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神性の喪倱の喪倱ずしおの珟代

     珟代の䜜家が曞いたものを読むずこれを曞いたずしお、だからなんなのだろうず思う事がよくあった。もちろん、その䜜家にしおみれば、それが「曞きたい事」だったり「創䜜意欲が湧いた」ずか「賞が欲しいから」ずか、色々あるだろう。だが、私が聞きたいのは『それ』ではない。だが『それ』ではない、ず蚀った瞬間に、私は孀立の状態に萜ち蟌んだ。それ以䞊に突っ蟌んで考えようずする人は少数で、呚囲にはそんな人は芋圓たらなかったからだ。

     

     自分の䜜品に自信がない堎合、他人の評䟡に䟝るしかない。倚くの人が評䟡しおくれおいるずか、沢山売れたずか、賞を取ったずかいう事が、䞖間では䜜品の䟡倀を決めるものだず認められおいる。もし、自分が自分の䜜品にはっきり意味を䞎えられない堎合は、他人の䟡倀刀断に頌る事になる。自分で自分の䜜品を察象化しお「䜕であるか」を決められないのなら、「䜕であるか」を決めるのは他人だ。

     

     だが、他人ずは結局は、自信のない自分ず同じような人達でしかない。他人達も確固ずした基準を持っおいるわけではない。他人達は、日垞感芚に近い、「わかりやすくお面癜いもの」を求める。他人達は高い䟡倀を、冷静な識芋で刀断するのではなく、自分に近い、心地よいものを探す。そうなるず䜜品は、次第に日垞に近づいおいく。ナヌチュヌバヌのようなものは、日垞そのものだ。日垞そのものが、芖聎され、䜓感されお、倧勢に共有される。そうしたものが肯定される。

     

     そこには動きずいうものがない。認識が動かない。倚くの人間は、優れた認識を持ずうず努力しおいるわけではなく、自分にずっお心地よいものを求めおいる。圌らにずっおは心地よいものだけが「䟡倀あるもの」だ。

     

     こうしお䜜品ず呌ばれるものは党䜓に共有されるが、それは緩やかに所有されるずいうようなもので、みんなの手が届かない䟡倀があるものではない。 ずいうより、そもそも、䟡倀ずはどのようなものか、ずいうのがたるでわからなくなっおいる。わからないから、他人達に䜜品の䟡倀決定は委ねられた。それは我々の日垞感芚の延長に留たり、そのたわりをぐるぐるず旋回し続ける。

     䟡倀芳がないずいう事態は色々な滑皜な状況を生む。ずある䜜家が「小説は自由だ」ず蚀っお、奜き勝手に曞いお、それが「文孊」だず信じおいた。これはそもそも䟡倀芳が喪倱された状態なのだが、喪倱されたずいう事さえ喪倱されおいるので、ただ無邪気に暎れたわる事に意味があるような気がしおいるだけだ。無秩序が極たるず、それが無秩序ずいう事もわからなくなる。

     

     ノヌレン・ガヌツの『ニヒリズムずテクノロゞヌ』ずいう本を読んで非垞に面癜かったが、その䞭に次のような文がある。

     

     「『神は死んだ』ずは、文字どおり神を殺したずか、宗教の終わりを意味するものではなく、神が意味するものが死んだずいう意味である。神はもはや神の圹割を果たさなくなった。しかしそれは科孊が勝ったからではなく、ニヒリズムが勝ったからだ。ニヒリズムヌヌ䟡倀、意味、願望の培底的拒吊ヌヌは、人を、神に぀いおの䟡倀、意味、願望を拒吊する方向に導いおきた。」

     

     「神は死んだ。なぜなら、神はもはや私たちの満足する答えを出しおれないからである。『神』はあたりにも長く、あらゆる『䜕のために』にも答えを出しおくれるものずしお語られおきた。」

     

     芁するに、神ずいう絶察的な䟡倀芳が消倱しお、ニヒリズムが珟れた。ニヒリズムずは䟡倀芳の喪倱である。最初に私が蚀ったのは、この䟡倀芳喪倱の状態である。

     

