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卑怯者の祈りープリコラージュによる新しい神話ー

    この論考は、2026年5月5日に10個の記事に分けて掲載した文章をひとつの記事にまとめ、追補の論考を付け足したものです。
    資本主義に行き詰まり、生きる意味を見失っているこの世界をどうすれば良いのか。その解決策を考えるにあたり、この論考が参考になれば幸いです。



    プロローグ:木に登る

    アーシュラ・K・ル=グウィンは、厳しい作家である。

    大抵の場合、ただ楽しんで作品を読むということを許さない。SFであれ、ファンタジーであれ、作品の背後に現実を透かし絵のように配置している。

    彼女の作品に『オメラスから歩み去る人々』という短編がある

    この短編では、オメラスというある幸福な街が描かれる。この街では地下牢に1人の子どもが幽閉されており、この子どもに不幸を集めることで街全体の幸福が担保されている。そのことを街の住人の全てが知っている。そのことに耐えられない人がひとりふたりと街を歩み去る。

    シンプルに言えば、生贄譚であるが、昔話のそれと引き比べると、ずっと生々しく現実を想起させる。

    これは、わたしたちが現在暮らしているこの世界を描いたものだ。

    現代の先進国は、すべからくオメラスであり、現代の先進国に住む私たちはオメラスの住人なのだ。

    私の心はオメラスから歩み去りたがるが、現実のこの世界では、歩み去ることは不可能だし、オメラスの住人と同様、歩み去る勇気を持つことは非常に難しい。

    さらに絶望的なのは、現代の先進国だけがオメラスなのではなく、人間社会はどこまで行ってもオメラスでしかあり得ないのではないのかという想像が、おそらくかなり高い確率で真実であろう、ということだ。

    常に、誰かの幸福の裏には誰かの不幸が存在する、つまりトレードオフの関係にある。さながら低気圧と高気圧のように。

    私は、この問題をいつも考えてしまう。

    わたしは以前、マナーについてこう述べた。「マナーとは他人に嫌な思いをさせない為の行動の取り方のことで、その実現のためには、自分の都合は二の次とわきまえるべきだ。それでは自分が損をするではないかという反発が予想されるが、心配ない。相手もあなたを優遇するのだから。お互い少しずつ損をしようではないか。」と。

    わたしは、『オメラスから歩み去る人々』を読んだ時、不幸の再分配はできないのだろうかと考えた。そのようなユートピアを夢想した。しかし、不幸を再分配すると、幸福の量はどの程度減ってしまうのだろうか。マナーのような、少しずつの不幸の負担では済まないのではないだろうか、という誰もが抱く不安が、このユートピアの実現を阻む。
    不幸が均一に再分配された社会は、ユートピアたり得ないかもしれない。

    アーシュラ・K・ル=グウィンは、別の作品、『所有せざる人々』で、それに近いユートピア「アナレス」を描いて見せ、それがやはり、私たちの思い描くいわゆるユートピアとはかけ離れていることを明示する。

    しかし私は、弱肉強食がこの世界の真理なのさ、と、わけ知り顔で得々としていることに耐えられない。そして、多くの人が、耐えられないでいるのに、オメラスを歩み去ることができない。

    不幸が川下に流れ去り、私たちは安堵する。その不幸が、澱みに溜まって動いていかないことを、知らぬふりをしている。
    本当ならば、わたしたちはその澱みに飛び込み、不幸をかき乱して、その幾らかは自らの身に浴びて、それでも不幸を分散させる義務があるのではないか。

    これを実行している人は存在するが、彼らが奮闘しても、川上には不幸を澱みに押しやる大集団が存在する。そして私はその集団に属している。

    わたしが夢想するのは、戦争や難病などの極端な不幸のない世界である。
    おそらく、それが最善のユートピアであろうと想像している。

    私たちの幸・不幸は、低気圧・高気圧とは違って、コントロールできる部分がある。現に、コントロールして幸を引き寄せ、不幸を他人に転化する術を持っている。ならば、不幸を再分配することもまた可能なはずだ。いや、だがしかし。

    そんなことを考えながら、私は川辺で澱みを眺めている。

    アーシュラ・K・ル=グウィンは、このようにして、オメラスか、アナレスか、それとも、と、この川辺にわたしを連れてきた。

    澱みに飛び込む勇気のないわたしは、手近な木に登ってみることにした。木の上からならば、川の様子もよく見えるだろう、他にも川があるかもしれない。木に登る途中、いく人かと出会った。彼らの言葉を聞きながら、川を見ながら考えた絵空事を記していこうと思う。



    1.「生きる意味」の正体

    なんのためにうまれて、
    なにをしていきるのか
    わからないままおわる
    そんなのはいやだ

    アンパンマンの主題歌である。

    なんのためにうまれてなにをしていきるのか、という問いは「生きる意味」と言い換えて差し支えないだろう。
    古今東西老若男女、だれでも一度は考えたことがある問いではなかろうか。
    この問いに関して色々と見聞きするが、どうも、この問いは2つの側面に分けることができそうである。

