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白 髪 幻 譚

    第一話 花と灰

    一 棺の中の微笑み

    あらすじ
    末期がんで余命わずかの祖母・八重を看取るため、福岡に戻った愛理。
    見舞いに訪れた日、祖母のそばには美しい青年・ハクがいた。
    彼は一定の条件を満たした女性の残された寿命と引き換えることで、短期間だがその女性を若返らせる不思議な力を持つ。
    ただし若さを保つには、ある秘めやかな契りを結ぶことが条件だという。
    八十七歳の祖母は迷わずそれを受け入れ、希望通りの若き日の体を取り戻して由布院へ旅立つ。
    亡き夫との思い出をたどる三日間ののち、八重は満ちたりた微笑みを浮かべながら静かに息を引き取った。
    八重の葬儀の場で、数十年来の友人であり八重の生け花の師範でもある小夜子は、棺の中の幸福な死に顔を見つめ、愛理に静かに問いかける。
    「そのハクさんに、わたしも会えるかしら」——
    ミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミ


    祖母の顔が、こんなにも穏やかだったことがあるだろうか。

    愛理は棺の中を覗き込みながら、そう思った。

    白い菊に囲まれた祖母の顔は、八十七年の歳月を経た顔でありながら、不思議な透明感をたたえていた。

    皺の一本一本が、笑みの跡のように見える。

    薄く閉じた唇の端がほんの少しだけ上がっていて
    それはまるで
    美しい夢を見ながら眠っているかのようだった。

    死に顔が美しいということがある。
    安らかに逝ったとき、幸せにつつまれたまま亡くなったときに、人の最期の表情は穏やかになるのだろう。

    でも、祖母の顔はそういう安らかとは少し違っていた。
    安らかというよりも
    穏やかに満ち足りて幸福に見えた。
    幸せな表情。

    死者にこの言い方は不適切かもしれないが
    祖母は満ちたりて亡くなったのだと、愛理には確信めいた感覚があった。

    葬儀場は福岡市内の、さほど大きくない会場だった。
    八重は広い付き合いのある人ではなかった。
    近所の知人、生前に親しかった友人、そして家族。
    参列者は三十人ほどだったが、しかし温かい葬儀だった。

    愛理は二十七歳。
    少し前までは都内の出版社に勤めていた。
    祖母の訃報を受けて駆けつけたのは昨日のことだ。
    最期には間に合わなかった。

    でも
    祖母の最期には、別の人が立ち会っていてくれていた。

     ハク

    その名前を心の中で呟いただけで、愛理の胸に不思議な感情が波立つ。
    畏れと、感謝と、そしてかすかな
    嫉妬にも似た何か。

    愛理がハクに初めて会ったのは、ほんの数日前のことだった。

    二 ハクとの出会い

    それは、祖母の見舞いに来た日の夕方だった。

    八重は自宅で療養していた。
    末期の膵臓がんで、積極的な治療はもう行っていなかった。
    訪問看護師が毎日来てくれるが、それ以外の時間は基本的に一人だ。

    愛理の両親は八重とは折り合いが悪く、実質的には絶縁関係だった。
    孫の愛理だけが、以前は月に一度のペースで東京から通っていた。
    会社を退職してから次の仕事に備えている時期だったが、今は八重の近くに引っ越ししたおかげで、数日おきには会いに来れるようになっていた。

    その日は小夜子の家に着くと、玄関に見慣れない靴があった。
    白いレザーのスニーカー。
    男物だが、まるで履いて歩いてないように見えるくらい綺麗な白だ。

    居間に入ると、祖母のベッドの傍らに、若い男が座っていた。

    最初に目についたのは、彼の髪だった。
    肩にかかるくらいの長さで、黒く艶やかだがわずかに茶色がかっている。
    自然な色だ。
    染めているようには見えない。

    次に顔。
    愛理は思わず息をのんだ。

    美しい
    と思った。

    男性に対してこの言葉を使うことはめったにないが、他に適切な表現が見つからない。
    二十代半ばに見える端正な顔立ちで、どこか中性的な雰囲気がある。
    目は切れ長で、鼻筋が通り、唇は薄すぎず厚すぎず。
    輪郭が柔らかい。
    男性的な骨格の力強さと、女性的な繊細さが、絶妙なバランスで同居している。

    服装も目を引いた。
    白いリネンのシャツに、ダークグレーのスラックス。
    足元は
    さっきの白いスニーカーか。
    ブランドは分からないが、どこを取っても品が良い。
    嫌味のない洗練。
    ファッション誌に出てくる、お手本のような着こなしだった。

    「あら、愛理ちゃん」

    ベッドの上の祖母が声を上げた。
    小さいが、機嫌の良い声だった。

    「おばあちゃん。お客さん?」

    「そう。紹介するわ。ハクさん」

    ハク、と紹介されたその男は、静かに立ち上がり、愛理に向かって軽く会釈した。

    「はじめまして。ハクです」

    声は低すぎず高すぎず、澄んだ音色だった。
    年齢不詳の外見と相まって、この人がどういう人なのか、まるで掴めない。

    「祖母のお知り合いですか?」

    「最近、縁あってお会いしました」

    八十七歳の祖母と、二十代半ばの青年の「縁」とは何だろう。
    怪しい。

    率直に言えば、何かの詐欺を疑った。
    高齢者を狙う悪質な訪問販売や、宗教の勧誘や、あるいは・・・もっと悪質な何か。

    だが、祖母の顔を見て、その疑いは少し薄まった。
    小夜子は明らかに嬉しそうだったのだ。
    ここ数ヶ月、痛みと倦怠感に支配されて表情が乏しくなっていた祖母が、まるで少女のように目を輝かせている。

    「愛理ちゃん、このハクさんがね、すごいことをしてくださるの」

    「すごいこと?」

    「わたしをね、若返らせてくださるんですって」

    愛理は絶句した。
    やっぱり詐欺だ。
    高齢者に「若返り」を謳う怪しい健康食品か、霊感商法か。

    「おばあちゃん、それは・・」

    「愛理さん」

    ハクが静かに口を開いた。
    その声には、不思議な重みがあった。

    「お気持ちは分かります。信じられなくて当然です。でも、まず説明させてください。お金は一切いただきませんし、何かを買っていただくこともありません」

    詐欺師ならそう言うだろう、と思った。
    だが、ハクの目を見て、言葉を飲み込んだ。

    あの目。

    嘘をつく人間の目ではない。

    深い
    途方もなく深い、何かを湛えた目。

    二十代の青年にしては、あまりにも多くの時間を含んだ目だった。

    「僕には特殊な能力があります」とハクは言った。
    「寿命が尽きようとする女性を、若返らせることができるんです。
    ただし条件があります。
    白髪が半分以上であること。そして、若返りは永続的ではありません。
    残りの寿命を元にして若返らせるので、持続期間はせいぜい数日。
    短い場合は数時間です」

    「数日って・・・そんなの意味があるんですか?」

    「あります」とハクは断言した。

    「最期の数日を、若い頃の体で過ごせる。
    体力のピークの自分に戻れる。
    痛みも倦怠感もなく、思い通りに体が動く。
    そして、最期の瞬間は、最高に幸福な顔で迎えることができます」

    愛理は祖母を見た。
    小夜子は静かに微笑んでいた。
    白い髪・・・、ほぼ全体が白髪だった。
    条件は満たしている。

    「おばあちゃん、本当にこの人の話を信じてるの?」

    「信じるも何も。わたし、もう長くないのは分かってるでしょう。あと何日かの命よ。それなら、騙されたって失うものはないわ」

    祖母のその言葉は・・・その通りだった。
    失うものがなければ、試す価値はある。

    「でも・・」

    「一つだけ」とハクが付け加えた。
    目が少し伏せられた。

    「大事な条件があります。若返った後、すぐに僕と・・・体を重ねる必要があるんです。それをしなければ、若返りはすぐに解けてしまいます」

    愛理は耳を疑った。

    「体を重ねるって・・・・、性行為ってことですか?」

    「はい」

    ハクの声に恥じらいはなかった。
    かといって、ふてぶてしくもなかった。
    医師が治療の説明をするような、静かな事実としての口調。

    「それは・・おばあちゃんと・・・?」

    「わたしが決めたことよ、愛理ちゃん」

    小夜子が穏やかに、しかしきっぱりと言った。

    「八十七年生きてきて、最後に若い体に戻れるなら。しかも、こんなに綺麗な人と。悪い話じゃないでしょう?」

    祖母の目がいたずらっぽく光った。
    愛理は言葉を失った。

    三 回想、八重の三日間

    結局、愛理はその場を離れなかった。
    離れられなかった。
    祖母の最期に、立ち会いたかったのだ。
    たとえそれが、想像を超えた光景であっても。

    始めます
    そう言って、ハクが小夜子の手を取った。
    白く細い指が、祖母の皺だらけの手を包む。
    そして・・・愛理は目を疑った

    ポポポポポポポ

    祖母の白髪が、根元から黒く変わっていく。
    まるで墨を吸い上げる和紙のように、白が黒に染まっていく。
    同時に、顔の皺が薄くなり始めた。
    痩せこけていた頬がふっくらと丸みを帯び、くすんでいた肌に血色が戻る。細くなっていた首筋に張りが出て、手の甲の浮き出た血管が見えなくなっていく。

