
「しょうがない」で人生を終わらせたくなかった。――入社試験で落ちたはずの研究者が、富士フイルムを辞めて山へ向かうまで
「しょうがないよ」
その一言を、今も覚えている。
富士フイルムに入社して数年が経った頃、私は毎日のように深夜まで働いていた。夜の十一時に帰れたら早い方。土日も会社に行くか、家で特許を書く生活だった。
ある日、先輩に聞いた。
「人生のための仕事ならわかります。でも、これでは仕事のための人生ではないですか?」
先輩は少し困ったように笑って、こう言った。
「そうだね。起きている子どもに会うことなんて、ほとんどないからね」
「それは、かなりイマイチじゃないですか?」
そして返ってきたのが、あの一言だった。
「まあ、しょうがないよ」
その瞬間、私の中で何かがはっきりした。
いや、しょうがなくないだろう。
仕事だから。会社だから。みんなそうしているから。そうやって、自分の人生がどこかに置き去りになっても、本当に仕方ないのだろうか。
私は、その言葉で翼が折れたわけではない。むしろ逆だった。
もともと私は、研究が好きだった。面白い研究をしている時は、自分の翼が大きく広がっているような感覚があった。まだ誰も作っていないものを、自分の手で形にする。そういう時間の中で、私は一番自分らしく羽ばたいていた。
けれど、研究が商品化に近づき、企業間の競争や戦略特許、権利の奪い合いの世界に入っていくにつれて、少しずつ翼がしぼんでいくような感じがしていた。
「しょうがないよ」
その言葉は、しぼみかけていた翼を見せつけ、もう一度その翼を開かなくては、と思わせる言葉でもあった。
私はこのまま、「仕方ない」という言葉に自分の人生を預けるつもりはなかった。
【入社試験には、落ちていた】
そもそも私は、富士フイルムの入社試験に一度落ちていたらしい。
らしい、と書くのは、その時の私は自分が落ちていることにすら気づいていなかったからだ。
一九九八年、私は富士フイルムの入社試験を受けた。
当時の私は京都大学大学院にいて、専門は化学だった。とはいえ、細かい知識をみっちり暗記しているようなタイプではなかった。
富士フイルムのオフィスに着いた時も、私は入社試験とはどういうものかよくわかっていなかった。
すると、いきなり化学の筆記試験が始まった。これが、さっぱりできなかった。大学院まで出ている化学専攻の人間が、化学の試験でほとんど答えられない。かなりまずい。
でも私は、あまり気にしていなかった。
こんなの、実際の研究とは関係ないだろう。そんな感覚だった。
筆記試験の後、面接が始まった。私の前に面接を受けた人は、どうやら無事に合格したらしい。面接官もにこやかだった。
そして私の番が来た。
部屋に入ると、空気が明らかに違った。
面接官たちの顔つきが冷たい。こちらを見ているのに、すでに結論は決まっているような空気があった。
「このレベルで、本当に化学実験ができると思っているんですか?」
そんな趣旨の厳しいことを言われた。
普通なら、ここで落ち込むのかもしれない。でも私は、面接官たちが何を問題にしているのかが、よくわからなかった。
彼らは、テストの点が悪ければ研究もできないと考えているようだった。私はまるでそうは思っていなかった。
だから、そのまま話した。
「実際の研究では、細かいことを全部覚えている必要はないと思います。教科書や論文を横に置いて、調べながら実験を進めればいい。テストで高得点を取れるというのは、教科書に載っていることをたくさん覚えているというだけではないでしょうか」
面接官の表情は、まだ厳しかった。でも私は続けた。
「富士フイルムで何の研究をするのか、今の私にはわかりません。もし研究テーマが決まったら、その分野を自分で勉強します。わからないことがあれば調べます。研究とは、最初から答えのわかっていない問題に向き合うことだと思います」
空気が変わったのは、その後だった。