    『夜と霧』でヴィクトール・フランクルは「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく」と言った。これは、あらかじめ意味が存在すると考えてその意味を探す、提供してもらうという受動的な態度をやめようということ。
    そして「生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ」というのは、意味を自ら人生に付与していくという能動的な態度のことではなかろうか。

    昔、「最近の若い人は、生きる意味などないと思っている」と、ある文化人が言っていた。
    わたしは、あらかじめ決まっている意味などはない、と考えている。きっと、彼の接した「最近の若者」も、そういう文脈で意味などない、と答えたのではないか。
    生きる意味という言葉の定義を明らかにせずに話を進めてもらっては困る。
    曖昧に問うことは、危険だ。
    この文化人はいつもこの卑怯な手を使う。

    さて、それはともかく、人間以外の動物はどうだろうか。
    彼らは意味という概念を知らないだろう。

    概念とは、さまざまな事象に人間が貼り付けるラベルのようなものである。それによって人は世界を認識できる。人間特有の、欠くべからざる便利な道具である。人間の感覚機関の一つと言っても良いかもしれない。
    世界には、名前も、意味も、そもそも存在しない。人間がそう名づけ、説明しているだけだ。

    そう考えると、生きる意味を問うというのは、当然世界に隠されていた意味を暴き出すということであろうはずがないし、意味を付与したところでそれが正解だとか間違いだとか判断することには、それこそ意味がない。
    悪く言えば、生きる意味というのは自分を納得させるための方便でしかないのではないか。

    「わたしの人生は意味のある人生だ」、と誰かが言ったとしよう。「ではどんな意味が?」と問われた時、彼がどう答えるにしろそれは結局、「あれやこれやいろいろだよ。とにかくわたしの人生は良いものだよ、わたしは満足しているんだ」というだけのことなのではないか。

    「わたしの人生には意味がある!」と言う時、おそらくそれは、生きている実感があるとか、わたしは生きていていいに決まっているという、自信に満ちあふれた、根拠のない、そして力強い生の肯定なのではないか。

    人が生きる意味を問う時、たいていその人は何らかの危機に陥っている。自分のしていること、自分の存在に疑義を抱いている。生をどう肯定すればいいのかわからなくなって揺らいでいる。

    危機に陥った時、なぜ生きなければならないのか、生きる意味なんてあるのかと考えるが、それを裏返すと、なぜ世界はこのようにあるのか、と、問うことになる。世界を概念で規定することで、自分という存在の境界線を確かなものにしようとする。それを、生きる前提と呼んだり、生きる意味と呼んだりする。

    問題なく生きていれば、世界がどんな仕組みであろうと関係がない。考える必要がない。

    つまり、生きる意味、というのは、危機に陥った人が何とか立っているための緊急手段としてのつっかえ棒なのだ。
    フランクルの言っていたことも、そう考えれば納得がいく。

    なぜ雨が降らないのか、といった単純で切実な問いから信仰は生まれただろう。
    ヤハウェという一地方神が実は唯一神なのだという発明も、ユダヤの王や司祭たちがバビロン捕囚の最中に必死で捻り出した"最強の言い訳"として生まれたと言えるだろう。生きる意味というつっかえ棒は、単純で素朴であるほど頑丈だ。

    現在に生きる私たちには、世界というものがより精細にみえてしまっている。そして、細かく見れば見るほど、見えていないものの存在がわかってくる。細かく追求すればするほど、世界の輪郭はぼやけ、逆にこれまで用意されていたつっかえ棒が偽物であったということがくっきり見えてくる。

    誠実で頭の良い人であればあるほど、このようなシンプルなつっかえ棒が真実であると自分を騙すことができなくなる。考えれば考えるほど、つっかえ棒は細くなり、しまいには全く見えなくなってしまう。

    そんな世界で、わたしたちはどうすれば良いのか。



    2.資本主義の功罪

    わたしは不幸を再分配すべきだと思った。しかし、わたしたちひとりひとりはそれに耐えられないだろうし、そもそも、分配不可能な種類の不幸がたくさんある。

    そこでわたしは、不幸の中でも特に大きなものを無くしたり減らしたりできないものだろうかと考えた。

    わたしが思いつく大きな不幸は、戦争と病気である。

    現代のわたしたちを取り巻いている状況の中で歴史上最も特殊で最も支配的な影響を与えているのが「資本主義」という経済システムであることに異存はないだろう。

    そして、戦争と病気を大幅に減らしたのが、この資本主義である。

    資本主義の性質に従えば、戦争で相手を殺して奪うよりも生かして取引する方が安上がりだし、継続して利益を生み出せる。その意味で、資本主義は戦争の大きな抑止力となっている。

    また、資本主義は科学と技術を加速度的に発展させた。それに伴った医学の飛躍的な進歩こそが、最大の功績だと言ってもいいだろう。どれほどの病が資本主義の恩恵として治療可能になっただろうか。

