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ガジリ〜釘師ヤスが裏カジノにハマることになった、ある一夜の話

    高卒の釘師が歌舞伎町の裏カジノで脳を焼かれ、3年半で1100万円を失う。しかしその後、カジノプロとの出会いから自らも勝ち組「ガジリ」となり1200万円を奪還。だが勝ちすぎて出禁となり、最終的にトイチの金貸しへ――裏世界の騙し合いと狂気を描いた壮絶な実話回想録。(全6話)
    これは実話である。2010年の東京で起きた話である。登場人物へ敬意を表し、実名と場所は変えてある。その他は、当時の記憶を元に忠実に書いた。
    俺の名前は佐藤。仲間からはヤスと呼ばれている。パチンコ屋の釘師だ。 釘師とは、パチンコ台の盤面に打ち込まれた真鍮の釘を専用ハンマーで叩き、玉の動きを調整する仕事だ。コンマ数ミリの調整で店の利益も客の勝率もコントロールする。誰にも見えない場所で、誰よりも繊細な作業をする。高卒で何の取り柄もなかった俺が、一人前として認めてもらえる場所。それが、この店にはあった。
    営業は順調そのものだった。利益は右肩上がりに増え続けた。この店は俺にとっての古巣だった。かつて平店員としてここで9年間勤めた。将来を考えた時、答えはシンプルだった、俺の大好きなパチンコで稼ぐ、それなら釘師しかない。そう決めて退社した。上野にあるパチンコ機の販売と営業コンサルタントの会社に入り、2年間死に物狂いで腕を磨いて釘師になった。埼玉にあるパチンコチェーン店に移籍してトップ職にまで上り詰めたが、その地位をあっさりと捨てて、俺は再びこの店に戻ってきたのだ。あれから7年。
    再会した古巣は、人間で言えば死ぬ寸前の息も絶え絶えな状態だった。それを、俺のセンスと才能で強引に蘇生させた。あの時、心底震えるような高揚感の中で、初めて自分は何者かになれたのかもしれないと思った。
    だが、デスクに戻れば山積みの伝票と山盛りの灰皿だ。手元には容赦のない売上データと稼働データ。俺の毎日は、片時も気が休まる暇もなく、ただ売り上げと利益のことだけで埋め尽くされている。それが、「順調にやっている男」のあまりに不格好な正体だった。「俺の代わりは誰もいない」という事実が、かすかな安心と、それ以上の猛烈な息苦しさを同時に運んでくる。家に帰っても、その息苦しさだけが鉛のように胸に居座っていた。コン、コン。 ノックの音と共に事務所のドアが開き、顔を覗かせたのは、メーカー営業マンの菊田だった。 「店長、お疲れさまで〜す」 「よーっ、菊ちゃんか。お疲れさん」 俺はミニ冷蔵庫から冷えた栄養ドリンクを取り出し、一気に煽った。強烈な糖分と無理やり詰め込まれたカフェインが、胃の底にどろりと落ちていく感覚があった。菊田の手元には、新台のパンフレットが握られている。華やかな表の世界の宣伝文句を尻目に、俺は空き瓶を握りしめたまま、どこか遠い場所を眺めていた。
    机の向こう側から、菊田が少しだけ身を乗り出してくる。 「店長、疲れてますね~大丈夫なンスか?」 「え? あぁ、大丈夫だよ」 きっと俺の顔には言葉にならないほどの疲労が滲み出ていたはずだ。返事も完全に上の空だった。 「店長、今夜、釘調整が終わったらストレス解消に行きません? いい店見つけたンスよ」 俺は無言で、ドリンクの空瓶をカツンと机に置いた。また俺の奢りで風俗遊びにでも連れて行けってか? 呆れたようにふっと口元を緩めたが、すぐにその表情から笑みが消えた。代わりに、刺すような視線を菊田に向ける。頭の芯で何かが冷酷に切り替わったのがわかった。
