
【短編小説】めぐる頃 ~紅葉の樹と白雪の庭~
どこか遠くで、澄んだ鈴の音が、ひとつ鳴った。
凛とした光を、胸でそっと、包んだ。
*
秋風が庭先をかすめ、夕暮れの光が障子に淡くたたずんでいた。窓の外には深く染まった華やかな紅葉。ただ、ここには浅く不均一な呼吸が、ゆっくりと、しかし確かに、終わりへ近づいていた。
同じころ、ここにはずっと遠い、なんの縁もない見知らぬ家で、生まれたばかりの泣き声が、ひとつ上がったところだった。静かな庭に、一本の赤く染まる樹。そこにもまた華やかな紅葉があった。
消えてゆく息と、生まれ落ちたばかりの声。本来なら、出会うはずのなかったふたつの輪。二つは交差して、元々ひとつの呼吸であったかのように重なった。そして、凛とした光と共に、秋の空気へ溶けていった。そこには澄んだ鈴の音が、ひとつだけ、鳴っていた。
── この交差が二度目に過ぎなかったころの話である。
一 楓の葉
秋風が窓辺をかすめ、黄昏色の光が病室の天井に淡く映る。窓の外には深紅に染まった紅葉が揺れ、ひとときの安らぎを与えてくれるはずだった。しかし、その風はわたしの心の闇を吹き払うにはあまりにも冷たく、わたしの身体はベッドに縛り付けられたまま動かない。
ふいに、一枚の楓の葉が風に乗って、窓辺へ舞い込んできた。手のひらほどの、燃えるように赤い葉だった。わたしはそれを、枕元で読みさしのまま閉じていた小説に、そっと挟んだ。もう読み終えられそうにないその物語の、続きを示す栞のかわりに。
わたしの名は、もとはこの木から取られたものだという。物心ついたころから、わたしは本ばかり読んでいる、少し物静かな子どもだった。秋が来て庭の楓が色づくたびに、その葉がわたしの名を呼んでいるように感じて、いつまでも縁側から眺めていた。
*
あの日、ただの風邪だと思って始まったこの体調不良は、知らず知らずのうちにわたしの全身を蝕み、まるで底知れぬ深い淵に落ち込むような、うつ病にも似た苦しみを与え続けた。
転院先の大学病院で、ようやく診断名が告げられたとき、医師はこう言った。「適切な治療を受けていれば、数か月で回復していたはずです」と。
しかし、その言葉を受け取るには、もう遅すぎた。わたしの病は、ほんの少し、気づかれるのが遅かっただけだった。たったそれだけのことで、回復の機会は永遠に失われ、わたしは幼いあなたを置いていくことになる。
見過ごされた、ほんのわずかな時間。その小さな取り返しのつかなさを、わたしはただ、肌で噛みしめていた。
付き添う夫は、わたしの前では決して涙を見せなかった。気丈に振る舞い、たわいもない話をして、笑ってみせた。
けれど、病室を出たあと、あの人が誰もいない廊下でどんな顔をしているのか、長年連れ添ったわたしには、手に取るように分かっていた。あの人は、悲しみを表に出すことを知らない、不器用な人だった。
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記憶が遮られた暗いトンネルの先にあったのは、かつて抱きしめたあの小さな存在のぬくもりだった。わたしは「あの娘をもっと長く、ずっと抱きしめていたかった」と、何度も心の中で呟いた。
あなたが生まれたとき、わたしはその名に、自分が残せるたったひとつの光を込めた。あの楓の葉が、赤くともる小さな灯りのように見えたから。わたしがいなくなっても、せめてその名のぶんだけは、あなたの行く道が明るくあってほしいと、そう願って。
いずれは大きくなって、わたしの手を振り解いてどこかへ行ってしまう日が来るとしても、その疎まれる瞬間まで、可能な限り強く抱きしめていたかった。けれど、その願いももう、叶わない。
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わたしにはもう、寄り添うことすら許されない。それでも、もし魂だけでもこの世に留まり、あの娘の成長を見守ることができるのなら──。そう願いながら、わたしは静かに目を閉じた。
そうして意識が途切れていく最後の瞬間、どこか遠くで、澄んだ鈴の音が、ひとつ鳴った気がした。そして、やわらかな白い光が、わたしのすべてを包みこんだ。
二 雪の庭
あなたがこの世に生を受けたとき、わたしはもう、そばにはいなかった。物心つく前に母を失ったことは、幼いあなたの胸に、深い影を落としたことだろう。それでも、かすかな記憶の断片のなかに、母に抱きしめられた温もりだけは、残っていてくれたと信じている。
母を失ったあと、父はあなたに「ママはちょっと長い旅行に出かけているんだよ」と、優しい嘘をついた。それは父にできる、精いっぱいの守り方だった。
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父は、夜になると、よく一人で庭を眺めていた。あなたが寝静まったあと、誰にも気づかれないと思っている時間に、その肩がかすかに震えているのを、わたしは知っている。
それでも朝が来れば、父はいつもどおりの顔であなたを起こし、笑ってみせた。あの人は、悲しみの飲み込み方だけは、誰よりもうまくなっていった。