    数分。
    いや、もっと短かったかもしれない。

    ベッドの上に横たわっていたのは、もう八十七歳の老女ではなかった。

    三十代?
    いや、二十代後半に見える女性がいた。
    つややかな黒い髪に、頬には健康的な赤みがあり、瞳は澄んでいる。
    体つきも変わっていた。
    病で痩せ衰えた体ではなく、若さにと体力に満ち溢れた体。

    「・・・・うそ」

     愛理は思わず声を漏らした。

    八重は、自分の手を見つめていた。
    それから、ゆっくりとベッドから起き上がった。
    この数ヶ月間は自力では起き上がれなかった祖母が。

    「体が・・・、軽いわ」

    八重の声も変わっていた。
    か細く掠れていた声が、芯のある響く声になっている。

    「わたしの一番元気だった頃は・・、三十代になる前くらいかしら。生け花の師範の試験を受けた年」

    「それくらいの年齢にお戻りになっていると思います」
    とハクが静かに言った。
    「小夜子さんの残りの寿命から推測すると、この状態は三日ほど持続すると思っています」

    「三日・・・」

    小夜子は窓の外を見た。
    五月の夕暮れの空。

    「温泉に行きたい」と祖母は言った。
    「由布院。あそこが好きだったの。夫と最後に行ったのが由布院だった」

    「由布院でしたら、ここから車で二時間ほどですね。大丈夫ですよ。僕がお連れします」

    ハクは微笑んだ。
    その微笑みに、愛理は息を呑んだ。
    数百年を生きてきた存在の微笑み。
    幾千人もの女性の最期を看取ってきた者の、優しさと哀しみを含んだ微笑み。

    「ただし」とハクは静かに続けた。
    「まず、一つ約束を果たさなければなりません」

    小夜子はハクを見上げた。
    若返った祖母の瞳に、不思議な色が浮かんだ。
    恥じらいと、覚悟と、そして
    ・・・・・期待

    「愛理ちゃん。悪いけど、少し席を外してくれる?」

    愛理は頷いた。
    頷くしかなかった。

    襖を閉めた。

    祖母の部屋から、微かな声が聞こえた。
    それは悲鳴ではなかった。
    笑い声でもなかった。
    もっと低く、もっと深い、生きていることそのものを歓ぶような、息遣い。

    愛理は縁側に座って、庭を見つめた。
    祖母が丹精した小さな庭。
    ツツジが咲いている。風が吹いて、花びらが一枚舞った。

    涙が出た。
    なぜ泣いているのか、自分でもよく分からなかった。

    そして・・・、その後の三日間を、愛理は生涯忘れないだろう。

     一時間ほどして、襖が開いた。
    八重の頬は上気して薄く赤らんでいた。
    髪が少し乱れていた。

    でも表情は
    これまで見たことがないほど、晴れやかだった。

    「さあ、由布院に行きましょう」

     ハクの運転する車で、三人は由布院に向かった。
    福岡市内から大分自動車道を経由して約二時間。
    愛理は後部座席で、助手席に座る祖母の後ろ姿を眺めていた。
    小夜子は窓の外を見つめていた。
    車窓を流れる新緑が、その瞳に映っている。

    「ここの景色が好きだったのよ」と小夜子が言った。
    由布岳が見え始めた頃だった。
    「清と一緒に来たとき、ちょうど今頃の季節で。新緑が眩しくて、清が『おまえの目も緑色に見えるな』って変なことを言ったの」

    「おじいちゃん、ロマンチストだったんですか」

    「全然。普段は不器用な人だったわ。でもたまに・・、本当にたまに、びっくりするようなことを言うの」

     温泉旅館で一泊し、翌日は湯布院の街を散策した。
    祖母は・・、いや、もう外見は祖母とは呼べない、二十代の女性は・・、信じられないほど元気だった。
    足取りは軽く、食欲もあり、何を見ても目を輝かせた。
    金鱗湖の周りを歩き、湯の坪街道で漬物を試食し、美術館に寄り、足湯に浸かった。

    「あの山、金鱗湖から見ると朝霧の中に浮いて見えるのよ」と小夜子は言った。
    「清と来たときには、わざわざ早起きして見に行ったの。もう四十年も前の話」

     愛理の祖父、つまり八重の夫清は、十五年前に亡くなっている。

     夜、旅館の部屋で小夜子が愛理に言った。
    ハクは別室にいた。

    「愛理ちゃん。わたし、怖くないのよ」

    「何が?」

    「死ぬのが。昨日までは怖かった。痛みが増して、体が動かなくなって、意識が薄れていく恐怖。でも今は・・体が動くから。体が元気だから、心も元気なの。体と心って繋がっているのね」

    「うん・・・」

    「それとね。ハクさんと体を重ねたときに、不思議なことが起きたの。清のことを思い出したのよ。ものすごく鮮明に。若い頃の清の顔。声。手の温もり。全部。まるで昨日のことみたいに」

    「体が若い頃の状態に戻ると、その頃の記憶も鮮明になるって、ハクさんが言ってたよ」

    「そうなのね。それなら・・、わたしはもう十分よ。清に会えた気がするの。体の記憶を通して」

     三日目の夕方。
    八重の自宅に戻った。

     祖母の体に、変化が始まっていた。
    指先にわずかに皺が戻り、髪の根元がうっすらと白くなり始めている。

    「そろそろね」と八重は言った。
    怖がっていなかった。微笑んでいた。

     八重はベッドに横たわった。ハクがその傍らに座った。
    愛理は、少し離れたところから祖母を見守った。

    「ハクさん。ありがとうね」

    「こちらこそ」

    「最後に由布院に行けたわ。清のことを思い出せたわ。体が元気だったから、思い出が鮮やかに蘇ったのよ。不思議ね、体と記憶って繋がっているのね」

    「ええ。体が若い頃の状態に戻ると、その頃の記憶もより鮮明になるんです」

    「そう・・・。いい三日間だった。最高に幸せな三日間」

     八重の白髪が増えていった。
    少しづつ皺も深くなっていった。
    二十代の女性の体が、ゆっくりと、八十七年の時間を取り戻していく。

     でも、顔の表情は変わらなかった。
    八重の顔は幸福な微笑みのまま。

    「愛理ちゃん」

    「うん、おばあちゃん」

    「いい人生だったわ」

     八重は目を閉じた。

     呼吸が浅くなり、やがて・・・・、静かに、止まった。

     棺の中の八重が幸福そうだったのは、そういうことだ。
    最期の瞬間の表情が、そのまま残ったのだ。

    四 白い菊と思い出話

     葬儀の読経が終わり、焼香の列が一巡した。

     愛理は控え室でお茶を配りながら、参列者たちと言葉を交わしていた。
    祖母の近所の方々。
    町内会の人たち。
    そして・・・

    「愛理ちゃんでしょう? 小夜子から写真を見せてもらったことがあるのよ」

     声をかけてきたのは、和服姿の女性だった。
    八十代だろうか
    背筋がすっと伸びていて、年齢の割に姿勢がいい。
    銀色の髪を品よく結い上げ、焦げ茶色の紬に落ち着いた帯を締めている。
    着こなしに隙がない。
    痩せてはいるが、骨格がしっかりしていて、大柄ではないのに存在感がある。
    手が印象的だった。
    長い指に、少し節の太い手。
    何かを作る人の手だ、と愛理は思った。

