
私が祖父の“視線”に気づいた日
私は18歳くらいまで、祖父とほぼ喋った記憶がなかった。
小平団地にある祖父母の家にはよく遊びに行っていたけれど、孫への対応を主にしていたのは常に祖母だ。
祖父母の家は小平の古い団地の七階にあった。そこに遊びに行くのが、私はとても好きだった。
ベランダに出ると、椅子が二つ。周囲に高い建物がないから富士山まで見える景色で、この特等席食べるミスタードーナツは普段よりもなぜか美味しかった。夏になると窓を全開にして、簾が揺れて涼しい風が入り込んだ。
遊びに行くといっても、祖父は基本自室にこもっている。当時彼は長年勤めた東映を退職し、フリーのカメラマンをしていて、現像にいそしんだり、パソコンをいじったり、気ままにクラシックを聞いていて、子どもに構ってはくれない。
そしてこの家には特別子どものためのおもちゃもなくて、仕方がないから、本棚の家庭画報や難しそうな文学全集をパラパラめくったりしていた。
そうそう、祖父からプレゼントやお年玉の類をもらったこともない。それらは全部、祖母が用意してくれていたから。
祖母の死後、そんな祖父が実家に転がり込んできた。
正直、18歳前後の私にとって、それまであまり絡んだ経験のない「家族」とどんな話をしていいかわからず、一緒に夕食を囲むのすら気まずかった。
当の祖父はというと、自分のしたい話を、酒を呑みながら一方的に話していた。映画がどうとか、作家がどうとか、文学や映画に興味の薄かった私にとっては、「ふーん」としか思えない話だ。
とはいえ、この「気まずい同居生活」のおかげで、私が実家を出てからも、定期的に文通したり、酒を飲みに出かけたりする仲になれたと思う。
今月、祖父は97歳で亡くなった。
長く闘病することもなく、ギリギリまで酒を飲み、ポックリ死んだ。あっけなかった。なんだか、この男なら120年くらい生きるのではと思う生命力があったから。
最近、転居を機に、自分自身の幼少期のアルバムを見返す機会があった。
「あ、この写真いいな」と思うものは、ぜんぶ祖父が撮った作品だった。
私は「祖父と幼少期ほとんど喋った記憶がない」と認識していて、それは本当かもしれない。
でも、その代わりに彼は、レンズ越しに私のことをずっと見つめくれていたみたいだ。