    資本主義が人類の不幸を減らすのに大きく貢献していることは間違いない。わたしたちは幸いにもその恩恵に浴している。その中でもわたしたち現代日本人は、人類史上最も幸福であると言っても差し支えないだろう。

    しかし一方で、「生きる意味」を探さなければならないほど生きづらさを感じる人が多く、そのことに資本主義が大きく関わっていることも否めない。

    かつて世界の人々は現代の我々に比べて、より多くの困難の中にいたが、その代わり太くて頑丈なつっかえ棒に支えられていた。
    それは、宗教だったり、地域の共同体だったりしただろう。
    生まれた時にはすでに、確固たる世界の概念が出来上がっており、自分が何なのかを規定することができた。すでに用意された「生きる意味」にしっかり掴まることで、困難をやり過ごすことができた。

    それが失われてしまった理由は、科学の発展によって世界をより高い解像度で理解することが可能になってしまった、つまり、つっかえ棒が偽物だと気付かされてしまったからだ。

    これは、皮肉な言い方をすれば資本主義の推し進めた科学の「成果」の一つである。

    こうしてつっかえ棒を失ってしまったわたしたちは、資本主義という巨木にぶらさがる以外になす術がない状態におちいっている。

    ミルトン・フリードマンは、「自由市場の最大の利点は、取引相手が誰であるか(黒人か白人か、あるいはどのような宗教信者か)を気にせず、「相手が自分にとって価値のあるものを提供できるか」という点のみで判断されることだ」と述べたという。実際、このことは素晴らしい利点である。宇野常寛さんが『庭の話』の中で言っていることの芯には、これがある。

    そして、このことは、白井聡さんが『武器としての資本論』の中で言っている「資本は人間に関心がない」ということのひとつの証左でもある。資本は黒人か白人かということを気にしない。しかし、と同時に"人間かどうか"も気にしないのだ。より価値を生み出せるものがAIであれば、当然AIに仕事をさせる。AIに仕事を奪われるというのはこのように、何に仕事をさせるかという決定権を資本が握っているということだ。人間はその権利を握っていない。

    これまでも、複写の仕事はカーボン紙に、コピー機に、ctl+cとctl+v(あるいはcmd+cとcmd+v)に、計算は電卓に、表計算ソフトに、と次々と人間を仕事から切り離してきた。だが、それを決定したのは我々のようでいて実は「資本というメカニズムに従う我々」なのである。

    できないやつは稼げなくて当然、と、当たり前のように言うが、このままいけば、全人類が「できないやつ」になるということだ。

    この時、よく聞くのが、「人間は創造的な仕事をすれば良い」というセリフだ。

    子どもが小学生の時にこんなことがあった。
    わたしはPTAの会議に参加していたのだが、その時、ベルマークの集計がなかなか大変だという話が出た。

    わたしはそれを子どもにやらせてはどうかと提案した。わたしが子どもの頃、児童会にベルマーク委員会というのがあって、実際集計作業をしていたからだ。

    しかし、教務主任は「子どもに作業みたいなことをさせるわけにはいきません。子どもには、創造的なことをさせることになっています」と言う。

    創造というのは、ゼロから始めることはできない。何かしら現実に困難があって初めて創造の端緒である工夫が始まるのではないか。

    摩擦のないところには何も生まれない。

    効率を追求するのは悪いことではない。だが、それを追求するあまり、人間にとって大切な部分すら手放してしまって良いのだろうか。

    今のところ、人間とAIの最大の違いは「自発する」かどうか、であると言える。しかし、それもいずれ溝が埋まっていくかもしれない。

    であるならば、自発するための摩擦の根源ともいえる「作業」の部分を放棄するというのは、ほとんど自殺行為となる。

    わたしたちは、誰が仕事をするのか、という決定権を自らの手に取り戻さなくてはならないのだ。



    3.ウロボロスの蛇

    資本主義は、頑張れば頑張るだけ幸せになれるという新しい神話だ。
    それは、非常にシンプルで、かつてないほど頑丈なつっかえ棒だと思われてきた。

    生きて良いという証は、お金だと。
    働いたから、このお金で生きることをゆるす、存在することをゆるす、と。

    しかし、「本当にこれが生きるのに必要な行為なのか?」という仕事が非常に多い。

    わたしは、生きるというのは生活を営むことだと考えている。しかし、現代の「労働」は、「営み」からかけ離れている。

    衣食住をはじめとしたインフラを整えることこそ、営みと呼べるだろう。いわゆる、実業というやつだ。

    しかし、現代の仕事の大部分は実業ではなく虚業である。わたしは、虚業をエンタメと呼んでいる。

    資本主義は、単に頑張って稼げ、ということではない。貨幣経済自体は資本主義以前からあったのだから。資本主義は、とにかく増せ、とわたしたちに脅迫してくる。必要なものが必要なだけ揃っても、もっと増せと要求してくる。そうしなければ奈落の底へ落ちるぞ、と。
    虚業は、このような要請に応えるために、無理やり価値を貼り付けたハリボテであるといえるだろう。

