会室の、アクリル板は、冷たく透明だった。
橋本が、連れられてパイプ椅子に座ると、板の向こうに、田口牧師がいた。
一夜のうちに、十も歳を取ったようにやつれて見えた。
いつも、穏やかだった顔が、憔悴している。
それでも、田口牧師は、橋本を見ると、精一杯の、いつもの、あの優しい目を、しようとした。
「神治君」
その一言で、橋本の堪えていたものが決壊した。
橋本は、アクリル板に額を押しつけて、子どものように泣いた。教会の前に捨てられ、この人に拾われた、あの日の赤子のように。
田口牧師は、板の橋本に触れることもできず、ただ、自分の皺だらけの手を、板に当てた。 「・・何があったんだ。話してくれ。神治君。私は、お前を信じている。何があっても、な」
橋本は、涙を拭った。
そして、全てを話し始めた。
あの夜、研究室で何が起きたか。
渡辺が、平岡を脅し、データを盗みに入ったこと。
俊二が、それを、おそらく阻止しようとして、刺されてたこと。
「山内先生は、僕が駆けつけたときには、もう、血の海の中で」
田口牧師の、顔が歪んだ。
「僕は、殺していません! 信じてください! 僕は、先生を、助けようと・・」
「わかっとる」田口牧師は、静かに頷いた。
「お前が、そんなことを、する子じゃないことは、わしが、いちばん、よう知っとる」
橋本は、その言葉に、また、涙をあふれさせた。
この世で、ただ一人。自分を、無条件に信じてくれる人。
「恵美ちゃんは?」橋本は、掠れた声で、聞いた。「恵美ちゃんは、どうしていますか?」 田口牧師の、顔が曇った。
「警察に、呼ばれてな。遺体の、確認を」田口牧師の声が、震えた。「首から、上が・・無かったそうだ。頭部が、持ち去られていて・・・」
「博之先生は、確認した後、恵美に見ない方がいいと止めたが、どうしてもということで足元から見せた、そのパンツに見覚えがあってな、恵美はその場で崩れてしまった」
「恵美は、妊娠しててな、体に、障ってはいけんと、そのまま、病院に」
橋本の、胸が、締めつけられた。恵美。ずっと、想い続けた、あの恵美が。その人が、俊二の子を、宿し、
自分が、したことだった。俊二の頭部を、切り離し、ルカに繋いだ。
だが、それは、父親にとって、首のない亡骸と、対面するということだった。
それが、どれほど、むごいことか。
ただ、あの頭部は、いま、生きている。
ルカの胸で、俊二の意識は、まだこの世にある。
橋本は、顔を上げ、田口牧師の涙に濡れた顔を見た。
「僕のスマホに」言いかけて、橋本は、言葉を、呑んだ。
「一つだけ、信じてください。先生は・・」
面会の、時間が、終わった。
橋本が、立ち上がり連れて行かれる。
田口牧師のハイトワゴンから、俊二の血痕がみつかったと聞いていながらも、スマホから裏付ける証拠が出てきたことも橋本に一言も話さず、
田口牧師は、最後に橋本の背に向けて「神治君、信じてるよ」といった。
犬人は、橋本が運転して来た道の記憶をたどり、遡るかのように歩いた。
体を制御する必要から解き放たれた俊二の脳は、いま、かつてない領域へ踏み込んでいた。 四肢を動かすのはルカの脳だった。俊二の意識は運動のいっさいから自由で、その余った膨大な演算を、すべて外と繋がる意識の場に向けることができた。
脳が受信し、発信するアンテナになっていた。
神経を包むミエリンの鞘が、ありえない速度で信号を伝えている。
思考は量子もつれで光速を超え、一つの問いを立てれば、答えが返ってくる。いや、返ってくるというか、解る、ただ知るという方が正確だった。
それは自分が考えているのではなく、宇宙に接続して、ただ知る。すべての情報が畳み込まれたあの場をのぞき込むように。
俊二の細胞の一つ一つが、バイオフォトンを放っているのを実感できる。