私は、入社試験の制度そのものにも問題があるのではないか、と話した。記憶力を測るような試験で、研究者として本当に必要な力を見抜けるのだろうか。会社に必要なのは、課題を見つけ、必要なものを自分で学び、改善案を出せる人ではないのか。
さらに、単に知識を問うのではなく、未知のテーマをどう調べ、どう考え、どう実験に落とし込むかを見た方がよいのではないか、といった改善提案もした。
その瞬間だった。
面接官の顔つきが、急に変わった。冷たかった視線が、少し前のめりになった。椅子に背を預けていた人が、身を乗り出してきた。
後から考えると、私が指摘したことは、ちょうど彼ら自身が会社の課題として考えていたことと重なっていたのだと思う。
私は、その課題を知らずに、目の前で指摘してしまった。そして自分なりの改善案まで話してしまった。
今思うと、ずいぶん生意気な学生である。でも、その時の私は本当にそう思っていた。自分をよく見せようとしたわけではない。ただ、自分が本当に思っていることを話しただけだった。
試験が終わり、京都の研究室に戻ると、教授が興奮した様子で声をかけてきた。
「室田くん、聞いたよ。逆転満塁ホームランだったらしいじゃないか」
教授の話によると、筆記試験の結果を見た時点で、私は不合格だったらしい。面接官たちは、それを伝えるつもりで面接に臨んでいた。
ところが、私が自分の考えを話したところ、面接官全員が不合格を合格に変えたという。
落ちていたのか。
それすら気づいていなかった。
【「反抗心」が満点だった】
内定後、富士フイルムでは心理テストのようなものを受けた。
しばらくすると、人事部の部長から研究室に電話がかかってきた。
「室田くん、心理テストの結果がちょっと特異でね。一度、心理カウンセラーの先生も交えて話をしないか」
私は、人事部の部長とカウンセラーの先生と三人で会うことになった。
そこで部長は言った。
「他人への影響力、という項目が満点なんだ」
私は、へえ、そうですか、くらいの感じだった。
すると部長は続けた。
「もう一つ、反抗心も満点なんだよね。これはどう思う?」
反抗心が満点。普通なら、まずい結果なのかもしれない。
でも私は、自分を反抗的だとは思っていなかった。だから、そのまま答えた。
「自分では、反抗しているつもりはありません。ただ、納得できないことは納得できないと言います。上司から指示が来ても、理由がわからなければ聞きます。もっと良い方法があると思えば、提案します。それを反抗的というなら、そうなのかもしれません」
そして、こうも言った。
「でも、全部に反抗するわけではありません。仕事が面白ければ、何も言われなくても勝手にやります」
その言葉を聞いて、部長は言った。
「そうか、わかった」
その時の私には、その言葉の意味はわからなかった。でも後になって、その一言が私の会社員生活を大きく変えていたことを知ることになる。
【自由にやらせてもらった研究生活】
一九九八年、私は富士フイルムに入社した。配属先は静岡県の吉田工場だった。
最初に聞いた時は、少し驚いた。研究所ではなく、工場なのか。
けれど実際には、その工場内に研究所があった。体育館もあり、私にとっては楽しそうな環境だった。
吉田工場では印刷版を作っていた。そこで私に与えられたテーマは、ブルーLD、つまり青色レーザーで描ける新しい印刷版の開発だった。
印刷版というのは、ざっくり言えば、新聞や本、チラシなどを印刷するための「版」である。
当時、フォトポリマー系の印刷版は、基本的に暗室のような環境で扱う必要があった。私はその暗室の暗さを知っていた。作業する人にとって、それがどれほど負担になるかも想像できた。
けれど、もし青色レーザーで描ける印刷版ができれば、暗室ではなく、黄色い明るい部屋で作業できるようになる。
それは単に新しい技術というだけではなかった。
暗い場所で作業していた人たちを、明るい場所へ出せるかもしれない技術だった。
しかも、そんな印刷版はまだ世にない。
ならば、自分が作る。
そう思った時、私はワクワクした。
これは面白い。
