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小説『妻の扶養に入って何が悪い!?』#創作大賞2026

    『妻の扶養に入って何が悪い!?』

    ― 夫婦の形に正解なんてない。僕たちが選んだ人生

    <あらすじ>
    デザイン会社を率いる妻・綾子は、仕事と家庭の両立を誓う女性社長。夫・健一は技術面から会社を支え、娘の育児を担う「黒子」として生きる道を選ぶ。経営危機を経て役員となり、ついに「妻の扶養」を選択した健一に、世間は「男なのに」と冷ややかな視線を向ける。だが、娘の無垢な言葉と妻の夢を支えるやりがいは、他人の評価を凌駕していた。夫婦の役割を逆転させるのではなく、互いの才能を活かし合いながら、唯一無二の家族の形を築き上げる。社会の偏見に抗い、真の誇りを守り抜く父親の姿と、深い夫婦の絆を描き出す感動のヒューマンドラマ。


    <プロローグ>

    歳月は、不思議なものだ。

    綾子さんと巡り合って、三十年。

    今では社会も変わり、「主夫」や「育児を担う父親」という言葉を耳にする機会も増えた。

    だが、あの頃の俺と綾子さんは、少しだけ時代を先取りしすぎていたのかもしれない。

    2003年に生まれた歩夢は、もう二十三歳になった。

    自分の人生を歩み始めた娘の背中を見ていると、ふと記憶の底に沈んでいた「あの日々」が鮮明に蘇る。

    妻が社長で、俺はその会社を支えながら娘を育てた。

    そして訪れた会社の危機。俺は妻の扶養に入るという決断を下した。

    「男なのに」

    「情けなくないのか」

    ――そんな言葉を向けられるたび、自分の選択は本当に正しかったのかと自問自答した夜もあった。

    しかし、今なら迷わず言える。あの選択は、間違っていなかった。

    妊娠を知らされた深夜の事務所。
    初めて歩夢を抱いた病院の匂い。
    会社と家庭を一つの「箱」にしようと誓った夜。
    そして、妻の扶養に入ることを選んだあの決断――。

    あの凝縮された時間がなければ、今の俺はいなかっただろう。

    長い家族の歴史から見れば、ほんの一瞬かもしれない。
    けれど、そこには人生のすべてが詰まっていた。

    これは、娘が小学校の門をくぐるまでの、怒涛の七年間の記録だ。

    世間の「普通」にはなれなかった一人の父親が、自分にしかできない家族の守り方を見つけるまでの、物語である。

    <第一部>
    子供は欲しいけど、結婚したくない綾子さん


    第一章 妊娠発覚、名字を変えたくない


    「健一、私、妊娠したわ」

    深夜の事務所だった。カップラーメンをすすっていた俺は、「ゲホッ!」と、思わず口に含んでいた麺を吹き出した。

    「……え?」

    綾子さんは顔色ひとつ変えず、無表情のままエコー写真を俺の目の前に「ポン」と置いた。

    「ほら、これが赤ちゃん」

    目の前に立つ綾子さんは、俺より七歳年上の三十七歳。デザイン会社「Arketh(アルケス)」を経営する社長で、俺の恋人でもある。

    「本当!? 子供!? 産むよね!?」

    「もちろん」

    綾子さんは迷いなくうなずいた。

    「私、自分の遺伝子をこの世に残したいって前から言ってたでしょう。健一との子なら面白そうだし」

    嬉しくて頭が真っ白になった。

    「よし、明日すぐに役所に行って婚姻届を……、綾子さんは、加賀綾子になるんだ」

    俺がそう口にした瞬間、綾子さんは眉間に深い皺を寄せた。

    「どうして?」

    「え? 婚姻届を出すのは、当たり前だろ?」

    「子供を産むことと、結婚は別でしょ」

    「それが、普通だろ?」

    綾子さんは、ふっと鼻で笑った。

    「ねえ、どうして結婚したら私が名字を変える前提なの?」

    「だって、それが普通だから……」

    「長年使ってきた『桜崎綾子』という名前は簡単には捨てられないわ」

    綾子さんは何を言っているんだ?

    「そんなもんかな……そんなに名前が大事?」

    「大事よ! 結婚したら女が名字を変えなきゃいけないなんて、そんな古臭い慣習に、私が合わせる義理なんてないわ」

    どうして綾子さんがこれほどまでに反発するのか、俺にはわからなかった。

    ***

    翌朝、俺は父親に電話をした。

    「父さん……話がある」

    「どうした?」

    「子供ができた」

    一瞬の沈黙。

    次の瞬間、電話の向こうで弾けるような声が響いた。

    「本当か!? 健一、おめでとう!」

    心から喜んでくれているのが伝わる声だった。

    「それで……父さん」

    「ん?」

    「一つ、相談がある」

    「何だ」

    俺は息を整えた。

    「綾子さんの籍に入ろうと思ってる」

    その一言で、電話の向こうが静まり返った。

    「……健一、お前、自分が何を言ってるか分かってるのか」

    父の声は低かった。

    「分かってる」

    「婿に入るってことだぞ」

    「うん」

    「相手の家に跡継ぎがいないなら話は別だ。だが、お前たちはそうじゃないだろう」

    「……」

    「普通に結婚するのに、どうして男のお前が向こうの籍に入る必要があるんだ?」

    俺は息をついた。

    「綾子さんは、仕事でずっと『桜崎綾子』として生きてきたんだ。その名前を変えたくないんだ」

    「そんな理由でか?」

    父の声が一段と強くなる。

    「名前は仕事のためだけのものじゃない。家の歴史そのものだ」

    「父さん……」

    「お前は加賀家の長男だろう!」

    怒鳴り声が耳に響いた。

    「お前が向こうの籍に入ったら、加賀家はどうなる」

    「家制度なんて――」

    「制度の話をしてるんじゃない!」

    父は言葉を遮った。

    「俺は加賀の家を守ってきた。そのつもりでお前を育ててきた」

    父の言葉に、胸が詰まる。

    「名字くらい、どっちでもいいじゃないか」

    思わず口をついて出た。

    「どっちでもいい?」

    父の声が震えた。

    「お前にとってはそうなのかもしれん。だが俺にとっては違う!」

    「俺は家を捨てるつもりじゃない」

    「同じだ!」

    父は即座に言った。

    「お前一人の問題じゃないんだぞ」

    沈黙が流れた。

    やがて父は低い声で言った。

    「……悪いが、俺は賛成できん」

    そう言って電話を切った。

    この話を綾子さんにすることもできない。

    俺は一体、どうしたらいいんだ……。

    そんな俺の迷いとは裏腹に、綾子さんは迷うことなく「桜崎綾子」として母子手帳を受け取っていた。表紙に刻まれた名前を見つめて誇らしげに微笑んでいた。


    第二章 嫁や妻という「型」にはめられたくない


    そんなある日、綾子さんと俺は、業界の交流会に出席していた。

    「桜崎さん、次のプロジェクト、ぜひ協力してくれないか」

    仕事仲間の男性が、朗らかに笑いながら語りかけてきた。

    「ありがとうございます。少し調整してみますね」

    綾子さんが控えめに答えた直後、男の視線が、隠しきれずに少し膨らんだ彼女のお腹に止まった。

    「……ん? もしかして、おめでた?」

    「ええ、そうなんです」

    男は一度視線を外し、すぐにまた綾子さんに向き直り、優しい口調で語りかけた。

    「いやぁ、本当におめでとう。……ただ、そのお腹でクライアントの前に出るなんて、みっともないだろう? また落ち着いたら声をかけるよ」

    その瞬間、綾子さんの顔からスッと血の気が引いた。

    「綾子さん、大丈夫?」

    「ごめん、少し席を外すわ……」

    帰りのタクシーで、綾子さんは怒りで震えていた。

    「あの人、私のお腹を見て『みっともない』って言ったのよ!」

    「ひどいよね……」

    「私が『加賀綾子』になったら、きっと……」

    綾子さんはタクシーの窓の外へ視線を逸らした。

    「……だったら、俺が名前を変えるよ。俺が『加賀』を捨てて、『桜崎』になればいい」

    綾子さんは呆れたような溜め息をついた。

    「あなた長男でしょう。そんな簡単な話じゃないのよ」

    「今どき、長男が家を継ぐなんて考え、それこそ古くないか? 」

    「でも、健一の実家ではそうはいかないでしょう? ご両親が納得すると思う? 」

    母になることは歓迎しても、嫁や妻という「型」にはめられたくない綾子さん……綾子さんの問いかけに、俺は言葉を失った。


    第三章 婚姻届


    臨月に入り、胎動は日に日に力強くなっていた。

    「……結局、何を選んでも何かが損なわれるのね」

    リビングテーブルに向かった綾子さんが、ふと力なく呟いた。

    婚姻届の署名欄へペンを走らせる。だが、どちらの姓(氏)を名乗るかを選ぶためのチェック欄で、綾子さんの手が止まった。

    「あーあ……これで『桜崎』ともお別れか」

    そう呟き、小さく笑った。

    「私、いいお母さんになれるかな」

    俺は何も言えなかった。

    綾子さんには、母になってもキャリアを止めないための周到なプランがある。けれど、法律上、『加賀』になることを納得しているわけではない。その理不尽な選択を飲み込む綾子さんの横顔を、俺はただ見つめることしかできなかった。