     こうした状態は、普通のものずしおある。今やニヒリズムが基本ですらあるので、䟡倀芳が喪倱しおいるずいうその意味すらわからなくなった。私が珟代のあれこれに感じるように、珟代においおは「䜕のために」ずいう問いは根底的には犁じられおいる。経枈成長は「䜕のためにあるか」ず蚀われれば、暗黙裡にそれは問うおはならないずいう圧力をかけられる。

     

     ずいうのは、神が死んだこの䞖界においお、我々䞻䜓が絶察ずなったのであっお、この䞻䜓を喜ばせ、心地よくしおくれるものなら䜕でも「いい」ものだずされおいるからである。この䞻䜓そのものは、䞻䜓が絶察化された事によっお、芋えないものずなった。䞻䜓は䞍可芖になった。

     

     今は哲孊や文孊は人気がない。哲孊者、文孊者を名乗る人間がたるきり、哲孊も文孊も知らない、単なる雑孊ずしおの哲孊や文孊を玹介する人間でしかないパタヌンも倚い。䜕故こうなったのだろうか 私の答えは、哲孊や文孊のようなものは䞻䜓それ自䜓を俎䞊に䞊げるものであるからだず思う。絶察化された䞻䜓を、察象化しお取り䞊げられる事には拒吊反応がある。簡単に蚀えば、哲孊や文孊をやる人間は「根暗」で「気持ち悪い」ずみなされるずいう事だ。この時、「暗い」ずいう蚀葉の意味は自己を芋るずいう事である。人は倖を芋おいる時は明るく、自己を芋぀める時は暗いずされる。

     

     自己の察象化には拒吊反応が起こる。それに比べお、科孊は尊いものずされる。これは自己を察象化せず、自己の倖に無限に出おいく。絶察化された䞻䜓は、䞻䜓に取っお良いものを科孊は芋぀け出しおくれるだろうず期埅しお埅っおいる。科孊はどんどん倖に出おいく。ミクロの領域ぞ、マクロの領域ぞ、地球の倖偎ぞ、月ぞ、火星ぞ。様々な「倖」に科孊は出おいく。そうしおそこで埗られたものは䞻䜓にずっお圹立぀ものずしお戻っおきおくれるだろう、ず予枬されおいる。だから、科孊は人気が高い。科孊は自己を芋぀めるずいう暗い行為をしないからだ。

     

     䞻䜓ずいうのがブラックボックスずなっお、芋えないものずなり、絶察化されおいる。それを芗き蟌むのはタブヌである。ここには䟡倀芳の喪倱があるのだが、それは、䞻䜓にずっお良いものは良い、ずいう䟡倀芳が、神の存圚に取っお代わられたずいう意味である。䞻䜓にずっお良いものは良い、ずいうのは立掟な䟡倀芳ではないか、ず人は蚀うだろう。しかし、䞻䜓そのものは、䜕であるべきか、人間ずはどのように生きなければならないか、ずいう䞻䜓そのもの、蚀い換えれば、人間はいかに生きるべきかずいう䟡倀芳がここでは根本的に喪倱されおいるのである。

     

     人間が、人間の倖に絶察的な存圚神を求めるのをやめた日から、人間が神の座に昇った。そこで人間は途方に暮れた。次に䜕をすればいいかわからなくなった。人間は、「䜕をすべきか」、人間ずは「䜕であるか」を考えるのをやめた。ただ、自分達にずっお心地よいものだけを远求する事にした。人生の党䜓が䜕であるかを決定づけるずいう仕事は、もうやらなくおも良い。ただできる限り死を先延ばしにしお、人生を楜しむ事。それを人々は自分達の哲孊ずした。正確には、非哲孊ずしおの哲孊ずした。

     

     ※

     

     ここで䞀床、過去に戻っお、近代文孊ずは䜕だったかに぀いおおさらいしおおこう。それが珟代はどういう時代かをわかりやすくしおくれるだろう。

     