生命が発する極微の光が、俊二の意識のもとで変調され、宇宙へ放たれる信号になっていた。
犬人は、歩きながら、全身から目に見えぬバイオフォトンを送り続けていた。
近江大橋を渡る時、音楽が聴こえてきた。
この世のどんな楽器も奏でたことのない感動的な音楽だった。
湖の水の振動、大気の揺らぎ、遠い星々の明滅、宇宙のあらゆるものがそれぞれの周波数で鳴り響き、琵琶湖の水面から反射して、一つの壮大な和音を成している。
今の俊二の意識は、周波数、波動で成り立つことが、いや、宇宙そのものがそうであることを実感する。
昼の橋の上を車が行き交い、歩道には人影があった。姿を隠す場所はどこにもない。
だが、犬人は迷わなかった。俊二の思考がルカに伝わり、身を隠すこともできた 。
人々の視線の向きから、そらし、向きを変え、人がこちらを向く刹那、犬人は欄干の影に音もなく伏せる。視線が逸れた次の瞬間、すっと立ち上がって数歩進む。また誰かが振り向く気配。その前に大型車の陰へ。時間の隙間を縫うように、人々の意識の死角だけを選んで歩き続けた。
白昼の橋の上を、犬の胸に人間の顔を持つ存在が、堂々と渡っていることに、大きな秋田犬は見えても、誰も気づかなかった。
橋を渡りきると、犬人は湖岸を離れ、山の懐へと分け入っていった。
日が暮れ、山道は闇に沈んでいた。
月は細く、木々が空を覆っている。人間の目には、獣道すらない夜の山は一歩も進めない深い闇だったが、犬人には見えていた。
犬の目が、タペタムがわずかな星明かりを増幅し、俊二にも伝わる。
闇の中に木の根が、岩が、沢の流れが青白く浮かび上がる。
夜が少しも暗くない。俊二は驚嘆した。人間だった頃に恐れた闇の奥に、これほど豊かな世界が広がっていたとは。
比叡に向かい、月夜の中 、犬人は迷いなく登っていく。
俊二の意識は拡張された感覚の中で、静かに世界と溶け合っていた。木々と自分の境界。土と自分の境界。それが薄れて、この山の生命のすべてと自分とを隔てるものが、もはやほとんど無いように感じられた。
もはや、無意識のように犬人はルカの能力で山を歩き、俊二の脳は、死後の世界と今世を行きかう瞑想状態で、時間を超越し現実を認識し、現実を選ぶことができた。
全てである宇宙の意識は、子供の俊二に、知識を寝てる間にダウンロードし、心臓病克服のインスピレーションを与えた。
嫉妬に駆られ、醜い波長だった橋本が、愛によって周波数が変わり、自分を殺すはずだった別のパラレルワールドを、接合の大役となったワールドに置き換えられた。
エゴイストや嫉妬に駆られた波長、愛に溢れる波長によって、高次元から、ワールドが異なるスライドを任されるのが今世だと、体の制御から離れれば、つまり死を迎えれば悟るのだが、生きたまま体の枠を外れた俊二にも悟れた。
尾根に立つと、闇の向こうに京都の灯りが見えた。
恵美と見た、瞬く無数の光。あの光の海のどこかに、恵美がいる。
恵美にもう一度会って、繰り返す輪廻を終わりたい。
その時だった、音楽が乱れた。
あれほど鮮明だった宇宙の和音が遠のいていく。
限界だった。
この常軌を逸したおびただしい交信が、アンテナとして機能していたミエリンの鞘を極限まで酷使し、送信に必要なグルタミン酸が、尽きた。
あまりに使用量が多すぎたのだ。脳という物理的な装置が、必要な原料をなくし通信が途絶えた。
犬人はただ、ルカの意思で、歩み続けた。
微かな匂いの記憶だけを頼りに、ルカの本能が最後の力を振り絞って西の斜面を下った。
夜が、明けようとしていた。
俊二の枯渇した脳は、通信を途絶え、睡眠と食事が必要だった。
俊二は、ルカに、その食事のビジョン、恵美に会うビジョンを送って眠った。