    「……綾子さん、ごめん」

    俺は綾子さんに聞こえないほどの小さな声で弱く呟いた。

    そして俺は、出産前に婚姻届を提出した。


    第四章 歩夢、誕生


    予定日を一週間前に控えた夜、運命の時は突然やってきた。綾子さんは、自宅のリビングで深夜まで新作のプレゼン資料を修正していた。俺がコーヒーを入れに行こうと背を向けた、その時だった。

    「健一……」

    短く、しかし鋭い声。振り返ると、綾子さんはパソコンの前に座ったまま、凍りついたように動けなくなっていた。

    「破水……」

    綾子さんは一瞬、眉をひそめて状況を把握すると、すぐさまパソコンを閉じた。そして、進行中だったプロジェクトの担当者に、ケータイで淡々と指示を伝えるメールを打ち始めた。と同時に、

    「健一、タオル! それからタクシーを呼んで。あと、プレゼン資料の修正版、佐藤さんに送っといて!」

    俺は震える手でケータイを掴むが、焦りで指がうまく動かない。

    「早くして!  あと、入院用のバッグが玄関にあるわ。それを忘れずに持ってきて!」

    「は、はい……タクシー!」

    俺は、綾子さんの指示に、言われるがままに動き回る。タクシーが到着し、綾子さんが冷静に荷物をまとめる間も、俺の足元はふわふわと頼りない。

    俺はただ、頼もしい綾子さんの背中を必死に追いかけることしかできなかった。

    病院に運び込まれ、長い陣痛の果てに歩夢は生まれた。


    第五章 母乳が出ない


    出産から三日目。

    歩夢を抱きながら、綾子さんが申し訳なさそうに言った。

    「私……母乳が出ないのよ」

    助産師さんに教わった通りに授乳を続けていたが、思うようには出なかった。

    「母親失格ね」

    今にも泣き出しそうな綾子さんの姿を見て、胸が締めつけられた。

    こんなに弱気な綾子さんを見るのは初めてだった。

    「気にすることないよ」

    俺はそっと肩に手を置いた。

    「助産師さんも言ってたじゃないか。ミルクで育っても問題ないって」

    綾子さんは小さく首を振る。

    「でも、歩夢のためには、やっぱり母乳が一番なのよ……。」

    その後、少しずつ母乳は出るようになった。それでも歩夢に必要な量には届かず、母乳と人工ミルクを併用して育てることになった。

    退院の日。

    歩夢を腕に抱いた綾子さんは、ようやく穏やかな笑顔を見せた。その小さな命を見つめながら、俺は心の中で静かに誓った。

    (この子を、そして綾子さんを、何があっても守っていこう)

    この日、俺たち家族の物語は、本当の意味で始まった。



    <第二部>
    綾子さんは社長で、俺は平社員


    第六章 桜崎社長との出会い


    綾子さんは七歳年上。二十七歳でデザイン事務所「Arketh(アルケス)」を立ち上げ、三十歳で法人化した若き社長だった。スタッフは十人にも満たない小さな会社だったが、フリーのカメラマンやコピーライターとチームを組み、次々と仕事を成功させる行動力のある女性だった。

    そんな綾子さんと出会った頃の俺は、地元の製版会社で働く平社員だった。

    工業高校を卒業し、「これからはインターネットの時代だ」と意気込んで上京した。だが、就職氷河期の壁にぶつかり、夢はあっさり砕け散った。故郷へ戻り、父の紹介で製版会社に入ったが、待っていたのは徹夜続きの毎日だった。

    そんなある日、仕事の依頼で現れたのが綾子さんだった。

    綾子さんは手掛けていたフリーペーパーの入稿データを抱え、納期ぎりぎりに会社へ飛び込んできた。

    「ごめんなさい! 本当に明日朝じゃないと間に合わないの。」

    その無茶なスケジュールのおかげで、俺は徹夜でデータを調整し、印刷用フィルムを出力し続けた。

    翌朝。

    綾子さんは完成したフィルムを一枚ずつ丁寧に確認すると、大きく息をついて笑った。

    「ごめんね、加賀くん。……これ、徹夜したの?」

    「まあ、仕事ですから。」

    俺はそっけなく答えた。

    「本当にありがとう。助かったわ。」

    それが、すべての始まりだった。

    それ以来、綾子さんは仕事のたびに俺を指名するようになった。

    当時の俺は女性と付き合った経験もなく、人と話すのも得意ではない。自信に満ちあふれた綾子さんは、まるで別世界の人だった。

    そんなある日、打ち合わせの帰り際、不意に綾子さんが俺の手を見つめて言った。

    「加賀くんの手、本当に綺麗ね。白くて細くて……」

    「え……あ、すみません。そうですか……」

    「私よりぜんぜん綺麗。ねえ、パソコンには強いんでしょ?」

    「まあ、仕事柄、ある程度は」

    「実は家のMacの調子がずっと悪くて。Illustratorのソフトがうまく動かないのよ。今度、見に来てくれない?」

    「えっ!?」 びっくりして、言葉が喉に張り付いて出てこない。

    「あの、でも、俺が桜崎社長の家に行くなんて……」

    「何? 私が襲うとでも思ってる?」

    「そ、そんなことは……っ!」

    「じゃあ決定ね。明日の夜、空けておいて。マンションはArkethの真向かいだから。住所はメールしておくわ」


    第七章 Macを見に来て


    断る理由なんて、どこにもなかった。翌日の夜、綾子さんのマンションを訪ねると、そこには意外な光景があった。

    「あ、いいところに来たわね。ちょっと待ってて」

    食卓には、湯気の立つ肉じゃがと焼き魚、それに小鉢がいくつか並んでいた。

    「……え、これ」

    「加賀くん、いつも青白い顔をしてるわね。ちゃんと食べてるの? その調子だと食事なんて適当でしょう。冷める前に食べて」

    強引に椅子に座らされ、俺は出された食事をかきこんだ。母の味とは違う、家庭の味。俺はただ黙々と食べるしかなかった。

    「仕事、お疲れ様。……ほら、少しだけ付き合って」

    綾子さんがビールをコップ一杯に注ぎ、目の前に置いた。普段は全く飲まない下戸の俺だが、綾子さんが当然のようにグラスを差し出すその仕草に、断るという選択肢が思いつかないほど緊張していた。

    苦い。喉を通る液体が熱く感じる。綾子さんの視線に動揺し、半分で限界が訪れた。

    視界がぐらりと揺れ、心臓が早鐘のように鳴り響く。全身の力が急速に抜けていく。

    「……っ、すいません。これ以上は、無理です……」

    十分ほどすると、体中が熱くなってきた。

    「あら、加賀くん? 顔、真っ赤よ。……お酒弱いのね」

    笑いながら見つめてくる綾子さんの瞳が、二重にも三重にもぼやけていく。綾子さんにとってはただの労いの一杯だったのだろうけれど、徹夜続きの俺にとっては、それがとどめの一撃だった。

    「あら……加賀くん? 眠いの?」

    かすかに聞こえたその声に答えることもできず、俺はソファへ倒れ込むようにして、寝落ちしてしまった。


    第八章 責任とってくれる?