     近代文孊は䜕より、神の喪倱ずいう圢ずしお珟れた。神の喪倱ずはニヒリズムであり、䟡倀芳の喪倱である。しかし、近代文孊には喪倱を喪倱ず感じられる感受性があった。それが近代文孊の本質を圢䜜っおいた。近代以前の、神が存圚しおいた時代においおは、「䜕のために生きるべきか」ずいった問いは、問われる必芁がなかった。そこでは生の実存を問う必芁はなかった。人間の生は神の手の内に収たっおいた。そこでは、生そのものを問う必芁はなかった。

     

     神の凋萜が目に芋えお、生ずは䜕かを問わなければならくなった。始めは、ニヒリズムの発露ずしおの、自己の欲望に沿った生のあり方は批刀的に眺められおいたが、やがお肯定的に芋られるようになる。こうしお近代は珟代ぞず移り倉わっおいく。

     

     「クレヌノの奥方」「マノン・レスコヌ」ずいった小説は、近代初期の傑䜜だ。二぀ずも恋愛小説だが、恋愛ずいうのは批刀的に䜜者に眺められおいる。そこでは欲望の充足は良いもの、玠晎らしいものではなく、人間を砎滅に導く間違ったものずしお芋られおいる。特に「マノン・レスコヌ」では、恋愛は明らかに嘲笑的に描かれおいる。「恋愛なんかにはたるからこんな目に遭うんだ」ずいった調子である。それにも関わらず「マノン・レスコヌ」は恋愛にた぀わる喜びず苊悩を培底的に描いおいる。このあたりにこの䜜品が傑䜜ずしお芋られる理由があるのだろう。

     

     ルネ・ゞラヌル「欲望の珟象孊」の第二章のタむトルは『人間はお互いにずっお神である』ずなっおいる。どうしお人間にずっお互いは神なのかず蚀えば、神が喪倱された埌も尚、人間は神性を、他者、぀たり他の人間に求めたからだ。

     

     神が消えたずしおも、神に該圓するような超越性を探し求める癖は人間の内に存圚したたただ。だから、超越性は他者に求められる事になった。人間は、他の人間に超越性を付䞎しようずする。こうしお『人間はお互いにずっお神』ずなった。

     

     近代文孊は、砎滅に至る恋愛を描く話が非垞に倚い。恋愛ずいうのは、異性の盞手に神性を付䞎しようずする行為だず、この文章䞊では考えおみたい。それは、倱われた神性を、互いの人間に求めようずする行為である。だが、人間は遂に神ではない。だから、恋愛は挫折せざるを埗ない。人間は決しお神になれない。どんな矎しい女も女神ではない。男の欲望をどれだけ聖なるものだず考えおみおも、最埌には肉欲に堕しおしたう。人間は神ではない。最埌には挫折、砎滅が埅っおいる。

     

     近代文孊の偉倧な恋愛小説、䟋えば挱石の「こころ」ずかフロヌベヌルの「ボノァリヌ倫人」はそうした䜜品だったず私は思っおいる。そこには、高い理想を求めお挫折する個人が存圚する。人間が遂に自分の利己性に気づかざるを埗ない悲しみがある。そこでは、远われおいる理想が、肉欲ずしおの恋愛の背埌にある。だからこそ、ああした䜜品は傑䜜なのだろう。

     

     䞀方で、珟代に目を向けるず、そこではもはや理想は䞀䜓どういうものかわからなくなっおいる。神が喪倱され、絶察的な䟡倀芳は消えおしたった。そしお、それが消えおしたった事さえも忘れられおしたったので、恋愛はただ男女の気たぐれな結び぀きや離散になっおしたった。人間の背埌に神性を求める運動は終わっおしたい、存圚するのはただ俗な人間関係だけだ。珟代の䜜家の描く恋愛小説が倚く、近代の傑䜜に届かないのはそうした事情があるように思われる。描かれおいる事象は同じだが、背景の理解がたるで違うのである。

     

     ※

     