    エンタメを作成して賃金をもらい、その賃金でエンタメを消費する。まるでウロボロスの蛇のようではないか。資本主義が我々に産み付けた卵から孵った蛇である。

    資本主義というつっかえ棒はこのように厳しい条件付きであり、非常に使い回しが悪く、ちょっとしたことですぐに折れてしまう代物だという事実に、わたしたちは今直面している。

    うまくいっている人はつっかえ棒を探さない。それは、端的に言って、運が良いだけかもしれない。生きる意味を探さざるを得ない人から見れば、つっかえ棒がなくても立っていられる状態は憤りを感じつつも羨ましいはずだ。
    ならば、幸運がなくてもつっかえ棒を必要としない状態が作れれば良い。

    概念はクレヨンのようなものだ。概念というクレヨンを使って自分の外界を塗り潰すことで自分の輪郭が見えてくる。しかし、クレヨンで自分以外の世界を塗り潰すのは永劫の作業となる。自分の周りは、ミクロにもマクロにも果てがないからだ。

    つっかえ棒がなくとも、クレヨンがなくとも、つまり概念を多用せずとも、自分自身を感じ取ることができればいい。

    その、自分自身を感じ取る方法こそ、「実感」ではないだろうか。生きる意味ではなく、生きる実感こそが、私たちに本当に必要なものなのではないか。

    仏教で言う瞑想は、たぶんこのことだ。
    仏教の瞑想は、静かに自分の呼吸、脈拍を観ることが基本だという。この「観る」というのは、「実感する」ということだろう。

    皿洗いをしていて、その作業だけに没頭していることがある。あの時、わたしたちは、皿のざらつき、洗剤のぬめり、水の温度という「自分の外側」を実感している。没頭とは、実感のみの世界に存在している瞬間だと言うことができるのではないか。皿のざらつきを感じるということは、逆説的に自分の指の存在をあらわにする。それは、自分の呼吸を観ることと同等なのではないか。
    この時、私たちは概念抜きで自分の存在を感じている。これが、「実感」なのではないだろうか。

    これはおそらく動物と同じ状態だ。

    動物と同じ野生に帰れと言うことか。そうではない。だが、そうした瞬間が人間には必要なのだ。

    この時私たちは大地にしっかりと立っている。

    考えながらも、時折り大地に立っていることを確認する必要があるのではないか。

    ハンナ・アレントは、労働を下位のものと定義した。だが、それが土台になってこその人間だと示したとも言える。

    彼女が著作『人間の条件』で提示した問題は、社会の構造の話にするのではなくて、個人の構造の話にしなければならないのではないか。

    一人一人が、労働し、制作し、世に現れ、観照する。そして、労働の作業の中に実は観照がある。

    これを分担してはいけないのだ。

    私たちに必要なのは、こちらのウロボロスの蛇なのではないか。



    4.資本主義のふたつの未来

    さて、現代のわたしたちの生きる意味の喪失が、資本主義に負うところが大きいと想定した上で、ではその資本主義をどうするか、という問題が立ち上がる。

    資本主義の問題としてもっとも大きく取り扱われるのは環境問題であろう。人間の生きる意味の喪失の問題よりも、こちらの方が待ったなしであることは、論をまたない。

    わたしは30年ほど前に、「持続的成長」は語義矛盾である、と指摘したことがある。おかしいと思ったのだ。世界は有限なのに、と。
    今になってこの言葉を読み返してみると、語義矛盾ではないのだが、物理的にありえないことだ、と言いたかったのだろう。

    それから30年経った今も、「持続的成長」という言葉は金科玉条のように、さも当たり前のような顔をして世間を闊歩している。

    昨今の夏がこんなに暑いのに、実感を無視して、環境破壊なんて嘘だと言って「持続的成長」を推し進めようとする。確かに、わたしには本当か嘘かはわからないが、研究者がそんな嘘をついてなんの得があるのかもわからない。逆に、嘘だ!と言うことには短期的なメリットが確実にあるということはわかる。

    そこへ颯爽と登場したのが斎藤幸平さんである。斎藤幸平さんは、脱成長をうたい、共同体の再構築を訴え、地球環境の悪化を食い止めようとしている。わたしも大賛成である。
    だが、ひとつの懸念が頭から離れない。

    理解不足なのだろうが、斎藤幸平さんのいうとおりにするというのが、あたかも、村社会に戻るようなイメージを持ってしまうのだ。

    ただでさえ、コミュニケーション不全の人が多い時代である。テレビのドキュメンタリーなどで、新しいコミュニティの試みなどを見ると、あぁ、あの中には入れねぇな、と思うことがよくある。