    「小夜子と申します。八重さんとは、もう五十年来のお付き合いでね」

    「小夜子さん。おばあちゃんからお名前は聞いています。生け花の先生ですよね」

    「ええ。もう教室は縮小して、自宅で何人か教えているだけだけれど」

     小夜子は棺に近づき、八重の顔を見つめた。
    しばらく無言で見つめていた。
    それから、小さく息を吐いた。

    「・・・、本当に綺麗な顔ね。こんなに綺麗な死に顔、初めて見たわ」

    「おばあちゃん、最後はとても穏やかだったんです」

    「穏やかというより、幸せそう。まるで恋をしているみたいな顔よ」

     その言葉に、愛理は胸を突かれた。
    小夜子さんの直感は鋭い。
    恋をしている
    というのは少し違うが、そう遠くもない。

    「お茶、いかがですか」

    「いただくわ」

     控え室の隅に二人で座った。
    他の参列者たちの声がざわめきのように遠く聞こえる。
    窓からは五月の午後の光が差し込んでいて、白い菊の花が並ぶ祭壇がぼんやりと光っている。

     小夜子は湯呑みを受け取り、一口含んでから、遠い目をした。

    「八重とは、生け花教室で知り合ったのよ」と小夜子が話し始めた。
    「あの人、最初は全然センスがなくてね。花をまっすぐ立てようとするの。生け花は空間を生かすものなのに」

    「そうだったんですか」

    「でも、半年もすると見違えるようになった。素直な人だったからね。人の話を聞ける人は上達が早いの。それに八重には・・、花に対する敬意があった。テクニックは下手でも、花を大事にする気持ちは最初からあったのよ。それはね、教えて身につくものじゃないの。持って生まれたものなの」

    「おばあちゃんらしいです」

    「八重がいちばん上手に活けたのは、一輪挿しだったわ。たった一本の花を、たった一つの器に。それだけで部屋の空気を変えてしまう。引き算の美学。わたしが何年もかけて教えようとしてきたことを、八重は最初から分かっていた。ただ、それを花で表現する技術が足りなかっただけ」

    「おばあちゃん、最後まで花を飾っていましたよ。ベッドの横に、いつも一輪」

    「そう・・」小夜子は湯呑みを両手で包むように持った。
    「八重の最後の頃、何度か見舞いに行ったけれど。正直、見ていて辛かった。あの人が痩せていくのが。花を活ける力もなくなって、でもベッドの横にはいつも花がある。最後は愛理ちゃんが活けてあげていたのかしら」

    「はい。おばあちゃんに頼まれて。下手くそですけど」

    「いいのよ。上手い下手じゃないの。花がそこにあるということが大事なの」

     小夜子はもう一度棺に目を向けた。

    「でも・・・最後はこんなに幸せそうなのね」

     愛理をまっすぐに見て尋ねた

    「何かあったの?」

    「何か、というと」

    「八重の最期に。何か、普通じゃないことがあったでしょう」

     愛理は言葉に詰まった。
    小夜子の目は、生け花の師範として何十年も花と向き合ってきた人の目だった。
    表面だけを見ない、奥にあるものを見抜こうとする目。

    「・・・少し、不思議な話があるんです」

    「聞かせて」

     言うべきではないのかもしれない。ハクのことを他人に話すのは。ハクは自分から秘密にしてくれとは言わなかった。
    でも、こんな話を軽々しく広めるべきではないという感覚はある。
    不老不死の男が高齢女性を若返らせる
    下手に広まれば、パニックになるか、カルトだと思われるか、あるいはハクが危険な目に遭うかもしれない。

     でも、小夜子さんの目を見ていたら
    この人になら話してもいいかもしれない、と思った。
    五十年間花と向き合ってきた人の目。
    生と死の境界を見つめ続けてきた人の目。

    生け花というのは、切り取られた花
    つまり死に向かう花を、最も美しい形で送り出す芸術だ。
    小夜子さんは、花の死を美しくする術を知っている。
    ならば、人の死を美しくする話も、受け止められるのではないか。

    「ハクという人がいるんです」

     愛理は、できるだけ淡々と話した。
    ハクの能力。
    若返りの仕組み。
    条件。
    そして、祖母の最後の三日間。
    由布院のこと。
    金鱗湖のこと。
    そして
    若返りを維持するための、体を重ねるという条件のこと。
    ここは言うべきか迷ったが、小夜子さんになら隠す方が不誠実だと思った。

     小夜子は一言も口を挟まず、最後まで聞いた。
    表情は変わらなかった。
    驚きも、疑いも、嫌悪も浮かばなかった。
    ただ、聞いていた。
    花を見つめるときと同じ目で。
    花の枝振りを、花弁の傾きを、茎の曲がり方を、じっと観察するときと同じ、静かな集中の目で。

     話し終えたとき、小夜子は湯呑みを静かにテーブルに置いた。

    「・・・だから、こんなに幸せそうな顔なのね」

    「信じますか、こんな話」

    「信じるとか信じないとかじゃなくて」小夜子は棺の方に視線を向けた。「あの顔を見たら、何があったのかは分かるわ。理屈じゃなくてね」

     しばらくの沈黙があった。

    「ねえ、愛理ちゃん」

    「はい」

    「そのハクさんという方に・・・、わたしも、会えるかしら」

    五 小夜子の背景

     葬儀のあと、愛理は小夜子の自宅を訪ねた。
    中央区の閑静な住宅街にある、古いが手入れの行き届いた日本家屋だった。

     玄関を入ると、下駄箱の上に花が活けてあった。
    一輪の芍薬。
    白い花弁が、薄暗い玄関にほのかな明るさを添えている。
    活け方が自然で、まるでそこに勝手に咲いたかのようだった。
    これが五十年のキャリアか、と愛理は思った。

     小夜子は着物を着替えていた。
    葬儀の紬から、普段着の紺の木綿に。
    それでも着こなしは完璧だった。
    帯の結び目が美しい。

    「おかけなさい」

     茶の間に通された。
    畳の部屋に、座卓と座布団。
    壁には掛け軸。
    床の間にも花が活けてある。
    こちらは山野草を数種類、素朴な陶器の花入れに。

     小夜子がお茶を淹れてくれた。
    急須から立ち上る湯気の香りが、部屋に広がった。

    「わたしのことを少し話しておいた方がいいかしらね」と小夜子は言った。「ハクさんにお会いするなら」

    「はい。できれば」

    「わたしは来月で八十五になるの。八重より二つ下。主人を二十年前に亡くして、それからずっと一人暮らし。子供はいないわ」

    「お一人で・・、寂しくないですか」

    「寂しくないと言えば嘘になるけれど。花があるから。花を活けている間は、寂しさを忘れられるの」

     小夜子は茶碗を手に取り、一口飲んだ。

    「それと、近所にお友達が何人かいてね。月に一度、集まってお茶を飲むの。昔からの仲間よ。みんな歳を取ったけれど」

    「素敵ですね」

    「でもね。最近、体がだいぶ言うことを聞かなくなってきたの。膝が痛い。腰が重い。階段が怖い。生け花も、重い花入れを持ち上げるのがきつくなってきた」

     小夜子の声には、感傷はなかった。
    事実を述べているだけだ。

    「寝たきりになるのが怖いのよ」

     ぽつりと、小夜子は言った。

    「わたしは自分の手で花を活けられなくなったら、生きている意味がないと思っている。八重さんみたいに、ベッドの上で衰弱していくのを・・、ずっと見ていたから。あんなふうにはなりたくないの」

    「小夜子さん・・・」

    「でも、八重は最後に幸せだったのね。あんな顔で逝けたのね。それは……羨ましいと思ったのよ」

     小夜子は愛理をまっすぐに見た。

    「動けるうちに、若い頃の体をもう一度だけ味わえるなら。そして、その体で最期を迎えられるなら。それは最高・・・の贅沢じゃないかしら」

     愛理は頷いた。

    「もう一つ」と小夜子は少し目を伏せた。
    「性交渉が必要だという条件。それは、わたしにとっては、抵抗はないわ」

    「えっ」

    「若い頃のわたしを知らないでしょう。愛理ちゃんには想像もつかないかもしれないけれど」

     小夜子は微かに笑った。
    和服の下に、五十年前の奔放な女が一瞬だけ顔を覗かせたような、不思議な笑みだった。

    「わたしは芸大の出でね。油絵を専攻していたの。東京の芸大。昭和三十年代のことよ。あの頃の芸大は・・・今とは空気が全然違ったの。戦後の混沌がまだ残っていて、何もかもが自由だった。というより、自由でなければ芸術は生まれないと、みんなが本気で信じていた時代」