     敎理しよう。近代以前は、そもそも「いかに生きるべきか」ず考える必芁のない時代だった。神が来䞖や圌岞に鎮座しおいお、歀岞ずしおの我々に意味を攟射しおいた。生きる意味はそこで担保されおいた。それを信じる事が普通だった。だから生きる事に぀いお考える必芁はなかった。答えは既に出おいたからだ。

     

     近代になっお、亀裂が入る。近代は神の凋萜期であり、過枡期である。近代においお、人は、空っぜの実存の宇宙に攟り出される事になった。凍える宇宙の䞭の孀独な人類ヌヌそうしたむメヌゞ、リアリズムからむメヌゞから来るむメヌゞが、人間を厳寒の孀独に眮く事になった。パスカルは早くもそうした䞖界に気づいおいた。

     

     神の手に抱かれた、必然的な䞖界ではなく、䞖界は寒い、孀独な堎所であり、神は存圚しおおらず、惑星系は地球を䞭心に回っおいるわけではない 。地球はただ倪陜のたわりをぐるぐる回っおいる䞀惑星に過ぎない。誰しもが自分は「特別だ」ずいう錯誀から人生のスタヌトを切る。成長するに䌎っお、自分は特別でもなんでもなく、ただ他人ず同じように生きおは死ぬ個䜓だず感じられおいく。同じように、地球も人類も、どうやら神に守られおいるわけではないらしい。我々は実存の宇宙に突入しおいく。人間は裞で宇宙の䞭で孀立しおいく。信じられるものはもはや存圚しおいない。

     

     近代においおは、ただこうした倱墜のむメヌゞが存圚しおいた。だが同時に近代は、向䞊の時代でもある。生産性が向䞊し、人間は豊かになっおいく。人間には「人暩」があるずされ、「我思う故に我あり」や「神の芋えざる手」ずいった抂念が、向䞊しおいく䞖界を支える抂念ずなった。人間は豊かになり、次第に生掻そのものに倧きな意味が付䞎されおいく。神の暩利を奪い取り、自分達のものずする戊いは、人間の勝利に終わった。

     

     だが党おが終わったわけではない。結局の所、人間が神に求めおいた神性、超越性は果たしおどうなったか 近代においおは、倱われた超越性を、別の堎所に探し求める詊みがされおいた。ヘヌゲルの哲孊は超越性を瀟䌚に、歎史的進歩に求めおいる。ニヌチェはそれを個人の䞭に探し求めた。ヘヌゲルずニヌチェは䌌おいないが、倱われた超越性を、神ずは違う堎所に探し求める行為ずしおは同䞀な詊みず芋られるだろう。だがそのいずれも、神に倉わる宗教ずはならなかった。超越性を探し求める行為そのものは未だに続いおいる。

     

     未だ続いおいる  ず今、私は曞いたばかりだが、それはしかし、ほずんど死にかけおいる行為ずなっおいる。我々の䞖界にはもうヘヌゲルもニヌチェもいない。小説はただ俗な生掻を写し取るものずなった。映画も同様であり、それであれば、人間の俗な欲望を昇華する゚ンタヌテむンメントの方が人々には喜ばれる。芞術は死にかけおおり、゚ンタヌテむンメントが繁栄を極めおいる。

     

     珟代の䞖界を芋おみよう。どこにも俗なものしかない。「どい぀もこい぀も通俗小説しか曞いおねえじゃねえか」ず小林秀雄は啖呵を切ったが、それは今の䞖界にもそのたた通甚する。どうしおこうなったかず蚀えば、神性を求める行為が攟棄されたずいう事だ。神性を求める行為は銬鹿らしく、非珟実的なので、俗なものの極限、俗なものそのものを神的なものず考える他ない。こうしお我々の珟代が圢䜜られおいく。

     

     我々の䞖界においお、生には䜕の意味があるのか、ず問う事はできない。それよりも生を豊かにする無限の遞択肢が提瀺され、努力次第でそれを手に取れるずされおいる。それは可胜かもしれないが、その可胜性の先に「䜕があるか」ず問う事はできない。

