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クソ真面目に語る理不尽から心を守るための概念的うんち論

    私はたぶん、人から「無害そうな人間」に見られやすい。

    困っている人に話しかけられることが多い。駅でも、スーパーでも、知らない人から声をかけられることがある。旅行先でさえ道を聞かれる。
    それ自体は嫌ではない。
    ただ、この「無害そうに見える」という性質には、少し困った側面もある。

    むしゃくしゃした気持ちを誰かにぶつけたい人。反撃されなさそうな相手を、無意識に、あるいは意図的に探している人。
    いわゆる「ぶつかりおじさん」と呼ばれるような人の標的になってしまうことが少なからずあるのである。

    ただ歩いているだけなのに、わざわざこちらへ寄ってくる。避ける余地があるのに、なぜかぶつかってくる。こちらの身体に触れる直前の、あの妙な敵意の角度。
    あれは、なかなか嫌なものだ。

    危ないときは避ける。逃げる。自分の身は守る。そこは当然として、それでも心の中に嫌な感触が残る。

    「なんで今の人、あんなことをしたんだろう」

    「私は何かしたのだろうか」

    「なんだか、いきなり嫌な気分を投げ込まれた」

    そういう時、私はある日からこう考えるようになった。

    「この人、うんちが漏れそうだったのかもしれない」

    いや、ふざけているわけではない。私は今、かなり真面目にうんちの話をしている。

    うんちは平等である

    うんちはすごい。
    赤ん坊もする。子どももする。大人もする。じいちゃんもばあちゃんもする。どんなイケメンも、ハリウッド女優も、歴史上の偉人も、多分みんなする。

    人間はあらゆることで比べてしまう。
    資産、学歴、容姿、服装、仕事、持ち物、話し方、住んでいる場所。
    でも、うんちには嫉妬しない。
    誰かが「昨日すごく立派なの出た」と言っても、たぶん返ってくるのは「おお、よかったな」くらいで、誰も本気ではやっかまない。
    「ずるい、私もそのうんちがよかった」とは、ならないだろう。

    うんちは、誰しも持っている。そして、誰かのものを奪いたくはならない。
    人間社会の中で、これほど平等で、これほど安全なメタファーはあるだろうか。なかなかない。

    だから私は、教室や日常会話の中でうんちをよく使う。

    子どもにも伝わる。大人も笑う。変にかっこつけないで済む。話の重さを少しだけ軽くできる。
    娘たちと話すときにも、私はよくこういう比喩を使う。
    誰かの嫌な言葉や態度を、真正面から全部受け取らなくていい。
    相手の中で処理しきれなかったものが、こちら側に飛んできただけかもしれない。
    「うんち漏れそうで余裕がなかった人なんだ」
    そう考えると、自分のせいにしなくて済む。
    うんちは、概念としてかなり優秀なのである。

    ぶつかってくる人と、感情のうんち理論

    うんちが出るのは、人間の自然な生理現象である。
    赤ちゃんは、まだ自分でそれを扱えないので、おむつを替えてもらう。幼い子どもも、少しずつ練習しながら、自分の身体と排泄の扱い方を覚えていく。
    そしてある程度自立した年齢になれば、基本的には皆、自分でおしりを拭き、トイレに流す。
    もちろん、体調が悪い時もある。急な腹痛や下痢で、思い通りにならない時は誰にでもある。身体的な理由で特別な付き合い方が必要な場合だってあるだろう。
    それでも、人は成長する中で、自分のうんちとの付き合い方をそれなりに覚えていくものだ。

    感情も、これに似ている。

    誰しも、むしゃくしゃすることはある。嫌な気持ちになることもある。怒りや不満や悔しさが、自分の中に生まれてしまうことはある。
    それ自体は、人間の自然な感情である。
    ただし、その感情をどう扱うかに、人間性が出る。

    安全な場所に置いて、自分で少しずつ処理できる人。誰かの助けを借りながら、なんとか扱い方を覚えている途中の人。そして、自分の中で処理しきれないものを、誰彼かまわず撒き散らしてしまう人。

    それはもう、感情のうんちである。

    もちろん、相手にも事情はあるのだろう。
    体調が悪い日もある。仕事で嫌なことがあったのかもしれない。家庭で何かあったのかもしれない。本人にも言葉にできない不快感が溜まっていたのかもしれない。
    でも、だからといって、それを他人の身体や心にぶつけていい理由にはならない。

    うんちが出ること自体は仕方ない。
    しかし、それをどこで出すか。どう扱うか。誰かにぶつけずに済ませる方法を持っているか。
    そこに、その人の成熟が出る。
    だから私は、明らかに理不尽にぶつかってくる人に出会ってしまったら、問答無用でこう考える。

    「ああ、この人は今、うんち漏れそうで限界ギリギリだったのだろうな」

    私はこの人のトイレではない。
    私はこの人のおむつでもない。
    私はこの人の感情のうんちを受け止めるために、ここを歩いていたわけではない。
    でもあの人は、我慢できなかったのかもしれない。うんちだから。
    大人としての社会的大ピンチに陥っていたのかも知れない。うんちだし。
    そう考えると、不思議と心の中に線が引ける。

    相手を理解するためではない。
    相手を許すためでもない。
    自分の心を、相手の撒き散らしたものから守るためである。

    そして、それでもやっぱり腹が立ってしまった時は、奥の手を使う。

    「もう漏れちゃっていた」ことにする。勝手に。


    あなたの心が傷ついたとき、
    誰かの理不尽な言動や態度にどうしても腹が立ったとき、
    一度思い出してほしい。

    「この人、うんちが……漏れそうだったのかもしれない」

    たぶん、それだけで少し、心が軽くなる。

    理不尽を受け入れる必要はない。
    自分の心まで相手のうんち置き場にしなくていい。

    そんなことを子どもたちに伝えたくて、
    私は今日もクソ真面目にうんちを語る。


     
     
    コンパス造形教室を主宰する美術家であり、二人の娘きゅーり・ぱせり(仮名)の母です。 日常の中の観測、教室運営の中で感じるあれこれや、知的特性の強い娘たちとの日々を綴ります。 世界の構造を見るのが好き。 AIにAI認定された、ちょっと変な人間です。

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