    「昭和三十年代・・」

    「わたしが入学したのは昭和三十二年。十八歳で福岡の片田舎から出てきた小娘がね、東京の芸大で目を丸くしたのよ。裸体画のモデルが当たり前にいて、教授が学生と酒を飲み、学生同士が恋愛やら喧嘩やらを繰り返して。美術というのは頭で考えるものじゃなくて、体で感じるものだと叩き込まれた」

     小夜子は窓の外に目をやった。
    庭の紫陽花が、夕暮れの光の中で色を深めている。

    「二十代の頃は・・・まあ、ずいぶん自由に生きていたわ」

    「自由に?」

    「言い方を選ばないなら、性に奔放だった。最初は同級生の男の子と。それからモデルの男性と。教授とも。画商とも。女性ともあったわ。歌子がね・・・、さっき名前を出した友人。あの子とは、学生時代に三年ほど一緒に暮らしたの」

     愛理は少し驚いたが、不快ではなかった。
    小夜子の口調には淫靡さがなかった。
    過去の自分を語る声は透き通っていて、まるで遠い昔の風景を描写しているかのようだった。

    「芸大の空気は独特だったのよ。体も表現の一部で、セクシュアリティも芸術の一部だった。少なくともわたしたちはそう信じていた。裸を描くことと裸になることの境界は曖昧で、人を愛することと人の体を知ることは同義だった。乱暴に聞こえるかもしれないけれど・・・、あの頃のわたしたちにとって、それは純粋なことだったのよ」

    「分かります。少なくとも、小夜子さんの口から聞くと、そう感じます」

    「ありがとう。でもね、三十を過ぎた頃に、油絵を描けなくなったの。スランプとかじゃなくて、もっと根本的なもの。自分が何を描きたいのか分からなくなった。体で感じろと教えられてきたのに、体が何も感じなくなったの」

    「それで・・」

    「生け花に出会ったのよ。偶然ね。友人に連れられて、ある師範の教室に行ったの。そこで初めて、花を活けたの。切った花を器に入れるだけなのに、その瞬間、空間が変わったよの。花が呼吸し始めて目が離せなくなったわ。わたしが油絵で表現できなかったものが、花には最初からあった。生命の美しさ。生と死の境界の美しさ」
    そして、小夜子は自分の手を見つめた。

    「それから生け花に転向して、師範の免状を取って、主人と結婚して福岡に戻った。和服を着るようになって。今のわたししか知らない人は、信じないでしょうね。でもね・・・、体の記憶は消えないの。五十年前の情熱がまだどこかに眠っているのよ。眠っているだけで、死んではいない」

     小夜子は茶碗を置いた。

    「だから・・・最後にもう一度、あの頃の自分に戻れるなら。体も、感覚も。それなら、喜んで。むしろ、望んで」

    六 ハクと小夜子の対面

     愛理はハクに連絡を取った。
    ハクは電話番号を持っていない。
    メールもLINEもない。
    ただ、八重の看取りのときに、「また必要なことがあれば、夜の神社に来てください」と言っていた。
    護国神社の境内参道に、夜の八時に。

     奇妙な待ち合わせ場所だったが、行くと、ハクはそこにいた。
    参道の石灯篭の傍らに、白いリネンのシャツを月光に染めて。
    いつ見ても絵になる人だ、と愛理は思った。

    「お話は分かりました」

     ハクは愛理の説明を静かに聞いた。

    「小夜子さんにお会いしましょう。ただ、一つ確認させてください。小夜子さんは、ご自身の意思でこれを望んでいますか」

    「はい。はっきりと」

    「それなら」

     ハクはかすかに微笑んだ。月の光が、その横顔を照らした。

    「明日、小夜子さんのお宅に伺いましょう」

     翌日の夕方。

     小夜子の家の茶の間で、三人は向かい合って座っていた。
    愛理は仲介者として同席していたが、自分がいない方がいいのかもしれないとも思っていた。

     ハクは小夜子の家に入った瞬間、玄関の芍薬に目を留めた。

    「美しい。空間を活けていますね」

    「分かるの?」小夜子は少し驚いた顔をした。

    「少しだけ。昔・・・、ずいぶん昔ですが、花を習ったことがあります」

    「どのくらい昔?」

    「二百年ほど前に」

     小夜子は瞬きをした。
    それから、ハクを向いてふっと笑った。

    「あなた、面白い人ね」

    「よく言われます」

     二人の間に、不思議な空気が流れた。
    初対面なのに、どこか馴染みのある
    あるいは、互いの本質を直感で理解し合ったような空気。

    「小夜子さん」とハクが切り出した。
    「愛理さんから事情は伺っています。ですが、直接お聞きしたい。なぜ若返りたいのですか」

    「体が動くうちに、最後に自分の体を取り戻したいの。指先まで。筆を持てる指を。花を活けられる腕を」

    「他には」

     小夜子は少し考えた。

    「・・・正直に言えば、もう一つあるわ」

    「はい」

    「女として死にたいの」

     その言葉は、静かだが強い響きを持っていた。

    「主人を亡くしてから二十年。女としての自分は、ずっと封印してきたの。和服を着て、花を活けて、枯れた女として生きてきた。でもね・・・本当は、枯れたくなかったのよ。枯れたふりをしていただけ」

     ハクは黙って聞いていた。

    「最後に・・、一度だけ。若い頃の体に戻って、全部を感じて、全部を使って。それから逝きたい」

     ハクは静かに頷いた。

    「分かりました。小夜子さんの残りの寿命を拝見します」

     ハクが小夜子の手首に軽く触れた。
    脈を取るような仕草だが、もっと深いところを読んでいるのだろうか。

    「・・・三日から四日。おそらく三日と半日ほどです」

    「そう。思ったより短いのね」

    「いえ、三日以上あるのはむしろ長い方です。充分な時間が取れます」

    「いつから始められるの?」

    「いつでも。小夜子さんの準備ができ次第」

     小夜子は茶の間を見回した。
    自分の家。
    五十年間暮らした家。
    花と掛け軸と畳の匂いに満ちた空間。

    「今夜でいいわ」

    七 若返り

     愛理は席を外した。
    前回と同じだ。
    ただ今回は、自宅ではなく、小夜子の家の隣の部屋で待つことにした。
    何かあったときにすぐ駆けつけられるように。

     襖一枚を隔てた向こうで、静かな気配がした。

     数分後、小夜子の声が聞こえた。

    「愛理ちゃん・・、入っていいわよ」

     襖を開けた瞬間、愛理は言葉を失った。

     そこにいたのは、八十五歳の小夜子ではなかった。

     四十代・・・いや、三十代半ばだろうか。
    背筋がさらにまっすぐになり、肌に張りが戻り、銀色だった髪が深い黒に染まっている。
    完全な黒ではない。
    微かに茶色がかった、成熟したしっとりとした黒色。
    目は大きく輝いていて、口元には妖艶な弧が浮かんでいる。

     着物の下から覗く手が、節くれだった関節の痛々しさを失い、長い指が滑らかになっている。
    芸術家の手だった。
    筆を、花を、そして人の肌を知り尽くした手。

    「本当に、すごい」

     愛理は呟いた。

    「自分で自分が信じられないわ」
    小夜子は自分の手を見つめていた。
    「この手。わたしが三十代の頃の手だわ。花鋏を握っても痛くなかった頃の」

    「お体の調子は?」

    「最高よ。膝が痛くない。腰が軽い。目がよく見える。こんなに鮮やかに見えたのはいつ以来かしら」

     小夜子はハクを見た。

    「ハクさん。ありがとう。でも・・まだ、お約束を果たしていないわよね」

     ハクは静かに頷いた。

    「ええ。時間はそれほどありません。早い方がいい」

     小夜子の目が変わった。
    和服の生け花の師範の目ではなく・・・、五十年前の芸大生の目。情熱と、奔放さと、生命力に満ちた目。

    「愛理ちゃん」

    「はい」

    「・・しばらく、戻ってこなくていいから」

     小夜子の声が低くなっていた。
    妖しい甘さを含んだ声。
    八十五歳の老女からは想像もできない声だった。
    でも今の小夜子は八十五歳ではない。
    三十代半ばの、成熟した女だ。