    宇野常寛さんが言っているのも、このことだろう。

    わたしの妻も、肉屋とかでお店の人と喋りながら買い物をするのは苦手、スーパーの方が気楽だ、と言う。

    よくわかる。

    もうひとつわたしが違和感を持つのは「戻る」ということだ。わたしの認識では、歴史は戻らない。常に過去の土台の上に次の状況が作られる。斎藤幸平さんの話は、本人は決してそうは言っていないが、わたしには、「戻りましょう」と言っているように聞こえてしまうのだ。

    日本の将来を憂いている現代の知性の代表としてもうひとり、チームみらい代表の安野貴博さんがいる。

    彼はご存知のとおり、デジタル技術を活用した日本経済の成長戦略を描いている。
    国会という魔窟に明晰な頭脳という武器を持って乗り込み、古い非合理的な場を改革しようとしている。彼の、「だれも敵にせず、だれにでもわかる言葉」による質疑応答の姿勢は惚れ惚れするほどである。わたしも応援している。

    だが彼は、立場として当たり前なのだが、資本主義を加速させることを考えている。経済成長を考えている。

    先日、わたしの注目しているこの2人の対談がYouTubeで公開されているのを拝見した。

    この中で、斎藤幸平さんの質問に答えて、資本主義は、まだ成長できる、昨今のAIの発達で、核融合の技術的課題が従来とは比較にならないスピードで解決されつつある、核融合を使えばもっともっと成長できる、ということを言っていた。

    この時、わたしは納得はしたが、同時に落胆した。

    誰もが資本主義で相手より優位に立つことを考えている、と。澱みは深くなるばかりだ、と。

    わたしは、資本主義をやめる(資本主義から撤退する)ことにも、推し進めることにも、賛成できない。

    では一体どうしたらいいのだろうか。



    5.果実

    安野貴博さんの核融合の話しを聞いた時、わたしは落胆したが、同時にこう考えた。

    共有財産にしたらどうだろう、と。

    核融合はエネルギー問題において、空前のゲームチェンジャーになるという。
    しかし、ゲームチェンジャーなどというかっこ良さげな言葉を使っているが、それはつまり、核融合の莫大なエネルギーさえ、資本のエサにしてしまえ、ということではないか。

    誰かが核融合を独り占めにし、資本の大車輪を回して自分だけ莫大な富を得ようと考えている。誰だってそう考えるのが当たり前だと思っている。

    そんな莫大なエネルギーを、まだ資本に食わせようというのか。それではわたしたちは永久に決定権を手にすることができないではないか。

    しかし、この莫大なエネルギーを世界の共有財産にするなら、これは実態を伴うセーフティネット、いや、セーフティシートになるのではないか。

    資本主義はキリスト教を苗床に育った巨大な樹木である。

    ならば、資本主義を今一歩推し進めて、その最大の果実である核融合を手に入れてしまえばよい。いや、手に入れるしかない。戻ることは出来ないのだから。

    手に入れた後、わたしたちがそれを分け合うのか、それとも資本のエサとして差し出して自分だけが醜く太るのか、それが人類の分岐点になるとは言えないだろうか。

    わたしは分け合う方を選びたい。

    わたしの答えはこうだ。

    資本主義を加速させよう。
    そして果実をもぎ取り、資本主義を卒業しよう。
    資本主義を苗床にした新しい社会を作ろう。



    6.ユートピア

    さて、それをどうやって成し遂げるのか、わたしは知らない。

    なんとなく、そんな景色が見えただけだ。
    単なる蜃気楼だ。

    とはいえ、見えた蜃気楼をもうちょっとお見せしていきたい。

    その世界で私たちは、午前は皆、実業に携わるのだ。家を建て、道を作り、服を作り、食べ物を育てる。
    そして午後は、虚業に没頭するのだ。
    あたかもローマ人のように。
    だが、そこに奴隷はいない。

    わたしは、アニメも見たいし、漫画も読みたいのだ。漫才も面白いし、スポーツが好きな人はそれを楽しんで良い。もちろん音楽だって。だから、午後、虚業に勤しむ。

    資本主義が大きくなっても、キリスト教がなくなったわけではない。同様にこのユートピアでも、資本主義が消えて無くなるわけではないだろう。違いは、骨抜きになった資本主義のメカニズムを私たちがツールとして使役するようになることだ。そうなると、資本主義とは呼べなくなるかもしれないが。

    こうしてわたしたちは、誰を犠牲にすることなく、足ることを知り、地道に生を生きることができる。

    エネルギーは無尽蔵。フィジカルAIも量子コンピューターもある。じゃあ、人間は何もしなくてもいいじゃないか、と思うだろう。わたしもそう思う。

    だが、この世界では、わたしたちはすでに、何にどの仕事をさせるのかという決定権を握っているのだ。

    作物を育てる仕事は大変だ。家を建てるもの、実業と呼ばれる仕事は軒並みたいへんだ。
    だが、おそらくそこには生きている実感がある。何のためにやっているのか、はっきりと分かりきっている。

