水車小屋 [上]
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その1
隆が同じ村の中学生・茂にケガをさせた。
放課後、中学生のグループが談笑しているところに割って入り、いきなり突き飛ばしたのだった。茂は地面に倒れ、腕が挙がらなくなった。保健の先生が駆け付け、近くのお医者さんに連れて行った。
担任は職員室で隆を小突き回した。
「なんで、あんなことしたの。茂君が隆に何をしたというの。ほんまに末恐ろしい小学生や」
茂は勉強がよくでき、素行も悪くなかった。暴れん坊の隆と違って、村では評判の子だった。
女の担任は力を込めて、隆の腕をつねった。隆は黙って、耐えた。
出張から帰った教頭が加わり、隆を応接室に引っ張って行った。
完全な密室だった。教頭はいきなり平手打ちをくらわせた。教頭のビンタは軍隊仕込みだった。隆はよろめいた。
「教頭先生。なんにも言わんのですよ」
担任は中学生から聞いた経緯を説明した。
「ほんまに強情なやつやな。ええよ、いつまでも黙っておれ。今日は帰れんぞ。先生はな、お前のおやじさんからも、厳しくするよう頼まれとるんや」
電話がかかり、教頭が代わった。
「脱臼しとるんやって。骨折でもしとったら、お前は警察行きやったで」
また、教頭のビンタが飛んできた。
隆は父親とともに、茂の家を訪ねた。茂は三角巾で腕を吊っていた。
隆は一言「ごめんなさい」と言ったきり、無言を貫いた。父親はただ謝るだけで、相手の怒りは収まらなかった。
「うちの子も来年は受験やろ。のんびりした田舎の中学校じゃ十分な指導は受けられんし、都会は家庭教師とか塾とか、環境が全然違うやない。三年になったら、お父さんの弟の家に下宿させるんよ」
茂の父親が止めるのも聞かず、母親は付け加えた。
「まあ、都会の学校にも問題児はおるやろうけどな」
茂はいつものようにすました顔をしていた。しかし、エロ雑誌をグループで回し読みしていることは、下級生にもバレバレだった。エロ雑誌は茂が家から持ってきたものだと、噂されていた。
隆は道に唾を吐いた。
「こら。お前は全然懲りてないな」
父親が隆の頭を張った。
その2
隆の通う学校は、秘境の入り口、街道脇のわずかな平地に設けられていた。
幼稚園と小学校、中学校が同居し、運動場も共用だった。
周辺の村から、子どもたちは通学していた。秋の運動会には村対抗のリレーもあり、狭い運動場にゴザやムシロを抱えて村人が応援に来た。お昼に子どもたちは運動場で家族と弁当を食べる。地域がひとつになる、数少ないイベントだった。
隆の父親は運動会の日も仕事に出かけた。父親が来なくても、隆は寂しくなかった。おばあちゃんが弁当を作って来て、親戚の美智子さんたちと一緒に食べるからだ。
隆の住む村は、山間を流れる川に沿ってしばらく山道を歩くと、右手に開けてくる。急な山肌に二〇軒ほどの家が点在し、村の中央部を渓が流れていた。
渓は奥地にルーツがあった。途中、いたるところで湧き水が注ぐ。豊かな水量に恵まれ、多くの家々に飲料水や農業用水を提供していた。また、淵があって、子どもたちの天然のプールとなっていた。
その3
夏休みになるのももどかしく、子どもたちは渓の淵に集まった。
淵は高さ二〇メートルほどの滝が岩盤を穿ったもので、奥行き二メートル、幅一〇メートル、深さ一・三メートルにも満たなかった。戦後のベビーブーム期にあたり、淵はさながらイモを洗うような状態だった。
隆は小学五年までカナヅチだった。
淵の下の浅瀬で水遊びしたり、淵の周囲から、楽しそうに泳ぐ子どもたちを眺めているしかなかった。
それでも隆は満足していた。美智子さんの近くにいられるだけで、ほかに何も望まなかった。