その代わりのように、父はやたらと写真を撮るようになった。あなたの寝顔、初めて歩いた日、こぼした味噌汁の染みさえも。失われていくものを、一枚でも多くこの手に留めておきたい──二度ともう、何も失いたくない。それは、口下手な父なりの、必死の抵抗だった。
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ある冬の寒い日のこと、父は初めてあなたを家に一人残して買い物に出た。窓の外には、凍てつくように白く静かな庭が広がっていた。あなたは寂しさと不安を胸に抱き、ただひたすらに雪景色を眺めていた。
やがて父が帰宅すると、その腕には、小さな仔犬が抱えられていた。真っ白な毛並みの、まだ生まれたてのように小さな仔犬で、両目もかろうじて開いたばかりだった。「ママがいなくて寂しくなったときは、この子がいるからね」と、父はあなたにその仔犬を差し出した。
その仔犬の首には、小さな鈴のついた首輪が結ばれていた。「どこにいても、おまえの居場所がすぐ分かるように」と、父は言った。失うことをあれほど恐れた父が、新しい小さな命に、真っ先にしてやったのが、その鈴だった。
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怖がりのあなたは、初めて触れる動物のぬくもりに戸惑いながらも、その小さな体を抱き寄せた。その瞬間、胸の奥に広がった温かさに、あなたはハッと息を呑んだ。それはきっと──母に抱きしめられた、あの感触と。
その日、父は一枚だけ写真を撮った。雪をかぶった真っ白な庭の中で、真っ白な仔犬を抱いた、幼いあなた。白と白が溶け合って、どこまでが雪で、どこからが仔犬なのか、もう分からないような一枚だった。その写真は長いあいだ、居間の棚に飾られていた。
三 凛とした灯
それからあなたは、長い長い孤独と向き合うことになった。仔犬と過ごす日々は、あなたにとってかすかな希望の光だった。
名前を呼び、手を差し伸べ、撫でるたびに返ってくる温もりは、あなたの心の闇をほんの少しだけ和らげた。そのぬくもりがほんとうは何だったのか、あなたはまだ知らない。
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あれから十八年。あなたは医師を目指し、大学病院で日夜研鑽を積んでいた。母を──いや、かつてのわたしを奪っていったあの病を、いつか自分の手で治したい。
気づくのが少し遅かった、ただそれだけのことで命を落とす人を、もう二度と出したくない。その一心で、あなたは来る日も来る日も学び続けていた。
人と群れることをせず、いつも一人で机に向かう。感情を表に出すことも少ない。けれど、その奥にある芯の強さと、静かな執念のようなものを、わたしはずっとそばで見てきた。心の鎧を脱げる相手は、世界でただ一匹、わたしだけだったのかもしれない。
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そしてその傍らには、いつもわたしがいた。犬として、ただ寄り添うことしかできないわたしが。歩くたびに、首もとの鈴がちりんと鳴る。その音だけで、あなたはわたしの居場所を知り、わたしはあなたのそばにいることができた。
父も年老いた。わたしの真っ白だった毛は、いつのまにかすっかり灰色に変わっていた。本来であれば、犬という体はとうに尽きているはずの、長い長い年月だった。
それでもわたしは、まだあなたの隣に在り続けることができていた。それが何故なのか、わたし自身にも、はっきりとした答えはなかった。ただ、見届けなければならない何かが、まだ残っている気がしていた。
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ある日、父から「休みの手続きを取ったから、帰っておいで」と連絡があった。あなたはすぐに大学病院の門をくぐり、生まれ育った家へと帰ってきた。
門をくぐると、秋の冷たい風がほほを撫で、庭の木々は赤や黄色の絨毯を敷き詰めたように色づいていた。あの病室の窓から見たのと同じ、燃えるような楓の紅葉が、はらはらと舞っている。
ひんやりとした空気の中に、懐かしさと、ほんのわずかな切なさが混じった。縁側では、すっかり年老いたわたしが、毛布にくるまって静かに目を閉じていた。
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あなたが顔を寄せると、わたしはゆっくりと目を開け、十八年前のあの雪の日と同じ眼差しで、あなたを見上げた。その濁りはじめた瞳の奥に、あなたは庭の楓が映り込んでいるのを見た。
赤く燃えるその色は、いつか棚の写真の中で雪と溶け合っていた、あの真っ白な仔犬と、確かにひとつにつながっていた。白い冬と、赤い秋。遠く離れた季節が、その小さな瞳の中で、静かに重なり合っていた。
あなたはそっと、わたしを抱きしめた。
そのときの温もりは、かつてわたしの母がわたしを抱いてくれたぬくもりであり、わたしがあなたを抱いたぬくもりであり、そして、あの雪の日にあなたがわたしを抱いてくれたぬくもりでもあった。