    目が覚めると、カーテン越しに眩しい光が差し込んでいた。時計を見ると、朝の七時を回っている。

    「……っ!」

    パニック状態で飛び起きると、キッチンでコーヒーを淹れている綾子さんと目が合った。綾子さんは呆れたように、でも少しだけ嬉しそうに微笑んだ。

    「やっと起きたのね。まさか、介抱するはめになるとは思わなかったわ」

    「ずいぶん無防備な寝顔だったわよ」

    「はぁ……」

    「あっ、念のため言っておくけど、私は何もしてないわよ――健一くんは、ぐっすり寝てただけ」

    「すみません」

    「……ねえ、もうこうなったら責任取ってくれる?」

    「せ、責任って……?」

    「付き合うのよ。あなたのその綺麗な手、私のものにしたいの」

    綾子さんは迷いも疑いもない口調で、そう断言した。こうして俺たちは、綾子さんの一方的なペースに巻き込まれる形で、恋人としての歩みを始めた。一緒に暮らすようになるまでにさほど時間はかからなかった。


    第九章 Arkethへ転職


    綾子さんと付き合い始めて、一年ほどが過ぎたある日のことだった。

    「ねえ、健一」

    コーヒーカップを置いた綾子さんが、俺の顔をじっと見た。

    「Webプログラムって書けるんでしょ?」

    「一応、それが仕事だからね」

    「じゃあ、うちに来ない?」

    あまりにもあっさりと言うものだから、思わず聞き返した。

    「……うちって?」

    「Arketh」

    さらりと言われて、俺は固まった。

    「今度、法人化するの。グラフィックだけじゃなくて、Webも本格的にやりたいの」

    綾子さんは身を乗り出した。

    「デザインは私がやる。営業も企画もやる。でも、システムだけは無理」

    「外注じゃ駄目なの?」

    「もちろんお願いはできる。でもね」

    綾子さんは首を横に振る。

    「作る人が近くにいないと、本当に面白いものは作れないのよ」

    その目は、本気だった。

    「私が『こんなの作りたい』って言ったら、『できます』ってすぐ返してくれる人が欲しい」

    「それで俺?」

    「そう」

    一切迷いのない返事だった。

    「健一、普段は頼りないけど」

    「おい」

    思わず笑う。

    「でも、パソコンの前に座ると別人じゃない」

    「褒めてる?」

    「もちろん」

    綾子さんは笑った。

    「あなたの技術は、本当にすごいと思ってる。恋人だから言ってるんじゃない。一人のエンジニアとして」

    その言葉が、不思議なくらいうれしかった。

    「私、一人じゃ会社を大きくできない」

    綾子さんは真っすぐ俺を見る。

    「でも、健一となら、もっと面白い会社にできる気がする」

    その目に宿る情熱を見ていると、「無理だ」とは言えなかった。

    仕事も人生も、自分の理想を本気で形にしようとしている人だった。そんな綾子さんの隣で、一緒に未来を作ってみたい。

    気がつけば、俺の答えは決まっていた。


    第十章 会社で育つ歩夢


    歩夢が生まれてからのArkethは、喧騒と熱気が同居する場所になった。

    「ここに置こうかな」

    綾子さんは自分のデスクの横を指差し、ベビーサークルを組み立てる。

    「防音カーテンも付けるわ。これで少しは泣き声も気にならないでしょ?」

    「……本気なんだな」

    「もちろん。本気よ」

    こうして事務所の一角に、小さなベビールームが完成した。

    ある日の打ち合わせ中だった。

    「ふぇぇぇぇん!」

    突然、背中の歩夢が泣き出した。

    「よしよし……どうした?」

    俺は抱き上げて部屋を歩き回る。

    「歩夢、大丈夫だぞ」

    だが泣き声は大きくなる一方だった。

    「はいはい、健一さんは仕事してて」

    デザイナーの佐藤さんが、ごく自然に歩夢を抱き上げた。

    「私は今から休憩だから、歩夢ちゃんは私に任せて!」

    「あ、でも……」

    「いいからいいから」

    歩夢を膝に乗せて優しく揺らしながら、佐藤さんは片手でサンドイッチを頬張る。その様子を見ていたコピーライターの田中さんが笑った。

    「あ、その泣き方はオムツね」

    「え?」

    「貸して」

    田中さんが慣れた手つきでオムツを替え終える。

    「二人育てると、このくらいは職人芸になるのよ」

    「ありがとうございます……」

    そんな光景が、Arkethでは当たり前になっていた。


    第十一章 仕事も母親も諦めない


    歩夢が生まれる前、綾子さんはスタッフ全員を集めて言った。

    「みんなにお願いがあります」

    自然と部屋が静かになる。

    「日本では、子どもを産んだら仕事を離れるのが普通よね。でも私は、その『普通』を変えてみたい」

    少しざわついた後に、スタッフの一人が言った。

    「赤ちゃんがいるところで、仕事なんて無理じゃないですか?」

    「もちろん迷惑はかけると思う。でも、できるところまで挑戦したいの。力を貸してほしいの」

    スタッフは顔を見合わせた。

    「了解です、社長」

    「ありがとう」

    その言葉に続いて、彼女は少しだけ視線を泳がせ、けれどすぐにまっすぐな瞳でこう付け加えた。

    「それから、もう一つ。戸籍上は結婚して『加賀綾子』になったけど、仕事上は今まで通り『桜崎綾子』でいくわ。この名前で私はArkethを育ててきたし、これからもそうあり続けたいの」

    「それも了解です!」

    その日以来、誰一人として異論を口にする者はいなかった。もちろん、この環境は特別だ。俺が常に歩夢のそばにいられるからこそ成り立っている。

    それでもスタッフたちは嫌な顔一つしない。歩夢は自然とArkethみんなの子どもになっていた。

    日が傾きかけた頃、綾子さんがポスターの色校正を抱えて戻ってきた。

    「歩夢、ただいま」

    顔を近づけて額に手を当てる。

    「……少し熱い」

    俺も触ってみる。

    「本当だ」

    綾子さんは時計を見た。

    「どうしよう……」

    珍しく迷った表情だった。

    「このあと、どうしても外せない会食があるの」

    数秒だけ考え、すぐに決断する。

    「歩夢を連れて先に帰って。お風呂は今日はいいから、水分を飲ませて寝かせて。熱が上がったらすぐ電話して」

    「分かった」

    「みんなも今日は切りのいいところで上がってね。お疲れさま!」

    綾子さんは歩夢の額に優しくキスをすると、髪も整えずに再び玄関へ向かった。ミルクの香りと、少し汗ばんだ匂いが混ざり合う。背中を向けて事務所を飛び出す彼女の背中は、誰よりも強く見えた。

