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『雨と海の底で愛して』 第17篇  crossing

    「あかり、あの夜のことを、もう少し話すよ。」

    ヨミチの腕から離れても、背中にはまだ彼の手のひらの感触が残っていた。シャツの布地に吸い取られなかった温度が、皮膚の下に薄く沈んでいる。私たちは座り直し、改めて向き合った。乱れてしまった髪を耳にかける。泣いたあとの頬は熱を持っているのに、指先だけが冷たかった。ヨミチは、カウンターに置いた私の右手に、自分の左手をそっと重ねた。彼の手は不思議なくらい、一定の温かさを保っていた。

    「あの日、実は、君はほとんど口を開いていない。ただ孤独が嫌いだとか、だからお酒が好きなんだ、とか、そういうふうに言って、君は自分の話をしなかったんだよ。」

    ヨミチは、私の手に触れたまま続けた。

    「その代わり、ボクの話をたくさん聞いて、頷いてくれたり、笑ってくれた。誰かに向かってあんなにボク自身の話をしたのは、初めてだった。」

    静かな声だった。けれど一つひとつの言葉が、最初から並べられる場所を知っていたかのように、淀みなく発せられていく。小さなヴォリュームだけれど、ついさっきまで気づかなかった美しい旋律が私たちを包むみたいな声。

    「それで、思い切って取引の話をしたとき、君に言われたんだ。手放したい記憶を買ってくれないか、って。普段はもちろん、記憶の内容についてお互いに確認して、双方合意の上で取引をする。いずれにせよ、合意したところで、取引が成立するかどうかのジャッジメントは第三者が下すんだ。取引したくたって、できない場合もあり得る。あのときボクは、君が手放したい記憶がどんなものなのか、確認しなかった。確認しなくてもいい、というより、その必要がないと思った。とにかく君の願いを叶えたい、そう思った。なんていうのかな、『ボクの使命』というべきものを、すごく感じたんだ。」

    ヨミチのその言葉は、きっと祈りに似たものだった。誰かに与えられた役割ではなく、彼自身が選び取ったもののように。そして、ヨミチに渡したその記憶は、彼と会ったその夜のものだけではない。もうひとつ、あるのだと思った。それは確信に近い。雨の日の記憶。九月の、私がどうしても手放したかった記憶。それが何であるのか、私はまだ思い出せずにいる。それは今、暗い水の底で、ぼんやりとしている。

    ヨミチは、私の手に温かい手を重ねたまま続けた。

    「君はあのとき、次はあなたの記憶を買う、そう言ってくれた。」

    彼はそこで、初めて小さく息をついた。人は話しているあいだ、こんなにも瞬きをしないものだろうか。そう思った直後、ヨミチはゆっくりと瞼を閉じた。そして目を開いて、遠くを見つめて言った。

    「ボクの記憶を買うと言ってくれたのは、実は……君が、あかりが、初めてなんだよ。」

    重ねられた手に、わずかに力がこもる。

    「そして、誰かの記憶を受け取るということに対して、ボクの意思で使命を感じたのも、初めてだった。」

    ヨミチは、ボクの意思で、と、とても気持ちを込めて言った。ヨミチの手の下で、私の脈が速くなる。

    「……でも、どうして君が、取引の内容に、あの夜のことを含めたのか、ボクにはわからない。正直、ショックだった。ボクと会ったことまで手放したいと思ったのかもしれない、と考えたから。でも、今こうやって再会できている。それがボクは、とても嬉しい。」

    わずかに、声の均衡が崩れた。ヨミチの声は、私の中で共振していた。誰にも触れられなかった場所へ、その音だけが入り込む。

    「ごめんなさい。私も、そのときの判断がよくわからないの。でも……どうしてヨミチが、そんなに私を救おうとしてくれたのかなって。」

    ヨミチは黙って私を見ている。

    「あなたが、会って間もない人にそこまでするのって、いったいどうしてなんだろう。」

    するとヨミチは、ほんの少し眉を寄せてきっぱりと答えた。

    「時間は関係ないよ。時間なんていうのは、誰かが勝手に決めたリズムにすぎない。ボクとあかりのリズムが、ほかの誰かに勝手に決められたリズムと合わなかったって、構わないんだ。」

    彼は、今度は真っ直ぐに、私の目を見た。

    「それにボクは、君の目を見て感じた。君を見た瞬間、ボクの中で何かが動いたんだ。」

    ヨミチの瞳の中に、薄暗い光が二つ映る。けれどその奥には、光も届かない静かな場所があった。誰にも触れられない、神聖な場所のような。

    「だから、時間は関係ない。ボクが君を見つけたことと、君がボクを見つけたこと。それで、じゅうぶんなんだ。」

    今度は。彼の視線が私の目の奥で交差して、心臓が高鳴った。ヨミチの手は変わらず温かく、私の脈だけを静かに受け止めている。壁の時計からかすかな音がして、長針と短針が、一本の線になった。午前零時、終わりと始まりが刻まれている。

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    #創作大賞2026 #ファンタジー小説部門

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