
科目ごとの成績による序列化という不毛
科目成績序列化とは誰のため?
不登校の要因の一つに、学校教育における成績序列化への毛嫌い、拒否感があるだろう。
学校という組織体では、科目ごとに成績をつけ児童・生徒を序列化することが当然のこととしてまかり通っている。下位に序列づけられることを心の底から歓ぶ人などいるはずもないのに。
「科目」の無根拠さ
そもそも「知」に領域など存在しない。便宜のための人為的な区分が設けられているだけだ。
領域化された「科目」なるものによって、個々の興味・関心の方向性を制限され、その得手・不得手を完全に無視され序列化にさらされる。
保育所保育指針(解説)でも、確かに、いわゆる「保育のねらい」の「5領域」が設けられてはいる。しかし、そこでは、子どもの発達や成長は個々の領域のなかで別々に進捗するものではなく、領域横断的に生じるものであることが繰り返し述べられている。
このような成長観と比べて、学校教育における「科目ごとの成績序列化」というものが、いかに貧困なものであるか想像できるはずだ。
数値的序列化の貧困さ
さらに、数値的序列化ということの貧困さにも思いをはせたい。
いわゆる5段階評価だけではなく、「よくできました」「できました」「がんばりましょう」といった表現としては数値ではない成績も科目制のもとで「数えて比べる」ことができてしまうので、本質的に同じ序列化の契機を持っている。
仮に「教育」を「何かを達成できるように支援すること」と貧相な定義をしたとしても、成績による序列化がその目標を達成する上で必須であるとは思えない。むしろ、阻害要因になっているのではないか。
他者との序列化を意識させることで、子ども本人の達成に何ができるというのか。一種の目標として他者を示すことには意味がある。しかし、その他者は、序列化されるような(同質)集団である必要は全くない。むしろ「お手本」とは少し遠い位の方が効果的だろう。
成績序列化というのは、徹頭徹尾、管理側の便宜によるものだ。さらに言えば、直接の管理側の便宜にも本当になっているのか疑問だ。
成果主義人事評価の失敗に学ぶべき
子どもの状況を理解することと序列化は全くの別ものだ。
教師側も、序列化のための成績事務に振り回されているということを認識した方が良いだろう。
成果主義の人事評価の仕組みが、ブラック企業に繋がり、上場企業における不祥事や粉飾を頻発させる「失敗例」であることが明らかになり、そして結局は定着していないことを踏まえれば、成績序列化の無意味さにも気づけると思うのだが。
繰り返しになるが、何かを達成するための支援に、序列化は不要だ。