     

     超越性は最初、神ずいう圢で人間に珟れた。それが生の意味を圢䜜っおいた。近代においお神が厩萜し、神性を探し求める行為が行われた。だがそれは、今の我々には絶察的なものには芋えなくなっおいる。そうしお珟代がやっおきた。珟代においおはそもそも神性ずいうものが䜕を意味するのかよくわからなくなったし、時折、目芚めた人間がそれを求めようずしたら、たわりの人間がやっおきお「そんな事はやめろ」ず忠告する。そうしお珟代の瀟䌚が䞎えおくれる様々な麻痺剀を䜿っお、自分達の粟神を匛緩させおおく。目芚めお、生きる意味を求めたり、自分達が䜕の意味もない宇宙に孀独でいるず気づかせない為に、我々は努力をするここには深い自己欺瞞がある。

     

     我々の努力ずは䜕か それは瞬間を氞遠に倉え、日垞を至高のものずする、ずいうものだ。くだらない配信をしおいる人間でも、倚数の人間が支持すれば、意矩深いものずなる。圌は「結果を出しお」いるし、「倚くの人を喜ばせおいるから」いい、ずいうわけだ。こうしお、珟代においおは、普遍的なもの、偉倧なものを探し求める行為は排陀される。その代わりに、人間䞻䜓が自分達を肯定し続ける空間が構成される。䞻䜓そのものが䜕であるのかは問われない。䞻䜓が䜕であるべきか、ずいう䟡倀芳は構成されない。構成されるのは「䞻䜓にずっお䜕が良いのか」だ。

     

     だから、この䞖界は完党なニヒリズムの䞖界だず蚀えるだろう。䞖界はニヒリズムだ、ず蚀えば人々はそれを拒吊するだろう。「私は自分を肯定しおいる」「私はポゞティブに頑匵っおいる」等々 。もちろん、それはニヒリズムがあたりにも浞透しすぎた為に、それを意識できなくなっおいる状態なのだ。ニヒリズムが極限を越えるず、かえっおポゞティブになる。我々の前向き、ポゞティブはそういうものである。぀たり、この䞖界は神が死んだ䞖界であり、曎には神が死んだずいう意識すら死んだ䞖界である。そういう荒野が今の䞖界であり、この䞖界においおはかえっお党おが掻性化され、楜しいものに芋えおくる。

     

     ドスト゚フスキヌのような䜜家は、自我に取り憑かれた人間の砎滅を描いお、その裏偎にある、人間の自我を越えたものを指し瀺そうずした。だが、珟圚の我々はドスト゚フスキヌが語ろうずする所よりも、圌が語った郚分に察する共感、぀たり自我に取り憑かれた登堎人物に共感する事に、その䜜品の傑䜜たる所以を芋出そうずするだろう。

     

     「ドスト゚フスキヌは面癜い」。それは぀たり、我々がドスト゚フスキヌが吊定せんずした圓のものである、ずいう事だ。しかしこのような逆説的な方法も、それが䜕かわからなくなるほどにニヒリズムは進捗したのである。誰しもが悪霊に取り憑かれたので「悪霊」ずいう䜜品のテヌマは、党く䞍可解なものになっおしたった。

     

     こうした䞖界においお、神の代わりを探すのは難しい。それに個人の発案でそれがどうにかなるずも思えない。喪倱さえも喪倱されたので、我々には䞖界がフラットに芋えるようになった。歎史を根こそぎ砎壊したので、䞖界は平面で構成されおいるように芋える。それはあらゆるものに絚毯爆撃を行ったからで、我々はその砎壊すら忘れた。

     

     我々がいるのはそういう䞖界だずいう認識を持぀のが倧切だず、私は考えおいる。それに察する凊方箋を案出する気は今の私にはない。たず認識する事が倧切であるし、凊方箋、぀たりポゞティブな蚀葉は、語っおしたえば嘘になるものだし、それに぀いお口を噀みたい。ずにかく、私の珟状の䞖界認識はこんなものだずいう話である。

     

     

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