──そのすべてが、ひとつにつながっていた。
四 鈴の音
それから幾年かが過ぎ、あなたは一人前の医師として、自分の道を歩み始めていた。それはわたしにとって、誇りあることだった。
ある年の秋の夕暮れ。生家の縁側で、すっかり年老いたわたしは、ふっと身体の力が抜けていくのを感じていた。秋風が庭先をかすめ、庭の一本の楓の樹からは落ち葉がひらひらと垂れ、夕暮れの光が障子に淡く滲んでいた。
これでもう、見届けるべきものは見届けたのだと、不思議なほど穏やかに思えた。わたしは最後に一度、首を小さく振った。ちりん、と、鈴がひとつ鳴った。
あの冬の日に、幼いあなたへ抱き渡されたときと同じくらい、安らかな心持ちで、わたしは静かに目を閉じた。そして、やわらかな白い光が、わたしを包んだ。
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その同じ夕暮れ。ここからはずっと遠い、あなたとはなんの血のつながりもない、見知らぬ町の見知らぬ家で、ひとりの赤ん坊が、産声をあげていた。その子の親は、生まれたその瞬間、どこからともなく澄んだ鈴のような音が聞こえた気がして、その音にちなんだ名を、わが子に贈った。
その子が、重い病を抱えて生まれてきたと知ったのは、それからしばらく後のことだった。風邪のはじまりにも似た、ありふれた、誰もが見過ごしてしまうようなわずかな兆し。
けれど、たまたまその子を診ることになったあなただけは、それを見過ごさなかった。物心つく前から、自分の母が同じ始まり方をした病に倒れ、治療が間に合わなかったのだと、繰り返し聞かされて育ってきたからだ。
そして何より、あなたはその病を、世界の誰よりも深く知る医師になっていた。母を奪った、たったひとつのその病のために、長い歳月のすべてを捧げてきたのだから。
*
不思議なことだった。血のつながりも、縁もゆかりもない、見ず知らずのこの子を、「私がどうしても助けます」と、決心を固めていた。なぜこれほどまでに心が動くのかも、理由でなく本能で感じていた。放っておけなかった。
この子だけは、間に合わせなければならない。そう、胸の奥が告げていた。検査の結果、その子の身体の奥に、病の根があることがわかった。それを取り除く手術が、命をつなぐ唯一の道だった。
あなたは病院に願い出た。どうか、この子の執刀を、わたしにさせてください、と。家族でもない医師が、そこまで強く望むことは、異例だった。
この病に関してだけは、あなたは誰よりも確かな手を持っていた。何より、その目に宿る覚悟が、まわりの誰をも黙らせた。長い手術のすえ、あなたは、小さな身体の中から、病の根を、ひとつ残らず取り除いた。
──「適切な治療を受けていれば、回復していたはずです」。
あの日、別の医師が、あなたの母に告げた、間に合わなかったあの言葉。同じ言葉を、今度はあなた自身の手が、たしかに間に合わせたのだった。気づくのが遅れて失われた命が、めぐりめぐって、今度は気づかれ、すくい上げられた。一度の過ちが、ようやく、正された瞬間だった。
終 ぬくもり
数日の後、その子は、命を落とすことなく、健やかな寝息を立てはじめた。
いま、わたしは、まだ何も話すことはできない。生まれたばかりのこの身では、あの犬だったころと同じように、ただ小さな手で、誰かの指を握り返すことしかできない。
それでも、わたしを救ってくれたあなたのことを、わたしはどこかでちゃんと、覚えている気がした。血はつながっていない。育ててくれた母も、別にいる。
それでも ── 遠い昔、ひとりの母が、わが子に光を灯す名前を贈った。その光は、あなたという一人の医師となって育ち、長い歳月を超えて、巡りめぐり、今このわたしを、暗闇からすくい上げてくれた。
*
いつか誰かが灯したひとつの光が、めぐってこの身を救ったように。いつか自分自身も救われるだろう。ぬくもりは、血の道筋など辿らない。ただ、それを必要としている誰かのもとへ、季節がめぐるように、めぐっていく。
生家の居間の棚には、いまも一枚の写真が飾られている。真っ白な雪と、真っ白な仔犬と、それを抱いた幼い日のあなた。そしてその隣には、一冊の古い小説。色のあせた赤い楓の葉を栞にはさんだまま。
ずっと、続きを開かれる日を待っている。いつかあなたが、母の読み終えられなかったその物語の、その先のページをめくる日が、きっと来る。
なぜ、わたしたちは何度も生まれ変わるのか。今、わたしには、少しだけ分かる気がする。それは、一度きりでは間に合わなかったものに、もう一度だけ手を伸ばすためだ。
そして、たとえその灯し火が、ほんのひとときのものであったとしても。その光は、誰かの胸の奥で、季節が巡るように、静かに、確かに、途切れることなく残り続けていく。
見過ごしてしまった小さな兆しに、次こそは気づくためだ。同じ過ちを、二度と繰り返さないために──わたしたちは、何度でも、めぐってくる。
そしてまた、ここにひとつ。
凛とした光を、胸でそっと、包んだ。
どこか遠くで、澄んだ鈴の音が、ひとつ鳴った。