比叡山を下り高野川を渡る、犬人は宝ヶ池公園のほとりに出た。
早朝の靄が水面に低く垂れこめている。
俊二の意識は眠り、ルカが犬人を動かしていた。
丸一日、山を越えて何も口にしていない。
犬の鼻が夜明けの空気に微かな匂いを捉えたどっていく。
池の北側の木立の向こうに大きな建物のシルエットが見えた。
宝ヶ池のほとり、国際会議場に隣接するホテル、その裏手へ回り込んだ。
厨房の搬出口。まだ人の気配のない早朝で、脇のゴミ集積場に、搬出しきれない生ゴミの袋がいくつか積まれていた。
前夜の宴会の残り。朝食の仕込みの切れ端。
ルカの本能が犬人をそこへ駆り立てた。鼻先で袋を突き、破る。こぼれ出す残飯を、犬人は貪った。パンの切れ端、肉の骨、野菜くず。飢えた体がただそれを求めていた。
俊二の意識は、食事の間も深い眠りの底にあった。
犬人はおなかが満たされると、宝ヶ池を赴くまま歩き、ボート乗り場周辺にたどり着いた。
何か、手で触れられたような感覚で、俊二の意識、深い眠りの底からふと浮かび上がった。
大きな外人と目が合った。
「やばい」と俊二が思った瞬間、人気のない方に全力で駆け出した。
背後で外国人の男が何か叫んでいる。
だがルカの本能は、ただ人のいない方へと体を走らせた。
朝靄の中を、白い巨体が疾走し、たどり着いたのは、公園の一角にある『子どもの楽園』だった。まだ誰もいない。早朝の遊具が、靄の中にひっそりと佇んでいる。その奥に、生垣で作られた迷路があった。
犬人は、その入り口へ、吸い込まれるように入っていった。
複雑に折れ曲がる、緑の壁。人の背丈ほどの生垣が、外の視線を遮ってくれる。犬人は奥へ奥へと進み、いちばん奥まった行き止まりで、ようやく足を止めた。
俊二は、やっと覚醒してきたが、飢えを満たしたルカの身体にはどっと疲労が押し寄せた。 俊二の意に反して、ルカの疲労が勝り、犬人は、その場に崩れるように、伏せた。
白い被毛を、地面に横たえて。ルカは静かに目を閉じた。
俊二はさっきの睡眠と、いつの間にか満たした栄養で、体は動かないが、意識は最高に鮮明だったが、山でなにがしかのばい菌が接合部分に感染したのか、またしても、治験失敗を感じ取っていた。
宇宙という巨大なクラウド空間に飛び交う、膨大な情報を受信するアンテナが、グルタミン酸摂取で復活し、同時に発信した。
肉体は、スマートフォンの如く、宇宙のノードであり、ログを刻み続けている。
「恵美、ここに会いに来て」俊二は、晴れやかに願ったが、接合部分が徐々に化膿してきて、熱を発し、けだるさも感じていた。
遠くから、子どもたちの声が聞こえてくる。歓声、笑い声。
いつのまにか、公園に、幼稚園の一団が、来ていた。
その騒がしさにルカが目を覚まし、2つの意識が再接合した。
小さな、足音。それが、迷路の奥へ、奥へと、近づいてくる。
犬人は、すれ違うことなく、この迷路を出ることはできない。
やがて、その足音が、行き止まりの手前で、止まった。
「・・・わあ」小さな、声がした。
黄色い、通園帽子。青い、スモック、女の子の顔。
目が合っても、少しも、恐れていなかった。
丸い目を、輝かせて、じっと見ている。
「・・・お兄ちゃん、ワンワン?」
俊二の意識は、その無垢な瞳を、見つめ返した。
真智子が、小さな手を、そっと、伸ばしてくる。
犬人の、鼻先へ。
犬人は、逃げなかった。その、温かい、小さな手が鼻に触れた。
園児は、笑った。
真智子と犬人が向かい合っていた時。
迷路の外から、切迫した女の声が近づいてくる。
目が合うと、驚愕の表情でスマホを構えた。
シャッター音が、犬の耳を通すとはっきりと聞こえ、迷路から走り出て逃げた。
朝から、日本中が、その話題で持ちきりだった。
どのチャンネルをつけても、同じニュースが流れていた。
