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『雨と海の底で愛して』 第22篇  chat

    十月に入ると、朝晩の風は日に日に秋らしさを増していった。街路樹の葉はまだ本格的に色づいてはいない。それでも、風が吹くたび乾いた音を立て、夏がとうに立ち去ったことを知らせている。ショーウィンドウには黒や紫、橙色の飾りが目立つようになり、菓子店の棚には南瓜や栗を使ったものが並んでいた。

    BAR雫の扉を開けると、外気に冷やされていた頬を、室内の柔らかな温度が撫でた。

    カウンターの中央には、深い葡萄色のダリアが飾られていた。手のひらよりも大きく開いた花弁が幾重にも重なり、照明の下でベルベットのような影を作っている。傍らには細い穂を伸ばした吾亦紅が添えられていた。まるで、華やかなダリアの周囲に、小さな惑星が散っているみたいに。

    「アカリ様が明るい色のお飲み物、というのも、何か新鮮な感じがいたします。」

    岩崎はそう言って、私の前にミモザを置いて、カウンターの端っこに位置した。そして相変わらずグラスを磨きながら、空気のみたいに過ごしている。ミモザは細長いグラスの中で、オレンジ色の泡が細かな列を作り、まっすぐ水面へ昇っていく。口元へ運ぶ前から、柑橘の匂いが微かに届いた。

    ふと、岩崎みたいになりたい、と思う。使命を受けた場所で、誰かの望みを確実に叶える人だ。穏やかに、静かに。

    扉についた鈴が、澄んだ音を立てた。冷たい夜気がわずかに入り込み、ダリアの細い葉を揺らす。

    「ごめん、遅れてしまったよ。」

    ヨミチがBAR雫へやってきた。黒いコートの肩には、外の空気がまだ残っているようだった。彼は私を見つけると、安心したように目元を緩めた。先日の月曜日、私はヨミチに電話をかけた。会いたい、と素直に伝えた。口に出してしまえば、呆気ないほど短い言葉だった。けれど、何より、自分の意思で、自分が好きなタイミングに彼の声を聞けたことが嬉しかった。誰かから与えられるのを待つのではなく、自分で選び、自分が求めたことに。

    「この間は連絡ありがとう。あかりからの電話、嬉しかったよ。」

    彼はコートを預け、私の隣へ腰を下ろした。ヨミチの言葉はいつも優しい。そしてそれが、心からの言葉だということに、私は安心してしまう。

    「ごめんなさい、急に。約束していたのに、つい……」

    「それが嬉しいよ。本当に。」

    彼は私の手元に目を落とし、少し驚いた顔をした。

    「まさか、ミモザを飲んでいるの?」

    「そんなに意外?」

    「少しね。あかりには、もっと夜みたいな色の酒が似合うと思っていたよ。」

    意外だ、とヨミチは笑い、私もつられて笑った。岩崎が完璧なタイミングで彼のグラスを運んでくる。淡い金色の液体に、大きな氷がひとつ沈んでいた。そして私たちは、何かを祝うようにグラスを重ねた。

    「あかり、よかったら、今度は違うものを飲もう。好みはあるのかな。」

    「赤ワイン。重めのものが好き。」

    「偶然だな、ボクもだよ。」

    ヨミチはからかうように言って、また笑った。目の前のその人とのささやかな時間は、私を幸福にする。デイヴとは、私が「降伏」していた時間だった、と嫌味のように思い返す。あの人といるとき、私はいつも自分の一部を差し出していた。時間も、都合も、未来も。相手に合わせることを愛だと思い、傷つかないふりをすることを大人だと思っていた。

    葡萄色のダリヤに見張られながら、黄色いミモザを舌に転がす。酔いが回らぬうちに話したいことを話さなくては、と私はかしこまってヨミチの方を向いた。実はちょっとお願いがあって、と言うと、彼はグラスを置いてまっすぐ私を見た。

    「できれば、ヨミチの名前を呼びたいの。ヨミチじゃなくて……道也、そのままで呼ばせてもらってもいいかな。」

    「ボクがそれを拒む理由なんてないよ。名前を呼んでもらえるほど嬉しいことはない。」

    彼自身を受けとめるのに、名前はちゃんと呼びたかった。

    時間は、ふたりのリズムで刻まれる。出会って僅かな間に、ずっと前から知っていたような深い感覚に落ちることがある。でも、何年、何十年一緒にいても、ついに触れられない場所を抱えたまま終わる関係もある。そういうことを最近、「実感」できるようになった。

