
第三章 静止 第二十七話 「主治。」
登場人物
私(陽和) ——限界に気づいた男
瀬戸千穂(ちほ) ——妻。出口を教えた人
主治医 ——一目で見抜いた人
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重力に引きずられながら、それでも愛へ向かった男の、本当の話。
治すとは、誰かにしてもらうことではない。
自分が、主になることだと、この日知った。
——
「強制終了やね」
千穂の言葉が、頭の中で反響していた。意味が、入ってこなかった。
「病院、行ってみよ?」
二つ目の言葉で、私は千穂の顔を見た。
以前、別の会社での激務の末に退職した時のことを、私は覚えている。あの時、千穂の顔に「生活はどうしよう」という表情が浮かんだ。一瞬だけ。千穂はすぐに隠した。でも見てしまった。
その顔が、私の足を止めさせなかった。傷が塞がらないまま、痛みに気づかないふりをして、がむしゃらに次の場所を探した。
「あの時、追い込むことになっていたことを、後悔していたの」
千穂がそう言った。
何年も、深いところで疼いていた古傷があった。千穂の言葉は、それを優しく包んだ。薬のようだった。責めていたのは、千穂ではなく、私自身だったのだと、その瞬間に知った。
「行く」
——
人生で初めて、精神科の扉を開けた。
待合室は静かだった。白い壁、観葉植物、誰かのソファに座る音。それだけだった。
診察室に入ると、主治医が顔を上げた。
優しい眼差しだった。それだけで、何かが緩んだ。
「大変でしたね」
「何がありましたか?」
「私に、聞かせてもらえませんか?」
言葉を紡いだ。つまりながら。順番がばらばらになりながら。それでも、紡いだ。
その時だった。
スマホが、震えた。
画面を見た。井根オーナーからの着信だった。
息が詰まった。視界が歪んだ。さっきまで話せていたはずの言葉が、どこかに消えた。底なし沼に、沈み始めた。
「頑張るのを、休みませんか」
主治医の声が、手のように届いた。
顔を上げると、先生がこちらを見ていた。
「全てのことから、離れていいんですよ」
「今のままでは、不幸な未来しか見えないです」
「どのくらい、自分に休みをあげましょう?」
「1……2週間?」
「今の状態では、少しの休みは逆効果になります」
「25年の経験から、断言できます」
間があった。
「2ヶ月の、ドクターストップです」
有無を言わさぬ言葉だった。私は、「はい」とだけ言った。
「診断書は、どのような手段で会社に提出しますか?」「郵送もいいかも知れませんね(行かなくてもいいんですよ)」
軽やかに微笑む先生に「SNSで写真でも?」と答えた。
「それでいいんですよ」
先生が頷いた。
——
グループSNSに投稿した。
「写真の通り、2ヶ月療養します」
それだけ入れて、帰宅した。
オーナー以外の役員からは「お体を一番に」という返信が届いた。
井根さんからは、何もなかった。
診察室の着信以降、一切の接触も無い。
この日から、1年以上の引きこもりが始まった。
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次回、第二十八話「過敏。」
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——やしろう