    「それより菊ちゃん、裏カジノって聞いたことあるか?」 静まり返った事務所に、その言葉が重く落ちた。菊田の営業スマイルが、一瞬で硬直する。 「はい。あります。何軒か知ってますけど……」 言葉を濁し、泳ぐ菊田の視線。その動揺を逃さず、俺は椅子から微動だにせず、相手の目をじっと覗き込んだ。 「何軒か知ってますけど、なんだ? 俺を連れて行くのは勘弁してくれ、ってか?」 自分の目が、釘を叩く時よりもさらに真剣で、どこかギラついた熱を帯びているのがわかった。菊田は周囲を気にするように声をさらに潜め、吐き出すように言った。 「店長、あんなところ行ってるのがバレたら、二人とも一発アウトですよ」 それはぐうの音も出ない正論だった。パチンコ業界の責任者が絶対に踏み込んではいけない、アンダーグラウンドとの境界線。バレれば店は営業停止、俺も一瞬で消えるだろう。 「でも店長」探るように菊田が聞いてくる。「なんで今更裏カジノなんか行きたいんですか?」 その問いに、すぐには答えられなかった。菊田に説明できるような、真っ当な理由などあるはずがなかった。
    ホールコンのデータ分析、釘を叩き、売上を上げ利益を積み上げて、店を回す毎日。同じことの繰り返しだった。これがいわゆる安定ってやつか……そんな自問だけが頭の中で虚しく渦巻いていた。端から見れば順調な日常に映るのかもしれない。だが、俺の内側では、何かが確実に死にかけていた。
    刺激がないんだよ。もっと脳が焼けるような、熱いものが欲しい。酒を飲みに行っても、風俗遊びに行っても、刺激が足りない、胸の底の空洞は何も埋まらなかった。ただ、今の自分を窒息させている退屈な皮を、無理やり引き剥がしたいだけだった。 「お前には、俺の気持ちはわからないだろうから。今度説明してやるよ」 俺は椅子を蹴るようにして立ち上がり、祈るように両手を合わせた。 「頼む。今夜だけだ、一回だけでいい。責任はすべて、俺がとるから」 その声には、管理職としての威厳など微塵も残っていなかった。退屈で変化のない日常を、自らの手で壊したくてたまらない男の、悲鳴のような懇願だった。 菊田は長い沈黙のあと、深く息を吐いた。 「わかりましたよ。今夜だけですよ、店長」
    深夜、店の搬入口。街灯の薄暗い光の下で、私服に着替えた菊田が待っていた。俺の姿を見ると、あからさまに暗い顔をのぞかせた。 「お待ちしていました。今夜だけですからね」 すがるように念を押してくる。そのまま菊田とタクシーの後部座席に並んで座る。拒絶の態度が隠そうとしても滲み出ていた。俺が頭を下げてまで頼んだ異常な熱量を、彼はまだ完全には消化しきれていないようだった。
    言葉を交わさず、ただ窓の外の光を見つめていた。いつの間にか、窓の外は雨が降り出していた。 「運転手さん、歌舞伎町まで」 菊田が低い声で告げ、こちらに向き直ってさらに声を落とした。 「店長。今夜の事は誰にも言わないでください。それと、何があっても私の名前は絶対に出さないでください。お願いします」 「約束する」 雨に濡れたアスファルトにネオンが反射する夜の道。世界から他の音が消えてしまったかのように、妙に大きな雨音だけが耳の奥で響いていた。
    タクシーのドアが開くと、菊田は慣れた足取りで冷たい外へと降り立った。続いて車外に這い出た俺は、首筋を直撃する雨垂れに思わず肩をすぼめる。見上げた先には、街の喧騒から完全に置いてけぼりにされたような、古びた雑居ビルが暗がりに沈み込んでいた。 「ここです」 振り返った菊田の笑顔は、この場所が放つ重苦しさと恐ろしいほど噛み合っていない。ビル入り口の闇の中に、人影があった。深くキャップを被り、壁に背を預けて立っているその男の目は影に沈んで見えない。ゆっくりとくゆらす煙草の先端だけが、暗闇の中で赤く、鋭く光っていた。菊田が男の背後に寄り添い、周囲を警戒しながらその耳元で低く囁く。 「紹介です。二人」 シキテンの男は表情一つ変えず、手元の無線を口に寄せた。 「二名、入ります」 その乾いた一言が、日常への退路を断つ合図だった。あれがシキテンと呼ばれる見張り役だと知ったのは、少し後になってからのことだ。
    俺たちはビルの奥へと足を踏み入れた。目の前には、上へと続く無機質なコンクリートの階段が伸びている。コツ、コツ、と階段を登るごとに靴音が冷たい壁に返り、空虚に響き渡る。その音を聞くたびに、日常が急速に遠ざかっていく実感が背筋を駆け上がってきた。天井の監視カメラがこちらをジッと見下ろしていた。レンズの奥でかすかに赤い光が点滅し、こちらの正体を無機質に記録しているのだろう。