世界が注目した天才研究者、山内俊二。
移植医療に革命をもたらすはずだった、その若き権威が、殺害された。
ワイドショーのコメンテーターが、深刻な顔で唸る。スタジオの大型モニターに、俊二の顔写真が映し出される。
学会で表彰された時の、あの端正な笑顔。
その隣に、容疑者として、橋本神治の名が並んだ。
「京都大学の、研究助手の男が、逮捕されたということですが」
「ええ、被害者の、山内俊二さんの、直属の部下だったと」
情報は、断片的に、刺激的に報じられていた。
研究データをめぐる、金銭トラブル。
橋本の口座に振り込まれた、不審な大金。
そして、どこから漏れたのか、遺体は、首から上を切り取られていたという猟奇的な詳細までもが、電波に乗った。
切り取られ、持ち去られた頭部。橋本が乗っていた福祉車両(ハイトワゴン)から検出された、山内俊二の血痕。
SNSは、燃え上がっていた。
橋本の、顔写真が、拡散されていく。
醜い、と誰かが書いた。
その容姿を、事件の猟奇性と結びつける投稿があふれた。
天才で、美男子だった俊二と、風采の上がらない助手。
嫉妬、逆恨み、痴情のもつれ、、、次々と、書き連ねた。
「結局、才能への、嫉妬でしょう」
「山内俊二先生の、婚約者に橋本は恋をしていた、痴情のもつれでしょ」
誰もが、好き勝手に、橋本という男を悪魔に仕立て上げ、その物語に、酔いしれるように語った。
ところが、昼を過ぎた頃、報道の潮目が、変わった。
速報のテロップが、画面の下に流れた。
新たな逮捕者。研究員、平岡。
そして、その供述から、事件は、まったく別の貌を見せ始めた。
真犯人は、橋本ではなかった。
製薬会社のフィクサー、渡辺一矢。
研究データを奪うために、俊二を刺し、橋本を罠にはめ、すべての罪を着せようとした。橋本は、むしろ山内を救おうとしていた側だった。
スタジオが、ざわめいた。
午前中、あれほど橋本を、悪魔のように罵っていた声が、手のひらを返したように、静まっていく。SNSでは、今度は、渡辺への憎悪と、橋本への同情が渦を巻き始めた。
SNSに順子が上げた一枚の写真は、当初、質の悪いAI生成画像として扱われた。
犬の胸に、人間の顔。あまりに非現実的で、誰も本気にしなかった。
悪趣味なコラージュ。よくできたフェイク。人々は笑い、スクロールして通り過ぎた。
『#現代のキメラ』と、面白半分のハッシュタグがつく程度だった。
ところが、気候変動交渉のため京都を訪れていた政府高官、サミュエル・シンプソン、国際的要人が、自らのアカウントで書き込んだ。
『私も今朝、宝ヶ池で実際に見た。あれは生きていた』
実名の、重みのある証言。
折しも、その同じ京都で、遺伝子研究の権威、山内俊二が、頭部を切り取られて殺害された事件が、報じられていた。二つの点が線で結ばれ始める。
消えた俊二の頭部。
そして、犬の胸の人間の顔。
写真を拡大し、俊二の学会写真と並べ始めた。
「……似てる」
「いや、同じだろ、これ」
悪寒のような、戦慄がSNSを走り抜けた。
それが一気に、写真の信憑性を跳ね上げた。
殺された研究者の頭部が、犬の体で生きている。
その、常軌を逸した憶測が、真実味を帯びた瞬間、写真は世界を駆け巡った。
その日の午後には、宝ヶ池公園は、変わり果てていた。
各局の中継車が、道を埋めた。
報道陣、記者、ユーチューバー、スマホを掲げた野次馬。
子どもの楽園の迷路は、規制線で囲まれ、その周囲を、警察官が固める。
上空には、取材ヘリが、何機も旋回し、池の水面を波立たせ、平和だった朝の公園は、狂騒の渦に、飲み込まれていた。
夢の中で、俊二がいた。
いつもの、あの河原だった。
鴨川のせせらぎが聞こえる。俊二は、恵美の隣に座って、いつものように、遠くを見ながら、難しいことを、楽しそうに話していた。