     愛理は頷いて、部屋を出た。

    八 夜の花

     小夜子の家の奥座敷は、床の間に山百合が一輪活けてあった。

     障子の向こうに月が昇っていた。
    六月の満月。
    その光が雪見障子を通って、部屋全体を乳白色に染めている。

     小夜子は帯に手をかけた。

    「自分で解くわ。見ていて」

     ハクは壁際に立ち、小夜子を見つめていた。

     帯が解ける。
    焦げ茶色の帯揚げが床に落ちた。
    帯締めがするりと抜かれる。
    帯板が外され、名古屋帯がゆっくりと解かれていく。
    小夜子の動きは、まるで一つの舞のようだった。

     着物を脱ぐということが、これほど官能的な行為になり得るのか。

     小夜子は着物を肩から滑らせた。
    長襦袢が現れる。
    白い絹。
    そこに月光が当たって、肌の輪郭が透けて見える。

    「昔ね」と小夜子は言った。
    「ヌードモデルをやっていたの。芸大で。油絵の授業のために。自分の体を人前に晒すことに、何の抵抗もなかった。むしろ誇りだった。この体は美しいと、二十代の傲慢さで信じていたわ」

     長襦袢の合わせ目に指をかける。

    「四十年、五十年と経つうちに、その自信は消えた。鏡を見るたびに、少しずつ。皮膚が弛み、胸が落ち、腰回りが崩れていく。老いるということは、自分の体に裏切られることなのよ」

     長襦袢が肩から滑り落ちた。

     月光の中に、三十代半ばの小夜子の体が露わになった。

     ハクは静かに息を呑んだ。
    彼が息を呑んだのは、小夜子の体が美しかったからだ。
    若返りによって取り戻された体は、二十代の無防備な若さとは違う。
    三十代半ばの成熟した体。
    肉付きに程よい柔らかさがあり、腰のくびれと腿の張りが艶めかしい曲線を描いている。
    肌は白く、月光を受けてしっとりと輝いていた。

    「驚いた?」
    小夜子が微かに笑った。

    「美しい」とハクは率直に言った。
    「芸術作品のようです」

    「芸術家だったからね。自分の体くらい、作品にしないと」

     小夜子がハクの前に膝をついた。
    そして、自らハクのシャツのボタンに手をかけた。

    「わたしから触らせて。いい?」

    「もちろん」

     小夜子の長い指がボタンを一つずつ外していく。
    ハクの胸板が現れた。
    白い肌。
    男性にしては華奢だが、しなやかな筋肉が薄く乗っている。
    中性的だ。
    男と女の境界にある体。

    「綺麗・・」小夜子が呟いた。
    「こんな体、見たことない」

     指先がハクの鎖骨をなぞった。

    ゆっくりと。

    そろりそろりと。

    五十年間封印されていた感覚が、指先から蘇っていく。

     ハクは小夜子の手を取り、唇を寄せた。
    指の一本一本にキスを落とす。
    丁寧に。
    ゆっくりと丁寧に。
    まるで一本一本の指が独立した生き物であるかのように。

    「あぁ・・・・」

     小夜子の唇から、小さな声が漏れた。
    体が震えた。

    「こんな・・・、指にキスされただけで・・・」

    「五十年分の感覚が、一度に戻ってきているんです」
    とハクが囁いた。
    「体の記憶が蘇っている。若い頃の小夜子さんが、中から目を覚ましている」

     ハクが小夜子の肩に唇を寄せた。
    鎖骨の窪みに舌先を這わせる。
    ゆっくりと。
    今度は、ねっとりと。
    薄く汗の塩味が舌に広がる。

     小夜子は目を閉じた。

     体の奥底で、何かが溶け始めていた。
    五十年間、停まっていた何かが。

    九 溶ける氷

     月光が二人の肌を照らしていた。

     ハクは急がなかった。
    数百年を生きた存在にとって、時間の概念は人間とは異なる。
    一秒の中に、人間が感じる一時間分の密度を込めることができる。

     小夜子の首筋に唇を這わせながら、ハクは彼女の体を読んでいた。
    どこに触れれば声が漏れるか。どこを撫でれば体が弓なりになるか。
    それは経験から来る技術だけではない。
    相手の体と共鳴する能力
    若返りの力の副産物として、ハクには相手の感覚を読む力があった。

    「ねえ・・」
    小夜子が低い声で囁いた。
    「もっと下に」

    「焦らないで」

    「焦れったいのよ・・、五十年も待ったのに」

    「だからこそ、ゆっくり」

     ハクの手が小夜子の胸に触れた。
    掌全体で包み込むように。
    柔らかな肉が指の間に溢れる。
    親指が頂きの周りを円を描くように撫でた。
    ぬるぬると、優しくゆっくりと。
    指先に力を入れず、ただ表面を滑るように。

     小夜子の背中が反った。
    声にならない息が漏れた。

    「く・・・ぅ」

     乳首が硬くなっていく。
    ハクの指がその硬さを確かめるように、軽く転がした。

    「あっ・・」

     小夜子の手がハクの背中を掴んだ。
    爪が食い込む。
    芸術家の指。
    かつて筆を持ち、花鋏を握り、恋人の体を探った指。
    その指が今、数百歳の不老不死の体に爪痕を残そうとしている。

     ハクは小夜子の胸に唇を落とした。
    舌先でゆっくりと輪を描く。
    じっとりとした湿り気が肌に広がっていく。
    八重の体が、声が、呼吸が
    すべてが一つの楽器のように響き始めていた。

    「わたし・・・忘れてた。こんな感覚」

    「体は忘れていません」

    「そうね・・体は、覚えている」

     ハクの手が腹部を下りていく。
    指先が臍の周りを撫で、下腹部のゆるやかな丘陵を辿る。
    小夜子の腿が無意識に開いた。

    「恥ずかしがらないで」

    「恥ずかしくないわ」
    小夜子は目を開けた。
    闇の中で、瞳が濡れて光っていた。
    「わたしは・・二十代の頃から、自分の欲望を恥じたことはない」

    「知っています。だから小夜子さんは美しい」

     ハクの指が、ゆっくりと花弁に触れた。

     小夜子の体が電流を受けたように跳ねた。
    声が、今度ははっきりと、部屋に響いた。

    「あ・・・・ぁっ」

     じっとりと濡れていた。
    五十年間眠っていた泉が、一気に目覚めたかのように。
    ハクの指がその濡れ具合を確かめるように、ねっとりとした動きで花びらの間を滑った。

    「すごい・・・、こんなに」

    「当然です。小夜子さんの体は、三十代の最盛期に戻っているんですから。ゆったりと安心してまかせていてください」

     ハクの中指がゆっくりと内部に入っていく。
    小夜子の内壁が、きゅっと指を締めつけた。
    熱い。
    濡れている。
    脈打つように収縮している。

    「ん……ぅ、深い……」

     ハクは指を動かした。
    奥の、わずかに隆起した部分を探り当て、腹の方向に向かってねっとりと力をかけていく。

     小夜子の両手が畳を掴んだ。
    背中が弓なりに反り、和服から完全に脱け出した白い体が月光の中でのたうった。

    「そこ——そこ、あ、そこ……っ」

    「ここですか」

    「……あ、ぁ、ダメ、もう……」

    「まだです。まだ行かせません」

     ハクは意地悪なほどゆっくりと指を動かし続けた。
    頂点の手前で止め、引き、また押す。
    波を作っては引かせ、作っては引かせ。
    小夜子の体を潮のように揺らしながら、決して頂点には到達させない。