「やりましょう」
私はそう答えた。
とはいえ、私は印刷版の原理もよく知らなかった。何から始めればいいのかもわからない。だから、まず調べた。文献を読み、特許を読み、仕組みを考え、実験計画を立てた。
二ヶ月ほど調べた頃、上司に言った。
「こういう実験をやってみたいんですけど」
上司は、あっさり答えた。
「やれば?」
実験してみると、まるでうまくいかなかった。
最初のサンプルは、まったく画像が出なかった。露光しても反応が弱く、現像すると絵柄ごと流れてしまった。
何かが足りない。でも、何が足りないのかがわからない。感光層、波長、材料、現像条件。一つずつ切り分けていくしかなかった。
その結果を上司に報告すると、上司はまたあっさり言った。
「せやろ? あかんと思ったわ」
それなら最初から言ってくれればいいのに、とも思う。
けれど、その後もずっとそんな感じだった。
私が「これをやってみたい」と言う。上司は「やれば?」と言う。結果を出す。上司は「せやろ?」と言う。
同期の中には、手取り足取り指導を受けている人もいた。一方で私は、ほとんど何も指示されなかった。
何をやってもいい。失敗してもいい。やりたいならやればいい。
当時の私は、その意味がよくわからなかった。ただ、とにかく自由だった。そして私は、その自由の中で羽ばたいた。
もちろん、製品を作ったのは私一人ではない。上司、先輩、同僚、実験を支えてくれた多くの人たちがいた。会社の設備や環境があり、チームとしての積み重ねがあった。
ただ、私にとって大きかったのは、根幹となる技術の一部を、自分のやり方で突き詰められたことだった。
上司たちは、私が進めようとしていたやり方ではゴールにたどり着けないと思っていたらしい。でも、私は自由だった。だから、そのやり方を試すことができた。
うまくいかない実験を繰り返しながら、青色レーザーの波長に反応し、しかも明るい黄色い部屋でも扱える印刷版の根幹技術につながる感光層を作ることができた。関連する技術では特許も取得された。
二〇〇〇年、その印刷版はドイツで開催されたDrupaに富士フイルムの技術として出品された。Drupaは印刷業界の大きな展示会である。
自分が関わった印刷版が、世界中の人に見られる場所に出る。それは、研究者として本当に嬉しいことだった。
その時の私はまだ、自分がなぜそこまで自由にやらせてもらえていたのかを知らなかった。

【翼がしぼんでいった場所】
研究そのものは、楽しかった。
まだ誰も作っていないものを作る。仕組みを考える。失敗して、また試す。世界に出せるレベルまで持っていく。それは本当に面白かった。
けれど、研究が商品化に近づくにつれて、仕事の性質は変わっていった。
技術を守るために特許を書く。相手の特許を読み、こちらの権利を守る。いわゆる戦略特許の世界である。
もちろん企業としては必要なことなのだと思う。でも、私にはそこがどうにも面白くなかった。
自分が技術を作ることは楽しかった。それが世の中の役に立つことも嬉しかった。
けれど、自分たちの技術を守るために、他社が使えないようにする。他社も同じようにこちらを妨害しようとする。そのために莫大な時間と労力を使う。
お互いに足を引っ張り合っているように見えた。
もし協力したら、もっと早く世の中に良いものが広がるのではないか。そんなことを考えるようになった。
研究で広がっていた翼が、少しずつしぼんでいくようだった。折れたのではない。まだ飛べる。でも、この空では飛びたくない。そんな感覚だった。
さらに職場環境も変わっていった。
上司が変わり、仕事量は一気に増えた。夜十一時に帰れれば早い方。夜中の二時、三時になることも珍しくない。土日も仕事だった。
私は結婚したばかりだった。妻は、いつ帰るかわからない私を待っていてくれた。夕食を作って、できるだけ起きて待っていてくれた。
ある深夜、家に帰ると、玄関で妻が眠っていたことがある。「おかえりなさい」と言おうとして、そこで眠ってしまったのだと思う。