    仕事と歩夢――綾子さんは、そのどちらかを選ぼうとはしなかった。どちらも守る。最初からその覚悟だったのだ。

    「帰ろうか、歩夢」

    小さな手が俺の服をぎゅっと掴んだ。

    綾子さんにとって一番大切なのは、会社でも俺でもない。歩夢だ。その歩夢を任されているのが、俺だ。だったら答えは一つしかない。

    綾子さんが外で戦うなら、俺は歩夢を守る。それが社長である綾子さんを支える、平社員の俺の仕事だ。

    俺は歩夢を背中におぶり、Arkethの重いドアを静かに閉めた。



    <第三部>
    ビルを買った綾子さん



    第十二章 ビル購入


    「ビルを買うわ。引っ越すわよ」

    一歳の誕生日を過ぎ、歩夢がヨチヨチと歩き始めた頃、綾子さんはいつもの調子で、あまりにも当然のようにそう言った。

    「……は?」

    「今の事務所のベビールームじゃもう限界よ。歩夢から目が離せなくなってきたし、ずっと温めていた計画を実行に移すわ」

    「はっ!? ちょっと待ってくれ……どういうことだ?」

    「もう押さえてあるから」

    「押さえてあるって何をだよ……」

    数日後、市役所から徒歩十分、バス停の目の前。

    俺は四階建ての小さな中古オフィスビルの前に立っていた。

    「ここ」

    綾子さんは迷いなく言う。

    「一階は駐車場、二階はArkethの事務所、三階はオフィス兼生活スペース、四階は完全な住居」

    「住む前提で設計してるのかよ……」

    「仕事場と住居をひとつの『箱』に収めるの。これで移動のロスはゼロになるわ!」

    「いや、そういう問題じゃ……」

    「一年後には引っ越すわよ。改築はもう先輩の建築士に頼んである」

    その言葉に、俺は言葉を失った。

    購入価格、改築費用、維持計画。

    渡された資料に並ぶ数字を見た瞬間、それが俺の給料でどうこうできる話ではないことだけは理解した。

    頭金も、改築費用も、すべて綾子さんが用意していた。

    「健一、不動産契約書とローン書類。一応、目を通しておいて」

    分厚い書類を受け取りながら、胸の奥が妙にざわついた。

    ――家は男が用意するものじゃないのか。

    そんな考えが、頭をよぎる。父に言われた言葉が、ふと蘇った。

    『男が家族を守るんだ』『一家の大黒柱になるんだぞ』

    結局、俺も父さんと同じじゃないか。

    口では「時代が違う」と言っておきながら、心のどこかでは、家くらい自分が買うものだと思っていた。

    そんな俺の表情を見て、綾子さんは小さく笑った。

    「何考えてるか、分かるわよ」

    「え?」

    「『男なのに家も買えない』とか思ってるんでしょ」

    図星だった。

    「勘違いしないで」

    そう言って、ビルを見上げる。

    「これは加賀家の家じゃないわ」

    「……え?」

    「Arkethのビル。会社の資産よ」

    綾子さんは、人差し指で二階を指した。

    「二階は会社」

    次に三階。

    「三階は仕事がしやすいようにするためのスペース」

    そして四階を見上げる。

    「四階は、その上に住むだけ」

    俺は黙って聞いていた。

    「加賀家としての家は、健一がいつか用意して」

    「……俺が?」

    「ええ」

    綾子さんは当たり前のように頷いた。

    「会社は私が育てる。でも、家族の家は二人で考えればいい。そのとき、健一が『ここに住もう』って思える家を用意してくれたら、私は喜んで引っ越すわ」

    胸の奥に引っかかっていたものが、少しだけほどけた気がした。


    第十三章 資金ショート


    それから、改築は驚くほど順調に進んだ。

    建築士との打ち合わせ、施工業者との調整、銀行との手続き。綾子さんは膨大な仕事を抱えながらも、一つひとつ確実に進めていた。

    新しい「箱」は、少しずつ現実の形になっていった。
    一階の駐車スペース、二階のArketh事務所、三階の仕事と生活を兼ねた空間、そして四階の家族の住居。

    歩夢が自由に走り回れる場所。俺たちが仕事と家族を両立できる場所。
    綾子さんが何年も思い描いてきた未来だった。

    しかし――。

    完成まであと三か月となった頃。一本の電話が、その未来に暗い影を落とした。

    「……健一」

    夕方、事務所の片隅でパソコンの画面を見ていた綾子さんが、珍しく動きを止めていた。

    「どうしたの?」

    俺が声をかけても、彼女はすぐには返事をしなかった。

    「今月の入金……まだ確認できない」

    「入金?」

    「先月納品した○○社の案件。今日が支払い予定日だったの」

    その企業は、Arkethにとって大きな取引先だった。

    毎月安定した発注があり、会社の成長を支えてくれた大切なクライアント。

    「振込処理が遅れてるだけじゃないの?」

    俺がそう言うと、綾子さんは静かに首を横に振った。

    「普通なら、遅れる場合は事前に連絡があるわ」

    そう言って、すぐに電話をかける。

    「出ない……」

    担当者、経理部、別の窓口。何度かけても繋がらない。

    メールを送っても返信はない。綾子さんの表情から、少しずつ色が消えていった。

    「健一、銀行口座を確認して」

    「分かった」

    言われた通りに確認する。画面に表示された数字を見て、息が止まった。

    ビル購入、改築、設備投資、人件費、外注費――新しい未来への投資。それが、会社の手元資金を際限なく吸い上げていた。けれど、それは同時に会社の手元資金を大きく減らしていた。

    そこへ、大口の入金が止まる。素人の俺でも理解できる。これは危険な状態だ。

    「綾子さん……」

    俺が声をかけても、彼女はすでに次の行動へ移っていた。税理士へ連絡し、銀行担当者へ相談、取引先の情報確認をしていた。感情を押し殺し、必要な情報だけを集めていく綾子さんは、社長としての顔だった。

    一時間後。

    綾子さんは静かに受話器を置いた。

    「……先方、事業整理に入ってる」

    「え?」

    「銀行の融資が止まって、資金繰りが悪化したみたい」

    彼女は淡々と言った。けれど、その指先はわずかに震えていた。

    「つまり……倒産」

    「回収できない可能性が高い」

    スタッフたちはまだ知らない。新しいビルへの引っ越しを楽しみにしている。

    歩夢が安心して過ごせる場所を作ろうとしている。でも、その土台そのものが崩れ始めていた。


    第十四章 俺は黒子になる


    その夜、スタッフが帰った後も、綾子さんは一人で机に向かっていた。

    机の上には、資金繰り表、借入予定表、今後三か月の支払い一覧。何度も数字を書き直しては、深いため息をついていた。

    「……私の判断ミスね」

    ぽつりと呟いた。

    「違うよ」

    俺はすぐに言った。

    「誰だって予想できないことはある」

    けれど、綾子さんは首を横に振った。

    「経営者は、結果で判断されるの」

    その声には、いつもの迷いのない強さはなかった。

    「私が守らなきゃいけないものは、会社だけじゃない」

    綾子さんは、ベビーベッドで眠る歩夢を見る。

    「スタッフの生活も」

    そして、俺を見る。

    「あなたの生活も」

    少し間を置いて、静かに続けた。

    「歩夢の未来も」

    その言葉を聞いた時、胸が締め付けられた。綾子さんは一人で全部を背負おうとしている。会社を作った責任者として。母親として。そして、俺の妻として。

    だからこそ、俺は口を開いた。

    「俺の給料を止めればいい」

    綾子さんの顔が上がった。

    「何を言っているの」

    「俺はいい。今まで通り働く。会社が立て直せるなら、それで――」

    「駄目」

    即答だった。

    「健一、それはできない」

    「でも、会社が苦しいなら……」

    「苦しいからって、やっていいことと悪いことがあるの」

    綾子さんの声には、社長としての厳しさがあった。

    「社員が会社のために働いて、給料を受け取らない。それを経営者が認めることはできない」

    俺は黙った。

    「あなたは私の夫よ。でも、それ以前にあなたはArkethの社員なの」

    「社員を守る責任が、私にはあるの」

    しばらく沈黙が続いた。

    「だから……別の形に変えるしかない」

    「別の形?」

    「あなたを……会社側の人間にする」

    その意味はすぐに分かった。

    「取締役になるの」

    それは、守られる側ではなくなるということ。会社の判断に責任を持つ側になるということだ。

    「でも……」

    綾子さんは視線を落とした。

    「だから今まで、あなたを平社員のままにしていたの」

    「え?」

    「あなたには経営の責任まで背負わせたくなかった」

    綾子さんは静かに言った。

    「この会社を作ったのは私だから」

    「失敗したら、私が責任を取ればいいと思っていた」

    「でも……」

    声が少し震える。

    「あなたまで巻き込んだら、あなたも一緒に責任を背負うことになる」

    「私は、健一にそんな人生を選ばせたくなかった」

    いつも迷わず未来を切り開いてきた綾子さんが、その夜だけは不安そうな顔をしていた。

    だから俺は決めた。

    「綾子さん」

    「なに?」

    「俺も責任を背負うよ」

    綾子さんが顔を上げる。

    「……本当にいいの?」

    「ああ」

    俺は頷いた。

    「もう、綾子さん一人に背負わせるつもりはない」

    それは覚悟だった。

    俺は綾子さんのように、人を惹きつけて会社を引っ張ることはできない。営業も苦手だ。人前で話すことも得意じゃない。でも、俺には俺の役割がある。綾子さんが作ろうとしているものを、技術で支えて、この場所を守る。

    「分かった」

    綾子さんは小さく頷いた。



    第十五章 妻の扶養に入る


    翌日、綾子さんはいつものように淡々と話を始めた。

    「もう一つ、決めなければいけないことがあるわ」

    「何?」

    「役員報酬について」

    俺は黙って聞いた。

    「今の会社の状況では、あなたに十分な報酬を出す余裕はない」

    「……つまり」

    「当面、役員報酬はゼロ」

    分かっていたことだった。

    でも、実際に言葉にされると胸に刺さった。

    「会社から給料は出ない」

    綾子さんは続ける。

    「だから、生活については別の方法を取る」

    嫌な予感がした。

    「別の方法?」

    綾子さんは少し迷ってから言った。

    「私の扶養に入ってくれる?」

    一瞬、意味が理解できなかった。

    「……扶養?」

    「そう」

    綾子さんは頷く。

    「健康保険も税制上の扱いも、私の扶養に入る形にする」

    その言葉を聞いた瞬間、父の言葉が蘇った。

    「男は家族を背負うものだ」

    「一家の大黒柱になるものだ」

    俺はずっと、そういうものだと思っていた。

    ビルを買った時も思った。家くらい、自分が用意するものではないのかと。

    「……情けないな」

    思わず口から出た。

    綾子さんの表情が変わった。

    「健一」

    「いや……」

    俺は苦笑した。

    「夫が妻を支える。家族を養う。それが普通だと思っていた」

    綾子さんは静かに俺を見る。

    「でも、健一」

    「なに?」

    「私はあなたを養うつもりで言っているんじゃない」

    「え?」

    「今、一番大切なものを守るために、一番合理的な方法を選んでいるだけ」

    綾子さんは続けた。

    「このビルも、会社も、歩夢も」

    「全部、二人のものよ」

    その言葉に、胸の奥が少し軽くなった。

    「それに」

    綾子さんは微笑んだ。

    「このビルは加賀家じゃないわ」

    「え?」

    「Arkethのもの」

    はっきりと言った。

    「私たちは、会社の上に住んでいるだけ」

    その言葉を聞いて、以前の会話を思い出した。

    「加賀家としての家は、あなたがいつか用意すればいい」

    綾子さんはそう言った。

    「分かった」

    俺は頷いた。

    「俺は黒子になる」

    綾子さんは少し驚いた顔をして、それから優しく笑った。

    「ありがとう」

    その一言で十分だった。

    俺は、自分の意思で黒子になることを選んだ。


    第十六章 危機を超えて


    あの危機から、三か月が過ぎた。会社がすぐに立ち直ったわけではない。

    ビル購入のために組んだローン。改築費用。設備投資。そして、大口取引先からの入金停止。

    銀行へ追加融資の相談もした。しかし、状況は簡単ではなかった。

    「ビル購入直後ということもありますので……」

    銀行担当者の言葉は、決して冷たいものではなかった。

    けれど、現実は厳しかった。

    新しい投資をしたばかりの会社に、さらに大きな融資を出すことは難しい。綾子さんは何度も銀行へ足を運び、事業計画を説明した。Arkethの実績。今後の展望。Web事業の成長。それでも、すぐに大きな資金を用意することはできなかった。