    「お願い……もう、焦らさないで……」

    「声を聞かせてください。もっと」

    「ぅ……んっ、あ、あぁ……ハクっ、お願い……」

     五十年間封印されていた声だった。
    和服の下に隠されていた、芸大時代の奔放な女の声。
    抑圧のない、剥き出しの欲望の声。

     ハクは指を引き抜いた。
    小夜子が失望の声を上げかけたとき、ハクは小夜子の両腿を開き、その間に頭を沈めた。

     顔が、花に近づいていく。

    「え、そんな——」

    「いいから。受けてください」

     ハクの舌が触れた。

     小夜子の視界が白く弾けた。

     ねっとりと。

    こってりと。

    ハクの舌が小夜子の最も敏感な場所を舐め上げた。
    花弁を一枚一枚めくるように。
    生け花の師範が花を扱うように——いや、それ以上の繊細さで。

    「あああ——っ!」

     小夜子の腰が浮いた。
    ハクの両手が腰を押さえ、逃がさない。
    舌は止まらなかった。
    唇で軽く肌の感触を確かめながら、粘膜の上を這い回る。
    突起の先端を包み込み、吸い、転がし、また舐める。

     小夜子の手がハクの髪を掴んだ。
    黒い髪の中に指を絡ませ、頭を押しつけるように。

    「もう——ダメ、もう……来る、来る……っ!」

     波が来た。

     体の奥底から、津波のように、五十年分の渇きが、一度にほとばしった。小夜子の全身が硬直し、声にならない叫びが喉の奥から絞り出された。
    背中が畳から浮き上がり、足の指先まで痙攣が走った。

     ハクは最後まで舌を止めなかった。
    波の一つ一つを丁寧に拾い、余韻の最後の一滴まで味わい尽くした。

     小夜子が力を失って畳に崩れ落ちた。
    荒い呼吸。
    汗に濡れた肌。
    開かれたままの脚。

    「……死ぬかと思った」

    「まだ死なせません」

    十 繋がる

     小夜子が呼吸を整えるのを、ハクは待った。
    急がない。
    彼にとって時間は無限にある。
    でも小夜子にとっては・・・、三日半しかない。
    だからこそ、一秒一秒を、密度の高いものにしたかった。

    「準備はいいですか」

    「もうとっくに」小夜子は笑った。
    涙の跡が頬に光っている。
    「五十年待ったのよ。準備万端」

     ハクが小夜子の上に覆いかぶさった。
    中性的な体が月光の中で白く浮かび上がる。
    小夜子は改めてハクの体を見た。

    「本当に綺麗・・、男でも女でもない体ね」

    「僕は・・、何百年も前に、性別の境界を超えました。人間の枠では説明しにくい存在です」

    「それがいい」小夜子はハクの頬に手を添えた。
    「わたしも昔から、男と女の境界なんて気にしなかった。美しいものは美しい。それだけよ」

     ハクは小夜子の脚の間に体を沈めた。
    先端が、濡れた花弁に触れる。

    「入れるわよ」

     小夜子が自ら腰を持ち上げた。
    ゆっくりと。
    先端が花弁を押し広げ、内部に滑り込んでいく。

    「あ……ぁ——」

     小夜子の顔が歪んだ。
    痛みではない。
    充足感だ。
    長い間空っぽだった場所が、ようやく満たされた感覚。

    「……深い」

     ハクが根元まで入った。
    二人の体が完全に繋がった。
    小夜子の内壁がハクを包み込み、ねっとりと締めつける。

     ハクは動かなかった。
    最も深いところで、ただ繋がったまま、小夜子の体が自分を受け入れるのを待った。

    「動いて」

    「もう少し」

    「お願い。動いて」

     ハクがゆっくりと腰を引いた。
    先端が出口の手前で止まり、再びゆっくりと押し込まれる。
    ゆっくりとした、だが粘度の高い動き。
    水音が静かな部屋に響いた。

    「ん……っ、あ……」

     小夜子の両腕がハクの背中に回された。
    爪が白い肌に食い込む。
    ハクの動きに合わせて、小夜子の腰も揺れ始めた。
    二人の呼吸が重なり、リズムが生まれた。

    「もっと……速く」

    「まだゆっくり」

    「意地悪ね……」

    「じっくり味わってほしいんです。一回一回を」

     ハクは腰を引くたびに角度を変えた。
    浅く、深く。
    左に、右に。
    小夜子の体の内部地図を探るように。
    どこに触れれば声が変わるか。
    どこを突けば体が跳ねるか。

     ある角度で突き入れたとき、小夜子の体が大きく跳ねた。

    「そこ——!」

    「ここですね」

     ハクはその角度を維持した。
    ゆっくりと、しかし確実に、同じ場所を何度も突く。

    ねっとり・・ゆるゆると。

    八重の内壁がきゅうきゅうと締まり、蜜が溢れ出す。
    じっとりと濡れた接合部から、淫らな水音が止まらなかった。

    「あ、あ、あ……っ、ダメ、またっ……」

    「いいですよ。何度でも」

     二度目の波が来た。
    小夜子の体が弓なりに反り、内壁がハクを万力のように締めつけた。
    ハクは動きを止めず、波の中を突き進んだ。
    小夜子の絶頂が長く、長く続いた。

     波が引いても、ハクは止まらなかった。
    ペースを上げた。
    ゆっくりからじっくりへ。
    じっくりから力強さへ。
    畳の上で二つの体が絡み合い、汗と蜜にまみれながら、獣のように貪り合った。

     小夜子は叫んでいた。
    もはや言葉ではない。
    音だ。生命の根源から絞り出される、意味を持たない純粋な声。

     三度目の波。
    四度目。
    五度目。
    小夜子は数えるのをやめた。
    ハクの体力は人間のそれではない。
    数百年の体に疲労はない。
    小夜子が望む限り、何度でも。

    「もう……もう、本当に死んじゃう……」

    「大丈夫です。あなたは強い人だ」

    「強いんじゃなくて……欲張りなのよ……もっと、もっと……」

     ハクは小夜子の体を抱き起こした。
    小夜子がハクの上に跨がる形になる。
    重力がすべてを深くする。
    小夜子が自ら腰を下ろし、最も深いところまで飲み込んだ。

    「ぁ——ッ!」

     小夜子の口から悲鳴に近い声が上がった。
    そしてそのまま、自ら腰を動かし始めた。

     芸大時代の小夜子が、完全に蘇っていた。

     恥じらいのない動き。
    自分の快楽を自分で掴みに行く激しさ。
    和服を着ていた上品な生け花の師範はどこにもいない。
    ここにいるのは、二十代に戻った・・いや、三十代半ばの、最も成熟した時期の女の体と、二十代の奔放さを併せ持った、一個の自由な女だった。

     最後の波は、二人同時に来た。

     ハクが小夜子の腰を掴み、深く、最も深い場所に押し込んだ。
    小夜子の全身が痙攣し、声が途切れ、呼吸すら止まった。

     数秒——あるいは数十秒の後。

     小夜子がハクの胸に崩れ落ちた。

     二人とも、しばらく動けなかった。

     障子の向こうで、月がわずかに傾いていた。
    時計の音だけが、静寂の中で規則正しく刻みを打っていた。

    「・・・ハク」

    「はい」

    「最高だったわ。人生で一番」

    「光栄です」

    「嘘。何百人もの女にそう言ってるんでしょう」

    「全員に本心で言っています」

     小夜子は笑った。
    汗に濡れた額をハクの胸に押しつけて。

    「もう一回だけ。お願い」

    「何度でも」

    十一 三日半の季節

     小夜子の若返りは三日半続いた。

     最初の夜を過ごした翌朝、小夜子は驚くほど元気だった。

    「花を活けたいわ」

     それが、若返った小夜子の最初の望みだった。
    旅行でも美食でもなく、花を活けること。

     小夜子は庭に出て、自ら花を切った。
    紫陽花、半夏生、桔梗。
    六月の花を腕いっぱいに抱えて戻ってきた姿を見て、愛理は泣きそうになった。
    八十五歳の小夜子には、庭に出ることさえ難儀だったのだ。

     小夜子は三時間かけて花を活けた。
    茶の間に、玄関に、床の間に。
    三つの作品。

     茶の間に活けたのは紫陽花だった。
    青と紫のグラデーションの花を、黒い陶器の花入れに。
    ただの紫陽花ではない。
    花の重みでわずかに傾いた茎を、あえて傾いたまま活けている。
    完璧な左右対称を崩すことで、生きた花の呼吸を残す。
    小夜子の代名詞ともいえる活け方だった。