    その、私たちにとってかけがえのない行動を、何も全て機械に譲ってやる必要はないのだ。

    わたしたちは本気で実業をする。それでも天気などの不確定要素は私たちを襲う。その時こそ、機械の出番だ。わたしたちは、そのようにツールを使役するべきだ。

    巨大な力に頼り切ることがいかに危険か、私たちはこれまでの歴史で骨身に染みている。

    巨大な力を土台そのものではなく、最強の水漏れシートとして使役する。

    わたしは、そんなユートピアを夢想する。



    7.フリーライダー、あるいは卑怯者

    このユートピアは、一言でいえば「ただ乗り」といえる。

    ひとが一生懸命作ったものを、みんなによこせ、というのだから。

    少しわたしの話をしよう。
    わたしは、フリーライダーと蔑まれる立場の人間だ。
    収入は乏しく、自治体の税優遇はほとんど全て受けられるほどだ。

    わたしはかなり前に社会から半ばドロップアウトした。
    しかし、わたしにはそこそこ裕福な親がいる。
    このセーフティネットを幸運によって保持している。

    わたしは、それを極力当てにしないで生きているつもりだ。
    昔から言う「呑む・打つ・買う」の道楽とは無縁の生活だ。酒は付き合いの時だけだし、博打も女遊びも、これまでただの一度もしたことがない。
    車はやめたし、髪の毛も自分で切っていた。整髪料すら惜しみ、ほぼ坊主に近い髪型だった。炊飯器もないし、電気ポットもない。清涼飲料水は贅沢品。旅行は子どもの遠征試合の応援のみ。

    朝4時半に起床し、家の家事をあらかた片付け、きっかり9時から17時まで遺跡関連の仕事(わたしの基準では虚業)をし、帰宅すれば晩飯を作り、妻や子どもらと食し、22時には寝床につく。

    しかし、いくら清貧に規則正しく暮らしたところでそれは、最悪なんとかなる、という卑怯な目測にもたれかかってのことだ。

    いつもこの罪の意識に苛まれながら生きている。

    そこでこの卑怯者は考えた。

    みんながわたしと同じ程度のセーフティネットをもてたなら、わたしは卑怯者じゃないんじゃないか?という、とんでもない屁理屈である。これぞ、最高に卑怯な「言い訳」である。

    現代版バビロン捕囚である。
    だから、タイトルに神話という言葉を入れたのだ。

    わたしの立場は、いわば逆説的有閑階級と呼べるだろう。アレントの言葉を借りれば、家政を世の中の人々の労働(税金)に任せ、このような役にも立たない思索に耽っている。現代風に言えばフリーライダーというやつだ。

    しかし、やや強めに言わせてもらうが、フリーライダーという言葉を使う人々は、自分も全歴史の成果にただ乗りしていることを忘れている。

    成功者と落伍者の違いは、実はわずかなものではないだろうか。乗れたか乗れなかったか、その差でしかない。

    このことを考える時にわたしがいつも思い浮かべるのは、テレビアニメ『Zガンダム』のワンシーンである。
    登場人物の1人、ジェリドは、基地が爆発するという時に、数多くの仲間を足蹴にして脱出する飛行機にしがみつく。

    フリーライダーと罵る人々は、「わたしは頑張ったんだから当然だ」と言う。しかし、その人の言う努力は、ジェリドが飛行機にしがみつくための努力とだぶって見える。

    そして、残念ながら、今のところそれが真実なのだ。生きるためには、なりふり構わず、他人を押し除けなければならない。それを責めることはできない。

    だからわたしは、それをしなくても良い世界が見たいのだ。
    (なによりも、わたしの罪の意識をそそぐために)



    8.プリコラージュ

    さて、ここでもう一つ白状しておこう。

    この論考で、さまざまな著名人の言葉を引用してきた。

    ところがわたしは、彼らの著作を実はほとんど「読んでいない」のだ。

    アレントの『人間の条件』は現在読んでいる最中だが、半年かけてまだ"第5節ポリスと家政"までしか到達していない。

    斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』は読んだが細かい部分はほとんど忘れている。

    白井聡さんの『武器としての「資本論」』、宇野常寛さんの『庭の話』は全く読んでおらず、これらの著作に関するインタビューをYouTubeで見ただけだ。

    つまり、彼らの論じた内容をほとんど知らずに、聞こえてきた言葉を勝手に都合よく解釈してつぎはぎしたのだ。本の中にある言葉なのかどうかすら知らない。

    これは、わたしの大嫌いな陰謀論やエセ健康情報と全く同じやり口だ。いや、もっと酷い。

    わたしの論考とも言えない文章をお読みになって、おかしなところをたくさん発見されたことだろう。

    概念という言葉自体を、そもそもわかってないんじゃない?それって、その本の中で否定されてなかった?なんて思わなかっただろうか。

    これが、その理由である。

    そういう意味でも、卑怯者と罵られるに値する。

    だが、もうここは開き直って、言わせてもらおう。

    わたしは、今回言葉を拝借した本は読んでいないが、知識人とか、学識者とか呼ばれる人たちの書いた読み物をそれなりに読んできた。

    だが、そこに書かれている話は、とても複雑で、非常にわかりにくく、いろんな条件がつけられていて、正直誰かにわかってもらおうとは思っていないのではないか、と思うことが度々だった。出典は?とか、エビデンスは?とか、もちろん大事なことだとわかっているが、なにか完璧でなければ物事を言ってはいけないかの如くである。

