
【エッセイ】百年の仮設
百年の仮設
不動産の仕事を始めたころ、私は市役所の「調査」によく通っていた。
古い図面や計画書の中には、ときどき現実とは少しずれた未来が眠っている。
その中で、ひとつだけ忘れられないものを見つけた。
「都市計画道路」
その線のひとつが、嵐電北野線の線路をまっすぐ貫いていた。
将来、この線路は道路になる――。
しかし、その未来は来なかった。
線路は消えず、道路は現れず、ただ図面の中にだけ、“実現しなかった未来”が残った。
三月の朝の光は、京都では少し白い。
私は嵐電北野線のホームに立っていた。
嵐電北野線開業100周年。
二両編成の小さな電車が、滑るように現れる。
その姿を見るたび、いつも少し不思議な気持ちになる。
この線路は、妙にまっすぐなのだ。
京都の道は、普通どこかで曲がる。
寺を避け、川を避け、昔の境界を避ける。
千年の時間が街を少しずつ歪ませてきた。
けれど北野線だけは、ためらいなく伸びている。
電車は踏切を越える。
高校生が自転車を止め、犬を連れた老人が立ち止まる。
ありふれた朝の風景の下に、別の時間が静かに埋まっている。
昔、この電車も消えかけたことがあった。
街には、もっと速く、もっと効率のいいものが求められた。
多くの線路が姿を消した時代だ。
市電は消えた。けれど北野線は残った。
残った、というより、時間の流れから少し取り残されたまま、ここに留まったと言った方が近い。
電車が小さく揺れる。
速さのための揺れではない。
長く続いてきたものだけが持つ、独特な揺れだ。
京都という街は、ときどき巨大な「仮設」のように見える。
完成しているようで、どこか途中なのだ。
計画は古くなり、時間だけが積もっていく。
それでも人は暮らし続ける。
朝になれば電車に乗り、店を開け、洗濯物を干す。
コーヒーを飲み、パソコンに向かう。
その静かな反復の方が、計画より長く残る。
もし、ここを通るはずだったものが本当に通っていたら。
この電車は最初から存在しなかったのかもしれない。
あるいは、この住宅街がどうなっていたかわからない。
実現しなかった未来の上に、別の現実が積もっている。
街とは、その繰り返しなのだろう。
桜のトンネルを超える。
もうすぐ、桜も咲きだす。
私はその光景を見ながら、また、「仮設」という言葉を思い浮かべる。
本来、短いものだ。数日か、せいぜい数年。
しかし、この線路は百年続いている。
”百年続く仮設”
私の時間の感覚が少しだけ狂う。
電車は何事もなかったように住宅地の中を走っていく。
まっすぐに。
百年前に引かれた線の上を、古い響きとともに——がたん、ごとん。