「◯◯したい」と「◯◯した」の間にある溝には、「知性」が住んでいる。
「◯◯をしたい」と「◯◯をした」は、一文字違いだ。しかしそこには、大きな溝がある。
前者は「思う」であり、後者は「行動」だ。「思う」は自然発生的なものだが、行動は意識的・主体的・能動的な行為だ。この差は、思った以上に大きい。
たとえば、「部屋を片づけたい」と思っている人は多い。しかし「部屋を片づけた」人は、その中の一部にすぎない。「感謝を伝えたい」と思っている人も多い。しかし「感謝を伝えた」人も、その中の一部にすぎない。なぜこの溝が生まれるのか。
「片づけたい」「感謝を伝えたい」と思うことは、誰でもできる。散らかった部屋を見て「これはマズいぞ」と感じる。お世話になった人を思い出して「伝えなきゃ」と感じる。それは、自然発生的な感情だ。問題は、その感情が行動を保証しないことにある。感情は往々にして薄れていくものだ。時間が経てば、危機感や感謝の念は薄れ、「まあいいか」「また今度」に変わる。
ここで登場するのが「知性」だ。
知性とは、知識量のことではない。あらゆる情報を勘案したうえで、考え続けることだ。「なぜ片づけたいのか」「片づけるメリットは」「何が障壁になっているのか」「どこから手をつけるか」「いつやるか」。「なぜ感謝を伝えたいのか」「どんな言葉で伝えるか」「今が適切なタイミングか」。こうした問いを立てつつ、自分なりに答えを出す。そのプロセス自体が知性の働きだ。
さらに言えば、行動には責任が伴う。部屋を片付けると決めたなら、時間とエネルギーを割かなければならない。感謝を伝えると決めたなら、自分の羞恥心のブロックを外し、相手の(いかなる)反応も受け入れる覚悟が必要だ。知性のある人は、この現実を行動する前に想像し、それでも踏み出す覚悟を決める。
しかし、ここで重要なことがある。「しなかった」を選ぶことも、また知性だということだ。
「今の自分には片付ける時間も体力もない。優先すべき別のことがある」と判断して片付けをしない。「今この場で感謝を伝えることは、相手にとっても自分にとっても適切ではない」と判断して伝えない。これは先延ばしや怠惰とは違う。情報を吟味し、TPOを考慮し、意識的に「しない」を選んでいるのだから。
問題なのは、無意識に「しない」状態に流されることや、短絡的に「思う→した」へと移行してしまうことだ。意識的な「する」「しない」と、無意識の「できない」「(気づいたら)していた」の間には、大きな差がある。
「したい」は出発点にすぎない。そこから知性を使い、「した」へと踏み出すのか、「しない」を意識的に選ぶのか。どちらの選択も、知性の働きによって生まれる。流されるのではなく、考えて選ぶ。その力こそが、人生の質を決めていく。