    その真逆がSNS上にはびこる陰謀論やエセ健康情報である。いくらなんでもそれはないだろうというような話題が満載である。そのくせ、さも学術的であるかのようにエビデンスが、とか、論理的に、とかいう言葉だけは一丁前に使う。わかりやすいが、アホらしく、怒りすら感じる。

    少し前、我が家で法事があったが、その際和尚が持ってきたその宗派の広報誌を見ると、今度はがっかりである。とにかく仏様はありがたい、ということしか伝わってこない。申し訳ないが文章もはちゃめちゃだ。かなり大きな宗派である。わたしは本当に落胆した。やはり、わかってもらおうとは思っていないようだ。というより、わかっていて書いているとはとても思えない。和尚と話をしても、上座部のことなど一切知らず、自分の宗派の教義の論理的な部分ですらお手上げのようだ。お作法しか知らない。

    マインドフルネスだとか、ヨガだとか、土いじりが疲れた心に良いとか、巷ではさまざま紹介されているが、それがどうして役に立つのか、それを必要とする背景はなんなのか、といったことには、微塵も触れない。

    わたしが、読んでわかりやすく筋も通っていると思ったのは、岡田斗司夫さんの著作くらいのものだ。はて、なんという題名だったか。洗脳がどうとか言っておられた。

    とにかく、このように極端なことが、現在の日本では混在している。

    それならば、言葉を多少いい加減に使っても、目的に合致して、役に立っているのであれば、それは構わないのではないか。それは学術書より劣っているとは必ずしも言いきれず、わたしのような一般人にとってはむしろ有用かもしれない。少なくとも、同じようにいい加減に言葉を使っている陰謀論よりはずっとずっとずっとマシではないかと思ったのだ。
    まあ、役に立てばの話だが。

    転用砥石というものをご存知だろうか。

    遺跡の発掘現場ではしょっちゅうお目にかかる遺物である。これは、石器、土器、陶器のかけらなどを砥石に転用したものである。陶器の一部分が戸車に転用されたりもする。

    つまり、手近なありあわせのものを有効に活用したということだ。

    レヴィ・ストロースがブリコラージュと呼んだのは、こうした元の目的とは異なるもの同士をつなぎあわせて有用なものを作ることだろう。
    (『野生の思考』も最初の数ページで挫折したので当てずっぽうだが。それが証拠に今日までブリコラージュをプリコラージュだと思い込んでいたくらいだ。それを示すために、タイトルにプリコラージュという間違った言葉を残しておくことにした。)

    つまり、わたしは今回、言葉のブリコラージュを試みたのだ。

    神話というものはおそらく、古代の人々が自らの置かれた状況で知りうる事象を役に立つものに仕立て上げようとブリコラージュしたことによってできたものだろう。

    ある知識を完全に理解することは、個人的には最重要事項とするくらいに大事にしたいと思っている。だが、それをわかっているだけでは、何の役にも立たない。

    元の意味から離れた荒削りな言葉も、時には勢いで転用して何かを作る素材として活かす。

    あたまの中に難しい言葉を大事に陳列しておくよりはマシかもしれない。

    わたしはこれまで、さまざまなことに疑問を持っていた。

    資本主義の問題、環境問題、戦争の問題は、富野由悠季さんの小説『Zガンダム』を読んだ小学生の時から関心を持って眺めてきた。
    生きる意味については、わたしが一番尊敬する友人から投げかけられ、以来数年、常に頭の中に置いていた問いだ。
    それが今回、頭の中でパチっと音を立てて繋がった。(ような気がしているだけかもしれない)

    そこで、有り合わせの言葉を緊急動員してこのような論考を試みたのである。

    卑怯なやり口かもしれない。しかも内容はお花畑の極み。彼はこれを読んで怒るかもしれないし、まるで的外れだと笑うかもしれない。しかし、この論考は、生きる意味という問題を提示してくれた友人への、現時点での最大限真摯な回答のつもりである。