恵美は、その横顔を見ていた。ああ、やっぱり、生きているじゃない。
恵美は、心から安堵した。夢の中でそう思った。
悪い夢だったんだ。俊二は、ここにいる。
「俊二さん」
恵美が呼ぶと、俊二は振り返って、あの穏やかな笑顔を見せた。
何か、言おうとした。だが、その声は、聞こえなかった。
「待って、行かないで、俊二さん!」
恵美は、手を伸ばしたが、指は、空を掴むだけだった。
目が、覚めた。
病室の、白い天井。
頬が、濡れていた。夢だった。
恵美は、しばらく動けなかった。
胸が、締めつけられて、息ができない。
だが、その夢の、あまりの鮮明さが、恵美の中に、奇妙な感覚を、残していた。
まるで、本当に俊二に会ってきたような。俊二がどこかで自分を呼んでいるような。
恵美は枕元のスマホに手を伸ばした。母が止める間もなかった。
画面を開いた瞬間、通知があふれていた。
友人からの心配のメッセージ、ニュースの速報、トレンドを埋め尽くす俊二の名前。
恵美の指がそれをたどっていく。
そして、その写真に行き当たった。
何万回も拡散された、犬の胸の人間の顔。「#現代のキメラ」。海外要人の証言。学会写真との比較。
恵美の時が止まった。
恵美の脳裏に、一つの光景が、蘇った。
グアムから、帰る飛行機の中でのことだった。
あの日、恵美は、機内で、うとうとしていた。
ふと目を開けると、隣の俊二が何か、熱心に描いていた。
恵美は、その手元を、覗き込んだ。
スケッチだった。
大きな犬。その、胸のあたりに俊二の顔が、描かれていた。
恵美は、ぞっとして、笑った。
「なにそれ、気持ち悪い」と言うと
俊二は、いたずらっぽく笑って「ケンタウロスの、犬版だよ」と、はぐらかした。
二つの脳が、一つの体にあったら、どうなると思う? そんな、突拍子もない話を、楽しそうに、していた。
恵美は、また変なこと考えてると呆れて、それきり忘れていた。
あの、スケッチ。
犬の胸に、埋め込まれた人間の顔。
恵美の、全身が、粟立った。
あの写真と同じだ。SNSで、世界中に拡散されている。
あの、犬人の写真と。俊二が、あの日、飛行機の中で描いていた、あの絵と同じ。
恵美の、心臓が、激しく打ち始めた。
「俊二は生きてる!」
恵美は、確信した。
俊二は、あのスケッチの通りになった。犬の体で、いまも、生きている。
そして、自分を待っている。
恵美は、点滴の針を抜いて、止める母を振り切って駆け出した。
恵美を乗せたタクシーは、宝ヶ池を前にして、近づけなかった。
公園へ続く道は、報道の中継車と、警察車両で埋め尽くされていた。
人の波、規制線、回転する赤色灯、とても、中へ入れる状況ではなかった。
「お客さん、これ以上は、無理ですわ」
運転手が、困り果てて言った。
恵美は、料金支払い、車を降りた。
人混みをかき分け、規制線へと近づくが、その先は、警察官が、固く封鎖していた。
「すみません、通してください」
恵美の声は、喧騒にかき消され、誰も、耳を貸さなかった。
恵美は、あの写真の場所を前に立ち尽くした。
たどり着けない。
その時、規制線の内側で、警察犬が地面に、鼻を、擦りつけているのが、見えた。
ハンドラーに、引かれて、匂いを追っている。
落ち着いていてかぎまわる警察犬。
俊二がこのあたりにいるはずはない。
俊二がいれば、犬は興奮する。
恵美は、警察犬を見て、このあたりに俊二がいないことを確信し、ジンジャならわかると思った。
橋本の指紋認証がなければ、ログインできないシステムがある。
取り調べ中、刑事は橋本にスマホが渡した。
橋本は、生体認証、指紋でログインし、すぐさま確認した。
犬人の心電図もルカの脳波も正常だったが、橋本の、心臓が凍りついた。