    最終的に会社を救ったのは、綾子さん自身が長年積み立てていた保険だった。

    「……これを解約するわ」

    そう言って、綾子さんは一枚の書類を机の上に置いた。それは、会社を始めた頃から万が一のために積み立てていたものだった。

    「これは、綾子さんの将来のためのお金だろ?」

    俺が言うと、彼女は静かに首を振った。

    「会社がなくなったら、将来も何もないわ」

    迷いのない言葉だった。さらに、もう一つ。綾子さんの実家からも援助を受けることになった。

    「親に頼るなんて……」

    綾子さんは少しだけ悔しそうに呟いた。

    彼女にとって、会社を自分の力だけで育ててきたという誇りがあった。でも、今は意地を張る時ではなかった。

    そうして何とか、会社は最悪の状況を乗り越えた。ただし、以前のような余裕が戻ったわけではない。これからも返済は続くし、経営に油断はできない。

    それでも、希望はあった。
    その大きな理由の一つが、俺の担当するWeb事業だった。最初は綾子さんの「手足」として始めた仕事だったが、気づけばArkethの新しい柱になっていた。

    企業のホームページ制作や業務システムの開発、ネット環境の管理など、これまでグラフィックデザイン会社として培ってきた信用に、Webの技術が加わったことで、新しい仕事がどんどん増えていった。

    「健一の仕事、もう完全に事業の柱ね」

    ある日、綾子さんが売上資料を見ながら言った。

    「そんな大げさな」

    「大げさじゃないわ」

    彼女は真剣な顔で続けた。

    「あなたがいたから、Arkethは前へ進めた」


    第十七章 日常のノイズ


    土曜日の午後。歩夢の習い事の帰り道、同じクラスの山田くんパパに声をかけられた。大手商社で激務をこなしていることで知られ、送迎の時も携帯を離さないいわゆる「多忙なパパ」の代表格だ。

    「おっ、加賀さん。相変わらず熱心だね」

    山田さんは歩夢の隣を歩く俺を横目に、苦笑混じりに言った。

    「専業主夫っていいよな。俺なんて毎日、納期と上司に詰められてヘトヘトだよ。暇な時間が少しでもあれば、今の仕事の疲れも吹っ飛ぶだろうに」

    彼は悪気もなく、屈託のない笑顔でそう言った。俺は一瞬だけ、言葉を詰まらせた。

    「……そうですね。おかげさまで」

    努めて穏やかに返したが、胸の奥で小さな棘が刺さる。 「暇」。

    「加賀さん、ちょっと顔色が悪いよ? 暇なんだからもっと休めばいいのに」

    彼は背中をポンと叩くと、足早に自分の車へと戻っていった。 俺はその後ろ姿を見送りながら、歩夢の手を強く握り直した。周りからは「ヒモ」だ「主夫なら楽でいい」と言われてもいい。だが――。

    ふと、隣を歩く歩夢が俺の顔を見上げて言った。

    「パパ、なんで山田くんパパは『暇』なんて言うの? パパはいっぱいお仕事してるのにね」

    意外な言葉だった。歩夢の小さな手が、俺の手を優しく包み込む。

    「パパは毎日、歩夢とお風呂に入ってくれるし、寝る前にお話もしてくれるでしょ? 『暇』じゃないよ。パパはお仕事も、歩夢のことも、ぜんぶ頑張ってるもん」

    歩夢は無邪気に笑った。

    その屈託のない笑顔と、俺の苦労をすべて見抜いているような真っ直ぐな言葉に、胸が熱くなる。

    「……ありがとう、歩夢」

    喉の奥がツンと熱くなった。周りの評価なんて、どうでもいい。

    「歩夢、今日は帰り道にあの『たこ焼き屋さん』に寄っていこうか」

    「うん! ママはここのたこ焼きが大好きだから、いっぱい買って帰ろ!」

    俺は歩夢の手をしっかり握り、夕暮れの街を歩き出した。


    第十八章 新しい『箱』


    そして、引っ越し当日。

    四階の新しいリビングに立つと、窓の下には大通りが広がっていた。車の流れが途切れなく続いている。

    「パパ、パパ!」

    歩夢が小さな足で駆け寄り、俺の足にぎゅっとしがみついた。真新しい白い壁を嬉しそうにペタペタと触りながら、部屋の中をあちこち歩き回っている。

    「こらこら、まだ荷物があるから転ぶぞ」

    そう言いながら抱き上げると、歩夢は楽しそうに笑った。

    新しい暮らしが、ここから始まる。この建物は、ただのオフィス兼住宅ではない。

    一階は駐車場。二階はArkethの事務所。三階は仕事もできるリビング。そして四階が、家族だけの住まい。
    仕事と暮らしを一つの建物に収める――それが綾子さんの描いた「箱」だった。

    ***

    トゥルゥルゥルゥルゥ。

    二階の事務所と四階をつなぐセコム内線の呼び出し音が鳴った。俺は壁の応答ボタンを押す。

    「健一、ちょっと来て! サーバーの調子がおかしいわ」

    「はいはい」

    俺は歩夢を抱き上げたまま階段を下りる。

    「歩夢ちゃん、おはよう!」

    「おはよー!」

    元気よく手を振る歩夢に、事務所中が和やかな空気に包まれる。俺はそのままパソコンの前に座り、サーバーの設定を確認する。

    「パパ、お仕事、カチャカチャ?」

    歩夢がキーボードを叩く真似をして笑う。

    「そうだ。これはパパのお仕事だ」

    仕事を終えると、そのまま三階へ戻って昼食をとる。綾子さんも時間が合えば上がってきて、三人で食卓を囲む。

    「午後は打ち合わせへ行ってくるわ」

    「わかった」

    この「箱」は、綾子さんが思い描いた以上に、家族の時間を増やしてくれていた。
    夕方になると、仕事を終えたスタッフが歩夢に「また明日ね」と手を振る。歩夢も満面の笑みで手を振り返す。