     玄関には半夏生を。
    白い苞葉が、下駄箱の上でひっそりと輝いている。
    一輪だけ。
    余計なものを一切排した、引き算の美学。

     そして床の間には桔梗。
    紫の花弁が、掛け軸の墨色と響き合っていた。
    花入れは竹の一重切り。
    小夜子が自分で切ったものだという。
    竹と桔梗。
    和のミニマリズムの極致。

     そのどれもが・・・愛理の目にも分かるほど、素晴らしかった。
    花が単に美しいのではなく、花を取り巻く空間全体が呼吸しているように見える。
    小夜子が五十年かけて磨き上げた技が、若返った体の中で炸裂していた。

    「これが最後の作品になるわ」と小夜子は言った。
    寂しそうではなかった。
    満足げだった。
    「でも、最後の作品が最高の作品なんて・・、芸術家冥利に尽きるわね」

    「写真を撮らせてください」と愛理が言うと、小夜子は微笑んで頷いた。

     愛理はスマートフォンで三つの作品を撮影した。
    光の加減を変えて、角度を変えて、何枚も。
    この花は数日で枯れるだろう。
    でも、写真は残る。
    小夜子の最後の作品の記録として。

     二日目の午後。
    小夜子は着物を着替えた。
    箪笥の奥にしまってあった、若い頃の着物。
    朱色に金の刺繍が入った、派手な一枚。

    「これ、二十代の頃に京都で買ったの。もう着られないと思っていたけれど」

     若返った体に朱色の着物は映えた。
    小夜子は鏡の前で、長いこと自分を見つめていた。

    「会いたい人がいるの」

    「誰ですか?」

    「昔の友人よ。もう何年も会えていない。遠くにいるから」

     ハクが言った。
    「場所によりますが・・僕が近くにいて、すぐに戻れる範囲でしたら」

    「北九州よ。車で一時間くらい」

    「大丈夫です」

     小夜子は北九州に住む旧友を訪ねた。
    友人の名前は「歌子」と言った。
    小夜子と同じ芸大出身で、小夜子が油絵、歌子が日本画を専攻していた。
    二人は学生時代からの親友であり、小夜子が「女性ともあった」と語った過去の、おそらくその相手だった。

     歌子は八十八歳で、小柄で穏やかな女性だった。
    車椅子に乗っていた。
    白い髪を短く刈り上げ、大きな眼鏡をかけている。
    手にはいくつもの絵の具の染みがついていた。
    八十八歳になっても、まだ絵を描いているのだ。

     小夜子の若返った姿を見て、歌子は最初、誰だか分からなかった。

    「・・・・小夜子? 嘘でしょう」

    「嘘じゃないわ。長い話なの」

    「長い話って・・・、あなた、わたしの小夜子じゃないの。声は小夜子だけど」

    「わたしよ。歌子。ほら、覚えてる? 渋谷のアトリエで、二人で徹夜して油絵を描いたこと。夜明けに窓を開けたら、カラスが一羽入ってきて、あなたの未完成の日本画の上を歩いて足跡をつけたこと」

     歌子の目から、涙がこぼれた。

    「・・・小夜子だ。本物の小夜子だ」

     二人は手を取り合った。三十代に若返った小夜子の手と、八十八歳の歌子の手。
    その対照は残酷なようでいて、不思議と美しかった。

     愛理とハクは車の中で待った。
    ハクは運転席で文庫本を読んでいた。
    何を読んでいるのかと思ったら、泉鏡花だった。

    「好きなんですか、鏡花」

    「ええ。百年以上前の文体ですが、花の描写は今読んでも美しい」

    「ハクさんは・・、鏡花が書いた頃のことを、覚えているんですか」

    「ぼんやりとですが。あの時代の日本は、美しいものに対する感性が研ぎ澄まされていた。今よりも、ずっと」

     ハクは窓の外を見た。
    北九州の住宅街。
    どこにでもある風景だ。

    「僕がこの力を持つようになって・・、もう何百年になるか正確には分かりませんが・・・、一つだけ変わらないことがあります」

    「何ですか」

    「人が最期に見せる表情は、時代が変わっても、同じだということです。幸福な顔は、いつの時代も同じ形をしている。千年前も、今も」

     愛理はハクの横顔を見つめた。二十代半ばにしか見えない顔。でもその目には、人間の一生の何百倍もの時間が沈んでいる。

    「ハクさんは、寂しくないですか」

    「寂しいですよ。いつも」

     あっさりと言った。

    「でも、寂しさは僕にとって呼吸のようなものです。なくなることはないけれど、それで死ぬこともない。寂しさと共に生きることを、数百年前に受け入れました」

     夕方、小夜子が戻ってきたとき、目が赤かった。
    泣いたのだろう。でも、顔は晴れやかだった。

    「歌子に、全部話したわ。ハクさんのこと。若返りのこと」

    「信じてくれましたか」

    「最初は信じなかった。でもね、わたしの顔を見て、手を握って・・、歌子はわたしの体を一番よく知っている人だから。若い頃のわたしの体を覚えている人だから。触っただけで分かったのよ。これは本物の小夜子の体だって」

    「歌子さんは何とおっしゃいましたか」

    「『ずるい』って。『わたしも若返りたい』って。でもすぐに、『いいえ、小夜子が綺麗なのを見られただけで十分よ』って笑ったわ」

     小夜子の声が少し震えた。

    「最後に・・、歌子がわたしの絵を描いてくれたの。鉛筆のスケッチだけど。車椅子に座ったまま、震える手で。十五分くらいかかったけれど、それは・・・、本当に美しいスケッチだったわ」

     小夜子はポケットから一枚の紙を取り出した。B5サイズの画用紙に、鉛筆で小夜子の顔が描かれていた。
    線は震えていたが、対象への愛情が一本一本の線に込められていた。

    「ありがとう。会えてよかった」

    「良い時間でしたか」

    「最高の時間だったわ」

     三日目の夜。
    小夜子の体に変化が始まった。
    指先にわずかに皺が戻り、髪の根元が白くなり始めている。
    八重のときと同じ経過だ。

    「そろそろね」

     小夜子は着物を丁寧に畳んだ。
    朱色の着物を箪笥に戻し、最後に・・・、白い木綿の着物に着替えた。
    死装束ではない。
    小夜子が日常的に着ていた、普段着の白い木綿。

    「わたしは、この家で逝きたい」

    「もちろんです」

     小夜子は奥座敷に布団を敷いた。
    自分で。最後まで、自分の手で。

     枕元に、自分が活けた紫陽花を置いた。

    「ハクさん。最後にもう一つだけ、お願いがあるの」

    「何でも」

    「手を握っていて。最後まで」

     ハクは小夜子の手を取った。
    長い指が、小夜子の手を包み込む。
    温かい。
    ハクの手は、あの最初の夜に額に触れたときは冷たかったのに、今は温かい。

    「ハクさん。あなたは・・・ずっとこうして、女の最期を看取っているのね」

    「はい」

    「寂しくない?」

    「寂しいです。いつも」

    「でも、やめないのね」

    「やめられません。これが僕の・・・、存在する理由ですから」

     小夜子は微笑んだ。

    「存在する理由、か。わたしの存在する理由は、花を活けることだった。そう思ってきたけれど・・・最後の三日間で分かったわ。花を活けるのは手段で、本当の理由は、人を美しいと思う心を持ち続けること。あなたの体を美しいと思った。歌子の震える手を美しいと思った。紫陽花が雨に濡れる姿を美しいと思った。それが・・・わたしが生きている理由だったのよ」

     小夜子の体が、ゆっくりと時間を取り戻していく。
    三十代の肌が四十代に、五十代に、六十代に・・・・
    髪も段々と白くなっていく。
    目の輝きが、少しずつ穏やかなものに変わっていく。

     枕元の紫陽花の花びらが一枚、小夜子の白い髪の上に落ちた。
    まるで花が別れを告げるように。

     でも・・・・表情は変わらなかった。
    最後まで、微笑んでいた。

    「いい人生だったわ」

     小夜子は目を閉じた。

     ハクの手を握ったまま。

     紫陽花の香りの中で。

     小夜子の最後の表情は・・・、八重と同じだった。
    幸福の極致。満ち足りた微笑み。

    十二 小夜子の葬儀

     小夜子の葬儀は、八重の葬儀から十日後に行われた。

     会場は同じ福岡市内の式場だったが、八重のときよりも参列者が多かった。
    生け花の弟子たち、花道関係者、近所の人々。
    小夜子の交友関係は八重よりも広かったのだ。
    受付のノートには六十名ほどの名前が並んでいた。

