
体が止めてくれる|役に立つことで生き延びてきた私へ
あ、やっちゃった……
目が覚めると、首を痛めているのがわかった。
起き上がれない。
昨日、無理をすることがあった。
したかったわけではないし、無理をしないようにする練習、いわば命を守るトレーニングをここ数年本腰入れてしてきたのだけど。
咄嗟の場面で動くのは「意識」より先に、「体」だ。
意識は1秒で変わるけど、骨に、肉に刻まれている記憶や習性は、全てが生まれ変わるまでには時間がかかる。
だから体は「慣れた動き=安全」を繰り返そうとする。
子どもの頃から、相手の感情がなぜか理解できた。状況が、場の複数の人間の力学が、理解できた。
理解できるから、やってしまう。こう声をかけたら、こう動いたら、相手は助かるだろうなと。
そして、喜ばれたり感謝されたりして、定着していった。
「役に立っている限りは、排除されない」という生存戦略を身につけてしまったのだと思う。
それが自分の心地よさを超えなければいいのだが、慣れていない場では、きっとそれが自分を守る手段として過剰に働いてしまう。
相手を理解して動くことが自分の安心や安全を上回ってしまっているときがある。
数年前から、私の体はそれを許さなくなった。
明らかな形で、猛抗議してくるようになったのだ。
一番激しかったのは呼吸もできないほどのギックリ背中だ。
これは筋痙攣みたいなものだと思うが、息をして肺が膨らむだけで、また背中が攣りそうになる。
横になることも突っ伏することもできなくて、寝られなかった。
地獄の痛みだった。
その前日に、本当にはっきりと「もうこんなこと私がやることじゃない! やりたくない!」と心で叫んだことを覚えている。
次の日、「こんなこと」を実際にやらなくていいように、私の体は私を強制的に動けないようにした。
その頃から「嫌だな、でも責任があるから」と無理をすると、次の日、背中か首がロックされるようになった。
痛くて、日常動作がしにくくなる。
寝ているしかないような状態。
客観的に見たら、疲労や寝不足、季節の変わり目の気温差など、物理的な原因が重なっていると思う。
でも、本人の感覚では
「そっちは違う。とまれ」
と、自分からなかば叱られるような感覚を受け取る。
「やっぱり、よね。ごめん」と。
相手を理解するのはいい。削れない範囲で循環し合うのもいい。
でも、自分が偏って削れてしまうこと、本来の線引きを超えて無理をしてしまうこと、これをもう最近の私は自動強制終了させてしまうようになった。
それだけ、我慢させて根性で乗り切らせてしまったことが多かったから。
自分の体と、尊厳は、自分で守ってあげないといけない。
これだけは、本を読んでも、セミナーを受けても、それだけでは変わらない。
自分の体をそう動かして、積み重ねていくしかないのだ。
ティッシュの一枚くらい。少しずつ、一歩ずつ。
それも体は、ちゃんとわかってくれる。