    あらためて宣言するが、この論考は、わたしの罪を少しでもそそぐための言い訳である。

    そして、わたしなりの、それこそ真摯な、川の澱みへの、世界への、祈りでもあるのだ。



    エピローグ:川辺

    さて、わたしは木から降りて川辺へ戻ってきた。

    蜃気楼を見てきただけだから、相変わらず川の澱みはそのままだ。

    いや、どうやら澱みはますます深まり、いよいよ濃さを増しているようだ。

    上流に目をやれば、大国が自らの失敗で大量に溜め込んだ不幸を押し流そうと躍起になっている。

    あの大統領は資本主義の奴隷頭だ。
    奴隷頭は、資本主義の産みの親である唯一神を作り上げた一族の末裔と手を取り合って嬉々としている。

    彼らだけではない。世界中で愚か者が己の力で火の槍を振り回しているつもりでいる。振り回させられていることにも気づかずに。

    おかしい。資本主義は戦争を減らすのではないのか。

    わたしの目には戦争を巻き起こしているように見える。

    やれやれ、また木に登らねばならないのか。

    ジェイムズ・P・ホーガンは代表作『星を継ぐもの』の冒頭で、人類が核融合すら超える全く放射能汚染のない無尽蔵ともいえるエネルギーを手に入れたことによって世界は豊穣となり、意味のなくなった軍備を放棄してそのコストを宇宙開発に注入した、と、ごくあっさりと描写した。

    わたしは若い頃これを読んで、こう思った。

    あまい、なんと楽観的な、と。

    彼はこの時、「資本主義」を信じていただろう。そして何よりも「科学」と「人間の善意」を信じていた。いや、信じたがっていた。

    彼が、この人類史上稀に見る大事件をごくあっさり描いたのは、それだけ眼前のくだらない対立にうんざりしていたことを示しているのではないか。

    彼は、そんなつまらないイザコザを指先でつまんでゴミ箱にポイっと放り込み、人類と科学への賛歌を朗々と歌い上げた。

    月日を経て今、わたしは、彼のこの楽観的な描写を祈るような気持ちで読んでいる。

    ジェイムズ・P・ホーガンは、あまい作家である。



    追補:生きる意味

    わたしは、この論考のなかで生きる実感が大事だと述べたが、人間が概念という感覚機関によって成立している以上、やはり、生きる意味というのを考えざるを得ない。

    現代に生きる我々に納得できる「生きる意味」とはどんなものだろうか。

    キリスト教の一派に予定説というのがある。
    神はあらかじめ最後の審判の結果を決めているという。しかし、わたしはキリスト教徒でもないし、死後の世界など全く信じてもいない。

    わたしが知っている確かなことは、現在のわたしの振る舞いが未来の世界の構造を型作ること、である。これは、万人に共通している真理であり、自明のことである。いかにそれが微細であっても、間違いのないことだ。

    もしかしたら、未来は全てあらかじめ決定されているかもしれない。世界の全てが物理法則に従っているというのなら、未来はあらかじめ決定されている、と言うことができる。

    あるいは神、つまり超越者が存在して、未来を決定しているのかもしれない。だとしたならば、私たちの人生は、私たちにとってはなんの意味も持たない。

    だからわたしは、超越者がいては困るのである。そんなものの目的のために存在しているのならば、わたしは単なるモルモットではないか。

    超越者がわたしに、君はこれこれのために存在しているのだ、と教えてくれるのなら、その内容によっては受け入れられるかもしれない。だが、受け入れられる内容である保証はない。さらに言えば、もしそれが存在し、なにか目的を持っていても、私たち人間の認知で理解することができるものだとはとても思えない。

    だからわたしは超越者はいないものとする立場をとる。

    超越者が存在するのかどうか、世界の全ては物理法則によって動いているのか、それによって未来まですでに確定しているのかどうか、私たちには知り得ない。

    存在しない、決まっていない、という可能性もあるならば、わたしはそちらを選ぶ。そうだと規定して生きる。

    ただただ、我々の振る舞いが未来の構造を決定することだけが、わたしに理解できる真実だ。それがあらかじめ決まっていようといまいと。

    わたしは、我々は全歴史の成果にフリーライドしている、と述べた。その視点を過去から未来に向ければ、未来の人々はわたしたちの人生の成果にフリーライドすることになる。

    わたしたちの振る舞いの一つ一つは、まるで量子のようではないか。
    遠い未来に世界の構造が観察された時、はじめてその構造の中での位置と意味を確定されるのだ。

    私たちはその意味を知ることはない。だが少なくとも意味はあると肯定することができる。

    ならばわたしは、よりマシな未来になることを祈りながら振る舞っていこうと思う。

    マシになるように振る舞うのとは少し違う。
    その振る舞いが本当にマシな未来に繋がるのか、それは誰にもわからない。
    酷い振る舞いが反面教師として、マシな未来の礎になることだってあるし、その逆だってあるだろう。

    喜んだこと、苦しんだことは、未来の世界できっとマシな世界の礎になる。そうなるように祈って振る舞うしかない。

    わたしは、神を信じて祈るより、この不確定な未来に祈りを捧げよう。

    神にとっての意味のために生きるよりも、未来の世界に祈りながら生きる方が、「わたしにとって意味のあること」だと思うのだ。

    ただ、こんな考え方は、恵まれているからこそできるものだ。

    だからこそ、より多くの人々がこのように考えられる世界になるよう祈っているのだ。

    恵まれている人間が未来を祈らずに一体どうするというのか、わたしは声を大にして問いたい。

    (おわり)

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