その姿を見た時、強く思った。
自分は一体、何をやっているのだろう。
冷めた夕食を温め直してもらい、夜中の二時頃に食べる。睡眠不足で、食べながら眠ってしまうこともあった。車の運転中に起きていられなくなり、自分で通勤することすら危なくなっていた。
おかしい。これはおかしい。
そう思いながらも、考える時間すらなかった。
そして、あの先輩の言葉を聞いた。
「しょうがないよ」
私は思った。
仕事よりも、この問いに対する自分なりの答えを見つける方が、ずっと大事だ。自分は、もっと羽ばたけるはずだ。このまま、翼をしぼませたまま生きるつもりはない。
【Dさんが明かしてくれたこと】
私の辞意が本社に伝わると、入社時に私の話を聞いてくれた人事部の部長、Dさんが静岡まで来てくれた。
「室田くん、聞いたよ。なんで辞めようなんて思ったんだ。まずは飲みに行こう」
Dさんは、私の話を丁寧に聞いてくれた。
そして言った。
「職場環境が気に入らないなら、配属先を変えてもいい。上司の処遇を考えてもいい」
そこまで言ってくれる会社が、どれほどあるだろうか。
私は今でも、富士フイルムには深く感謝している。嫌いで辞めたわけではなく、本当に懐の深い会社だったと思っている。
けれど、その時の私はもう、会社に残る方向には気持ちが向いていなかった。
辞めたら何をしようか。自分で何かを始めようか。大きく稼いで、発展途上国に学校を作るようなこともできるかもしれない。そんなふうに、すでに次の人生のことを考え始めていた。
私がその気持ちを伝えると、Dさんは言った。
「よし、わかった。室田くんは、そう言ったらそう行くんだろう。今日は飲もう」
本当に気持ちのいい人だった。
そしてその場で、Dさんは初めて私に教えてくれた。私が入社後、なぜあれほど自由に研究できたのか。
「室田くんは、仕事が楽しければ勝手にやると言っていただろう。吉田工場は面白かっただろう?」
私は驚いた。
「Dさんが、僕を吉田工場に配置してくれたんですか?」
「そうだよ。つまらない仕事だと、室田くんは命令されてもやらないだろう。でも、面白い仕事を与えれば、喜んでやると思ってね」
さらにDさんは言った。
「命令もされなかっただろう?」
確かに、そうだった。
私はずっと不思議に思っていた。なぜ自分だけ、あんなに自由だったのか。なぜ何をやっても「やれば?」だったのか。なぜ失敗しても止められなかったのか。
Dさんは配属先の部長に、こう伝えてくれていたらしい。
「こんな新人が行くから、彼には自由にやらせてやってくれ」
ああ、そうだったのか。
入社試験で落ちたはずの私を、面接官たちは合格に変えてくれた。心理テストで「反抗心」が満点だった私を、Dさんは危険人物として扱わなかった。
むしろ、その性質が活きる場所に置いてくれた。
命令で動かそうとするのではなく、面白い仕事を与え、自由にやらせてくれた。
その結果、私は本当に勝手にやった。そして、Drupaに出るような印刷版の開発に関わることができた。
自分の力だけではない。Dさんがいてくれたからだ。上司が自由にやらせてくれたからだ。会社がその環境を用意してくれたからだ。そして、多くの人が一緒に形にしてくれたからだ。
退職の時、多くの人が新しい門出を祝ってくれた。
私は富士フイルムを辞めた。でも、あの会社で得たものは、今も自分の中に深く残っている。
【会社を辞めても、問いは終わらなかった】
二〇〇三年、私は富士フイルムを退社した。
辞めてすぐに田舎暮らしを始めたわけではない。
まずは起業を考えた。実際に会社を立ち上げたわけではない。けれど、何をすれば世の中の役に立てるのか、真剣に考えていた。
同時期に投資もしていた。二〇〇三年から二〇〇九年頃まで投資家として過ごし、一時的には高額所得者にもなった。
お金があるかないかで言えば、もちろんある方が便利だ。けれど、お金があれば幸せかというと、私にはそうは思えなかった。
お金があっても、問いは終わらなかった。