    「ばいばーい!」

    そんな何気ない毎日を眺めながら、俺は思う。

    この家には会社がある。会社には家族がいる。

    普通の家庭とは少し違うのかもしれない。

    でも、歩夢は一日に何度も俺と綾子さんの顔を見て笑っている。

    その笑顔を見るたびに、この暮らしを選んだことは間違いじゃなかったのだと、俺は確信するのだった。



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    <第四部>
    これが俺の仕事だ


    第十九章 運転できない男


    新しいビルでの生活は、想像していた以上に快適だった。

    「この『箱』を作って正解だったわね」

    綾子さんは満足そうに笑っていた。俺もそう思っていた。だが、その快適さとは裏腹に、俺たちは少しずつ疲弊していった。

    Arkethは融資のおかげで危機を乗り越えたものの、その返済は始まっている。綾子さんは営業、経営、現場を同時に回し、俺も裏方として昼夜なく会社を支えていた。

    そこへ二歳になった歩夢の育児が加わる。

    夜泣きこそ減ったものの、今度は走り回るようになった。目を離せば階段へ向かい、事務所へ降りて行こうとする。

    毎日が慌ただしく過ぎていく。夫婦で顔を合わせる時間はある。それでも、話す内容のほとんどは仕事か歩夢のことだった。

    互いを気遣う余裕が、少しずつ失われていった。

    ***

    その日の夕方も、ほんの些細なことが始まりだった。

    「健一、歩夢のおむつ買ってきてくれた?」

    「……あ」

    「忘れたの?」

    「ごめん。今日、サーバー対応で頭がいっぱいで……」

    綾子さんは何も言わず、小さく息を吐いた。

    「じゃあ今から行ってくる」

    バッグを持ち、車のキーを掴む。

    「俺も行くよ」

    「いいわ。歩夢を見ていて」

    「いや、一緒に」

    綾子さんは少しだけ眉を寄せた。

    「寝ている歩夢を起こして、歩夢をチャイルドシートに乗せて、店まで行って、また降ろして……帰ってきたらまた乗せ直すのよ?」

    その声には疲労が滲んでいた。俺は黙ってしまった。

    結局、綾子さんは一人で買い物へ向かった。俺は歩夢の寝顔を見ながら、綾子さんの帰りを待った。

    そして、ドアが開き、両腕いっぱいに特大用の大きなおむつと、スーパーの買い物袋を提げた綾子さんが帰ってきた。

    荷物を床にドンと置き、そして、小さく呟いた。

    「……疲れた」

    その一言が、俺の胸に刺さった。

    「ごめん」

    「健一」

    綾子さんは静かに俺を見た。

    「お願いだから、もう少しだけ私の負担を減らして」

    俺は、綾子さんの姿を見て、もう誤魔化せないと悟った。

    「……怖いんだ」

    「何が?」

    「車が」

    「十八歳の頃、仮免までは取ったんだ。だけど、路上教習でパニックになったんだ。時速四十キロを超えると視界が揺れて、冷や汗が止まらなくなって、吐き気がするんだ」

    「路上に出た時、めまいがして事故を起こしそうになったんだ。あの時の教官の怒鳴り声と恐怖が耐えきれなくて。それで、教習所を辞めたんだ。」

    「一生、運転なんて無理なんだ」

    長い沈黙が流れた。綾子さんは怒らなかった。

    「……そういうことだったの」

    そして俺を見つめる。

    「私が怒っていたのは、運転できないことじゃない」

    「もっと早く話してほしかった。そうしたら、一緒に考えられたでしょう?」

    俺は何も言えなかった。

    「あなたが黙っていた間、私は一人で全部抱えてたの」

    「だから苦しかったの」

    その言葉は、胸に深く突き刺さった。

    「もう運転は期待しない。でも健一……」

    「運転できないなら、他に何ができるのか、自分で考えて」

    そう言って寝室へ向かう綾子さんの背中を、俺はただ見送ることしかできなかった。

    それ以来、俺の指定席は後部座席に固定された

    歩夢が生まれる前から「絶対に取ってね」と何度も俺に頼んでいたというのに、俺はずっと綾子さんの言葉を見て見ぬふりをしていたんだ。


    第二十章 酒が飲めない男


    そしてもう一つ。俺には不甲斐ない一面がある。

    それは、酒だ。

    体質的に、飲めない。ビールはコップ一杯が限界で、それ以上飲むと記憶が遠のいてしまう。綾子さんの好きな日本酒など、お猪口一杯で気分が悪くなってしまう。

    付き合い始めた頃は、対等に飲みたくて何度も無理をした。そのたび泥酔し、介抱されるのは俺だった。

    「健一、もうやめなさい」

    「体質は努力じゃ変えられないの」

    そう言われてから、綾子さんは酒の席へ俺を連れて行かなくなった。

    ある夜。

    歩夢を寝かしつけると、綾子さんがコートを羽織った。

    「少し飲んでくるわ」

    「D-Bar?」

    「うん。マスターに相談したいこともあるし」

    「気をつけて」

    玄関の扉が閉まる。

    俺は歩夢の寝顔を見ながら、一人で留守番をする。

    『D-Bar』は、綾子さんの元恋人(学生時代)の兄が経営するバーだ。不思議な縁で俺とも親しくなり、酒が飲めない俺を笑い飛ばしながら、綾子さんとの付き合い方を教えてくれた人でもある。

    俺がプロポーズに迷っていた時、一番背中を押してくれたのも、あのマスターだった。

    世間から見れば、元恋人の家族と今でも付き合いがあるなんて、不思議な関係なのかもしれない。だが綾子さんは昔から言っていた。

    「恋愛の賞味期限が切れても、人の縁まで消えるわけではない」

    その考え方が、綾子さんらしかった。

    バーで静かに日本酒を飲む綾子さん。家で歩夢を寝かしつける俺。それが、いつしか我が家の日常になっていた。

    酒も飲めない。車も運転できない。

    酒の席を避けることで、俺はまた一つ、世間の『父親像』から遠ざかっていった。

    一度、綾子さんの親戚の家に車で遊びに行ったことがある。帰り際、親戚の年配の女性が、後部座席で歩夢の横に座っている俺を見て、悪気なく笑った。

    「あら、健一さんは運転しないのねえ。歩夢ちゃん、パパと一緒でいいわね。本当にパパが大好きなのね……」

    「うん。パパ大好き! パパはいつも歩夢の隣だよ!」

    一瞬、バックミラー越しに見えた綾子さんの顔が、強張ったように曇った。

    歩夢が大きくなったら、どう思うだろう。

    「パパは運転ができないんだ」

    そう思うはずだ。世の中の多くの父親がハンドルを握り、家族をどこへでも連れて行ってくれる頼もしいヒーローだ。しかし俺には無理だ……。

    綾子さんは、こんな俺を本当に必要としてくれているのだろうか。

    確かな答えが欲しくても、怖くて聞けなかった。

    (俺って、一体、何なんだ……。)



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    第二十一章 ママチャリ送迎


    引っ越しから二年が過ぎた。

    歩夢は三歳になり、幼稚園の年少組に入る前の準備クラス「たんぽぽ組(三歳クラス)」へ通い始めていた。

    朝食を終えると、綾子さんは俺たちより先に仕事へ向かう。

    二階のArkethでは、今日もスタッフたちが待っている。経営者としての彼女には、止まることのできない毎日がある。

    そして、綾子さんを見送った後、俺の一日の本当の仕事が始まる。

    歩夢の髪を整え、小さな制服を着せる。

    「パパ、これでかわいい?」

    「うん。今日も一番かわいいぞ」

    そう言うと、歩夢は満足そうに笑う。

    最後に、小さな頭へヘルメットをかぶせる。俺の愛車――ママチャリの後部座席へ歩夢を乗せる。カチッと安全ベルトを締めると、歩夢は嬉しそうに俺の背中へ手を伸ばした。

    「パパ、しゅっぱーつ!」

    「よし、行くぞ」

    キコキコと軽い音を立てながら、俺はペダルを踏み込む。これが、俺と歩夢だけの毎朝の時間だった。

    ***

    幼稚園の駐輪場は、ママ友たちの社交場だった。送り迎えの短い時間、母親たちは自然に集まり、子どもの話や家庭の話を楽しそうに交わしている。

    毎朝、ママチャリで現れる父親。仕事をしているのか、家にいるのか分からない男。いつも後部座席で歩夢の隣に座っている父親。

    世間一般の「父親像」から、俺は少し外れているし、正直に言えば、俺は極度のコミュ障だった。人と目を合わせるだけで緊張するし、何気ない会話ほど苦手だった。だから駐輪場という場所は、俺にとって大きな試練だった。

    「あ、歩夢ちゃんパパ、おはようございます」

    ある朝、談笑していたママ友の一人、木村さんが俺に気づいて声をかけてきた。心臓が跳ねる。

    「あ、う……おはようございます」

    自分でも情けなくなるほど、ぎこちない返事だった。俺はすぐに歩夢の自転車のベルトを外す作業へ逃げ込む。

    「 歩夢ちゃんパパ、来月の週末キャンプ参加しますよね?」

    「キャンプ?」

    その言葉を聞いた瞬間、「これは絶対だめなやつ!」と頭の中で警報が鳴った。 運転免許がないから長距離移動は綾子さんに丸投げするしかないし、お酒も飲めない。それに……俺は虫が大嫌いだ。大自然なんて、ありとあらゆる虫たちが闊歩する恐怖の領域でしかない。

    「みんなでバンガローを借りて、お父さんたちにBBQしてもらおうって話になってるんです!」

    「あ、あの……自分、その日は仕事が……」

    苦し紛れの言葉だった。

    「そうですか? パパ同士の交流も深まるのに残念です。また何かあったら誘いますね!」

    彼女たちが去り、俺は安堵した。「キャンプ」という難題を切り抜けた自分を褒めてあげたい気分だ。

    歩夢はそんな俺の奮闘を知ってか知らずか、自転車での送迎をえらく気に入っている。

    ある雨の日。いつものように雨合羽を着て歩夢を迎えに行った。すると、心配した綾子さんが後から車で駆けつけてくれた。

    「この雨じゃ危ないわ。歩夢、車で帰りましょう」

    綾子さんは歩夢の苺模様の雨合羽を脱がせ、車へ乗せようとした。その瞬間だった。

    「やだ!」

    歩夢が叫んだ。

    「パパの自転車がいい!」

    「歩夢?」

    綾子さんが驚く。

    「ママの車はダメ! パパの自転車がいい!」

    歩夢は俺の服にしがみついて離れなかった。

    俺は戸惑った。けれど、胸の奥には小さな喜びもあった。綾子さんは、何でもできる人だ。そんな彼女の隣で、俺はずっと自分の足りない部分ばかりを見ていた。

    でも、歩夢にとっては違った。歩夢が欲しいのは、便利な移動手段だけではない。俺と一緒に帰る時間だった。そのことに気づいた瞬間、俺は初めて思った。歩夢の「一番」が、このママチャリの後ろにあったのだ。


    第二十二章 パパってすごい!