     愛理は参列者として出席していた。
    身内ではないのだが、小夜子とは不思議な縁ができてしまった。
    焼香の列に並びながら、二週間の間に二度の葬儀に出ていることの不思議を思った。
    二つの葬儀の間に、ハクという存在がいる。
    死を看取る者。
    死に花を添える者。

     棺の中の小夜子は、やはり幸福そうな顔をしていた。
    白い木綿の着物を着て、枕元に紫陽花が添えてある。
    弟子の誰かが活けたのだろう。

    小夜子が最後に活けた紫陽花と同じ品種だった。
    小夜子の指導が行き届いていたのだろう
    弟子の活けた花にも、小夜子と同じ空気が宿っていた。

     白い髪が、棺の中で銀色に光っている。
    あの黒髪はもう戻らない。
    でも、白い髪の下の顔は・・・、三日前に朱色の着物を着て鏡の前に立ったときと同じように、満ち足りて見えた。

     ハクはいなかった。
    葬儀には来ない。それが彼のやり方なのだろう。
    影のように現れ、影のように去る。
    数百年を生きる者にとって、一人の死者への別れは・・何度繰り返しても痛みを伴うのだろうか。
    それとも、もう慣れたのだろうか。愛理には分からない。

     式が始まった。
    読経の声が会場に満ちる。

     焼香の列に並びながら、愛理は参列者たちを見回した。

     小夜子の生け花の弟子たち。
    年配の女性が多い。
    六十代、七十代。
    中には八十代と思しき方もいる。
    小夜子が長年にわたって教えてきた人たちだ。
    彼女たちの多くが泣いていた。
    ハンカチで目元を押さえ、小さく肩を震わせている。
    師と弟子の間にある絆の深さが、その涙に表れていた。

     小夜子の甥にあたるという五十代の男性が喪主を務めていた。
    大牟田から来たと言っていた。
    小夜子との血縁は薄かったようで、儀礼的な挨拶をこなしていた。

     弟子たちの列の後方に、北九州の施設から車椅子で駆けつけた歌子の姿もあった。
    付添の介護士に車椅子を押されながら、歌子は棺の中の小夜子を長い間見つめていた。
    そして、震える手で小夜子の頬に触れた。
    介護士が慌てて止めようとしたが、歌子は穏やかに首を振った。

    「この人はね、わたしの一番の親友だったのよ」

     歌子の声は小さかったが、はっきりとしていた。

     その光景を見ていた愛理の目に、もう一人の参列者が映った。

     七十代後半に見える女性。
    小柄だが、小夜子と同じように背筋がまっすぐだ。

    上品な黒のワンピースに真珠のネックレス。
    髪は白髪が八割ほどで、品のある短髪に整えている。
    銀色がかった白髪が、照明の下でほのかに光を帯びていた。

     顔立ちは穏やかだが、目に強い意志がある。
    鼻が高く、頬骨がやや張っていて、どこか西洋的な印象を与える。
    長年海外に暮らしていた人特有の、日本人離れした佇まい。

    焼香のときの所作が美しかった。
    合掌の仕方が独特で・・、おそらくカトリックの影響を受けているのだろう
    微かに十字を切るような動きが混じっていた。

     隣にいた小夜子の弟子の一人が、愛理に囁いた。

    「あの方、小夜子先生の一番古いお弟子さんなのよ。志乃さんというの。翻訳家で、昔フランスに住んでいたらしいわ。もう七十八だけど、まだ現役で翻訳の仕事をしているんですって」

     志乃さん、と名前を心の中で繰り返した。

    「フランス文学の翻訳をされているの。ボーヴォワールとかデュラスとか、女性作家を中心に。小夜子先生とは、フランスの花文化の話で意気投合されたって聞いたわ」

     志乃は棺の中の小夜子を見つめていた。
    長い間、じっと。
    その目に涙はなかったが、何かを深く考えている表情だった。
    唇がかすかに動いている。
    フランス語の祈りだろうか。
    あるいは、声にならない別れの言葉か。

     愛理には志乃の手が印象的だった。
    小夜子と同じように長い指をしているが、小夜子の指が芸術家の指だとすれば、志乃の指は学者の指だった。
    ペンを持ち、辞書を繰り、キーボードを叩き続けてきた指。
    少し曲がった右手の中指に、ペンだこの名残がある。

     焼香が終わった後、志乃が愛理のところに歩み寄ってきた。
    歩き方も印象的だった。
    小柄なのに歩幅が広く、靴音がはっきりとしている。
    フランスの石畳の上を歩いてきた人の足音。

    「あなたが愛理さんね。小夜子先生から聞いていたわ。八重さんのお孫さんでしょう」

    「はい。志乃さんですか」

    「ええ。小夜子先生には四十年お世話になったの。生け花を通じて、花の本質を教えていただいたわ。翻訳の仕事にも、先生の美意識はずいぶん影響しているの」

     志乃の日本語は流暢だが、アクセントがわずかに標準語と異なる。
    長年のフランス暮らしの痕跡だろう。

     志乃は棺に目を向けた。

    「先生、幸せそうな顔ね。八重さんのときと同じ・・・いいえ。八重さんの葬儀のとき、小夜子先生がおっしゃっていたのよ。『こんなに幸せそうな死に顔は見たことない』って。そうしたら、先生自身がこんな顔で」

     志乃は愛理に視線を戻した。
    柔らかいが、目の奥には鋭い光が見える気がした。
    翻訳家の目。
    言葉の裏にあるものを読み取る訓練を積んだ目。

    「何かあったのでしょう?」

     愛理は答えなかった。すぐには。

     でも
    志乃の目を見ているうちに、またあの感覚がよみがえった。
    小夜子に話したときと同じ。
    この人になら
    話してもいいかもしれない、という感覚。

     不思議な連鎖だ、と愛理は思った。
    八重から小夜子へ。
    そして、小夜子から、志乃へ。

    ハクの存在が、一人の女性から次の女性へと、糸のように繋がっていく。
    まるで、花が次の季節の花に種を渡すように。

     愛理自身は、この連鎖の中でどういう立場にいるのだろう。
    自分はハクの力の対象にはならない。
    二十七歳で、白髪はまだ一本もない。
    寿命が尽きようとしているわけでもない。

    愛理の役割は
    語り部だ。

    ハクと女性たちの物語を見届け、次の人へと繋ぐ者。
    それは地味な役割かもしれないが、ハクにとっても、女性たちにとっても、必要な存在なのだと思いたかった。

     棺の中の八重の紫陽花が、空調の風でかすかに揺れた。
    生きている花のように。
    いや、小夜子が活けた花は、小夜子が亡くなった後もまだ生きている。
    花の命は短い。
    でも、その短い命を最も美しく見せることを、小夜子は生涯をかけて追求した。

    ハクがやっていることも、本質は同じかもしれない。
    人の命の最後の数日を、最も美しく輝かせること。

    「少し・・・、長い話になりますが」

    「時間はあるのよ。わたしは翻訳家、長い話を聞くのは得意なの」

     志乃は微笑んだ。
    フランス仕込みの、どこか洒脱で温かみのある微笑みだった。
    その微笑みの中に、鋭い好奇心と深い知性が光っていた。

     窓の外には、六月の雨が降り始めていた。
    紫陽花の季節。
    小夜子が最後に活けた花の季節。
    雨粒が窓ガラスを伝って流れていく。
    その一粒一粒が、小さな別れであり、同時に新しい季節の始まりでもあった。

     愛理は深呼吸をして、八重、そして小夜子の物語を話し始めた。

    (第一話 了)

    ※現在更新・校正・修正中 2026/07/08 リアル日本一周中なので修正は後日

    #創作大賞2026 #エンタメ原作部門   (#作画者募集中 #コミック化希望 )

     
     
    福岡市に在住。普段は警固・薬院近辺で飲み歩いていますが、車で夫婦日本一周(車中泊は嫌いだからホテル泊ね)を始めたので日本中の美味しいお酒・食べ物を探して行こうと思っています。(※トップ画像はレコードジャケット) 尚、写真は自分で撮影した物なので二次利用は禁止とします

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