自分は何のために生まれてきたのか。自分は何をするべきなのか。何をしている時に、本当に生きていると感じるのか。
その問いの方が、私にはずっと重要だった。

二〇〇五年から二〇一二年頃まで、私はその問いに深く向き合う時間を過ごした。
世間一般の流れから見れば、かなり変わった時間だったと思う。普通の意味での仕事や社会の流れから距離を置き、自分の内側を徹底的に見つめた。
でも私にとっては、それは人生を止めた時間ではなかった。むしろ、真剣に生きようとしていた時間だった。社会の常識や勢いに流されるのではなく、自分が本当に納得できる答えを探す時間だった。
会社で研究していた頃、私はまだ誰も知らない技術の答えを探していた。会社を辞めた後は、自分の人生そのものについて、まだ誰も代わりに答えてくれない問いを探していたのだと思う。
【山へ】
二〇一二年、私は山梨へ移住した。そして、ビヨンド自然塾を立ち上げた。
子どもの頃から、自然の中で過ごすことが好きだった。高校時代の進路希望にも、「大自然の中で牧場のようなことをやる」といったことを書いていた。
けれど当時の私は、それを実現するにはお金が必要だと思っていた。
だから、まず社会に出ようと思った。研究者になり、会社を辞め、起業の準備や投資も経験し、お金についても考えた。そして、九年かけて自分の問いに向き合った。
その先に、自然の中での暮らしがあった。
山梨に来てからは、空き家を借り、耕作放棄地を拓き、小屋やツリーハウスを作った。倒木や山の木、土を使って小屋を建てたり、古い家を直したりした。

建築を学んできたわけではない。自分で調べ、試し、失敗し、また直す。研究の時と同じだった。知識が先に全部そろっていたわけではない。やりたいと思う気持ちが先にあり、必要なことを調べながら進んできた。

もちろん、自然の中の暮らしは、きれいなことばかりではない。
収入はかなり少なかった。だから、とりあえず何でも自分でやる必要があった。家の修繕も、小屋づくりも、道具の工夫も、畑の整備も、できるだけ自分たちの手でやる。
管理している土地は二ヘクタールほどあるので、草刈りだけでも地味にかなり大変だ。夏になると草は待ってくれない。刈っても刈っても、また伸びてくる。

虫もいる。寒さもある。古い家は直すところだらけだ。便利さで言えば、都会の方がずっと便利だろう。
それでも、不思議な充実感があった。
できないと思っていたことが、少しずつできるようになる。買うしかないと思っていたものを、自分たちで作れるようになる。人に助けてもらいながら、暮らしが形になっていく。
収入が少なかったからこそ、何でも自分でやるしかなかった。でも逆に、それが生きている実感を生んだ。そして、その姿に共感してくれる人たちが現れた。
コタツ、机、暖房器具、布団、冷蔵庫。活動に必要なものの多くは、人から譲ってもらった。小屋を建てる資材や、家を直すための材料も、いろいろなところから集まってきた。
助けてもらうたびに、ありがたいと思った。自分一人で生きているのではないのだと感じた。

競争ではなく、協力。
会社員時代に感じていた違和感とは、正反対の世界がそこにあった。
ビヨンド自然塾には、都会から多くの人が来るようになった。中には、東京圏からお試し滞在に来て、山梨での暮らしを気に入り、二週間後には本当に引っ越してきた人もいる。
その変化を見るたびに思う。
人は、自分の性質が活きる場所に出会うと、表情が変わる。
都会でうまくいかなかった人が、自然の中で息を吹き返すことがある。会社では扱いにくいと言われるような性格が、別の場所では力になることがある。
私自身がそうだった。
入社試験では落ちたはずだった。心理テストでは反抗心が満点だった。普通に管理しようとすれば、面倒な新人だったかもしれない。
でもDさんは、そこを潰さなかった。面白い仕事を与えれば勝手にやる人間だと見抜き、自由にやらせてくれた。そのおかげで、私は羽ばたけた。
今、私が山梨で作りたい場所も、それと同じなのかもしれない。