    人前に出るのが苦手な俺でも、歩夢のためとなれば話は別だ。運動会、バザー、夏祭り、発表会……あらゆるイベントに俺は参加した。内心では冷や汗をダラダラと流しながら、精一杯の笑顔を作り、率先して雑用を買って出た。ママ友の輪に入るのは死ぬほど恐ろしかったが、「歩夢のパパが変な奴だと思われたくない」という一心で、その場に溶け込んだ。

    幼稚園のママ友たちの間で、最初の俺の印象は決して良いものではなかった。

    「歩夢ちゃんパパさんって、お仕事何をされているのかしら?」

    「昼間も送迎しているけど……ずっと家にいらっしゃるのかな?」

    そんな声が聞こえてくることもあった。

    俺は否定できなかった。

    そんな噂が囁かれているのを、俺は駐輪場の隅で、心臓を早鐘のように鳴らしながら聞いていた。

    潮目が変わったのは、ある午後のことだった。

    お迎えに行った際、職員室の前を通りかかると、先生たちが深刻な顔をして立ち尽くしていた。園のネットワークが突然ダウンし、事務作業や保護者連絡が完全にストップしてしまっていたのだ。

    「どうしましょう、明日までに案内を送らないといけないのに……」

    パニック寸前の先生たちの様子に、俺の足が止まった。反射的に状況を分析する。ルーターのランプの状態、PCの挙動、そして園内の配線。職業病とも言えるその洞察が、俺の思考を強制的に切り替えた。気づけば、俺は先生たちの輪の中にいた。

    「……パソコン、拝見してもいいですか?」

    その時の俺は、自分でも驚くほど別人だった。Arkethでは社内ネットワーク管理も俺の担当だった。PCのトラブルを前にした途端、言葉は淀みなく出てきた。テキパキとケーブルを繋ぎ直し、IPアドレスを再設定し、コマンドプロンプトを叩く。数分後、再びネットの接続ランプが緑色に点灯した瞬間、先生たちの歓声が上がった。

    「歩夢ちゃんパパ、本当にすごい! 魔法みたいです!」

    俺は照れながら頭をかいた。でも、その時だけは少し胸を張れた。そしてこの出来事をきっかけに、幼稚園での俺を見る目は少しずつ変わっていくことになる。

    この一件は、思っていた以上の速さで幼稚園中に広がった。

    「歩夢ちゃんのパパ、パソコン関係のすごい人なんだって」

    そんな噂が、いつの間にか駐輪場にも届いていた。


    第二十三章 バザーのチラシ


    そんなある日、バザーを目前に控えた委員会の集まりで、代表の方が俺に声をかけてきた。

    「歩夢ちゃんパパ、お願いがあるんですけど……」

    「はい?」

    「今度の日曜日のバザーのチラシ、作ってもらえたりしませんか?」

    以前なら、緊張で何も言えなくなっていたかもしれない。でも、その時は違った。

    「あ……はい! 大丈夫です。作ります!」

    自然と返事が出た。しかも、噛まずに言えた。

    その小さな変化が、自分でも嬉しかった。俺はもう、ただ隅にいる「変わったパパ」ではない。

    ……しかし。

    俺には大きな誤算があった。

    確かに俺はWebエンジニアだ。コードを書くことなら負けない。システムを組むこともできる。

    でも――デザインは別物だった。

    家に帰り、意気揚々と作業を始めた俺の画面には、機能的ではあるが、どこか冷たいチラシが表示されていた。

    「……違う」

    自分でも分かった。

    焦った俺が、綾子さんに経緯を説明すると、綾子さんは呆れ顔でため息をついた。

    「……あなたねえ。コーディングができるのと、デザインができるのは別物でしょう?」

    「仕方がないわね」

    叱られると覚悟したが、彼女はパソコンを覗き込むと、慣れた手つきで俺の無機質なレイアウトに手を加え始めた。フォントを選び、余白を調整し、イラストを挿入し……パッと見て心が躍るようなデザインに一瞬にして変えてしまった。

    「――はい、完成。 自分が作ったことにするのよ」

    その言葉が、胸に残った。

    綾子さんはそう言って、誇らしげに俺を見た。その顔を見て、俺は初めて『チームとしての夫婦』の意味を理解した気がした。

    翌日、完成したチラシを見たママ友たちから歓声が上がった。

    「歩夢ちゃんパパ、すごい!」

    「プロみたい!」

    その言葉を背中で受け止めながら、俺は心の中でそっと綾子さんに感謝する。俺の武器は自転車だけじゃない。俺の隣には、とてつもなく優秀な「相棒」がいたのだ。

    ***

    週末。

    久しぶりに家族三人で出かけた。綾子さんの愛車である頑強な国産SUVが、心地よい振動を響かせて山道を登っていく。俺はいつものように後部座席で歩夢の隣に座っているが、かつてのような屈辱感はない。

    窓の外を流れる景色を眺めながら、歩夢が弾んだ声を上げた。

    「ねえママ!」

    「どうしたの?」

    綾子さんがバックミラー越しに歩夢を見る。

    「パパってすごいんだよ!」

    「そうなの?」

    「幼稚園でね、パパが作ったチラシ見せてもらったの!」

    歩夢は嬉しそうに続ける。

    「みんなパパのこと『天才!』って言ってたよ! すごく可愛かったんだから!」

    胸が熱くなった。助手席の綾子さんが、ふっと微笑む。

    「そうね」

    少し間を置いて、彼女は言った。

    「歩夢のパパは、パソコンの天才だからね」

    その言葉には、俺がずっと抱えていた不安を全部理解した上での優しさがあった。

    (綾子さんは、ちゃんと見てくれていたんだ)

    俺は運転できない。酒も飲めない。人付き合いも得意じゃない。でも、俺には俺の役割がある。歩夢にとって、俺は「何もできないパパ」ではなかった。

    「パパ、今度パソコンでお絵かきしたい!」

    歩夢の声に、俺は笑った。

    「いいぞ。一緒にやろう」

    綾子さんは運転しながら、楽しそうに笑っている。

    少し顔が熱くなった俺は、後部座席の窓を少し開けた。

    心地よい風が車内へ流れ込んできた。


    <第五部>
    妻の扶養に入って何が悪い!?


    第二十四章 父親の古い価値観


    たんぽぽ組に入園してから四年――歩夢は年長組を終え、小学校の入学式を控えていた。

    その頃、この「箱」は少しずつ形を変えていた。俺は社内のネットワーク環境を整え、Arkethと在宅スタッフや外部のデザイナー、カメラマンたちをスムーズにつなぐ体制を作り上げていった。

