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「選択の時代」における教育と採用の地殻変動

     少子化が進む中、私立の小中学校が選ばれ続けているという現象は、単なる統計上の数字ではない。それは日本の公教育が、歴史上初めて「選択される側」に立たされたことを意味する。
     近代公教育のモデルは、つきつめれば兵営にある。徴兵制がそうであったように、同一年齢の者を一括して集め、均質な規律と知識を効率よく注入する——その論理が教室の設計にも、時間割にも、評価制度にも埋め込まれてきた。選ぶ自由など端から存在しない前提のもとで、システムは最適化されてきたのだ。

     ところが、子どもの数が減り、学校が「選ばれなければ存在できない」現実に直面したとき、その前提は静かに崩れ始める。各校が独自のカリキュラムを打ち出し、保護者は口コミと見学で学校を品定めする。選択メカニズムの浸透は、均質性を武器としてきた兵営モデルの存在条件を根本から掘り崩す。公立学校は、評価して序列づける側から、既に序列化づけられる側に移っているということを自覚する必要がある。

     この変容は、必然的に「同一年次一括採用」という慣行にも波及するだろう。一括採用とは、学校教育が産出する「同一規格の人材」を、企業が同一タイミングで受け取るサプライチェーンの論理である。入口(教育)が多様化し始めれば、出口(採用)もやがて個別対応を迫られる。すでに通年採用や経験者採用に舵を切る企業は増えているが、それは先取りというより、教育側の変化への遅れた適応とも読める。

     そうなったとき、大学の価値はどこへ向かうのか。
     これまで大学は「一括採用へのパスポート」として機能する部分が大きかった。偏差値という序列は、企業の採用コストを下げるための社会的装置でもあった。しかしその装置の有効性が低下すれば、大学は純粋に「何を学ぶ場か」を問われることになる。
     それは大学にとって、危機であると同時に本来の問いへの回帰でもある。選択が教育全体に貫徹するとき、大学もまた、選ばれる理由を学問の中身で語らなければならなくなる。

     
     
    自分が住んでいる町を再確認していこうと思っています。そして、この町のために、何ができるかを深く考えていければと思っています。

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