Dさんが私の特性を見抜き、その力が活きる場所を用意してくれたように、私もまた、多くの人が自分の翼をしぼませることなく、自由に羽ばたいていく手伝いをしたいと思っている。
それが今、ビヨンド自然塾で続けている活動である。
誰かを型にはめる場所ではない。答えを押しつける場所でもない。その人が、自分の気持ちに素直に、ありのままに生きられる場所。
社会の中でしぼみかけた翼を、もう一度開いてみる場所。
【それでも、今も続けている】
ビヨンド自然塾を立ち上げてから、十年以上が経った。今も私は、山梨でこの活動を続けている。
自然体験、田舎暮らし体験、講座、滞在、対話。形はいろいろあるが、根っこは変わっていない。
「自分の気持ちに素直に、ありのままに生きる」
それを、世界的な文化にしたいと思っている。
大げさに聞こえるかもしれない。でも私は、本気でそう思っている。
社会の常識や他人の評価に合わせすぎて、自分の感覚がわからなくなっている人は多い。かつての私も、考える時間すらない生活の中で、自分の翼がしぼんでいくのを感じていた。
だからこそ、自然の中で立ち止まり、自分の感覚を取り戻す時間を提供したい。
もちろん、課題もある。収入は安定しにくい。二ヘクタールの土地を維持するだけでも、かなりの労力がいる。理想だけでは続かない。
それでも続けているのは、そこに確かな意味を感じているからだ。
人が変わる瞬間を見ることがある。表情がゆるむ瞬間。「こういう生き方もあるんですね」と言われる瞬間。
そういう瞬間に立ち会うたびに、私は思う。
あの時、「しょうがない」で終わらせなくてよかった。

【自分に素直に生きるということ】
「しょうがないよ」
あの言葉を聞いた時、私はこのままではいけないと思った。でも、あの先輩を責めたいわけではない。
きっと先輩も、必死に生きていたのだと思う。家族のために働き、会社の中で役割を果たし、自分に言い聞かせるように「しょうがない」と言っていたのかもしれない。
多くの人が、そうやって生きている。でも私は、その言葉を自分の人生の結論にはしたくなかった。
しょうがない、で終わらせたくなかった。
自分はどう生きたいのか。何をしている時に羽ばたけるのか。何に意義を感じるのか。誰と、どんなふうに喜び合いたいのか。
その問いをごまかしたまま生きることは、私にはできなかった。
もちろん、誰もが会社を辞めればいいとは思わない。誰もが田舎に移住すればいいとも思わない。人によって、羽ばたける場所は違う。
ただ、自分の翼がしぼんでいることに気づいたなら、そのままにしないでほしいとは思う。
仕方ない、で終わらせなくてもいい。
自分の性質を欠点だと決めつけなくてもいい。
反抗心と呼ばれるものが、実は納得して生きたいという強さかもしれない。好きなことにしか力が入らない性格が、環境次第では大きな力を発揮することもある。
私は、入社試験に落ちたはずだった。それでも、本音を話したことで道が開けた。反抗心が満点だった。それでも、その性質を活かしてくれる人がいた。自由に研究させてもらった。その結果、世界に出る印刷版の開発に関わることができた。そして、会社を辞めた。
それは逃げではなかった。しぼみかけた翼を、もう一度開こうとしただけだった。
今、山梨の自然の中で暮らしながら、私はあの頃の自分にこう言いたい。
その違和感を信じていい。その翼は、まだ折れていない。飛ぶ場所を変えれば、また開く。
そして今、もしどこかで「しょうがないよ」と自分に言い聞かせながら生きている人がいるなら、私はその人にも同じことを伝えたい。
本当に、しょうがないのだろうか。
あなたの翼は、本当に折れているのだろうか。
ただ、まだ開ける場所に出会っていないだけなのではないだろうか。
※この文章は、二〇一四年頃にSTORYS.JPへ投稿していた記事を、創作大賞2026応募にあたり再構成・加筆修正したものです。当時の記事はランキング上位に入り、県外から話を聞きに来てくださる方や、講演依頼にもつながりました。