    だが、ひとつだけ喉に刺さった小骨のような気がかりがある。俺の両親が、一度もこの「箱」に足を運んでいないことだ。

    ある日のことだった。

    実家で夕食を囲んでいると、父親が箸を置き、重いため息をついた。

    「……健一」

    「ん?」

    「お前、本当にこれでいいと思っているのか?」

    突然の言葉に、俺は顔を上げた。

    「何が?」

    父親は少し迷うように視線を落とした。

    「妻が買った家に住む。妻が社長をしている会社で働く。挙げ句の果てには、妻の扶養に入る……」

    一つひとつ言葉を選ぶように、父親は続けた。

    「俺にはな……正直、理解できん」

    胸の奥に、小さな痛みが走った。

    やっぱり、父さんはそう思っていたのか。

    「理解できないって……」

    「男なのに、それで情けなくないのか?」

    父親の声が少し強くなる。

    「昔から言ってきただろう。男は家族を背負うものだ。家を守り、妻や子供を養うものだって」

    「俺は家族を背負ってないって言いたいのか?」

    「そういう意味じゃない!」

    父親はすぐに否定した。

    「歩夢を大事にしていることも、綾子さんを支えていることも分かっている。お前が何もしていないなんて思っていない」

    一瞬、父親の表情が揺れる。

    「でもな……世間から見たらどうなんだ」

    「世間?」

    「そうだ。男が妻の収入に頼っている。妻の名前で買った家に住んでいる。そんな姿を見て、お前は何も感じないのか?」

    俺は静かに息を吐いた。

    「父さんは、俺が何をしているか見ているのか?」

    「何?」

    「Arkethのシステムを作ったのは誰だと思ってる? 会社のネットワークを整えたのは? スタッフが安心して働ける環境を作ったのは?」

    「Web事業を軌道に乗せたのは誰だと思ってる?」

    声が少しずつ熱を帯びていく。

    「俺は綾子さんの後ろで何もしていないわけじゃない」

    父親は黙って俺を見る。

    「俺は、綾子さんが凄いと思っている。だから支えているんだ」

    「だがな……」

    父親が口を挟む。

    「お前は昔から優しい。優しすぎるんだ。綾子さんのため、歩夢のためと言って、自分を安売りしているように見える」

    その言葉に、俺の中で何かが引っかかった。

    「自分を安売り?」

    「ああ」

    父親は真剣な顔だった。

    「取締役になったって、会社が苦しくなれば真っ先に責任を負う立場だ。それでも給料も保証されない。そんな立場を受け入れて……本当に幸せなのか?」

    「幸せだよ」

    俺は即答した。

    父親が少し驚いた顔をする。

    「俺は、綾子と歩夢のそばにいる。それ以上に欲しいものなんてない」

    「でも男には男の役割が――」

    「父さん」

    俺は父親の言葉を遮った。

    「その『男の役割』って、誰が決めたんだ?」

    部屋が静まり返る。

    「男が稼いで、女が支える。それが普通だっていうなら……」

    俺は一度言葉を飲み込み、続けた。

    「女が稼いで、男が支えることの何が間違っているんだ?」

    父親の眉が動く。

    「そんな簡単な話じゃない」

    「簡単じゃないから、俺たちは考えて選んだんだ」

    俺は父親の目を見る。

    「綾子さんは俺を養っているんじゃない。俺を信じて、一緒に会社を作っているんだ」

    「……」

    「俺だって、最初は怖かったよ」

    本音がこぼれる。

    「男として認められないんじゃないか。情けないと思われるんじゃないかって」

    父親は黙って聞いていた。

    「でもな……綾子さんは一度も俺を下に見たことなんてない」

    「……」

    「俺がいくら稼げるかじゃない。俺が綾子と歩夢に何を残せるかなんだ」

    父親は視線を逸らした。

    「それでも……世間はそう見ない」

    「だったら勝手に見ればいい」

    俺ははっきりと言った。

    「俺は世間のために生きているんじゃない。綾子さんと歩夢のために生きている」

    父親の表情が険しくなる。

    「健一……本当にそれで後悔しないんだな?」

    「ああ」

    迷いはなかった。

    「後悔する理由なんてない」

    そして、俺は言った。

    「妻の扶養に入って何が悪いんだ?」

    父親は何も言わなかった。

    ただ、複雑な表情で俺を見ていた。

    昔から変わらない父親の価値観。

    男はこうあるべきだという信念。

    それを否定するつもりはない。

    でも――。

    俺には俺の守り方がある。

    家を建てることだけが、家族を守ることじゃない。

    金を稼ぐことだけが、男の価値じゃない。

    俺は俺の選んだ場所で、俺にしかできない形で、家族を守っている。

    それだけは、誰に何を言われても譲れなかった。


    第二十五章 俺達の普通


    そんな日常の中、歩夢は学校から帰ると、階段を駆け上がり二階のArkethの扉を勢いよく開ける。

    「ただいま!」

    「おかえり!」
    「おかえり!歩夢ちゃん!」

    事務所のあちこちから、明るい声が響く。ここでの日常こそが、綾子が理想とした「箱」計画が結実した何よりの証拠だった。

    「今日はね、数学のテストが90点だったんだよ! ほら見て!」 と、誰かれ構わずスタッフの手をとめては自慢げにテストを見せびらかす。

    その屈託のない笑顔を見るたびに、俺は彼女が敷いた設計図の正しさを、抗いがたいほど痛感させられるのだ。

    ある冬の週末の夜、三階のオフィス兼リビングでは、焼肉を囲んで賑やかな声が響いていた。

    「歩夢ちゃん、お肉焼けたよ! ほら、熱いから気をつけてね」 スタッフのひとりが箸を伸ばすと、歩夢は目を輝かせて「わあ、ありがとう!」と皿を差し出す。

    「パパ、今日はお仕事終わったの?」

    歩夢の問いかけに、焼き肉の準備をしていた俺が答える。

    「お仕事はもう終わりだよ。ママも、もう少しで上がってくるよ」

    「そうそう、歩夢ちゃん。このクリスマスの飾り付け、すごく上手だね。パパと一緒にやったの?」

    別のスタッフが歩夢の頭を優しく撫でながら、ドアの横のツリーを指さした。歩夢は得意げに笑った。

    「うん! パパと一緒にね、キラキラをいっぱい付けたんだよ。ママも後で褒めてくれるかな」

    そこへ綾子さんがスポンサーとの打ち合わせを終えて帰ってきた。階段の音に気づいた歩夢が、一目散に駆け寄った。

    「ママ、おかえり! 今日は焼肉だよ!」

    綾子さんは歩夢を抱きしめ、集まったスタッフたちにも柔らかい笑みを向ける。

    「みんな、遅くまでありがとう。歩夢、待っててくれてありがとうね」

    ここには、仕事の緊張感と家族の団欒が溶け合った、不思議で心地よい空気が流れている。

    「パパ、パパも一緒に座って!」

    歩夢に手を引かれ、俺は綾子の隣に腰を下ろす。周囲で肉を焼く音や談笑する声が響く中、ふと歩夢の小さな声がその場に落ちた。

    「ねえママ、どうしてパパはずっと家にいるの? ……お友達の家と、ちょっと違うよね」

    スタッフのみんなが一瞬、箸を止める。焼肉を焼いていた綾子さんは、トングを置いて隣の歩夢を優しく抱きしめた。

    「そうね。でもね、歩夢。パパがずっといてくれるから、ママは自由にお仕事ができるし、こうして歩夢といられるのよ」

    綾子さんは俺の方を向き、いたずらっぽく、そして確かな信頼を込めて微笑んだ。

    「だって、パパがお家を守ってくれてるからね。ママにとって、パパは世界で一番頼りになるパートナーなのよ――歩夢のパパって、本当に凄いの!」

    続けてスタッフの佐藤さんが言った。

    「そうだよ、歩夢ちゃん。パパは仕事も凄いんだ! コンピューターの難しいお仕事を誰よりも上手にできるんだから!」

    「へえ、パパってすごいの?」

    歩夢は俺の顔を覗き込み、屈託のない笑顔を見せた。俺はその笑顔を見つめながら、心の中で小さく頷く。

    ***

    それから数か月後。

    歩夢が小学校に入学して、初めての授業参観の日がやってきた。

    新品のランドセルを背負い、少し大きめの制服に袖を通した歩夢の姿を見た時、胸の奥が熱くなった。

    「大きくなったな……」

    思わず呟くと、隣にいた綾子さんが微笑んだ。

    「本当にね」

    教室に入ると、子供たちは少し緊張した様子で席についていた。今日の授業は「家族」をテーマにした作文発表だった。一人ずつ、自分の書いた作文を読み上げていく。

    「私のお母さんは、毎朝お弁当を作ってくれます」

    「僕のお父さんは、休みの日に一緒にサッカーをしてくれます」

    微笑ましい発表が続く。

    そして――。

    「次、加賀歩夢さん」

    先生に名前を呼ばれ、歩夢が立ち上がった。

    少し緊張した顔。

    でも、すぐにいつもの笑顔になる。

    小さな手で作文用紙を持ち、教室のみんなの前に立った。

    「私のお家は……」

    そこで一度、息を吸う。

    「パパとママが、ずっと一緒にいてくれます」

    その言葉を聞いた瞬間、俺の胸に何かが響いた。

    歩夢は続ける。

    「パパのなまえは、かがけんいち です」

    俺は思わず姿勢を正した。

    「ママのなまえは、さくらざきあやこ です」

    その瞬間――。

    隣に立っていた綾子さんが、突然、「ぷっ……」と小さく吹き出した。

    綾子さんは口元を押さえながら、肩を震わせている。

    「……どうしたの?」

    小声で聞くと、綾子さんは笑いをこらえながら答えた。

    「だって……歩夢、名字までちゃんと言うんだもの」

    「……でもね、健一。あの子、私より先にあなたの名前を呼んだわよ」

    綾子さんは、少し悔しそうな、でも嬉しそうな笑みを浮かべた。

    子供らしい真っ直ぐな発表なのに、どこか大人びた響きがあった。

    発表を終えた歩夢が、少し照れながら席へ戻っていく。

    俺と綾子さんは、小さく拍手を送った。

    授業が終わり、歩夢がかけよってきた。

    「歩夢、上手だったね」

    そう言うと、歩夢は嬉しそうに笑った。

    「だって、本当のことを書いたんだもん」

    その言葉に、胸がいっぱいになった。

    綾子さんが隣で歩きながら、ふっと笑った。

    「健一」

    「ん?」

    「私たち、間違ってなかったね」

    俺は歩夢の小さな手を握りながら答えた。

    「ああ」

    迷いなく言えた。

    「最高の家族だよ」

    世間が決めた「普通」じゃなくてもいい。

    俺たちには、俺たちだけの普通がある。

    そして今日、歩夢が教えてくれた。

    それは誰かに説明するものではなく――。

    胸を張って、大切に守っていくものなのだと。


     
     
    Ayumu Imazuが大好き。日常の中でふと感じたことを書いたり、小説を書いたり。

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