美智子さんは隆より二つ年上だった。
隆の亡くなった母親と美智子さんの母親は姉妹だった。隆の母親は病弱だったのに、美智子さんの母親は明るく健康的だった。その血を引き、美智子さんは活発で、運動も万能だった。
小学生のころ、美智子さんは妹たちと一緒に、ズロースひとつで泳いでいた。それが中学生になると、紺色の水着を着るようになった。隆にはまぶしくて仕方がなかった。
隆は思い切って、淵に入った。美智子さんのように泳ぎたかった。
足を浮かせたとたん、頭まで沈んだ。水を飲んでむせる隆を、子どもたちは笑ってみていた。美智子さんが隆を岸に上げ、背中を軽く叩いてくれた。
隆は再びチャレンジした。どういうわけか体が水に浮いた。手足を動かすと、前に進んだ。
「美智ちゃん。見とって」
隆は繰り返し、美智子さんの前に身を投げ出した。
「あんなことくらいで」
隆のあまりの喜びように、上級生には鼻で笑うものもいた。
その4
その夏、隆はひたすら水泳の練習をした。
美智子さんがいない方が練習に身が入った。上達したところを見せた時、美智子さんがどう反応するか楽しみだったのだ。
山の夏は行くのが早い。お盆が過ぎると、もう秋の気配が漂う。
渓の水は急に冷たく感じるようになる。子どもたちは淵から引き揚げ、怠っていた宿題を片付けて、二学期の準備に取りかかる。
麓の商店街へのお使いの帰り、隆は村の渓をまたぐ土橋に差し掛かった。狭い脇道に入ろうとする人影があった。美智子さんだった。
脇道は淵へと通じ、途中に水車小屋があった。
共同で管理され、樋で渓の水を引いて、水車を回している。大きな杵がゴットン・ゴットンと、のどかな音を立てていた。美智子さんは、搗きあがった米か何かを取りに行くものと思われた。
隆はしばらく考えにふけった。ついこの間までの夢のような時間が蘇って来た。隆は勇気を奮って、水車小屋への道をたどった。
入り口は中から、カンヌキがかかっていた。
上方の板壁のわずかな隙間から覗くと、美智子さんが立っていた。背中が見えた。
美智子さんはゆっくりした動作で身に着けたものを脱いでいった。
やがて、美智子さんの前にブリーフだけの男が現れた。美智子さんの同級生の茂だった。
隆はそっと水車小屋を離れ、夢中で家まで駆けた。
買い物をおばあちゃんの前に放り出し、布団をかぶって泣いた。
小一時間も経った頃、隆は起きて勉強机からノートを取り出した。そこには、美智子さんへの思いが綴られ、あちこちにズロースや水着姿の美智子さんが描かれていた。
隆はノートをズタズタに破り、ゴミ捨て場で火をつけた。
その5
隆はカッとなると手の付けられない子だった。
暴れたり悪さをしたりして父親に殴られるたびに、おばあちゃんがかばってくれた。今回もそうだった。
隆は家に戻ってからもさんざん叱られた。隆に反省の色が見えないと、終いには家から追い出された。
当てもなく、暗い夜道をさまよった。土橋のたもとに明かりが見えた。おばあちゃんが探しにきていた。
「どこ行っとったん。水車小屋にもおらん。美智子ちゃんのところに寄ったけんど、見てないって言うし」
隆は歩を止めた。おばあちゃんは何か感づいたようだった。
「美智子ちゃんとなんぞあったん」
隆は再び歩き出した。
「なんにもないよ」
隆は努めて平静を装った。
「そんなことより、ボクのお母ちゃん、きれいだったん」
「ああ、きれいだったよ。美智子ちゃん、だんだん似て来たみたいやなあ」
おばあちゃんはしんみりした口調になった。よちよち歩きの子を遺して、嫁が世を去ってから、かれこれ一二年近くになろうとしていた。
月夜だった。隆は懐中電灯を消した。月明かりが畑に長く、二人の影を引いていた。