    やがて道也は、小さな声で口を開いた。

    「一般論として……だけど、あかりは結婚についてどう思う?」

    あまりに唐突で、飲みかけたミモザを勢いよく飲み込んでしまった。喉の奥で泡が弾け、私は小さく咳き込む。

    「どうして急にまた……」

    「一般論だよ。」

    道也はグラスの中の氷を眺めたまま言った。

    「先に答えておくと、ボクに結婚願望というものはない。」

    ない、と断言する道也には、驚きもない。
    自分の思ったことを鮮やかなまでに表現するのが、彼の最大の良さなのだ。

    「結婚ね……考えたことはあった。結婚するかどうかは、相手に寄るのかな、と思うよ。」

    「相手に寄る、か。」

    道也は言葉を確かめるように繰り返した。グラスの氷が、からりと乾いた音を立てる。

    「ボクが思うに、例えば、そうだな。特に最近のテクノロジーの変化は目を見張る。何せ、記憶だって売買できる世の中になったんだ。人はハードマネーより、ソフトマネーを好むようになって、何より、テクノロジーを手に、なんでもできるようになっている。」

    いつになく早い口調だった。

    「なのに、長い間、制度は変わらないんだ。特定の人が、その人たちの都合で作ったもの。結婚もそのひとつだと思う。愛は常に変化する。与える愛も、与えられる愛も。永遠に誓えるものでないことくらい、わかっているのに、ね。」

    道也が持論を展開することには慣れてきていた。それでも今夜の彼には、珍しく熱が入っている。誰かへ訴えているというより、自分自身へ言い聞かせているようにも見えた。

    「道也が言わんとすることは分かるよ。愛とテクノロジーは比べようがないけれど。」

    私は慎重に言葉を選んだ。

    「結婚には、私も疑問はある。制度というのが前面に出てしまうから。相手の何もかもを独占する権利なんて、要らないもの。好きに生きればいいと思う。」

    カウンターの奥で、岩崎が新しいグラスを棚へ戻している。薄いガラス同士が微かにカチンと触れ合う音が響いた。

    「でも結局ね、それも今は女の人だって、誰だって働ける時代になったから言えることで、世の中のほうがついていけてないのかなって。」

    「ついていけていない?」

    「結婚が職業として大切だったり、それが機能していた時代もある。もしかしたら、いまだにそうなのかも。家、というか、家系……なのかな。積み上げたものを壊したくない人が社会を作ってると、そういう人たちには『制度』が大切なんじゃない?」

    話しながら、私は自信満々に咲き誇る大きなダリアへ目をやった。幾重にも重なった花弁は、中心へ近づくほど固く閉じている。外側はあれほど華やかに開いているのに、奥には決して見せない部分がある。

    ふと、道也の表情が曇っていることに気づいた。

    眉間へ薄い影が落ちている。右手の指先が、こめかみに触れた。

    「道也、ひょっとして何かあった? 私でよければ話して。」

    彼はすぐには答えなかった。

    店内に流れるショパンの音色だけが、沈黙の形を整えていく。

    「わからない。」

    やがて道也は、押し出すように言った。

    「最近、よく頭痛がするんだ。」

    彼のグラスは、いつの間にか空になっていた。

    心配になり、私は今更ながら、あることを思い出した。

    「道也、次は私があなたの記憶を買う、そう言ったのよね?」

    「そうだね。」

    彼の視線が、空のグラスへ落ちる。

    「でも……忘れていいんだ。そう言ってくれただけで、ボクは君に救われているから。」

    「私の口座に入っている額面で購入できる取引分、でもいいのかな。あなたの記憶を買うって言っても、限界がありそうだし。」

    少し笑ってみせる。

    「何せあなたは図書館……だもんね。」

    道也も微笑んだ。

    けれど、その笑みはいつもより僅かに遅れて現れた。

    「ありがとう。気持ちだけで十分だよ。」

    彼は丁重に断り、今夜はもう一杯だけにしよう、と岩崎へお代わりの合図を送った。

    私たちはその日、次に会う約束をしなかった。

    約束しなくてもまた会える、そんな気がしたし、私にはその気持ちが起こることだけでもう、十分満足だった。

    バーを出る前、ダリアが私にそっと手を振ったような気がした。その葡萄色の花は影を深く、暗がりに沈んだ。

    そのときの私はまだ、道也の中で起こり始めている変化に、気づけずにいたのだ。

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    #創作大賞2026 #ファンタジー小説部門

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