    そこに立ちはだかったのは、巨大で無骨な鉄の防火扉だった。数秒の重苦しい沈黙の後、扉の鍵穴から重い金属音が響いた。 「ガチャン……ッ!!」 内側から幾重にもかけられたロックが外され、扉がゆっくりとわずか数センチだけ隙間を作った。その刹那、眩しいほどの白い光と、濃密な紫煙の渦が濁流のように溢れ出してきた。鼻腔を突いたのは、ヤニの臭いと安っぽい芳香剤が混ざり合った匂いだ。そして、それまで耳にしていた雨音をすべて掻き消すように、重みのある音が響いてきた。 チャラ、チャラ……。チップとチップが触れ合い、重なり合う音だ。
    開かれた扉の先に広がっていたのは、想像していた映画のような豪華な空間では決してなかった。ジェームズ・ボンドが美女を侍らせ、大金を賭けるきらびやかなイメージは一瞬で消し飛んだ。狭い室内にひしめき合うように置かれた、二台のバカラ卓。低い位置に吊るされたペンダントライトが、卓上の緑のラシャだけを白く照らし出し、周囲はタバコの煙でどんよりと霞んでいる。 卓を囲んでいるのは、ネクタイを緩めたサラリーマン、夜の香りを漂わせるホステス、そして独特の雰囲気を放つ二丁目のニューハーフ嬢。歌舞伎町の住人たちが入り乱れる、ここは剥き出しの欲望の溜まり場だった。「カジノ?……これが、カジノだって?」 「汚ねえなぁ、まるで雀荘じゃねえか」 一瞬、拍子抜けしたが、すぐに気づいた。ここはむき出しの人間臭さと、信じられないほど濃度の高い「鉄火場の空気」が満ちていた。
    「どうです、店長。ここが裏カジノですよ」 隣で菊田が、自分の秘密基地を紹介するように得意げに笑った。俺は促されるままに席に着いた。セカンドバッグから、50枚の輪ゴムで留めてある一万円札の束を出して菊田に渡した。 「とりあえず、これで足りるか?」 菊田はあきれた顔で言った。 「いったい、いくらやるつもりなんですか? 店長は初めてなんだから、10万円を細かくして遊んでください」 菊田は50枚の中から手際よく10枚を抜き取り、黒服に渡して残りを俺に返してきた。
    やがて黒服が、色とりどりのプラスチックのチップを20枚、俺の前に静かに並べた。当然、その色の意味なんて何も分からなかった。 「……お名前、お願いします」 無機質な表情の黒服が、真新しい会員カードとサインペンを差し出してくる。俺はわずかな迷いもなく「伊藤」とサインした。ここでは名前さえも意味をなさない。誰もが嘘の仮面を纏い、誰でもない存在として互いの金を貪り合う。嘘の名前は目の前の深い闇の中に静かに溶けて消えていった。額にはじわりと嫌な脂汗が滲む。俺は隣の菊田に声を潜めた。 「おい、菊ちゃんどうやって遊ぶんだ? ルールなんて知らねえぞ」 「店長。おいっちょカブ知ってるでしょう? トランプを使ってやる西洋版おいっちょカブですよ。簡単です、足して“9”に近い方が勝ち。それだけです」 「それだけ?」あまりに拍子抜けした答えに、俺は思わず彼の顔を見返した。 「はい。だからハマるんですよ」
    ディーラーの手つきでカードが次々と滑り出していく。「行け!」「足あり!」 卓を囲む客たちが身を乗り出し、殺気立った声を上げる。それは地鳴りのような怒号だった。そこにあるのは、不規則で生々しい「欲望の声」そのものだった。 不意に、隣にいた菊田が席を立ち上がり、少しして戻ってきた。片手にはハイボール、もう一方の手にはマルボロを二箱掴んでいる。「店長、酒とタバコはタダです。お代わりはあそこのウエイトレスに言ってください。ちょっと知り合いに挨拶に行ってきます」 慣れた様子で、彼は俺を一人残して隣の卓へと消えていった。唯一の案内人を失った不安が、冷たい水のように俺の背中を伝っていった。
    狂乱の喧騒の中に、俺は完全に置き去りにされた。目の前には、まだ一枚も触れていないチップの山。視界の端々では、他人の指先が紙切れ一枚に命を懸けるように震え、カードを狂おしく「絞り」あげている。
