
バレンボイムは振っていない
バレンボイムとアルゲリッチ——「演奏会」ではなく「歴史的な再会」を見届ける夜だった
DCH 2024年10月26日演奏会 所感
あのアレを「指揮している」と言えるのだろうか——。
最後のブラームス(交響曲第4番)が終わると、客席は総立ちとなり、大きな拍手に包まれた。しかし僕には、その光景がどこか生前葬のようにも映った。あまりに違和感が残ったので、終演後にいくつかの演奏評を読んでみた。すると、自分の印象は決して特異なものではなかったようだ。
「ごくわずかな身振り」とオーケストラの献身
評論家ウルリヒ・アムリングは、病気で体力の落ちたダニエル・バレンボイムに対し、ベルリン・フィルが「ごくわずかな身振り」に愛情をもって応えていたと記している。ブラームスでは、コンサートマスターのノア・ベンディックス=バルグリーがオーケストラをまとめ、演奏を支えていたとも評されていた。つまり、今回の公演は「指揮者がオーケストラを統率した」というより、「オーケストラが指揮者を支えながら演奏を成立させた」という色合いが濃かったように思う。通常の演奏会評ではあまり目にしない「コンマスが実質的に音楽をコーディネートしていた」「一貫した解釈は成立しなかった」といった指摘も見られ、僕が感じた「指揮者としての存在感の希薄さ」は、少なくとも一定の根拠を持つ印象だったようだ。
もちろん、ベルリン・フィルほどの楽団になれば、長年共演してきた巨匠との間では、リハーサルで十分に音楽を作り込み、本番は最小限のジェスチャーだけで成立させることも可能だろう。
だから「振っていない」ことと「何もしていない」ことは同義ではない。
それでも今回に限って言えば、演奏はオーケストラの自律性によって支えられていた部分が非常に大きかったように感じた。
舞台を救ったアルゲリッチ
一方、前半でマルタ・アルゲリッチが弾いたベートーヴェンのピアノ協奏曲は、まったく別世界だった。現地紙も「ホールの温度が変わった」「芸術的自由の奇跡」と絶賛しており、まさに彼女が舞台全体の空気を一変させたと言ってよい演奏だった。80歳を超えた今なお失われない生命力と自由さ。その存在があったからこそ、この公演の前半は音楽として確かな充実を保っていたのだと思う。
観客が拍手したもの
では、なぜ会場はあれほど熱狂したのか。
その理由は、演奏の完成度だけでは説明できない。
そこには、「病気から復帰したバレンボイム」と、「80歳を超えた二人の再共演」という物語があった。
開催前からメディアもこの再会を大きく取り上げ、観客も「名演を聴く」こと以上に、「もう一度この二人が同じ舞台に立つ姿を目撃する」ことを求めていたのだろう。晩年のジュリーニやハイティンク、ザンデルリングの公演でもそうだったように、クラシックの世界には、演奏の出来栄えを超えて、「もう一度この巨匠に会えた」という感謝だけでスタンディングオベーションが起こる瞬間がある。
Tagesspiegel紙がこの公演を「秋からの贈り物」と評したのも、演奏そのものではなく、「二人がそこに存在してくれた」という事実への感謝を表した言葉だったのだろう。
結論
僕にとって、この公演は音楽的な意味での名演奏会ではなかった。
しかし、「歴史的な音楽家たちとの最後の時間を共有する場」だったと考えれば、あの総立ちの拍手にも納得がいく。
会場には、どこか生前葬のような、あるいは長い年月を共に歩んできた仲間たちの同窓会のような、不思議な空気が流れていた。
その雰囲気を体感できたこと自体には価値があったのだろう、とは思う。
ただ、純粋に音楽だけを求めていた僕には、その価値を、最後まで共有することはできなかった。