俊二の脳波がおかしい。
俊二の、脳波の、波形の規則正しいリズムが、乱れ始めていた。
橋本は、画面に顔を近づけた。
医師である、橋本には、わかった。
この波形は。GENE BRIDGEの効果が切れ始めているか、何かに感染し、ダメージを受けている。
「間に合ってくれ」橋本は、祈るように、なにかチェックしているかに見せかけて恵美にメッセージを送った。
恵美は、橋本から届いたLINEをみた。
「信じられないと思う。でも、あの写真は本物です。俊二さんは生きてる。でも、もう危ない。鴨川にいる。急いで、恵美ちゃん」
「山内先生のフィアンセの方ですよね?」
恵美に駆け寄り、毎朝新聞の記者、石井健司は聞いてきた。
急いでますと、恵美は無言で立ち去ろうとした。
石井は「どちらに行かれますか?」と聞いたが、無言で足早に立ち去る恵美を見て、ヘリに無線で追跡を指示した。
恵美は急いでタクシーに飛び乗ると、自宅に戻り、案の定外に向かって吠え立てるジンジャを離し、自転車で後を追った。
ジンジャは、迷いなく走っていく。
恵美は全力でひたすらついて行った。
鴨川の、橋の下。犬人は、橋脚の影に伏せていた。
ルカの身体は元気だが、接合部の感染で俊二の意識は、朦朧としていた。
俊二の意識が弱くなると、ルカの意識で体は支配され、うろうろと河原を歩き始めた。
朦朧とする意識、せせらぎの音がする。
この匂い、この場所、二人で幾度も座った河原。
TV毎朝放送のニュースでは、走るビーグル犬を追いかけ、自転車で鴨川沿いを南下する恵美を、上空からとらえた映像が放映され始めた。
多くの視聴者が、自転車で鴨川を南下する恵美を見ると、その光景が意識の海にログを刻み込み、俊二はその映像を受信し感じた。
恵美が、そしてジンジャが自分に向かっている。
俊二は急に明晰になり、犬人の動きは俊二の意思に委ねられた。
やじ馬が、スマホを構え、河原に降りてくる中を全力で駆け抜け、人だかりのなか、浅瀬の鴨川の中を全力で走った。
猛烈なスピードで、犬人は走った。
俊二は顔に水しぶきを浴び、接合部分の異常を感じながらも、今までにない血流量で意識は鮮明になった。
川端通は、大渋滞で車は止まり、河川敷は人だかりの中、犬人は全力で走った。
上空ではヘリコプターがバタバタと追跡する中「ワワワワン・・ワワワワン」ジンジャが吠え続け、河川敷に降りた。
恵美は、自転車を投げすてるように降りて、河川敷に走り下りたとき、猛烈な勢いで、犬人が、恵美に向かって河を渡ってきた。
多くの警察犬が、追ってきたかと思ったが、警察犬はやじ馬や、逆に警察を威嚇しどけて、犬人の道を作った。
しゃがんだ恵美に、飛びついてきた犬人、俊二の顔が、恵美の前に。
川端通も、周辺も、警察、報道、やじ馬が殺到し、犬人に向かって、近づくおびただしい人々を、警察犬や、どこから来たのかわからない野良犬、散歩中、飼い主を振りほどいてきた犬が咆哮を上げ、犬人と恵美に近づかないように輪を作って追い払う。
激しい状況の中、俊二と恵美はキスをした。
境界が、消えていく。
川のせせらぎと、自分と、恵美と、生まれ来る命とすべてが一つの波長に溶け合っていく。その響きの中で、俊二はもう、何も、思い残すことはなかった。
世間での犬人騒ぎが、沈静化してきたころ、俊二の魂がエネルギーの海へと昇華していくのとすれ違うように、病院では恵美が、俊二の血を引く新しい命を出産した。
赤ん坊の産声が響いた瞬間、まるでそれに呼応するかのように、街中の犬たちが一斉に遠吠えをした。
生まれたばかりの赤ん坊は、ずっと昔から知っているかのような澄んだ瞳で恵美を見つめた。
「おかえりなさい」と、恵美はつぶやいた。
#創作大賞2026 #ホラー小説部門