    まずはジッと、みんなのやり方を見て覚えるしかない。対面のニューハーフ嬢は、さっきからずっと勝ち続けている。彼女がバンカーに張るたびにチップが増えていた。まずは、あの波に乗ってみるか。 俺はBANKERと書かれた枠の中へ、黒色のチップ5枚を押し出した。 無表情なディーラーが、卓の上で手を水平にスッと振った。 「ノーモアベット」
    シュッシュッ、とトランプがラシャの上を滑る、乾いた摩擦音。隣の客が、配られたカードを両手で覆い隠すように抱え込んだ。 「足」「来いっ」「足…きたっ! スリーサイド!」 バッとカードが卓に叩きつけられた。投げ出されたのは絵札と、ダイヤの8。「うおぉっ!」「付いた!」「足、全部ついた!」地鳴りのような歓声と怒号が沸き起こった。俺はただ、呆然とその光景を見ていた。
    「絞る」という行為は、配られたカードを指でじわじわと捲り上げながら、マークの数を確認していく動作のことだ。バカラにおいて、客の興奮が最高潮に達する瞬間。何もわからないまま、俺はその濃厚な熱だけを全身に浴び続けていた。
    「プレイヤー、スタンディング・エイト」 ディーラーの冷徹な声が響いた。ふと卓上に目を落とした瞬間、自分の真ん前に、伏せられた二枚のカードが配られていた。 「え? 俺がめくるのか?」 そうか、きっと新しい客へのサービスか何かだろう。ディーラーの視線が、じっと俺に注がれている。周囲の客たちの目も、一斉にこちらへ向いた。 俺は二枚のカードを重ねたまま横にして、端をゆっくりと持ち上げた。かつて慣れ親しんだ、花札の要領だ。角から、ゆっくりと。 マークの先端が、わずかに覗いた。スペードだ。 「とんがれ、とんがれ」 カードの角に、全神経を集中させる。釘師として、毎日コンマ数ミリの世界で生きてきた俺の指先が、今、紙切れ一枚のしなりを必死に読もうとしている。
    額から頬へ、脂汗がひとすじ伝い落ちた。俺はたまらず、卓へカードを叩きつけた。 パシーッ!! 裏返った二枚のカードは、絵札と、スペードの9。最高値であるカブだった。 「バンカー・ナチュラルナイン。バンカー・ウィン」 ディーラーの声が響いた瞬間、自分が勝負に勝ったことだけは理解できた。その瞬間、脳が一気に沸騰する。パチンコで何万発を叩き出したときとも全く違う。もっと野蛮で、神経に直接突き刺さるような快感だった。配当チップが、俺の元へサラサラと滑る。次々に進むカジノのスピードに頭が追いつかず、正直、何が何だかよく分からなかった。
    そこへ、戻ってきた菊田が目を見開いた。 「店長!凄いですね~ もう5万も勝ってるじゃないですか!」 「え!まだ 1回しか張ってないよ?」 確認するように手元を見る。さっき俺が置いたのは、黒いチップ5枚だ。1枚1,000円のつもりだった。 だが、違った。この店では、黒いチップ1枚が1万円を意味していた。5枚で5万円、俺はルールも知らぬまま、その大金をまるごとバンカーに張っていたのだ。 ぞっとした。もし負けていたら、一瞬で5万円が虚空に消えていたのだ。店で毎日、釘を一本一本、ミリ単位で叩いて必死に稼ぐ金が、たった一回カードを捲り合っただけで消えるかもしれない。そして今回は、それが最上の形で手元に返ってきた。背筋を襲う恐怖と、それを一瞬で消し去るほどの強烈な高揚感。頭では分かっていた。これは実力でも何でもない。ただの致命的な勘違いが、運よく勝ちに転がっただけだ。だが、身体が、脳の芯が、あの一瞬の痺れるような感覚を完全に記憶してしまった。これこそが、俺の人生の歯車を狂わせる事になる、最悪なビギナーズラックだった。
    菊田が俺の腕を強引に掴んだ。 「店長、今日はもうやめて、勝ち逃げしましょう。鉄火場は勝っているうちに帰る。それが一番ですって、歌舞伎町に行って旨い飯でも食いましょう」 菊田は返事も聞かないうちに「全部アウトで」とチップを現金に換えた。俺は渡された現金の中から5万をズボンのポケットに入れて、残りをセカンドバックにしまった。
    重厚な鉄の防火扉が閉まっていく。 ガチャン……!! 暗い階段を下りていく間、俺はズボンのポケットの中で、4つ折りにした5枚の万札の感触を指の腹で何度も確かめていた。万札の硬い角が指の腹にチクチクと刺さるその微細な感触だけが、やけにリアルだった。
    ただ座って、カードを捲っただけで、5万か。 「店長、朝までやってる良い店、知ってますから私に任せてください」菊田が念を押すように言ってくる。 俺は頷きながら歩いた。頭の中は「まだやりたい」「もっと勝ちたい」という浅ましい飢えが占めていた。 雑居ビルの出口に達した瞬間、ハッと冷たい空気を吸い込んだ。いつの間にか雨は上がっていた。夜明け前の紫色の空気が、火照った頬を冷やしていく。なんだこの遊びヤバい。脳が痺れる。
    数時間後、自宅の暗いベッドルーム。 すべての喧騒が消え去った後の無音の中で、『バンカー・ナチュラルナイン。バンカー・ウィン』というディーラーの声が耳の奥で何度も再生される。 誰もいない空間を見つめながら、右手の指が、カードのしなりを再現するように小さく動いていた。
    午前9時50分。開店10分前のパチンコホール。昨夜から朝帰りでそのまま店に立った。目は赤く充血していたが、店長としての威厳を保つために背筋を伸ばす。だが、頭からあの5枚の万札の感触が離れない。一日中、数字とトラブルに追われる。昨日までと何一つ変わらない日常。 だが、夜23時30分。閉店後の静まり返ったホールで、一人きりで台に向かい、いつものように釘を叩いていたときだった。 パツン……パツン……。 一ミリの狂いも許されない釘調整。いつもなら俺のセンスと才能でこの店を蘇生させた誇りで胸が満たされる時間のはずなのに、釘を見つめる視界が揺れる。数時間かけて必死に釘を叩き、数十円、数百円の利益を積み上げるこの地道な仕事が急に、ひどく虚しく回りくどく思えてしまったのだ。
    深夜2時30分。事務所のデスクで、昨夜の勝ち分5万円が入った封筒を握りしめる。 疲労は限界なのに、脳の奥だけが熱い。帰って寝ればいい、それだけのことだ。だが。 「もう一回だけだ。あれはマグレじゃない。今の俺なら、もっとうまくやれる」頭の中で、昨夜のプラスチックのチップ、叫ぶ客の怒号、めくったカードの角が暴力的にフラッシュバックする。あの重厚な鉄扉の隙間から漏れ出す眩しい光が、「こちらへ来い」と俺を狂おしく誘っていた。俺は一回だけのつもりで行った裏カジノで、完全にバカラにハマった。
    あの夜から、わずか数日後のことだ。 俺はもう我慢できなくなっていた。再びタクシーを拾い、歌舞伎町のあのビルへと走った。 だが、たどり着いたビルの前で、俺は凍りついた。シキテンの男が、どこにもいないのだ。鉄の防火扉はピッタリと閉ざされたまま、監視カメラに手を振っても、力任せにノックをしても、ウントモスントモ言わない。あの狂気の世界は、嘘のようにシャッターを下ろしていた。閉まったのか?
    呆然と立ち尽くす俺のポケットには、来る途中に路上で手渡された、別の裏カジノのサビ券が握られていた。 『アミューズメントカジノ許可店・NEW OPEN/サービス500$』の文字。
    サビ券に書いてある地図の場所は池袋みたいだった。靖国通りに出て、冷え切った指先で煙草に火をつけながら「もう一回だけだ、あれはマグレじゃない。今の俺なら、もっとうまくやれる」自分に言い聞かせた。
    ようやく空車のタクシーが滑り込んでくる。俺は震える声で行き先を告げた。 「運転手さん、池袋のパルコ前まで」 タクシーが走り出して少しすると、運転手がバックミラー越しに首を傾げた。 「お客さん、パルコって言ってもいろいろあるけど……どの店ですか?」 「え? どのって……パルコは一軒じゃないの?」 すると運転手は相好を崩した。 「なーんだ、パルコかぁ。てっきりトルコ(ソープランド)だと思いましたよ。すいません、私、まだ東京の道に慣れてないもので」 俺は思わず、ニヤリとしてしまった。
    だが、手の中では、しっかりとサビ券を握りしめたままだった。俺の胸は、恐怖を置き去りにした高揚感で、激しくワクワクしていた。
    だが、この時の俺はまだ、何も知らなかった。
    ――それはまた、別の夜の話だ。
    (第1話歌舞伎町編 完)

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